を從へ、北して京師に歸る。曰く、「之を驅れ。大戰の後は當に雨ふるべし」と。
從者︀信ぜず。已にして雨大に至る。上下沾濕す。淀に及びて、雨衣を取り、夜二
鼓にして二條城に入る。而して大阪の諸︀軍一も之を知る者︀なし。
將軍、阿部、靑山、水野、高木の四將に令して、天王寺、玉造、靑屋、京橋の四
門を守らしめ、又安藤重信に令し、西面四道の卒を留めて、以て城墟を修理せし
む。尸を岡山に收めて、軍神︀を祭る。將軍伏見に凱旋す九日、伏見に凱旋す。がいせん諸︀侯爭ひて殘黨を捕
へて來り献ず。盛親を斬る十五日、長曾我部盛親を京師に徇へ、六條磧に斬る。後二旬、大野道見を磔す大
野道見を界浦に磔す。大阪の將伊東長實、奔りて高野に在り。監使を得て自裁せ
んと請ふ。前將軍曰く、「治長等は國を誤り、盛親等は亂を煽す。皆宥さゞる所な
り。其他豐臣氏の舊臣、忠を事ふる所に盡す者︀は、我れ皆之を假さん」と。長
實、及び靑木一重、岩佐正壽等、圖を改めて仕ふる者︀數十人あり。古田重然を誅す古田重然、
大阪に通ず。事覺れて誅に伏す。細川忠興の庶子、罪を父に獲て奔りて大阪に歸
す。敗るゝに及びて捕へらる。幕旨、之を宥す。細川忠興忠興、之に死を賜ふ。冬の役に
忠興、薩摩に備へしを以て來り會せず。夏の役興るに及びて、前將軍、近臣に謂
て曰く、「忠興必衆に先だちて至らん」と。駕、星田に次するとき、忠興果して至