は、後ノチの世ヨには傳ツタはらずして、その斷簡 殘編ダンカン ザンペンを見たる人ありし事をも聞キかず。
明ミンの太祖︀タイソの洪武コウブ 二年 三年、宋濂ソウレン 王褘ワウヰ 等ラが、勅ミコトを蒙カウムりて元史を修ヲサむる時には、「金匱之書キンキノシヨ、悉
此書は、原本の蒙古文を原音ゲンオンのまゝに漢︀字カラモジにて音譯オンヤクし、本文ホンブンの右側ミギガハに蒙古語モウココトバを一語ヒトコトバごとに漢︀字カラモジにて俗語ゾクゴに譯し、一段 一節︀イチダン イツセツの終ヲハりに、又は段落ダンラクの切キれざる處トコロにても、文章ブンシヤウの長過ナガスぐる處トコロは程善ホドヨく切キりて、本文の大意タイイを漢︀字にて俗文ゾクブンに譯し、本文よりは三字ほど下サげて錄シルせり。故ユヱにこの譯本ヤクホンは、委兀兒字ウイウルモジの漢︀字 音譯カンジ オンヤクと蒙古語モウココトバの漢︀字 俗語譯カンジ ゾクゴヤクと蒙古文モウコブンの漢︀字 俗文譯カンジ ゾクブンヤクと三樣サンヤウの譯を備ソナへたる珍メヅラしき本ホンなり。今の寫本は、全部ゼンブ 十二卷を六册ロクサツに