を生む。後、中將と爲り、舘林に封ぜらる。
慶安四年慶安四年四月二十日、家光薨す將軍薨ず。年四十八、日光山に葬る。
官位を贈︀ること前代の如し。三代大猷公大猷と謚す。大猷公、幼にして
英偉なり。東照公、之を器︀とす。臺德公を戒めて曰く、「嫡を
易ふるは亂の本なり。且竹千代後必明將とならん。宜しく速
に儲貳に定むべし」と。其保傅を戒めて曰く、「父必其子の己
に類︀するを求むるは、是れ協はざるの原なり。宜しく其器︀に
因りて之を成就すべし。吾が三郞に於ける、終身の憾あり。汝が輩、將軍をして
再憾みしむる勿れ」と。長ずるに及びて、聰明勇決にして、恩威並び行はる。
東照、逸︀事臺德の世は、諸︀の巨藩、各自偃蹇す。其會同する者︀、將軍或は之を郊迎
す。禮分未だ定らず。大猷公の時に及びて、甞て盡く天下の侯伯を大城に召し、
自之を諭して曰く、侯伯を集めて之を諭す「我が祖︀考、卿等の力に因りて天下を定む。且其甞て肩を比べ
等を同じくするを以て、故に禮待を加ふ。敢て譜第の將士に比せず。家光に至り
ては、則襁褓より已に天下に主たり。自祖︀考と異なる者︀あり。今已に統率の任に
居て、事權を一にせざるは、宜しき所に非ざるなり。今より卿等を待すること、