じ、且其逗撓を詰る。花井、咎を山田將監に歸して之を逐ふ。次年、前將軍、忠輝
の母茶阿茶阿を召して曰く、「少將驍健なり。吾れ其成立を期す。圖らざりき、荒惰
乃爾り。又。擅に長阪血槍の弟を殺︀す。吾が在時に在りてすら此の如し。將軍の
時知る可し。吾れ之を絕たざるを得ず」と。茶阿、惧れて之を越後に吿ぐ。忠輝
惧れて來り謝す。見ゆるを許さず。將軍に遺命して之を伊勢に放ち、後、飛驒に
遷す。遂に信濃に遷されて卒す。
十月、前將軍、關東に遊獵し、前將軍江戶に行く遂に江戶に如く。最上義光、大阪の役に先だちて
卒す。其子家親嗣ぐ。庶兄義成、陰に大阪に應ず。事覺る。家親に命じて討ちて
之を夷げしむ。
十二月、前將軍、駿府に歸る。途に伊豆の泉頭を經て、退老の地と爲す。期する
に明年を以てこゝに營せんとす。是の冬、天下盡く平ぎしを以て、五畿、七道に
令して、壘砦を毀つ諸︀壘砦を毀たしめ、公使を發して諸︀國を巡察せしむ。三年に一巡す。又
武門の服章武門の服章備らざるを以て、明春の正會に因りて之を改む。
元和二年二年正月朔、侯伯、將帥、爵位に隨ひて衣冠を具へ、正を兩府に賀す。二十一日
前將軍、田中に獵して家康疾む疾を得、留ること四日にして乃歸る。將軍、報を得て大に