Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/1541

提供:Wikisource
このページは校正済みです

初め西藩、島津氏獨島津氏未だ來り會せず。二豐、二筑の將帥、密命みつめいを受けて亦發せず 是に於て、舟艦三千餘艘を以て兵庫に至る。則和成りて已に四日なり。前將軍、 人をしてねぎらひて之をめしむ。遂に圍を撤し、たゞ勳舊くんきうの七將を留めて、塹を塡むほりうづめ しむ。本多正純まさずみ、安藤直次、成瀨正成を以て、之を掌らしむ。諸︀侯爭ひて役を助 く。伊達政宗、藤堂高虎等、請ひて曰く、「秀賴命を聽くも終に保す可からず。恐 らくは後患をのこさん。今に及びて之を除くにかず」と。前將軍曰く、「吾れ豐臣 氏と、義を以て合ふ者︀なり。長湫ながくて㨗後せふご、和をゆるして京師に入り、始めて征伐を 助け、終に委託ゐたくを受く。關原の役に、勢に乘じて大阪をあつする事、もとより難︀きに 非ず。今彼れ乃怨を以て恩に報ゆ。吾れ苟も之を除かんと欲せば、あに卿等けいらの言を たんや。特に太閤の舊好をおもひ、以て之を保全するのみ。彼れ復我にそむき、敢 て不義を行はゞ、則自亡を取るなり。卿等且言ふ勿れ」と。大阪の諸︀將、前將軍 を要擊せんと欲す。二十四日、前將軍、數十騎と、夜、行營を發し、曉に比びて 家康京師に入る京師に入る。衆以て神︀と爲す。

初め前將軍の京師を出づるや、林信勝等に命じて、御府ぎよふ、及び公卿くぎやうの家の典籍典籍てんせきもとめて、五山の僧︀徒五山ごさんの徒に命じ、きよくを開きて校寫せしむ。大阪城中に在りてもはるかに其役