片桐且元傅片桐且元、常に秀賴を誡めて曰く、「德川太公は、義元の誼を失はずして、氏眞を
納れ、信長の好を遺れずして、信雄を助けたり。先公、其然るを知る。故に終に
臨みて孤を託す。君、務めて其驩心を失はずば、則以て長久なる可し。不らずば
則禍將に測られざらんとす」と。秀賴頗る悟る。而れども群臣悅ばず。且元、數
關東に使するを以て、其私有るを意ひ、稍これを猜防す。是より先、秀賴、方廣寺方廣
寺を造りて、先志を繼ぐ。是に至りて、功を畢る。又巨鐘を鑄る。乃且元をして
來り告げしめて、之を慶せんことを請ふ。期するに七月秀賴、親往くを以てす。
髙山友群是の歲、高山友祥、內藤如安等、蠻敎を奉ずるを以て、京師の獄に下る。前將軍
吏二名を遣し、往きて栃倉勝重と議せしめ、友祥等を海西に放ち、餘黨を流す。
是に於て、界浦に犯人あり。二吏、卒を率ゐ、往きて之を按ず。途に大阪を
經。訛言あり。曰く、「且元秀賴の出づるを候ひ、東吏を導きて城を取らんとす」
と。秀賴、惧れて出でず。二吏、既︀に界浦を按じ、遂に長崎に之く。
鐘の銘訛言乃止む。將に之を慶せんとす。其鐘銘忌諱に觸れ、呪咀する者に類す。上棟
牌も亦、式の如くならず。林信勝、僧︀天海等、交之を言ふ。前將軍怒り、乃使を
馳せて其慶を停めしむ。