京畿に赴くを望む。而して其南は沃野洪濶參遠と接す。眞に天下の衢路なり。千
軍萬馬の馳驟せしを想見す。今、邸を布き第を列ぬる者︀、其初皆嚮背を此に決せ
しなり。
盖し、源氏以還、治ること少なく、亂るゝこと多し。群雄棊峙し、分裂梗塞せし
こと、其幾百歲を閱せしを知らず。而して今吾れ緩帶垂索、粗を齎さずして行く
は、則誰の力ぞや。世の論者︀或は大阪の事を病へて、東照公の徳を累すを爲す。
此れ時勢を知らざる論なり。吾れ曰く、「公の天下を取りしは、大阪に在らずして
關原に在り。德川氏の天下を取るは小牧に在り關原に在らずして小牧に在り。夫れ公は織田氏の屬國なり。而して
太閤は其將校なり。太閤は織田氏の將校を以て身を起し、乃其君の遺孤を欺き、
之に加ふるに兵を以てせんと欲せり。諸︀同列、其力を畏れ、其惠を私し、逡巡し
て敢て爭ふものなかりき。而るに公、獨毅然として弱を扶け、强に抗し、野次の
一戰に其驍將を得たりしは、固より以て姦雄の膽を破りて天下の心を服するに足
れり。是の時に當りて太閤の據れる所は近畿の諸︀州に過ぎず。瓦合鳥集、人々觀
望を懷けり。而して公は參遠膠漆の民を以てし、加ふるに甲信精︀銳を以てす。動
舊忠義の士、雲の如く雨の如し。和親成らしめず、兩姓をして兵を構へしめば、