邦文日本外史/卷之廿二

[1491]邦文日本外史卷之二十二

德川氏正記

德川氏五

十九年
秀忠右大臣となる
慶長十九年三月、大將軍、從一位にのぼり、右大臣に遷る。天使就きて拜す。四月天使、江戶より歸り、駿府すんぷよぎりて、內旨を諭し、前將軍を以て太政大臣と爲 【孫女】和子し、三宮さんぐうに准じゆんす。辭して敢てあたらず。又孫女をれて中宮ちうぐうと爲さんことをさとす。乃詔を奉ず。

大野治長是の時に當りて、豐臣秀賴とよとみひでより已に長じ、其臣大野治長おほのはるなが等、ひそかに兵を擧げて其舊業を復せんことを謀る。治長、姿容しようあり。ひそか淀君よどぎみと通ず。言ふ所聽かれざる莫し。 織田長益淀君の季父きふ織田長益ながますと議して、書を前田利長としながおくりて曰く、「先君遺命ゐめいあり。君なんぞ來りて嗣君をたすけざる。城內甲仗かうぢやう豐足ほうそくす。福島正則まさのり等のたくはへし所の穀粟こくぞく、積みて數萬石に至る。以て爲す有るに足る」と。利長、やまひを以て之を辭す。其書を以 【兩府】駿府、江戶て來り、兩府に獻ず。五月、利長、しゆつす。子利光としみつに命じて封をがしむ。秀賴の[1492]片桐且元片桐且元かたぎりかつもと、常に秀賴を誡めて曰く、「德川太公たいこうは、義元のよしみを失はずして、氏眞うぢざねれ、信長のよしみわすれずして、信雄のぶをを助けたり。先公、其然るを知る。故にをはりに臨みてを託す。君、務めて其驩心くわんしんを失はずば、則以て長久なる可し。しからずば則禍まさはかられざらんとす」と。秀賴頗るさとる。而れども群臣よろこばず。且元、しば關東に使するを以て、其私有るをおもひ、やゝこれを猜防さいぼうす。是より先、秀賴、方廣寺方廣ほうくわうを造りて、先志を繼ぐ。是に至りて、功ををはる。又巨鐘きよしようる。乃且元をして來り告げしめて、之を慶せんことを請ふ。期するに七月秀賴、みづから往くを以てす。

髙山友群是の歲、高山友祥ともよし、內藤如安ゆきやす等、蠻敎ばんけうを奉ずるを以て、京師のごくに下る。前將軍吏二名を遣し、往きて栃倉勝重いたくらかつしげと議せしめ、友祥等を海西に放ち、餘黨を流す。是に於て、界浦さかひのうらはん人あり。二吏、そつを率ゐ、往きて之をあんず。みちに大阪を訛言くわげんあり。曰く、「且元秀賴の出づるをうかゞひ、東吏を導きて城を取らんとす」と。秀賴、おそれて出でず。二吏、既︀に界浦を按じ、遂に長崎にく。

鐘の銘訛言乃止む。將に之を慶せんとす。其鐘銘しようめい忌諱きいに觸れ、呪咀じゆそする者に類す。上棟じやうとうはいも亦、式の如くならず。林信勝のぶかつ、僧︀天海てんかい等、こも之を言ふ。前將軍怒り、乃使を馳せて其慶をとゞめしむ。[1493]大阪の女使到る八月、且元、治長等來り謝す。女使二人、又淀君の命を奉じて至る。前將軍、二女使を召して之に謂て曰く、「右府うふは吾が孫女の婿むこなり。淀君も亦吾が婦の姊なり。吾れ豈相そむかんや。吾れ右府を視︀ること猶子の如し。而れども右府の我を視︀ること猶仇讎きしうの如し。聞くが如くば、『大阪ひゞ士を招き、甲ををさめ、多く糧餉りやうしやうむ』と。吾れ未だ其何のいはれなるを知らざるなり。今吾れ在れども、猶此の如し。况や後世をや。然りと雖、是れ右府母子より出づるに非ず。盖し姦人かんじん詿誤けいごせらるゝのみ。苟も非をあらため誠をいたさば、則國家無事ならん」と。復銘詞めいしを問はず。二女大に喜び、遂に江戶に赴き、夫人に候す。

本多正純九月、本多正純まさずみ、僧︀天海をして且元をめ、誠をいたすの實を以てせしむ。且元、 三策其旨を請ふ。答へず。且元、乃二女とともに辭し去り、ゆく之を思ひて三策を得たり。曰く、「淀君よどぎみれてしちと爲さん」曰く、「秀賴をして江戶に居らしめん」曰く「大坂を避けて他にうつらん」と。因りてひそかけいして曰く、「母を德川氏に質とする者︀は、先公の甞て爲しゝ所なり。是を上策と爲す」と。或人、且元は君を賣るとそしる。淀君大にいかり、群臣と議を決し、且元を誅して兵を擧げんとす。且元、其 且元茨木に奔るいふ茨木いばらきに奔る。遠近騒然たり。板倉勝重、書を飛ばせて來り報ず。十月朔、報、[1494]駿府に至る。前將軍まさに諸︀子と散樂さんがくを觀る。【孺子】秀賴報を得て曰く、「孺子じゆし終にさとらざるか之を除かざるを得ず」と。乃がくを撤し、之を江戶にげしむ。是の春、東の諸︀侯に課して、高田城高田にきづく。是の秋、西の諸︀侯に課して、江戶を修む。是に於て、皆罷めて國に就きて、大阪に備へしむ。

秀賴も亦、秀賴兵を慕るます金を散じて兵を募る。關原せきがはらの餘黨、もしくは諸︀藩亡命ぼうめいの者︀、大阪に、四集す。十萬人號して十萬人と稱す。よもに出で抄掠せうりやくして軍須ぐんすたくふふ。東府の穀︀五萬石、其城下に在り。【城下】大阪板倉勝重、人をして大野治長に謂はしめて曰く、「之を道路に聞く、『諸︀公、將に旗鼓の事有らんとす』と。不腆ふてん弊邑へいゝうの穀︀、敢て從者︀をねぎらはん」と。治長、辭して敢て取らず。勝重乃賈人かじんをして京師に漕送さうそうせしめて、一兵をも勞せず。伏見ふしみの留守松平定勝さだかつ、井伊直孝なほたか、勝重と議して、てふを大阪に遣し、悉く消息を知り、すははち之を東府に報ず。淀、葛葉
【淀】山城
【葛葉】河內
關をよど葛葉くずはに置きて、兵士の往來を撿す。尼崎あまがさきの城主建部たてべ某は、關原の降將なり。池田氏といんあり。前將軍、池田利隆︀としたかに命じて其戚屬下間重景しもつましげかげを遣し、兵を將ゐて援け守らしむ。片桐且元、已に降を我にれ。將に茨木いばらきより界浦に赴かんとし、大阪の兵と尼崎のほとりに戰ひ、救を重景に求む。重景、其いつはりを疑ひ、救ふことをうけがはず。且元敗走す。大阪の兵、始合しがふにして[1495]ち、氣ますさかんなり。大に守備を議す。其城は秀吉の築きし所にして、天下の力をきはめ、塹壘せんるゐ壯固にしてたぐひなし。西北に水を帶び、東南に池澤多し。是に於て益塹寨せんさいを設けて守兵を置き、遂に間使かんしを發して、秀賴諸︀侯を招く諸︀侯を招く。伊達政宗だてまさむね、之に小山をやまに遇ひ、ばくして江戶に送る。島津家久いへひさ、其幣を郤け、馳せて駿府に吿げ、且、師の期を請ふ。淺野但馬守淺野但馬守は國富み兵强し。而して大阪と腹背を相爲す。議者︀以て大患たいくわんと爲す。已にして大阪果してしば使を遣し、其君臣をいざなふに利を以てす。但馬守答へて曰く、「我が父兄太閤たいかふに報ゆる所以ゆゑんは足れり。吾が東府に於ける恩誼おんぎ輕きに非ず。今故無くして之に倍きて、亂人にくみせば、不義いづれかこれより大ならん」と。使者︀、猶來りて百計すゝめ說く。但馬守、乃其使を斬らんと欲す。おそれで止む。

前將軍、大阪府諸︀の報吿を得て、乃軍令を下して曰く、「伊勢、近江、美濃、尾張、越前等の兵は、急によど勢多せたやくし、大和の兵は、自其地を守り、北陸ほくろく諸︀國の兵は、大津おほつ阪本さかもとに陣し、中國の兵は、池田いけだに陣し、南海︀、西海︀の兵は、和泉の海︀濱にはくして、並に大軍をち、かろしく戰ふ勿れ」と。東海︀、東山の將帥しやうすゐは、前將軍皆前將軍に隷し、關八州、及び陸奧、出羽︀の將帥は、將軍皆將軍に隷す。而して世子家光いへみつは少[1496]忠輝たゞてる、及び酒井忠重ただしげ、其弟忠利ただとし等と、江戶を居守す。蒲生がまふ最上もがみ氏以下、之に隷す。賴房よりふさ、其中山信吉のぶよしと、駿府を留守す。義直よしなほ、其成瀬正成なるせまさなりと、賴宣よりのぶ、其安藤直次なほつぐと、皆軍に從ふ。義直、初め右兵衞督うひやうゑのかみたり。賴宣は常陸のすけたり。並に從四位下に叙せらる。後並に從三位に進み、參議さんぎに任ぜられ、右近衞中將うこんゑのちうじやうを兼ぬ。賴房、初め左衞門督さゑもんのかみたり。後、從四位下に叙し、右近衞少將うこんゑのせうしやうに任ぜらる。是に於て、白旗を義直、賴宣に分賜す。諸︀の甞て豐臣氏の特恩を受けし者︀は、從ふを許さず。

十一日、前將軍駿府を發す前將軍、數百騎を以て駿府を發す。大阪、刺客を發し、京師に入りてを狙ひ、大阪の刺客且に二條城を焚かんと欲す。板倉勝重之をさとり、こととらへて獄に下す。二十二日、駕京師に至る。傳奏司でんそうし、勅を傅へて勞問す。少將忠直は、二萬人をて、前田利常としつねは三萬人をて、皆これに會す。居ること三日にして、諸︀將を召し、大阪のを開き、戰を議して曰く、「西南の兵未だ至らず。宜しく先鋒を以て戰を挑むべし」と。直孝、高虎井伊直孝なほたか、藤堂高虎たかとら、先鋒たり。松平忠明松平忠明たゞあき、本多忠政たゞまさ之に繼ぐ。忠明は、奧平信昌おくだひらのぶまさの少子なり。外孫の故を以て、氏を賜ひて龜山かめやまに封ぜらる。是の歲、其兄忠正たゞまさ卒す。代りて其衆を領し、美濃の將士をぶ。是に於て、[1497]先鋒は南面より進み、北面はわたり難︀きを以て、伊奈黒政伊奈忠政いなたゞまさをして、淀川を長柄ながらふさぎ、大和川を鳥飼︀とりかひふさがしめ、尋いで毛利、福︀島氏をして、之や助けしむ。

十一日、高虎、大仙陵大仙陵だいせんりように至る。薄田兼相時に城將薄田兼相すゞぎだかねすけ、山口弘定ひろさだ平野ひらのかすむ。之を望みて走る。城將大野道見だうけん天王寺てんわうじき、以て我軍をみだす。高虎、動かず。終に直孝と進みて住吉すみよしに陣す。城將堀氏弘うぢひろ、界浦をかすむ。之を聞きて走り、高虎の軍前を過ぐ。前部渡部了わたなべさとる、其伏あるを慮り、敢て擊たず。淺野但馬守淺野但馬守、兵を將ゐて紀伊を發し、ゆく土兵の大阪に應ずる者︀を撃ち、來りて高虎と事を議し、還りて大鳥おほとりに陣す。

池田利隆︀池田利隆︀としたか、二弟忠繼たゞつぐ忠雄たゞを神︀崎かんざき川に至る。城昌茂じやうまさもち、命を奉じて其軍を監す。二弟は下流をわたり、利隆︀は上流をわたり、進みて長柄川長柄ながら川に至る。城將織田長益ながます等、萬人をて、天滿、中島を守る。利隆︀、濟らんと欲す。昌茂、之を止む。其夜、二弟復下流を渡り、守兵を遂ひて中島を取る。

將軍は、將軍江戶を發す前將軍の京師に入る日を以て、江戶を發し、ていを兼ねて進み、十日にして伏見に至り、其明、二條にいたりて事を議す。

十七日、前將軍は住吉に陣し、將軍は平野平野に陣し、義直、賴宣は住吉住吉の北に陣し、[1498]少將忠直、前田利光は岡山に陣し、井伊直孝、藤堂高虎は天王寺に陣し、上杉、佐竹、相馬さうま、秋田、堀尾、京極きやうごくの諸︀將は平野の西に陣し、伊達だて金森かなもりの諸︀將は今宮いまみやに陣し、淺野、蜂須賀はちすか鍋島なべしまの諸︀將は今宮の北に陣し、池田、加藤、山內やまのうち、森、有馬ありまの諸︀將は中島に陣す。九鬼くき向井むかゐの諸︀將は兵かんを以て傳法口でんはふぐちはくす。兵すべて五十萬人。城の四面をめぐりて尺地をのこさず。前將軍、城中必悔︀ゆるをはかり、人をして和を議せしむれどもかず。已にして住吉の邏騎らき、夜、一卒をとらふ。曰く、「藤堂の陣にかんと欲して、あやまりて此に至るなり」と。其ふところを撿して秀賴の書を得たり。書に曰く、「二くわい深く我が地に入る。子の計あたれり。宜しく速に東國にくわんおくり、諸︀將をして其歸路をたしむべし。事成らば則封を加ふること約の如くせん」と。前將軍、書をわらひて曰く、「彼れ我を離間せんと欲す。謀何ぞ淺きや」と。高虎高虎を召して、書及び卒を賜ふ。高虎ひて其實を得、乃其手足のゆびを斬り、黥して秀賴と曰ふ額に黥鯨して秀賴と曰ふ。はなちて之をかへす。城兵又池田利隆︀をいざなひて曰く、「事成らば封ずるに備前、播磨、美作を以てせん」と。利隆︀、使者︀をばくして之を獻ず。

兩將軍、終に進み取らんことを議す。阿部正之あべまさゆき、安藤直次、永井直勝なほかつ小栗忠正をぐりたゞまさ[1499]等の數十人、巡使たり。大須賀氏の部下久世廣宜
阪部廣勝
久世廣宣くぜひろのぶ阪部廣勝さかべひろかつ、罪をて出亡す。兵事に老するを以て、收錄しうろくせられ、是の役に皆巡使となり、令を諸︀軍に傳ふ。進退操縱、意の如くならざる莫し。

蜂須賀至鎭よしゝげ、攻めて穢多崎穢多崎えたがさきを取る。九鬼守隆︀もりたか、向井忠勝、水軍を以て敵の候船數十般を奪ふ。鶴︀野、今福︀の戰上杉景勝かげかつ鷸野しぎのを攻め、佐竹義宣よしのぶ今福︀いまふくを攻め、みな其柵を破る。城兵、道を分ち出でゝふせぐ。船に銃手を載せて、其中に出で、力戰してこもしりぞく。已にして城兵、柵守り難︀きを以て、之をてゝ退く。將軍、片桐且元をして代りて入り、備前島びぜんじまたむろせしむ。其最城に近きを以て、ぞくするに礮手ほうしゆを以てす。

諸︀將、將に博勞淵ばくらうがふちの二寨を攻めんとす。北寨の下にあり。蘆葦ろゐを生ず。皆銃卒を以て之を守る。我軍先蘆洲あしじまを取らんと欲す。、多く兵をれず。兵すくなければ、又守る可からず。右川忠總石川忠總たゞふさは、實に大久保忠鄰たゞちかの子なり。功を以て父をあがなはんと欲し、乃請ひて手兵をて往き、舟二隻を得て、鎗を以てさをと爲してわたる。敵の洲を守る者︀、皆走りてさいに上りて銃をはなつ。忠總、仰ぎ攻むること連晝夜。九鬼氏、舟數十を給し、之を助けて北案を抜く。又蜂須賀氏の援兵を得て、遂に南寨を抜き、進みて土佐港とさぼり阿波坐港あはざぼりを取り、還りて首虜︀しゆりよいたす。前將軍曰く、[1500]「忠世の孫にぢず」と。

花房職之是に於て、諸︀將爭ひ進む。池田忠繼たゞつぐしゞみ川に臨みて陣す。部將花房職之はなふさもどゆき野田のだ、福︀島の二寨を望みて曰く、「旗をてて烟なし。是れ已に逃れしなり」と。人をして之をうかゞはしむるに、一人をも見ず。乃わたる。中島なかのしまの諸︀將、繼ぎわたらんと欲す。城昌茂、城昌黃之を止めて曰く、「太公、我に命じて軍をまもらしめ、其持重を戒む。公等我が言に逢ふは、乃太公の言に逢ふなり」と。諸︀將乃止む。已にして中軍、れいを傳へて諸︀將の逗留するを責む。諸︀將答ふるに昌茂を以てす。前將軍、昌茂を召し林信勝をして孫武そんぶの傳を讀ましめ、「將の軍に任りては、君命も受けざる所ある」に至りて、乃昌茂を願て曰く、「汝、我が命にかゝはりり、を見て進まざるは何ぞや」と。因りて之を逐ふ。諸︀將に令し、進みて福︀島福︀島に入らしむ。淺野氏、兵船を以て海︀口に至り、其聲援を爲す。阿部正之阿部正之まさゆき白して曰く、「西北の諸︀砦相ぎて陷沒かんぼつす。川場せんば天滿てんまの二寨は、脆薄ぜいはくにして水を背にす。必遁れん」と。其夜果して寨を焚きて退く。城將大野治房はるふさ道頓港道頓港だうとんぼりを守る。亦驚き走りて城に入る。蜂須賀氏の兵追ひて其旗幕きばくたり。十二月、忠總、忠繼、淺野、鍋島、九鬼の諸︀將と、進みて川塲せんばに入り、利隆︀等は進みて天滿てんまに入る。[1501]東南の諸︀將も亦、進みて城にせまる。伊達政宗は川塲に至り、井伊直孝、藤堂高虎は生玉いくだまに至り、空壕からばりに臨みて陣す。城兵諸︀橋を燒く城兵、外城の諸︀橋をき、獨淡路あはぢ本街ほんまち高麗かうらいの三橋を存す。石川忠總たゞふさ、城兵と高麗橋かうらいばしに戰ひ、敵をして燒くを得ざらしめんと欲す。諸︀巡使、之を救はんと請ふ。前將軍、叱して曰く、「止めよ。我が軍の城に登らんと欲するに、何ぞ橋をたのまんや。彼れ自出路を斷つのみ」と。忠總をして退舍せしめ、遂に諸︀將に令して曰く、「垣を設けたてを列ね、令をちて進み、妄にたゝかひて一卒を損する勿れ」と。又天寒きを以て糧食を增す。本多正純まさずみ、命を受けて、金工光次金工きんこう光次みつゝぐを以てかいと爲し、書を城中におくり、織田長益、大野治長をして和を議せしむ。將軍、之を聞き、來り請はしめて曰く、「圍かなへり。請ふ、諸︀軍に令し、四面よりひとしく登らん。天下の兵を以て、一城を攻む。何の抜き難︀きことか之有らん。和議若し成らば及ぶ可からざるのみ」と。前將軍曰く、「未だし」と。將軍よろこはず。本多正信曰く、「太公必神︀算あらん。願くはしばらく之をて」と。藤堂高虎、私に書を城上に射て、南條光明南條光明なんでうみつあきを誘ひ、內應を爲さしむ。光明、期を約す。事あらはれて殺︀さる。藤堂氏の兵、知らずして進み、井伊氏の兵、之に繼ぐ。

加賀、越前の子弟も亦進み、玉造玉造たまつくりの貳城に逼る。秀康の庶子直正直正なほまさ先登し、はた[1502]ほりほとりに建つ。而して城將眞田幸村さなだゆきむら、善くふせぐ。我が兵死傷頗る多し。前將軍烟を望み、怒りて曰く、「奴輩どはい、敢て我が令を破る」と。安藤直次安藤直次を願て、往きて之を收めしむ。將軍、令を破る者︀を罰せんと請ふ。前將軍曰く、「令を破る者︀も亦、得可からざるなり」と。兩公屢諸︀營を巡視︀す。前將軍、未だ甞てよろひちうせず。葵號きがうの戰はうて馬に上り、十餘騎を從へて生玉口いくだまぐちに至る。城兵望み覩て之をり、銃をあつめて雨注す。衆爭ひて之を避けんと請ふ。前將軍かへりみず。くつわとゞめて徐行す。横田尹松橫田尹松たゞまつおくれて至り、衆を排して進みて曰く、「此公、矢石にあたるを喜ぶ。矢石の來る、川塲より甚しきは莫し。請ふ、往かん」と。乃馬を控へて西し、城を去りて遠ざからしむ。他日、將軍、巡りて天滿てんまに至り、有馬氏の堙樓えんろうに登る。城兵ねらひて大こうを發す。從者︀去らんと請へどもかず。水野勝成水野勝成曰く、「元帥の師を巡るは、斥兵と異なり。まさに專一處を視︀るべからず」と。乃うけがひて去る。後藤基次城將後藤基次もとつぐ曰く、「兩帥みな天授なり。豈徼倖げうかうす可けんや」ど。衆をとゞめて妄に銃を發する勿らしむ。

六日、前將軍、徙りて茶白山茶臼ちやうす山に陣し、將軍、徙りて岡山岡山をかやまに陣し、連珠砦れんじゆさいを築きて相接す。壅河ようかの功旣にをはり、隍水くわうすゐ多くる。城兵大に驚く。我軍土豚どとんを以てほり[1503]うづめ、竹牌ちくはいを列ねて鐵楯てつじゆんを排し、距理をてゝ地道をり、而して銃を發して鼓譟すること、每夜三次、城兵をして休止するを得ざらしむ。前將軍、諸︀將に令し書を射しめて曰く、「降る者︀は賞あり」と。城中の人人相疑ふ。將軍、復城を凌ぎてひとしく登らんと請ふ。前將軍曰く、「吾れ聞く、『良將は戰はずして勝つ』と。且兵を損じて城を得るは、吾れ取る無し」と。復金工光次をして城に入りて前將軍再び和を議す和を議せしむ。城中衆議して決せず。和を願ふ者︀多し。大野治長等、議を建てゝ曰く、「德川翁は且夕の人なり。明歲は西きつにして東きようなり。しばらく和を約して以て後圖こうとを爲さん」と。乃秀賴を勸めて和を請はしむ。前將軍曰く、「右府うふ、誠に自をさめば、則吾れ復意を介する莫し。城內の客兵は、皆ゆるして問はず」と。因りて三事を約し和す三事を約す。曰く「周池をしづめん」曰く「大和に徙さん」曰く、「淀君を以て質と爲さん。必ず一に居れ」と。數日にして周池を塡むるを聽かんと答ふ。而して客兵の爲に食邑を加へんと請ふ。前將軍怒りて曰く、「之をゆるすゝら已に多し。奚ぞ之を養ふにへんや」と。議して乃む。乃工に命じて益攻具を造る。

或人、井伊直孝にいたりて事を議す。直孝まさねむりて起き、目をこすりて出づ。或人曰く、「子、何ぞをこたるや」と。曰く、「我れ敵の出でゝ襲ふを慮り、夜はせうを交へず[1504]唯晝間、睡るを得るのみ」と城將大野治房、道頓港だうとんぼりの敗をぢて、之に報いんこと有らんと欲す。時に阿波の兵、本街橋ほんまちばしの西に陣す。治房、衣、出でゝ之を襲ふ。阿波の兵亂れ、死傷頗多し。人乃直孝に服す。

是より先、天皇、大納言藤原兼勝かねかつ、大納言藤原實條さねえだをして、來りねぢらはしむ。是に於て、復來りて詔旨せうしを傳へて曰く「卿耋老てつらうを以て風雪を戎間じうかんをかす。宜しく事を諸︀將にゆだね、還りて京師にいこふべし。もし和議を欲せば、將に秀賴に詔して之を成さんとす」と。前將軍、稽首けいしゆして曰く、「臣、少より軍旅にならふ。且職分の存する所、獨逸︀す可からず。聖慮を勞する勿れ。和議に至りては、臣、自之を修めん。以て天詔を辱くするに足らず。秀賴をして詔を奉ぜしめば、則可なり。若し詔を奉ぜずば、まさに其罪を增さん。臣、則之を誅夷せざるを得ず。是を以て敢て辭す」と。阿茶局女監ぢよかん阿茶あちやをして京師にかしめ、常光じやうくわう氏を迎ふ。常光氏は京極忠高たゞたかの母にして淀君の妹なり。之をして城に入りて和を勸めしむ。工場を經て往く。工人千百、群を成して、諸︀の攻具を造る。飛橋ひけう轒輼ふんをん、みな千を以てかぞふ。常光城に入りて、つぶさに淀君に說く。淀君、初め秀賴とともに城內を巡視︀す。守兵の頗壯銳なるを見るや、大に喜ぶ。天主閣より東軍を臨む遂に天主閣てんしゆかくに上りて東軍を望めば、則極目みな[1505]兵なり。旌旗せいき、天に際す。淀君、色動く。已にして備前島の兵、大熕を發し、閣の第二層︀につ。二女震死しんしす。淀君始めて大に驚き、秀賴に勸めて和を成さしむ。而してたま常光至る。則喜懼こも集る。常光命を、傳へて曰く、「右府、必大阪に居らとん欲せば、則其舊封に於て、一もくる所無からん。たゞ諸︀客兵を逐ひ、東軍をして外城をこぼち、周池をうづめしめ、以て和親の實を著︀あらはせ」と。秀賴母子、諸︀將を召して議す。議未だ决せず。本多正純、人をして治長、長益に言はしめて曰く、「公上の議巳に成れり。子等遲疑ちぎせば、罪まさに至らんとす」と。二人大に惧れ、急に後藤光次に因りて質を獻ず。治長質を獻す治長、其幼子をららんと欲す。光次之をしりぞけて曰く、「稚弱なる者︀何ぞ用ゐん」と。乃其冢子ちよしを率ゐて還る。十九日、和成る。和成る約して周池を塡め、客兵を遂ふ。二十日、板倉重昌板倉重昌しげまさ、入りて秀賴の誓書を監す。秀賴問ひて曰く、「兩公のいづれに呈す可きか」と。重昌私に對へて曰く、「太公に呈せよ」と。書を持ちて歸る。前將軍、目逆もくげきして問ひて曰く、「さきに汝を遣すに、其呈する所を命ぜず。如何」と。重昌、狀を吿ぐ。前將軍喜びて曰く、「汝に非ずば辨ず能はざるなり」と。城將、我が和をたのみておこたるをはかり、茶臼ちやうす、岡山を襲はんと欲し、夜、人をしてうかゞひ視︀しむ。其嚴備を見て乃止む。[1506]初め西藩、島津氏獨島津氏未だ來り會せず。二豐、二筑の將帥、密命みつめいを受けて亦發せず是に於て、舟艦三千餘艘を以て兵庫に至る。則和成りて已に四日なり。前將軍、人をしてねぎらひて之をめしむ。遂に圍を撤し、たゞ勳舊くんきうの七將を留めて、塹を塡むほりうづめしむ。本多正純まさずみ、安藤直次、成瀨正成を以て、之を掌らしむ。諸︀侯爭ひて役を助く。伊達政宗、藤堂高虎等、請ひて曰く、「秀賴命を聽くも終に保す可からず。恐らくは後患をのこさん。今に及びて之を除くにかず」と。前將軍曰く、「吾れ豐臣氏と、義を以て合ふ者︀なり。長湫ながくて㨗後せふご、和をゆるして京師に入り、始めて征伐を助け、終に委託ゐたくを受く。關原の役に、勢に乘じて大阪をあつする事、もとより難︀きに非ず。今彼れ乃怨を以て恩に報ゆ。吾れ苟も之を除かんと欲せば、あに卿等けいらの言をたんや。特に太閤の舊好をおもひ、以て之を保全するのみ。彼れ復我にそむき、敢て不義を行はゞ、則自亡を取るなり。卿等且言ふ勿れ」と。大阪の諸︀將、前將軍を要擊せんと欲す。二十四日、前將軍、數十騎と、夜、行營を發し、曉に比びて 家康京師に入る京師に入る。衆以て神︀と爲す。

初め前將軍の京師を出づるや、林信勝等に命じて、御府ぎよふ、及び公卿くぎやうの家の典籍典籍てんせきもとめて、五山の僧︀徒五山ごさんの徒に命じ、きよくを開きて校寫せしむ。大阪城中に在りてもはるかに其役[1507]たゞす。使者︀、往來して絕えず。是に至りて功をへ、三本をつくり、其一を獻納し、二を駿府、江戶に置く。二十八日、入朝す。上皇、天皇、慰勞すること懇至なり。朝廷の爵を正す命じて朝廷の爵位を正し、諸︀の節︀會せちゑを興さんことを議す。

時に京師、流言あり、「池田利隆觀望をいだき、中島なかのしま逗留とうりうす。故に其尼崎あまがさき戍將じゆしやう且元かつもとを救はず」と。前將軍怒り、其封を奪ひて、其弟忠繼に與へんと欲す。利隆の老番氏明番氏明ばんうぢあき、來りて之を陳謝す。ゆるさずして入る。氏明、すそきて號哭がうこくし、死を以て之を爭ふ。初め氏明の父大膳だいぜん圍人ぎよじんたり。長湫ながくての役に池田輝政てるまさ、父兄の沒せしを見て、戰死せんと欲す。【圍人】馬丁大膳、馬をひかへて之をとゞむ。輝政怒り、あぶみを以て其うなじる。血、面に被れどもはなたず。遂に其祀を存す。前將軍之を記す。其よゝ忠節︀なるをみよし、乃利隆をゆるす。次年、忠繼母子、みなしゆつす。利隆に命じて備前の國事を攝せしむ。

伊達秀宗伊達政宗の長子秀宗ひでむね、幼にして大阪に質たり。關原の役に、始めて放還せらるるを得たり。政宗、嫌を避け、少子忠宗たゞむねを立てて嗣と爲す。是に於て、秀宗、軍に從ふ。前將軍、之をあはれみ、封ずるに富田氏の舊邑宇和島うわじまを以てし、十萬石をましむ。筒井定次さだつぐの遺臣、多く募に應ず。筒井定次死を賜ふ故を以て定次死を配所に賜ふ。

[1508]將軍、岡山に在りて、論功行賞又諸︀將士の功を論賞す。是の役に、井伊直孝の兄直勝なほかつ癈疾はいしつにして事にへざるを以て、代りて其軍を攝して功あり。將軍、遂に命じて其國を領せしむ。直孝辭して曰く、「直勝るゐと雖、先臣の養士在るあり。君事あるごとに臣これを攝して從ひてなり。いま庶孽しよげつを以て嫡長に先だつは、臣のやすんぜざる所なり」と。又安藤直次に因りてつとめて請ふ。將軍嘉賞す。而れども許さず。乃彥根十五萬石を賜ひ、別に邑を直勝に賜ふ。直孝初め直孝ありて民間に育はる。十一歲の比、强盜數十ありて、其家に入る。すなはち刀を抜きて一人を斫る。父直政、密に召見し、常に執る所の軍麾ぐんきを以て之に授けて卒す。長ずるに及びて、召し用ゐて書院番頭しよゐんのばんがしらと爲す。やうやく大番頭おほばんがしらに進む。是に於て、旣に命を拜す。次日、入りて謝す。おもむろに進みて、執政しつせい本多正信まさのぶの上に座す。坐者︀、洒然として色を變ず。旣にむ正信に謂て曰く、「今日の狀、不恭に類︀するなり。然れども已に侍從じじうの後をく然らざる能はず」と。正信曰く、「公、唯能く然り。是の命ある所以なり。吾れひそかに郞君の人を知るを慶ぶなり」と。

是に當りて、諸︀工卒已に外くわううづめ、遂に內隍に及ぶ。城中、之をなじりて曰く、「初め周池を塡めんと約せしは、西南の外がうを謂ふなり。今此に及ぶは、何ぞや」[1509]と。成瀨正成對へて曰く、「之を周と謂ふは內外をあまねくするなり。且和親已に成る何ぞ隍を用ゐることを爲さん。今內隍を存せんと欲するは、其意如何」と。城中爭ふ能はず。遂に晨夜しんや、役をたゞし、歲をえてをはり、たゞ牙城の一隍を餘す。

元和元年元和元年正月三日、前將軍、京師を發す。九日、將軍京師に入り、ことく諸︀侯をめて國に就かしめ、安藤直次をして岡崎に追及せしめ、功のをはりしを吿げ、且大阪再擧の計有るを吿げしむ。居ること五日にして入朝し、又五日にして、東す。二月、前將軍に中泉なかいづみに會す。密議して往く。十四日、前將軍は駿府に歸り、將軍は江戶に歸る。

江戶の士小幡景憲小幡景憲と云ふもの罪あり。出亡して前田氏に仕へ、玉造たまつくりの戰に衆に先だちて奮鬪す。城將大野治房之をる。和成るに及びてひそかいざまふに厚利を以てす。景憲、佯り應じ、夜入りて治房に見ゆ。治房大に喜び、つひに再擧の計を吿ぐ。因りて期を約して遣歸す。景憲歸りて、板倉勝重、松平定勝に因りて之を將軍にけいす。將軍、前將軍と議し、知らざる者︀のまねして、其動息をうかゞはしむ。大阪客兵を募集す大阪益客兵を召募し、間使を以て景憲を招く。勝重、定勝、これに謂て曰く、「兩公再來り諸︀軍、復集ること五十日を出でじ。其間城兵或は京師ををかし、至尊しそんさしはさみて東に[1510]むかはば、則恐らくは力を費やさん。汝.つとめて之をはゞめ」と。景憲だくして往く。城中の諸︀將、師を出さんと議する者︀あり。治房兄弟、固執して聽かず。景憲の說を信ずるなり。人、治房に說きて曰く、「景憲は諜賊てふぞくなり。請ふ、之を驗問せよ」と。治房驚き、甲を發して其舍を圍む。景憲笑語自如たり。治房、之を召す。即一奴を從へて入る。治房曰く、「人言果して聽く可からざるなり」と。乃之を界浦に置き、時來り見えしむ。

兩將軍、已に敵情を熟知す。而れども秀賴未だ之を知らず。三月、靑木一重かずしげ、及び二女使をして來り請はしめて曰く、「兵荒の後、食祿給せす。請ふ、之を賑貸しんたいせよ」と。時に參議義直、將に淺野左京大夫の女をめとらんとす。前將軍、二女使に謂て曰く、「右兵衞督うひやうゑのかみ、婚を成すこと近きに在り。吾れ亦まさに往かんとす。東國の女子、禮節︀にならはず。汝等幸に往きて之をたすけよ。婚をはらば則吾れ自京師にきて、賑給しんきふの事を計らん」と。乃之を尾張にる。已にして京師の報至る。曰く 大阪兵を聚む十四五萬人「募兵大阪にあつまる者︀十四五萬。兵勢前役に什倍す」と。前將軍笑ひて曰く、「多多益敗るべし。必之を禁ぜざれ」と。終に令を諸︀侯に下す。皆前役の如し。先井伊直孝、藤堂高虎に命じて、兵を率ゐ往きて京師をまもらしむ。京師まさに訛言あり、「大[1511]阪の兵來る」と。負擔ふたんして四走し、或は闕門けつもん及び公卿くぎやうの宅に入る。板倉氏の僚屬れうぞく兵備を爲さんと請ふ。勝重便服勝重曰く、「之を置け」と。乃便服して逃行し、平日に異ならず。上下倚安いあんす。而して諸︀將至る。直孝は東寺とうじに陣し、高虎は淀に陣す。去歲の役に山口重政山口重政しげまさ、功を以て自らつぐなはんと欲し、箱根に至りて出づるを得ず。是に於て、間行して井伊氏に屬す。渡邊了藤堂氏の將渡部さとる、敵を住吉にはなつ。髙虎自疑はるゝを恐れ、甚さとるむ。舊臣も亦、了の新に進みて人におごるを忿いかる。了、去らんと請ふ。許さず。

四月九日、前將軍、尾張に至り、大阪の使者︀を召して曰く、「吾れ聞く、『右府復兵をつのる』と。兵多ければ則食乏し。もとより其當のみ。吾れ將に往きて其虛實を驗せんとするなり」と。因りて使者︀を留めてらず。常光じやうくわう氏を遣して、再び兵をめんことを諭さしむ。居ること三日にして、義直の婚を成し、又三日にして、尾張を發し、十八日、京師に至る。常光氏、來りて秀賴の命を聽かざるをぐ。又後藤光次をして往かしむ。亦答へず。乃畿內、大阪の募に應ずる者︀をとなへ、其妻子を收め、降る者︀は之をゆるす。

將軍、前將軍の尾張に至る日を以て、將軍江戶を發す江戶を發す。少將忠輝たゞてる、黑田長政ながまさ、加藤嘉明よしあき[1512]と、皆自請ひて從ふ。二十一日、伏見に至る。明日、來りて二條城に謁︀す。前將軍、二十八日を以て師を出ださんと欲す。將軍、兵未だ全く集らざるを以てしばらく之をたんと請ふ。前將軍曰く、「此役、まさに野戰に決すべし。野戰多きを用ゐず。乃公、見兵けんべいて先往かん。汝、大衆を合せて之に繼げ」と。將軍曰く、「兒、此に在りて、大人をして先だゝしめば、世之を何と謂はんや」と。前將軍曰く、「吾れ老いたり。復事にふ可からず。必衆に先だちて一たび樂戰らくせんせん」と。 正信本多正信、側に侍して曰く、「臣聞く、『軍の先後は地の遠近に在り」と。太公は京に在り。郞君は伏見に在り。其次已に定れり。太公甚道理なし」と。前將軍、乃止む。高虎藤堂高虎を召して、攻城の方略をはかる。高虎對へて曰く、「遠に利あり。近に利あらず。輕兵もて戰をいどみ、其遠く出づるをちて之を擊たば、則敗衄はいぢくの餘復守志なからん」と。攻城の法定まる前將軍、掌をして曰く、「子が言我が口より出づるが如し」と。遂に諸︀軍のむかふ所を定む。

【高槻】攝津石川忠總は高槻たかつきを守り、池田利隆、池田忠雄は尼崎あまがさきを守る。其餘の山陽、山陰の將士は神︀崎かんざきより進み淺野、蜂須賀以下、南海︀の將士は和泉より進む。而して大和伊勢、美濃の諸︀部は大和ぐちより先進む。少將忠雄、伊達政宗、其すゐたり。水野勝成水野勝[1513]成、其先鋒たり。前將軍、勝成を召して曰く、「我が大和口の先鋒は、汝に非ずして可なる者︀なし。汝大和の將士をべ、命を用ゐざる者︀あらば、先斬りて後ぶんせよ。直孝、高虎と、策應さくおうを相爲し、其全勝を期し、つゝしみて一條槍ばんやり故態こたいす勿れ」と。勝成感謝して出づ。井伊直孝、藤堂高虎、近江、伊勢の兵をて中軍の先鋒たり。榊原康勝やすかつ、松平康重、小笠原、仙石せんごく諏訪すは保科ほしな丹羽︀にはの諸︀將と之に繼ぎ河內口より進む。

是より先、城兵、大和ををかす。大和の法隆寺法隆寺ほふりうじに工人中井正次まさつぐと云ふものあり。前役に東軍の爲に攻具をつくる。城兵之をうらみ、法隆寺ほふりうじを圍みて之をく。二十六日大野治房も亦、郡山郡山こほりやまあだす。守將筒井定慶つゝいさだよし、守を弃てゝ遁る。水野勝成、進みて 【長池】山城長池ながいけに至りて之を聞き、部下に謂て曰く、「敵若し南都︀をかば、我がはぢたらん」ど。く馳せて之に赴く。治房、至れども敢てせまらず。遂に退き走る。勝成、追せふして法隆寺に至る。淺野但馬守、兵五千をて、きた和泉に赴き、佐野さのに至るに會す。治房等、紀伊の土寇を誘ひ、其後に起らしむ。而して兵二萬をてこれをむかふ。亀田髙綱紀伊の將龜田高綱かめだたかつな曰く、「平地の戰は、すくなき者︀必敗る。宜しく退きて樫井かしゐに至り、林をおほたにふさぎて陣すべし」と。但馬守、之に從ふ。明日黎明、治房治房の[1514]先鋒塙直次ばんなほつぐ、岡部則綱のりつな谷輪重政等たにわしげまさ、先を爭ひて進む。高綱、銃手を以て要擊し則綱を傷く。紀伊の將上田重安しげやす、直次と槍を接し、傷きてこも退く。多胡たこ某、射て直次をたふし、遂に則綱、重政を獲たり。治房、貝塚︀かひづかに在り。敗を聞きて走る。而して紀伊の土寇、亦平ぐ。但馬守、復進む。勝成、其部下を分ちて二隊と爲し、堀直寄なほより、松倉重正しげまさを以て、左右の隊將と爲す。重正、吿げずして進む。直寄怒り居民を召して㨗路せふろを問ふ。對へて曰く、龜背嶺龜背嶺かめのせたうげちかし。然れども昔物部守屋もののべもりや、此路に由りて敗を取りたり。武人相傳へて凶と爲すなり」と。直寄曰く、「吾れ旣に軍に從ふ。凶は其ぶんなり。且守屋以て敗る。いづくんぞ吾れ以て勝たざるを知らんや」と。遂にたうげえ、重正に先だちて國分嶺こくぶたうげに至る。已にして勝成、諸︀軍を引きてぎ至る。少將忠輝、猶南都︀に陣す。

兩將軍、四方の兵漸集るを以て、遂に親出でんと議す。たま大阪の細作さいさく、京師に入り、禁內きんだい及び二條をかんと欲す。板倉勝重、捕へて獄に下す。前將軍、故を以て行をとどめ、五月五日、前將軍發す乃發す。諸︀軍に令して、三日の糧食を持たしめ、米鹽酒漿一櫃を以て自ら從はしめ、肩與けんよに駕して行く。將軍發す將軍、伏見を發す。上杉景勝、京師を留守し、男山をとこやまに陣す。前田利光、少將忠直以下、皆從ふ。即日、前將軍は[1515]星田ほしだに舍し、將軍は角南つなみに舍す。

城中、我が大軍の至るを聞き、乃戰を議す。後藤基次もとつぐ薄田兼相すゝきだかねすけ、渡部ひさし、出でて平野平野に陣し、大野治長はるなが眞田幸村さなだゆきむら、木村重成しげなり長曾我部盛親ちやうそかべもりちか、相繼ぎて出づ。兵各萬餘人。我が前鋒をむかへ擊たんと計る。後藤基次基次夜に乘じ、甲をひそめて南す。勝成、嶺頭に在り。諸︀將に謂て曰く、「炬火きよくわの北より來る者︀、道明寺だうみやうじに至りて滅す。是れ敵の我が不意に出でんと欲するなり」と。乃備を嚴にして竢つ。而して使を馳せて之を中軍に吿ぐ。直孝、高虎も亦、中軍に赴きて節︀度せつどを取る。前將軍曰く「事我が意の如し」と。六日昧爽まいさう、將軍とともに發して、平岡ひらをかに至る。勝成、直寄、重正等を造して、道明寺口の戰道明寺に赴かしむ。基次に片山かたやまふ。重正、利あらず。直寄進みて其橫を擊つ。重正之に反る。兼相かねすけひさし、來りて基次を救ふ。勝成、尙を擊ちて之を破る。本多忠政、松平忠明、伊達氏の將片倉景綱かたくらかげつなと、基次、兼相を撃ちて亦之を破る。大野治長、眞田幸村等、道明寺より二萬騎をて援ひ至る。景綱幸村と戰ひて利あらず。陸奥の銃隊之をく。幸村しりぞく。是に於て、勝成、諸︀將とひとしく進みて合擊す。荻又市伊達氏の銃手をぎ又市、基次を射て之をたふす。水野氏の騎士河村新八河村新八、兼相をして亦之を斃す。本多、松平、丹羽︀氏、左右のよくはなちて[1516]大に治長を破る。治長、尙.皆走る。眞田幸村幸村退きて南阜なんふを保つ。勝成、使を馳せて伊達政宗を促して曰く、「公自中軍に進みて、幸村の橫擊に備へよ。則吾れ其ぐるを追ひ、隻騎も返さしめじ」と。本多忠政も亦、之を促す。政宗、兵つかたま盡くるを以て辭す。一柳直盛一柳直盛ひとつやなぎなほもり、越後の部下に在り。進みて前軍を援けんと請ふ忠輝かず。幸村、尙と遂に、かはる殿しんがりして退く。[1517][1518][1519]藤堂高虎、千塚︀ちづかより南道明寺に赴く。其二族將高刑たかのり良勝よしかつ、先進む。渡部さとる、自斥候を爲し、還り報じて曰く、「道明寺の囂聲がうせい、漸西して漸かすかなり。是れ敵已に敗るゝなり」と。乃むちを擧げて左指して曰く、「矢尾やを若江わかえに敵あり」ど。高虎、人[1520]をして先部をとゞめ、はたを轉じて左せしむ。了曰く、「茲の地は沮洳そじよたり。請ふ、別路に由らん」と。乃馳せて令を傳ふ。高刑たかのり、良勝顧ずして進む。矢尾堤やをづゝみに至りて敵將盛親の堤下に伏するにふ。二人、之に死す。盛親、愈進む。了等、力戰し兵を收めて高阜にり、馳せて高虎を促す。高虎、其二將を救はざりしを怒りてがへんぜず。井伊直孝、道明寺に赴き、亦轉じて左し、木村重成木村重成と若江堤わかえづゝみに戰ふ。其將長阪ながさか某曰く、「先堤を得る者︀は勝たん」と。銃隊をとくし、堤を奪ひて之に據る。槍隊、進まんと欲す。老臣菴原いほはら某曰く、「すみやかに槍を用ゐる勿れ。亟に槍を用ゐば、則敵近づきて勢きん」と。衆、をかして進む。利あらず、敵爭ひて之をしゆくす。菴原乃さしまねきて進む。山口重政、次子弘隆ひろたかと、奮戰して創を被る。長子重信しげのぶ、深く入りて二騎を斬り、進みて重成とたゝかひて死す。直孝の麾下きかぎて進む。菴原、して重成戰死重成をたふす。安藤某、其首を取る。敵兵、みなついゆ。井伊氏の兵、ぐるを追ふこと里餘。其游兵、盛親のはたを見て、橫さまに之に迫る。渡部了も亦、赤隊の來るを見るや、乃奮擊して盛親を走らせ、進みて平野橋を扼す。復人をして高虎を促さしめ、道明寺の敗兵をむかへんと欲す。高虎曰く、「、死處に死せず。今何ぞ曉曉げうたること乃しかり。歸師をとゞむる勿れ。宜しく速に兵を收むべし」と。[1521]たま一監使の至るあり。さとる迎へて言て曰く、「陪臣、敢て請ふことあり。盛親遁ると雖、幸村等將に至らんとす。要撃して之をみなごろしにせば、則大阪の陷ること今夜を出でじ。之をして城に入らしめば、則明日の戰又將に力を費さんとす。臣之をはかること至熟しじゆくす。和泉守の聽かざるを如何せん」と。監使之を然りとし、往きて高虎に說く。高虎答へず。日已に暮るゝを以て、益了を促して兵を收めしむ。了、遂に火をはなちて退く。後、直孝、高虎の營に赴き、戰㨗を賀す。高虎曰く、「我に怯夫けふふあり。多く我が良をいしなふ。是をうらみと爲すのみ」とし直孝曰く、「僕、若江より矢尾に赴き、貴部の一將の席幟むしろばたてゝ敵を追ふを見たり。指揮甚觀る可し。斯人も亦死せりや否や」と。高虎嘿然たり。渡部了了、かぶと免︀ぎ進みて曰く、「所謂席幟は卽臣なり」と。因りて其屬兵を呼びて曰く、「掃部かもんくん、褒詞あり。我が輩、いたづらに勞せず」と。然れども了、終に傲護がうまんを以てしりぞけらる。

是の日、榊原康勝榊原康勝等、菅江すげえに至り、敵將木村宗明むねあきを擊つ。康勝やうを患ふ。うみ流れてあぶみに至る。氣爲にたはまず。奮戰して之を破る。小笠原秀政ひでまさ等と進みて若江に赴く。監軍かんぐん藤田信吉のぶよし、之をとゞめて止む。少將忠直、其老本多成重なりしげ等と、四條なはてに陣し、井伊氏の後に在りて、皆事におよばず。

[1522]兩將軍、先鋒の戰たけなはなるを聞き、中軍をて之に繼がんと欲す。而して㨗報せふはうしきりに至り、首虜︀を馬前にいたす。日已に暮る。前將軍は千塚︀原千塚︀ちづかし、將軍は道明寺道明寺に次す。令を下して曰く、「詰朝くつてう、城を攻めん。先鋒は戰ひつかる。當に他軍を以て之にふべし」と。忠輝、忠直、みな逗留を以て旨を失ふ。本多成重、忠直の命を以て來りまをして曰く、「明日の戰、越前兵越前の兵は何れに陣するや」と。前將軍ののしりて曰く、「惰夫だふ晏起あんきして事におよばず。なほ何を言ふか」と。成重等、惴恐ずゐきようして還り報ず。且曰く、「君努力せよ」と。忠直乃其士にとなへて曰く、「明日我れ先登せずば、則先死せん。死をおそるゝ者︀は此より去れ」と。小笠原秀政小笠原秀政も亦、監軍にあやまらるゝを恨む。本多忠朝出雲守本多忠朝たゞともは、其戚屬なり。秀政、夜、往きて之にまみえて曰く、「明日吾れ尺前ありて寸ぎやく無けん」と。忠朝曰く、「子は我が心を得たり」と。初め忠朝の父忠勝忠勝たゞかつ、死に臨み、長子忠政たゞまさしよくして、遺財ゐざいを忠朝に分つ。忠朝曰く、「宗家は費用多し。吾れ已に分地を辱くす。敢て受けず」と。忠政固く之をあたふ。忠朝曰く、「しばらく之を兄氏にきて、以て我がもとめて」と。役に及びて、忠政、これを問ふ。答へて曰く、「旣に之を辨ず」と。大阪に在るに及びて其營處の沮澤そたく多きをうれへ、之を易へんと請ふ。前將軍曰く、「乃父だいふは戰を爲すに、未だ甞て險易を問はず[1523]なんぢ何ぞざるや」と。忠朝慙恨ざんこんす。故を以て終に秀政と死を約す。

將軍の部署︀旣にして前將軍、諸︀將を部署︀ぶしよす。前田利光、右先鋒たり。本多康俊やすとし、本多康紀やすのり、遠藤、片桐、石川、蒔田まきた等と、其右に在り。本多正信、土井利勝どゐとしかつ、酒井忠世、本多大隅、黑田長政、加藤嘉明よしあき、之に繼ぐ。少將忠直、左先鋒たり。本多忠朝、小笠原秀政、秋田、六鄕ろくがう、淺野、丹羽︀には仙石せんごく等と、其右に在り。榊原康勝、松平康長、酒井家次、稻垣重種いながきしげたね、之に繼ぐ。大將軍、親右軍に將たり。水野忠淸、靑山忠俊、松平定綱さだつな書院番頭しよゐんばんがしらを以て、高木正成、阿部正次、內藤淸次、大番頭おほばんがしらを以て、並に其前に在り。安藤重信、其後に在り。前將軍、親左軍に將たり。本多正純まさずみ、植村家次、板倉重昌、本多信勝、內藤掃部かもん等、之をまもる。參議義直、參議賴宣よりのぶ、其後に在り。井伊直孝、藤堂高虎、細川忠興たゞおきと右軍の左に在り。水野勝成松平忠明、本多忠政、伊達だて政宗、少將忠輝たゞてると、左軍の左に在り。處分旣に定る。偵騎を遣して戰地をうかゞはしむ。而して城中、未だ之を知らざるなり。大敗の後を以て、衆心恟惧きようぐす。會議して計を決す。曰く、「東軍來り逼ること二三日を出でじ。之を南かうに誘ひて、西より橫さまに之を擊たんと欲す」と。天未だ明けざるに、人をして出でゝ斥候を爲さしむ。候者︀、東南の聚落しうらくに常に無き所の如き者︀を[1524]望見し、或は以て曉霧げうむと爲す。日出づるに及びて之を視︀れば、則皆軍隊なり。乃大におどろき、馳せ還りて急を吉ぐ。乃命を諸︀將に傳ふ。城兵の部署︀眞田幸村は茶臼ちやうす山に陣して我が左に當り、大野治房は岡山に陣して、我が右に當り、森勝永かつなが、竹田永應えいおう、大野治長、及び七隊長は其間に陣す。明石守重あかしもりしげ等は別軍をて、今宮いまみやに出づ。而して秀賴、親將として之に繼ぐ。鎧仗がいぢやう旌旗せいき、皆極めて嚴整なり。城兵、えいつくして出づ。其將帥、人人必兩將軍に當らんと欲す。將軍の候騎來る。左軍にまをして曰く、「大兵出づ。請ふ速にはたを進めよ」と。前將軍しつして曰く、「敵、城を空しくしで出づるも、七萬に過ぎじ。何ぞ大兵と謂はんや」と。住吉に及びて、家康輿を捨てゝ往く乃輿をてゝかいを穿つ。左右、よろひを進む。之をしりぞけて曰く、「奴輩どはいを誅するに、何ぞ鎧をもちゐることを爲さん」と。紵衣黃掛ちよいくわうわいにして馬に上る。其騎と前軍の輜重と、相亂れて禁ず可らず。顧て橫田尹松たゞまつに命ず。尹松進み呼びて曰く、「騎は左し、重は右せよ」と。道闕けて行く。人をして返り馳せて義直、賴宣に吿げしめて曰く、「速に來れ。戰將におこらんとす」と已にして右軍傳呼す、「將軍至れり」と。長政、嘉明長政、嘉明、出でゝ道傍に謁︀す。將軍、かふしてちうせず。單騎二十餘卒を從へて師をめぐる。二人を見て、馬を立てゝ之にいふす。二人進みて其くつわを執りて曰く、「疇昔ちうせきは敵遠く[1525]出でて、其逃れ入りしをうらむ。而して今は又大に出でて、ひとしく其かうべを授く。幕下の事、意の如くならざる無し」と。將軍、首肯しゆかうして曰く、「今まさに之を剪滅せんめつせん」と。本多正純本多正純、笋輿しゆよにて從ひ、柿蒂衣していゝし、團扇うちはを持ちてはへを拂ひて過ぐ。長政嘆じて曰く、「何ぞ平日の威嚴に類︀せざるや」と嘉明曰く、「常に重くして、變に輕きは、德川氏のくせなり」と。佳癖と謂ふべし長政曰く、「佳癖かへきと謂ふ可し」と。

將軍、行きて前部に至り、令を布きて歸る。兩軍旣に近づく。左先鋒の隊將本多成重、をかに上りて戰をうかゞふ。忠朝、秀政は、勝永、永應と、銃手をて戰をいどむ戰少しく利あらず。幸村、之に乘ず。成重、顧て我が軍をさしまねく。軍乃進む。忠直曰く、少將忠直「吾れ此より直に闇羅應に入るなり」と。因りてさんを呼び、立ちながら之を食ふ。一人は餐をさゝげ、一人はかぶとを持つ。食ひ畢りて冑し、左右に謂て曰く、「我れ旣に食へり。必餓鬼道がきだうに堕ちず」と。騎して直にすゝむ。軍、こうして之に從ふ。忠昌忠直、弟忠昌たゞまさ、手づから二人を斬る。成重、吉田修理しゆり荻田主馬をぎたしゆめと、左右より縱擊しようげきす。幸村敗走幸村の軍、終に敗走す。追ひて安井やすゐに至る。西尾久作西尾久作ひさなり、幸村とたゝかひて之を斬る。忠朝、其軍のしりぞくを見て、愛馬百里に乘りて、馳せ且呼びて曰く、「出雲守此にあり。なんかへり戰はざる」と。敵之を聞きて四集す。忠朝、鎗を執りて[1526]二人をたふす。一人、銃を以て之にせまり、射て其腹をとほす。忠朝をどりて馬より下り、刀を拔きて銃者︀を斬る。其ぎよ鐵檛てつたを進む。乃左に檛を奮ひ、右に刀を揮ひて、八人を殪す。身も亦二十餘創を被り、ほりえてたふる。敵、其首を爭ふ。 忠朝、秀政戰死從騎大屋おほや某、尸上に伏し、敵をふせぎて死す。秀政も亦、自力戰して、終に之に死す。其長子忠修たゞなが攢槍さんさうもとに死す。少子忠眞たゞざね、創を被りて死せんと欲す。其臣澁多見しぶたみ某、安積あづみ某、扶けて還る。右先鋒の隊將伴八彌ばんはちや安見右近やすみうこん等、進みて治房の軍を衝く。書院番しよゐんばんの三隊、繼ぎて進む。たがひに勝敗あり。本多、遠藤の諸︀將、橫さまに之を擊つ。治房敗走治房敗走し、返りて稻荷いなりに戰ひ、又敗る。わづかのがれて城に入る。

右軍已にすゝみ、左軍稍しりぞく。直孝、高虎、願て左軍を助く。酒井、榊原の諸︀將、 安藤直次まさに敗を承けて進み戰ふ。未だ决せず。直孝、高虎、橫さまに森氏の軍後をちて之を破り、七隊長とふ。利あらず。安藤直次、前將軍の令を以て至り、衆をとくして返り撃ちて之を破る。勝成、所部を率ゐ、命を奉じて住吉に赴く。左軍の戰おこるを望み、轉じて天王寺に向ふ。ゆく敵兵を破り、而して川塲せんばおもむき、明石守重とふ。こもしりぞきてぐ。大番おほばんの三隊、將軍の令を以て、守重を勝曼じやうまんむかへ擊[1527]ちて之を走らす。

時に兩軍、酣戰かんせんして、埃塵あいじん、大に起る。彼此紛拏ふんごして辨ず可らず。阿部正次阿部正次、以爲おもへらく、「東兵暑︀ををかして遠く來る。面目みな黑し。城兵は則しからず」と。乃令して曰く、「面の白き者︀は敵兵なり」と。因りて物色して數十級を斬る。諸︀隊、相傳へて之にならふ。斬獲ざんくわく算なし。秀賴、親出でんと欲し、城中、反者︀ありと聞きて果さず。又前將軍、しば人を遺して和を議するを以て、大野治長等を召還す。治長等走り還る。城兵敗走敵軍みな後を顧る。我が軍乃之に乘じ、遂に大に之を敗る。首を斬ること一萬五千級なり。

前將軍は進みて茶臼山に上り、將軍は進みて岡山に上る。少將忠直は進みて川塲に至り、火を市舍ししやはなつ。城中に內應を爲す者︀あり。忠直の兵、乃高麗かうらい橋より京口けうぐち門を破りて入り、はたを城上につ。忠直先登是を先登の第一と爲す。吉田修理、天滿てんまより轉じてわたり、おぼれて死す。水野勝成、忠直に繼ざて入る。忠直、兵を分ちて、諸︀樓櫓ろうろを焚き、終に天主閣に及ぶ。烟焔天をく。諸︀軍ひとしく呼びて、皆門を破りて入る。秀賴、火を觀月樓くわんげつろうに避く。淀君、及び夫人徳川氏以下、みな之に從ふ。池田利隆、尼崎あまがさきを發し、路にて其烟を望み、乃馳せて神︀崎かんざき[1528]わたり、敗兵を要擊して、多く首級を得。石川忠總、京極忠高、高知たかともと、高槻たかつきを發し、敵將仙石せんごく某と、備前島に戰ひて之を敗る。毛利秀元、及び加藤明成あきなり、水軍を傳法港口でんはふぼりぐちに至る。松平乘壽のりとしは森口より、金森可重かなもりよしゝげ岸和田きしわだより至る。皆首級を獲たり。淺野氏、蜂須賀氏、最おくれて至る。其他遠地の侯伯は皆及ばず。

前將軍、胡床こしやうりて火の起るを望見す。左右に關原の事にる者︀あり。乃顧て之に謂て曰く、「吾れ復てり」と。巳にして將軍來り賀す。前將軍曰く、「汝の功なり」と。歸りて本營に陣せしむ。忠直來りまみゆ。乃其手を執りて曰く、「乃公だいこうの孫と謂ふべきなり」と。忠輝まみゆ。顧ず。義直、賴宣、後軍より馳す。諸︀軍の輜重しちよう、途に屬して爭ひ進むを見る。賴宣賴宣曰く、「是れ軍旣にちてまさに舍せんとするなり」と。已にして天主に烟あがる。賴宣、咄嗟とつさして進む。義直、之に從ふ。茶臼山に至れば、則諸︀將の賀する者︀大にあつまる。賴宣、なみだりて曰く、「大人、を後軍に置き、事に及ばざらしむ」と。松平正綱曰く、「君は十四歲なり。前途修遠しうゑんなれば、功を建てざるを患へざれ」と。賴宣、色を變じて曰く、「吾れ復十四歲あらんや」と。前將軍曰く、「汝此の言、以てまさに首功とすべきに足る」と。

[1529]時に秀賴、猶樓上に在り。大野治長、夫人を免︀れしめ、以て和を成さんと欲するや、諸︀姬侍をして擁して出ださしむ。葵章きしやうの衣を蒙り、亂兵中に窘步きんほす。堀內氏久城將堀內氏久うぢひさ、これを觀て、進みて其前に當り、人を辟けて出でしめ、阪崎成正我が將阪崎成正さかざきなりまさを呼びて之を護送せしむ。治長、木村某を遣して追及し、本多正信に因りて其意[1530]を言ふ。正信來りて前將軍にけいす。前將軍喜びて曰く、「吾れ且遂に其夫としうととを免︀れしめん」と。正信、又將軍にけいす。將軍しつして曰く、「なん乃夫だいふともに死せざる」と。秀賴糒倉中に在りて命を乞ふ秀賴、遂に糒倉びさうの中に入り、益使を發して命を乞ふ。而して日已に暮る。將軍、井伊直孝、及び安藤重信、石川正次等を遣し、精︀倉を守りて命をたしむ。八日、前將軍、本多正純及び加加爪かゝづめ某を遣し、往きて之をけんし、且言はしめて曰く、「事已に此に至る。復言ふ可きなし。太閤の舊好、吾れついに忘るゝ能はず。苟も母子皆出でんか、秀賴を高野かうやに置き、淀君に給するに萬石を以てせん」と。治長入りて吿ぐ。出で答へて曰く、「謹︀みて命の辱きを拜す。當に往きて之を謝すべけれども、獨萬兵に目を注がる。願くは二與を得て往かん」と。直孝其詐なるを疑ひ、乃答へしめて曰く、「軍中唯一與あるのみ。右府は、請ふ、騎せよ」と。往復して决せず。直孝、重信に謂て曰く、「大旨仁恕と雖、禍︀をのこすの道なり。是れ我が輩に在るのみ」と。乃銃を倉中に發すること二たび。秀賴以下、つを知りて、秀賴等自殺︀す皆火をはなちて自殺︀す。

前將軍、まさに進みて櫻門さくらもんに至り、以て秀賴の出づるを待つ。直孝等、來りて狀を來りて狀を吿げて罪を請ふ。前將軍歸る前將軍、之をうなづく。卽日、午時、遂に駕を命じて、獨板倉重昌[1531]を從へ、北して京師に歸る。曰く、「之をれ。大戰の後は當に雨ふるべし」と。從者︀信ぜず。已にして雨大に至る。上下沾濕てんしうす。淀に及びて、雨衣ういを取り、夜二にして二條城に入る。而して大阪の諸︀軍一も之を知る者︀なし。

將軍、阿部、靑山、水野、高木の四將に令して、天王寺てんわうじ玉造たまつくり靑屋あをや京橋きやうばしの四門を守らしめ、又安藤重信に令し、西面四道の卒を留めて、以て城きよを修理せしむ。尸を岡山に收めて、軍神︀を祭る。將軍伏見に凱旋す九日、伏見に凱旋がいせんす。がいせん諸︀侯爭ひて殘黨を捕へて來り献ず。盛親を斬る十五日、長曾我部盛親を京師にとなへ、六條がはらに斬る。後二旬、大野道見を磔す大野道見だうけんを界浦に磔す。大阪の將伊東長實ながざね、奔りて高野に在り。監使を得て自裁じさつせんと請ふ。前將軍曰く、「治長等は國を誤り、盛親等は亂をせんす。皆ゆるさゞる所なり。其他豐臣氏の舊臣、忠をつかふる所に盡す者︀は、我れ皆之をゆるさん」と。長實、及び靑木一重かずしげ岩佐正壽いはさまさとし等、はかりことを改めて仕ふる者︀數十人あり。古田重然を誅す古田重然しげあきら、大阪に通ず。事あらはれて誅に伏す。細川忠興の庶子、罪を父に獲て奔りて大阪に歸す。敗るゝに及びて捕へらる。幕旨、之をゆるす。細川忠興忠興、之に死を賜ふ。冬の役に忠興、薩摩に備へしを以て來り會せず。夏の役おこるに及びて、前將軍、近臣に謂て曰く、「忠興必衆に先だちて至らん」と。駕、星田ほしだに次するとき、忠興果して至[1532]る。七日の戰にあづかりて功あり。是に於て、西南の諸︀侯、おくれ至る者︀相繼ぎて兩公に謁︀す。兩公、大阪の金を收め、井伊、藤堂氏に金馬の大鈑おほはん千枚にあたひする者︀、各二を賜ふ。六月、大阪を松平忠明に賜ひて、十萬石をましむ。松平忠明忠明、荒廢を修め田里を經し、期年にして殷富いんふうもとの如し。

賞罰を議す十五日、前將軍、入朝して成事を吿げ、白金千兩を獻ず。二十八日、將軍、二條に來りて賞罰を議す。直孝、高虎に、各五萬石を加封す。後、並に三十萬石に至る。水野勝成水野勝成、敎旨に違ひて、かろしく自刄を接す。故に賞せず。後、郡山こほりやむに封ぜられ、遂に備後の福︀山ふくやまうつり、十萬石をむ。本多政朝本多忠朝、事に死す。子なし。兄忠政の子政朝まさともを以て封をがしむ。小笠原忠眞小笠原忠眞たゞざね、父秀政の封を襲ぐ。榊原康勝、やうはげしくしてしゆつす。大須賀忠次は、實は康勝の兄の子なり。命じて本姓に復し、其封を襲がしめ、大須賀氏の衆を以て、賴宣に屬す。藤田信吉の軍機を失ひしを責めて、其邑を收む。池田忠雄池田忠雄に兄忠繼の封を襲がしめ、其奮封を以て、蜂須賀至鎭に賜ふ。少將忠直、從三位に遷り、參議に進む。前田、伊達、淺野氏、みな官爵を進む。前將軍の季女の蒲生氏に寡たりし者︀、再び淺野氏にとつぎ、次年に至りて婚を成す。

[1533]閏月十一日、將軍、諸︀侯を率ゐて入朝し、白金萬兩を獻ず。二十七日、兩公、とも樂を觀る樂を二條に觀る、振鉾えんぶ還城樂げんじやうらく延喜樂えんぎらく太平樂たいへいらくの諸︀曲を奏す。天下、大に亂れて、伶官れいくわん耗散まうさんせしこと數百年。前將軍、招撫すること年あり。終に舊職に復す。朝廷のがく是より興る。

是より先、前將軍、貞永ぢやうえい建武けんむ式目しきもくを參考し、林信勝等と議して、新式十三條新式しんしき十三條を定め、七月七日、諸︀侯を伏見に會し、之を頒ちて曰く、「文武の道は修めざる勿れ。佚遊いついう群飮は禁ぜざる勿れ。法ををかす者︀はゆるす勿れ。反を謀り若くは人を殺︀す者︀は吿げざる勿れ。諸︀國の民は其所を移す勿れ。私に城郭を築く勿れ。異を立てて黨を結ぶ者︀は吿げざる勿れ。私に婚姻を結ぶ勿れ。候伯會同するに衞從節︀に過ぐる勿れ。衣服の差をみだす勿れ。爵位なき者︀は興に乘る勿れ。諸︀將士は儉約を厭ふ勿れ。國主の人を任ずるに、其器︀を擇ばざる勿れ」と。又關白くわんぱく藤原昭實あきざね等と議し、朝廷式十七條朝廷の式十七條を定む。其略に曰く、「天子は宜しく寬平平遣遺に因りて、專古道を學び、傍和歌を習ふべし。見任けんにん三公さんこうは宜しく諸︀王の上にはんすべし。武家の官位は宜しく公家こうけ員外ゐんぐわいに在るべし。廷臣の繼嗣は宜しく異姓を取るべからず。諸︀の服章は宜しく等をゆべからず。才藝異等、若くは功勞をかさぬる者︀は、[1534]超遷てうせん宜しく門地に拘るべからず。諸︀の僧︀官は宜しく濫授らんじゆすべからず。諸︀の朝士の關白及び有司いうしに違ふ者︀、諸︀の浮屠ふとの妄に官達を冀ふ者︀は、皆宜しく流竄るざんに處すべし」と。

是の月織田氏織田氏を大和、上野の諸︀邑に封ず。本多正信、豐臣廟豐臣氏の祖︀廟そべうを毀たんと請ふ。前將軍、敢て私斷せず。終に諸︀王公と議して之を請ふ。詔ありて、祀典してんを廢して其頽廢たいはいに任せよ」と。

十九日、將軍、伏見を發し、八月四日、兩將軍歸る江戶に至る。是の日、前將軍、二條を發し、二十三日、駿河に至る。

初め少將忠輝少將忠輝、封を信濃に受け、やうやく驕縱なり。善くつゞみを擊つ者︀、花井はなゐ某をへいし、遂に之に政事を委ぬ。三將あり。しば諫むれども聽かず。乃之を駿府に訴ふ。忠輝馳せ至り、三將罪ありとひて、死を賜ふ。越後に徙るに及びて益驕おごる。大阪夏の役に及びて、行きて森山もりやまに至る。從兵、將軍の牙騎とたゝかひて三人を殺︀す。長阪信政のぶまさ在り。已にして大和口やまとぐちに向ふ。花井の言を聽き、逗撓とうだうして進まず。前將軍、東に歸り、森山を過ぎ、實を驗して大に怒り、遂に人をして、往きて其罪をめしむ。二士あり。自ひて之を解く。前將軍、信ぜず。を遣して之を按[1535]じ、且其逗撓をなじる。花井、とがを山田將監しやうげんに歸して之を逐ふ。次年、前將軍、忠輝たゞてるの母茶阿茶阿を召して曰く、「少將驍健げうけんなり。吾れ其成立を期す。はからざりき、荒惰くわうだしかり。又。ほしいまゝに長阪血槍ちやりの弟を殺︀す。吾が在時に在りてすら此の如し。將軍の時知る可し。吾れ之を絕たざるを得ず」と。茶阿、おそれて之を越後に吿ぐ。忠輝惧れて來り謝す。まみゆるを許さず。將軍に遺命して之を伊勢に放ち、後、飛驒に遷す。遂に信濃に遷されて卒す。

十月、前將軍、關東に遊獵し、前將軍江戶に行く遂に江戶にく。最上義光もがみよしみつ、大阪の役に先だちて卒す。其子家親いへちかぐ。庶兄義成よしなりひそかに大阪に應ず。事あらはる。家親に命じて討ちて之をたひらげしむ。

十二月、前將軍、駿府に歸る。途に伊豆の泉頭せんとうて、退老の地と爲す。期するに明年を以てこゝに營せんとす。是の冬、天下盡く平ぎしを以て、五畿、七道に

令して、壘砦を毀つ諸︀壘砦るいさいを毀たしめ、公使を發して諸︀國を巡察せしむ。三年に一巡す。又 武門の服章武門の服章備らざるを以て、明春の正會に因りて之を改む。

元和二年二年正月朔、侯伯、將帥、爵位に隨ひて衣冠をそなへ、正を兩府に賀す。二十一日前將軍、田中に獵して家康疾む疾を得、留ること四日にして乃歸る。將軍、報を得て大に[1536]驚き、行を戒む。二月朔、駿府に至り、日夜看護して、衣帶を解かず。諸︀侯伯相踵ぎて來りうかゞふ。前將軍、自起たざるを知り、醫藥をしりぞけて用ゐず。三月、天皇、廷臣二人をして、就きて前將軍を拜して太政大臣太政大臣と爲す。二十七日、前將軍疾をつとめ、衣冠して命を拜す。尋いで將軍をして天使を饗せしむ。四月、前將軍やまひあつし、乃婦女をまねきて入侍するを許さず。十四日、諸︀侯伯を召し、諭して曰く「吾れ老いて病めり。家康遺言旦夕將に地に入らんとす。吾れ旣に天下を平定す。將軍、大政を執ること日あり。吾れ復後事を以て憂と爲さず。然りと雖、吾れ死して將軍或は政を失はヾ、則侯伯の其器︀に當る者︀、宜しく代りて天下の柄を執るべし。天下は一人の天下に非ず。吾れ何ぞうらみんや」と。乃遺物を分賜し、めて國に就き以て後命をたしむ。初め諸︀侯各はくる、不諱ふきあらば、まさに拘留せらるゝこと累年なるべしと。是に於て、皆意外に出づ。旣にして將軍を召して曰く、「吾れ諸︀侯に諭して曰く、『將軍政を失はヾ、善者︀之を取れ』と。汝、其政治を愼み、毫も私曲ある勿れ。而れども天下若し命にさかふ者︀あらば、親戚勤舊と雖、宜しく速に誅伐を加ふべし」と。將軍歔欷きよきして退く。三家義直、賴宣、賴房を召し、誠むるに善く將軍に事ふるを以てす。其成瀨正成、安藤直次、中山信吉を召し、つとむるに輔導ほだう[1537]を以てす。十七日、疾あらたまる。乃將軍を顧て曰く、「吾れ將に死せんとす。汝天下を何とおもふ」と。將軍答へて曰く、「將に大に亂れんとす」と。前將軍曰く、「善し。吾れ以て死す可きなり」と。嫡孫家光いへみつを召して曰く、「汝、他日天下を治むる者︀なり。天下を治むる道は慈に在り」と。家康薨す乃薨ず。よはひ七十有五。【久能山】駿河久能山くのうざんに葬る。

天皇、卹典じゆつてんを賜ふこと甚厚し。賴宣、就きてべうを建つ。初め榊原淸政榊原康政の兄淸政、世子信康を輔くし世子信康を輔く。世子敗るゝに及びて、官をてゝ出亡す。晩に康政に依る。前將軍、召して祿を賜ひ久能を守らしむ。尋いでしゆつす。長子淸定きよさだ、留りて宗家そうけに仕ふ。乃少子照久てるひさに父の職祿を襲がしめ、之を親近す。をはりに臨みて、其膝を枕にして絕ゆ。榊原照久將軍、因りて照久をして祀事しじを掌らしむ。僧︀天海︀請ひて廟を大權現だいごんげんと號す。[1538]三年三年、將軍、遺命を以て下野の日光山日光山につくわうざんに改葬し、就きて新廟を建つ。四月八日、事をふ。【旣望】十六日旣望きぼう、主を正殿に移す。天皇、廷臣三輩を遣して宣命せんみやうし、正一位を贈︀り、號を賜ひて東照東照とうせうと曰ふ是の日、將軍、江戶より來り、次日、こゝに祀る。梶井親王梶井かぢゐ親王しんわう尊純そんじゆん、禮を掌る後三世、益祠宇を修む。天下の候伯、諸︀外夷に至るまで、皆器︀材を献ず。而して親王、かはる來りて廟をまもるを以て常と爲す。後三十年、詔して、大構現を改めてぐうと曰ふ。

一代東照公逸︀事東照公、人と沈毅ちんきにして大略あり兵を用ゐること神︀の如し。而して學を好み治を求む。人を愛して善くる。[1539]事を處するには必百世の後をはかる。其朝廷につかふる恭順殊に至る。王國を鎭護ちんごするを以て己が任と爲し、自儉約を執り、敢て驕侈けうしせず。最稼穡かしよくの事をおもんず。至りて微細と雖、暗知せざるは無し。屢遊畋いうでんに託して、疾苦を問ふ。其政を爲すに務めて士氣を養ひ、言路を開き、巧侫かうねい浮華ふくわの習を防ぐ。公、幼にして尾張に質たり。百舌もずを獻ずる者︀あり。百舌島を退くしりぞけて受けず。左右故を問ふ。公曰く、「吾れ聞く、主將は小けいなる者︀を取らず」と。其岡崎に在るとき、禁を犯す者︀二人あり。其一はいうよくす。【囿に戈す】鳥網其一はほりに網す。皆拘繫せらる。鈴木某牙兵鈴木某、之を諫めんと欲すれども、未だ路あらず。乃ことさらに自令をめ、池禦ちぎよの鯉を取りて、煑て之を食ふ。他日、公、池を觀て、守者︀に問ふ。守者︀、故を吿ぐ。公大に怒り、手づから鈴木を斬らんと欲す。鈴木入りて、目を張りて罵りて曰く、「あゝ、暗主、禽魚を以て人に易ふ。いづくんぞ天下ををさむるを得んや」と。公大に悟り、刀をなげうちて入る。遂に前の二人をゆるし、鈴木を召して之を褒む。後、人に語りて曰く、「直言の功は一番槍にまさる。敵を犯す者︀は、賞、かうす可し。君を犯す者︀は、罰、測る可からざるなり」と。公、濱松に在るとき、三士人三士人を召して事を命ず。其一人留りて請て白く、「臣間を承けて、敢てまをすことあり」と。一を懷より出してこれを献ず。公、其疏[1540]を讀ましめて之を聽く。每條すなはち善と稱す。讀みをはりて之に謂て曰く、「爾後、見る所あらば言ふを憚る勿れ」と。其人頓首して出づ。本多正信、侍坐し、啓して曰く、「彼れ何ぞ輕卒なる。且其言ふ所一も取る可きなし。君何ぞ之を褒むるや」と公、曰く、「否、吾れ其志を褒むるなり。且取る可き者︀なきを褒めば、則取る可き者︀至る」と。

[1541]公、甞て一士を官せんと欲す。土井利勝之を土井どゐ利勝に問ふ。利勝曰く、「彼れ常に臣の家に來らず。臣、未だ其如何を知らず」と。公よろこばずして曰く、「汝、我が家にさいたり。務めて人材を訪ふに在り。材者︀豈あへて權勢に附かんや。汝の言ふ所の如くば[1542]則耻を知り義を好む者︀なり。將に日に柔媚じうびはしらんとす。耻を知り義を好むは國家の元氣なり。元氣消亡して國家衰老す。其れ能く久しからんや。昔、酒井正親酒井正親まさちか神︀谷かみや某、己に禮せざるを以て、我に謂て曰く、『彼れ眞に用ゐる可き者︀』と。因りて請ひて其俸をす。正親は公の爲に私を忘れ、士風を奬勵す。汝が輩、何ぞ類︀せざる」と。近臣を驗す又甞て將軍の近臣を諭す。大意に謂く、「天下の安危は將軍の心に在り。宜しくこゝに思を留むべし。節︀義をすゝめ、輕薄をしりぞけ、士民を愛し、賞罰を信にし、賜賚しらい濫なる勿れ。濫にすれば則士怠る。人を用ゐるはかたよる勿れ。偏れば則國危し。國の臣あるは、猶木の枝あるが如きなり。枝偏大へんだいなれば則其根をくつがへす。猶鷲鳥してう爪翼そよくあるが如きなり。其爪翼を愛するは搏擊を斯する所以なり。大賀彌四郞臣の用舍おもんぜざる可けんや。足利尊氏の高師直かうもろなほに任じ、豐臣秀吉の石田三成を用ゐし、皆以て人のうらみを取れり。我も亦誤りて大賀おほがを用ゐて殆危禍︀に陷らんとす。懲︀毖ちようひせざる可けんや。凡そ天下の亂は、主將の欲をほしいまゝにして、宰臣の權を專にするに起るなり。民の膏血かうけつさらへて、之を府庫につるをなづけて能臣と曰ふ是れ君の爲にうらみを蓄ふるのみ。且才能をたのむ者︀は、必舊法を以て迂拙うせつと爲し、やゝもすれば之を更改せんと欲す。武田、上杉、今川、大內氏の衰亡せし所以は、皆[1543]之に由るなり。政は舊法に因るべし凡そ政は其舊に因るに在り。我れ甞て陸奥に赴き、源賴朝の榜牌ばうはいを見たり。其辭に曰く、『國事みな泰衡やすひらの舊に因る』ど。吾れ頼朝の能く東すゑを定めしを信ずるなり。介冑衣纓夫れ介冑かいちうの習は鐵の如く、衣纓いえいの習は金の如し。金は以て虛飾を爲す可く、鐵は以て實用を爲す可し。國家將に衰へんとすれば、必衣纓の習を喜ぶ者︀あり。新法を建立して、其華飾を務むるは、是れ大蠧たいとなり。我が家の法度はつとは、みな祖︀考そかう、かつ耆舊きゝうと議し、深く謀り遠く慮りて、其弊なきを期せり。變更する所ある勿れ。之を刀に譬ふれば、鍛鍊一成して之を子孫に傳ふ。子孫、各好尙を異にし、しば冶工やこうに附せば、則刀終に用ゐる可らす。凡故家こかに貴ぶ所は、其奮製を存し、舊臣を愛せよ舊臣を養ふを以てのみ。候伯將士、皆我と苦勞を同じくする者︀なり。子孫も亦、宜しくともに富貴を同じくすべし。故なくして之を滅絕する勿きは、其 忠の說祖︀先の忠に酬ゆる所以なり。凡所謂忠は、豈獨德川氏にのみ忠ならんや。乃天に忠なり。我も亦天に忠する者︀なり。故に天、之に授くるに大抦を以てす。然れども自其柄を有し、驕奢怠惰にして、生民をしへたぐれば、則天まさに之を奪はんとす。故に吾れ岡崎に主たるときは、隣國の攻守を慮り、關東に主たるときは、三道の治亂を慮る。天下を定めて、四境の安危を慮る。未だ甞て一日も懈怠けたいあらず。夫[1544]折衝せつしよう禦侮︀ぎようぶして、王國を守るは、武臣武臣の職然りと爲す。武臣にして武をわするゝは、是れ其職をぬすむなり。惧れざる可けんや」と。公のわかきとき、武田氏と兵を連ぬ。後に武備を講ずるに、武田の法多く其法を取る。或人說きて曰く、「武田のは必其やじりを甘くす。人にあたりて抜け難︀からしむるなり。請ふ、之にならへ」と。公、顰顣ひんせきして曰く、「忍びんや、いづれか天下の民に非ざる」と。因りて令して曰く、「德川のは必其やじりかたくす。人に中りて拔け易からしむるなり」と。公、幼時、今川氏に育はれたり。今川義元の墓、桶狹に在り。今川の墓を拜す公、過ぐる每に必下拜せらる。其仁、且義、盖し天性なり。

將軍、職をぎ、一に其訓誠を奉じて、天下を綏撫すゐぶす。五年五年夏、將軍、入朝す。福︀島正則の封を收む。福︀島正則の封を收む正則、關原の役に、功をたのみて驕横けうわうなり。甞て公人伊奈今成いないまなりを殺︀す。大阪の役に、ひそかに謀を城中に通じ、又ほしいまゝに城郭を增築し、酷だ殺︀戮さつりくたしなみ、國民、生をやすんぜす。是に於て、將軍、井伊直孝と策を決し、鳥居忠政をして、正則に江戶のていに就き、命を傳へて之を津輕つがるに放たしむ。其太僻たいへきを以て、改めて信濃に放ち、七萬石の邑を給し、其奮封を擧げて淺野氏に賜ふ。賴宣紀伊に徙る參議賴宣を紀伊に徙封しほうす。む所はもとの如し。是より尾張、紀伊、水戶みとを稱して三家三家と爲[1545]す。諸︀侯、敢て抗禮するなし。義直は、慈仁なり。賴宣は雄豪なり。賴房は謙遜なり。賴房はひとり國にかず。譜第ふだい將帥しやうすゐに冠として、幕府を護る。

是の歲、立花宗茂立花宗茂を舊封に復し、松平忠明を郡山こほりやまうつす。大阪を以て鎭府ちんふと爲し勳舊の一將を遣して之を守らしめ、城代稱して城代じやうだいと爲す、六年六年、京橋きやうはし玉造たまつくりの兩じゆ を置き、大番頭おほばんがしらを遺して、部衆を率ゐてかはるまもらしむ。二條城と同じ。是に於て、伏見城を毀ち、伏見奉行獨奉行を置き、界浦、奈良、長崎、佐渡に比す。七年七年、將軍むすめ禁內きんだいれ女御に備ふ。中宮ちうぐうに進み、東福︀門院東福︀門院とうふくもんゐんと稱す。是の歲、田中氏、嗣なくして國除かる。八年八年秋、最上家親もがみいへちかの後嗣最上義俊義俊よしとし、族屬をぶる能はざるを以すて國除かる。

冬、本多正純を放つ本多正純、罪ありて、出羽︀に放たる。初め正純の父正信、老中らうちうたり。東照公甞て其封を增さんと欲す。辭して曰く、「臣恩眷おんけんみだりにして、矢石の勞なし。之に封土を加ふるは、誠に自やすんぜず。願くは其臣に賜ふ者︀を以て、益材武を養ひて、以て天下を鎭平せよ。而して臣老を其間に送るを得ば、何のたまものか之にかんや」と。遂に二萬石を以てふ。東照公に後るゝこと五旬にして沒す。正純、甞て關原の役に於て、父を斬りて將軍の過を解かんと請ひ、頗得色あり。安藤直次安藤直次[1546]人に語りて曰く、「倫をそこなひ、以て名をもとむ。必をはりを全くせざらん」と。駿府の執事しつじと爲るに及びて、興國寺こうこくじ城の工卒、誤りて公邑の民を殺︀す。邑宰いふさいつぐなひを城主天野康景天野康景あまのやすかげに求む。康景うけかはず。乃正純に因りて之を訴ふ。東照公、素より康景の忠良なるを知り、たやすく决せず。正純、康景をひて、速に卒を斬りて之を償はしむ。康景、不辜ふこを殺︀すに忍びず。乃封をてゝ出亡す。東照公、之を復せんと欲す。其病みて卒するに會ひてむ。世、之をゑんとす。有馬晴︀信ありまはるのぶ阿媽港人あまかうじんを誅せしとき、正純の僚吏れうり岡本大八、晴︀信の賞すくなきをはかるや、あざむきて其貨を取る。事覺れて罪にいたり、獄中に在りて、晴︀信の陰事を吿ぐ。晴︀信、故を以て敗る。大久保忠鄰たゞちかゑんも、世、亦以て正純父子の爲す所と爲す。正純、時に小山をやま三萬石をむ。將軍の時に及びて、宇都︀宮うつのみや十五萬石を食む。安藤直次曰く、「正純まさに禍︀に及ばんとす」と。是の歲、使を奉じて山形やまがたに赴き、其壘を增し、ほしいまゝに部屬を殺︀すを以て、封を收めて放たる。其子弟、前後みな死す。獨叔父正重の後存せり。

九年九年七月、世子家光世子家光、京師にきんす。將軍因りて上書して事を致す。世子、時に正三位大納言だいなごんたり。八月、入朝し、正二位に進み、內大臣ないだいじんに遷り、征夷大將軍に任ぜらる。

[1547]是より先、參議忠直、功をたのみて觖望けつばうし、しば法を奉ぜず。又酒色をほしいまゝにして無辜むこを殺︀す。幕府、しば密旨を以て、之をつとむれどもあらためず。參議忠直を放つ是の歲、之を豐後の荻原をぎはらに放つ。髮を削りて一伯いつぱくと號す。

寬永元年寬永元年、其子光長光長みつながを越後に徙封しほうす。後三世に至りて、其下をぎよする能はざるを以て、之を美作にうつし、五萬石をましむ。其弟忠昌たゞまさ、直正、みな大阪の役に功あり。忠昌忠昌、河中かはなかに封ぜられ、いで高田にうつさる。是に於て、之を越前に封じて、三十萬石を食ましむ。直正、初め大野おほの支封しほうせられ、後出雲十八萬石に封ぜらる。一伯の敗に、本多成重、復慕府に歸り、列して諸︀侯と爲る。

三年三年八月、前將軍、將軍、共に入覲にふきんす。九月六日、天皇二條城に幸す天皇二條城にみゆきす。兩將軍、諸︀侯伯を率ゐて之を饗す。前將軍は太政大臣に遷り、將軍は右大臣に遷る。是に於て、義直、賴宣、忠長、並に大納言に遷り、賴房、及び前田利光、伊達政宗、島津家久、並に權中納言に累遷す。忠長は將軍の弟なり。是の歲、前將軍の夫人從二位淺井氏薨す淺井氏薨ず。

四年四年、蒲生忠卿、卒す。嗣なし。國除かる。後數歲にして弟忠知たゞとも、卒す。亦嗣なし。國除かる。白川十萬石を以て丹羽︀には長重を封ず。

[1548]七年七年九月、天皇、位を皇女に讓る。いみな興子おきこ、徳川氏の出なり。是を明正天皇明正みやうしやう天皇と爲す。將軍、酒井忠勝、松平信綱を遣して之を賀す。詔して、忠勝を以て少將と爲し、信綱を侍從と爲す。皆敢て拜せず。幕府に吿げて後受く。

八年八年、始めて少老職を置き、老中をたすけ、諸︀の雜事を掌らしむ。

九年九年正月二十四日、秀忠斃す前將軍薨ず。壽五十四。增上寺ざうじやうじに葬る。

前將軍、位、從一位に至り、官、太政大臣に至る。正一位大相國だいしやうこくを贈︀らる。臺徳たいとくと謚す。二代臺德公臺德公、人とり、勤護和厚なり。朝延、外舅の故を以て、禮秩れいちつ、等を異にす。而して公、益小心[1549]なり。逸︀事甞て禁內に在りて、獨便室にいこふ。或人、之をうかゞふ。公の衣冠、肅然しゆくぜんとして惰容ある莫し。其東照公に事ふるや、心を盡して懽を承く。微細の事に至りても吝稟しりんせざるはなし。關原の役に、公、事に及ばず。而して兄秀康弟忠吉、皆功あり。其歲、東照公、諸︀大臣を召し、問ひて曰く、「吾れ繼嗣を定めんと欲す。誰か可なる者︀ぞ」と。井伊直政は忠吉をたすけ、本多正信は秀康を右く。大久保忠鄰曰く、「冢子ちよし、資望已に定る。宜しく動搖どうえうすべからず。 守成ノ器︀且今より以往、撥亂はつらんの才は、守成の器︀にかざるなり」と。東照公之をうなづく。公、之を聞きて、直政、正信にふく[1550]まず。而して忠吉忠吉も亦、忠鄰をとし、益之と厚し。江戶に來る每にすなはちに館︀す。公、同母の故を以て最忠吉を愛す。忠吉、疾病あり。公、みづから其館︀に往きてうかゞひ視︀る。使者︀、旦夕往來し、寢食は報に隨ひて加損す。又庶兄の故を以て最秀康をおもんず。凡西の諸︀侯の會同する者︀、火器︀をもたらすを得ず。秀康秀康、甞て江戶に赴くに、銃隊を具して碓氷關うすひのせきに入る。關吏、呵禁かきんす。秀康曰く、「汝、越前宰相さいしやうを知らざるか」と。公、聞きて驚き、吏に命じて問ふこと勿らしめ、自之を迎謝す。其卒するに及びて、悼惜殊に至る。東照公、甞て義直、賴宣、賴房を以て、公にしよくして曰く、「我れ百歲の後、善く之を視︀よ」と。公、常に其言をおもふ。三家を愛重す故に特に三家を愛重す。凡公、宗族、功臣の喪を聞く每に、燕樂えんらくの時と雖、必かたちを變へ、なみだおとす。其出行するときは、卽駕を戒めて止む。則みづから徙御に而して之をめしむ。甞て行を戒む。漏刻ろうこく、期を報ず。公まさに食す。箸をてゝ出づ。信を守る曰く、「信失ふ可からざるなり」と。居常耽嗜たんきする所なし。特に儒術を崇び、書及び歌を好む。諸︀の武技、みな其精︀をきはむ。而して臣下におごらず。故を以て諸︀宿將、豪傑、皆馴服す。甞て其下に謂て曰く、「織田、豐臣の二子は、喜びて人に事へられたり。家君は則喜びて人を使ふ。異なる所以なり」と。故を以て諸︀政事、みな東照公になら[1551]ふ。而して最人を選むことを愼む。將軍の幼きとき、忠世、利勝雅樂頭うたのかみ酒井忠世、大炊頭おほゐのかみ土井利勝、忠俊伯耆守靑山忠俊を以てと爲す。忠世は嚴を以てし、利勝は和を以てし忠俊は直を以てし、共に心を盡して輔導す。利勝、常に燕樂に侍す。間に乘じて說きて曰く、「願くは伯耆の言を聞き玉へ。しからずば則雅樂うた之を何と謂はん」と。將軍、すなはち悟る。酒井忠勝酒井忠利の子忠勝、扈從こしようより側用人そばようにんと爲る。公、又以てと爲す又大に職にかなふ。

公旣に薨ず。諸︀臣、之を秘せんと欲す。忠勝、以て不可と爲し、卽夜、喪を發 家光す。是に於て、將軍、けうを下して盡く諸︀侯伯を召し、みづから出でゝ之に面して曰く、「前將軍薨ぜり。諸︀君或天下を冀望せば、則唯其欲する所のみ。然れども家光旣に軍職に係る。當に弓箭を以て之を授受すべし」と。諸︀侯、愕然がくぜんとして未だ答へず。伊達政宗伊達政宗進みて言て曰く「たれか德川氏の恩澤を被らざる。今日敢て異心を挾む者︀あらば、政宗請ひて先往きて之を蹂躪せん」と、衆、聲を同じくして對へて 大目附曰く、「誠に中納言の陳ぶる所の如し」と。乃退く。是の歲、始めて大目附おほめつけを置く。專ら監察かんさつを掌る。

六月、池田光政池田光政を備前に徙封しほうす。初め光政の父利隆は播磨に封ぜられ、叔父忠雄[1552]は備前に封ぜらる。皆元和中に卒す。光政、嗣ぎて因幡、伯耆にうつる。是に至りて、忠雄の子先仲みつなかと封をふ。是より先、臺德公の女、大阪にとつぐ。而して寡なり。改めて本多忠政の婦と爲す。女を生む。是に於て其女を以て光政にめあはす。

加藤忠廣を放つ是の月、加藤忠廣たゞひろ、異圖あり。發覺して國除かれ、出羽︀に放たる。細川忠興を肥後に徙封し、忠興の舊封を割きて、小倉こくらを小笠原忠臣たゞおみに、中津なかつを其兄の子長次に賜ふ。大阪の功を追賞するなり。後、幕府、加藤、福︀島二氏の遺胤をもとめ、召して之を祿し、以て其を存す。

忠長の封を收む十月、大納言忠長たゞながの封を收む。忠長、將軍と同母なり。幼字を國松くにまつと曰ふ。母氏に鍾愛せらる。將軍、世子となる時、內外流言あり、「幕府嫡を易ふる意あり」と世子の乳母春日局春日局かすがのつぼね、駿府に往きて之を吿ぐ。居ること數月。東照公、人をして將軍に言はしめて曰く、「久しく幼孫を見ず。なんぞ來りまみえしめざる」と。國松竹千代兩公子、乃來りまみゆ。公、世子を上坐に迎ふ。忠長のぼらんと欲す。公曰く、「叱叱しつ。汝敢て斯の坐に升らんと欲するか」と。坐定りてかうを供す。公其一を取りて左右に命じて曰く、「竹千代に進めよ」と。其一を取りて忠長に投與して曰く、「阿國くに之を喫せよ」と。衆望、是に於て定る。世子、大納言と爲りて、西城に在り。城壕に[1553]かも多し。忠長手づから銃を發し、一鳧を獲て夫人に示す。夫人、悅ぶこと甚し。命じて之をさいせしめ、臺德公の入るをちてこれを饗す。曰く、「阿國くにの獲る所なり」と。公悅びて之をくらひ、向ひて曰く、「且何の處にて之を得しか」と。つぐさに對ふるに實を以てす。公、を吐き、怒りて曰く、「何ぞ此の大恠事くわいじを得る。西城は誰の居る所とおもふか」と。乃其從者︀を罪す。忠長、旣に長じ、元和中、甲斐に封ぜられ、寬永中、駿河、遠江を增封せらる。旣にして驕恣なり。くわんを臺德公に失ふ。公之をしりぞけて國に就かしむ。公疾あるに及びて、畋獵でんれうして自如たり。將軍爲に之を召見せんと請ふ。許さず。公薨ずるに及びて、忠長戚容せきようなく、殺︀をたしなみ、喜怒常なし。是に於て、將軍旣にぷくを除きて、乃其封を收めて、之を高崎に置き、安藤重長城主安藤重長に附す。忠長あらためず。次年、重長、命を受け諷して忠長自殺︀自殺︀せしむ。是より駿河、甲斐、直に征夷府に隷す。府兵は是の時、大番おほばん、及び書院しよゐん扈從こしようの兩番あり。かはる駿府をまもる。

十年十年、堀尾氏、嗣なし。國除かる。次年、京極氏を徙封す。後三年、亦嗣なし。封を收む。其胤子を召して、播磨の地六萬石を賜ふ。

十一年十一年、將軍、入朝す。從一位に進み、右大臣に遷る。初めて京師に町奉行まちぶぎやうを置[1554]き、市人の訟獄しようごくを斷ぜしむ。

十四年十四年、十月、故小西氏の餘黨、耶蘇敎を以て民をせんし、島原の亂肥前の島原に據りて亂を作す。將軍、けうを西海︀の諸︀侯に下し、板倉重昌板倉重昌を遣して其軍を監し、之を討たしむ。松平信綱尋いで松平信綱を遣し、水野勝成に命じて、謀を助けしむ。未だ至らず。

十五年十五年正月朔、重昌、戰死す。信綱、至るとき城陷る。賊の渠率きよすゐ十餘人を誅す。斬首すること四萬。耶蘇を禁ず耶蘇の禁を海︀內にぶ。

十六年十六年、始めて大老職大老たいらう職を置き、土井利勝を以て之と爲す。老中の連署︀を免︀じて、老中の連署︀を免︀じて、猶大議に參す。

十七年十七年、生駒いこま氏、嗣なし。國除かる。

十八年十八年、將軍、長子家綱いへつなを生む。是の歲、始めて勘定奉行勘定奉行かんぢやうぶぎやう數員を置き、錢穀︀を掌らしむ。松平正綱まさつなの老を吿ぐるを以てなり。正綱は、實に郡吏なり。大河內秀綱おほかうちひでつなの子にして、松平氏ををかす。理財に長じ、三世に歷事す。常に度支どしたり。嗣子信綱は、秀綱の庶孫にして、正綱に養はる。

二十年二十年九月、天皇、位を皇兄紹仁に讓る。後光明天皇是を後光明天皇と爲す。天皇の正保元年、將軍、次子綱重つなしげを生む。後、參議となり、甲斐に封ぜらる。二年、三子網吉つなよし[1555]を生む。後、中將と爲り、舘林たてばやしに封ぜらる。

慶安四年慶安四年四月二十日、家光薨す將軍薨ず。年四十八、日光山に葬る。官位を贈︀ること前代の如し。三代大猷公大猷たいゝうと謚す。大猷公、幼にして英偉なり。東照公、之を器︀とす。臺德公を戒めて曰く、「嫡を易ふるは亂の本なり。且竹千代後必明將とならん。宜しく速に儲貳に定むべし」と。其保傅ほふを戒めて曰く、「父必其子の己に類︀するを求むるは、是れかなはざるの原なり。宜しく其器︀に因りて之を成就すべし。吾が三郞に於ける、終身のうらみあり。汝が輩、將軍をして再憾みしむる勿れ」と。長ずるに及びて、聰明勇決にして、恩威並び行はる。東照、逸︀事臺德の世は、諸︀の巨藩きよはん、各自偃蹇えんけんす。其會同する者︀、將軍或は之を郊迎す。禮分未だ定らず。大猷公の時に及びて、甞てことく天下の侯伯を大城に召し、自之を諭して曰く、侯伯を集めて之を諭す「我が祖︀考、卿等の力に因りて天下を定む。且其甞て肩を比べ等を同じくするを以て、ことさらに禮待を加ふ。敢て譜第ふだいの將士に比せず。家光に至りては、則襁褓ぎやうぼうより已に天下に主たり。自祖︀考と異なる者︀あり。今已に統率とうすゐの任に居て、事權を一にせざるは、宜しき所に非ざるなり。今より卿等をたいすること、[1556]當に譜第と同じくすべし。若し心にかずば、其れおの國にけ。暇を給すること三歲。熟思して去就を決せよ」と。諸︀侯、みな送巡して曰く、「敢て命を聽かざらんや」と。公乃起つ。入りて內廳ないちやうに坐し、次を以て諸︀侯を延き、佩刀を賜ふ。公便服にて盤坐し、腰に佩ぶる所なし。諸︀侯、刀を受けて拜す。公曰く、「刀を檢せよ」と。諸︀侯悚息しようそくし、刀をくこと寸許。輙退く。德川氏權勢定まる是より徳川氏の權勢益定る。然れども其皇室に事へて恭順なることもとの如し。其再入朝するとき、朝廷、以て太政大臣と爲さんと欲す。公、固辭して曰く、「先臣甞て此職をみだりにす。幸に首領を全くして沒することを得たり。臣敢てふたヽびせんや」と。公甚だ祖︀先を敬す。諸︀老臣、燕に侍して、まゝ、言、東照公の事に及ぶ。公輙曰く、「しばらく之をて」と乃衣帶を改め盥漱くわんそうし、然る後之を聽く。善く臣下の是非を摘察てきさつしてかろしく之を口に發せず。黜陟ちつちよくの議あるにへば、輒曰く、「某のかたち此の如く、性此の如し」と其知る所、諸︀老に過ぐ。久世廣宣の三子久世廣之廣之、側衆となりて、權寵あり。公、日、ひはかに之に問ひて曰く、「汝、今朝諸︀侯の贈︀遺を得しか」と。廣之拜して對へて曰く、「然り」と。贈︀者︀の性名及び其物件を問ふ。廣之條對す。公曰く、「未だ盡さゞるなり」と。廣之、簿記を懷より取りて之を撿するに果して然り。因りて惶汗くわうかん[1557]して退く。かはる相吿げて相警む。堀田正盛堀田正盛ほつたまさもり太田資宗おほたすかむね等、春日局かすがのつぼねの緣故を以て、皆寵任せらる。皆橫邪に至らず。時に承平旣に久しくして、麾下の風習漸奢侈にはしり、往々自給する能はず。臺德公の薨ずる時、遺金を頒賜はんしし、又あまねく其俸を加ふ。婚嫁喪葬、おほむね皆官より貸るを得たり。而れども猶困乏を吿ぐ。世子家綱世子生れし明年、敎あり。盡く麾の士人、及び諸︀吏を召す。衆、皆まさに慶典あるべしとおもふ。公、此日頭痛を患ふ。手巾を以てひたひを約し、杖にたすけられて出づ。衆に諭して曰く、「聞く、『汝等困乏極る』と。即明日緩急あらんか、出でて品川に次せんとするも、亦能くす可からざらん。是の如くば、則汝等、吾を何の地に置かんと欲するか」と。因りて大息してなみだを下す。衆、能く仰ぎ視︀るものなし。酒井忠勝酒井忠勝、側に在りて颺言やうげんして曰く、「諸︀君、仁をたのみ恩にれ、な上を奉ずる道を忘る。今より以往假貸をれず。各自はか度りて、公上のおもひを勞せしむる勿れ」と。衆、心服してむ。已にして令を下す、「諸︀士の子弟、年けて用に堪ふる者︀は、擧げて番士に充つ」と。因りて俸を賜ふ。新番又新番を置き、大番の子弟を以て之に充つ。又使を諸︀道に遣し、民の疾苦を問はしめ、數賑恤しんじゆつの典を擧ぐ。臺德公の時、靑山忠俊たゞとし、罪を獲て遠江に放たる。公、政を親するに及びて、未だ之を復せらるるに及ばず[1558]して配所に死す。靑山宗俊乃其子宗俊むねとしを召して用ゐ、晩歲、邑を信濃に賜ふ。面諭して曰く、「吾が幼時より、汝の父、忠を盡し誠をいたす。吾れおろかにして意と爲さず。之をして配所に死せしむ。今悔︀ゆとも及ぶ無きなり。猶將に之を汝に報せんとす。庶幾ねがはくは其寃魂ゑんこんを慰めん。今より汝、我が子に事ふること、猶汝が父の我に事へしが如くなれ」と。君臣、みな嗚咽をえつす。又大久保忠季ただづゑに肥前の地八萬石を賜ふ。其子大久保忠任忠任たゞたふに及びて終に奮封に復し、再小田原を鎭せしめ、以て父祖︀の寃をあきらかにす。天下悅服す。

名臣朝に盈つ公の時に當りて、名臣、朝につ。肥後守松平正之まさゆき掃部頭かもんのかみ井伊直孝ゐいなほたか大炊頭おほゐのかみ土井利勝どゐとしかつ、讃岐守酒井忠勝たゞかつ、周防守板倉重宗いたくらしげむね、伊豆守松平信綱のぶつな、豐後守阿部忠秋あべただあき等其最たり。公の世子たりし時より、信綱、忠秋、侍臣たり。公、甞て屋上の乳雀にうじやくを見、近臣に命じて往きて之を捕へしむ。屋、將軍の燕室えんしつに係る。衆、敢て往くなし。松平信綱乃信綱をすゝめて曰く、「汝、年幼くして体輕し。宜しく往くべし」と。信綱勉︀强して命に應じ、夜、ひそかに屋にりて之をもとめ、足を失して庭中につ。謋然かくぜんとして聲あり。將軍、刀をひつさげ、夫人、しよくを執りて出づ。信綱を見て、其來由を問ふ。對へて曰く、「臣、雀兒を観て之をしみ。ひそかに來り捕ふるなり」と。將軍[1559]曰く、「否。是必主使する者︀あらん」と。窮詰きうきつすること再四。而れども吿げず。將軍怒り、信綱を巨囊中きよなうちうれて、其口をかんし、之を柱に懸けて曰く、「汝、實をげずば出づるを許さず」と。信綱、囊中より之を爭ひてに徹す。昌、將軍出でゝ朝を視︀る。夫人、信綱の志をあはれみ、其うゑを慮り、囊口はうこうひらき、しゆんを以て之をくらはしめ、復其口を緘すること初の如くす。日中、將軍、入りて復之をなじる。終に辭を改めず。夫人、固く請ひて之をゆるす。將軍これを目送もくそうし、夫人に謂て曰く「孺子じゆし、能く是の如し。後必我が兒の羽︀翼うよくとならん」と。果して其言の如し。[1560]信綱、警敏︀なること人に絕す。而して能く人に下る。公、甞て急に一城樓を改造せんと欲す。信綱、工を督し、一宵にして成る。白紙を以て壁にのりす。新あくの者︀の如し。土井利勝利勝、之を讓めて曰く、「成らざれば則巳む。是れ人主をして難︀を下に責めしむるなり」と。信綱謝して曰く、「僕請ふ、終身以て戒と爲さん」と。信綱、甞[1561]て京師に如く。朝旨、徵求ちようきうする所ありて、十餘條をす。信綱ことく其不可を辨じて還す。衆其敏︀を稱す。忠勝、之をめて曰く、「列世恭順の旨、子、豈知らざるか。何ぞ必しも盡く之をこばむことを爲さん」信綱、驚悔︀してくなし。公の始めて政を親するや、けうを下して曰く、「大小の事盡く東照公の約の如くす」伊達政宗、狀をたてまつりて曰く、「東照公、曾て我を百萬石に封ず。願くは約の如くせん」と。幕議、之をうれふ。利勝曰く、掃部頭かものかみ、能く之をわきまふ」と。乃直孝に命ず。直孝、朝より退き、直に伊達氏にいたり、のあたり政宗を見て曰く、「聞く『公、前代の約を擧げて封を請ふ』と。信なるか」と。曰く、「信なり」と。曰く、「所約は印信あるか」と。曰く、「有り」と。曰く、「盖し僞ならん」と。政宗曰く、「何ぞ僞と謂ふを得んや。吾れ且之を示さん」と。卽出して之を示す。直孝、受けて熟視︀して曰く、「是れ故紙こしのみ」と。乃扯裂しれつして爐火中に投ず。政宗、色然しきぜんとしておどろく。直孝笑ひて曰く、「此の約は、盖し一時の權宜に出づ。且事旣に往く。今乃持して利をもとむ。何ぞ計の淺きや」と。政宗曰く、「老夫誤れり」と。因りて笑ひて止む。福︀島氏の封を收むるとき、群議决せず。板倉勝重板倉勝重、直孝をすすめて曰く、「掃部頭は人の足跡をまざる者︀」と。乃直孝を召す。議遂に決を得。勝重、[1562]京尹けいゝんたること年久し。元和中、老を以て職を辭す。臺德公、優勞し、人を擧げて自代らしむ。勝重曰く、「臣の長兒にくは莫し」と。板倉重宗重宗しげむねに命ず。重宗、愼密廉平なり。世以て其父にちずと爲す。公、甞て疾ありて困劇し、遠近疑惧ぎぐす。旣にして愈ゆ。使を京師に馳せて之を報ず。重宗の答書至る。曰く、「臣、游獵すること數日にして歸る。以て奉答稽緩けいくわんを致す」と。公之をて曰く、「京師の驚擾きやうぜう知る可きなり」と。明日、忠勝、入りて其書をて曰く、京師驚擾知る可きなり」と。侍者︀、其意を解するなし。忠勝の退くを竢ちて之を問ふ。對へて曰く、「周防守、務めて暇豫を示すは、衆情を鎭むるに非ずや」と。侍者︀乃服す。其上下一心おほむね此の如し。忠勝、直孝、相ぎて大老と爲る。信綱、忠秋、少老より老中に進む。松平正之而して正之まさゆき、特に諸︀老の上に位す。正之は臺德公の孽子げつしたり。公の侍婢じひはらめる有りて出で、男を其鄕に生む。邦俗はうぞく端午たんご節︀せつに、男兒ある者︀は章幟しやうしを門に樹つ。婢家ののぼり葵章きしやうを用ゐる。吏なじりて其故を得たり。證左あり。遂に以聞いぶんす。保科正光ほしなまさみつ、子なきを以て請ひて嗣と爲すを得て、名を正之まさゆきと命ず。大猷公立ちて未だ達せざるなり。公、甞て鷹を驪鄕めぐろに放つ。群騎散じて自いこふ。公、近臣數人と微行して邑中の佛寺に入る。寺僧︀、誰何すゐかす。公曰く、「吾れ番衆なり。願[1563]くはしばらく此にいこはしめよ」と。僧︀、ともに坐して談る。公、其壁畵へきがの頗雅なるを視︀て、之に謂て曰く、「貴寺、僻に在り。何を以て是のごときを得る。豈大檀越だんゑつあるか」と。曰く、「有ること無し。唯、保科氏あり。亦貧乏びんばふにして爲すこと有るに足らず。吾れ聞く、『保科君は將軍の親弟なり』と。小民猶兄弟をあはれむを知る。貴人何ぞ情の薄きこと此の如き」と。公、色少しく變じ、從者︀をもくして辭謝して出づ。しばらくして羣騎至りて將軍をもとめて、之を僧︀に問ふ。僧︀曰く、「さきに數少年ありて來り息ふ」と。騎曰く、「是將軍のみ」と。僧︀大に驚き誅をおそる。居ることいくばくも無くして、敎あり。正之を山形二十萬石に增封し、松平氏を賜ふ。驪鄕めぐろの寺に香火かうくわの邑を給ふ。後、正之、徙りて會津を鎭し、四位中將に累遷す。性敦實とんじつにして學を好む。公、特に之を親重す。

[1564][1565]公、終に臨みて、諸︀老を召し、世子家綱世子家綱いへつなしよくす。世子、職をぐ。甫めて十一。天資仁恕なり。時に利勝已に卒す。正之以下、遺命ゐめいを受けて幼主を輔佐ほさす。敢て慶譲けいじやうを爲さずして、其長をつ。大納言義直、公に先だちて卒す。賴宣、賴房、猶健なり。國流言多し。明暦三年大火明暦三年、江戶に災あり。歲を踰えて滅せず。城郭じやうくわく第舍ていしや、延燒してほゞ盡く。物情恟然たり。信綱、忠秋、內外を指麾しきし、事皆立所に辨ず。忠勝等、協議してことく諸︀侯をめて國に就き、各其民を撫せしめ、土木を經理し、盡く舊觀に復す。天下復動搖せず。旣にして親藩の老臣、前後みな卒す。而して將軍、政を親す。諸︀侯の質の城中に在る者︀を各第に還し、殉死を禁ず殉死を禁ず。家綱薨ず職に在ること三十一年にして薨ず。【寬永寺】江戶寬永寺くわんえいじに葬る。四代嚴有公嚴有げんいうおくりなす。

是より後、寬永寺寬永、增上寺增上の二寺、德川氏の塋域ゑいゐきと爲る。初め東照公、祖︀先に事ふるに甚謹︀む。後陽成帝、甞て公に賜ふに菊桐の章を以てせんと欲す。辭して曰く、「此れ已に足利氏に賜ふ。新田氏の榮に非ざるなり。臣自葵章あり。天恩苟も微勞に酬いんと欲せば、伏して願くは、臣の祖︀先を錄し給へ」と。乃詔して、上祖︀義重よしゝげ義重、廣忠に贈︀官從四位下鎭守府將軍を、父廣忠ひろたゞに正二位大納言を贈︀らる。其歲、臺德公とともに上野に獵し、土井利勝等をして新田につた世良田せらだ德川とくがはの諸︀邑にき、其父老[1566]に問はしめて、義重、義貞の故址こしを得、一寺を建てゝ大光寺大光だいくわうと曰ひ、以て詔書を奉じ、參河の大樹寺大樹寺だいじゆじともに皆勅願寺ちよくゞわんじに准ず。臺德、大献の二公、益祖︀先を敬す。故を以て後嗣みづからゑいを拜するを以て常務と爲す。上野、三河の如きは、則使を遣してを修む。而して在職の中必一たび日光廟につくわうべうまうづる以て重典と爲す。

嚴有公、薨じて嗣なし。弟中將、いみな綱吉つなよし館︀林たてばやしより入りて職をぐ。二十九年にして薨ず。五代常憲公常憲じやうけんと謚す。從子中納言、諱は家宣いへのぶ、甲斐より入りて職をぐ。四年にして薨ず。六代文昭公文昭ぶんせうと謚す。世子、諱は家繼いへつぐ、職を襲ぐ。四年にして薨ず。七代有章公有章いうしやうと謚す。嗣なし。賴宣の孫中納言、諱は吉宗よしむね、紀伊より入りて職を紹ぐ。大に曾祖︀の政を修め、精︀を勵して治を爲す。釐革りんかくする所多し。八代有德公天下號して徳川氏中興の主と爲す。三十年にして職を辭し、後六年にして薨ず。有德いうとくと謚す。世子、諱は家重いへしげ、職をぐ。十七年にして薨ず。九代惇信公惇信じゆんしんと謚す。世子、諱は家治いへはる、職を襲ぐ。 十代浚明公二十五年にして薨ず。浚明しゆんめいと謚す。浚明公以上、嚴有公に至るまで、官位に叙任することおほむね常例あり。世子たる時は、正三位に叙し、大納言に任ず。大將軍をぐに及びて、正二位に進み、內大臣、右[1567]大臣に累遷し、右近衞大將うこんゑのたいしやうを兼ね、薨ずるに及びて、正一位大相國だいしやうこくを贈︀り、謚を賜ふ。其軍職帶ぶる所皆同じ。大納言以前の叙任は、源氏、足利氏の故事こじの如し。而して天使就きて拜す。天下に布吿するは、大納言より始る。

初め有德公、後世の爲に深く慮り、世祿中に就きて、官俸の增减法を立つ。其二子を祿するに及びて、復封土を建てず。廩粟りんぞく十萬石を給ひ、てい田安田安たやす一橋一橋ひとつばしに賜ふ。惇信公、亦例に沿したがひ、其一子を祿し、淸水淸水しみづていし、皆省鄕せいけいと爲す。浚明公、嗣なきに及びて、今の公、一橋より入りて世子と爲る。名は十一代家齊將軍家齊いへなりと曰ふ。實に有德公の曾孫なり。職を襲ぐに及びて、復其政を修む。賢に任じ能を使ひ、百廢悉くあがる。在職最久し。左大臣に累遷し、終に太政大臣に拜す。固く辭して命を得ず。又世子世子家慶家慶いへよしを以て從一位內大臣に進む。是に於て、掃部頭かもんのかみ井伊直亮なほすけ、越中守松平定永さだながをして、入朝して思を謝せしむ。

源氏、足利氏以來、軍職に在りて太政の官を兼ねし者︀は、獨公のみ。蓋し武門の天下を平治すること、是に至りて其盛を極むと云ふ。

外史氏曰く、吾れ甞て江戶に遊び、其城闕の壯、侯伯邸第の夥しきを觀る。旣にして東海︀を歷て尾濃の間に彷徨はうくわうし、北は信越の諸︀山の綿亘重疊として來り、はるか[1568]京畿に赴くを望む。而して其南は沃野よくや洪濶かうくわつ參遠と接す。眞に天下の衢路なり。千軍萬馬の馳驟せしを想見す。邸を布き第を列ぬる者︀其初皆嚮背を此に決せしなり

盖し、源氏以還、治ること少なく、亂るゝこと多し。群雄棊峙きじし、分裂梗塞かうそくせしこと、其幾百歲を閱せしを知らず。而して今吾れ緩帶垂索粗を齎さずして行くは、則誰の力ぞや世の論者︀或は大阪の事をうれへて東照公の徳を累すを爲す此れ時勢を知らざる論なり吾れ曰く、「公の天下を取りしは大阪に在らずして關原に在り德川氏の天下を取るは小牧に在り關原に在らずして小牧に在り。夫れ公は織田氏の屬國なり。而して太閤は其將校なり。太閤は織田氏の將校を以て身を起し、乃其君の遺孤を欺き、之に加ふるに兵を以てせんと欲せり。諸︀同列、其力を畏れ、其惠を私し、逡巡して敢て爭ふものなかりき。而るに公、獨毅然として弱を扶け、强に抗し、野次の一戰に其驍將を得たりしは、固より以て姦雄の膽を破りて天下の心を服するに足れり。是の時に當りて太閤の據れる所は近畿の諸︀州に過ぎず。瓦合鳥集、人々觀望を懷けり。而して公は參遠膠漆の民を以てし、加ふるに甲信精︀銳を以てす。動舊忠義の士、雲の如く雨の如し。和親成らしめず、兩姓をして兵を構へしめば、[1569]天下の事未だ知る可らざるなり。

昔者︀むかし曹操さうさう劉玄德りうげんとくに謂ふ、「天下の英雄は、唯君と我とのみ。袁本初ゑんほんしよの輩は論ずるに足らず」と。今太閤を以て柴田勝家等を視︀くらぶるは猶操の本初に於けるが如し。而して其公を憚かりしこと、啻に玄德のみならず。宜なり、其辭を卑くして禮を厚くし、百方和を講ぜしは。是れ太閤の至計、以て速に天下を取りし所にして、天下の權は巳に德川氏に在り何ぞや我れ戰勝ちて、彼れ和を求む。求むる者︀は彼に在り許す者︀は我に在り我れ和せんと欲せば則和し戰はんと欲せば則戰ふ禍︀福︀一に決を我に取る安危禍︀福︀一に决を我に取る我れ已に天下の權を有たざらんや。唯夫れ權我に在り。是を以て班爵の崇、封土の隆、之を天下侯伯の右に置かざるを得ず。太閤の末路、兵を外に連ね、士を內に亂る。而して之を能く定むること莫し。能く之を定めし者︀は公のみ。太閤一たび瞑して、天下を制馭する者︀は公に非ずして誰ぞ。是れ其勢智者︀を待ちて而して後知るにあらず特に未だ釁有らざるのみ

關原の事は、是れ群雄相聚り、天下を推して德川氏に貽る天下を推して德川氏におくる者︀なり。何となれば、則彼れ自釁を開きて、我をして之に乘ぜしめたるなり。我れ天下に辭あり。天下[1570]誰か能く之を禁ぜん。是に於て、朝廷之に上將の任を授けて、天下の侯伯を統べしむ。會同朝聘、東に於てせざる莫し。則大阪はたゞ一候國の坐食するのみ。公旣に織田氏の孤に忍びず。いづくんぞぞ復豐臣氏の孤に忍びんや。盖し以て善く之を處せんこと有るを思ふ。而れども彼に察せずして、專猜疑を挾み、再自釁を開きて其覆滅を速にす。公に於て何ぞわづらはしからん。公、雄武老鍊なる、太閤と雖、其畏るゝ所に非ず。况や當時の群雄に於てをや。直に之を兒童視︀す。而して何ぞ驕婦けいふ騃孺がいじゆに有らんや。而るを公、謀を蓄へ慮を積みて之を斃せりと謂ふは、皆事情を知らざる者︀なり

公少より隣國に轉質し、已に艱虞を極む。其國に主たるに及びて、又境を勁敵に接し、百戰して鋒を爭ふ。寸攘尺取して繞に五州を定む。三氏天下を取るの異同而して織田、豊臣氏は其間を以て近畿を奄有し、にはかに强大を致す。盖し公を以て遲鈍と爲さゞる無し。天の公を成す所以は乃是に在るを知らず。二氏の天下に於ける、唯速に之を得たり。故に速に之を失へり。徳川氏盛業の原因公は未だ甞て天下を取るに急ならずして天下の釁每に以て公を開くに足る嗚呼是れ其長く天下を有ちて以て今日の盛業を基せし所以なるか

[1571][1572]邦文日本外史卷之二十二終



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