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き、市人の訟獄しようごくを斷ぜしむ。

十四年十四年、十月、故小西氏の餘黨、耶蘇敎を以て民をせんし、島原の亂肥前の島原に據りて亂 を作す。將軍、けうを西海︀の諸︀侯に下し、板倉重昌板倉重昌を遣して其軍を監し、之を討た しむ。松平信綱尋いで松平信綱を遣し、水野勝成に命じて、謀を助けしむ。未だ至らず。

十五年十五年正月朔、重昌、戰死す。信綱、至るとき城陷る。賊の渠率きよすゐ十餘人を誅す。 斬首すること四萬。耶蘇を禁ず耶蘇の禁を海︀內にぶ。

十六年十六年、始めて大老職大老たいらう職を置き、土井利勝を以て之と爲す。老中の連署︀を免︀じて、老中の連署︀を免︀じて、 猶大議に參す。

十七年十七年、生駒いこま氏、嗣なし。國除かる。

十八年十八年、將軍、長子家綱いへつなを生む。是の歲、始めて勘定奉行勘定奉行かんぢやうぶぎやう數員を置き、錢穀︀を掌 らしむ。松平正綱まさつなの老を吿ぐるを以てなり。正綱は、實に郡吏なり。大河內秀綱おほかうちひでつな の子にして、松平氏ををかす。理財に長じ、三世に歷事す。常に度支どしたり。嗣子信 綱は、秀綱の庶孫にして、正綱に養はる。

二十年二十年九月、天皇、位を皇兄紹仁に讓る。後光明天皇是を後光明天皇と爲す。天皇の正保元 年、將軍、次子綱重つなしげを生む。後、參議となり、甲斐に封ぜらる。二年、三子網吉つなよし