は備前に封ぜらる。皆元和中に卒す。光政、嗣ぎて因幡、伯耆に徙る。是に至り
て、忠雄の子先仲と封を易ふ。是より先、臺德公の女、大阪に適ぐ。而して寡な
り。改めて本多忠政の婦と爲す。女を生む。是に於て其女を以て光政に妻す。
加藤忠廣を放つ是の月、加藤忠廣、異圖あり。發覺して國除かれ、出羽︀に放たる。細川忠興を肥
後に徙封し、忠興の舊封を割きて、小倉を小笠原忠臣に、中津を其兄の子長次に
賜ふ。大阪の功を追賞するなり。後、幕府、加藤、福︀島二氏の遺胤を索め、召し
て之を祿し、以て其祀を存す。
忠長の封を收む十月、大納言忠長の封を收む。忠長、將軍と同母なり。幼字を國松と曰ふ。母氏
に鍾愛せらる。將軍、世子となる時、內外流言あり、「幕府嫡を易ふる意あり」と
世子の乳母春日局春日局、駿府に往きて之を吿ぐ。居ること數月。東照公、人をして將
軍に言はしめて曰く、「久しく幼孫を見ず。盍ぞ來り見えしめざる」と。國松竹千代兩公子、
乃來り見ゆ。公、世子を上坐に迎ふ。忠長踵ぎ昇らんと欲す。公曰く、「叱叱。汝
敢て斯の坐に升らんと欲するか」と。坐定りて餻を供す。公其一を取りて左右に
命じて曰く、「竹千代に進めよ」と。其一を取りて忠長に投與して曰く、「阿國之を
喫せよ」と。衆望、是に於て定る。世子、大納言と爲りて、西城に在り。城壕に