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たゞす。使者︀、往來して絕えず。是に至りて功をへ、三本をつくり、其一を獻納 し、二を駿府、江戶に置く。二十八日、入朝す。上皇、天皇、慰勞すること懇至 なり。朝廷の爵を正す命じて朝廷の爵位を正し、諸︀の節︀會せちゑを興さんことを議す。

時に京師、流言あり、「池田利隆觀望をいだき、中島なかのしま逗留とうりうす。故に其尼崎あまがさき戍將じゆしやう且元かつもと を救はず」と。前將軍怒り、其封を奪ひて、其弟忠繼に與へんと欲す。利隆の 老番氏明番氏明ばんうぢあき、來りて之を陳謝す。ゆるさずして入る。氏明、すそきて號哭がうこくし、死を 以て之を爭ふ。初め氏明の父大膳だいぜん圍人ぎよじんたり。長湫ながくての役に池田輝政てるまさ、父兄の沒せ しを見て、戰死せんと欲す。【圍人】馬丁大膳、馬をひかへて之をとゞむ。輝政怒り、あぶみを以て其 うなじる。血、面に被れどもはなたず。遂に其祀を存す。前將軍之を記す。其よゝ忠 節︀なるをみよし、乃利隆をゆるす。次年、忠繼母子、みなしゆつす。利隆に命じて備前の 國事を攝せしむ。

伊達秀宗伊達政宗の長子秀宗ひでむね、幼にして大阪に質たり。關原の役に、始めて放還せらるる を得たり。政宗、嫌を避け、少子忠宗たゞむねを立てて嗣と爲す。是に於て、秀宗、軍に 從ふ。前將軍、之をあはれみ、封ずるに富田氏の舊邑宇和島うわじまを以てし、十萬石を

しむ。筒井定次さだつぐの遺臣、多く募に應ず。筒井定次死を賜ふ故を以て定次死を配所に賜ふ。