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Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/1601

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に問はしめて、義重、義貞の故址こしを得、一寺を建てゝ大光寺大光だいくわうと曰ひ、以て詔書を奉 じ、參河の大樹寺大樹寺だいじゆじともに皆勅願寺ちよくゞわんじに准ず。臺德、大献の二公、益祖︀先を敬す。故 を以て後嗣みづからゑいを拜するを以て常務と爲す。上野、三河の如きは、則使を遣し てを修む。而して在職の中必一たび日光廟につくわうべうまうづる以て重典と爲す。

嚴有公、薨じて嗣なし。弟中將、いみな綱吉つなよし館︀林たてばやしより入りて職をぐ。二十九年 にして薨ず。五代常憲公常憲じやうけんと謚す。從子中納言、諱は家宣いへのぶ、甲斐より入りて職をぐ。四 年にして薨ず。六代文昭公文昭ぶんせうと謚す。世子、諱は家繼いへつぐ、職を襲ぐ。四年にして薨ず。七代有章公有章いうしやう と謚す。嗣なし。賴宣の孫中納言、諱は吉宗よしむね、紀伊より入りて職を紹ぐ。大に曾 祖︀の政を修め、精︀を勵して治を爲す。釐革りんかくする所多し。八代有德公天下 號して徳川氏中興の主と爲す。三十年にして職を辭し、後六 年にして薨ず。有德いうとくと謚す。世子、諱は家重いへしげ、職をぐ。十 七年にして薨ず。九代惇信公惇信じゆんしんと謚す。世子、諱は家治いへはる、職を襲ぐ。 十代浚明公二十五年にして薨ず。浚明しゆんめいと謚す。浚明公以上、嚴有公に至 るまで、官位に叙任することおほむね常例あり。世子たる時は、正 三位に叙し、大納言に任ず。大將軍をぐに及びて、正二位に進み、內大臣、右