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成吉思汗実録/序論

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​チンギス カン ジツロク​​成吉思 汗 實錄​​ジヨロン​​序論​


​ゲンテウ ヒシ​​元朝 祕史​​ライレキ​​來歷​

 ​チンギス カン ジツロク​​成吉思 汗 實錄​は、​ワ​​余​​イマ​​今​ ​ホンヤク​​飜譯​したる​ゲン​​元​​ハジメ​​初​​キウシ​​舊史​にして、その​ゲンポン​​原本​は、​トウキヨウ カウトウ シハン ガクカウ​​東京 高等 師範 學校​​ザウ​​藏​する​ゲンテウ ヒシ​​元朝 祕史​​シヤホン​​寫本​なり。この​ライレキ​​來歷​​ウチ​​中​に「​コノシヨ​​此書​​マタ​​又​は「​キンポン​​今本​」とあるは、​ミナ​​皆​この​ゲンシヤホン​​原寫本​​サ​​指​せるなり。此書は、もと​モウコモジ​​蒙古字​​シヨ​​書​​カラモジ​​漢︀字​​ヤク​​譯​したる​モノ​​者︀​にて、その​モウコモジ​​蒙古字​の原本の​ナ​​名​は、​モンゴルン ニウチヤ トブチヤアン​​忙豁侖 紐察 脫卜察安​​Mongholun Niucha Tobchaan​​イ​​云​ひ、譯すれば​モウコ​​蒙古​​ヒシ​​祕史​なり。​モンゴルン​​忙豁侖​​Mongholun​​スナハ​​卽​​モンゴル ウン​​忙豁勒 溫​​Monghol un​​モンゴル​​忙豁勒​​Monghol​は蒙古、​ウン​​溫​​un​は「の」にて、「蒙古の」なり。​ニウチヤ​​紐察​​niucha​ ​スナハ​​卽​​ニウチヤ​​你兀察​​niucha​は、​ニウ​​你兀​​niu​​カク​​祕​す、​チヤ​​察​​cha​​ドウシ​​動詞​​ケイヨウシ​​形容詞​にする​ゴビ​​語尾​にて、「​カク​​祕​したる」「​カク​​祕​さるゝ」又は「​ヒミツ​​祕密​なる」[3]なり。今の​モウココトバ​​蒙古語​にては​ニグチヤ​​你古察​​nigucha​となり、​ゲンシ ゴカイ​​元史 語解​に「​ニグチヤハ​​尼古察​​ヒミツナリ​​祕密也​」とあり。​トブチヤアン​​脫卜察安​​tobchaan​は、​タヾ​​正​しくは​トブチヤン​​脫卜赤顏​​tobchiyan​にて、​ゲンシ​​元史​には​トブチヤン​​脫卜赤顏​とも​トビチヤン​​脫必赤顏​とも​カ​​書​き、​ゲンシ ゴカイ​​元史 語解​に「​トブチヤンハ​​托卜齊延​​ソウコウ ナリ​​總綱 也​」とあり。​カウヤウ​​綱要​​ソウロク​​總錄​したるものにして、卽ち​ジツロク​​實錄​なり。​ミコトバ​​三語​にて「​モウコ​​蒙古​​ヒミツ​​祕密​なる​ジツロク​​實錄​」卽ち​モウコ ヒシ​​蒙古 祕史​なり。

 此書の原本の​ナ​​成​れるは、​ゲン​​元​​タイソウ​​太宗​​トキ​​時​なり。此書の​サイマツ​​最末​に「​タイシウクワイ​​大聚會​​クワイ​​會​して、​ネズミ​​鼠​​トシ​​年​ ​シチグワツ​​七月​に、​ケルレン​​客魯嗹​​Keluren​​ガハ​​河​​コデエ アラル​​闊迭額 阿喇勒​​Khodee aral​​ドロアン ボルダク​​朶羅安 孛勒答黑​​Doloan boldakh​​シルギンチエク​​失勒斤扯克​​Shilghinchek​ ​リヤウチ​​兩地​​アヒダ​​閒​なる​オルド​​斡兒朶​​ordo​​ゲバ​​下馬​して​ヲ​​居​​トキ​​時​​カ​​書​きて​ヲ​​畢​へたり」とあり。​ネズミ​​鼠​​トシ​​年​は、​ゲン​​元​​タイソウ​​太宗​​ジフニネン​​十二年​ ​カノエネ​​庚子​​トシ​​歲​にして、​ワ​​我​​シデウ テンワウ​​四條 天皇​ ​ニンヂ​​仁治​ ​グワンネン​​元年​​ソウ​​宋​​リソウ​​理宗​ ​カキ​​嘉熙​ ​ヨネン​​四年​​セイキ​​西紀​ ​センニヒヤクシジフネン​​一二四〇年​​コトシ​​今年​ ​ヒノエウマ​​丙午​より​ロツピヤクロクジフロクネン​​六百六十六年​ ​マヘ​​前​なり。​アラル​​阿喇勒​とは、​カハナカジマ​​河中島​​イ​​云​ふ。​コデエジマ​​闊迭額洲​は、​ケルレン​​客魯嗹​​カハナカジマ​​河中島​なり。​オルド​​斡兒朶​は、​カガン​​合罕​​Khaghan​​チヤウデン​​帳殿​なり。​コデエジマ​​闊迭額洲​​オルド​​斡兒朶​は、​ゲン​​元​​タイソ​​太祖︀​​ヨ​​四​つの斡兒朶の​ウチ​​中​​ダイオルド​​大斡兒朶​にして、蒙古の​コククワイ​​國會​​ツネ​​常​​ヒラ​​開​かれたる​トコロ​​處​なり。​コククワイ​​國會​​サンレツ​​參列​して大斡兒朶にて書けりと云へば、​タウジ​​當時​ ​ブンピツ​​文筆​​ヨ​​能​くする​ウイウル​​委兀兒​​Uiur​​ジン​​人​などの​チヨクメイ​​勅命​​ウ​​受​けて書ける​モノ​​者︀​なるべし。

 此書は、十二​クワン​​卷​​ワカ​​分​れ、​マキ​​卷​の一より​マキ​​卷​の十までは、​タイソ​​太祖︀​​ソセン​​祖︀先​より​ハジ​​始​めて、太祖︀ ​ソクヰ​​卽位​​ノチ​​後​​キンコク​​金國​ ​セイバツ​​征伐​​マヘ​​前​までの​ジセキ​​事蹟​​ノ​​敍​べ、​ダイ​​第​十一二​クワン​​卷​は、​ゾクシフマキノ​​續集卷​一、​ゾクシフ​​續集​二と​ダイ​​題​して、​ヒツジ​​羊​の年元の太祖︀ 六年 辛未、太祖︀ 崩御の前 十六年、我が順德 天皇 建曆 元年、西紀 一二一二年​キンコク​​金國​ ​セイバツ​​征伐​より​ハジ​​始​め、太祖︀の金國を​タヒラ​​平​げたる[4]​ノチ​​後​​オヨ​​及​び、太宗の​ミヅカ​​自​​オノレ​​己​​シコウ シクワ​​四功 四過​​ノ​​述​べたる​チヨクゴ​​勅語​​モ​​以​​ムス​​結​べり。​シカ​​然​れば​セイシフ​​正集​ 十卷は、​スデ​​旣​に太祖︀の​テフ​​朝​​ツク​​作​られ、太宗 十二年に​イタ​​至​り、續集 二卷を​オギナ​​補​​ツク​​作​りて、​ゼンシヨ​​全書​となせるなり。​ヘンマツ​​篇末​に太宗の​チヨクゴ​​勅語​​ノ​​載​せたるは、​カナラ​​必​ず太宗の​タヾチ​​直​​シシン​​史臣​​メイ​​命​じて書かせたる者︀ならん。

 此書、今は​モウココトバ​​蒙古語​​カラモジ​​漢︀字​にて​オンヤク​​音譯​したる者︀のみ​ツタ​​傳​はりたれども、​モト​​本​は蒙古の​コクシヨ​​國書​なる​ウイウルモジ​​委兀兒字​にて書きたる者︀なるべし。蒙古には、もと​モンジ​​文字​なかりしが、太祖︀の​ナイマン​​乃蠻​​Naiman​​ホロ​​滅​ぼしたる時より、始めて​ウイウルモジ​​委兀兒字​​モチ​​用​ひて​モウココトバ​​蒙古語​を書く​コト​​事​となれり。​ゲンシ​​元史​​タタトンガ​​塔塔統阿​​デン​​傳​​ヨ​​依​るに、​タタトンガ​​塔塔統阿​​Tatatunga​は、​ウイウ​​畏兀​​ヒト​​人​にて、その​クニ​​國​​モンジ​​文字​​クハ​​委​しく、​ナイマン​​乃蠻​​タヤン カン​​大陽 罕​​Tayan Khan​​オモ​​重​んぜられ、その​キンイン​​金印​​センコク​​錢穀︀​とを​ツカサド​​掌​りしが​ナイマン​​乃蠻​ ​ホロ​​滅​びたる時、​タタトンガ​​塔塔統阿​は、その​イン​​印​​イダ​​懷​​ノガ​​逃​れんとして​トラ​​擒​はれ、太祖︀に「​タヤン​​大陽​​ジンミン キヤウド​​人民 疆土​​コト​悉​​ワレ​​我​​キ​​歸​したるに、​ナンヂ​​汝​ ​イン​​印​​モ​​持​ちて​イヅ​​何​くにか​ユ​​往​く」と​ナジ​​詰​られ、「​コレ​​之​​マモ​​守​るは、​シン​​臣​​シヨク​​職​なり。​コシユ​​故主​​モト​​求​めて​コレ​​之​​サヅ​​授​けんと​ホツ​​欲​す」と云ひたれば、太祖︀は「​チウカウ​​忠孝​​ヒト​​人​なり」と​カン​​感​じて「この印は、​ナニ​​何​にか​モチ​​用​ふる」と​ト​​問​へり。​タタトンガ​​塔塔統阿​は「​センコク​​錢穀︀​​スヰナフ​​出納​し、​ジンザイ​​人材​​ニンヨウ​​任用​する​イツサイ​​一切​​コト​​事​に用ひて​シンケン​​信驗​とするなり」と​コタ​​對​へたり。太祖︀ ​ゲ​​實​にもとて、​コノヒト​​此人​​サイウ​​左右​​オ​​居​き、これよりすべて​ミコト​​勅​​ハツ​​發​するには、始めて​インシヤウ​​印章​を用ひ、​ヨツ​​仍​て此人に​メイ​​命​じて之を​ツカサド​​掌​らしめたり。又「​ナンヂ​​汝​は、​ホンゴク​​本國​​モンジ​​文字​​フカ​​深​​シ​​知​れりや」[5]​ト​​問​はれて、​シ​​知​れるだけを​コト​悉​​コタ​​對​へたれば、太祖︀の​ムネ​​旨​​カナ​​稱​ひ、​ツヒ​​遂​に命ぜられて​タイシ​​太子​ ​シヨワウ​​諸︀王​​ヲシ​​敎​へ、​ウイウモジ​​畏吾字​​モ​​以​​モウココトバ​​蒙古語​を書く事としたる​ヨシ​​由​ ​ミ​​見​ゆ。​ウイウル​​委兀兒​は、​タウ​​唐​​クワイコツ​​回紇​にて、​ネストルシウ​​捏思脫兒宗​​デンダウシ​​傳道師​​ケウケ​​敎化​​ウ​​受​けて、​ハヤ​​夙​くより文字を用ひたりしが、元の太祖︀ 四年に、​ウイウル​​委兀兒​ ​コクシユ​​國主​、蒙古に​クダ​​降​りてより、​ウイウル​​委兀兒​​メイシ​​名士​の蒙古に​ツカ​​事​へて​ブンシン​​文臣​となれる者︀ ​オホ​​多​く、​ウイウルモジ​​委兀兒字​​ツヒ​​遂​に蒙古の國書となれり。されば此書の文字は、もと​ウイウルモジ​​委兀兒字​なりけんこと​ウタガ​​疑​ひなく、之を書きたる人も​ケダシ​​蓋​ ​ウイウルジン​​委兀兒人​ならん。

 ​セイソ​​世祖︀​の時、​セイハン​​西蕃​​セイソウ​​聖僧︀​ ​パスパ​​八思巴​に命じて、​モウコ​​蒙古​ ​シンジ​​新字​を作らしめ、​テンガ​​天下​​ハンカウ​​頒行​したれども、その​シンジ​​新字​は、​フベン​​不便​なる文字にて、​アマネ​​遍​くは​オコナ​​行​はれざりし​ホド​​程​なれば、此書の​ゲンジ​​原字​​カ​​書​​アラタ​​改​むるには​イタ​​至​らざりしなるべし。​ノチ​​後​​ヒ​​引​ける​テイゲウ​​鄭曉​​キンゲン​​今言​​ブン​​文​​ヨ​​據​れば、此書の原字の​ウイウルモジ​​委兀兒字​​マヽ​​儘​なりしこと​ハナハ​​甚​​アキラ​​明​かなり。

 元史 ​チヤハン​​察罕​​Chahan​察罕 二人あり。一人は、卷の百二十なる西夏の人にて、この察罕に非ず。この察罕は、卷の百三十七なる西域 班勒紇の人なり。​デン​​傳​に「​ハクランキヤウキニシテ​博覽强記​​ツウジ​​通​​シヨコクノ​​諸︀國​​ジシヨニ​​字書​​シカジカ​​云云​​カツテ​​嘗​シテ​テイクワンセイエウヲ​​貞觀政要​​ケンズ​​獻​​テイ​​帝​仁宗)大、詔シテ​ゼンシヤシ​​繕寫​、徧​タマヒ​​賜​​サイウニ​​左右​​カツ​​且​シテセシム​テイハンヲ​​帝範​。又 ​メイジテ​​命​セシメ​トビチヤンヲ​​脫必赤顏​、名ケテ​イヒ​​曰​​セイブカイテンキト​​聖武開天記​​オヨブ​​及​​キネンサンエウ​​紀年纂要​​タイソウヘイキインシマツトウノ​​太宗平金始末等​​トモニ​​俱​​フス​​付​​シクワンニ​​史館︀​」とあり。​テイクワンセイエウ テイハン​​貞觀政要 帝範​を譯したるは、​カンブン​​漢︀文​​ウイウルモジ​​委兀兒字​ ​モウコブン​​蒙古文​に譯したるなり。​トビチヤン​​脫必赤顏​を譯したるは、委兀兒字 蒙古文を漢︀文に譯したるなり。この聖武 開天記は、卽ち今の皇元 聖武 親征錄なることは、後の親征錄の來歷の條に言ふべし。[6]

 又 ​グシフ​​虞集​の傳に、​メイソウ​​明宗​​メイ​​命​​ウ​​受​けて​ケイセイ タイテン​​經世 大典​​ヘンシウ​​編修​する時「​ヨリ​​以​​ルヰテウノコジ​​累朝故事​​アルニ​​有​​ザル​​未​​イマダ​者︀​コフ​​請​​モテ​​以​​カンリンコクシヰン​​翰林國史院​、修ムル​ソソウノ​​祖︀宗​​ジツロクヲ​​實錄​時、​ヒヤクシノソナヘタル​​百司所具​​ジセキヲ​​事蹟​​サンテイセント​​參訂​​カンリンヰンノシン​​翰林院臣​​マウシテ​言​​テイニ​​帝​​イハク​​曰​​ジツロクハ​​實錄​​ハフ​​法​​ザレバ​​不​フルヲ​ソトニ​​外​、則​ジセキ​​事蹟​​モ​​亦​​ズ​​不​​ベカラ​​當​​シメス​​示​。」又​コフ​​請​​モテ​​以​國書​トブチヤンヲ​​脫卜赤顏​セント太祖︀​イライノ​​以來​事蹟​シヨウシ​​承旨​​タシハイヤ​​塔失海︀牙​​イハク​​曰​​トブチヤンハ​​脫卜赤顏​​アラズ​​非​​ベキ​​可​​シム​​令​​グワイジンニ​​外人​​ツタヘ​​傳​者︀。」遂​ミナヤム​​皆已​」とあり。

 ​トビチヤン​​脫必赤顏​​トブチヤン​​脫卜赤顏​も、​ニウチヤ トブチヤン​​紐察 脫卜赤顏​​リヤクシヨウ​​略稱​にて、此書の原本に​シウセイ​​修正​​クハ​​加​へたる者︀なり。修正したりと云ふ理由は、後の修正 祕史の條に言ふべし。​シウセイ​​修正​をば​クハ​​加​へたれども、祕史は祕史として、​フカ​​深​​ナイフ​​內府​​ザウ​​藏​し、​グワイジン​​外人​​シメ​​示​さざりし​ユヱ​​故​に、​ヨ​​世​には​ヒロ​​廣​まらざりき。

 又 ​グシフ​​虞集​の傳に「​ハジメ​​初​​ブンソウ​​文宗​​イマシ​​在​​ジヤウトニ​​上都︀​​シ​​將​​マサニ​​タテヽ​​立​​ソノコ​​其子​​アラトナダラヲ​​阿剌忒納答剌​​セント​​爲​​クワウタイシト​​皇太子​​モテ​​以​​トホンテムル​​妥歡帖穆爾​​タイシノ​​太子​文宗の兄なる明宗の長子​メノトノオツト​​乳母夫​​イヘルヲ​​言​​メイソウ​​明宗​​イマシヽトキ​​在日​​モト​​素​​イヒキト​​謂​太子ズト其子、黜​カウナンニ​​江南​​エキシテ​驛​​メシ​​召​​カンリンガクシシヨウシ​​翰林學士承旨​​アリンテムル​​阿隣帖木兒​​ケイシヤウカクダイガクシ​​奎章閣大學士​​フドルドルミシヲ​​忽都︀魯篤彌實​​カキ​​書​其事​トブチヤンニ​​脫卜赤顏​、又​メシテ​​召​​シメ​​使​​カヽ​​書​​ハコクス​​播吿​中外」とあり。これは、​ブンソウ​​文宗​、その​アニ​​兄​ ​メイソウ​​明宗​​シイ​​弑​して​タ​​立​ちたる後、明宗の​チヤウシ​​長子​​シ​​誣​ひて、​バブシヤ クワウゴウ​​八不沙 皇后​​タニン​​他人​​ツウ​​通​じて​ウ​​生​みたる​コ​​子​なりと云ひ、その事を祕史に書かしめたるなり。又 ​マヘ​​前​​チヤハン​​察罕​​デン​​傳​の文を​ミ​​見​るに、​キネン サンエウ​​紀年 纂要​​タイソウ ヘイキン シマツ トウ​​太宗 平金 始末 等​の書とあるも、​トブチヤン​​脫卜赤顏​を譯して成れる​オモムキ​​趣​​キコ​​聞​ゆ。​ソレラ​​其等​​ヨ​​依​りて​オモ​​思​へば、祕史の書は、太祖︀ 太宗の事を​シル​​錄​したる者︀のみならず、その後の​レキテウ​​歷朝​の事を​シル​​錄​したる者︀もありしならんが、​ソレラ​​其等​の書[7]は、​ノチ​​後​​ヨ​​世​には​ツタ​​傳​はらずして、その​ダンカン ザンペン​​斷簡 殘編​を見たる人ありし事をも​キ​​聞​かず。

 ​ミン​​明​​タイソ​​太祖︀​​コウブ​​洪武​ 二年 三年、​ソウレン​​宋濂​ ​ワウヰ​​王褘​ ​ラ​​等​が、​ミコト​​勅​​カウム​​蒙​りて元史を​ヲサ​​修​むる時には、「​キンキノシヨ​​金匱之書​、悉​ヒフ​​祕府​」とありて、​ゲンダイ​​元代​には「​ハフ​​法​​ズ​​不​​エ​​得​フルヲ​ソト​​外​」と云へる十三朝の實錄も、​ミナ​​皆​ ​ペキン​​北京​​ヒフ​​祕府​より​ナンキン​​南京​の祕府に​ウツ​​移​りたれば、原本 祕史も修正 祕史も​レキテウ ゾクシウ​​歷朝 續修​の祕史も、皆 ​ミンジン​​明人​​テ​​手​​ワタ​​渡​りしならん。されども​タウジ​​當時​​シシン​​史臣​は、​ウイウルモジ​​委兀兒字​​モウココトバ​​蒙古語​​カイ​​解​する者︀なきが​ユヱ​​故​に、​シウシ​​修史​​アヒダ​​際​、蒙古文の書を​サンカウ​​參考​に用ふること​アタ​​能​はざりき。今 ​タイソ ホンギ​​太祖︀ 本紀​​タイテイ​​大抵​ ​チヤハン​​察罕​の譯したる​セイブ カイテンキ​​聖武 開天記​ 卽ち今の​セイブ シンセイロク​​聖武 親征錄​​ア​​合​へるは、​タヾチ​​直​に開天記に​モト​​本​づきたるにも​ヨ​​由​り、又 ​セイソウ​​成宗​​タイトク​​大德​ 七年に​カンリン コクシヰン​​翰林 國史院​​ソウシン​​奏進​せる太祖︀ 實錄は、​スデ​​旣​に修正 祕史に本づき、開天記に​オホイ​​大​​コト​​異​ならずして、元史はその實錄に本づきたるにも由れるなり。

 此書は、原本の蒙古文を​ゲンオン​​原音​のまゝに​カラモジ​​漢︀字​にて​オンヤク​​音譯​し、​ホンブン​​本文​​ミギガハ​​右側​​モウココトバ​​蒙古語​​ヒトコトバ​​一語​ごとに​カラモジ​​漢︀字​にて​ゾクゴ​​俗語​に譯し、​イチダン イツセツ​​一段 一節︀​​ヲハ​​終​りに、又は​ダンラク​​段落​​キ​​切​れざる​トコロ​​處​にても、​ブンシヤウ​​文章​​ナガス​​長過​ぐる​トコロ​​處​​ホドヨ​​程善​​キ​​切​りて、本文の​タイイ​​大意​を漢︀字にて​ゾクブン​​俗文​に譯し、本文よりは三字ほど​サ​​下​げて​シル​​錄​せり。​ユヱ​​故​にこの​ヤクホン​​譯本​は、​ウイウルモジ​​委兀兒字​​カンジ オンヤク​​漢︀字 音譯​​モウココトバ​​蒙古語​​カンジ ゾクゴヤク​​漢︀字 俗語譯​​モウコブン​​蒙古文​​カンジ ゾクブンヤク​​漢︀字 俗文譯​​サンヤウ​​三樣​の譯を​ソナ​​備​へたる​メヅラ​​珍​しき​ホン​​本​なり。今の寫本は、​ゼンブ​​全部​ 十二卷を​ロクサツ​​六册​[8]​サウテイ​​裝釘​し、​セイシフ​​正集​ 十卷は五册、​ゾクシフ​​續集​ 二卷は一册となれり。

 この​ホンヤク​​飜譯​は、明の太祖︀の​シクワン​​史官​にて蒙古語に​ツウ​​通​じたる者︀の手に成り、​ゲンテウ ヒシ​​元朝 祕史​​ナ​​名​も、その時に​アタ​​與​へられたるなり。明の​テイゲウ​​鄭曉​​キンゲン​​今言​ 卷の四に、鄭曉の吾學編 四夷考 上の卷にも同文あり。​コウブ​​洪武​十五年、​メイジテ​​命​​カンリンジカウ​​翰林侍講​​クワゲンケツ​​火原潔​​ラニ​​等​​ヘンルヰ​​編類︀​​クワイエキゴ​​華夷譯語​​カミ​​上​​モテ​​以​​ゼンゲン​​前元​​モト​​素​​ナク​​無​文字、發スニ​タヾ​​但​​カリ​​借​​カウシヤウシヨ​​高昌書​​セイ​​製​シテ蒙古字、行ヒシヲ天下、乃​ゲンケツ​​原潔​​トモ​​與​​ヘンシウ​​編修​​マイチク​​馬懿赤黑​​ラト​​等​、以​クワゲン​​華言​セシム其語​スベテ​​凡​​テンモンチリ​​天文地理​​ジンジブツルヰ​​人事物類︀​​フクシヨクキヨウ​​服食器︀用​​ナシ​​靡​​ザルハ​​不​​ノセ​​載​​マタ​​復​​シム​​令​​トリテ​​取​祕史、以​セツ​​切​​ソノジ​​其字​​カナヘ​​諧​​ソノ​​其​​セイイン​​聲音​​スデニ​​旣​​ナリ​​成​、詔シテ​カンプ​​刊布​​ヨリ​​自​​コレ​​是​​シシン​​使臣​​ワウライ​​往來​​サクバク​​朔漠​​ミナ​​皆​​ヨク​​能​​エタリ​​得​其情」とあり。​コエンブ​​顧炎武​​ニツチロクノヨ​​日知錄之餘​ 卷の四を​チヤウボク​​張穆​​ヒ​​引​きたるには、「​コウブ​​洪武​十五年​シヤウグワツ​​正月​​ヒノエイヌ​​丙戌​」とあり、又 ​マイチク​​馬懿赤黑​​Maichikh​は、​マシヤイク​​馬沙亦黑​​Mashaikh​とあり、その​ホカ​​他​​タイテイ​​大抵​ ​オナ​​同​じ。​ロシア​​露西亞​​ソウジヤウ​​僧︀正​ ​パラヂウス​​帕剌的兀思​​Palladius​は、洪武 實錄に此事 見ゆと云へり。明の太祖︀の實錄は、​ワガハイ​​我輩​いまだ​エツドク​​閱讀​​キクワイ​​機會​​エ​​得​ず。​カウシヤウ​​高昌​は、​ウイウル​​委兀兒​​チ​​地​​フル​​古​​ナ​​名​なり。​カリ​​借​高昌書​セイ​​製​蒙古字とは、​ウイウルモジ​​委兀兒字​​カ​​借​りて​ヤヽ​​稍​ ​ゾウソン​​增損​して​モウコモジ​​蒙古字​としたるを云ふ。​ベツ​​別​に蒙古字を作りたるには​アラ​​非​ず。故に元史には​ウイウモジ​​畏吾字​と云ひて蒙古字と云はず、又その​ウイウモジ​​畏吾字​​タヾチ​​直​に國書とも云へるは、畏吾字は卽ち蒙古字なればなり。

 ​トリテ​​取​祕史、以​セツ​​切​其字​カナフ​​諧​其聲音とは、祕史の蒙古字の​インヰン​​音韻​​ブンセキ​​分析​し、漢︀字を​ア​​當​てて​ヨ​​善​​カナ​​諧​はしむるを云ふ。​ケダシ​​蓋​ ​クワイ エキゴ​​華夷 譯語​の書は、蒙古語の​オン​​音​​ギ​​義​も漢︀字を以て譯するが故に、その​ザイレウ​​材料​[9]を祕史より​ト​​取​らんが​タメ​​爲​に、​マ​​先​づ祕史を音譯 語譯 文譯したるなり。その​モクテキ​​目的​は、蒙古の​シ​​史​​カンガ​​考​ふるに​ア​​在​らずして、蒙古の​コトバ​​語​​カンガ​​考​ふるに​ア​​在​りき。原文に人の名 ​トコロ​​地​の名 ​ブラク​​部落​の名などあまた​カサ​​重​なれる處を、譯文には​タヾ​​只​その一つを​ア​​擧​げて、その他は​タヾ​​只​​ラ​​等​」の​ジ​​字​ 又は​イクニン​​幾人​ ​イクブラク​​幾部落​などの語を用ひて​ハブ​​略​きたること​オホ​​多​きは、これが​タメ​​爲​なり。

 語譯 文譯の​ウチ​​中​に、音譯の​モンゴル​​忙豁勒​​Monghol​蒙古​タタ​​達達​と、​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​Sartaul​中亞細亞の莫哈篾惕 敎徒​フイフイ​​囘囘​と、​チユンド​​中都︀​​Chungdu​〈[#左ルビの「Chungdu」は底本では「Chuugdu」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉金の中都︀ 今の北京​ホクヘイ​​北平​と、​ペキン​​北京​​Peking​金の北京、今の喀剌沁 右翼​タイネイ​​大寧​と、​ナンキン​​南京​​Namking​金の南京、今の河南 開封府​ベンリヤウ​​汴梁​と譯したるが​ゴト​​如​きは、明人の譯なることを​サツ​​察​するに​アマ​​餘​りあり。​コト​​殊​​キン​​金​​チウト​​中都︀​なる今の​ペキン​​北京​​ホクヘイ​​北平​と云ひたるは、​ミン​​明​​セイソ​​成祖︀​​セント​​遷都︀​​マヘ​​前​​カギ​​限​れる名なれば、この譯本は、洪武の史官の手に成れること​ウタガ​​疑​ひなし。又 音譯の中にも、二人なる​カルカイ カツサル​​阿兒孩 合撒兒​​Arkhai Khassar​​バラ​​巴剌​​Bala​とを一人の​アルカイ カツサル バラ​​阿兒孩 合撒兒 巴剌​とし、​ネウダイ​​捏兀歹​​Neudai​ ​ブ​​部​​チヤカアン ウワ​​察合安 兀洼​​Chakhaan uwa​​アル​​或​​ネウダイ​​捏兀歹​​チヤカン ウワ​​察合安 兀洼​と二人とし、​アル​​或​​ネウダイ チヤカアン ウア​​捏兀歹 察合安 兀阿​と云ふ一人の名とし、​タタル​​塔塔兒​​Tatar​部名​アルチ タタル​​阿勒赤 塔塔兒​​Alchi Tatar​塔塔兒の分部の名​ヂヤリンブカ​​札鄰不合​​Jalinbukha​​タタル​​塔塔兒​​アルチ​​阿勒赤​​タタル​​塔塔兒​​ヂヤリンブカ​​札鄰不合​と二人とし、​オンギラト​​翁吉喇惕​​Onghirat​​デルゲク エメル​​迭兒格克 額篾勒​​Dergek-emel​​デルゲク​​迭兒格克​​エメル​​額篾勒​と二人とし、​ナイマン​​乃蠻​​Naiman​部名​グチユウト ナイマン​​古出兀惕 乃蠻​​Guchunt Naiman​乃蠻の分部の名​ブイルク カン​​不亦嚕黑 罕​​Buirukh Khan​​ナイマン​​乃蠻​​グチユウト​​古出兀惕​​ナイマン​​乃蠻​​ブイルク カン​​不亦嚕黑 罕​と二人とし、​サイイキ​​西域​​カンメリク​​罕篾力克​​Khanmelik​と云ふ人を、音譯には​カン​​罕​​メリク​​篾力克​とを​ハナ​​離​して書き、​カン​​罕​[10]なる​メリク​​篾力克​とし、語譯には​クワウテイ​​皇帝​ ​メリク​​篾力克​、文譯には​メリクワウ​​篾力克王​としたるが如き處 ​ハナハ​​甚​​オホ​​多​し。​コレラ​​此等​は、​トシヒトシヤウグン​​利仁將軍​ ​タムラマロ​​田村丸​を一人と​オモ​​思​ひ、​タハラ トウダ​​田原 藤太​ ​フヂハラノ ヒデサト​​藤原 秀鄕​を二人と思ひ、​サンノミヤウヂ​​三宮氏​​クワウゾク​​皇族​​アヤマ​​誤​れるの​タグヒ​​類︀​にて、​ゲンダイ​​元代​の人ならば、かゝる​アヤマ​​誤​りある​ハズ​​筈​なけれども、蒙古の​コシ​​古史​​クラ​​暗​き明人なればこそ、​コレラ​​是等​​ヨミアヤマ​​讀誤​りも​ア​​有​りしなれ。​シカ​​然​るに​コクワウキ​​顧廣圻​の祕史の​バツ​​跋​に、​ザンゲンザンボン​​殘元槧本​​ウツセル​​影​​ゲンザン​​元槧​​キウセウホン​​舊鈔本​など云ひ、​リブンデン​​李文田​​ヒシ​​祕史​​チウ​​注​にも、​ザンゲンザンボン​​殘元槧本​​ゲンザンソクホン​​元槧足本​など云ひ、又「​ゲンダイ​​元代​​ツクリ​​撰​​ヲヘテ​​訖​、殆一刻、故兩本互」と云へるは、​ザウシヨカ​​藏書家​​イヒツタ​​言傳​へたるままに、この譯本を​ゲンダイ​​元代​​モノ​​物​​シン​​信​じたるにて、この​シヨニン​​諸︀人​は、此書の​ナイヨウ​​內容​​ヨ​​善​くも​カンガ​​考​へざりしと見ゆ。​タヾ​​唯​ ​カシウタウ​​何秋濤​は、​ハヤ​​夙​​コヽロヅ​​心附​きて「祕史​ケダシ​​蓋​​カヽル​​係​明朝初年所譯。故シテ​エンケイ​​燕京​​イヒ​​曰​​ホクヘイ​​北平​​ハクシウ​​博州​​イフ​​曰​​トウシヤウ​​東昌​」と云へり。

 明の​エイラク​​永樂​ ​ネンチウ​​年中​​エイラク タイテン​​永樂 大典​を作り、​ココン​​古今​​グンセキ​​羣籍​​マウラ​​網羅​して、​ヰン​​韻​​ヨ​​依​​ハイサン​​排纂​したる時、元朝祕史も、その​エラビ​​選​​モ​​漏​れず、その十二​セン​​先​​ゲンジヰン​​元字韻​の中に​ヲサ​​收​められたり。​タヾシ​​但​その本は​ゼンブ​​全部​ 十五卷にして、續集の​ナ​​目​なく、今本と​ブンクワン​​分卷​ ​オナ​​同​じからず。此書の​カミカズ​​紙數​ ​スコブ​​頗​る多きが故に、​シウロク​​收錄​​トキ​​際​​ナニ​​何​かの​ツガフ​​都︀合​にて​ブンカツ​​分割​したるなるべし。明の​クワウグシヨク​​黃虞稷​​センケイダウ シヨモク​​千頃堂 書目​に元朝 祕史 十二卷を​チヨロク​​著︀錄​し、明の​ブンエンカク シヨモク​​文淵閣 書目​​ウジガウ​​宇字號​に「元祕史一部五册、又一部同、」又「祕史​ゾクカウ​​續稿​一部一册、又一部同」とあるは、​コウブ ザンコク​​洪武 槧刻​の原本にて、今の​シヤホン​​寫本​[11]​ホンシヨ​​本書​なり。​シカ​​然​るに​ゲンゲン​​阮元​​シコ ビシウ シヨモク テイエウ​​四庫 未收 書目 提要​に、​センケイダウ​​千頃堂​ ​ブンエンカク​​文淵閣​の祕史を「​ミナケツイツノホンナリ​竝闕佚之本​」と云へるは、その時只 十五卷本のみを見て、​イマダ​​未​ 六册 十二卷の​キウホン​​舊本​を見ざりし故なるべし。

 ​シン​​淸​​ソンシヨウタク​​孫承澤​​アラハ​​著︀​せる​ゲンテウ テンコ ヘンネンカウ​​元朝 典故 編年考​​ダイククワン​​第九卷​に祕史の譯文を​ノ​​載​せて、その​セウジヨ​​小序​に「元祕史十卷、續祕史二卷。前卷​ノセ​​載​​サバクシキノコト​​沙漠始起之事​、續卷​ノス​​載​​クダシ​​下​燕京ボセル​コト​​事​​ケダシ​​蓋​​ソノクニビトノ​​其國人​​モノナリ​所​編記セル。書シテ禁中明の文淵閣​ズ​​不​、偶​コカ​​故家​​ミタリ​​見​​ロク​​錄​シテ​ツヾケ​​續​​クワンマツ​​卷末​、以補_​ザル​​不​​ノセ​​載​​シカジカ​​云云​」と云へるを、​シコ ゼンシヨ テイエウ​​四庫 全書 提要​​ヒヤウ​​評​して「考ルニ​ソノ​​其​​ヒケルヲ​​所引​​ミナ​​竝​​ノス​​載​永樂大典元字韻中。互​アヒ​​相​​ケンカン​​檢勘​スルニ、一一​アヒ​​相​​オナジ​​同​。疑ハクハ​モト​​本​祕册ナラン。明初修ムル者︀、或​カツテ​​嘗​​ロク​​錄​シテ​フクヲ​​副​​イダシ​​出​​リウデン​​流傳​シテ​アリ​​在​​ホカニ​​外​、故​シヨウタク​​承澤​​エテ​​得​​ミタル​​見​​ノミ​​耳​​シルセルハ​​所記​​オホカタ​​大都︀​​サセツ​​瑣屑​​サイジ​​細事​​カツ​​且​​マヽ​​閒​​ワタル​​涉​​クワウタン​​荒誕​​ケダシ​​蓋​​デンブンノコトバ​​傳聞之辭​​テンテン​​輾轉​シテ​ヲ​​眞​​ズ​​未​​タラ​​足​クハ​スルニ​​爲​_。然レドモ​ツヒニ​​究​​ゾク​​屬​元代舊文、世​モノナリ​所​ナル​ミル​​覩​​ヨリ​​自​永樂大典​ホカニハ​​以外​​タヾ​​惟​​ミユ​​見​於此書​トハ​​與​​セイシ​​正史​​アリ​​有​​イドウ​​異同​、存セバ​マタ​​亦​​タレリ​​足​以資クルニ​サンテイ​​參訂​也」と云ひ、又 ​モウコ ゲンリウ​​蒙古 源流​​ヒヤウ​​評​に「​ト​​與​元朝祕史​タイレイ​​體例​​アヒ​​相​​チカシ​​近​」と云へり。祕史を以て​デンブン​​傳聞​​コトバ​​辭​とし、​ワヅカ​​僅​​モウコ ゲンリウ​​蒙古 源流​​タクラ​​比​ぶるがごときは、​ケンリウ​​乾隆︀​の史臣も​イマダ​​未​ 祕史の​シンカ​​眞價​​シ​​知​らざりしを見るべし。

 ​ヒトリ​​獨​ ​カテイ​​嘉定​​センタイキン​​錢大昕​は、永樂 大典の中より祕史を​ウツ​​寫​​ト​​取​りて、その​ジヨジ​​敍次​ ​スコブ​​頗​​ジツ​​實​​エ​​得​たるを​ヨロコ​​喜​び、​バツ​​跋​を作りて、元史の太祖︀ 本紀の​クワウビウ​​荒謬​​シテキ​​指摘​し、「​キ​​紀​​シルセルハ​​所書​​テンタウフクタフ​​傎倒複沓​​ミナ​​皆​​ズ​​不​​タラ​​足​​ヨルニ​​據​​ロンジ​​論次​スル太祖︀太宗兩朝事蹟者︀​ソレ​​其​​オイテ​​於​此書​サダメン​​折​​ソノ​​其​​チウ​​衷​​カ​​與​」と云へり。その後 元史 ​カウイ​​考異​[12]元史 ​シゾクヘウ​​氏族表​を作るに、頗るその書を參考せり。

 又 ​センタイキン​​錢大昕​は、大典本の祕史を得たる後、​サラ​​更​に十二卷の舊本あるを​キ​​聞​き、その大典本に​マサ​​勝​れる​シンボン​​眞本​なることを​サト​​悟​りたりと見え、​ゲンクワ​​元和​​コクワウキ​​顧廣圻​の祕史の跋に「元朝祕史​ノス​​載​永樂大典中​センチクテイ​​錢竹汀​​セウセン​​少詹​​イヘニモテルハ​​家所有​、卽​ヨリ​​從​​コレ​​之​​イヅ​​出​​スベテシユビ​​凡首尾​十五卷ナリ​ノチ​​後​​セウセン​​少詹​​キヽ​​聞​​トウキヤウ​​桐鄕​​キンシユジトクヨ​​金主事德輿​​アリ​​有​殘元槧本、分卷​ズト​​不​カラ​タノミ​​囑​​カレニ​​彼​​シルシイダス​​記出​​ヨリテ​​據​​チヨ​​著︀​​ロクセル​​錄​於其元史​ゲイブンシ​​藝文志​​モノコレナリ​​者︀是也​」とあり。その​ゲイブンシ シルヰ​​藝文志 史類︀​の第四​ザツシルヰ​​雜史類︀​に、元祕史 十卷 續祕史 二卷を​ア​​擧​げて「​ズ​​不​著︀​センジンヲ​​撰人​​シルス​​記​太祖︀初メテ​オコリ​​起​​マタ​​及​太宗滅ボセル​ミナ​​皆​​コクゴハウヤクナリ​國語旁譯​。疑ハクハ​トビチヤン​​脫必赤顏​​ナリ​​也​」と云へり。​コクゴ ハウヤク​​國語 旁譯​とは、本文は蒙古語の漢︀字 音譯にて、​ウハウ​​右旁​に漢︀字 語譯あるを云ふ。音譯 語譯のみを云ひて、文譯を云はざるは、本文を​シユ​​主​として、譯文に​オモ​​重​きを​オ​​置​かず、且 譯文の事をも旁譯の字に​コ​​込​めたるなるべし。

 ​ゲンゲン​​阮元​​シコ ビシウ シヨモク テイエウ​​四庫 未收 書目 提要​​イハ​​曰​く「元祕史十五卷、​ズ​​不​著︀​センジンノメイシ​​撰人名氏​​ソノ​​其​​シルスニ​​紀​​トシヲ​​年​、以テシ​ソジトジヤウジナド​​鼠兒兔兒羊兒等​​ズ​​不​テセ​カンシ​​干支​​ケダシ​​蓋​國人​シルセルナリ​所錄​云云。​コレハ​​此​​ヨリ​​依​​キウセウニ​​舊鈔​​エイシヤシ​​影寫​、國語旁譯ナリ​シルシ​​記​太祖︀太宗兩朝​ジセキ​​事跡​​モトモ​​最​​タリ​​爲​​シヤウビ​​詳備​。案ズルニ、明​ソウレン​​宋濂​​ラ​​等​​シウ​​修​​センシ​​撰​元史​キフナリ​急​​ツグルニ​​蕆​​サイセキ​​載籍​ドモスレ​ナシ​​無​​イトマ​​暇​​ケイキウ​​稽求​スル。如キハ​コノヘン​​是編​​ノセタル​​所載​​ゲンシヨノセイケイ​​元初世系​​ボドンチヤル​​孛端叉兒​​ノマエ​​之前​​ナホ​​尙​​アリ​​有​一十一世。太祖︀本紀、述ルニ​ソノセンセイ​​其先世​、僅​ヨリ​​從​​ボドンチヤル​​孛端叉兒​マル。諸︀​ゴトキ​​如​​カクノ​​此​​タグヒ​​類︀​​ミナ​​竝​​タル​​足​フニ​セイシノヒロウ​​正史之紕漏​。雖ドモ​シゴリヒニシテ​詞語俚鄙​​ザレ​​未​​ヘ​​經​​シウシヨク​​修飾​、然レドモ​アリ​​有​クル​カウシヨウ​​考證​​マタ​​亦​​ヨム​​讀​​シ​​史​者︀​モノ​​所​​ザル​​不​​ハイセ​​廢​​ナリ​​也​。」十五卷[13]と云へば、大典本の如くなれども、​キウセウ​​舊鈔​に依り​エイシヤ​​影寫​すと云ひて、大典より​ト​​取​れりと云はざれば、大典の外にも十五卷の舊鈔本ありしならん。もし​フル​​古​くよりさる本ありしならば、大典は​カヘツ​​却​てその本を​ヲサ​​收​めたるならんか。

 阮元は、太祖︀の先世の事を​ウン​云云​すれども、​ジツ​​實​​ボドンチヤル​​孛端察兒​​Bodonchar​ ​イゼン​​以前​の事は​ト​​取​るに足らず。その​イゴ​​以後​なる祕史の​ジヨジ​​敍事​は、​コト​​事​ごとに皆 元史の​ヒロウ​​紕漏​​オギナ​​補​ふに足れり。然るに其等の諸︀大事を​ナニ​​何​も言はずして、​イチレイ​​一例​とは云ひながら、​ボドンチヤル​​孛端察兒​ 以前の事のみを云へるは、只 祕史の​クワンシユ​​卷首​ 三四​エフ​​葉​を讀みたるのみに非ずやと​ウタガ​​疑​はるる​ホド​​程​なり。​コヽ​​是​​オイ​​於​​ワレ​​余​​マス​益​ 錢大昕の​ケイガン​​烱眼​​カンプク​​感服​せり。

 ​コクワウキ​​顧廣圻​の祕史の跋の​ツヾ​​續​きに曰く「​ザンポンハ​​殘本​​キンシユジ​​金主事​​カツテ​​嘗​ヘテレリ​ゴモン​​吳門​​ワレハジメニマヅ​​予首先​​ミタリ​​見​​ソツシテ​率率​​ザリキ​​未​​エ​​得​寫錄スルヲ。近ゴロ​マタ​​復​​ズ​​不​​シラ​​知​​キシタルヲ​​歸​、頗セリ​キヨネン​​去年​​オシ​​授​​ト​​徒​​ロシウフ​​廬州府​​シンカウ​​晉江​​チヤウタイシユ​​張太守​​モト​​許​​ミタリ​​見​​ヲサメタル​​所收​​エイゲンザンノキウセウホン​​影元槧舊鈔本​​ツウタイクワンゼンナルヲ​​通體完善​​コンネン​​今年​、至​ヤウシウ​​揚州​、遂​スヽ​​慫​​メテ​​慂​​コヨセンセイ​​古餘先生​​カリキテ​​借來​​フク​​覆​​エイセリ​​影​​イチブヲ​​壹部​​ヨツテ​​仍​​ラレテ​​見​​カウカン​​校勘​。乃​シレリ​​知​ナル​センセウセンノホン​​錢少詹本​​ハ​​者︀​​ザルヲ​​不​​タヾ​​特​テル元朝祕史十卷、續集二卷一事ノミナラ也。卽キハ​シユクワン​​首卷​​ヘウダイノシタ​​標題下​​ブンチウ​​分注​​ニギヤウ​​二行​​ミギ​​右​​モンゴルンニウチヤ​​忙豁侖紐察​五字、​ヒダリ​​左​​トチヤアン​​脫察安​三字、必​コレ​​是​​シルセル​​所署︀​​センシヨジンノメイカンナリ​撰書人名銜​。而シテ少詹本ニハ​ナシ​​無​之。​ベシ​​當​​ヨリテ​​依​​コレニ​​此​​ソノ​​其​​ホカ​​餘​​ジク​​字句​​カウダン​​行段​​マタ​​亦​​ワウ​往往​​ヤヽマサレリ​​較勝​​ベシ​​可​​イフ​​稱​​カホン​​佳本​矣。​カウカン​​校勘​、記コト​ソノテンマツ​​其顚末​​ゴト​​若​キハ​カノ​​夫​​ユヱン​​所​​ノ​​以​​タヾス​​訂​​ミンシウ​​明修​​ゲンシノソリヤク​​元史之疏略​、少詹​ダイバツマタカウイノウチ​​題跋洎考異中​​ミ​​見​​ソノタイガイ​​其大槩​​ヒイテ​​引​​ノバスハ​​伸​​タヾ​​唯​​ゼンドクノクンシナリ​善讀之君子​​コヽニ​​茲​​ズト​​不​​シヤウロン​​詳論​​イフ​​云​。」この跋は、卽ち今本の[14]跋にして、便宜の爲に、今の寫本にては、その篇首に弁せり。今本の來歷を述べたる者︀なれば、今本は、卽ち​コクワウキ​​顧廣圻​​カウカンボン​​校勘本​なり。書の名を​センジン​​撰人​の名と誤れるは、蒙古語を解せざる人に​ヤ​​已​むを​エ​​得​ざる事として、この​クワンゼン​​完善​なる古史を世に傳へたる​コウ​​功​​ボツ​​沒​すべからず。

 ​ダウクワウチウ​​道光中​​ヘイテイ​​平定​​チヤウボク​​張穆​は、祕史の譯文を大典より​ウツ​​寫​​イダ​​出​し、​ジンクワ​​仁和​​カンシ​​韓氏​より​エイセウ ゲンポン​​影鈔 原本​阮元の十五卷本かを借りて​カウタイ​​校對​し、​レンキンイ​​連筠簃​ ​ソウシヨ​​叢書​​イ​​入​れて​シユツパン​​出板​し、​クワウチヨ​​光緖​ 二十年、明治 二十七年、​シヤンハイ​​上海︀​​フクコ シヨキヨク​​復古 書局​にて復その本を​セキイン​​石印​​フ​​附​し、​チヤウシユン シンジン​​長春 眞人​​セイイウキ​​西遊記​​チヤウボク​​張穆​​モウコ イウボクキ​​蒙古 遊牧記​​イツチツ​​一帙​​シユシホン​​縮本​として​ウ​​賣​​イダ​​出​したれば、十五卷本の譯文は​エヤス​​得易​くなりたれども、​コシ​​顧氏​​カウカン ゼンポン​​校勘 全本​は、​マス​益​ ​キケン​​希見​​チンシヨ​​珍書​となり、​テンテン​​輾轉​して​コクシ サイシユ ソウシツ​​國子 祭酒 宗室​ ​セイイク​​盛昱​​ザウ​​藏​​キ​​歸​せり。​クワウチヨ​​光緖​ 十一年、明治 十八年、​カンリン ガクシ​​翰林 學士​ ​ヘイキヤウ​​萍鄕​​ブンテイシキ​​文廷式​は、​セイイク​​盛昱​の本を借りて、​ジユントク​​順德​​リジラウ​​李侍郞​ ​ブンデン​​文田​​オノ​各​一部を寫せり。​ブンテイシキ​​文廷式​​ジヨ​​序​に「於​カイダイ​​海︀內​メテ​アリ​​有​三部」と云へり。​コレ​​是​より​サキ​​先​​リブンデン​​李文田​は、祕史に​チウ​​注​せんとし、​レンキンイボン​​連筠簃本​を以て​シユ​​主​となし、​ヤウジヤウ​​陽城​​チヤウトンジン​​張敦仁​の本を參考に用ひたり。​チヤウホン​​張本​は「​ヨリ​​從​​ゲンザンソクホン​​元槧足本​​ウツシイダシ​​影出​、作十卷、又續二卷」と云ひ、​ダイモク​​題目​​シタ​​下​​モンゴルン ニウチヤ トチヤアン​​忙豁侖 紐察 脫察安​なる​ケフチウ​​夾注​ありし​ヨシ​​由​なれば、これも​コホン​​顧本​の寫しなるべし。李氏は、初に張本を借り用ひ、後に盛昱本を寫し取れるなるべし。李氏の注 成れる​コロ​​頃​は、盛昱本の寫しも​ザイウ​​坐右​にある​ハズ​​筈​なれども、今その注を見るに、蒙古文より​ヒエキ​​裨益​を得たりと​オボ​​覺​しき​トコロ​​所​なし。[15]

 明治 三十二年、文廷式の​ライイウ​​來遊​せし時、​カヅノ​​鹿角​​ナイトウ コナン​​內藤 湖南​、東京に居りて、廷式の​カヘ​​歸​りたらん後に蒙古文 祕史を寫し​ヨ​​寄​せられんことを​モト​​求​め、​ワレ​​余​​マタ​​亦​ ​シキリ​​切​​ノゾ​​望​みたりしかば、廷式 ​カヘ​​歸​りて​マ​​閒​もなく​ケンヒ​​拳匪​​ラン​​亂​ ​オコ​​起​り、​インシン​​音信​ ​ヒサ​​久​しく​タ​​絕​えたれども、三十四年の​スヱ​​末​に至り、​ホウゼン​​裒然​たる六大册の寫本を人に​タク​​托​して​オホサカ​​大阪​なる​コナン​​湖南​​モト​​許​​トヾ​​屆​けたり。湖南は、​タヾチ​​直​​セウシヨ​​鈔胥​​ヤト​​傭​ひて、一部を影寫し、東京に​オク​​送​りこしたるは、今 高等 師範 學校の藏となれり。その後 ​ワセダ ダイガク​​早稻田 大學​も、一部を影寫して、その​トシヨクワン​​圖書館︀​​ソナ​​備​へたり。​コヽ​​是​に於て​ワ​​我​​カイダイ​​海︀內​にも、亦 始めて三部ある事となれり。

 かくて この全本は、​セカイ​​世界​に六部 ​カギ​​限​りかと云へば、さに非ず。​ナホ​​猶​ ​ホカ​​外​に一部あり。その一部は、​ハルカ​​遙​​エンパウ​​遠方​​ア​​在​り。その一部は、​ニツポン​​日本​ ​シナ​​支那​にあるよりも​ハルカ​​遙​​オホイ​​大​なる​ヒエキ​​裨益​​セカイ​​世界​​シガク​​史學​​アタ​​與​へつつあり。​ソ​​其​は、​ロシア​​露西亞​​パラヂウスボン​​帕剌的兀思本​なり。

 ​ソウジヤウ​​僧︀正​ ​パラヂウス​​帕剌的兀思​​Palladius​は、​シナ​​支那​​ケイシ​​京師​に居りて、​ハジメ​​初​​レンキンイ​​連筠簃​ ​ソウシヨ​​叢書​よリ元朝 祕史を得て、露西亞文に飜譯し、譯者︀の​ジヨロン​​序論​​チウシヤク​​注釋​​チンギス カン​​成吉思 汗​​イヘ​​家​​ケイヅ​​系圖​とを​クハ​​加​へて、「​チンギス カン​​成吉思 汗​​フル​​古​​モウコ モノガタリ​​蒙古 物語​」と​ダイ​​題​し、​セイキ​​西紀​ 一八六六年、同治 五年、慶應 二年、​ペキン​​北京​なる露西亞の​デンダウ シメイ​​傳道 使命​​ハウコク​​報吿​」の第四卷に載せて​シユツパン​​出板​せり。その後 一八七二年、同治 十一年、明治 五年、蒙古文を漢︀字にて音譯せる十五卷の​ミンザン​​明槧​の寫本を​タマ​偶​ 得て、​カツ​​嘗​て譯せる漢︀文の本は、この蒙古文の​テキヤク​​摘譯​なることを知れり。十五[16]卷の明槧の寫本と云へば、阮元の「依舊鈔影寫」と云へる者︀と同本なるべし。その本は、​ヘウダイ​​標題​​ナ​​無​く、​ゴジ​​誤字​ ​ダツジ​​脫字​ ​オホ​​多​しと云へば、十二卷の今本に​オト​​劣​れりと見ゆ。されども​パラヂウス​​帕剌的兀思​は、漢︀字と蒙古語とを知れる人には、この本を蒙古字の原文に​カヘ​​復​すこと​カタ​​難︀​からずと云へり。又 ​シンジン​​淸人​は、十二卷本を元槧と名づけ、錢大昕すら原本 譯本の​ベツ​​別​​コン​​混​じ、卽ち​トビチヤン​​脫必赤顏​なるかと疑ひて、元の藝文志に入れたる程なるに、​ヒトリ​​獨​ ​パラヂウス​​帕剌的兀思​は、​イチハヤ​​逸︀速​く明譯 明槧と​ミサダ​​見定​めたり。「蒙古史を​ケンキウ​​硏究​する人に大なる​ヒエキ​​裨益​​アタ​​與​ふる古代 蒙古文のこの​チンシヨ​​珍書​」は、今 ​ペテルブルグ ダイガク​​珀帖兒不兒古 大學​​トシヨクワン​​圖書館︀​​ザウシヨ​​藏書​となれり。蒙古 語學に​ジユクタツ​​熟達​せる​ケウジユ​​敎授​ ​ポズネエフ​​頗自捏也富​​Pozdneyeff​は、その書の​ゲンケイ​​現形​のまゝに、卽ち蒙古文を漢︀字にて寫せるまゝに、露西亞文の​ホンヤク チウシヤク​​飜譯 注釋​​クハ​​加​へて、出板せんことを​クハダ​​企​て、一八八七年、光緖 十三年、明治 二十年、その序文と本文卽ち蒙古文​クワハン​​過半​とを​セキインバン​​石印板​にて​インサツ​​印刷​して​ガクセイ​​學生​​ワカ​​頒​てり。その​ゲフ​​業​ 成れりや​イナ​​否​やは、​ワレ​​我​いまだ知らず。露西亞は、​イクサ​​軍​には​マ​​負​けたれども、かゝる​ケンキウ​​硏究​​カ​​掛​けては、我が日本よりは​ハルカ​​遙​​マサ​​勝​れる​クニ​​國​なり。​ジツ​​實​​イクサ​​軍​​ナイセイ​​內政​との​シツパイ​​失敗​​ノゾ​​除​きては、​トウバウ ケイリヤク​​東方 經略​​コト​​事​​ヨ​​善​​ユキトヾ​​行屆​きて、​タイエイコク​​大英國​​トモ​​共​に、​アジア​​亞細亞​​シヨブラク​​諸︀部落​​スヰクワイ​​綏懷​すべき​シカク​​資格​ある​タイコク​​大國​なり。


​セイブ シンセイロク​​聖武 親征錄​ ​ラシツド​​喇失惕​​シフシ​​集史​​ライレキ​​來歷​

 ​セイブ シンセイロク​​聖武 親征錄​は、蒙古 祕史に​クワンケイ​​關係​ 多き古書なり。四庫 全書 提要[17]​ザツシルヰ ソンモク​​雜史類︀ 存目​に「皇元聖武親征錄一卷、不著︀撰人名氏云云。史​ゲン​​元​​セイソ​​世祖︀​​チウトウ​​中統​四年、​サンチセイジシウコクシ​​參知政事修國史​​ワウガク​​王鶚​​コフ​​請​​エン​​延​​ハウシテ​訪​太祖︀事蹟​フセント​​付​​シクワン​​史館︀​。此卷、疑ハクハ當時​ツクリ​​所撰​レル者︀ナラン」と云へるは、只 ​オシアテ​​押當​に言へるにて、何も​ハウシヨウ​​旁證​すべき事なし。​サイイキ​​西域​​ソウワウ​​宗王​珀兒昔阿の亦勒罕​ガザン​​合贊​​Ghazan​旭烈兀の曾孫​オルヂヤイト​​斡勒齋禿​​Oljaitu​合贊の弟​ツカ​​事​へたる​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​​Rashid eddin​​アラハ​​著︀​せる​モウコ シフシ​​蒙古 集史​ ​ヂヤミウト テヷリク​​札米兀惕 帖伐哩黑​​Jami ut Tevarikh​は、​シヤウビ​​詳備​せる歷史にして、親征錄の​ヒルヰ​​比類︀​に非ざれども、その​ウチ​​中​​ジヨジ​​敍事​​ワウ​往往​ 親征錄と​フセツ​​符節︀​​アハ​​合​するが如き處あり。親征錄の敍事は、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の史に於て​ソレ​​其​​ルヰ​​類︀​する敍事を見出さざることなし。又この二書の敍事は、同じく蒙古 祕史に本づきたりと見ゆる處 甚だ多し。然らば二書は、祕史を​ケミ​​閱​する​キクワイ​​機會​ある人の作れる者︀にして、親征錄は、提要に言へるが如く​グワイジン​​外人​の作りて​タテマツ​​上​れるには非ざること疑ひなし。​チヤハン​​察罕​の祕史より譯し出せる​セイブ カイテンキ​​聖武 開天記​の名は、後世に​スコ​​少​しも聞えず、親征錄の名は、元代の書に少しも見えずして、親征錄の​ナイヨウ​​內容​は、祕史に本づきたりと見ゆれば、親征錄は卽ち開天記にして、​デンシヤ​​傳寫​​アヒダ​​閒​​ヘウダイ​​標題​​アラタ​​改​められたりと見て誤り無からん、淸の​コウキ​​康熙​ 二十八年に​セウヱンヘイ​​邵遠平​​アラハ​​著︀​せる​ゲンシ ルヰヘン​​元史 類︀編​​シバ​屢​ 今の親征錄の文を引きて、聖武 親征記と云へり。然らば​サンメイ イチブツ​​三名 一物​にして、元の聖武 開天記は、淸の初に至り聖武 親征記となり、​ケンリウチウ​​乾隆︀中​に至り聖武 親征錄となりて、その​ウヘ​​上​​クワウゲン​​皇元​​カウム​​冠​らせたるなり。[18]

 親征錄は、​ケンリウチウ​​乾隆︀中​​リヤウワイ エンウンシシ​​兩淮 鹽運使司​にて得て內府に上り、​センタイキン​​錢大昕​これを寫し取り、それより​テンテン セウシヤ​​輾轉 鈔寫​して、​タイキヨウ​​大興​​ジヨシヨウ​​徐松​​キ​​歸​したり。​ダウクワウチウ​​道光中​​ヘイテイ​​平定​​チヤウボク​​張穆​は、​ジヨホン​​徐本​を寫し取り、​タイキヨウ​​大興​​オウハウカウ​​翁方綱​​イヘ​​家​の藏本を借りて​タイカウ​​對校​し、​サラ​​更​​クワウタク​​光澤​​カシウタウ​​何秋濤​​サヅ​​授​けて校正せしめたり。​クワウチヨ​​光緖​ 二十年、​シヤウナン​​彰南​​ブンジユンダウ​​分巡道​ ​ハウクワク​​芳郭​は、​カシ​​何氏​の校本を​グワセン​​瓦羨​​エウシタツ​​姚士達​​サヅ​​授​け、​カウセイ ゲン シンセイロク​​校正 元 親征錄​と題して出版せしめたり。又 ​ジユントク​​順德​​リブンデン​​李文田​​カキヨウ​​嘉興​​チンソウシヨク​​沈曾植​​オノ​各​ 何氏の校本を寫し取りて​カウチウ​​校注​し、​ジユントク​​順德​​リヨウホウヘウ​​龍鳳鑣​は、​リチン​​李沈​​ニチウ​​二注​​アハ​​合​せて、​カシ カウホン​​何氏 校本​の出版に續きて出版し、​チフクサイ ソウシヨ​​知服齋 叢書​​ヲサ​​收​めたり。この錄につきても、露西亞は支那よりも早く、​ソウジヤウ​​僧︀正​ ​パラヂウス​​帕剌的兀思​は、何校 親征錄の鈔本を得て、露西亞文に譯し、西紀 一八七二年、明治 五年、同治 十一年、何氏 校本 李沈 校本の出版より二十餘年 ​マヘ​​前​に「​トウバウ​​東方​​キロク​​記錄​」に入れて出版せり。

 ​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​​Rashid eddin​は、元の​テイソウ​​定宗​ 二年、後深草 天皇 寶治 元年、西紀 一二四七年、​ハマダン​​哈馬丹​​Hamadan​に生れ、​イジユツ​​醫術​を以て​ガザン カン​​合贊汗​​Ghazan Khan​​ツカ​​仕​へ、​セイソウ​​成宗​​タイトク​​大德​ 二年、伏見 天皇 永仁 六年、西紀 一二九八年、​ワウコク​​王國​​シヤウシヨ​​尙書​となり、​オルヂヤイト カン​​斡勒齋禿 汗​​Oljaitu Khan​の時もその​シヨク​​職​に續き居りき。蒙古の史を​シフロク​​集錄​する事を​ガザン​​合贊​より命ぜられたりしが、大德十一年後二條 天皇 德治 二年、西紀 一三〇七年に、その書 成りて、​オルヂヤイト​​斡勒齋禿​に上り、​ジンソウ​​仁宗​​エンイウ​​延祐︀​ 五年、花園 天皇 文保 二年、西紀 一三一八年、​ザン​​讒​​ア​​遭​ひ、​アブ サイド カン​​阿不 賽德 汗​​Abu Said Khan​斡勒齋禿 汗の子​コロ​​殺︀​されたり。その書は、​ペルシア​​珀兒昔阿​​Persia​​ブン​​文​にて、書の名は​ヂヤミウト テヷリク​​札米 兀惕 帖伐哩黑​​Jami ut Tevarikh​と云ふ。​ヂヤミ​​札米​​Jami​は集錄、​ウト​​兀惕​​ut​は「​ツ​​屬​く」と云ふ​ゼンチシ​​前置詞​​テヷリク​​帖伐哩黑​​tevarikh​は歷史にて、歷史の[19]集錄と云ふ​ギ​​義​なり。下文には集史 又は蒙古 集史など書けり。その書は、亞細亞の​シヨシユゾク​​諸︀種族​​ジヤウタイ​​狀態​、その​チハウ​​地方​​ケイセイ​​形勢​、元帝の祖︀先の事より始めて、太祖︀の​コウゲフ​​功業​​シヤウジヨ​​詳敍​し、太宗 ​テイソウ​​定宗​ ​ケンソウ​​憲宗​ 三朝の事を​リヤクジヨ​​略敍​し、​セイソ​​世祖︀​ ​セイソウ​​成宗​ 二朝は最も略し、​ペルシア​​珀兒昔阿​​レツワウ​​列王​​フラグ​​旭烈兀​​Hulagu​より​ガザン​​合贊​までの事蹟は頗る​クハ​​委​し。その​ジジヨ​​自序​に據れば、​タウジ​​當時​ ​イルカン​​亦勒罕​​Ilkhan​の祕府に、蒙古の​ブンシヨ​​文書​あまた​ホゾン​​保存​せられて、​オルヂヤイト カン​​斡勒齋禿 汗​より修史の參考に用ふることを​ユル​​許​され、​コト​​殊​​アルタン デプテル​​阿勒壇 迭卜帖兒​​Altan depter​黃金の書册、貴き書册卽ち​キンサク​​金册​と云へる蒙古の歷史、​カン​​汗​​ハウコ​​寶庫​に藏して、​ベグ​​別克​​Beg​都︀邑の宰​チヤウラウ​​長老​​ホクワン​​保管​し居る者︀をも參考に用ひ、又 ​シナ​​支那​​インド​​印度​​ウイグル​​畏兀兒​​Uigur​​キプチヤク​​乞卜察克​​Kipchak​の學者︀だち、殊に​タイクワンジン​​大官人​ ​プラツド シヨウジヤウ​​普剌惕 丞相​​Pluad chinksank​に命じて​タス​​助​けを​アタ​​與​へさせられたり。この​プラツド シヨウジヤウ​​普剌惕 丞相​は、​ワウコク​​王國​​ゲンスヰ​​元帥​ ​サイシヤウ​​宰相​にして、​トウバウ​​東方​の種族の古傳 歷史、殊に蒙古の​ソレ​​其​​タレ​​誰​よりも善く知れりと云へり。その書は、又 ​アライエツヂン アツタ ムルク ヂユヹニ​​阿來額丁 壓塔 木勒克 主費尼​​Alai eddin Atta mulk Juveni​の蒙古史にも多く據れり。

 ​ヂユヹニ​​主費尼​​Juveni​は、​ヂユヹイン​​主費因​​Juvein​の人にて、​トコロ​​地​の名を以て​ウヂ​​姓​とせり。その​チヽ​​父​ ​バハイレツヂン モハンメツド ヂユヹニ​​巴海︀列丁 謨罕默德 主費尼​​Bahail eddin Mohammed Juveni​は、蒙古に仕へたる故に、憲宗 元年、後深草 天皇 建長 三年、西紀 一二五一年、​アライ エツヂン​​阿來 額丁​は、​チヽ​​父​​シタガ​​從​ひ蒙古に​イタ​​到​り、​ケンソウ トウキヨク​​憲宗 登極​​タイシウクワイ​​大聚會​​クワイ​​會​せり。西書には一二五二年とあれども、この大聚會は、その前年の六月なれば、紀年に誤りあらん。元史 憲宗紀、この大聚會の續きに「以​アルフン​​阿兒渾​​Arhun​​アテ​​充​​アム​​阿母​​Amu​​ガハ​​河​​トウシヨノ​​等處​​カウシヤウシヨセイジニ​​行尙書省事​​フアカルツヂン​​法合魯丁​​Fakhal uddin​​タスク​​佐​」とある​フアカルツヂン​​法合魯丁​​Fakhal uddin​は、卽ち​バハイレツヂン​​巴海︀勒丁​​Bahail eddin​なり。その後 ​アライ エツヂン​​阿來 額丁​は、​フラグ​​旭烈兀​​セイセイ​​西征​​シタガ​​從​ひ、​ブントク​​文牘​​ツカサド​​掌​り、​サイイキ​​西域​ ​スデ​​卽​​タヒラ​​平​ぎて、​チハウ​​地方​​タイリ​​大吏​[20]​ニン​​任​ぜられ、世祖︀の至元 二十年後宇多 天皇 弘安 六年、西紀 一二八三年​ミマカ​​沒​りぬ。その蒙古史は、​タリク ヂハンクシヤイ​​塔哩黑 只罕庫沙亦​​Tarikh Jihankushai​と名づく。​タリク​​塔哩黑​​tarikh​は歷史、​ヂハンクシヤイ​​只罕庫沙亦​​jihankushai​​セカイ​​世界​​セイフクシヤ​​征服者︀​なり。その書は、二部に分れ、​ゼンブ​​前部​は、太祖︀の​スエ​​末​ 十年の事を詳敍し、太宗 定宗の事、憲宗 卽位の初の事、​ウイグル​​畏兀兒​​Uigur​​カラキタイ​​合喇乞台​​Karakhitai​​コラズム​​闊喇自姆​​Khorazm​の事、太祖︀ 太宗の​ペルシア​​珀兒昔阿​ ​セイバツ​​征伐​の事を述べ、​コウブ​​後部​は、​フラグ​​旭烈兀​ 西征の事、​ムラヒダ​​木剌希答​​Mulahida​ ​キヨウバウ​​興亡​の事を述べ、憲宗の七年後深草 天皇 正嘉 元年、西紀 一二五七年にて​ヲハ​​終​れり。

 ​フランス​​佛蘭西​​ドーソン​​朶遜​​d'Ohsson​は、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の集史に本づき、蒙古史を作り、西紀 一八二四年、仁孝 天皇 文政 七年、淸の宣宗 道光 四年、その初版を世に 出せり。されども​ドーソン​​朶遜​は、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の書を​コトバ​​辭​のまゝに​ホンヤク​​飜譯​したるに非ず、​ヂユヹニ​​主費尼​その外あまたの舊史に據り、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​​ゾウホ カイシウ​​增補 改修​して、詳備せる新史を作れるなり。​ペテルブルグ​​珀帖兒不兒古​​ケウジユ​​敎授​ ​ベレジン​​別咧津​​Berezin​は、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の全部を露西亞文に譯せん事を​クハダ​​企​て、その譯の成るに​シタガ​​從​ひ、​ペルシア​​珀兒昔阿​​コトバ​​語​の原文と​トモ​​共​に「露西亞の考古學會の記事」に載する事とし、東 亞細亞に​ス​​住​める​トルク​​禿兒克​​シユ​​種​ 蒙古種の諸︀國 諸︀部の事を述べたる第一卷 三九二ペーぢは、一八五八年孝明 天皇 安政 五年、淸の文宗 咸豐 八年に出版せり。蒙古の先世より太祖︀ 元年の​トウキヨク​​騰極​までを述べたる第二卷は、​ペルシア​​珀兒昔阿​​ブン​​文​ 二三九ペーぢ、飜譯 注釋 三三五ペーぢにして、一八六八年明治 元年、同治 七年に世に出でたり。一八八七年、(明治 二十年、光緖 十三年、)出版に​トリカヽ​​取掛​れる第三卷にて太祖︀の事蹟 終り、その​ツギ​​次​​ナホ​​猶​ 三卷[21]出づる​ツモ​​積​りなりしが、成れりや​イナ​​否​やを知らず。​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​を飜譯したる人は、​ベレジン​​別咧津​の前にもこれかれ有れども、皆 ​ベレジン​​別咧津​の譯に​テキ​​敵​すること能はず。​ベレジン​​別咧津​は、蒙古 集史の善き寫本をあまた​シヨウ​​使用​したるのみならず、東 亞細亞の諸︀國語に通じたることは、​ペルシア​​珀兒昔阿​​ジン​​人​の記錄を解するに大なる助けとなれり。


​シウセイ モウコ ヒシ​​修正 蒙古 祕史​

 ​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​​シフシ​​集史​はあまたの​シレウ​​史料​に據り集錄したる者︀なれば、元初の史としては、その詳備せること、東方の史傳の​クハダ​​企​​オヨ​​及​ぶべきに非ず。今 聖武 親征錄を以て集史に​クラ​​較​べて​カンガ​​考​ふるに、集史には親征錄に少しも言はざる事蹟 甚だ多し。その中に、東 亞細亞の種族どもの事、蒙古の古傳の事の如きは、​プラツド​​普剌惕​ ​シヨウジヤウ​​丞相​​キオク​​記憶​より出でたる者︀ 多からん。太祖︀ 太宗の西征、​フラグ​​旭烈兀​​ペルシア​​珀兒昔阿​ ​ケイリヤク​​經略​の如きは、​ホトン​​殆​​ミナ​​皆​ ​ヂユヹニ​​主費尼​の歷史に本づきたり。然らば集史の敍事の親征錄と​フセツ​​符節︀​​アハ​​合​するが如き處は、何に本づきたる者︀なるか。​ソ​​其​は、疑ひもなく​アルタン デプテル​​阿勒壇 迭卜帖兒​ 卽ち​キンサク​​金册​より出でたるなり。​コウキン​​洪鈞​​ゲンシ ヤクブン シヨウホ​​元史 譯文 證補​に「​ラシツド​​拉施特​​ミヅカラ​​自​​イフ​​謂​シク​ミ​​見​​ホンテウノフテフシサクヲ​​本朝譜牒史策​​イキヨシテ​依據​​ナセリト​​成​。今以元史、親征錄、元祕史ブレバ、則​モトモ​​尤​​ト​​與​親征錄​フガフ​​符合​。用​シル​​知​親征錄​ジツニ​​實​​ヨリ​​由​​トビチヤン​​脫必赤顏​譯出​タウジツ​​當日​​キンキノフクホンハ​​金匱副本​​ヒツゼン​​必然​​ハン​​頒​​キフセルヲ​​及​​ソウハンニ​​宗藩​。否ラズバ​イカ​​夷夏​ニシ​トウザイ​​東西​ニシ、何​ズシテ​不​​アフヿ​​合​​ナラン​​若​」と云へり。​ホンテウノ フテフ​​本朝 譜牒​とは、​キンサク​​金册​を云ひ、​キンキノ フクホン​​金匱 副本​とは、​トビチヤン​​脫必赤顏​[22]の寫しを云ひ、​トビチヤン​​脫必赤顏​の寫しは卽ち金册なりと云へるなり。​コウキン​​洪鈞​​コノセツ​​此說​ ​マコト​​允​​アタ​​當​れり。然らば金册は卽ち祕史にして、​ニウチヤ トブチヤン​​紐察 脫卜赤顏​​Niucha Tobchiyan​は、書の​ジツメイ​​實名​なり。​アルタン デプテル​​阿勒壇 迭卜帖兒​​Altan depter​は、書の​シヨウガウ​​稱號​なり。​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の史と​チヤハン​​察罕​の記とは、​ケイテイ​​兄弟​にして、祕史の​ニコシ​​二孤子​なり。數十年 ​ケツクワツ​​契闊​​トモ​​友​ ​コツゼン​​忽然​として​ア​​遇​へるすら、​ウレ​​嬉​しさに​タ​​堪​へざるものなるに、數百年の閒 ​タガヒ​​互​に見も知らざりし兄弟の二孤子 ​アヒ​​相​ ​タヅサ​​攜​へて古史を​カタ​​語​るを見るは、​シガクジヤウ​​史學上​​イチクワイジ​​一快事​に非ずや。

 二書は同じく祕史に本づきたりとすれば、その祕史なる者︀は、今の祕史の原本なりや否や。この​トヒ​​問​​コタ​​答​ふるは​カタ​​難︀​からず。二書の​フガフ​​符合​したる處、今の祕史に合はば、その祕史は、今の祕史の原本なり。合はずば、その祕史は、今の祕史の原本に非ず。合ふか合はざるかを見よ。今の祕史に據れば、太祖︀の​チヽ​​父​ ​エスガイ​​也速該​​Yesugai​​タタル​​塔塔兒​​Tatar​​ジン​​人​​ドクガイ​​毒害​せられたるを、二書は同じく​タヾ​​只​ ​シ​​死​にたりとせり。太祖︀の​オヤコ​​母子​​タイチウト​​泰赤兀惕​​Taichiut​ ​ブジン​​部人​​ス​​棄​てられてより​ジフサンヨク​​十三翼​​タヽカヒ​​戰​まで二十餘年の閒、祕史に據れば、​ホエルン​​訶額侖​​Hoelun​ 夫人 ​カンナン​​艱難︀​して​シヨシ​​諸︀子​​チヤウイク​​長育​したる事、太祖︀と​オトヽ​​弟​ ​カツサル​​合撒兒​​Khassar​と二人にて​イボテイ​​異母弟​ ​ベクテル​​別克帖兒​​Bekter​​コロ​​殺︀​して、​ハヽ​​母​​イタ​​痛​​セ​​責​められたる事、太祖︀は​タイチウト​​泰赤兀惕​​トリコ​​擒​にせられ、​コンク​​困苦​して​ノガ​​逃​れたる事、太祖︀ ​ゾク​​賊​​オ​​追​へる時、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​Boorchu​これを​タス​​援​け、​ツイ​​遂​​シンシン​​親臣​となれる事、​オンギラト​​翁吉喇惕​​Onghirat​​デイ セチエン​​德 薛禪​​Dei Sechen​​ムスメ​​女​ ​ボルテ​​孛兒帖​​Borte​​ムカ​​迎​へたる事、太祖︀ ​ユ​​往​きて父の​トモ​​友​ ​ワンカン​​王罕​​Wang Khan​​エツ​​謁︀​し、父と​タツト​​尊​びたる事、​メルキト​​篾兒乞惕​​Merkit​​ジン​​人​[23]​オソ​​襲​はれて、​ボルテ​​孛兒帖​ ​トラ​​虜︀​はれたる事、​ワンカン​​王罕​ ​ヂヤムカ​​札木合​​Jamukha​ 二人の​タスケ​​援​​エ​​得​て、​メルキト​​篾兒乞惕​​ウチヤブ​​擊破​り、​ボルテ​​孛兒帖​ ​カヘ​​歸​りたる事、太祖︀と​ヂヤムカ​​札木合​​エイ​​營​​トモ​​共​にして​ヲ​​居​り、旣にして​ブンリ​​分離​し諸︀部多く​ヂヤムカ​​札木合​​ス​​棄​てて太祖︀に​キ​​歸​し、遂に​スヰタイ​​推戴​して​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​Chinghis Khaghan​となしたる事、これらの大事ありて、卷二 卷三の二卷に書けるを、二書は​マツタ​​全​​ハブ​​略​きて、​ジフサンヨク​​十三翼​​タヽカヒ​​戰​​モ​​以​​タヾチ​​直​に太祖︀の​エウジ​​幼時​の事に續けたり。十三翼の戰に、二書は諸︀將 諸︀部落の名を列記したるに、祕史には無し。十三翼の戰は、祕史にては太祖︀ ​マ​​負​け、二書にては太祖︀ ​カ​​勝​てり。二書には​ヂヤウレイト​​照烈​​Jaureit​ ​ブチヤウ​​部長​ ​ライカウ​​來降​の事あれども、祕史には無し。​オナン​​斡難︀​​Onan​​ハヤシ​​林​​エンクワイ​​筵會​​ヂユルキン​​主兒勤​​Jurkin​​ブ​​部​​アラソ​​爭​​オコ​​起​れる時、祕史には太祖︀ ​ミヅカ​​自​​タヽカ​​鬭​へりとし、二書は​ソ​​其​​シウ​​眾​ 鬭へりとせり。​タイチウト​​泰赤兀惕​​クワイサン​​潰散​​キジルバシ​​乞濕勒巴失​​Khizilbashi​の戰、​クラアンクト​​忽剌安忽惕​​Khulaankhut​の戰、​トウラ​​土兀剌​​Tuula​​ガハ​​河​​クロバヤシ​​黑林​​チカヒ​​盟​などは、祕史にては十一部の​ラン​​亂​​ノチ​​後​にあり、二書にては、皆 ​マヘ​​前​にあり。十一部の亂に、祕史は十一部の​シウチヤウ​​首長​の名を​ア​​擧​げたるに、二書は只 六部の名を擧げて、首長の名なし。十一部の​クワイメイ​​會盟​は、祕史にては​イツクワイ​​一囘​、二書にては二囘なり。​コイテン​​闊亦田​​Khoiten​の戰は、祕史にては十一部の亂の時にあり、二書にては​タタル​​塔塔兒​ 征伐の後にあり。​ワンカン​​王罕​​キツセキ​​詰責​する​コトバ​​辭​、祕史は​カンチヨク​​簡直​、二書は​ハンジヨウ​​繁冗​なり。​ナイマン​​乃蠻​​Naiman​​グルベス​​古兒別速​​Gurbesu​を祕史は​タヤン カン​​塔陽 罕​​Tayan Khan​​ハヽ​​母​とし、二書は​ツマ​​妻​とせり。​ヂヤムカ​​札木合​​マツロ​​末路​、祕史は甚だ​ツマビラ​​詳​かなるに、二書は一語もなし。​トラ​​虎​の年 ​トウキヨク​​騰極​の時、祕史には、​シンヱイ​​親衞​[24]​セイド​​制度​​シヨシヤウ​​諸︀將​​オンシヤウ​​恩賞​​クワン​​關​する​アマタ​​許多​​セウチヨク​​詔勅​ありて、​イツクワンハン​​一卷半​ほどを​ミ​​滿​たせり。二書には一語もなし、かくの如き​サイ​​差異​​マツクワン​​末參​までに猶 多し。然らば二書の本づきたる祕史は、今の祕史の原本その儘の者︀に非ざること​アキラ​​明​けし。

 然れども二書の​ジヨジ​​敍事​ ​カウブン​​行文​、今の祕史に合へる處も亦 頗る多し。その​レイ​​例​は、今一一は擧げず。只その最も著︀しき者︀を擧ぐれば、祕史 卷十、​ウイウル​​畏兀兒​​Uiur​​シシヤ​​使者︀​の太祖︀に​マウ​​奏​したる​コトバ​​辭​に「​クモ​​雲​ ​ハ​​霽​れて​ハヽ​​母​なる​ヒ​​日​母の如き太陽​ミ​​見​​コホリ​​氷​ ​ト​​解​けて​カハ​​河​​ミヅ​​水​​エ​​得​たるが​ゴト​​如​​シカジカ​​云云​」と云へるが如きは、二書共にこの​ク​​句​​チヨクヤク​​直譯​したるが如き句あり。故に​ブレツトシユナイデル​​不咧惕施乃迭兒​​Bretschneider​は、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​よりこゝの句を譯して「この句は、元朝 祕史より​コトバドホ​​辭通​りに​ヤク​​譯​したるが如く聞え、​シカ​​而​して祕史の作者︀は、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​​オナ​​同​​ホンゲン​​本源​よりその​ブンチ​​開如​を得たりと云ふ​シヨウコ​​證據​​テイ​​呈​す。その​シヨウコ​​證據​は、​ジツ​​實​にあまたの​ホカ​​他​​レイ​​例​にて​タシカ​​確​められ得るなり」と云へり。この​コトバ​​辭​​スコ​​少​​ヘイ​​弊​あり。祕史の作者︀とは、祕史の原本の作者︀を云へるならば、その原本を書き​ヲ​​畢​へたる太宗の十二年は、集史の成れる成宗の大德十一年より六十七年 ​マヘ​​前​​ア​​在​り。又 正集 十卷の成れるは太祖︀の世に在りとすれば、又その二千餘年 ​マヘ​​前​に在り。その時は、​ウイウル​​畏吾兒​ ​キフク​​歸服​して未だ​イクトセ​​幾年​​ヘ​​經​ず、蒙古人 始めて​ウイウルモジ​​畏吾兒字​を用ふることを知りたる​コロ​​頃​なれば、その書の前には蒙古の​キロク​​記錄​も無かるべく、その[25]書こそは、有らゆる蒙古の記錄の本源なりけれ。故に祕史と集史とに​アヒニ​​相似​たる處あるは、本源を同じくするが​タメ​​爲​に非ずして、祕史の原本は集史の​アル ブブン​​或 部分​の本源なるが爲なり。​シカウ​​而​して集史 親征錄の​フガフ​​符合​したる處にて、祕史に合はざる處あるは、いつの世にか祕史の原本に修正を加へて、二書はその修正 祕史に依れるが爲なり。

 何故に修正を加へたるかと云ふに、二書と祕史と合はざる處を善く見れば、その​リイウ​​理由​​オシハカ​​推料​らるゝなり。​エスガイ​​也速該​​ドクガイ​​毒害​は、諱みて​ケヅ​​删​れるなり。​オヤコ​​母子​​マヅ​​貧​しかりし事、​オトヽ​​弟​を殺︀せる事、​トリコ​​擒​となれる事、​ツマ​​妻​​ウバ​​奪​はれたる事を​ケヅ​​删​れるは、太祖︀の​チジヨク​​恥辱​​オホ​​蔽​へるなり。​ワンカン​​王罕​に父とし事へ、​ヂヤムカ​​札木合​​ケイテイ​​兄弟​として、二人の​タスケ​​援​を得たることを删れるは、​コウライ​​後來​​キウテキ​​仇敵​​オンジン​​恩人​とするを​キラ​​嫌​へるなり。太祖︀ 始めての​オホイクサ​​大戰​なる十三​ヨク​​翼​​タヽカヒ​​戰​​マケ​​負​​カチ​​勝​と改めたる​リイウ​​理由​は、​イ​​言​はずとも​アキラ​​明​かなり。​オナン​​斡難︀​​エンクワイ​​筵會​に太祖︀ ​ミヅカ​​自​​タヽカ​​鬭​へるは、​アマ​​餘​​オトナ​​大人​しからぬ故に改めたらん。​ワンカン​​王罕​​キツセキ​​詰責​する辭を​ゾウカ​​增加​したるは、その​ツミ​​罪​​オモ​​重​くせんが爲なり。​ヂヤムカ​​札木合​​マツロ​​末路​​セイリヤク​​省略​せるは、​エウジ​​幼時​​シンカウ​​親交​​クワン​​關​する​モンダウ​​問答​あるが爲なり。その外 今は略すれども、親征錄 ​シヨウチウ​​證注​には一一論じたり。

 かゝる修正は、太祖︀の​ビ​​美​​マ​​增​さんと​ホツ​​欲​する​コヽロ​​心​より出でたるべけれども、​カヘツ​​却​​タイエイイウ​​大英雄​​ジツデン​​實傳​​シンカ​​眞價​​ウシナ​​失​へり。​セウジ​​少時​​ヒンク​​貧苦​ ​ハイジヨク​​敗辱​[26]は、​コウライ​​後來​​セイコウ​​成功​をして​ヒカリ​​光​​ハナ​​放​たしむる者︀なり。​ナン​​何​​イ​​諱​むに​タ​​足​らん。此等の事を​キ​​氣​にして、二十餘年の閒の事蹟を​インペイ​​隱蔽​しては、何を以てか太祖︀ ​サウゲフ​​創業​​カンナン​​艱難︀​を知ることを得ん。何を以てか​センイ タイコウ​​宣懿 太后​​ケンメイ コウレツ​​賢明 功烈​を知ることを得ん。太祖︀ ​セウジ​​少時​より​ワンカン​​王罕​​フジ​​父事​し、その​エンジヨ​​援助​をも​ウ​​受​けたる故に、その後 ​ワンカン​​王罕​ ​ザン​​讒​​シン​​信​じて之を​ノゾ​​除​かんとしたれども、太祖︀は​マコト​​誠​​オ​​推​して​ウタガ​​疑​はず。最も​エイイウ​​英雄​​クワウリヤウ​​宏量​を見るべし。​モシ​​若​ 少時 ​オン​​恩​を受けたること無かりせば、太祖︀の​シンセツ​​親切​は、むしろ​グ​​愚​​チカ​​近​からずや。​ナイマン​​乃蠻​​ホロ​​滅​びたる時、祕史には​ヂヤムカ​​札木合​ ​トラ​​執​へられ、​シヨウヨウ​​從容​として​シ​​死​​ツ​​就​ける事を敍べ、太祖︀ ​ヂヤムカ​​札木合​​モンダウ​​問答​を委しく載せたり。蓋 二人 ​イトケナ​​幼​くして​シンイウ​​親友​となり、​チヤウ​​長​じて​キウテキ​​仇敵​となり、​カンクワ​​干戈​​アヒダ​​閒​​シバ​屢​ ​アヒ マミ​​相 見​えたれども、​タガヒ​​互​​アンダ​​安答​​Anda​結盟の友)と​ヨ​​呼​びて​シウシン​​終身​ ​カハ​​渝​らず、​チヤウジ​​張耳​ ​チンヨ​​陳餘​​エンゲキ​​怨隙​ ​ヒト​​一​たび​ヒラ​​開​けて​タチマ​​忽​​ロジン​​路人​​ヘン​​變​じたるに​ニ​​似​ず。​シカウ​​而​して​ヂヤムカ​​札木合​​ミヅカ​​自​らその​ツミ​​罪​を知り、​ハヂ​​恥​​オモ​​重​んじ​メイ​​命​​ヤス​​安​んじたるは、​マタ​​亦​ ​カン​​感​ずるに​アマ​​餘​りあり。​ヂヤムカ​​札木合​​ハンド​​叛奴​を太祖︀の​チウ​​誅​したるが如きは、​シユクン​​主君​​ノガ​​逃​したる​ナヤア​​納牙阿​​Nayaa​​ホ​​襃​めたる事と​アヒ​​相​ ​タイ​​對​し、​ケイシヤウ​​刑賞​ ​フタツ​​兩​ながら​アタ​​中​り、​マコト​​誠​​クンダウ​​君道​​カナ​​協​ひ、​カン​​漢︀​​カウソ​​高祖︀​​キフ​​季布​​ユル​​赦​して​テイコウ​​丁公​​チウ​​誅​したるに​タクラ​​比​ぶべし。太祖︀の​ヂヤムカ​​札木合​​グウ​​遇​する​ユヱン​​所以​に至りては、​クワンジン​​寬仁​ ​タイド​​大度​​ギ​​義​​ヨ​​由​​レイ​​禮​​シタガ​​遵​ひ、​モトモ​​最​ ​カンカウ​​漢︀高​​デンワウ​​田横​​マ​​待​つに​マサ​​勝​れり。​コレラ​​是等​​ビダン​​美談​を修正 祕史は悉く删りたりと見えて、二書には更に無し。​シンヱイ​​親衞​​セイ​​制​ ​コウシン​​功臣​​シヤウ​​賞​​サダ​​定​むる​セウチヨク​​詔勅​は、蒙[27]古の史にありて​テンボ​​典謨​​ヒ​​比​すべき者︀なり。是等は何故に删られたるか。その理由を知ること能はず。然らばその修正は、實に​セツロウ​​拙陋​なる修正なり。その修正 祕史の世に傳はらずして、原本 祕史の譯本の​ツウタイ クワンゼン​​通體 完善​に今に​ホゾン​​保存​せらるゝは、史學上の​キチジヤウジ​​吉祥︀事​にして、太祖︀の​ヰレイ​​威靈​​カゴ​​呵護​​ヨ​​賴​れるに非ずやと思はるゝ程なり。​コウキン​​洪鈞​は、​ベレジン​​別咧津​の譯に由り​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の集史を譯し、その親征錄に合へるを見て、​カヘツ​​却​て祕史の誤れるを疑へるは、祕史の原本は蒙古史の本源なること、二書の本づきたる者︀は修正 祕史なることを知らざるが故なり。

 元朝 祕史、聖武 親征錄、​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​の集史 等の來歷を​ヒトメ​​一目​​ミヤス​​見易​からしめんが爲に、​サ​​左​​ケイヅ​​系圖​を作れり。


​モンゴルン ニウチヤ トブチヤン​​忙豁侖 紐察 脫卜赤顏​​Mongholun Niucha Tobchiyan​(蒙古 祕史)元 太祖︀ 時 撰、續集、太宗 十二年 撰。
├─元朝 祕史十卷、續集 二卷。明 洪武 十五年 譯。
│ ├─元 祕史千頃堂 書目 十二卷。明 文淵閣 書目 五册、續稿 一册。
│ │ ├─元 祕史十卷、續 祕史 二卷。乾隆︀ 中、金德輿 所藏、稱 殘元槧本。其 譯文 載 孫承 澤 元朝 典故 編年考 第九卷。
│ │ └─元朝 祕史五冊 十卷、續集 一册 二卷。廬州 知府 張氏 所収、稱 影 元槧 舊鈔本。
│ │   └─​コクワウキ​​顧廣圻​ 校勘本
│ │     └─​ソウシツ​​宗室​ ​セイイク​​盛昱​ 藏本
│ │       ├─​ブンテイシキ​​文廷式​ 鈔本
│ │       │ └─​ナイトウコナン​​內藤 湖南​ 鈔本
│ │       │   └─​カウトウ シハン ガクカウ​​高等 師範 學校​ 鈔本
│ │       │     ├─​ワセダ ダイガク​​早稻田 大學​ 鈔本
│ │       │     └─成吉思 汗 實錄那珂 通世 和文譯。
│ │       └─​リブンデン​​李文田​ 鈔本
│ │         └─​チンソウシヨク​​沈曾植​ 鈔本
│ ├─元朝 祕史十五卷、永樂 大典 十二先 元字韻 中 所收。
│ │ └─​センタイキン​​錢大昕​ 鈔出本
│ │   └─​チヤウボク​​張穆​ ​レンキンイ​​連筠簃​ 刻本有 譯文、無 蒙文。
│ │     ├─​パラヂウス​​帕剌的兀思​​Palladius​ 露西亞文 譯本
│ │     ├─​シヤンハイ​​上海︀​ ​フクコシヨキヨク​​復古書局​ 石印本
│ │     └─李文田 注 刻本
│ └─元 祕史十五卷、依 舊鈔 影寫、見 阮元 四庫 未收 書目 提要。
│   └─​パラヂウス​​帕剌的兀思​ 影 明槧 舊鈔本十五卷、無 標題。今 藏 于 露京 大學 圖書館︀。
│     └─​ポズネエフ​​頗自捏也富​​Pozdneyeff​ 露文 譯注 漢︀字 原書 刻本
└─​シウセイ​​修正​ ​ニウチヤ トブチヤン​​紐察 脫卜赤顏​​Niucha Tobchiyan​元史 察罕 傳 稱 脫必赤顏、虞集 傳 稱 脫卜赤顏。
  ├─太祖︀ 實錄成宗 大德 七年、翰林 國史院 奏進。
  │ ├─元史 太祖︀ 本紀
  │ ↑
  ├─聖武 開天記仁宗 時、察罕 譯 脫必赤顏 以 成。
  │ └─聖武 親征記邵遠平 元史 類︀編 所引。
  │   └─皇元 聖武 親征錄兩淮 鹽政 採進本、四庫 全書 提要 存目。
  │     └─錢大昕 本
  │       └─​ジヨシヨウ​​徐松​
  │         ├─​チヤウボク​​張穆​ 校本
  │         │ └─​カシウタウ​​何秋濤​ 校本
  │         │   ├─​パラヂウス​​帕剌的兀思​ 露西亞文 譯本
  │         │   └─李文田 沈曾植 校注本
  │         ↑     └─那珂 通世 證注本
  │         ​オウハウカウ​​翁方綱​
  └─​アルタン デプテル​​阿勒壇 迭卜帖兒​​Altan depter​(金册)卽 修正 祕史、西域 宗王 寶庫 所藏。
    ├─​ヂヤミウト テヷリク​​札米兀惕 帖伐哩黑​​Jami ut Tevarikh​(集史)喇失惕 額丁 所撰。
    │ │ └─​ベレジン​​別咧津​​Berezin​ 譯 蒙古史
    │ │   └─元史 譯文 證補洪鈞 撰。其 太祖︀ 本紀 譯證、譯 別咧津 書。
    │ ├─​ドーソン​​朶遜​​d'Ohsson​ 蒙古史
    ↑ ↑ └─元史 證文 證補其 定宗 憲宗 本紀 補異 及 朮赤 以下 諸︀傳、皆 譯 朶遜 書。
    ​タリク ヂハンクシヤイ​​塔哩黑 只罕庫沙亦​​Tarikh Jihankushai​(世界 征服史)主費尼 所撰。



[28][29]

​ワブン ホンヤク​​和文 譯本​​ヘウダイ​​標題​

 此書の原名は、​モンゴルン ニウチヤ トブチヤン​​忙豁侖 紐察 脫卜赤顏​​Mongholun Niucha Tobchiyan​なれども、今 ​ワブン​​和文​に譯したる書に​モウココトバ​​蒙古語​​ナ​​名​​ダイ​​題​しては、​ミヽドオ​​耳遠​​キコ​​聞​ゆ。明人の​ア​​當​てたる​ゲンテウ ヒシ​​元朝 祕史​の名は、​ヒサ​​久​しく​ヒロ​​廣​​オコナ​​行​はれたる名なれども、元朝と云へば、元史の如く一代の事を書きたる者︀の如く​キコ​​聞​えて​オダヤ​​穩​かならず。原名を譯して蒙古 祕史とすれば、蒙古の名は元朝よりも​ヒロ​​廣​くして、​モウコ ゲンリウ​​蒙古 源流​の如く​キンセイ​​近世​までの事あるが如く聞えて、元朝と云ふよりも​ナホ​​猶​ ​オダヤ​​穩​かならす。譯書に​アタラ​​新​しき名を與ふるは​シバ​屢​ ​レイ​​例​ある事なれば、​アタ​​當​らざる​キウメイ​​舊名​​マモ​​守​らんよりは、此書の​ナイヨウ​​內容​​アラハ​​表​すべき​ヨキナ​​佳名​あらば、用ひまほしと考へたり。

 初は​モウコ コジキ​​蒙古 古事記​と名づけんかと思へり。いかにと云ふに、我が​コジキ​​古事記​は、日本 ​サイコ​​最古​​コシヨ​​古書​にして、​コデン​​古傳​​コデン​​古傳​のまゝに​シヤウヂキ​​正直​に書き表し、古傳を​ケンキウ​​硏究​するには最も善き書なるに、​ニホンギ​​日本紀​ 出でて、古傳に​ブンシヨウ​​文飾​​クハ​​加​へ、何事も​カラザマ​​漢︀樣​に書き改めたれば、後の人は、その文の​カラ​​漢︀​めきたるに​ゲンワク​​眩惑​して、その​シンデン​​眞傳​​タガ​​達​へる事を​ワス​​忘​れ、後の史書は、日本紀にのみ據る事となりたるを、近世に至り​コガクシヤ​​古學者︀​ 起りて、​フクコ​​復古​​トナ​​唱​へたるより、始めて古事記の​タツト​​貴​[30]きことは、​ヨ​​世​​シ​​知​れたり。

 此書も、さる​タグヒ​​類︀​にて、蒙古人の始めて文字を知りたる頃の書なれば、據るべき​キウキ​​舊記​も無く、​カタリベ​​語部​などの​カタ​​語​​ツ​​繼​​イ​​言​​ツ​​繼​ぎたる事をそのまゝに書ける者︀なり。​サバク​​沙漠​​ミカド​​朝廷​にも​カタリベ​​語部​などの有りけんことは、此書に​ヰンブン​​韻文​の甚だ多きにて​オシハカ​​推料​らる。​トクギ​​德義​​テイド​​程度​ ​ヒク​​卑​くして、​シウオ​​羞惡​​コヽロ​​心​ ​アサ​​淺​かりければ、後の人ならば​イ​​諱​むべき程の事も、​イミハヾカ​​忌憚​らず​チヨクシヨ​​直書​せり。​アタカ​​恰​も我が古事記に​タギシミミノ ミコト​​當藝志美美 命​​イスケヨリヒメノ ミコト​​伊須氣余理比賣 命​との​オンコト​​御事​​ヤマトタケルノ ミコト​​倭建 命​​オンイロセ​​御兄​​シ​​殺︀​​タマ​​給​へる事、​エミジ​​蝦夷​​コトムケ​​征伐​​オホ​​命​せられて、​チヽギミ​​父帝​​ウラ​​怨​​タマ​​給​へる事、​チウアイテンワウ​​仲哀天皇​​カミ​​神︀​​イカ​​忿​られて​カンサ​​崩​り給へる事などを皆 古傳のまゝに書きたるが如く、此書にも、​レツソ​​烈祖︀​​ドクサツ​​毒殺︀​せられたる事、太祖︀の​シウリヨ​​囚虜︀​となりたる事などは、言ふまでも無く、​センイ タイコウ​​宣懿 太后​​モト​​本​ ​メルキト​​篾兒乞惕​​Merkit​​ジン​​人​​ツマ​​妻​なるを烈祖︀の​カス​​掠​​ト​​取​れる事、​クワウケン ヨクセイ クワウゴウ​​光獻 翼聖 皇后​​テキジン​​敵人​​ケガ​​汙​される事、​ヂユチ​​拙赤​​Juchi​ ​タイシ​​太子​は敵人の子ならんと​ウタガ​​疑​はれたる事、太祖︀の​オトヽ​​弟​​イコロ​​射殺︀​せる事、​エンクワイ​​筵會​​セキ​​席​にて鬭へる事、​クラン​​忽闌​​Khukan​ ​クワウゴウ​​皇后​のまだ​ヲトメ​​處女​なりし時、人に​オカ​​姦​されたらんと疑ひて、その​カラダ​​體​​シラ​​調​べたる事などを​アリ​​有​のまゝに書きて、更に​イミハヾカ​​忌憚​る處なし。

 然るを修正 祕史は、是等の​ハ​​恥​づべき事を​サンヂヨ​​删除​したるは、さもあるべき事なれども、​コレ​​是​が爲に​ジジツ​​事實​​レンラク​​聯絡​​ウシナ​​失​ひ、事實の​ジユンジヨ​​順序​​ミダ​​紊​し、​サイウ シゴ​​左右 枝梧​し、​シユビ カウケツ​​首尾 衡決​して、​マヘ​​前​​シ​​死​にたる人は​ノチ​​後​[31]に戰ひ、後に敵する人は前に降り、是が爲に​エイイウ​​英雄​​タイゲフ​​大業​も、​クワクジツ​​確實​なる​シヤウデン​​詳傳​を失ふに至れリ。而して​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​は之を用ひて集史を作り、​チヤハン​​察罕​は之を譯して開天記を作り、元史の太祖︀ 本紀も之に依り、元史 類︀編その外 有らゆる史編は皆 元史に依れり。​ドーソン​​朶遜​の蒙古史 出でて、​ヨウロツパ​​歐羅巴​の史學者︀は皆 之を以て太祖︀の實傳とし、洪鈞の元史 譯文 證補 出でて、錢大昕の​タクセツ​​卓說​も「非篤論矣」と​ソシ​​誹​られたり。然らば修正 祕史の​イキホヒ​​勢​を得たるは、我が日本紀の如くにして、此書の​ヰチ​​位置​は、​ゼンジ​​前時​の古事記に似たり。故に​ワレ​​余​は、此書の譯本を蒙古 古事記と名づけんと欲したり。

 然れども此書は又 古事記と​コト​​異​なる處あり。古事記は、千餘年の閒に​ワタ​​渉​れる古傳を今より千二百年 ​マヘ​​前​に書ける者︀なり。此書は百餘年の閒の​ミミ​​耳​​キ​​聞​​メ​​目​​ミ​​覩​たる事を今より六百 六十餘年 ​マヘ​​前​に書ける者︀なり。先世の系譜を述べたる處は、我が古事記に善く似たれども、そは篇首 一卷にも滿たず。古事記は​クワハン​​過半​ ​シンワ​​神︀話​なれども、此書は殆ど皆 實傳なり。故に此書は、上古史に非ずして、近世史なり。古の事を​ツヰジヨ​​追敍​せる歷史に非ずして、當時の事を​チヨクジヨ​​直敍​せる記錄なり。之を我が古事記に​ナゾラ​​凝​ふるは、​セン​​僭​に非ざれば​バウ​​妄​なり。その​タイサイ​​體裁​ 最も實錄の書に近きが故に、今は古事記の名を​ヤ​​罷​めて、實錄の名を取れり。

 ​ジツロク​​實錄​は、​タウソウ​​唐宋​ ​イライ​​以來​ ​ヨ​​世​ ​ゴト​​毎​に必ず​センジユツ​​撰述​せらる。​テンシ​​天子​ ​ホウ​​崩​ずれば、​シテイ​​嗣帝​​ヨ​​世​には​タイテイ​​大抵​ ​センテウ​​先朝​の實錄の​センシウ​​撰修​​トリカヽ​​取掛​れり。故に實錄は、史書[32]の中にて、事實の​オコ​​起​れる​ジダイ​​時代​に最も近き記錄なり。此書の正集は太祖︀の時に成り、續集は太宗の時に成りたれば、​シテイ​​嗣帝​の世に撰修せるに非ずして、​キンテイ​​今帝​の事蹟を今常の世に撰修せるなり。實錄よりは、​ムシロ​​寧​ ​キキヨチウ​​起居注​に近し。されども起居注は、天子の​ゲンドウ​​言動​​シクワン​​史官​​ソクジ​​卽時​に記錄する者︀なり。蒙古には​モト​​固​より​キキヨチウクワン​​起居注官​とても無く、​カタリベ​​語部​などの語れることを後に至りて​カ​​書​​アツ​​集​めたる者︀なるべければ、起居注には非ずして、猶 實錄なり。

 實錄と云へばとて、​ジジ​​事事​​クワクジツ​​確實​なる者︀には非ず。​タウ​​唐​​カウソ​​高祖︀​ 實錄は、​タイソウ​​太宗​の朝に成りたれば、高祖︀の德を​オサ​​抑​へて太宗の功を​ア​​揚​げ、​ソウ​​宋​​シンソウ​​神︀宗​ 實錄は、​ゲンイウ​​元祐︀​ ​セウセイ​​紹聖​​リヤウタウ​​兩黨​にて​カハ​​代​​カイシウ​​改修​せり。元の實錄の​ソロウ​​疏漏​なる、明の實錄の​フマウ​​誣罔​あるは、​イチジル​​著︀​しき事なり。この實錄にも​アヤマ​​誤​りあり。​ナンセイ​​南征​​エキ​​役​に、​ゼベ​​者︀別​​Jebe​​キヨヨウクワン​​居庸關​​ヤブ​​破​りたるは、太祖︀の八年 ​キイウ​​癸酉​なるを、六年 ​シンビ​​辛未​ 九年 ​カフジユツ​​甲戌​の二囘とし、九年 甲戌の​サイセイ​​再征​は、金の​セント​​遷都︀​の後なるを、再征に由りて遷都︀せりとし、​トルイ​​拖雷​​Tului​​チユグ​​出古​​Chugu​ 二人の​フンセン​​奮戰​は七年 ​ジンシン​​壬申​​ドウクワン​​潼關​の戰は十一年 ​ヘイシ​​丙子​なるを、皆 九年 再征の時とし、​ドウクワン​​潼關​​ヨセテ​​寄手​の大將は​サムカ​​撒木合​​Samukha​なるを、太祖︀とせり。最も甚しきは、​シシヤ​​使者︀​ ​ヂユブカン​​主卜罕​​Jubkhan​の殺︀されたるは、太宗 三年の事なるを、この九年の處に​シル​​記​して、再征の​エキ​​役​はそれが爲に起れりとせり。​セイセイ​​西征​​エキ​​役​​ゼベ​​者︀別​​Jebe​​スベエタイ​​速別額台​​Subeetai​​トクチヤル​​脫忽察兒​​Tokhuchar​​サンシヤウ​​三將​をして​セイイキワウ​​西域王​​オ​​追​はしめたるは、​ブカル​​不合兒​​Bukhar​​セミスゲン​​薛米思堅​​Semisgen​を降し[33]たる後にあるを、この役の初に書き、​ウドラル​​兀都︀喇兒​​Udurar​​ブカル​​不合兒​​セミスゲン​​薛米思堅​を取りたるは、この役の初にあるを、​シン​​申​​Shin​​ガハ​​河​信度河の戰の後に書けり。然のみならず是等の​セイバツ​​征伐​​セカイ​​世界​​シンタウ​​震盪​せる​タイセイバツ​​大征伐​​キジユツ​​記述​は、​ケレイト​​客咧亦惕​​Kereit​​ナイマン​​乃蠻​​Naiman​などを​アヒテ​​敵手​にせる戰よりも​カンリヤク​​簡略​なり。​ケダシ​​蓋​ ​バクホク​​漠北​​オルド​​斡兒朶​​ツカ​​仕​へたる​ヒエダ​​稗田​​アレ​​阿禮​は、​イウボク シヨコク​​遊牧 諸︀國​​キヨウバウ​​興亡​​モノガタリ​​物語​をば善く記憶すれども、​ナンカ​​南夏​ ​サイイキ​​西域​の征服の如き世界の​タイキヨク​​大局​​クワン​​關​する​イリクミ​​入組​たる​ジケン​​事件​は、​リクワイ​​理會​すること能はざりけらし。故に 太祖︀ 太宗 兩朝の​ジセキ​​事迹​​ロンジ​​論次​する者︀は必ず此書に依りて​セツチウ​​折衷​すべき事は、錢大昕の云へるが如くなれども、南征の事は親征錄、金中、元史に依り、西征の事は、​ヂユヹニ​​主費尼​​ラシツド エツヂン​​喇失惕 額丁​に依りて補はざるべからず。

 此書は、太祖︀の祖︀先より書き始めて太宗の世まで及べるに、今の譯本の名に唯 太祖︀のみを​ヘウ​​標​するは、何故ぞ。祖︀先の事を​シル​​記​したるは、一卷に​ミ​​滿​たず、太宗の紀も一卷に​ミ​​滿​たず。十二卷の內 十卷 餘りは皆 太祖︀の紀にして、祖︀先の紀は、太祖︀の實錄の​ホツタン​​發端​​ス​​過​ぎず、太宗の紀も、太祖︀の實錄の​ケツマツ​​結末​と見らるゝが故に、太祖︀の名を​モツパラ​​專​に用ひて​ヘウダイ​​標題​とせり。

 元太祖︀ 實錄と云はずして、​チンギス カン​​成吉思 汗​ 實錄と名づけたるは、何ぞや。​チンギス カン​​成吉思 汗​​タウジ ツウカウ​​當時 通行​​ソンガウ​​尊號​なり。太祖︀は、世祖︀ 至元 三年の​ツヰガウ​​追號​なり。數十年の後なる​ツヰガウ​​追號​を以て題すれば、數十年の後に[34]成れる書の如く聞ゆる​キラヒ​​嫌​あり。​カツ​​且​ 大德 七年に​ソウシン​​奏進​せる太祖︀ 實錄は、​ケダシ​​蓋​ 今の太祖︀ 本紀の本源にして、​ソロウ​​疏漏​なりし者︀と見ゆれば、その疏漏なる書と名を同じうすることを​サ​​避​け、當時の尊號を以て題したるなり。

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​Chinghis Khaghan​と云はずして、​チンギス カン​​成吉思 汗​と云へるは、何ぞや。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​タウジ​​當時​​ホンガウ​​本號​​チンギス カン​​成吉思 汗​​コウセイ​​後世​​リヤクシヨウ​​略稱​なり。​カン​​汗​​Khan​は、​キミ​​君​なり。​カガン​​可罕​​Khaghan​は、​カン​​罕​​Khan​​カン​​罕​​Khan​​キミ​​君​​キミ​​君​にして、​オホギミ​​大君​なり。此書には、一たびも​チンギス カガン​​成吉思 可罕​​カ​​可​を略きたる事なし。然れども太祖︀の​オホイ​​大​なる​ユヱン​​所以​は、名に​アヅカ​​關​らず。故に​ベンギ​​便宜​に從ひ略稱を用ひたり。


​モウコ​​蒙古​​コブン​​古文​​ワヤクブン​​和譯文​

 ​モウココトバ​​蒙古語​は、​アルタイ​​阿勅泰​ ​ゴゾク​​語族​​ゾク​​屬​して、我が​コクゴ​​國語​​ブンパフ​​文法​ 甚だ近く、殊にその​ソジハフ​​措辭法​は始ど同じければ、​コトバ​​語​ごとに​テキタウ​​適當​​ヤクゴ​​譯語​​ア​​當​てて、​メイシ​​名詞​ ​ダイメイシ​​代名詞​​カク​​格​​ドウシ​​動詞​​イヒカタ​​言方​などを誤らざれば、​オノヅカ​​自​ら我が​ブンシヤウ​​文章​​ナ​​爲​る。​ヤクドク​​譯讀​するにも、​カンブン​​漢︀文​ ​オウブン​​歐文​を讀むが如く​トビカヘ​​飛返​​ハネカヘ​​跳返​​ヒツヨウ​​必用​なし。

 ​タヾ​​唯​ ​メイシ​​名詞​ ​ダイメイシ​​代名詞​​タンブク​​單複​​ベツ​​別​ありて、之を譯するに一一​クベツ​​區別​することは頗る煩はし。代名詞の​フクスウ​​複數​は、​ワレラ​​我等​​ナンヂラ​​汝等​​コレラ​​此等​​ソレラ​​其等​の如く、​タイテイ​​大抵​「ら」を​ツ​​附​けたれども、​コレラ​​此等​の、​ソレラ​​其等​のと云へる​バアヒ​​場合​には、​ワウ​往往​「この」「その」と譯したる處あり。名詞の複數も、「ら」「ども」「だち」などを附けて​オダヤ​​穩​かなる處、附けざれば​イミ​​意味​​メイレウ​​明瞭​​カ​​缺​く處は、[35]必ず附けたれども、然らざる處には​ハブ​​略​けるも有り。​セイシ シユゾク​​姓氏 種族​の名は、單複 共に​ゲンヤクジ​​原譯字​のまゝに書きて、複數の處には注を加たり。​タト​​例​へば​キヤン​​乞顏​​Khiyan​​ウヂ​​氏​の複數は​キヤト​​乞牙惕​​Khiyat​なれば、​キヤト​​乞牙惕​乞顏の複)と書けり。

 ​ヒテイ​​否定​​コトバ​​詞​は、​ワレ​​我​にては​ジヨドウシ​​助動詞​なれども、​カレ​​彼​にては​フクシ​​副詞​なり。その否定の​フクシ​​副詞​は、​ウル​​兀祿​​ulu​​エセ​​額薛​​ese​との二つあり。​ウル​​兀祿​は漢︀語の「​フ​​不​」、​エセ​​額薛​は漢︀語の「​ビ​​未​」なり。​タト​​例​へば​オト バイ​​斡惕 罷​​ot bai​​サ​​去​りきにて、​ウル オト バイ​​兀祿 斡惕 罷​​ulu ot bai​​サ​​去​らざりきなり。​エセ​​額薛​も殆ど之に同じく、大抵は「いまだ」と云ふ副詞を​ソ​​添​ふるに​オヨ​​及​ばず。又この副詞は、必ず​ドウシ​​動詞​のすぐに​ウヘ​​上​にありて、漢︀文の如く​アヒダ​​閒​​ホカ​​他​​コトバ​​詞​​サシハサ​​插​むこと無し。​ヒテイメイレイ​​否定命令​ 卽ち​キンシ​​禁止​​コトバ​​詞​も、副詞なり。例へば​オト トガイ​​斡惕 禿該​​ot tughai​​サ​​去​れなり。これの上に​キンシ​​禁止​の副詞 ​ブ​​布​​bu​​ソ​​添​ふれば、去るなの​イ​​意​となる。​サイハヒ​​幸​に我が古語に​バ​​勿​と云ふ禁止の副詞ある故に、それを用ひて「​ナ​​勿​ ​サ​​去​りそ」と譯せり。

 ​ヂカク​​持格​の代名詞は、大抵必ずには非ずその​ゾク​​屬​する名詞の​シタ​​下​​イ​​入​る。「​ワ​​我​​コ​​子​ ​コ​​來​よ」と云ふことを「​コ​​子​ ​ワ​​我​​コ​​來​よ」と云ひ、「​ナンヂ​​汝​​チヽ​​父​ ​ヲ​​居​るか」と云ふことを「​チヽ​​父​ ​ナンヂ​​汝​​ヲ​​居​るか」と云ふ。此等は、我が​ソジハフ​​措辭法​​シタガ​​從​ひ、​コトバ​​語​の順序を改めて譯せり。​シユカク​​主格​の代名詞は、大抵これも必ずには非ず動詞の下に入る。「​ワレ​​我​ ​オホイ​​大​​ヨロコ​​喜​べり」と云ふことを「大に喜べり、​ワレ​​我​」と云ひ、「​ナンヂ​​汝​ ​ワレ​​我​​シカ​​然​ ​イ​​言​はざりしか」を「​ワレ​​我​​シカ​​然​ ​イ​​言​はざりしか、​ナンヂ​​汝​」と云[36]ふ。​モクテキカク​​目的格​の代名詞も、動詞の​シタ​​下​​マハ​​廻​さるゝことあり。「​ワレラ​​我等​ ​チカラ​​力​​ツク​​盡​して​カレラ​​彼等​​タス​​助​けん」を「​ワレラ​​我等​ 力を盡して助けん、​カレラ​​彼等​を」又は「力を盡して助けん、彼等を我等」と云ふ。此等は、皆 ​モト​​原​の順序のままに譯せり。又 敍事の文に、​シユカク​​主格​は必ずしも​ウヘ​​上​にあらず。「​テムヂン​​帖木眞​​Temjin​​タイチウト​​泰赤兀惕​​Taichiut​ ​トラ​​執​​ユ​​往​きて」「​カフ​​甲​​ニ​​逃​げたるを​ミ​​見​​オツ​​乙​​イソ​​急​ぎ、」「​カフ​​甲​を乙に​オ​​追​はしめて​ヘイ​​丙​​ツヾ​​續​き、」「​カフ​​甲​​スヽ​​勸​められて乙を丙は​シカジカ​​云云​」など。此等は、本のまゝに譯すべきは、云ふまでも無く、すべて主格の​イチ​​位置​​バアヒ​​場合​に由りていづこにも​ジイウ​​自由​​ウゴ​​動​かし得るは、てにをはを多く用ふる國語の​トクチヤウ​​特長​にして、我が國語にても、​カンブン クンドク タイ​​漢︀文 訓讀 體​​ハヤ​​流行​らぬ頃までは、蒙古文の如くなりしなり。

 又 蒙古の​コゴ​​古語​は、​サバク​​沙漠​​ホカ​​外​​ドクリツ​​獨立​して、​カンゴ ボンゴ​​漢︀語 梵語​​エイキヤウ​​影響︀​を少しも​カウム​​蒙​らず、​ジユンスヰ シヤウジヤウ​​純粹 淸淨​なる​ヲトメ コクゴ​​處女 國語​なり。支那 印度の文物 宗敎の影響︀を受けざりしは、國語の獨立よりも珍しき事なれども、本論の外なれば、こゝには言はず。數千の名詞の​ウチ​​中​にて、​カンゴ​​漢︀語​​デンクワ​​轉訛​​オボ​​覺​しきものは、​ウヂン​​兀眞​​ujin​​フジン​​夫人​​デン​​轉​​タイシ​​大石​​taishi​​タイシ​​太師​の轉、​リンクン​​領昆​​linkun​​リンコン​​令公​の轉の​タグヒ​​類︀​​ス​​過​ぎず。​グワイコク​​外國​​チメイ ジンメイ​​地名 人名​​ヨ​​呼​ぶにも、大抵 ​モウコナ​​蒙古名​あり。​シナジン​​支那人​​キタン​​乞壇​​Khitan​、その複 ​キタト​​乞塔惕​​Khitat​​カウライジン​​高麗人​​シヨランガ​​莎郞合​​Sholangha​、その複 ​シヨランガス​​莎郞合思​​Sholanghas​​キンコク クワウテイ​​金國 皇帝​​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​Altan Khan​​ソウ​​宋​​チヤウクワン​​趙官​​Chaukuan​趙家の轉か)、西夏を​カシン​​合申​​Khashin​河西の轉)、​ヤコレイ​​野狐嶺​​クネゲン ダバ​​忽捏堅 荅巴​​Khunegen daba​​キヨヨウクワン​​居庸關​​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​Chabchiyal​​リヨウコダイ​​龍虎臺​​シラ ケエル​​失喇 客額兒​​Shira keer​​クワウガ​​黃河​​シラ ムレン​​失喇 木嗹​​Shira muren​と云ふ。又 外國の​メイシヨウ​​名稱​​トリモチ​​採用​ひても、​ナニホド​​何程​​オン​​音​​カ​​易​へ、又は蒙古の​ゴビ​​語尾​を加ふ。​オトラル​​斡惕喇兒​​Otrar​​ウドラル​​兀都︀喇兒​​Udurar​​ウルゲンヂ​​兀兒堅只​​Urghenji​​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​Uronghechi​[37]と云ひ、​ヒンド​​欣都︀​​Hindu​​ジン​​人​​ヒンドスト​​欣都︀思惕​​Hindust​​ルス​​嚕思​​Russ​​ジン​​人​露西亞人)を​オルスト​​斡魯速惕​​Olusut​​キプチヤク​​乞卜察克​​Kipchak​​ジン​​人​​キブチヤウト​​乞卜察兀惕​​Kibchaut​​アシ​​阿昔​​Asi​​ジン​​人​​アスト​​阿速惕​​Asut​​チウアジア​​中亞細亞​​モハメト​​抹哈篾惕​​Mohammed​ ​ケウト​​敎徒​なる​サルト​​撒兒惕​​Sart​​ジン​​人​​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​Sartaul​と云ふ。此等は、皆 蒙古の音をそのまゝに譯して、​ホンメイ​​本名​を注に擧げたり。

 蒙古文の甚だ​キイ​​奇異​にして甚だ​オモシロ​​面白​きは、​ヰンブン​​韻文​ 多き事なり。その​ヰンブン​​韻文​は、皆 ​タクミ​​巧​​トウヰン​​頭韻​​ナラ​​排​べたる者︀にして、漢︀文には​モト​​固​よりその​ハフ​​法​なく、​オナ​​同​​ゴゾク​​語族​なる我が國語にもその​レイ​​例​ ​マレ​​希​なり。漢︀文には、​ソウセイ​​雙聲​と云ひて、​シンシ​​參差​​メンマン キクキウ​​綿蠻 鞠躬​​シユクセキ​​踧踖​の如く、​ハツセイ​​發聲​成音の首の父音​オナ​​同​じき​モジ​​字​​フタ​​二​​カサ​​重​ぬる詞は多けれども、蒙古の​トウヰン​​頭韻​は、それには非ず。我が​コカ​​古歌​に「​○​​た​きのおとは、​○​​た​えて​ヒサ​​久​しく​○​​な​りぬれど、​○​​な​こそ​○​​な​がれて、​○​​な​​キコ​​聞​えけれ」と云へる如く、​マイク​​毎句​​カシラ​​頭​ 又は​マイゴ​​毎語​​カシラ​​頭​に、同じ​セイオン​​成音​​オ​​置​きて、雙聲の如く父音の音のみ同じきには非ず。​ゴテウ​​語調​​オモシロ​​面白​くするなり。この​ゴテウ​​語調​は、日本語にては、​クワイギヤク​​詼謔​​コトバ​​辭​に最も​テキ​​適​して聞ゆれども、蒙古語にては、​カクゲン​​格言​​コゲン​​古諺​より​キドアイラク​​喜怒哀樂​​ジヤウ​​情​​ノ​​抒​ぶる​コトバ​​辭​​ケウクン​​敎訓​の辭、​キツセキ​​詰責​の辭、​クワイシヤ​​悔︀謝​の辭に至るまで、皆この韻文を用ふ。その​ウチ​​中​には​モノガタリ​​物語​を傳へたる人の作れる​モンク​​文句​も多かるべけれども、​グワンライ​​元來​ 蒙古語にかゝる​ハヤリ​​流行​ありし故に、作れる人も作れるなるべし。然らばかゝる​ブンシヤウ​​文章​​トクシユ​​特種​​シウジ​​修辭​を加へたる​ゲンゴ​​言語​は、蒙古人の​モンジ​​文字​を知らざりし時より​オコナ​​行​はれたるなり。日本人は千五百餘年の前、印度人は三千餘年の前、文字に依らずして​ブンシヤウ​​文章​[38]りし事あるは、文字は無くとも​カイクワ​​開化​​ド ヤヽ スヽ​​度 稍 進​みたる時なるが、​ウマ​​馬​​チ​​乳​​ノ​​飮​​ヒツジ​​羊​​カハ​​皮​​キ​​着​​キウロ​​穹廬​​ス​​住​みて、​シヤレフ​​射獵​​ゲフ​​業​とせる​ジユンイ​​純夷​​タミ​​民​にも​ハヤ​​夙​くより文章ありしは、​メヅラ​​珍​しき事なり。

 その韻文の例を​スコ​​少​し述べん。​ドウダンジヨ​​童男女​​ビモク セイシウ​​眉目 淸秀​なるを​ケイヨウ​​形容​して「​メ​​目​​ヒ​​火​あり、​メン​​面​​ヒカリ​​光​あり」と云ふ。​メ​​目​​ニドン​​你敦​​nidun​​メン​​面​​ニウル​​你兀兒​​niur​にて、​ニ​​你​を頭韻とせり。​ヒ​​火​​ガル​​合勒​​ghal​、光は​グレ​​格咧​​ghere​にて、​ガ​​合​​gha​​ゲ​​格​​ghe​​コヱ​​聲​ ​チカ​​近​きが故に​ツウヰン​​通韻​に用ひたり。​ワ​​余​​ヤクブン​​譯文​​ニドン​​你敦​​マナコ​​眼​と譯せず、​ニウル​​你兀兒​​カホ​​顏​と譯せずして、​メ​​目​​メン​​面​とにしたるは、蒙古の頭韻に​マネ​​眞似​たる​シヤレ​​酒落​なり。この句の韻の​フミカタ​​蹈方​(には非ず、​イタヾキカタ​​戴方​)は、​カククヰン​​隔句韻​にて、​カミノク​​上句​​カシラ​​頭​​シモノク​​下句​​カシラ​​頭​​ヰン​​韻​​オ​​押​し、上句の​ハラ​​腹​と下句の​ハラ​​腹​と韻を押せり。この​カククヰン​​隔句韻​は、その例 甚だ少し。​フツウ​​普通​​アフヰン​​押韻​は、上句の​コトバ​​語​どもに​アル​​或​ 韻を​カナ​​重​ね、下句の語どもに​タ​​他​の韻を​カサ​​重​ぬるなり。​タト​​例​へば​ジモク​​耳目​​スルド​​銳​き事を「​イタチ​​鼬​となりて​キ​​聽​き、​ギンソ​​銀鼠​となりて​ミ​​視︀​る」と云ふ。​イタチ​​鼬​​ソエカ​​鎻耶合​​soyekha​​キ​​聽​くは​シヨノス​​莎那思​​shonos​にて、​ソ​​鎻​​シヨ​​莎​​sho​​ツウ​​通​じ、​ギンソ​​銀鼠​​ウネン​​兀年​​unen​​ミ​​見​るは​ウヂエ​​兀者︀​​uje​にて、​ウ​​兀​​u​を韻とせり。もし之を譯して韻を合はせんとならば、​ドウブツ​​動物​​ナ​​名​​カ​​換​ふるより​ホカ​​外​にすべなし。「​キツネ​​狐​となりて​キ​​聽​き、​ミヽヅク​​角鴟​となりて​ミ​​視︀​る」などは、いかゞ。又 ​キウバフ ケツリフ​​窮乏 孑立​​サマ​​狀​を「​カゲ​​影​よりに​ホカ​​外​​トモ​​伴​なく、​ヲ​​尾​より​ホカ​​外​​ムチ​​鞭​なし」と云ふ。​カゲ​​影​​セウデル​​薛兀迭兒​​seuder​​ヲ​​尾​​セウル​​薛兀勒​​seul​にて、​セウ​​薛兀​​seu​を韻とせり。​トモ​​伴​​ムチ​​鞭​とは韻を成さざれば、隔句韻には非ず、二句を一句として、只一つの韻を[39]押したるなり。日本語ならば、「​カゲ​​影​の外に​トモ​​伴​なく、​カラダ​​體​の外に​モノ​​物​なし」など云ひたし。すべて頭韻ある文は、​ツイク​​對句​より成り、​ミジカ​​短​きは二句、​ナガ​​長​きは​ニセツ​​二節︀​ ​アル​​或​​ニダン​​二段​なれども、​マレ​​稀​には三句 又は三節︀にして、三韻を用ふることあり。又 ​キハ​​極​めて​マレ​​稀​には十句もありて韻も屢 換へて對句を成さざるもあり。前に引きたるは、いづれも短き二句の例なれども、​ブルカン​​不兒罕​​Burkhan​​ダケ​​嶽​​カミ​​神︀​に太祖︀の​カンシヤ​​感謝​したる辭の​チウダン​​中段​などは、二節︀づゝの二段より成り、前段は​ブ​​不​​bu​の韻を九つ​タヽ​​疊​み、後段は​カ​​合​​kha​の韻を九つ疊みたり。韻文は、譯すれば、​マツタ​​全​​キヨウミ​​興味​を失ひて、​サンブン​​散文​よりも​ツタナ​​拙​くなる故に、譯文の​ヒダリ​​左​に原字の​ヰンゴ​​韻語​を一一書き添へて、その​ブン​​文​​ツタナ​​拙​​コトハ​​語​​オダヤ​​穩​かならざる處あるは韻文の爲なることを知らしめんとす。

 蒙古語に、​ナホ​​猶​ ​ヒト​​一​​オモシロ​​面白​​コト​​事​あり。そは、​ボンゴ​​梵語​にて​サンヂヒ​​散提​​sandhi​​トナ​​稱​ふる​ケフヰン​​協韻​​ハフ​​法​にして、蒙古語のみならず、​マンジウコトバ​​滿洲語​ ​トルクコトバ​​突︀兒克語​など、​アルタイ​​阿勒泰​ ​ゴゾク​​語族​​ゾク​​屬​する​シヨコク​​諸︀國​​ゲンゴ​​言語​に行はるゝ​イツシユ​​一種​​オンビン​​音便​なり。​メイシ​​名詞​​セツビゴ​​接尾語​、てにをは、​ジヨドウシ​​助動詞​などまれには組立名詞を組立つる下のことばは、​カミ​​上​​メイシ​​名詞​ ​ドウシ​​動詞​のおもなる​ボイン​​母音​​チカラ​​力​​ヨ​​依​りて、​オノ​​己​が母音を​カ​​變​へて、その母音に同じく​ナ​​化​るなり。例へば、​アニ オトヽ​​兄 弟​​アカ デウ​​阿合 迭兀​​akha deu​と云ひ、​アニ​​兄​ども​オトヽ​​弟​どもを​アカナル デウネル​​阿合納兒 迭兀捏兒​​akha nar deu ner​と云ふ。​ナル​​納兒​​ネル​​捏兒​も、「ども」の​コヽロ​​意​にして、上に​カ​​合​あれば、​ナ​​納​と云ひ、上に​デ​​迭​あれば、​ネ​​捏​と云ふ。てにをはの「に」を​エ​​額​​e​とも​ア​​阿​​a​とも云ふ。​オナン ムレン​​斡難︀ 木嗹​斡難︀ 河)の​テリウン​​帖哩溫​​teriun​)にと云[40]ふ時は、​テリウネ​​帖哩兀捏​​teriune​と云ひ、​ブルカン カルドン​​不兒罕 合兒敦​​Burkha Khardun​にと云ふ時は、​カルドナ​​合兒都︀納​​Kharduna​と云ふ。「より」又は「から」と云ふことを​アチヤ​​阿察​​acha​とも​エチエ​​額扯​​eche​とも云ふ。​センダイ​​仙臺​よりを​センダヤチヤ​​仙答牙察​​Sendayacha​​ツガル​​津輕​よりを​ツガラチヤ​​津合喇祭​​Tsugharacha​と云ひ、​エチゼン​​越前​よりを​エチゼネチエ​​越者︀捏扯​​Echijeneche​と云ふ。​コレラ​​此等​は、​ミナ​​皆​ ​ア​​阿​​エ​​額​との​カハ​​變​りの​レイ​​例​なるが、​オ​​斡​​ウ​​兀​との​カハ​​變​りも、これに同じ。この​ケフヰン​​協韻​あるが爲に、蒙古文の​オンドク​​音讀​には​イツシユ​​一種​​キヨウミ​​興味​あれども、譯文には​マツタ​​全​くその​アトカタ​​跡形​をも失へり。

 又 蒙古語には、​ル​​勒​​l​ 又は​ル​​兒​​r​にて​ハジ​​始​まる詞なし。​グワイコク​​外國​の人の名 人種の名などを​アラハ​​表​せる詞には、まれに​ラ​​剌​​la​ 又は​ラ​​喇​​ra​に始まれる名あれども、蒙古の古き詞には、​ルア​​魯阿​​lua​ 又は​ルエ​​魯額​​lue​と云ふ名詞の接尾語の外には、詞の​カシラ​​頭​​ルル​​勒兒​の音あるもの​サラ​​更​になし。​ルア​​魯阿​ ​ルエ​​魯額​は、漢︀字の​ヨ​​與​の字、日本語の「とともに」の意にして、必ず名詞の​ヲ​​尾​​ツ​​接​く詞なれば、これも、詞の頭に​ル​​魯​​lu​の音ありとは言ひ難︀し。日本の古き詞にも、助動詞の らるゝ らむ らし の外には、漢︀字の​トウ​​等​の意なる「ら」と云ふ接尾語一つあるのみにて、​ラギヤウ​​良行​に始まれる詞の更になきは、蒙古語に善く似たり。蒙古語も、​チカ​​近​き世となりては、外國の詞あまた​イ​​入​​マジ​​交​りて、​ル​​勒​ ​ル​​兒​に始まる詞のふえたるは、日本語に良行の音に始まる詞のふえたるに異ならず。すべて蒙古語も、​ホカ​​他​​クニグニ​​國國​と同じく、古と今と​ヘンセン​​變遷​ 多ければ、亞細亞の諸︀國の言語を​ヒカクケンキウ​​比較硏究​せんと​ホツ​​欲​する人は、その[41]古語に依らずばあるべからず。それには、祕史の蒙古文は、最も善き材料なり。

 ​キンポン​​今本​は、​ロシウフ​​盧州府​​チヤウタイシユ​​張太守​ ​イライ​​以來​​スウクワイ​​數囘​​テンシヤ​​轉寫​​ヘ​​經​たれども、​ツウタイ​​通體​ ​クワンゼン​​完善​にして、​ゴダツ​​誤脫​ 甚だ少し。字の​ヘンバウ​​偏旁​の誤り、字の​ヒダリ​​左​なる​オンフ​​音符​​オ​​脫​ちたるなどは、​ワウ​往往​あれども、前後にある同じ語を​サガ​​探​して​ヒカク​​比較​すれば、改正せられざること無し。​マレ​​稀​には​タシカ​​慥​​ダツゴ ダツブン​​脫語 脫文​ありと思はるゝ處あり。​オギナ​​補​ひ得る​カギリ​​限​は、補ひて譯せり。又 原文には​ダツゴ​​脫語​なけれども、譯すれば​コトバ​​語​の足らざることあり。​ヨリトモ​​賴朝​​ツマ​​妻​ ​マサコ​​政子​と云ふべきを、蒙古文にては​ヨリトモ​​賴朝​​マサコ​​政子​と云ふことあり。其等は[​ツマ​​妻​]の字を補へり。すべて補へる文には、​フタ​​蓋​​ソコ​​底​との​シルシ​​符​[ ]を用ひて、​チウシヤク​​注釋​に用ふる​クワツコ​​括弧​の符( )と區別せり。又 明の時に​スデ​​已​に解しかねたりと見えて​ハウヤク​​旁譯​​ホドコ​​施​さざる處あり。其等は、解し得らるゝだけは譯し、解せられざる者︀は、​アヘ​​敢​てごまかさず、原語をそのまゝに擧げたり。其等も、今の蒙古語と比較して考へなば、解せられざる事も無かるべければ、他日 又 ​コヽロ​​試​みん。

 此書の本文は、​トコロ​處處​​ダンラク​​段落​​キ​​切​りて、​ベツコウ​​別項​に書き出せり。​ソ​​其​は、蒙古字の原本に初より然りしにはあらで、明人の譯したる時、譯文を本文の閒に​サシハサ​​挿​まんが爲に切りたりと見えて、​ムリ​​無理​なる處あり。例へば「​ナニ​何何​​ノゾ​​望​​ミ​​見​​イ​​言​はく​シカジカ​​云云​」とある「​ミ​​見​て」にて前段を​トヾ​​止​め、「​イ​​言​はく云云」より後段の始まるが如き​タグヒ​​類︀​ ​シバ​屢​あり。[42]今 譯文のみの書にては、この​キリカタ​​切方​​カヽハ​​拘​るにも及ばざれども、數百年來この​カタチ​​形​にて傳はれる者︀を​ナホ​​直​すもいかゞと思ひて、​シバラ​​姑​​モト​​本​の切方に從へり。​ツヾ​​續​くべき處にて​キ​​斷​れたる處あるは、それが爲なり。


​ゲンテウ ヒシ​​元朝 祕史​​オンヤクハフ​​音譯法​

 此書は、明人の蒙古語を​ケンキウ​​硏究​せんが爲に譯したる者︀なれば、蒙古文を音譯するに、​コエンブ​​顧炎武​の「​ニウ​​紐​​セツシテ​切​其字、以諧其聲音」と云へる如く、​フイン​​父音​​セイダク​​淸濁​ ​ケイヂウ​​輕重​​ボイン​​母音​​カイガフ​​開合​ ​チヤウタン​​長短​、皆 善く​カナ​​諧​ひて、七百年前の蒙古の​セイオン​​聲音​​チクオンキ​​蓄音器︀​​タクハ​​蓄​へたるが如し。

 此書を譯せる​シシン​​史臣​、一人は​カンリン ジカウ​​翰林 侍講​ ​クワゲンケツ​​火原潔​、一人は​ヘンシフ​​編輯​ ​マイチク​​馬懿赤黑​にして、​マイチク​​馬懿赤黑​​Maichikh​ 又は​マシヤイク​​馬沙亦黑​​Mashaikh​の蒙古人なることは、その名にて知らる。​クワゲンケツ​​火原潔​も、​クワ​​火​と云ふ​ウヂ​​姓​​カンジン​​漢︀人​​キ​​聞​​ナ​​慣​れざる姓なれば、蒙古の​コルラス​​火嚕剌思​​Khorulas​ ​ウヂ​​氏​などの​タンセイ​​單姓​となれる者︀ならん。支那の​ジオン​​字音​は、​ナンボクテウ​​南北朝​ 以來 ​ツネ​​常​に南北に​ワカ​​分​れて、​ナンオン​​南音​には、​ホクオン​​北音​の如き​カウクワ​​淆訛​なし。此書は、明の​テウテイ​​朝廷​​ナンキン​​南京​に在りし時の譯なれば、音譯には南音を用ひたり。蒙古語に​クハ​​精︀​しき蒙古人にて​カウクワ​​淆訛​ ​スクナ​​少​き南音を以て音譯したれば、此書の如く​タヾ​​正​しき音譯は、​ホカ​​他​に比類︀少し。

 今 此書に用ひたる音譯 漢︀字を蒙古字の下に書きて、我が五十音圖の如き​ヨコタテ​​橫縱​​レツ​​列​​ナラ​​排​ぶれば、​サ​​左​の如し。二重音と撥ぬる音とは略けり。發音を明か[43]にせんが爲に、羅馬字を下に書き添へたり。

テンプレート:Mongolian missing

​ア​​阿​​ダン​​段​ ​エ​​額​​ダン​​段​ ​イ​​宜​​ダン​​段​ ​オ​​斡​​ダン​​段​ ​ウ​​兀​​ダン​​段​ ​ヘンヰン​​變韻​​ダン​​段​ ​フイン​​父音​
​アギヤウ​​阿行​ ​ア​​阿​ (a) ​エ​​額​ (e) ​イ​​宜​ (i) ​オ​​斡​ (o) ​ウ​​兀​ (u) ​ウ​​兀​ (ö) (ü)
​ハギヤウ​​哈行​ ​ハ​​哈​ (ha) ​ヘ​​赫​ (he) ​ヒ​​希​ (hi) ​ホ​​訶​ (ho) ​フ​​許​ (hu) ​フ​​許​ (hö) (hü)
​カギヤウ​​合行​ ​カ​​合​ (kha) ​ケ​​客​ (ke) ​キ​​乞​ (ki) ​コ​​闊​ (kho) ​ク​​忽​ (khu) ​コ​​闊​ (kö) (kü) 黑 (kh) 克 (k)
​ガギヤウ​​合行​ ​ガ​​合​ (gha) ​ゲ​​格​ (ge) ​ギ​​吉​ (gi) ​ゴ​​豁​ (gho) ​グ​​古​ (ghu) ​グ​​古​ (gö) (gü) 黑 (gh) 克 (g)
​サギヤウ​​撒行​ ​サ​​撒​ (sa) ​セ​​薛​ (se) ​シ​​昔​ (si) ​ソ​​鎖​ (so) ​ス​​速​ (su) ​ス​​速​ (sö) (sü) ​ス​​思​ (s)
​シヤギヤウ​​沙行​ ​シヤ​​沙​ (sha) ​シエ​​雪​ (she) ​シ​​失​ (shi) ​シヨ​​莎​ (sho) ​シユ​​搠​ (shu) ​シユ​​搠​ (shö) (shü) (sh)
​チヤギヤウ​​察行​ ​チヤ​​察​ (cha) ​チエ​​徹​ (che) ​チ​​赤​ (chi) ​チヨ​​綽​ (cho) ​チユ​​出​ (chu) ​チユ​​出​ (chö) (chü) (ch)
​ヂヤギヤウ​​札行​ ​ヂヤ​​札​ (ja) ​ヂエ​​者︀​ (je) ​ヂ​​只​ (ji) ​ヂヨ​​勺​ (jo) ​ジユ​​主​ (ju) ​ヂユ​​主​ (jö) (jü) (j)
​ヤギヤウ​​牙行​ ​ヤ​​牙​ (ya) ​エ​​也​ (ye) ​イ​​亦​ (yi) ​ヨ​​約​ (yo) ​ユ​​余​ (yu) ​ユ​​余​ (yö) (yü) (y)
​タギヤウ​​塔行​ ​タ​​塔​ (ta) ​テ​​帖​ (te) ​チ​​的​ (ti) ​ト​​脫​ (to) ​ト​​禿​ (tu) ​ト​​禿​ (tö) (tü) ​ト​​惕​ (t)
​ダギヤウ​​荅行​ ​ダ​​荅​ (da) ​デ​​迭​ (de) ​ヂ​​的​ (di) ​ド​​朶​ (do) ​ド​​都︀​ (du) ​ド​​都︀​ (dö) (dü) ​ド​​惕​ (d)
​ナギヤウ​​納行​ ​ナ​​納​ (na) ​ネ​​捏​ (ne) ​ニ​​你​ (ni) ​ノ​​那​ (no) ​ヌ​​訥​ (nu) ​ヌ​​訥​ (nö) (nü) (n)
​バギヤウ​​巴行​ ​バ​​巴​ (ba) ​ベ​​別​ (be) ​ビ​​必​ (bi) ​ボ​​孛​ (bo) ​ブ​​不​ (bu) ​ブ​​不​ (bö) (bü) ​ブ​​卜​ (b)
​マギヤウ​​馬行​ ​マ​​馬​ (ma) ​メ​​篾​ (me) ​ミ​​米​ (mi) ​モ​​抹​ (mo) ​ム​​木​ (mu) ​ム​​木​ (mö) (mü) ​ム​​木​ (m)
​ラギヤウ​​剌行​ ​ラ​​剌​ (la) ​レ​​列​ (le) ​リ​​里​ (li) ​ロ​​羅​ (lo) ​ル​​魯​ (lu) ​ル​​魯​ (lö) (lü) ​ル​​勒​ (l)
​ラギヤウ​​剌行​ ​ラ​​剌​ (ra) ​レ​​列​ (re) ​リ​​里​ (ri) ​ロ​​羅​ (ro) ​ル​​魯​ (ru) ​ル​​魯​ (rö) (rü) ​ル​​兒​ (r)
​ワギヤウ​​洼行​ ​ワ​​洼​ (wa) (we) ​ヰ​​爲​ (wi)

[44]

 この​ヘウ​​表​の蒙古字の​カタチ​​形​は、​シユミツト​​搠米惕​​Schmidt​​モウコジビキ​​蒙古字引​​ヨ​​據​れり。一音に二字づゝ書きたるは、​コトバ​​語​​カシラ​​頭​​ツ​​附​​カタチ​​形​​コトバ​​語​​ヲ​​尾​に附く形とを​カキワ​​書分​けたるなり。​ヘンヰン​​變韻​​ダン​​段​は、語の尾に附くこと​マレ​​稀​なるが故に、その形を​ハブ​​略​けり。​スエ​​末​​ダン​​段​なる​ボイン​​母音​なき音を​アラハ​​表​せる字は、語の頭に附くことなければ、​ナカ​​中​​ハサ​​挾​まる形と尾に附く形とを​カキワ​​書分​けたり。​シユミツト​​搠米惕​の蒙古字引は、今の蒙古語を集めたるものにして、​カギヤウ​​合行​の合(kha) 闊(kho) 忽(khu)を(ha) (ho) (hu)の如く讀ませて、別に​ハギヤウ​​哈行​の音に始まる​コトバ​​語​はあらざる故に、この​ヘウ​​表​には、​ハギヤウ​​哈行​の音を​アラハ​​表​せる蒙古字を​カ​​闕​きたり。されども祕史には​アキラ​​明​かに​ハギヤウ​​哈行​の音を​アラハ​​表​せる譯字あれば、古代は別に​ハギヤウ​​哈行​の音ありて、​カギヤウ​​合行​​ジ​​字​を以てその​オン​​音​をも​アラハ​​表​したらんと思はる。この表に依れば、蒙古の音には、​サギヤウ​​撒行​​ダクオン​​濁音​、卽ち(z)を​フイン​​父音​とせる​セイイン​​成音​なし。​ヂヤギヤウ​​札行​​ヂ​​只​(ji)は、​チヤギヤウ​​察行​​チ​​赤​(chi)の​ダクオン​​濁音​にして、​サギヤウ​​撒行​​シ​​昔​(si)の​ダクオン​​濁音​に非ず。又(f)を​フイン​​父音​とせる​ケイシン​​輕脣​​セイイン​​淸音​も(p)を父音とせる​ヂウシン​​重脣​​セイオン​​淸音​巴行の淸音もなし。(h)を父音とせる​ハギヤウ​​哈行​の音は​シンオン​​脣音​に非ず、​コウオン​​喉音​​ゾク​​屬​して、​カギヤウ​​合行​​カロ​​輕​き音なり。​カ​​合​(kha) ​ク​​忽​(khu) ​ガ​​合​(gha) ​ゴ​​豁​(gho)の四字實は三字​ヒダリ​​左​​チウ​​中​の字を[45]​チヒサ​​少​​ツ​​附​けたるは、この三字は​モト​​本​ ​ハギヤウ​​哈行​の音(xa) (hu) (ho)なるを​カギヤウ​​合行​​セイダクオン​​淸濁音​​カリモチ​​借用​ひたることを示せる​フガウ​​符號​なり。​カン​​罕​(khan) ​カン​​含​(kham) ​コン​​晃​(khong) ​クン​​渾​(khun) ​カイ​​孩​(khai) ​クイ​​灰​(khui)なども、それに同じ。​ラギヤウ​​剌行​の六字實は五字​ヒダリ​​左​​チヒサキ​​小​​シタ​​舌​の字あるは、この五字は、みな​ラギヤウ​​剌行​の音 卽ち(l)を父音とせる音にして、漢︀字には、(r)を父音とせる音なきが故に、​ラギヤウ​​剌行​の字を借りて、​ケンゼツオン​​捲舌音​なることを示せる符號を附けたるなり。​ラン​​闌​(ran) ​ラン​​藍​(ram) ​レン​​連​(ren) ​レン​​廉​(rem) ​リン​​鄰​(rin) ​リン​​零​(ring) ​リン​​林​(rim) ​ロン​​欒​(ron) ​ルン​​侖​(run)など、みな同じ。​ク​​黑​(kh) ​ク​​克​(k) ​グ​​黑​(gh) ​グ​​克​(g) ​ス​​思​(s) ​ト​​惕​(t) ​ド​​惕​(d) ​ブ​​卜​(b) ​ム​​木​(m) ​ル​​勒​(l)の十字實は七字は、​フイン​​父音​のみにて​ボイン​​母音​なき音を譯したる字にして、此書には、必ず右に​ヨ​​倚​せて​チヒサ​​少​く書けり。​マギヤウ​​馬行​​ウ​​兀​の段に​ム​​木​(mu)の字、​ヘンヰン​​變韻​の段に​ム​​木​(mö)(mü)の字あれども、​ム​​木​(mu) ​ム​​木​(mö)(mü)は、​タイジ​​大字​に書けるが故に、​サイジ ハウシヨ​​細字 旁書​​ム​​木​(m)と​マギ​​混​るゝことなし。​ラギヤウ​​剌行​​ル​​兒​(r)も、父音のみなれども、この字の音は、本より母音なきが如く聞ゆる音なれば、右にも​ヨ​​倚​せず、大字に書けり。

 右の表を見ん人は、蒙古字のいかにも同じ形にて異なる音を​アラハ​​表​せるもの多きことに​コヽロツ​​心附​くなるべし。​ア​​阿​の段と​エ​​額​の段とは、​アギヤウ​​阿行​ ​カギヤウ​​合行​ ​ガギヤウ​​合行​ ​シヤギヤウ​​沙行​の外はみな同じ。​オ​​斡​の段と​ウ​​兀​の段とは、​カギヤウ​​合行​ ​ガギヤウ​​合行​の外はみな同じく、その​ニギヤウ​​二行​も、語の頭にては同じ。​グワンライ​​元來​ 蒙古字の本なる委兀兒字は、​シリア​​失哩亞​​Syria​の文字より出でたるものにして、​シリア​​失哩亞​の文字は、母音の​アラハ​​表​​カタ​​方​ ​ジフブン​​十分​ならざりしかば、蒙古もその例に​ナラ​​做​ひ、母音の府號 ​ソナ​​備​はらず。殊に蒙古語には​ケフヰン​​協韻​[46]​ハフ​​法​ありて、​ア​​阿​​エ​​額​と互に​カハ​​變​り、​オ​​斡​​ウ​​兀​と互に​カハ​​變​る故に、​アオ​​阿斡​の二段を以て​エウ​​額兀​の二段を​カ​​兼​ぬることは、却て​カンベン​​簡便​なりしならん。又 ​カギヤウ​​合行​の濁音には、濁音の符號を附けたるもあり、附けざるもあり。​タギヤウ​​塔行​の濁音は、全く淸音に同じく、何の符號をも附けず。​ワ​​我​が國にては、​コジキ​​古事記​ ​ニホンギ​​日本紀​ ​マンエフシフ​​萬葉集​など​セイダクオン​​淸濁音​​クベツ​​區別​ ​タヾ​​正​しかりしに、後の世の​ヒトビト​​人人​​ブシヤウ​​不精︀​になりて、​ニゴリテン​​濁點​を附くることを​イト​​厭​ひ、​ウタヨミ​​歌人​などは​ニゴリ​​濁​​ウ​​打​たぬを​カウガ​​高雅​なりと思ふに至れるを見れば、蒙古字の淸濁音を區別せざるも​アヤシ​​怪​むに足らず。蒙古学にはかくの如く​ドウケイ イオン​​同形 異音​ ​スコブ​​頗​る多けれども、蒙古語を語り居る人には、之を讀むに何の​サシツカヘ​​差支​も無かるべし。されども外國人にて、蒙古文を讀み、その發音を誤らざらんことは、甚だ難︀き​ワザ​​業​なるに、​サイハヒ​​幸​にも此書の音譯は、​アエ​​阿額​の二段、​オウ​​斡兀​の二段、​ハカガ​​哈合合​の三行、合の淸濁 二音を同字にて譯したるの外、​タダ​​塔荅​の二行など、皆 正しく譯し分けたれば、蒙古の古音を學ぶには、蒙古字の原文に依らんよりも​タヨリ​​便​ ​ヨ​​善​し。只 ​ヘンヰン​​變韻​​ダン​​段​は、その音に​テキタウ​​適當​する漢︀字なき故に、​タイテイ​​大抵​ ​ウ​​兀​の段の字を用ひて譯せり。又 明の世には、已に 百數十年 ​マヘ​​前​の蒙古音を正しく知りかねたるもありと見えて、音譯の​ゼンゴ​​前後​ ​タガ​​違​へるあり。前に​スケガイ​​速客該​と譯したるを後に​スゲカイ​​速格孩​と譯し、前の​セチエ​​薛徹​を後に​サチヤ​​撒察​、前の​タカイ​​塔孩​を後に​ダカイ​​荅孩​と譯したる處あり。是等は、​ワ​​我​が譯本には、誤りの明かなる所の外は、​ゲンヤクジ​​原譯字​をそのまゝに書きて、その​イドウ​​異同​[47]​チウ​​注​したり。

 又すべて​ワ​​我​が譯本の地名 人名などは、此書の譯字をそのままに書きたれば、​イチミギガハ​​一一右傍​​カナ​​假名​をふりたり。​タヾシ​​但​ 我が假名には、​ハギヤウ​​哈行​​フ​​許​(hu) ​フン​​渾​(hun) ​フイ​​灰​(hui)などを​アラハ​​表​すべきものなきが故に、​カリ​​假​に フ(fu)を用ひ、(hk)と(k)とも、(gh)と(g)とも、假名にては區別なし。又 字の​ヒダリ​​左​に中の字を添ふることも、​シヨクジ​​植字​​フベン​​不便​なるが故に略けり。​サギヤウ​​撒行​​シ​​昔​(si)と​シヤギヤウ​​沙行​​シ​​失​(shi)とは、蒙古字にても區別なし。​ダギヤウ​​荅行​​ヂ​​的​(di)は、適當の假名なき故に、​ヂヤギヤウ​​札行​​ヂ​​只​(ji)に同じき假名をふり、​ヤギヤウ​​牙行​​エ​​也​(ye)には、​アギヤウ​​阿行​​エ​​額​(e)に同じき假名をふり、​ヂン​​丁​(ding) ​エン​​延​(yen)なども然り。(l)なる​ラギヤウ​​剌行​も(r)なる​ラ​​剌​行も、同じく我が​ラギヤウ​​剌行​の假名をふりて、​ラギヤウ​​剌行​の字の左なる​シタ​​舌​の字の代りに​クチヘン​​口扁​を添へたり。​タギヤウ​​塔行​​ト​​禿​(tu) ​ダギヤウ​​荅行​​ド​​都︀​(du)は、ツ(tsu) ヅ(dzu)としても、原音に​トホ​​遠​ざかる故に、日本 ​ジウライ​​從來​​カンオン​​漢︀音​の母音に從ひ、​オ​​斡​の段の假名をふり、​トン​​屯​(tun) ​トン​​統​(tung) ​ドン​​敦​(dun)なども、みなしかせり。​ク​​黑​(kh) ​ク​​克​(k) ​グ​​黑​(gh) ​グ​​克​(g) ​ス​​思​(s) ​ト​​惕​(t) ​ド​​惕​(d) ​ブ​​卜​(b) ​ム​​木​(m) ​ル​​勒​(l) ​ル​​兒​(r)の八字 十一音は、父音のみにて、我が​セイインガナ​​成音假名​にて​アラハ​​表​し難︀ければ、​ウ​​兀​の段の假名惕のみは、斡の段の假名を借りてふりたり。

 又 此書の音譯は、右の如く譯字を定め置きながら、​ナホ​​猶​ ​コトバ​​語​​イミ​​意味​を知り易からしめんが爲に、​シユ​種種​なる​イジ​​異字​を用ひたり。​カハ​​河​​ムレン​​木連​なるを​ムレン​​沐漣​と書き、​ヤマ​​山​​ナ​​名​​ブルカン​​不兒罕​​ブル​​不峏​​カン​​罕​と書き、​テウソ​​貂鼠​​ブルカン​​不魯罕​なるを​ブル​​不𪖌​​カン​​罕​と書き、​ウマ​​馬​​モリ​​抹里​ 又は​モリン​​抹鄰​なるを[48]​モリ​​秣驪​ 又は​モリン​​秣驎​と書き、​カド​​門​​エウデン​​額兀顚​なるを​エウデン​​額䦍闐​と書き、​ユミ​​弓​​ヌム​​訥木​なるを​ヌム​​弩木​と書き、​ノゾ​​望​むは​カラ​剌​なるを​カラ​𥈙​と書き、​ユ​​行​くは​ヤブ​​牙不​なるを​ヤブ​​迓步​と書き、​クラ​​食​ふは​イデ​​亦迭​なるを​イデ​​亦咥​と書ける​タグヒ​​類︀​なり。今 ​コユウ メイシ​​固有 名詞​​ソレラ​​其等​の異字ある時は、みな一定の音譯字に改め書けり。

 近世史書に用ひらるゝ音譯の內にては、​ケンリウ​​乾隆︀​​チヨクセン​​勅撰​なる​レウキンゲンシ ゴカイ​​遼金元史 語解​​ヤヽ​​稍​ ​ハフソク​​法則​あり。その​キツタン​​契丹​ ​ヂヨシン​​女眞​ ​モウコ​​蒙古​​シヨコクゴ​​諸︀國語​​カイシヤク​​解釋​には誤り多く、三史の音譯字を悉く改定したるは、殆どみな​フクワイ ヅザン​​附會 杜撰​なれども、一定の音に一定の字を當てたるだけは、從來の史書に​マサ​​勝​れり。乾隆︀ 以後の史書は、多くその音譯法に從ふが故に、今祕史の音譯と​ヒカク​​比較​せんが爲に、その音譯字を​マンヂウモジ​​滿洲字​〈[#「滿洲字」は底本では「滿州字」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉の下に書きて​ハイレツ​​排列​すること左の如し。

テンプレート:Manchu missing

​ア​​阿​​ダン​​段​ ​エ​​額​​ダン​​段​ ​イ​​伊​​ダン​​段​ ​オ​​鄂​​ダン​​段​ ​ウ​​烏​​ダン​​段​ ​ナガウ​​長烏​​ダン​​段​ ​フイン​​父音​
​アギヤウ​​阿行​ ​ア​​阿​ (a) ​エ​​額​ (e) ​イ​​伊​ (i) ​オ​​鄂​ (o) ​ウ​​烏​ (u) ​ウー​​諤​ (ū)
​ガギヤウ​​喀行​ ​カ​​喀​ (ka) ​ケ​​克​ (ke) ​キ​​奇​ (ki) ​コ​​科​ (ko) ​ク​​庫​ (ku) ​クー​​庫​ (kū) ​ク​​克​ (k)
​ガギヤウ​​噶行​ ​ガ​​噶​ (ga) ​ゲ​​格​ (ge) ​ギ​​吉​ (gi) ​ゴ​​果​ (go) ​グ​​古​ (gu) ​グー​​古​ (gū) ​ング​​□​ (ng)
​ハギヤウ​​哈行​ ​ハ​​哈​ (ha) ​ヘ​​赫​ (he) ​ヒ​​希​ (hi) ​ホ​​和​ (ho) ​フ​​呼​ (hu) ​フー​​呼​ (hū) (h)
​サギヤウ​​薩行​ ​サ​​薩​ (sa) ​セ​​色​ (se) ​シ​​錫​ (si) ​ソ​​索​ (so) ​ス​​蘇​ (su) ​スー​​蘇​ (sū) ​ス​​斯​ (s)
​シヤギヤウ​​沙行​ ​シヤ​​沙​ (sha) ​シエ​​舍​ (she) ​シ​​實​ (shi) ​シヨ​​碩​ (sho) ​シユ​​舒​ (shu) ​シユ​​舒​ (shū) (sh)
​ツアギヤウ​​攃行​ ​ツア​​攃​ (ts'a) ​ツェ​​策​ (ts'e) ​ツオ​​磋​ (ts'o) ​ツ​​粗​ (ts'u) (ts')
​ヅアギヤウ​​咱行​ ​ヅア​​咱​ (dza) ​ヅエ​​則​ (dze) ​ヅイ​​資​ (dzi) ​ヅオ​​佐​ (dzo) ​ヅ​​租​ (dzu) ​ヅー​​租​ (dzū) (dz)
​チヤギヤウ​​察行​ ​チヤ​​察​ (cha) ​チエ​​徹​ (che) ​チ​​齊​ (chi) ​チヨ​​綽​ (cho) ​チユ​​楚​ (chu) ​チユー​​楚​ (chū) (ch)
​ヂヤギヤウ​​扎行​ ​ヂヤ​​扎​ (ja) ​ヂエ​​哲​ (je) ​ヂ​​濟​ (ji) ​ヂヨ​​卓​ (jo) ​ヂユ​​珠​ (ju) ​ヂユー​​珠​ (jū) (j)
​ジヤギヤウ​​饒行​ ​ジヤ​​饒​ (zya) ​ジエ​​熱​ (zye) ​ジ​​日​ (zyi) ​ジヨ​​弱​ (zyo) ​ジユ​​儒​ (zyu) (zy)
​タギヤウ​​塔行​ ​タ​​塔​ (ta) ​テ​​特​ (te) ​チ​​題​ (ti) ​ト​​托​ (to) ​ト​​圖​ (tu) ​トー​​圖​ (tū) ​ト​​特​ (t)
​ダギヤウ​​達行​ ​ダ​​達​ (da) ​デ​​德​ (de) ​ヂ​​廸​ (di) ​ド​​多​ (do) ​ド​​都︀​ (du) ​ドー​​都︀​ (dū) (d)
​ナギヤウ​​納行​ ​ナ​​納​ (na) ​ネ​​訥​ (ne) ​ニ​​尼​ (ni) ​ノ​​諾​ (no) ​ヌ​​努​ (nu) ​ヌー​​努​ (nū) ​ン​​□​ (n)
​バギヤウ​​巴行​ ​バ​​巴​ (ba) ​ベ​​伯​ (be) ​ビ​​必​ (bi) ​ボ​​博​ (bo) ​ブ​​布​ (bu) ​ブー​​布​ (bū) ​ブ​​補​ (b)
​パギヤウ​​帕行​ ​パ​​帕​ (pa) ​ペ​​珀​ (pe) ​ピ​​闢​ (pi) ​ポ​​頗​ (po) ​プ​​普​ (pu) ​プー​​普​ (pū) (p)
​マギヤウ​​瑪行​ ​マ​​瑪​ (ma) ​メ​​默​ (me) ​ミ​​密​ (mi) ​モ​​摩​ (mo) ​ム​​穆​ (mu) ​ムー​​穆​ (mū) ​ム​​穆​ (m)
​ヤギヤウ​​雅行​ ​ヤ​​雅​ (ya) ​エ​​頁​ (ye) ​ヨ​​約​ (yo) ​ユ​​裕​ (yu) ​ユー​​裕​ (yū) (y)
​ラギヤウ​​拉行​ ​ラ​​拉​ (la) ​レ​​埒​ (le) ​リ​​里​ (li) ​ロ​​羅​ (lo) ​ル​​魯​ (lu) ​ルー​​魯​ (lū) ​ル​​勒​ (l)
​ラギヤウ​​喇行​ ​ラ​​喇​ (ra) ​レ​​哷​ (re) ​リ​​哩​ (ri) ​ロ​​囉​ (ro) ​ル​​嚕​ (ru) ​ルー​​嚕​ (rū) ​ル​​哷​ (r)
​ワギヤウ​​斡行​ ​ワ​​斡​ (wa) ​エ​​沃​ (we) (w)
​フアギヤウ​​法行​ ​フア​​法​ (fa) ​フエ​​弗​ (fe) ​フイ​​費​ (fi) ​フオ​​佛​ (fo) ​フ​​富​ (fu) ​フー​​富​ (fū) (f)

[49]

 この​ヘウ​​表​​マンヂウモジ​​滿洲字​​カタチ​​形​は、​シンブンカン​​淸文鑑​​ヨ​​據​り、その發音は、三史 語解と​ボクリントク​​穆麟德​(Möllendorff)の​マンチウ ブンパフシヨ​​滿洲 文法書​とに​ヨ​​據​れり。滿洲字は、蒙古字[50]に本づきて​カイセイ ゾウホ​​改正 增補​したるものにして、蒙古字の​ドウケイ イオン​​同形 異音​なるものには、​キソク​​規則​ ​タヾ​​正​しく​テン​​點​をつけて​クベツ​​區別​​アキラ​​明​かにせり。​ツアギヤウ​​攃行​ ​ヅアギヤウ​​咱行​ ​ジヤギヤウ​​饒行​ ​パギヤウ​​帕行​ ​フアギヤウ​​法行​の字は、蒙古字になかりしものを補へるなり。テンプレート:Manchu missing ​ナホ​​猶​その外に(k')を父音とせる​カギヤウ​​卡行​の🈵🈵​カ​​卡​(k'a)、🈵🈵​コ​​稞​(k'o)、(g')を父音とせる​カギヤウ​​嘎行​の🈵🈵​ガ​​嘎​(g'a)、🈵🈵​ゴ​​郭​(g'o)、(h')を父音とせる​ハギヤウ​​𡀾行​の🈵🈵𡀾(h'a)、​ホ​​豁​(h'o)、(sy)を父音とせる🈵​シ​​四​(syi)、(ts)を父音とせる🈵​チ​​此​(tsi)、(ch'y)を父音とせる🈵🈵勅(ch'yi)、(jy)を父音とせる🈵🈵​ヂ​​智​(jyi)などあれども、表には略けり。これらの補へる文字のうち、​カギヤウ​​卡行​ ​ガギヤウ​​嘎行​ ​ハギヤウ​​𡀾行​ ​ツアギヤウ​​攃行​ ​ヅアギヤウ​​咱行​ ​ジヤギヤウ​​饒行​の六行と🈵🈵🈵🈵の四音とは、支那の音を譯せんが爲に作れるなり。

 ​シリア​​失哩亞​より傳はれるこの​ヘウインジ​​表音字​は、​ウイグル​​委古兒​ ​モンゴル​​忙豁勒​​ヘ​​歷​て次第に改正し、滿洲字となりて、​ジクワク​​字畫​​マス​益​ ​カンイ​​簡易​​オモム​​赴​き、​フデ​​筆​​ハコ​​運​びも​ジザイ​​自在​になり、字の數は、吾の數だけ​ソナ​​備​はりて、​チヨウブク​​重複​の字もなく、一字を二音に用ふることもなし。​ジクワク カンイ​​字畫 簡易​​ウンピツ ジザイ​​運筆 自在​にして、口より出づる音を​メイクワク​​明確​​アラハ​​表​すものは、​ヘウインジ​​表音字​​モクテキ​​目的​​モツトモ ヨ​​最 善​​タツ​​達​したるものなりとせば、滿洲字は、​ジツ​​實​にその​リサウ​​理想​​チカ​​近​づきたる文字なり。されども漢︀字の​チカラ​​力​​オ​​壓​されて廣く用ひられざるを見れば、文字の​リウカウ​​流行​にも​イキホヒ​​勢​​キクワイ​​機會​とありて、その物の​ヨシアシ​​善惡​のみには​カヽハ​​拘​らざるを知るべし。

 又この表の音譯字の、前の表に同じきものは、字の​ヒダリ​​左​​ワ​​圈​[51]を附けたる三十一音 二十七字のみなり。​トツ​​訥​は、祕史にては​ナギヤウ​​納行​​ウ​​兀​​ダン​​段​(nu)なれども、こゝにては​エ​​額​​ダン​​段​(ne)なり。​ハク​​伯​は、祕史にては​バ​​巴​(ba)の​カハ​​代​りにも​ベ​​別​(be)の​カハ​​代​りにも​モチ​​用​ひたれども、こゝにては​ツネ​​常​​ベ​​別​(be)に同じ。​アツ​​斡​は、祕史にては​アギヤウ​​阿行​​オ​​斡​​ダン​​段​○なれども、こゝにては​ワギヤウ​​斡行​​ア​​阿​​ダン​​段​(wa)なり。​ラギヤウ​​喇行​の音に​クチヘン​​口扁​をつけたるは、祕史の​シタ​​舌​の字を書けるよりは​カンベン​​簡便​なり。​コク​​克​は、​カギヤウ​​喀行​​エ​​額​​ダン​​段​(ke)にも父音(k)にも用ひ、​トク​​特​は、​タギヤウ​​塔行​​エ​​額​​ダン​​段​(te)にも父音(t)にも用ひ、​ボク​​穆​は、​マギヤウ​​瑪行​​ウ​​烏​​ダン​​段​(mu)にも​ナガウ​​長烏​​ダン​​段​(mū)にも父音(m)にも用ひ、​ラツ​​哷​は、​ラギヤウ​​喇行​​エ​​額​​ダン​​段​(re)にも父音(r)にも用ひて、父音の場合に​サイジ ハウシヨ​​細字 旁書​​ハウ​​法​を取らざるが故に、父音と成音と常に​マギ​​混​れ易し。これは祕史の​カキカタ​​書方​より​オト​​劣​れり。近頃の人は、大抵 父音なる​ル​​勒​(l) ​ル​​哷​(r)の代りに​ジ​​爾​の字を用ふる故に、​エ​​額​​ダン​​段​なる​レ​​勒​(le) ​レ​​哷​(r)に​マギ​​混​るゝことはなけれども、その代りに​ラギヤウ​​拉行​​ラギヤウ​​喇行​(r)との區別を失へり。

 蒙古字 滿洲字の​カキカタ​​書法​ ​モチヒカタ​​用法​などは、この​ジヨロン​​序論​​シヤウセツ​​詳說​し難︀く、又 詳說すべき​カギリ​​限​にあらざれども、​ワ​​余​​ヤクホン​​譯本​を讀まん人、明譯 祕史に搆れる固有名詞の譯字の、近世 通行の書に異なるを​アヤシ​​怪​まんことを​オモ​​想​ひ、又 明譯 祕史を讀まんとする人、近世 通行の音譯法と異なるを知らずして、漢︀字 音譯の蒙古文を音讀する​タヅキ​​塔都︀奇​​エガタ​​得難︀​からんことを​ウレ​​憂​へて、その​テビキ​​特必奇​にもとてかくなん。


 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​Chinghis Khaghan​​テンゲリ​​騰格哩​​tengeri​​ノボ​​昇​りたる​ガカイ ヂル​​合該 只勒​​Ghakhai jil​より六百七十九年の​ゴイナ​​豁亦納​​ghoina​なる​モリン ヂル​​秣麟 只勒​​Morin jil​​ナムル​​納木兒​​namur​​テリウ​​帖哩兀​​teriu​​サラ​​撒喇​​sara​に、​ナラヌ クヂヤウル​​納喇訥 忽札兀兒​​Naranu Khujaur​​タヽ​​稱​へらるゝ​ドロナ ヂク​​朶囉納 竹克​​dorona jük​​エケ ウルス​​也客 兀魯思​​yeke ulus​​カムクン カガン​​合木渾 合罕​​Khamukhun Khaghan​​エケ オルド​​也客 斡兒朶​​yeke ordo​​ウメル​​兀篾兒​​umer​​アタ​​當​れる​アカギ​​阿喀吉​​Akagi​ ​ウンドル​​溫都︀兒​​undur​ ​エド​​額朶​​Edo​ ​ゴロカン​​豁囉罕​​ghorokhan​ ​ゴヤル​​豁牙兒​​ghoyar​​ヂヤウラ​​札兀喇​​jaura​なる​ウチユゲン​​兀出干​​üchugen​ ​ゲル​​格兒​​ger​にて、​モリオカ​​抹哩斡喀​​Mori-oka​〈[#ルビの「モリオカ」は底本では「モリヲカ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 ​バラガスン​​巴剌合孫​​balaghasun​​ウマ​​生​れたる​フヂハラ​​富只洼喇​​Fujiwara​ ​オボク​​斡孛黑​​obokh​​ナカ​​納喀​​Naka​ ​ミチヨ​​米赤約​​Michiyo​ ​エブゲン​​額不干​​ebugen​ ​カ​​書​きて​ヲ​​畢​へたり。


成吉思 汗 實錄の序論 終り。



  1. 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。