裝釘サウテイし、正集セイシフ 十卷は五册、續集ゾクシフ 二卷は一册となれり。
この飜譯ホンヤクは、明の太祖︀の史官シクワンにて蒙古語に通ツウじたる者︀の手に成り、元朝 祕史ゲンテウ ヒシの名ナも、その時に與アタへられたるなり。明の鄭曉テイゲウの今言キンゲン 卷の四に、鄭曉の吾學編 四夷考 上の卷にも同文あり。「洪武コウブ十五年、命メイジテ㆓翰林侍講カンリンジカウ火原潔クワゲンケツ等ラニ㆒、編㆓類︀ヘンルヰ華夷譯語クワイエキゴ㆒。上カミ以モテ㆘前元ゼンゲン素モト無ナク㆓文字㆒、發㆑號施㆑令但タヾ借カリ㆓高昌書カウシヤウシヨ㆒、製セイ㆓蒙古字㆒、行㆗天下㆖、乃命㆓原潔ゲンケツ㆒、與トモ㆓編修ヘンシウ馬懿赤黑マイチク等ラト㆒、以㆓華言クワゲン㆒譯㆓其語㆒。凡スベテ天文地理テンモンチリ人事物類︀ジンジブツルヰ服食器︀用フクシヨクキヨウ、靡ナシ㆑不ザルハ㆓具載ノセ㆒。復マタ令シム㆘取トリテ㆓元祕史㆒、以切セツ㆓其字ソノジ㆒、諧カナヘ㆗其ソノ聲音セイイン㆖。旣スデニ成ナリ、詔刊布カンプ。自ヨリ㆑是コレ使臣シシン、往㆓來ワウライ朔漠サクバク㆒、皆ミナ能ヨク得エタリ㆓其情㆒」とあり。顧炎武コエンブの日知錄之餘ニツチロクノヨ 卷の四を張穆チヤウボクの引ヒきたるには、「洪武コウブ十五年正月シヤウグワツ丙戌ヒノエイヌ」とあり、又 馬懿赤黑マイチクMaichikhは、馬沙亦黑マシヤイクMashaikhとあり、その他ホカは大抵タイテイ 同オナじ。露西亞ロシアの僧︀正ソウジヤウ 帕剌的兀思パラヂウスPalladiusは、洪武 實錄に此事 見ゆと云へり。明の太祖︀の實錄は、我輩ワガハイいまだ閱讀エツドクの機會キクワイを得エず。高昌カウシヤウは、委兀兒ウイウルの地チの古フルき名ナなり。借カリ㆓高昌書㆒、製セイ㆓蒙古字㆒とは、委兀兒字ウイウルモジを借カりて稍ヤヽ 增損ゾウソンして蒙古字モウコモジとしたるを云ふ。別ベツに蒙古字を作りたるには非アラず。故に元史には畏吾字ウイウモジと云ひて蒙古字と云はず、又その畏吾字ウイウモジを直タヾチに國書とも云へるは、畏吾字は卽ち蒙古字なればなり。
取トリテ㆓元祕史㆒、以切セツ㆓其字㆒、諧カナフ㆓其聲音㆒とは、祕史の蒙古字の音韻インヰンを分析ブンセキし、漢︀字を當アてて善ヨく諧カナはしむるを云ふ。蓋ケダシ 華夷 譯語クワイ エキゴの書は、蒙古語の音オンも義ギも漢︀字を以て譯するが故に、その材料ザイレウ