明治 三十二年、文廷式の來遊ライイウせし時、鹿角カヅノの內藤 湖南ナイトウ コナン、東京に居りて、廷式の歸カヘりたらん後に蒙古文 祕史を寫し寄ヨせられんことを求モトめ、余ワレも亦マタ 切シキリに望ノゾみたりしかば、廷式 歸カヘりて閒マもなく拳匪ケンヒの亂ラン 起オコり、音信インシン 久ヒサしく絕タえたれども、三十四年の末スヱに至り、裒然ホウゼンたる六大册の寫本を人に托タクして大阪オホサカなる湖南コナンの許モトに屆トヾけたり。湖南は、直タヾチに鈔胥セウシヨを傭ヤトひて、一部を影寫し、東京に送オクりこしたるは、今 高等 師範 學校の藏となれり。その後 早稻田 大學ワセダ ダイガクも、一部を影寫して、その圖書館︀トシヨクワンに備ソナへたり。是コヽに於て我ワが海︀內カイダイにも、亦 始めて三部ある事となれり。
かくて この全本は、世界セカイに六部 限カギりかと云へば、さに非ず。猶ナホ 外ホカに一部あり。その一部は、遙ハルカに遠方エンパウに在アり。その一部は、日本ニツポン 支那シナにあるよりも遙ハルカに大オホイなる裨益ヒエキを世界セカイの史學シガクに與アタへつつあり。其ソは、露西亞ロシアの帕剌的兀思本パラヂウスボンなり。
僧︀正ソウジヤウ 帕剌的兀思パラヂウスPalladiusは、支那シナの京師ケイシに居りて、初ハジメに連筠簃レンキンイ 叢書ソウシヨよリ元朝 祕史を得て、露西亞文に飜譯し、譯者︀の序論ジヨロンと注釋チウシヤクと成吉思 汗チンギス カンの家イヘの系圖ケイヅとを加クハへて、「成吉思 汗チンギス カンの古フルき蒙古 物語モウコ モノガタリ」と題ダイし、西紀セイキ 一八六六年、同治 五年、慶應 二年、「北京ペキンなる露西亞の傳道 使命デンダウ シメイの報吿ハウコク」の第四卷に載せて出板シユツパンせり。その後 一八七二年、同治 十一年、明治 五年、蒙古文を漢︀字にて音譯せる十五卷の明槧ミンザンの寫本を偶タマ〳〵 得て、嘗カツて譯せる漢︀文の本は、この蒙古文の摘譯テキヤクなることを知れり。十五