成吉思汗実録/序論
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄のジヨロン序論。
ゲンテウ ヒシ元朝 祕史のライレキ來歷。
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄は、ワ余がイマ今 ホンヤク飜譯したるゲン元のハジメ初のキウシ舊史にして、そのゲンポン原本は、トウキヨウ カウトウ シハン ガクカウ東京 高等 師範 學校にザウ藏するゲンテウ ヒシ元朝 祕史のシヤホン寫本なり。このライレキ來歷のウチ中に「コノシヨ此書」マタ又は「キンポン今本」とあるは、ミナ皆このゲンシヤホン原寫本をサ指せるなり。此書は、もとモウコモジ蒙古字のシヨ書をカラモジ漢︀字にヤク譯したるモノ者︀にて、そのモウコモジ蒙古字の原本のナ名は、モンゴルン ニウチヤ トブチヤアン忙豁侖 紐察 脫卜察安Mongholun Niucha Tobchaanとイ云ひ、譯すればモウコ蒙古のヒシ祕史なり。モンゴルン忙豁侖Mongholunはスナハ卽ちモンゴル ウン忙豁勒 溫Monghol un、モンゴル忙豁勒Mongholは蒙古、ウン溫unは「の」にて、「蒙古の」なり。ニウチヤ紐察niucha スナハ卽ちニウチヤ你兀察niuchaは、ニウ你兀niuはカク祕す、チヤ察chaはドウシ動詞をケイヨウシ形容詞にするゴビ語尾にて、「カク祕したる」「カク祕さるゝ」又は「ヒミツ祕密なる」[3]なり。今のモウココトバ蒙古語にてはニグチヤ你古察niguchaとなり、ゲンシ ゴカイ元史 語解に「ニグチヤハ尼古察、ヒミツナリ祕密也」とあり。トブチヤアン脫卜察安tobchaanは、タヾ正しくはトブチヤン脫卜赤顏tobchiyanにて、ゲンシ元史にはトブチヤン脫卜赤顏ともトビチヤン脫必赤顏ともカ書き、ゲンシ ゴカイ元史 語解に「トブチヤンハ托卜齊延、ソウコウ ナリ總綱 也」とあり。カウヤウ綱要をソウロク總錄したるものにして、卽ちジツロク實錄なり。ミコトバ三語にて「モウコ蒙古のヒミツ祕密なるジツロク實錄」卽ちモウコ ヒシ蒙古 祕史なり。
此書の原本のナ成れるは、ゲン元のタイソウ太宗のトキ時なり。此書のサイマツ最末に「タイシウクワイ大聚會にクワイ會して、ネズミ鼠のトシ年 シチグワツ七月に、ケルレン客魯嗹Kelurenガハ河のコデエ アラル闊迭額 阿喇勒Khodee aralのドロアン ボルダク朶羅安 孛勒答黑Doloan boldakh、シルギンチエク失勒斤扯克Shilghinchek リヤウチ兩地のアヒダ閒なるオルド斡兒朶ordoにゲバ下馬してヲ居るトキ時、カ書きてヲ畢へたり」とあり。ネズミ鼠のトシ年は、ゲン元のタイソウ太宗のジフニネン十二年 カノエネ庚子のトシ歲にして、ワ我がシデウ テンワウ四條 天皇 ニンヂ仁治 グワンネン元年、ソウ宋のリソウ理宗 カキ嘉熙 ヨネン四年、セイキ西紀 センニヒヤクシジフネン一二四〇年、コトシ今年 ヒノエウマ丙午よりロツピヤクロクジフロクネン六百六十六年 マヘ前なり。アラル阿喇勒とは、カハナカジマ河中島をイ云ふ。コデエジマ闊迭額洲は、ケルレン客魯嗹のカハナカジマ河中島なり。オルド斡兒朶は、カガン合罕Khaghanのチヤウデン帳殿なり。コデエジマ闊迭額洲のオルド斡兒朶は、ゲン元のタイソ太祖︀のヨ四つの斡兒朶のウチ中のダイオルド大斡兒朶にして、蒙古のコククワイ國會のツネ常にヒラ開かれたるトコロ處なり。コククワイ國會にサンレツ參列して大斡兒朶にて書けりと云へば、タウジ當時 ブンピツ文筆をヨ能くするウイウル委兀兒Uiurジン人などのチヨクメイ勅命をウ受けて書けるモノ者︀なるべし。
此書は、十二クワン卷にワカ分れ、マキ卷の一よりマキ卷の十までは、タイソ太祖︀のソセン祖︀先よりハジ始めて、太祖︀ ソクヰ卽位のノチ後、キンコク金國 セイバツ征伐のマヘ前までのジセキ事蹟をノ敍べ、ダイ第十一二クワン卷は、ゾクシフマキノ續集卷一、ゾクシフ續集卷
此書、今はモウココトバ蒙古語をカラモジ漢︀字にてオンヤク音譯したる者︀のみツタ傳はりたれども、モト本は蒙古のコクシヨ國書なるウイウルモジ委兀兒字にて書きたる者︀なるべし。蒙古には、もとモンジ文字なかりしが、太祖︀のナイマン乃蠻Naimanをホロ滅ぼしたる時より、始めてウイウルモジ委兀兒字をモチ用ひてモウココトバ蒙古語を書くコト事となれり。ゲンシ元史のタタトンガ塔塔統阿のデン傳にヨ依るに、タタトンガ塔塔統阿Tatatungaは、ウイウ畏兀のヒト人にて、そのクニ國のモンジ文字にクハ委しく、ナイマン乃蠻のタヤン カン大陽 罕Tayan Khanにオモ重んぜられ、そのキンイン金印とセンコク錢穀︀とをツカサド掌りしがナイマン乃蠻 ホロ滅びたる時、タタトンガ塔塔統阿は、そのイン印をイダ懷きノガ逃れんとしてトラ擒はれ、太祖︀に「タヤン大陽のジンミン キヤウド人民 疆土、コト〴〵悉くワレ我にキ歸したるに、ナンヂ汝 イン印をモ持ちてイヅ何くにかユ往く」とナジ詰られ、「コレ之をマモ守るは、シン臣のシヨク職なり。コシユ故主をモト求めてコレ之をサヅ授けんとホツ欲す」と云ひたれば、太祖︀は「チウカウ忠孝のヒト人なり」とカン感じて「この印は、ナニ何にかモチ用ふる」とト問へり。タタトンガ塔塔統阿は「センコク錢穀︀をスヰナフ出納し、ジンザイ人材をニンヨウ任用するイツサイ一切のコト事に用ひてシンケン信驗とするなり」とコタ對へたり。太祖︀ ゲ實にもとて、コノヒト此人をサイウ左右にオ居き、これよりすべてミコト勅をハツ發するには、始めてインシヤウ印章を用ひ、ヨツ仍て此人にメイ命じて之をツカサド掌らしめたり。又「ナンヂ汝は、ホンゴク本國のモンジ文字をフカ深くシ知れりや」[5]とト問はれて、シ知れるだけをコト〴〵悉くコタ對へたれば、太祖︀のムネ旨にカナ稱ひ、ツヒ遂に命ぜられてタイシ太子 シヨワウ諸︀王にヲシ敎へ、ウイウモジ畏吾字をモ以てモウココトバ蒙古語を書く事としたるヨシ由 ミ見ゆ。ウイウル委兀兒は、タウ唐のクワイコツ回紇にて、ネストルシウ捏思脫兒宗のデンダウシ傳道師のケウケ敎化をウ受けて、ハヤ夙くより文字を用ひたりしが、元の太祖︀ 四年に、ウイウル委兀兒 コクシユ國主、蒙古にクダ降りてより、ウイウル委兀兒のメイシ名士の蒙古にツカ事へてブンシン文臣となれる者︀ オホ多く、ウイウルモジ委兀兒字はツヒ遂に蒙古の國書となれり。されば此書の文字は、もとウイウルモジ委兀兒字なりけんことウタガ疑ひなく、之を書きたる人もケダシ蓋 ウイウルジン委兀兒人ならん。
セイソ世祖︀の時、セイハン西蕃のセイソウ聖僧︀ パスパ八思巴に命じて、モウコ蒙古 シンジ新字を作らしめ、テンガ天下にハンカウ頒行したれども、そのシンジ新字は、フベン不便なる文字にて、アマネ遍くはオコナ行はれざりしホド程なれば、此書のゲンジ原字をカ書きアラタ改むるにはイタ至らざりしなるべし。ノチ後にヒ引けるテイゲウ鄭曉のキンゲン今言のブン文にヨ據れば、此書の原字のウイウルモジ委兀兒字のマヽ儘なりしことハナハ甚だアキラ明かなり。
元史 チヤハン察罕Chahan察罕 二人あり。一人は、卷の百二十なる西夏の人にて、この察罕に非ず。この察罕は、卷の百三十七なる西域 班勒紇の人なり。のデン傳に「ハクランキヤウキニシテ博覽强記、ツウジ通㆓シヨコクノ諸︀國ジシヨニ字書㆒シカジカ云云。カツテ嘗譯
又 グシフ虞集の傳に、メイソウ明宗のメイ命をウ受けてケイセイ タイテン經世 大典をヘンシウ編修する時「ヨリ以㆔ルヰテウノコジ累朝故事、アルニ有㆓ザル未イマダ㆑備
トビチヤン脫必赤顏もトブチヤン脫卜赤顏も、ニウチヤ トブチヤン紐察 脫卜赤顏のリヤクシヨウ略稱にて、此書の原本にシウセイ修正をクハ加へたる者︀なり。修正したりと云ふ理由は、後の修正 祕史の條に言ふべし。シウセイ修正をばクハ加へたれども、祕史は祕史として、フカ深くナイフ內府にザウ藏し、グワイジン外人にシメ示さざりしユヱ故に、ヨ世にはヒロ廣まらざりき。
又 グシフ虞集の傳に「ハジメ初ブンソウ文宗イマシ在㆓ジヤウトニ上都︀㆒、シ將マサニ㆘タテヽ立㆓ソノコ其子アラトナダラヲ阿剌忒納答剌㆒セント爲㆗クワウタイシト皇太子㆖乃
ミン明のタイソ太祖︀のコウブ洪武 二年 三年、ソウレン宋濂 ワウヰ王褘 ラ等が、ミコト勅をカウム蒙りて元史をヲサ修むる時には、「キンキノシヨ金匱之書、悉
此書は、原本の蒙古文をゲンオン原音のまゝにカラモジ漢︀字にてオンヤク音譯し、ホンブン本文のミギガハ右側にモウココトバ蒙古語をヒトコトバ一語ごとにカラモジ漢︀字にてゾクゴ俗語に譯し、イチダン イツセツ一段 一節︀のヲハ終りに、又はダンラク段落のキ切れざるトコロ處にても、ブンシヤウ文章のナガス長過ぐるトコロ處はホドヨ程善くキ切りて、本文のタイイ大意を漢︀字にてゾクブン俗文に譯し、本文よりは三字ほどサ下げてシル錄せり。ユヱ故にこのヤクホン譯本は、ウイウルモジ委兀兒字のカンジ オンヤク漢︀字 音譯とモウココトバ蒙古語のカンジ ゾクゴヤク漢︀字 俗語譯とモウコブン蒙古文のカンジ ゾクブンヤク漢︀字 俗文譯とサンヤウ三樣の譯をソナ備へたるメヅラ珍しきホン本なり。今の寫本は、ゼンブ全部 十二卷をロクサツ六册に[8]サウテイ裝釘し、セイシフ正集 十卷は五册、ゾクシフ續集 二卷は一册となれり。
このホンヤク飜譯は、明の太祖︀のシクワン史官にて蒙古語にツウ通じたる者︀の手に成り、ゲンテウ ヒシ元朝 祕史のナ名も、その時にアタ與へられたるなり。明のテイゲウ鄭曉のキンゲン今言 卷の四に、鄭曉の吾學編 四夷考 上の卷にも同文あり。「コウブ洪武十五年、メイジテ命㆓カンリンジカウ翰林侍講クワゲンケツ火原潔ラニ等㆒、ヘンルヰ編㆓類︀
トリテ取㆓元
語譯 文譯のウチ中に、音譯のモンゴル忙豁勒Monghol蒙古をタタ達達と、サルタウル撒兒塔兀勒Sartaul中亞細亞の莫哈篾惕 敎徒をフイフイ囘囘と、チユンド中都︀Chungdu〈[#左ルビの「Chungdu」は底本では「Chuugdu」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉金の中都︀ 今の北京をホクヘイ北平と、ペキン北京Peking金の北京、今の喀剌沁 右翼をタイネイ大寧と、ナンキン南京Namking金の南京、今の河南 開封府をベンリヤウ汴梁と譯したるがゴト如きは、明人の譯なることをサツ察するにアマ餘りあり。コト殊にキン金のチウト中都︀なる今のペキン北京をホクヘイ北平と云ひたるは、ミン明のセイソ成祖︀のセント遷都︀のマヘ前にカギ限れる名なれば、この譯本は、洪武の史官の手に成れることウタガ疑ひなし。又 音譯の中にも、二人なるカルカイ カツサル阿兒孩 合撒兒Arkhai Khassarとバラ巴剌Balaとを一人のアルカイ カツサル バラ阿兒孩 合撒兒 巴剌とし、ネウダイ捏兀歹Neudai ブ部のチヤカアン ウワ察合安 兀洼Chakhaan uwaをアル或はネウダイ捏兀歹とチヤカン ウワ察合安 兀洼と二人とし、アル或はネウダイ チヤカアン ウア捏兀歹 察合安 兀阿と云ふ一人の名とし、タタル塔塔兒Tatar部名のアルチ タタル阿勒赤 塔塔兒Alchi Tatar塔塔兒の分部の名のヂヤリンブカ札鄰不合Jalinbukhaをタタル塔塔兒のアルチ阿勒赤とタタル塔塔兒のヂヤリンブカ札鄰不合と二人とし、オンギラト翁吉喇惕Onghiratのデルゲク エメル迭兒格克 額篾勒Dergek-emelをデルゲク迭兒格克とエメル額篾勒と二人とし、ナイマン乃蠻Naiman部名のグチユウト ナイマン古出兀惕 乃蠻Guchunt Naiman乃蠻の分部の名のブイルク カン不亦嚕黑 罕Buirukh Khanをナイマン乃蠻のグチユウト古出兀惕とナイマン乃蠻のブイルク カン不亦嚕黑 罕と二人とし、サイイキ西域のカンメリク罕篾力克Khanmelikと云ふ人を、音譯にはカン罕とメリク篾力克とをハナ離して書き、カン罕[10]なるメリク篾力克とし、語譯にはクワウテイ皇帝 メリク篾力克、文譯にはメリクワウ篾力克王としたるが如き處 ハナハ甚だオホ多し。コレラ此等は、トシヒトシヤウグン利仁將軍 タムラマロ田村丸を一人とオモ思ひ、タハラ トウダ田原 藤太 フヂハラノ ヒデサト藤原 秀鄕を二人と思ひ、サンノミヤウヂ三宮氏をクワウゾク皇族とアヤマ誤れるのタグヒ類︀にて、ゲンダイ元代の人ならば、かゝるアヤマ誤りあるハズ筈なけれども、蒙古のコシ古史にクラ暗き明人なればこそ、コレラ是等のヨミアヤマ讀誤りもア有りしなれ。シカ然るにコクワウキ顧廣圻の祕史のバツ跋に、ザンゲンザンボン殘元槧本、ウツセル影㆓ゲンザン元槧
明のエイラク永樂 ネンチウ年中、エイラク タイテン永樂 大典を作り、ココン古今のグンセキ羣籍をマウラ網羅して、ヰン韻にヨ依りハイサン排纂したる時、元朝祕史も、そのエラビ選にモ漏れず、その十二セン先のゲンジヰン元字韻の中にヲサ收められたり。タヾシ但その本はゼンブ全部 十五卷にして、續集のナ目なく、今本とブンクワン分卷 オナ同じからず。此書のカミカズ紙數 スコブ頗る多きが故に、シウロク收錄のトキ際、ナニ何かのツガフ都︀合にてブンカツ分割したるなるべし。明のクワウグシヨク黃虞稷のセンケイダウ シヨモク千頃堂 書目に元朝 祕史 十二卷をチヨロク著︀錄し、明のブンエンカク シヨモク文淵閣 書目のウジガウ宇字號に「元祕史一部五册、又一部同
シン淸のソンシヨウタク孫承澤がアラハ著︀せるゲンテウ テンコ ヘンネンカウ元朝 典故 編年考のダイククワン第九卷に祕史の譯文をノ載せて、そのセウジヨ小序に「元
ヒトリ獨 カテイ嘉定のセンタイキン錢大昕は、永樂 大典の中より祕史をウツ寫しト取りて、そのジヨジ敍次 スコブ頗るジツ實をエ得たるをヨロコ喜び、バツ跋を作りて、元史の太祖︀ 本紀のクワウビウ荒謬をシテキ指摘し、「キ紀
又 センタイキン錢大昕は、大典本の祕史を得たる後、サラ更に十二卷の舊本あるをキ聞き、その大典本にマサ勝れるシンボン眞本なることをサト悟りたりと見え、ゲンクワ元和のコクワウキ顧廣圻の祕史の跋に「元朝祕史
ゲンゲン阮元のシコ ビシウ シヨモク テイエウ四庫 未收 書目 提要にイハ曰く「元祕史十五卷、ズ不㆑著︀
阮元は、太祖︀の先世の事をウン〳〵云云すれども、ジツ實はボドンチヤル孛端察兒Bodonchar イゼン以前の事はト取るに足らず。そのイゴ以後なる祕史のジヨジ敍事は、コト事ごとに皆 元史のヒロウ紕漏をオギナ補ふに足れり。然るに其等の諸︀大事をナニ何も言はずして、イチレイ一例とは云ひながら、ボドンチヤル孛端察兒 以前の事のみを云へるは、只 祕史のクワンシユ卷首 三四エフ葉を讀みたるのみに非ずやとウタガ疑はるるホド程なり。コヽ是にオイ於てワレ余はマス〳〵益 錢大昕のケイガン烱眼にカンプク感服せり。
コクワウキ顧廣圻の祕史の跋のツヾ續きに曰く「ザンポンハ殘本、キンシユジ金主事カツテ嘗攜
ダウクワウチウ道光中、ヘイテイ平定のチヤウボク張穆は、祕史の譯文を大典よりウツ寫しイダ出し、ジンクワ仁和のカンシ韓氏よりエイセウ ゲンポン影鈔 原本阮元の十五卷本かを借りてカウタイ校對し、レンキンイ連筠簃 ソウシヨ叢書にイ入れてシユツパン出板し、クワウチヨ光緖 二十年、明治 二十七年、シヤンハイ上海︀のフクコ シヨキヨク復古 書局にて復その本をセキイン石印にフ附し、チヤウシユン シンジン長春 眞人のセイイウキ西遊記、チヤウボク張穆のモウコ イウボクキ蒙古 遊牧記とイツチツ一帙のシユシホン縮本としてウ賣りイダ出したれば、十五卷本の譯文はエヤス得易くなりたれども、コシ顧氏のカウカン ゼンポン校勘 全本は、マス〳〵益 キケン希見のチンシヨ珍書となり、テンテン輾轉してコクシ サイシユ ソウシツ國子 祭酒 宗室 セイイク盛昱のザウ藏にキ歸せり。クワウチヨ光緖 十一年、明治 十八年、カンリン ガクシ翰林 學士 ヘイキヤウ萍鄕のブンテイシキ文廷式は、セイイク盛昱の本を借りて、ジユントク順德のリジラウ李侍郞 ブンデン文田とオノ〳〵各一部を寫せり。ブンテイシキ文廷式のジヨ序に「於
明治 三十二年、文廷式のライイウ來遊せし時、カヅノ鹿角のナイトウ コナン內藤 湖南、東京に居りて、廷式のカヘ歸りたらん後に蒙古文 祕史を寫しヨ寄せられんことをモト求め、ワレ余もマタ亦 シキリ切にノゾ望みたりしかば、廷式 カヘ歸りてマ閒もなくケンヒ拳匪のラン亂 オコ起り、インシン音信 ヒサ久しくタ絕えたれども、三十四年のスヱ末に至り、ホウゼン裒然たる六大册の寫本を人にタク托してオホサカ大阪なるコナン湖南のモト許にトヾ屆けたり。湖南は、タヾチ直にセウシヨ鈔胥をヤト傭ひて、一部を影寫し、東京にオク送りこしたるは、今 高等 師範 學校の藏となれり。その後 ワセダ ダイガク早稻田 大學も、一部を影寫して、そのトシヨクワン圖書館︀にソナ備へたり。コヽ是に於てワ我がカイダイ海︀內にも、亦 始めて三部ある事となれり。
かくて この全本は、セカイ世界に六部 カギ限りかと云へば、さに非ず。ナホ猶 ホカ外に一部あり。その一部は、ハルカ遙にエンパウ遠方にア在り。その一部は、ニツポン日本 シナ支那にあるよりもハルカ遙にオホイ大なるヒエキ裨益をセカイ世界のシガク史學にアタ與へつつあり。ソ其は、ロシア露西亞のパラヂウスボン帕剌的兀思本なり。
ソウジヤウ僧︀正 パラヂウス帕剌的兀思Palladiusは、シナ支那のケイシ京師に居りて、ハジメ初にレンキンイ連筠簃 ソウシヨ叢書よリ元朝 祕史を得て、露西亞文に飜譯し、譯者︀のジヨロン序論とチウシヤク注釋とチンギス カン成吉思 汗のイヘ家のケイヅ系圖とをクハ加へて、「チンギス カン成吉思 汗のフル古きモウコ モノガタリ蒙古 物語」とダイ題し、セイキ西紀 一八六六年、同治 五年、慶應 二年、「ペキン北京なる露西亞のデンダウ シメイ傳道 使命のハウコク報吿」の第四卷に載せてシユツパン出板せり。その後 一八七二年、同治 十一年、明治 五年、蒙古文を漢︀字にて音譯せる十五卷のミンザン明槧の寫本をタマ〳〵偶 得て、カツ嘗て譯せる漢︀文の本は、この蒙古文のテキヤク摘譯なることを知れり。十五[16]卷の明槧の寫本と云へば、阮元の「依
セイブ シンセイロク聖武 親征錄 ラシツド喇失惕
セイブ シンセイロク聖武 親征錄は、蒙古 祕史にクワンケイ關係 多き古書なり。四庫 全書 提要[17]のザツシルヰ ソンモク雜史類︀ 存目に「皇元聖武親征錄一卷、不㆑著︀
親征錄は、ケンリウチウ乾隆︀中、リヤウワイ エンウンシシ兩淮 鹽運使司にて得て內府に上り、センタイキン錢大昕これを寫し取り、それよりテンテン セウシヤ輾轉 鈔寫して、タイキヨウ大興のジヨシヨウ徐松にキ歸したり。ダウクワウチウ道光中、ヘイテイ平定のチヤウボク張穆は、ジヨホン徐本を寫し取り、タイキヨウ大興のオウハウカウ翁方綱のイヘ家の藏本を借りてタイカウ對校し、サラ更にクワウタク光澤のカシウタウ何秋濤にサヅ授けて校正せしめたり。クワウチヨ光緖 二十年、シヤウナン彰南のブンジユンダウ分巡道 ハウクワク芳郭は、カシ何氏の校本をグワセン瓦羨のエウシタツ姚士達にサヅ授け、カウセイ ゲン シンセイロク校正 元 親征錄と題して出版せしめたり。又 ジユントク順德のリブンデン李文田、カキヨウ嘉興のチンソウシヨク沈曾植、オノ〳〵各 何氏の校本を寫し取りてカウチウ校注し、ジユントク順德のリヨウホウヘウ龍鳳鑣は、リチン李沈のニチウ二注をアハ合せて、カシ カウホン何氏 校本の出版に續きて出版し、チフクサイ ソウシヨ知服齋 叢書にヲサ收めたり。この錄につきても、露西亞は支那よりも早く、ソウジヤウ僧︀正 パラヂウス帕剌的兀思は、何校 親征錄の鈔本を得て、露西亞文に譯し、西紀 一八七二年、明治 五年、同治 十一年、何氏 校本 李沈 校本の出版より二十餘年 マヘ前に「トウバウ東方のキロク記錄」に入れて出版せり。
ラシツド エツヂン喇失惕 額丁Rashid eddinは、元のテイソウ定宗 二年、後深草 天皇 寶治 元年、西紀 一二四七年、ハマダン哈馬丹Hamadanに生れ、イジユツ醫術を以てガザン カン合贊汗Ghazan Khanにツカ仕へ、セイソウ成宗のタイトク大德 二年、伏見 天皇 永仁 六年、西紀 一二九八年、ワウコク王國のシヤウシヨ尙書となり、オルヂヤイト カン斡勒齋禿 汗Oljaitu Khanの時もそのシヨク職に續き居りき。蒙古の史をシフロク集錄する事をガザン合贊より命ぜられたりしが、大德十一年後二條 天皇 德治 二年、西紀 一三〇七年に、その書 成りて、オルヂヤイト斡勒齋禿に上り、ジンソウ仁宗のエンイウ延祐︀ 五年、花園 天皇 文保 二年、西紀 一三一八年、ザン讒にア遭ひ、アブ サイド カン阿不 賽德 汗Abu Said Khan斡勒齋禿 汗の子にコロ殺︀されたり。その書は、ペルシア珀兒昔阿Persiaブン文にて、書の名はヂヤミウト テヷリク札米 兀惕 帖伐哩黑Jami ut Tevarikhと云ふ。ヂヤミ札米Jamiは集錄、ウト兀惕utは「ツ屬く」と云ふゼンチシ前置詞、テヷリク帖伐哩黑tevarikhは歷史にて、歷史の[19]集錄と云ふギ義なり。下文には集史 又は蒙古 集史など書けり。その書は、亞細亞のシヨシユゾク諸︀種族のジヤウタイ狀態、そのチハウ地方のケイセイ形勢、元帝の祖︀先の事より始めて、太祖︀のコウゲフ功業をシヤウジヨ詳敍し、太宗 テイソウ定宗 ケンソウ憲宗 三朝の事をリヤクジヨ略敍し、セイソ世祖︀ セイソウ成宗 二朝は最も略し、ペルシア珀兒昔阿のレツワウ列王、フラグ旭烈兀Hulaguよりガザン合贊までの事蹟は頗るクハ委し。そのジジヨ自序に據れば、タウジ當時 イルカン亦勒罕Ilkhanの祕府に、蒙古のブンシヨ文書あまたホゾン保存せられて、オルヂヤイト カン斡勒齋禿 汗より修史の參考に用ふることをユル許され、コト殊にアルタン デプテル阿勒壇 迭卜帖兒Altan depter黃金の書册、貴き書册卽ちキンサク金册と云へる蒙古の歷史、カン汗のハウコ寶庫に藏して、ベグ別克Beg都︀邑の宰のチヤウラウ長老のホクワン保管し居る者︀をも參考に用ひ、又 シナ支那、インド印度、ウイグル畏兀兒Uigur、キプチヤク乞卜察克Kipchakの學者︀だち、殊にタイクワンジン大官人 プラツド シヨウジヤウ普剌惕 丞相Pluad chinksankに命じてタス助けをアタ與へさせられたり。このプラツド シヨウジヤウ普剌惕 丞相は、ワウコク王國のゲンスヰ元帥 サイシヤウ宰相にして、トウバウ東方の種族の古傳 歷史、殊に蒙古のソレ其をタレ誰よりも善く知れりと云へり。その書は、又 アライエツヂン アツタ ムルク ヂユヹニ阿來額丁 壓塔 木勒克 主費尼Alai eddin Atta mulk Juveniの蒙古史にも多く據れり。
ヂユヹニ主費尼Juveniは、ヂユヹイン主費因Juveinの人にて、トコロ地の名を以てウヂ姓とせり。そのチヽ父 バハイレツヂン モハンメツド ヂユヹニ巴海︀列丁 謨罕默德 主費尼Bahail eddin Mohammed Juveniは、蒙古に仕へたる故に、憲宗 元年、後深草 天皇 建長 三年、西紀 一二五一年、アライ エツヂン阿來 額丁は、チヽ父にシタガ從ひ蒙古にイタ到り、ケンソウ トウキヨク憲宗 登極のタイシウクワイ大聚會にクワイ會せり。西書には一二五二年とあれども、この大聚會は、その前年の六月なれば、紀年に誤りあらん。元史 憲宗紀、この大聚會の續きに「以
フランス佛蘭西のドーソン朶遜d'Ohssonは、ラシツド エツヂン喇失惕 額丁の集史に本づき、蒙古史を作り、西紀 一八二四年、仁孝 天皇 文政 七年、淸の宣宗 道光 四年、その初版を世に 出せり。されどもドーソン朶遜は、ラシツド エツヂン喇失惕 額丁の書をコトバ辭のまゝにホンヤク飜譯したるに非ず、ヂユヹニ主費尼その外あまたの舊史に據り、ラシツド エツヂン喇失惕 額丁をゾウホ カイシウ增補 改修して、詳備せる新史を作れるなり。ペテルブルグ珀帖兒不兒古のケウジユ敎授 ベレジン別咧津Berezinは、ラシツド エツヂン喇失惕 額丁の全部を露西亞文に譯せん事をクハダ企て、その譯の成るにシタガ從ひ、ペルシア珀兒昔阿コトバ語の原文とトモ共に「露西亞の考古學會の記事」に載する事とし、東 亞細亞にス住めるトルク禿兒克シユ種 蒙古種の諸︀國 諸︀部の事を述べたる第一卷 三九二ペーぢは、一八五八年孝明 天皇 安政 五年、淸の文宗 咸豐 八年に出版せり。蒙古の先世より太祖︀ 元年のトウキヨク騰極までを述べたる第二卷は、ペルシア珀兒昔阿ブン文 二三九ペーぢ、飜譯 注釋 三三五ペーぢにして、一八六八年明治 元年、同治 七年に世に出でたり。一八八七年、(明治 二十年、光緖 十三年、)出版にトリカヽ取掛れる第三卷にて太祖︀の事蹟 終り、そのツギ次にナホ猶 三卷[21]出づるツモ積りなりしが、成れりやイナ否やを知らず。ラシツド エツヂン喇失惕 額丁を飜譯したる人は、ベレジン別咧津の前にもこれかれ有れども、皆 ベレジン別咧津の譯にテキ敵すること能はず。ベレジン別咧津は、蒙古 集史の善き寫本をあまたシヨウ使用したるのみならず、東 亞細亞の諸︀國語に通じたることは、ペルシア珀兒昔阿ジン人の記錄を解するに大なる助けとなれり。
ラシツド エツヂン喇失惕 額丁のシフシ集史はあまたのシレウ史料に據り集錄したる者︀なれば、元初の史としては、その詳備せること、東方の史傳のクハダ企てオヨ及ぶべきに非ず。今 聖武 親征錄を以て集史にクラ較べてカンガ考ふるに、集史には親征錄に少しも言はざる事蹟 甚だ多し。その中に、東 亞細亞の種族どもの事、蒙古の古傳の事の如きは、プラツド普剌惕 シヨウジヤウ丞相のキオク記憶より出でたる者︀ 多からん。太祖︀ 太宗の西征、フラグ旭烈兀のペルシア珀兒昔阿 ケイリヤク經略の如きは、ホトン殆どミナ皆 ヂユヹニ主費尼の歷史に本づきたり。然らば集史の敍事の親征錄とフセツ符節︀をアハ合するが如き處は、何に本づきたる者︀なるか。ソ其は、疑ひもなくアルタン デプテル阿勒壇 迭卜帖兒 卽ちキンサク金册より出でたるなり。コウキン洪鈞のゲンシ ヤクブン シヨウホ元史 譯文 證補に「ラシツド拉施特ミヅカラ自イフ謂㆘親
二書は同じく祕史に本づきたりとすれば、その祕史なる者︀は、今の祕史の原本なりや否や。このトヒ問にコタ答ふるはカタ難︀からず。二書のフガフ符合したる處、今の祕史に合はば、その祕史は、今の祕史の原本なり。合はずば、その祕史は、今の祕史の原本に非ず。合ふか合はざるかを見よ。今の祕史に據れば、太祖︀のチヽ父 エスガイ也速該Yesugaiはタタル塔塔兒Tatarジン人にドクガイ毒害せられたるを、二書は同じくタヾ只 シ死にたりとせり。太祖︀のオヤコ母子、タイチウト泰赤兀惕Taichiut ブジン部人にス棄てられてよりジフサンヨク十三翼のタヽカヒ戰まで二十餘年の閒、祕史に據れば、ホエルン訶額侖Hoelun 夫人 カンナン艱難︀してシヨシ諸︀子をチヤウイク長育したる事、太祖︀とオトヽ弟 カツサル合撒兒Khassarと二人にてイボテイ異母弟 ベクテル別克帖兒Bekterをコロ殺︀して、ハヽ母にイタ痛くセ責められたる事、太祖︀はタイチウト泰赤兀惕にトリコ擒にせられ、コンク困苦してノガ逃れたる事、太祖︀ ゾク賊をオ追へる時、ボオルチユ孛斡兒出Boorchuこれをタス援け、ツイ遂にシンシン親臣となれる事、オンギラト翁吉喇惕Onghiratのデイ セチエン德 薛禪Dei Sechenのムスメ女 ボルテ孛兒帖Borteをムカ迎へたる事、太祖︀ ユ往きて父のトモ友 ワンカン王罕Wang Khanにエツ謁︀し、父とタツト尊びたる事、メルキト篾兒乞惕Merkitジン人[23]にオソ襲はれて、ボルテ孛兒帖 トラ虜︀はれたる事、ワンカン王罕 ヂヤムカ札木合Jamukha 二人のタスケ援をエ得て、メルキト篾兒乞惕をウチヤブ擊破り、ボルテ孛兒帖 カヘ歸りたる事、太祖︀とヂヤムカ札木合とエイ營をトモ共にしてヲ居り、旣にしてブンリ分離し諸︀部多くヂヤムカ札木合をス棄てて太祖︀にキ歸し、遂にスヰタイ推戴してチンギス カガン成吉思 合罕Chinghis Khaghanとなしたる事、これらの大事ありて、卷
然れども二書のジヨジ敍事 カウブン行文、今の祕史に合へる處も亦 頗る多し。そのレイ例は、今一一は擧げず。只その最も著︀しき者︀を擧ぐれば、祕史 卷
何故に修正を加へたるかと云ふに、二書と祕史と合はざる處を善く見れば、そのリイウ理由もオシハカ推料らるゝなり。エスガイ也速該のドクガイ毒害は、諱みてケヅ删れるなり。オヤコ母子のマヅ貧しかりし事、オトヽ弟を殺︀せる事、トリコ擒となれる事、ツマ妻をウバ奪はれたる事をケヅ删れるは、太祖︀のチジヨク恥辱をオホ蔽へるなり。ワンカン王罕に父とし事へ、ヂヤムカ札木合をケイテイ兄弟として、二人のタスケ援を得たることを删れるは、コウライ後來のキウテキ仇敵をオンジン恩人とするをキラ嫌へるなり。太祖︀ 始めてのオホイクサ大戰なる十三ヨク翼のタヽカヒ戰にマケ負をカチ勝と改めたるリイウ理由は、イ言はずともアキラ明かなり。オナン斡難︀のエンクワイ筵會に太祖︀ ミヅカ自らタヽカ鬭へるは、アマ餘りオトナ大人しからぬ故に改めたらん。ワンカン王罕をキツセキ詰責する辭をゾウカ增加したるは、そのツミ罪をオモ重くせんが爲なり。ヂヤムカ札木合のマツロ末路をセイリヤク省略せるは、エウジ幼時のシンカウ親交にクワン關するモンダウ問答あるが爲なり。その外 今は略すれども、親征錄 シヨウチウ證注には一一論じたり。
かゝる修正は、太祖︀のビ美をマ增さんとホツ欲するコヽロ心より出でたるべけれども、カヘツ却てタイエイイウ大英雄のジツデン實傳のシンカ眞價をウシナ失へり。セウジ少時のヒンク貧苦 ハイジヨク敗辱[26]は、コウライ後來のセイコウ成功をしてヒカリ光をハナ放たしむる者︀なり。ナン何ぞイ諱むにタ足らん。此等の事をキ氣にして、二十餘年の閒の事蹟をインペイ隱蔽しては、何を以てか太祖︀ サウゲフ創業のカンナン艱難︀を知ることを得ん。何を以てかセンイ タイコウ宣懿 太后のケンメイ コウレツ賢明 功烈を知ることを得ん。太祖︀ セウジ少時よりワンカン王罕にフジ父事し、そのエンジヨ援助をもウ受けたる故に、その後 ワンカン王罕 ザン讒をシン信じて之をノゾ除かんとしたれども、太祖︀はマコト誠をオ推してウタガ疑はず。最もエイイウ英雄のクワウリヤウ宏量を見るべし。モシ若 少時 オン恩を受けたること無かりせば、太祖︀のシンセツ親切は、むしろグ愚にチカ近からずや。ナイマン乃蠻のホロ滅びたる時、祕史にはヂヤムカ札木合 トラ執へられ、シヨウヨウ從容としてシ死にツ就ける事を敍べ、太祖︀ ヂヤムカ札木合のモンダウ問答を委しく載せたり。蓋 二人 イトケナ幼くしてシンイウ親友となり、チヤウ長じてキウテキ仇敵となり、カンクワ干戈のアヒダ閒にシバ〳〵屢 アヒ マミ相 見えたれども、タガヒ互にアンダ安答Anda(結盟の友)とヨ呼びてシウシン終身 カハ渝らず、チヤウジ張耳 チンヨ陳餘がエンゲキ怨隙 ヒト一たびヒラ開けてタチマ忽ちロジン路人とヘン變じたるにニ似ず。シカウ而してヂヤムカ札木合のミヅカ自らそのツミ罪を知り、ハヂ恥をオモ重んじメイ命にヤス安んじたるは、マタ亦 カン感ずるにアマ餘りあり。ヂヤムカ札木合のハンド叛奴を太祖︀のチウ誅したるが如きは、シユクン主君をノガ逃したるナヤア納牙阿Nayaaをホ襃めたる事とアヒ相 タイ對し、ケイシヤウ刑賞 フタツ兩ながらアタ中り、マコト誠にクンダウ君道にカナ協ひ、カン漢︀のカウソ高祖︀のキフ季布をユル赦してテイコウ丁公をチウ誅したるにタクラ比ぶべし。太祖︀のヂヤムカ札木合をグウ遇するユヱン所以に至りては、クワンジン寬仁 タイド大度、ギ義にヨ由りレイ禮にシタガ遵ひ、モトモ最 カンカウ漢︀高のデンワウ田横をマ待つにマサ勝れり。コレラ是等のビダン美談を修正 祕史は悉く删りたりと見えて、二書には更に無し。シンヱイ親衞のセイ制 コウシン功臣のシヤウ賞をサダ定むるセウチヨク詔勅は、蒙[27]古の史にありてテンボ典謨にヒ比すべき者︀なり。是等は何故に删られたるか。その理由を知ること能はず。然らばその修正は、實にセツロウ拙陋なる修正なり。その修正 祕史の世に傳はらずして、原本 祕史の譯本のツウタイ クワンゼン通體 完善に今にホゾン保存せらるゝは、史學上のキチジヤウジ吉祥︀事にして、太祖︀のヰレイ威靈のカゴ呵護にヨ賴れるに非ずやと思はるゝ程なり。コウキン洪鈞は、ベレジン別咧津の譯に由りラシツド エツヂン喇失惕 額丁の集史を譯し、その親征錄に合へるを見て、カヘツ却て祕史の誤れるを疑へるは、祕史の原本は蒙古史の本源なること、二書の本づきたる者︀は修正 祕史なることを知らざるが故なり。
元朝 祕史、聖武 親征錄、ラシツド エツヂン喇失惕 額丁の集史 等の來歷をヒトメ一目にミヤス見易からしめんが爲に、サ左のケイヅ系圖を作れり。
モンゴルン ニウチヤ トブチヤン忙豁侖 紐察 脫卜赤顏Mongholun Niucha Tobchiyan(蒙古 祕史)元 太祖︀ 時 撰、續集、太宗 十二年 撰。
├─元朝 祕史十卷、續集 二卷。明 洪武 十五年 譯。
│ ├─元 祕史千頃堂 書目 十二卷。明 文淵閣 書目 五册、續稿 一册。
│ │ ├─元 祕史十卷、續 祕史 二卷。乾隆︀ 中、金德輿 所藏、稱 殘元槧本。其 譯文 載 孫承 澤 元朝 典故 編年考 第九卷。
│ │ └─元朝 祕史五冊 十卷、續集 一册 二卷。廬州 知府 張氏 所収、稱 影 元槧 舊鈔本。
│ │ └─コクワウキ顧廣圻 校勘本
│ │ └─ソウシツ宗室 セイイク盛昱 藏本
│ │ ├─ブンテイシキ文廷式 鈔本
│ │ │ └─ナイトウコナン內藤 湖南 鈔本
│ │ │ └─カウトウ シハン ガクカウ高等 師範 學校 鈔本
│ │ │ ├─ワセダ ダイガク早稻田 大學 鈔本
│ │ │ └─成吉思 汗 實錄那珂 通世 和文譯。
│ │ └─リブンデン李文田 鈔本
│ │ └─チンソウシヨク沈曾植 鈔本
│ ├─元朝 祕史十五卷、永樂 大典 十二先 元字韻 中 所收。
│ │ └─センタイキン錢大昕 鈔出本
│ │ └─チヤウボク張穆 レンキンイ連筠簃 刻本有 譯文、無 蒙文。
│ │ ├─パラヂウス帕剌的兀思Palladius 露西亞文 譯本
│ │ ├─シヤンハイ上海︀ フクコシヨキヨク復古書局 石印本
│ │ └─李文田 注 刻本
│ └─元 祕史十五卷、依 舊鈔 影寫、見 阮元 四庫 未收 書目 提要。
│ └─パラヂウス帕剌的兀思 影 明槧 舊鈔本十五卷、無 標題。今 藏 于 露京 大學 圖書館︀。
│ └─ポズネエフ頗自捏也富Pozdneyeff 露文 譯注 漢︀字 原書 刻本
└─シウセイ修正 ニウチヤ トブチヤン紐察 脫卜赤顏Niucha Tobchiyan元史 察罕 傳 稱 脫必赤顏、虞集 傳 稱 脫卜赤顏。
├─太祖︀ 實錄成宗 大德 七年、翰林 國史院 奏進。
│ ├─元史 太祖︀ 本紀
│ ↑
├─聖武 開天記仁宗 時、察罕 譯 脫必赤顏 以 成。
│ └─聖武 親征記邵遠平 元史 類︀編 所引。
│ └─皇元 聖武 親征錄兩淮 鹽政 採進本、四庫 全書 提要 存目。
│ └─錢大昕 本
│ └─ジヨシヨウ徐松 本
│ ├─チヤウボク張穆 校本
│ │ └─カシウタウ何秋濤 校本
│ │ ├─パラヂウス帕剌的兀思 露西亞文 譯本
│ │ └─李文田 沈曾植 校注本
│ ↑ └─那珂 通世 證注本
│ オウハウカウ翁方綱 本
└─アルタン デプテル阿勒壇 迭卜帖兒Altan depter(金册)卽 修正 祕史、西域 宗王 寶庫 所藏。
├─ヂヤミウト テヷリク札米兀惕 帖伐哩黑Jami ut Tevarikh(集史)喇失惕 額丁 所撰。
│ │ └─ベレジン別咧津Berezin 譯 蒙古史
│ │ └─元史 譯文 證補洪鈞 撰。其 太祖︀ 本紀 譯證、譯 別咧津 書。
│ ├─ドーソン朶遜d'Ohsson 蒙古史
↑ ↑ └─元史 證文 證補其 定宗 憲宗 本紀 補異 及 朮赤 以下 諸︀傳、皆 譯 朶遜 書。
タリク ヂハンクシヤイ塔哩黑 只罕庫沙亦Tarikh Jihankushai(世界 征服史)主費尼 所撰。
ワブン ホンヤク和文 譯本のヘウダイ標題。
此書の原名は、モンゴルン ニウチヤ トブチヤン忙豁侖 紐察 脫卜赤顏Mongholun Niucha Tobchiyanなれども、今 ワブン和文に譯したる書にモウココトバ蒙古語のナ名をダイ題しては、ミヽドオ耳遠くキコ聞ゆ。明人のア當てたるゲンテウ ヒシ元朝 祕史の名は、ヒサ久しくヒロ廣くオコナ行はれたる名なれども、元朝と云へば、元史の如く一代の事を書きたる者︀の如くキコ聞えてオダヤ穩かならず。原名を譯して蒙古 祕史とすれば、蒙古の名は元朝よりもヒロ廣くして、モウコ ゲンリウ蒙古 源流の如くキンセイ近世までの事あるが如く聞えて、元朝と云ふよりもナホ猶 オダヤ穩かならす。譯書にアタラ新しき名を與ふるはシバ〳〵屢 レイ例ある事なれば、アタ當らざるキウメイ舊名をマモ守らんよりは、此書のナイヨウ內容をアラハ表すべきヨキナ佳名あらば、用ひまほしと考へたり。
初はモウコ コジキ蒙古 古事記と名づけんかと思へり。いかにと云ふに、我がコジキ古事記は、日本 サイコ最古のコシヨ古書にして、コデン古傳をコデン古傳のまゝにシヤウヂキ正直に書き表し、古傳をケンキウ硏究するには最も善き書なるに、ニホンギ日本紀 出でて、古傳にブンシヨウ文飾をクハ加へ、何事もカラザマ漢︀樣に書き改めたれば、後の人は、その文のカラ漢︀めきたるにゲンワク眩惑して、そのシンデン眞傳にタガ達へる事をワス忘れ、後の史書は、日本紀にのみ據る事となりたるを、近世に至りコガクシヤ古學者︀ 起りて、フクコ復古をトナ唱へたるより、始めて古事記のタツト貴[30]きことは、ヨ世にシ知れたり。
此書も、さるタグヒ類︀にて、蒙古人の始めて文字を知りたる頃の書なれば、據るべきキウキ舊記も無く、カタリベ語部などのカタ語りツ繼ぎイ言ひツ繼ぎたる事をそのまゝに書ける者︀なり。サバク沙漠のミカド朝廷にもカタリベ語部などの有りけんことは、此書にヰンブン韻文の甚だ多きにてオシハカ推料らる。トクギ德義のテイド程度 ヒク卑くして、シウオ羞惡のコヽロ心 アサ淺かりければ、後の人ならばイ諱むべき程の事も、イミハヾカ忌憚らずチヨクシヨ直書せり。アタカ恰も我が古事記にタギシミミノ ミコト當藝志美美 命とイスケヨリヒメノ ミコト伊須氣余理比賣 命とのオンコト御事、ヤマトタケルノ ミコト倭建 命のオンイロセ御兄をシ殺︀せタマ給へる事、エミジ蝦夷のコトムケ征伐をオホ命せられて、チヽギミ父帝をウラ怨みタマ給へる事、チウアイテンワウ仲哀天皇のカミ神︀にイカ忿られてカンサ崩り給へる事などを皆 古傳のまゝに書きたるが如く、此書にも、レツソ烈祖︀のドクサツ毒殺︀せられたる事、太祖︀のシウリヨ囚虜︀となりたる事などは、言ふまでも無く、センイ タイコウ宣懿 太后はモト本 メルキト篾兒乞惕Merkitジン人のツマ妻なるを烈祖︀のカス掠めト取れる事、クワウケン ヨクセイ クワウゴウ光獻 翼聖 皇后のテキジン敵人にケガ汙される事、ヂユチ拙赤Juchi タイシ太子は敵人の子ならんとウタガ疑はれたる事、太祖︀のオトヽ弟をイコロ射殺︀せる事、エンクワイ筵會のセキ席にて鬭へる事、クラン忽闌Khukan クワウゴウ皇后のまだヲトメ處女なりし時、人にオカ姦されたらんと疑ひて、そのカラダ體をシラ調べたる事などをアリ有のまゝに書きて、更にイミハヾカ忌憚る處なし。
然るを修正 祕史は、是等のハ恥づべき事をサンヂヨ删除したるは、さもあるべき事なれども、コレ是が爲にジジツ事實のレンラク聯絡をウシナ失ひ、事實のジユンジヨ順序をミダ紊し、サイウ シゴ左右 枝梧し、シユビ カウケツ首尾 衡決して、マヘ前にシ死にたる人はノチ後[31]に戰ひ、後に敵する人は前に降り、是が爲にエイイウ英雄のタイゲフ大業も、クワクジツ確實なるシヤウデン詳傳を失ふに至れリ。而してラシツド エツヂン喇失惕 額丁は之を用ひて集史を作り、チヤハン察罕は之を譯して開天記を作り、元史の太祖︀ 本紀も之に依り、元史 類︀編その外 有らゆる史編は皆 元史に依れり。ドーソン朶遜の蒙古史 出でて、ヨウロツパ歐羅巴の史學者︀は皆 之を以て太祖︀の實傳とし、洪鈞の元史 譯文 證補 出でて、錢大昕のタクセツ卓說も「非
然れども此書は又 古事記とコト異なる處あり。古事記は、千餘年の閒にワタ渉れる古傳を今より千二百年 マヘ前に書ける者︀なり。此書は百餘年の閒のミミ耳にキ聞きメ目にミ覩たる事を今より六百 六十餘年 マヘ前に書ける者︀なり。先世の系譜を述べたる處は、我が古事記に善く似たれども、そは篇首 一卷にも滿たず。古事記はクワハン過半 シンワ神︀話なれども、此書は殆ど皆 實傳なり。故に此書は、上古史に非ずして、近世史なり。古の事をツヰジヨ追敍せる歷史に非ずして、當時の事をチヨクジヨ直敍せる記錄なり。之を我が古事記にナゾラ凝ふるは、セン僭に非ざればバウ妄なり。そのタイサイ體裁 最も實錄の書に近きが故に、今は古事記の名をヤ罷めて、實錄の名を取れり。
ジツロク實錄は、タウソウ唐宋 イライ以來 ヨ世 ゴト毎に必ずセンジユツ撰述せらる。テンシ天子 ホウ崩ずれば、シテイ嗣帝のヨ世にはタイテイ大抵 センテウ先朝の實錄のセンシウ撰修にトリカヽ取掛れり。故に實錄は、史書[32]の中にて、事實のオコ起れるジダイ時代に最も近き記錄なり。此書の正集は太祖︀の時に成り、續集は太宗の時に成りたれば、シテイ嗣帝の世に撰修せるに非ずして、キンテイ今帝の事蹟を今常の世に撰修せるなり。實錄よりは、ムシロ寧 キキヨチウ起居注に近し。されども起居注は、天子のゲンドウ言動をシクワン史官のソクジ卽時に記錄する者︀なり。蒙古にはモト固よりキキヨチウクワン起居注官とても無く、カタリベ語部などの語れることを後に至りてカ書きアツ集めたる者︀なるべければ、起居注には非ずして、猶 實錄なり。
實錄と云へばとて、ジジ事事 皆 クワクジツ確實なる者︀には非ず。タウ唐のカウソ高祖︀ 實錄は、タイソウ太宗の朝に成りたれば、高祖︀の德をオサ抑へて太宗の功をア揚げ、ソウ宋のシンソウ神︀宗 實錄は、ゲンイウ元祐︀ セウセイ紹聖のリヤウタウ兩黨にてカハ代る〴〵カイシウ改修せり。元の實錄のソロウ疏漏なる、明の實錄のフマウ誣罔あるは、イチジル著︀しき事なり。この實錄にもアヤマ誤りあり。ナンセイ南征のエキ役に、ゼベ者︀別Jebeのキヨヨウクワン居庸關をヤブ破りたるは、太祖︀の八年 キイウ癸酉なるを、六年 シンビ辛未 九年 カフジユツ甲戌の二囘とし、九年 甲戌のサイセイ再征は、金のセント遷都︀の後なるを、再征に由りて遷都︀せりとし、トルイ拖雷Tului、チユグ出古Chugu 二人のフンセン奮戰は七年 ジンシン壬申、ドウクワン潼關の戰は十一年 ヘイシ丙子なるを、皆 九年 再征の時とし、ドウクワン潼關のヨセテ寄手の大將はサムカ撒木合Samukhaなるを、太祖︀とせり。最も甚しきは、シシヤ使者︀ ヂユブカン主卜罕Jubkhanの殺︀されたるは、太宗 三年の事なるを、この九年の處にシル記して、再征のエキ役はそれが爲に起れりとせり。セイセイ西征のエキ役、ゼベ者︀別Jebe、スベエタイ速別額台Subeetai、トクチヤル脫忽察兒Tokhucharのサンシヤウ三將をしてセイイキワウ西域王をオ追はしめたるは、ブカル不合兒Bukhar、セミスゲン薛米思堅Semisgenを降し[33]たる後にあるを、この役の初に書き、ウドラル兀都︀喇兒Udurar、ブカル不合兒、セミスゲン薛米思堅を取りたるは、この役の初にあるを、シン申Shinガハ河信度河の戰の後に書けり。然のみならず是等のセイバツ征伐、セカイ世界をシンタウ震盪せるタイセイバツ大征伐のキジユツ記述は、ケレイト客咧亦惕Kereit、ナイマン乃蠻Naimanなどをアヒテ敵手にせる戰よりもカンリヤク簡略なり。ケダシ蓋 バクホク漠北のオルド斡兒朶にツカ仕へたるヒエダ稗田のアレ阿禮は、イウボク シヨコク遊牧 諸︀國のキヨウバウ興亡のモノガタリ物語をば善く記憶すれども、ナンカ南夏 サイイキ西域の征服の如き世界のタイキヨク大局にクワン關するイリクミ入組たるジケン事件は、リクワイ理會すること能はざりけらし。故に 太祖︀ 太宗 兩朝のジセキ事迹をロンジ論次する者︀は必ず此書に依りてセツチウ折衷すべき事は、錢大昕の云へるが如くなれども、南征の事は親征錄、金中、元史に依り、西征の事は、ヂユヹニ主費尼。ラシツド エツヂン喇失惕 額丁に依りて補はざるべからず。
此書は、太祖︀の祖︀先より書き始めて太宗の世まで及べるに、今の譯本の名に唯 太祖︀のみをヘウ標するは、何故ぞ。祖︀先の事をシル記したるは、一卷にミ滿たず、太宗の紀も一卷にミ滿たず。十二卷の內 十卷 餘りは皆 太祖︀の紀にして、祖︀先の紀は、太祖︀の實錄のホツタン發端にス過ぎず、太宗の紀も、太祖︀の實錄のケツマツ結末と見らるゝが故に、太祖︀の名をモツパラ專に用ひてヘウダイ標題とせり。
元
チンギス カガン成吉思 合罕Chinghis Khaghanと云はずして、チンギス カン成吉思 汗と云へるは、何ぞや。チンギス カガン成吉思 合罕はタウジ當時のホンガウ本號、チンギス カン成吉思 汗はコウセイ後世のリヤクシヨウ略稱なり。カン汗Khanは、キミ君なり。カガン可罕Khaghanは、カン罕Khanのカン罕Khan、キミ君のキミ君にして、オホギミ大君なり。此書には、一たびもチンギス カガン成吉思 可罕のカ可を略きたる事なし。然れども太祖︀のオホイ大なるユヱン所以は、名にアヅカ關らず。故にベンギ便宜に從ひ略稱を用ひたり。
モウコ蒙古のコブン古文とワヤクブン和譯文。
モウココトバ蒙古語は、アルタイ阿勅泰 ゴゾク語族にゾク屬して、我がコクゴ國語とブンパフ文法 甚だ近く、殊にそのソジハフ措辭法は始ど同じければ、コトバ語ごとにテキタウ適當のヤクゴ譯語をア當てて、メイシ名詞 ダイメイシ代名詞のカク格、ドウシ動詞のイヒカタ言方などを誤らざれば、オノヅカ自ら我がブンシヤウ文章とナ爲る。ヤクドク譯讀するにも、カンブン漢︀文 オウブン歐文を讀むが如くトビカヘ飛返りハネカヘ跳返るヒツヨウ必用なし。
タヾ唯 メイシ名詞 ダイメイシ代名詞にタンブク單複のベツ別ありて、之を譯するに一一クベツ區別することは頗る煩はし。代名詞のフクスウ複數は、ワレラ我等、ナンヂラ汝等、コレラ此等、ソレラ其等の如く、タイテイ大抵「ら」をツ附けたれども、コレラ此等の、ソレラ其等のと云へるバアヒ場合には、ワウ〳〵往往「この」「その」と譯したる處あり。名詞の複數も、「ら」「ども」「だち」などを附けてオダヤ穩かなる處、附けざればイミ意味のメイレウ明瞭をカ缺く處は、[35]必ず附けたれども、然らざる處にはハブ略けるも有り。セイシ シユゾク姓氏 種族の名は、單複 共にゲンヤクジ原譯字のまゝに書きて、複數の處には注を加たり。タト例へばキヤン乞顏Khiyanウヂ氏の複數はキヤト乞牙惕Khiyatなれば、キヤト乞牙惕(乞顏の複)と書けり。
ヒテイ否定のコトバ詞は、ワレ我にてはジヨドウシ助動詞なれども、カレ彼にてはフクシ副詞なり。その否定のフクシ副詞は、ウル兀祿uluとエセ額薛eseとの二つあり。ウル兀祿は漢︀語の「フ不」、エセ額薛は漢︀語の「ビ未」なり。タト例へばオト バイ斡惕 罷ot baiはサ去りきにて、ウル オト バイ兀祿 斡惕 罷ulu ot baiはサ去らざりきなり。エセ額薛も殆ど之に同じく、大抵は「いまだ」と云ふ副詞をソ添ふるにオヨ及ばず。又この副詞は、必ずドウシ動詞のすぐにウヘ上にありて、漢︀文の如くアヒダ閒にホカ他のコトバ詞をサシハサ插むこと無し。ヒテイメイレイ否定命令 卽ちキンシ禁止のコトバ詞も、副詞なり。例へばオト トガイ斡惕 禿該ot tughaiはサ去れなり。これの上にキンシ禁止の副詞 ブ布buをソ添ふれば、去るなのイ意となる。サイハヒ幸に我が古語にバ勿と云ふ禁止の副詞ある故に、それを用ひて「ナ勿 サ去りそ」と譯せり。
ヂカク持格の代名詞は、大抵必ずには非ずそのゾク屬する名詞のシタ下にイ入る。「ワ我がコ子 コ來よ」と云ふことを「コ子 ワ我が コ來よ」と云ひ、「ナンヂ汝のチヽ父 ヲ居るか」と云ふことを「チヽ父 ナンヂ汝の ヲ居るか」と云ふ。此等は、我がソジハフ措辭法にシタガ從ひ、コトバ語の順序を改めて譯せり。シユカク主格の代名詞は、大抵これも必ずには非ず動詞の下に入る。「ワレ我 オホイ大にヨロコ喜べり」と云ふことを「大に喜べり、ワレ我」と云ひ、「ナンヂ汝 ワレ我とシカ然 イ言はざりしか」を「ワレ我とシカ然 イ言はざりしか、ナンヂ汝」と云[36]ふ。モクテキカク目的格の代名詞も、動詞のシタ下にマハ廻さるゝことあり。「ワレラ我等 チカラ力をツク盡してカレラ彼等をタス助けん」を「ワレラ我等 力を盡して助けん、カレラ彼等を」又は「力を盡して助けん、彼等を我等」と云ふ。此等は、皆 モト原の順序のままに譯せり。又 敍事の文に、シユカク主格は必ずしもウヘ上にあらず。「テムヂン帖木眞Temjinをタイチウト泰赤兀惕Taichiut トラ執へユ往きて」「カフ甲のニ逃げたるをミ見てオツ乙はイソ急ぎ、」「カフ甲を乙にオ追はしめてヘイ丙はツヾ續き、」「カフ甲にスヽ勸められて乙を丙はシカジカ云云」など。此等は、本のまゝに譯すべきは、云ふまでも無く、すべて主格のイチ位置をバアヒ場合に由りていづこにもジイウ自由にウゴ動かし得るは、てにをはを多く用ふる國語のトクチヤウ特長にして、我が國語にても、カンブン クンドク タイ漢︀文 訓讀 體のハヤ流行らぬ頃までは、蒙古文の如くなりしなり。
又 蒙古のコゴ古語は、サバク沙漠のホカ外にドクリツ獨立して、カンゴ ボンゴ漢︀語 梵語のエイキヤウ影響︀を少しもカウム蒙らず、ジユンスヰ シヤウジヤウ純粹 淸淨なるヲトメ コクゴ處女 國語なり。支那 印度の文物 宗敎の影響︀を受けざりしは、國語の獨立よりも珍しき事なれども、本論の外なれば、こゝには言はず。數千の名詞のウチ中にて、カンゴ漢︀語のデンクワ轉訛とオボ覺しきものは、ウヂン兀眞ujinはフジン夫人のデン轉、タイシ大石taishiはタイシ太師の轉、リンクン領昆linkunはリンコン令公の轉のタグヒ類︀にス過ぎず。グワイコク外國のチメイ ジンメイ地名 人名をヨ呼ぶにも、大抵 モウコナ蒙古名あり。シナジン支那人をキタン乞壇Khitan、その複 キタト乞塔惕Khitat、カウライジン高麗人をシヨランガ莎郞合Sholangha、その複 シヨランガス莎郞合思Sholanghas、キンコク クワウテイ金國 皇帝をアルタン カン阿勒壇 罕Altan Khan、ソウ宋をチヤウクワン趙官Chaukuan(趙家の轉か)、西夏をカシン合申Khashin(河西の轉)、ヤコレイ野狐嶺をクネゲン ダバ忽捏堅 荅巴Khunegen daba、キヨヨウクワン居庸關をチヤブチヤル察卜赤牙勒Chabchiyal、リヨウコダイ龍虎臺をシラ ケエル失喇 客額兒Shira keer、クワウガ黃河をシラ ムレン失喇 木嗹Shira murenと云ふ。又 外國のメイシヨウ名稱をトリモチ採用ひても、ナニホド何程かオン音をカ易へ、又は蒙古のゴビ語尾を加ふ。オトラル斡惕喇兒Otrarをウドラル兀都︀喇兒Udurar、ウルゲンヂ兀兒堅只Urghenjiをウロンゲチ兀嚨格赤Uronghechi[37]と云ひ、ヒンド欣都︀Hinduジン人をヒンドスト欣都︀思惕Hindust、ルス嚕思Russジン人(露西亞人)をオルスト斡魯速惕Olusut、キプチヤク乞卜察克Kipchakジン人をキブチヤウト乞卜察兀惕Kibchaut、アシ阿昔Asiジン人をアスト阿速惕Asut、チウアジア中亞細亞のモハメト抹哈篾惕Mohammed ケウト敎徒なるサルト撒兒惕Sartジン人をサルタウル撒兒塔兀勒Sartaulと云ふ。此等は、皆 蒙古の音をそのまゝに譯して、ホンメイ本名を注に擧げたり。
蒙古文の甚だキイ奇異にして甚だオモシロ面白きは、ヰンブン韻文 多き事なり。そのヰンブン韻文は、皆 タクミ巧にトウヰン頭韻をナラ排べたる者︀にして、漢︀文にはモト固よりそのハフ法なく、オナ同じゴゾク語族なる我が國語にもそのレイ例 マレ希なり。漢︀文には、ソウセイ雙聲と云ひて、シンシ參差、メンマン キクキウ綿蠻 鞠躬、シユクセキ踧踖の如く、ハツセイ發聲(成音の首の父音)オナ同じきモジ字をフタ二つカサ重ぬる詞は多けれども、蒙古のトウヰン頭韻は、それには非ず。我がコカ古歌に「○たきのおとは、○たえてヒサ久しく○なりぬれど、○なこそ○ながれて、○なほキコ聞えけれ」と云へる如く、マイク毎句のカシラ頭 又はマイゴ毎語のカシラ頭に、同じセイオン成音をオ置きて、雙聲の如く父音の音のみ同じきには非ず。ゴテウ語調をオモシロ面白くするなり。このゴテウ語調は、日本語にては、クワイギヤク詼謔のコトバ辭に最もテキ適して聞ゆれども、蒙古語にては、カクゲン格言、コゲン古諺よりキドアイラク喜怒哀樂のジヤウ情をノ抒ぶるコトバ辭、ケウクン敎訓の辭、キツセキ詰責の辭、クワイシヤ悔︀謝の辭に至るまで、皆この韻文を用ふ。そのウチ中にはモノガタリ物語を傳へたる人の作れるモンク文句も多かるべけれども、グワンライ元來 蒙古語にかゝるハヤリ流行ありし故に、作れる人も作れるなるべし。然らばかゝるブンシヤウ文章、トクシユ特種のシウジ修辭を加へたるゲンゴ言語は、蒙古人のモンジ文字を知らざりし時よりオコナ行はれたるなり。日本人は千五百餘年の前、印度人は三千餘年の前、文字に依らずしてブンシヤウ文章あ[38]りし事あるは、文字は無くともカイクワ開化のド ヤヽ スヽ度 稍 進みたる時なるが、ウマ馬のチ乳をノ飮みヒツジ羊のカハ皮をキ着、キウロ穹廬にス住みて、シヤレフ射獵をゲフ業とせるジユンイ純夷のタミ民にもハヤ夙くより文章ありしは、メヅラ珍しき事なり。
その韻文の例をスコ少し述べん。ドウダンジヨ童男女のビモク セイシウ眉目 淸秀なるをケイヨウ形容して「メ目にヒ火あり、メン面にヒカリ光あり」と云ふ。メ目はニドン你敦nidun、メン面はニウル你兀兒niurにて、ニ你を頭韻とせり。ヒ火はガル合勒ghal、光はグレ格咧ghereにて、ガ合ghaとゲ格gheとコヱ聲 チカ近きが故にツウヰン通韻に用ひたり。ワ余がヤクブン譯文にニドン你敦をマナコ眼と譯せず、ニウル你兀兒をカホ顏と譯せずして、メ目とメン面とにしたるは、蒙古の頭韻にマネ眞似たるシヤレ酒落なり。この句の韻のフミカタ蹈方(には非ず、イタヾキカタ戴方)は、カククヰン隔句韻にて、カミノク上句のカシラ頭とシモノク下句のカシラ頭とヰン韻をオ押し、上
蒙古語に、ナホ猶 ヒト一つオモシロ面白きコト事あり。そは、ボンゴ梵語にてサンヂヒ散提sandhiとトナ稱ふるケフヰン協韻のハフ法にして、蒙古語のみならず、マンジウコトバ滿洲語 トルクコトバ突︀兒克語など、アルタイ阿勒泰 ゴゾク語族にゾク屬するシヨコク諸︀國のゲンゴ言語に行はるゝイツシユ一種のオンビン音便なり。メイシ名詞のセツビゴ接尾語、てにをは、ジヨドウシ助動詞などまれには組立名詞を組立つる下のことばは、カミ上のメイシ名詞 ドウシ動詞のおもなるボイン母音のチカラ力にヨ依りて、オノ己が母音をカ變へて、その母音に同じくナ化るなり。例へば、アニ オトヽ兄 弟をアカ デウ阿合 迭兀akha deuと云ひ、アニ兄どもオトヽ弟どもをアカナル デウネル阿合納兒 迭兀捏兒akha nar deu nerと云ふ。ナル納兒もネル捏兒も、「ども」のコヽロ意にして、上にカ合あれば、ナ納と云ひ、上にデ迭あれば、ネ捏と云ふ。てにをはの「に」をエ額eともア阿aとも云ふ。オナン ムレン斡難︀ 木嗹(斡難︀ 河)のテリウン帖哩溫teriun(源)にと云[40]ふ時は、テリウネ帖哩兀捏teriuneと云ひ、ブルカン カルドン不兒罕 合兒敦Burkha Khardunにと云ふ時は、カルドナ合兒都︀納Khardunaと云ふ。「より」又は「から」と云ふことをアチヤ阿察achaともエチエ額扯echeとも云ふ。センダイ仙臺よりをセンダヤチヤ仙答牙察Sendayacha、ツガル津輕よりをツガラチヤ津合喇祭Tsugharachaと云ひ、エチゼン越前よりをエチゼネチエ越者︀捏扯Echijenecheと云ふ。コレラ此等は、ミナ皆 ア阿とエ額とのカハ變りのレイ例なるが、オ斡とウ兀とのカハ變りも、これに同じ。このケフヰン協韻あるが爲に、蒙古文のオンドク音讀にはイツシユ一種のキヨウミ興味あれども、譯文にはマツタ全くそのアトカタ跡形をも失へり。
又 蒙古語には、ル勒l 又はル兒rにてハジ始まる詞なし。グワイコク外國の人の名 人種の名などをアラハ表せる詞には、まれにラ剌la 又はラ喇raに始まれる名あれども、蒙古の古き詞には、ルア魯阿lua 又はルエ魯額lueと云ふ名詞の接尾語の外には、詞のカシラ頭にルル勒兒の音あるものサラ更になし。ルア魯阿 ルエ魯額は、漢︀字のヨ與の字、日本語の「とともに」の意にして、必ず名詞のヲ尾にツ接く詞なれば、これも、詞の頭にル魯luの音ありとは言ひ難︀し。日本の古き詞にも、助動詞の らるゝ らむ らし の外には、漢︀字のトウ等の意なる「ら」と云ふ接尾語一つあるのみにて、ラギヤウ良行に始まれる詞の更になきは、蒙古語に善く似たり。蒙古語も、チカ近き世となりては、外國の詞あまたイ入りマジ交りて、ル勒 ル兒に始まる詞のふえたるは、日本語に良行の音に始まる詞のふえたるに異ならず。すべて蒙古語も、ホカ他のクニグニ國國と同じく、古と今とヘンセン變遷 多ければ、亞細亞の諸︀國の言語をヒカクケンキウ比較硏究せんとホツ欲する人は、その[41]古語に依らずばあるべからず。それには、祕史の蒙古文は、最も善き材料なり。
キンポン今本は、ロシウフ盧州府のチヤウタイシユ張太守 イライ以來、スウクワイ數囘のテンシヤ轉寫をヘ經たれども、ツウタイ通體 クワンゼン完善にして、ゴダツ誤脫 甚だ少し。字のヘンバウ偏旁の誤り、字のヒダリ左なるオンフ音符のオ脫ちたるなどは、ワウ〳〵往往あれども、前後にある同じ語をサガ探してヒカク比較すれば、改正せられざること無し。マレ稀にはタシカ慥にダツゴ ダツブン脫語 脫文ありと思はるゝ處あり。オギナ補ひ得るカギリ限は、補ひて譯せり。又 原文にはダツゴ脫語なけれども、譯すればコトバ語の足らざることあり。ヨリトモ賴朝のツマ妻 マサコ政子と云ふべきを、蒙古文にてはヨリトモ賴朝のマサコ政子と云ふことあり。其等は[ツマ妻]の字を補へり。すべて補へる文には、フタ蓋とソコ底とのシルシ符[ ]を用ひて、チウシヤク注釋に用ふるクワツコ括弧の符( )と區別せり。又 明の時にスデ已に解しかねたりと見えてハウヤク旁譯をホドコ施さざる處あり。其等は、解し得らるゝだけは譯し、解せられざる者︀は、アヘ敢てごまかさず、原語をそのまゝに擧げたり。其等も、今の蒙古語と比較して考へなば、解せられざる事も無かるべければ、他日 又 コヽロ試みん。
此書の本文は、トコロ〴〵處處にダンラク段落をキ切りて、ベツコウ別項に書き出せり。ソ其は、蒙古字の原本に初より然りしにはあらで、明人の譯したる時、譯文を本文の閒にサシハサ挿まんが爲に切りたりと見えて、ムリ無理なる處あり。例へば「ナニ〳〵何何をノゾ望みミ見てイ言はくシカジカ云云」とある「ミ見て」にて前段をトヾ止め、「イ言はく云云」より後段の始まるが如きタグヒ類︀ シバ〳〵屢あり。[42]今 譯文のみの書にては、このキリカタ切方にカヽハ拘るにも及ばざれども、數百年來このカタチ形にて傳はれる者︀をナホ直すもいかゞと思ひて、シバラ姑くモト本の切方に從へり。ツヾ續くべき處にてキ斷れたる處あるは、それが爲なり。
ゲンテウ ヒシ元朝 祕史のオンヤクハフ音譯法
此書は、明人の蒙古語をケンキウ硏究せんが爲に譯したる者︀なれば、蒙古文を音譯するに、コエンブ顧炎武の「ニウ紐㆓セツシテ切其字
此書を譯せるシシン史臣、一人はカンリン ジカウ翰林 侍講 クワゲンケツ火原潔、一人はヘンシフ編輯 マイチク馬懿赤黑にして、マイチク馬懿赤黑Maichikh 又はマシヤイク馬沙亦黑Mashaikhの蒙古人なることは、その名にて知らる。クワゲンケツ火原潔も、クワ火と云ふウヂ姓はカンジン漢︀人にキ聞きナ慣れざる姓なれば、蒙古のコルラス火嚕剌思Khorulas ウヂ氏などのタンセイ單姓となれる者︀ならん。支那のジオン字音は、ナンボクテウ南北朝 以來 ツネ常に南北にワカ分れて、ナンオン南音には、ホクオン北音の如きカウクワ淆訛なし。此書は、明のテウテイ朝廷のナンキン南京に在りし時の譯なれば、音譯には南音を用ひたり。蒙古語にクハ精︀しき蒙古人にてカウクワ淆訛 スクナ少き南音を以て音譯したれば、此書の如くタヾ正しき音譯は、ホカ他に比類︀少し。
今 此書に用ひたる音譯 漢︀字を蒙古字の下に書きて、我が五十音圖の如きヨコタテ橫縱のレツ列にナラ排ぶれば、サ左の如し。二重音と撥ぬる音とは略けり。發音を明か[43]にせんが爲に、羅馬字を下に書き添へたり。
ア阿のダン段 | エ額のダン段 | イ宜のダン段 | オ斡のダン段 | ウ兀のダン段 | ヘンヰン變韻のダン段 | フイン父音 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
アギヤウ阿行 | ア阿 (a) | エ額 (e) | イ宜 (i) | オ斡 (o) | ウ兀 (u) | ウ兀 (ö) (ü) | |
ハギヤウ哈行 | ハ哈 (ha) | ヘ赫 (he) | ヒ希 (hi) | ホ訶 (ho) | フ許 (hu) | フ許 (hö) (hü) | |
中カギヤウ合行 | 中カ合 (kha) | ケ客 (ke) | キ乞 (ki) | コ闊 (kho) | 中ク忽 (khu) | コ闊 (kö) (kü) | 黑 (kh) 克 (k) |
中ガギヤウ合行 | 中ガ合 (gha) | ゲ格 (ge) | ギ吉 (gi) | 中ゴ豁 (gho) | グ古 (ghu) | グ古 (gö) (gü) | 黑 (gh) 克 (g) |
サギヤウ撒行 | サ撒 (sa) | セ薛 (se) | シ昔 (si) | ソ鎖 (so) | ス速 (su) | ス速 (sö) (sü) | ス思 (s) |
シヤギヤウ沙行 | シヤ沙 (sha) | シエ雪 (she) | シ失 (shi) | シヨ莎 (sho) | シユ搠 (shu) | シユ搠 (shö) (shü) | (sh) |
チヤギヤウ察行 | チヤ察 (cha) | チエ徹 (che) | チ赤 (chi) | チヨ綽 (cho) | チユ出 (chu) | チユ出 (chö) (chü) | (ch) |
ヂヤギヤウ札行 | ヂヤ札 (ja) | ヂエ者︀ (je) | ヂ只 (ji) | ヂヨ勺 (jo) | ジユ主 (ju) | ヂユ主 (jö) (jü) | (j) |
ヤギヤウ牙行 | ヤ牙 (ya) | エ也 (ye) | イ亦 (yi) | ヨ約 (yo) | ユ余 (yu) | ユ余 (yö) (yü) | (y) |
タギヤウ塔行 | タ塔 (ta) | テ帖 (te) | チ的 (ti) | ト脫 (to) | ト禿 (tu) | ト禿 (tö) (tü) | ト惕 (t) |
ダギヤウ荅行 | ダ荅 (da) | デ迭 (de) | ヂ的 (di) | ド朶 (do) | ド都︀ (du) | ド都︀ (dö) (dü) | ド惕 (d) |
ナギヤウ納行 | ナ納 (na) | ネ捏 (ne) | ニ你 (ni) | ノ那 (no) | ヌ訥 (nu) | ヌ訥 (nö) (nü) | (n) |
バギヤウ巴行 | バ巴 (ba) | ベ別 (be) | ビ必 (bi) | ボ孛 (bo) | ブ不 (bu) | ブ不 (bö) (bü) | ブ卜 (b) |
マギヤウ馬行 | マ馬 (ma) | メ篾 (me) | ミ米 (mi) | モ抹 (mo) | ム木 (mu) | ム木 (mö) (mü) | ム木 (m) |
ラギヤウ剌行 | ラ剌 (la) | レ列 (le) | リ里 (li) | ロ羅 (lo) | ル魯 (lu) | ル魯 (lö) (lü) | ル勒 (l) |
中ラギヤウ剌行 | 舌ラ剌 (ra) | 舌レ列 (re) | 舌リ里 (ri) | 舌ロ羅 (ro) | 舌ル魯 (ru) | 舌ル魯 (rö) (rü) | ル兒 (r) |
ワギヤウ洼行 | ワ洼 (wa) | (we) | ヰ爲 (wi) |
このヘウ表の蒙古字のカタチ形は、シユミツト搠米惕Schmidtのモウコジビキ蒙古字引にヨ據れり。一音に二字づゝ書きたるは、コトバ語のカシラ頭にツ附くカタチ形とコトバ語のヲ尾に附く形とをカキワ書分けたるなり。ヘンヰン變韻のダン段は、語の尾に附くことマレ稀なるが故に、その形をハブ略けり。スエ末のダン段なるボイン母音なき音をアラハ表せる字は、語の頭に附くことなければ、ナカ中にハサ挾まる形と尾に附く形とをカキワ書分けたり。シユミツト搠米惕の蒙古字引は、今の蒙古語を集めたるものにして、カギヤウ合行の合(kha) 闊(kho) 忽(khu)を(ha) (ho) (hu)の如く讀ませて、別にハギヤウ哈行の音に始まるコトバ語はあらざる故に、このヘウ表には、ハギヤウ哈行の音をアラハ表せる蒙古字をカ闕きたり。されども祕史にはアキラ明かにハギヤウ哈行の音をアラハ表せる譯字あれば、古代は別にハギヤウ哈行の音ありて、カギヤウ合行のジ字を以てそのオン音をもアラハ表したらんと思はる。この表に依れば、蒙古の音には、サギヤウ撒行のダクオン濁音、卽ち(z)をフイン父音とせるセイイン成音なし。ヂヤギヤウ札行のヂ只(ji)は、チヤギヤウ察行のチ赤(chi)のダクオン濁音にして、サギヤウ撒行のシ昔(si)のダクオン濁音に非ず。又(f)をフイン父音とせるケイシン輕脣のセイイン淸音も(p)を父音とせるヂウシン重脣のセイオン淸音巴行の淸音もなし。(h)を父音とせるハギヤウ哈行の音はシンオン脣音に非ず、コウオン喉音にゾク屬して、カギヤウ合行のカロ輕き音なり。中カ合(kha) 中ク忽(khu) 中ガ合(gha) 中ゴ豁(gho)の四字實は三字ヒダリ左にチウ中の字を[45]チヒサ少くツ附けたるは、この三字はモト本 ハギヤウ哈行の音(xa) (hu) (ho)なるをカギヤウ合行のセイダクオン淸濁音にカリモチ借用ひたることを示せるフガウ符號なり。中カン罕(khan) 中カン含(kham) 中コン晃(khong) 中クン渾(khun) 中カイ孩(khai) 中クイ灰(khui)なども、それに同じ。舌ラギヤウ剌行の六字實は五字のヒダリ左にチヒサキ小きシタ舌の字あるは、この五字は、みなラギヤウ剌行の音 卽ち(l)を父音とせる音にして、漢︀字には、(r)を父音とせる音なきが故に、ラギヤウ剌行の字を借りて、ケンゼツオン捲舌音なることを示せる符號を附けたるなり。舌ラン闌(ran) 舌ラン藍(ram) 舌レン連(ren) 舌レン廉(rem) 舌リン鄰(rin) 舌リン零(ring) 舌リン林(rim) 舌ロン欒(ron) 舌ルン侖(run)など、みな同じ。ク黑(kh) ク克(k) グ黑(gh) グ克(g) ス思(s) ト惕(t) ド惕(d) ブ卜(b) ム木(m) ル勒(l)の十字實は七字は、フイン父音のみにてボイン母音なき音を譯したる字にして、此書には、必ず右にヨ倚せてチヒサ少く書けり。マギヤウ馬行のウ兀の段にム木(mu)の字、ヘンヰン變韻の段にム木(mö)(mü)の字あれども、ム木(mu) ム木(mö)(mü)は、タイジ大字に書けるが故に、サイジ ハウシヨ細字 旁書のム木(m)とマギ混るゝことなし。舌ラギヤウ剌行のル兒(r)も、父音のみなれども、この字の音は、本より母音なきが如く聞ゆる音なれば、右にもヨ倚せず、大字に書けり。
右の表を見ん人は、蒙古字のいかにも同じ形にて異なる音をアラハ表せるもの多きことにコヽロツ心附くなるべし。ア阿の段とエ額の段とは、アギヤウ阿行 カギヤウ合行 ガギヤウ合行 シヤギヤウ沙行の外はみな同じ。オ斡の段とウ兀の段とは、カギヤウ合行 ガギヤウ合行の外はみな同じく、そのニギヤウ二行も、語の頭にては同じ。グワンライ元來 蒙古字の本なる委兀兒字は、シリア失哩亞Syriaの文字より出でたるものにして、シリア失哩亞の文字は、母音のアラハ表しカタ方 ジフブン十分ならざりしかば、蒙古もその例にナラ做ひ、母音の府號 ソナ備はらず。殊に蒙古語にはケフヰン協韻[46]のハフ法ありて、ア阿とエ額と互にカハ變り、オ斡とウ兀と互にカハ變る故に、アオ阿斡の二段を以てエウ額兀の二段をカ兼ぬることは、却てカンベン簡便なりしならん。又 カギヤウ合行の濁音には、濁音の符號を附けたるもあり、附けざるもあり。タギヤウ塔行の濁音は、全く淸音に同じく、何の符號をも附けず。ワ我が國にては、コジキ古事記 ニホンギ日本紀 マンエフシフ萬葉集などセイダクオン淸濁音のクベツ區別 タヾ正しかりしに、後の世のヒトビト人人はブシヤウ不精︀になりて、ニゴリテン濁點を附くることをイト厭ひ、ウタヨミ歌人などはニゴリ濁をウ打たぬをカウガ高雅なりと思ふに至れるを見れば、蒙古字の淸濁音を區別せざるもアヤシ怪むに足らず。蒙古学にはかくの如くドウケイ イオン同形 異音 スコブ頗る多けれども、蒙古語を語り居る人には、之を讀むに何のサシツカヘ差支も無かるべし。されども外國人にて、蒙古文を讀み、その發音を誤らざらんことは、甚だ難︀きワザ業なるに、サイハヒ幸にも此書の音譯は、アエ阿額の二段、オウ斡兀の二段、ハカガ哈合合の三行、合の淸濁 二音を同字にて譯したるの外、タダ塔荅の二行など、皆 正しく譯し分けたれば、蒙古の古音を學ぶには、蒙古字の原文に依らんよりもタヨリ便 ヨ善し。只 ヘンヰン變韻のダン段は、その音にテキタウ適當する漢︀字なき故に、タイテイ大抵 ウ兀の段の字を用ひて譯せり。又 明の世には、已に 百數十年 マヘ前の蒙古音を正しく知りかねたるもありと見えて、音譯のゼンゴ前後 タガ違へるあり。前にスケガイ速客該と譯したるを後にスゲカイ速格孩と譯し、前のセチエ薛徹を後にサチヤ撒察、前のタカイ塔孩を後にダカイ荅孩と譯したる處あり。是等は、ワ我が譯本には、誤りの明かなる所の外は、ゲンヤクジ原譯字をそのまゝに書きて、そのイドウ異同を[47]チウ注したり。
又すべてワ我が譯本の地名 人名などは、此書の譯字をそのままに書きたれば、イチ〳〵ミギガハ一一右傍にカナ假名をふりたり。タヾシ但 我が假名には、ハギヤウ哈行のフ許(hu) フン渾(hun) フイ灰(hui)などをアラハ表すべきものなきが故に、カリ假に フ(fu)を用ひ、(hk)と(k)とも、(gh)と(g)とも、假名にては區別なし。又 字のヒダリ左に中の字を添ふることも、シヨクジ植字にフベン不便なるが故に略けり。サギヤウ撒行のシ昔(si)とシヤギヤウ沙行のシ失(shi)とは、蒙古字にても區別なし。ダギヤウ荅行のヂ的(di)は、適當の假名なき故に、ヂヤギヤウ札行のヂ只(ji)に同じき假名をふり、ヤギヤウ牙行のエ也(ye)には、アギヤウ阿行のエ額(e)に同じき假名をふり、ヂン丁(ding) エン延(yen)なども然り。(l)なるラギヤウ剌行も(r)なる舌ラ剌行も、同じく我が舌ラギヤウ剌行の假名をふりて、舌ラギヤウ剌行の字の左なるシタ舌の字の代りにクチヘン口扁を添へたり。タギヤウ塔行のト禿(tu) ダギヤウ荅行のド都︀(du)は、ツ(tsu) ヅ(dzu)としても、原音にトホ遠ざかる故に、日本 ジウライ從來のカンオン漢︀音の母音に從ひ、オ斡の段の假名をふり、トン屯(tun) トン統(tung) ドン敦(dun)なども、みなしかせり。ク黑(kh) ク克(k) グ黑(gh) グ克(g) ス思(s) ト惕(t) ド惕(d) ブ卜(b) ム木(m) ル勒(l) ル兒(r)の八字 十一音は、父音のみにて、我がセイインガナ成音假名にてアラハ表し難︀ければ、ウ兀の段の假名惕のみは、斡の段の假名を借りてふりたり。
又 此書の音譯は、右の如く譯字を定め置きながら、ナホ猶 コトバ語のイミ意味を知り易からしめんが爲に、シユ〴〵種種なるイジ異字を用ひたり。カハ河はムレン木舌連なるをムレン沐舌漣と書き、ヤマ山のナ名のブルカン不兒中罕をブル不峏中カン罕と書き、テウソ貂鼠はブルカン不魯中罕なるをブル不𪖌中カン罕と書き、ウマ馬はモリ抹舌里 又はモリン抹舌鄰なるを[48]モリ秣舌驪 又はモリン秣舌驎と書き、カド門はエウデン額兀顚なるをエウデン額䦍闐と書き、ユミ弓はヌム訥木なるをヌム弩木と書き、ノゾ望むはカラ中合舌剌なるをカラ中合舌𥈙と書き、ユ行くはヤブ牙不なるをヤブ迓步と書き、クラ食ふはイデ亦迭なるをイデ亦咥と書けるタグヒ類︀なり。今 コユウ メイシ固有 名詞にソレラ其等の異字ある時は、みな一定の音譯字に改め書けり。
近世史書に用ひらるゝ音譯の內にては、ケンリウ乾隆︀のチヨクセン勅撰なるレウキンゲンシ ゴカイ遼金元史 語解はヤヽ稍 ハフソク法則あり。そのキツタン契丹 ヂヨシン女眞 モウコ蒙古のシヨコクゴ諸︀國語のカイシヤク解釋には誤り多く、三史の音譯字を悉く改定したるは、殆どみなフクワイ ヅザン附會 杜撰なれども、一定の音に一定の字を當てたるだけは、從來の史書にマサ勝れり。乾隆︀ 以後の史書は、多くその音譯法に從ふが故に、今祕史の音譯とヒカク比較せんが爲に、その音譯字をマンヂウモジ滿洲字〈[#「滿洲字」は底本では「滿州字」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉の下に書きてハイレツ排列すること左の如し。
ア阿のダン段 | エ額のダン段 | イ伊のダン段 | オ鄂のダン段 | ウ烏のダン段 | ナガウ長烏のダン段 | フイン父音 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
アギヤウ阿行 | ○ア阿 (a) | ○エ額 (e) | イ伊 (i) | オ鄂 (o) | ウ烏 (u) | ウー諤 (ū) | |
ガギヤウ喀行 | カ喀 (ka) | ケ克 (ke) | キ奇 (ki) | コ科 (ko) | ク庫 (ku) | クー庫 (kū) | ○ク克 (k) |
ガギヤウ噶行 | ガ噶 (ga) | ○ゲ格 (ge) | ○ギ吉 (gi) | ゴ果 (go) | ○グ古 (gu) | ○グー古 (gū) | ング□ (ng) |
ハギヤウ哈行 | ○ハ哈 (ha) | ○ヘ赫 (he) | ○ヒ希 (hi) | ホ和 (ho) | フ呼 (hu) | フー呼 (hū) | (h) |
サギヤウ薩行 | サ薩 (sa) | セ色 (se) | シ錫 (si) | ソ索 (so) | ス蘇 (su) | スー蘇 (sū) | ス斯 (s) |
シヤギヤウ沙行 | ○シヤ沙 (sha) | シエ舍 (she) | シ實 (shi) | シヨ碩 (sho) | シユ舒 (shu) | シユ舒 (shū) | (sh) |
ツアギヤウ攃行 | ツア攃 (ts'a) | ツェ策 (ts'e) | ツオ磋 (ts'o) | ツ粗 (ts'u) | (ts') | ||
ヅアギヤウ咱行 | ヅア咱 (dza) | ヅエ則 (dze) | ヅイ資 (dzi) | ヅオ佐 (dzo) | ヅ租 (dzu) | ヅー租 (dzū) | (dz) |
チヤギヤウ察行 | ○チヤ察 (cha) | ○チエ徹 (che) | チ齊 (chi) | ○チヨ綽 (cho) | チユ楚 (chu) | チユー楚 (chū) | (ch) |
ヂヤギヤウ扎行 | ヂヤ扎 (ja) | ヂエ哲 (je) | ヂ濟 (ji) | ヂヨ卓 (jo) | ヂユ珠 (ju) | ヂユー珠 (jū) | (j) |
ジヤギヤウ饒行 | ジヤ饒 (zya) | ジエ熱 (zye) | ジ日 (zyi) | ジヨ弱 (zyo) | ジユ儒 (zyu) | (zy) | |
タギヤウ塔行 | ○タ塔 (ta) | テ特 (te) | チ題 (ti) | ト托 (to) | ト圖 (tu) | トー圖 (tū) | ト特 (t) |
ダギヤウ達行 | ダ達 (da) | デ德 (de) | ヂ廸 (di) | ド多 (do) | ○ド都︀ (du) | ○ドー都︀ (dū) | (d) |
ナギヤウ納行 | ○ナ納 (na) | ネ訥 (ne) | ニ尼 (ni) | ノ諾 (no) | ヌ努 (nu) | ヌー努 (nū) | ン□ (n) |
バギヤウ巴行 | ○バ巴 (ba) | ベ伯 (be) | ○ビ必 (bi) | ボ博 (bo) | ブ布 (bu) | ブー布 (bū) | ブ補 (b) |
パギヤウ帕行 | パ帕 (pa) | ペ珀 (pe) | ピ闢 (pi) | ポ頗 (po) | プ普 (pu) | プー普 (pū) | (p) |
マギヤウ瑪行 | マ瑪 (ma) | メ默 (me) | ミ密 (mi) | モ摩 (mo) | ム穆 (mu) | ムー穆 (mū) | ム穆 (m) |
ヤギヤウ雅行 | ヤ雅 (ya) | エ頁 (ye) | ○ヨ約 (yo) | ユ裕 (yu) | ユー裕 (yū) | (y) | |
ラギヤウ拉行 | ラ拉 (la) | レ埒 (le) | ○リ里 (li) | ○ロ羅 (lo) | ○ル魯 (lu) | ○ルー魯 (lū) | ル勒 (l) |
ラギヤウ喇行 | ○ラ喇 (ra) | レ哷 (re) | ○リ哩 (ri) | ○ロ囉 (ro) | ○ル嚕 (ru) | ○ルー嚕 (rū) | ル哷 (r) |
ワギヤウ斡行 | ワ斡 (wa) | エ沃 (we) | (w) | ||||
フアギヤウ法行 | フア法 (fa) | フエ弗 (fe) | フイ費 (fi) | フオ佛 (fo) | フ富 (fu) | フー富 (fū) | (f) |
このヘウ表のマンヂウモジ滿洲字のカタチ形は、シンブンカン淸文鑑にヨ據り、その發音は、三史 語解とボクリントク穆麟德(Möllendorff)のマンチウ ブンパフシヨ滿洲 文法書とにヨ據れり。滿洲字は、蒙古字[50]に本づきてカイセイ ゾウホ改正 增補したるものにして、蒙古字のドウケイ イオン同形 異音なるものには、キソク規則 タヾ正しくテン點をつけてクベツ區別をアキラ明かにせり。ツアギヤウ攃行 ヅアギヤウ咱行 ジヤギヤウ饒行 パギヤウ帕行 フアギヤウ法行の字は、蒙古字になかりしものを補へるなり。テンプレート:Manchu missing ナホ猶その外に(k')を父音とせるカギヤウ卡行の🈵🈵カ卡(k'a)、🈵🈵コ稞(k'o)、(g')を父音とせるカギヤウ嘎行の🈵🈵ガ嘎(g'a)、🈵🈵ゴ郭(g'o)、(h')を父音とせるハギヤウ𡀾行の🈵🈵𡀾(h'a)、ホ豁(h'o)、(sy)を父音とせる🈵シ四(syi)、(ts)を父音とせる🈵チ此(tsi)、(ch'y)を父音とせる🈵🈵勅(ch'yi)、(jy)を父音とせる🈵🈵ヂ智(jyi)などあれども、表には略けり。これらの補へる文字のうち、カギヤウ卡行 ガギヤウ嘎行 ハギヤウ𡀾行 ツアギヤウ攃行 ヅアギヤウ咱行 ジヤギヤウ饒行の六行と🈵🈵🈵🈵の四音とは、支那の音を譯せんが爲に作れるなり。
シリア失哩亞より傳はれるこのヘウインジ表音字は、ウイグル委古兒 モンゴル忙豁勒をヘ歷て次第に改正し、滿洲字となりて、ジクワク字畫はマス〳〵益 カンイ簡易にオモム赴き、フデ筆のハコ運びもジザイ自在になり、字の數は、吾の數だけソナ備はりて、チヨウブク重複の字もなく、一字を二音に用ふることもなし。ジクワク カンイ字畫 簡易、ウンピツ ジザイ運筆 自在にして、口より出づる音をメイクワク明確にアラハ表すものは、ヘウインジ表音字のモクテキ目的をモツトモ ヨ最 善くタツ達したるものなりとせば、滿洲字は、ジツ實にそのリサウ理想にチカ近づきたる文字なり。されども漢︀字のチカラ力にオ壓されて廣く用ひられざるを見れば、文字のリウカウ流行にもイキホヒ勢とキクワイ機會とありて、その物のヨシアシ善惡のみにはカヽハ拘らざるを知るべし。
又この表の音譯字の、前の表に同じきものは、字のヒダリ左にワ圈[51]を附けたる三十一音 二十七字のみなり。トツ訥は、祕史にてはナギヤウ納行のウ兀のダン段(nu)なれども、こゝにてはエ額のダン段(ne)なり。ハク伯は、祕史にてはバ巴(ba)のカハ代りにもベ別(be)のカハ代りにもモチ用ひたれども、こゝにてはツネ常にベ別(be)に同じ。アツ斡は、祕史にてはアギヤウ阿行のオ斡のダン段○なれども、こゝにてはワギヤウ斡行のア阿のダン段(wa)なり。ラギヤウ喇行の音にクチヘン口扁をつけたるは、祕史のシタ舌の字を書けるよりはカンベン簡便なり。コク克は、カギヤウ喀行のエ額のダン段(ke)にも父音(k)にも用ひ、トク特は、タギヤウ塔行のエ額のダン段(te)にも父音(t)にも用ひ、ボク穆は、マギヤウ瑪行のウ烏のダン段(mu)にもナガウ長烏のダン段(mū)にも父音(m)にも用ひ、ラツ哷は、ラギヤウ喇行のエ額のダン段(re)にも父音(r)にも用ひて、父音の場合にサイジ ハウシヨ細字 旁書のハウ法を取らざるが故に、父音と成音と常にマギ混れ易し。これは祕史のカキカタ書方よりオト劣れり。近頃の人は、大抵 父音なるル勒(l) ル哷(r)の代りにジ爾の字を用ふる故に、エ額のダン段なるレ勒(le) レ哷(r)にマギ混るゝことはなけれども、その代りにラギヤウ拉行とラギヤウ喇行(r)との區別を失へり。
蒙古字 滿洲字のカキカタ書法 モチヒカタ用法などは、このジヨロン序論にシヤウセツ詳說し難︀く、又 詳說すべきカギリ限にあらざれども、ワ余がヤクホン譯本を讀まん人、明譯 祕史に搆れる固有名詞の譯字の、近世 通行の書に異なるをアヤシ怪まんことをオモ想ひ、又 明譯 祕史を讀まんとする人、近世 通行の音譯法と異なるを知らずして、漢︀字 音譯の蒙古文を音讀するタヅキ塔都︀奇をエガタ得難︀からんことをウレ憂へて、そのテビキ特必奇にもとてかくなん。
チンギス カガン成吉思 合罕Chinghis Khaghanのテンゲリ騰格哩tengeriにノボ昇りたるガカイ ヂル合該 只勒Ghakhai jilより六百七十九年のゴイナ豁亦納ghoinaなるモリン ヂル秣麟 只勒Morin jilのナムル納木兒namurのテリウ帖哩兀teriuのサラ撒喇saraに、ナラヌ クヂヤウル納喇訥 忽札兀兒Naranu Khujaurとタヽ稱へらるゝドロナ ヂク朶囉納 竹克dorona jükのエケ ウルス也客 兀魯思yeke ulusのカムクン カガン合木渾 合罕Khamukhun Khaghanのエケ オルド也客 斡兒朶yeke ordoのウメル兀篾兒umerにアタ當れるアカギ阿喀吉Akagi ウンドル溫都︀兒undur エド額朶Edo ゴロカン豁囉罕ghorokhan ゴヤル豁牙兒ghoyarのヂヤウラ札兀喇jauraなるウチユゲン兀出干üchugen ゲル格兒gerにて、モリオカ抹哩斡喀Mori-oka〈[#ルビの「モリオカ」は底本では「モリヲカ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 バラガスン巴剌合孫balaghasunにウマ生れたるフヂハラ富只洼喇Fujiwara オボク斡孛黑obokhのナカ納喀Naka ミチヨ米赤約Michiyo エブゲン額不干ebugen カ書きてヲ畢へたり。
成吉思 汗 實錄の序論 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート読み込みサイズが制限値を越えるので分冊化しています。
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