是より先、參議忠直、功を負みて觖望し、數法を奉ぜず。又酒色を縱にして
無辜を殺︀す。幕府、數密旨を以て、之を勗むれども悛めず。參議忠直を放つ是の歲、之を豐後の
荻原に放つ。髮を削りて一伯と號す。
寬永元年寬永元年、其子光長光長を越後に徙封す。後三世に至りて、其下を馭する能はざるを
以て、之を美作に徙し、五萬石を食ましむ。其弟忠昌、直正、みな大阪の役に功
あり。忠昌忠昌、河中に封ぜられ、尋いで高田に徙さる。是に於て、之を越前に封じ
て、三十萬石を食ましむ。直正、初め大野に支封せられ、後出雲十八萬石に封ぜ
らる。一伯の敗に、本多成重、復慕府に歸り、列して諸︀侯と爲る。
三年三年八月、前將軍、將軍、共に入覲す。九月六日、天皇二條城に幸す天皇二條城に幸す。兩將軍、
諸︀侯伯を率ゐて之を饗す。前將軍は太政大臣に遷り、將軍は右大臣に遷る。是に
於て、義直、賴宣、忠長、並に大納言に遷り、賴房、及び前田利光、伊達政宗、
島津家久、並に權中納言に累遷す。忠長は將軍の弟なり。是の歲、前將軍の夫人
從二位淺井氏薨す淺井氏薨ず。
四年四年、蒲生忠卿、卒す。嗣なし。國除かる。後數歲にして弟忠知、卒す。亦嗣な
し。國除かる。白川十萬石を以て丹羽︀長重を封ず。