れ折衝禦侮︀して、王國を守るは、武臣武臣の職然りと爲す。武臣にして武を遺るゝ
は、是れ其職を窃むなり。惧れざる可けんや」と。公の少きとき、武田氏と兵を
連ぬ。後に武備を講ずるに、武田の法多く其法を取る。或人說きて曰く、「武田の箭は必其
鋌を甘くす。人に中りて抜け難︀からしむるなり。請ふ、之に傚へ」と。公、顰顣
して曰く、「忍びんや、孰か天下の民に非ざる」と。因りて令して曰く、「德川の箭
は必其鋌を固くす。人に中りて拔け易からしむるなり」と。公、幼時、今川氏に
育はれたり。今川義元の墓、桶狹に在り。今川の墓を拜す公、過ぐる每に必下拜せらる。其仁、
且義、盖し天性なり。
將軍、職を襲ぎ、一に其訓誡を奉じて、天下を綏撫す。五年五年夏、將軍、入朝す。
福︀島正則の封を收む。福︀島正則の封を收む正則、關原の役に、功を負みて驕横なり。甞て公人伊奈今成
を殺︀す。大阪の役に、陰に謀を城中に通じ、又擅に城郭を增築し、酷だ殺︀戮
を嗜み、國民、生を聊ぜす。是に於て、將軍、井伊直孝と策を決し、鳥居忠政を
して、正則に江戶の第に就き、命を傳へて之を津輕に放たしむ。其太僻を以て、
改めて信濃に放ち、七萬石の邑を給し、其奮封を擧げて淺野氏に賜ふ。賴宣紀伊に徙る參議賴宣
を紀伊に徙封す。食む所は故の如し。是より尾張、紀伊、水戶を稱して三家三家と爲