京尹たること年久し。元和中、老を以て職を辭す。臺德公、優勞し、人を擧げて
自代らしむ。勝重曰く、「臣の長兒に若くは莫し」と。板倉重宗乃重宗に命ず。重宗、愼密
廉平なり。世以て其父に愧ちずと爲す。公、甞て疾ありて困劇し、遠近疑惧す。
旣にして愈ゆ。使を京師に馳せて之を報ず。重宗の答書至る。曰く、「臣、游獵す
ること數日にして歸る。以て奉答稽緩を致す」と。公之を覽て曰く、「京師の驚擾
知る可きなり」と。明日、忠勝、入りて其書を覽て曰く、京師驚擾知る可きな
り」と。侍者︀、其意を解するなし。忠勝の退くを竢ちて之を問ふ。對へて曰く、
「周防守、務めて暇豫を示すは、衆情を鎭むるに非ずや」と。侍者︀乃服す。其上
下一心槩此の如し。忠勝、直孝、相踵ぎて大老と爲る。信綱、忠秋、少老より老
中に進む。松平正之而して正之、特に諸︀老の上に位す。正之は臺德公の孽子たり。公の
侍婢孕める有りて出で、男を其鄕に生む。邦俗、端午の節︀に、男兒ある者︀は章幟を
門に樹つ。婢家の幟に葵章を用ゐる。吏詰りて其故を得たり。證左あり。遂に
以聞す。保科正光、子なきを以て請ひて嗣と爲すを得て、名を正之と命ず。大猷公
立ちて未だ達せざるなり。公、甞て鷹を驪鄕に放つ。群騎散じて自息ふ。公、近
臣數人と微行して邑中の佛寺に入る。寺僧︀、誰何す。公曰く、「吾れ番衆なり。願