成吉思汗実録/巻の十
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のジフ十。
§230(10:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「クモ雲額兀列あるヨル夜、ワ我がソラマド天窓斡嚕格あるヘヤ房のマハ廻額額嗹りにフ臥して、シヅカ靜斡嚕克訥塔にネム睡溫塔兀勒らしめて、この額捏クラヰ位斡舌欒にイタ到らせたるラウコウ老功斡脫古思のワ我がシユクヱイ宿衞、ホシ星豁都︀あるヨル夜、ワ我がチヤウデン帳殿斡兒朶のヘヤ房のマハリ周圍豁兒臣にフ臥して、フトン蒲團斡舌欒のウチ內をオドロ驚斡黑札惕合かさざりしサイハヒ慶斡勒澤あるワ我がシユクヱイ宿衞は、タカ高溫都︀兒きクラヰ位斡舌欒にイタ到らせたり。ヘンドウ變動失勒只𡂰しヲ居るフヾキ風雪に、ワナヽ顫失勒古惕刊かしヲ居るレイキ冷氣に、ソヽ瀉赤惕渾ぎヲ居るアメ雨に、ワ我がアミタルカベ編壁失勒帖速あるヘヤ房のマハリ周圍にヤスミ休只啉をナ爲さずタ立ちてコヽロ心只嚕格をヤス安からしめたるマコト誠申のコヽロ心あるワ我がシユクヱイ宿衞は、クワイクワツ快活只兒合郞なるクラヰ位にイタ到らせたり。ミダ亂亦不侖れヲ居るテキ敵のナカ中に、ワ我がトテイ土堤亦兒格あるイヘ家のマハリ周圍に、マタヽキ瞬希兒篾思もせずスヽ勸亦惕合めてタ立ちたるタノミ賴亦帖格勒あるワ我[252]がシユクヱイ宿衞、カバノカハ樺皮兀亦勒孫のヤナグヒ箭筒をウゴカ動忽必思しナ爲せばオク後豁只惕れてタ立たざりしハヤ快忽兒敦くユ行くワ我がシユクヱイ宿衞、サイハヒ慶斡勒澤あるワ我がシユクヱイ宿衞どもをラウ老 シユクヱイ宿衞(老功の宿衞士)とイ云へ。
オゲレ チエルビ斡歌列 扯兒必とイ入りたるシチジフ七十のジヱイ侍衞どもをタイ大 ジヱイ侍衞とイ云へ。
アルカイ阿兒孩(卽ち阿兒孩 合撒兒)のユウシ勇士どもをラウ老 ユウシ勇士とイ云へ。
エスン テエ也孫 帖額、ブギダイ不吉歹 ラ等のセントウシ箭筒士どもをタイ大 セントウシ箭筒士とイ云へ」とミコト勅ありき。
§231(10:03:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
「ワ我がクジフゴ九十五のセンコ千戶よりミ身にツ貼くキンシン近臣にエラ選びてキ來つるマン萬のシンキン親近なるワ我がバンシ番士を、ユクスヱ久後 ワ我がクラヰ位にスワ坐りたるコ子ども、ワ我がシソン子孫のシソン子孫は、このバンシ番士をカタミ遺念のゴト如くオモ想ひて、ウラ怨みしめず、ヨ善くアツカ扱へ。このマン萬のバンシ番士をワ我がめでたきフク福︀のカミ神︀とイ云ひてヲ居らずや」とノリタマ宣へり。
§232(10:04:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「オルド斡兒朶のコシモト侍女(蒙語チエルビン オキト扯兒賓︀ 斡乞惕、侍從の女)イヘノコモノ家僮(蒙語グルン コウト格㖮 可兀惕、家の子)ラクダカヒ駱駝飼︀(蒙語テメエチン帖篾額臣、元史 兵志に「牧㆓駱駝㆒者︀曰㆓帖蔑赤㆒」とあり。)ウシカヒ牛飼︀(蒙語クケチン忽客臣)をシユクヱイ宿衞はトリシ取締めて、オルド斡兒朶のヘヤ房 クルマ車をトヽノ調へよ。タウ纛 ツヾミ鼓 ドロ朶囉(明本 語譯には下とあれども解する能はず。)ヤリ鎗をシユクエイ宿衞 トヽノ調へよ。キベイ器︀皿をもシユクヱイ宿衞 トヽノ調へよ。ワレラ我等のノミモノ飮物 クヒモノ食物をシユクヱイ宿衞 シタク支度せよ。シゲ稠きニク肉のクヒモノ食物をもシユクヱイ宿衞 シタク支度してニ煑よ。ノミモノ飮物 クヒモノ食物 フソク不足とならば、シタク支度ぜられたるシユクヱイ宿衞にタヅ尋ねよ」とノリタマ宣へり。「セントウシ箭筒士にノミモノ飮物 クヒモノ食物をクバ配るに、シタク支度したるシユクヱイ宿衞にサウダン相談 ナ無くてナ勿 クバ配りそ。クヒモノ食物をクバ配るに、まづシユクヱイ宿衞よりハジ始めてクバ配れ」とノリタマ宣へり。[253]「オルド斡兒朶のヘヤ房にイ入りイ出づるをシユクヱイ宿衞 トヽノ整へよ。カド門にはシユクヱイ宿衞のカドモリ門者︀(蒙語エウデチン額兀迭臣)イヘ家にヨ倚りてタ立て。シユクヱイ宿衞よりフタリ二人 イ入りてタイシユキヨク大酒局をト執りてヲ居れ」とノリタマ宣へり。「〈[#底本では直前の「開き括弧」なし]〉シユクヱイ宿衞よりイヘヰヅカサ營盤官(蒙語ヌントウチン嫩禿兀臣)ユ行きてオルド斡兒朶のヘヤ房をオロ下せ(据ゑつけよ)」とノリタマ宣へり。「ワレラ我等 タカ鷹 ツカヒ使ひマキガリ圍獵するトキ時、シユクヱイ宿衞はワレラ我等とトモ共にタカ鷹 ツカヒ使ひマキガリ圍獵しにユ行け。クルマ車に[エモノ獲物の]ナカバ半をワ分けて〈[#「[獲物の]半を分けて」はママ。底本の六四五頁(§278)に訳注者本人による事後訂正あり]〉オ置け」とノリタマ宣へり。(元史 兵志に「預㆓怯薛 之職㆒、而居㆓禁近㆒者︀、分㆓冠服弓矢食飮文史車馬廬帳府庫醫藥卜祝︀之事㆒、悉世守㆑之。雖㆘以㆓才能㆒受㆓任使㆒、服㆓官政㆒、貴盛之極㆖、一日歸至㆓內庭㆒、則執㆓其事㆒如㆑故、至㆓於子孫㆒無㆑改。非㆓甚親信㆒、不㆑得㆑預也」とあり。)
§233(10:06:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「ワレラ我等のミ身、イクサ軍にイ出でずば、シユクヱイ宿衞は、ワレラ我等よりホカ外にイクサ軍にナ勿 イ出でそ」とノリタマ宣へり。「かくイ云はれて、ミコト勅をコ越えてシユクヱイ宿衞をネタ嫉みてイクサ軍をイダ出すものあらば、イクサ軍をシ知れるチエルビン扯兒賓︀ ツミ罪あるとなれ」とミコト勅ありき。「シユクヱイ宿衞のイクサ軍はいかんぞイダ出されざるとイ云へるぞ、ナンヂラ汝等。シユクヱイ宿衞は、タヾ但 ワレラ我等のコガネ金のイノチ命をマモ守るなり。タカガリ鷹狩 マキガリ圍獵にユ行くトキ時、ハタラ働きア合ふなり。オルド斡兒朶をアヅ預けられて、タ起つトキ時 シヅカ靜なるトキ時 クルマ車をトヽノ調ふるなり。ワ我がミ身をマモ守りてトマ宿ることタヤス容易からんや。イヘ家 クルマ車 タイラウエイ大老營を、タ起つトキ時 ヲ居るトキ時 トヽノ調ふることタヤス容易からんや。かくオモ重きハナ離れバナ離れのハタラ働きあることをイ云ひて、「ワレラ我等よりホカ外にコト別にイクサ軍にナ勿 ユ行きそ」とイ云へるは、かくあるぞ」とノリタマ宣ひき。
§234(10:08:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 ミコト勅あるには「シギ クトク失吉 忽禿忽のサイダン裁斷に、シユクヱイ宿衞より[ヒト人を[254]イダ出して]サイダン裁斷をトモ共にキ聽け」とノリタマ宣へり。「シユクヱイ宿衞よりヤナグヒ箭筒 ユミ弓 カブト甲 キカイ器︀械をトヽノ調へてクバ配りア合へ。センバ騸馬をトヽノ調へてマウサク網索をツ駄けてユ行け」とノリタマ宣へり。「シユクヱイ宿衞よりチエルビン扯兒賓︀とトモ共にタンモノ段匹をクバ配れ」とノリタマ宣へり。
オルド斡兒朶の右左前なるセントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞の屯營
「セントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞のタムロ營をツ吿ぐる(定むる)には、エスン テエ也孫 帖額 ブギダイ不吉歹 ラ等のセントウシ箭筒士、アルチダイ阿勒赤歹 オゲレ斡歌列 アクタイ阿忽台 ラ等のジヱイ侍衞は、オルド斡兒朶のミギ右のホトリ邊にユ行け」とノリタマ宣へり。「[ゴルクダク豁兒忽荅黑 ラブラカ剌卜剌合 ラ等のセントウシ箭筒士、]ブカ不合、ドダイ チエルビ朶歹 扯兒必、ドゴルク チエルビ多豁勒忽 扯兒必、チヤナイ察乃 ラ等のジヱイ侍衞は、オルド斡兒朶のヒダリ左のホトリ邊にユ行け」とノリタマ宣へり。「アルカイ阿兒孩のユウシ勇士どもは、オルド斡兒朶のマヘ前にユ行け」とノリタマ宣へり。「シユクヱイ宿衞は、オルド斡兒朶のイヘ家 クルマ車をトヽノ調へて、オルド斡兒朶のマヘ前のヒダリ左のホトリ邊にユ行け」とノリタマ宣へり。(明譯にはチヤウデンノ帳殿 マヘノ根前 ヒダリ左 ミギ右とあり。原文 左の下に右の字 脫ちたるなるべし。)
「アマタ許多のバンチヨク番直するジヱイ侍衞を、オルド斡兒朶のマハリ周圍、オルド斡兒朶のイヘノコ家僮を、ウマカヒ馬飼︀(蒙語アドウチン阿都︀兀臣)ヒツジカイ羊飼︀(蒙語ゴニチン豁你臣、元史 兵志に「牧㆑羊者︀曰㆓火你赤㆒」とあり。)ラクダカヒ駱駝飼︀ ウシカヒ牛飼︀を、ツネ常にドダイ チエルビ朶歹 扯兒必、キ氣をフ付けてヲ居れ」とコトヨサ任しタマ給へり。「ドダイ チエルビ朶歹 扯兒必は、ツネ常にイ居て、オルド斡兒朶のウシロ後豁亦納よりカレクサ枯草豁黑をク喫ひてカンプン乾糞豁馬兀兒をヤ燒きてユ行け」とミコト勅ありき。(末の一語は、掃除せよとの意なるべきか。確ならず。朶歹 扯兒必は、一千の侍衞の長にて、番直の宿老 卽ち四 怯薛 長の一人となり、兼ねて殿中監の職務をも執れるなり。この職務は、太祖︀ 始めて合罕となれる時「家の內の婢僕どもを統べん」と云へるに同じ。)
§235(10:10:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
クビライ ノヤン忽必來 那顏にカルルウト合兒魯兀惕をコトム征けさせたり。カルルウト合兒魯兀惕のアルスラン カン阿兒思闌 罕はクビライ忽必來にクダ降りキ來ぬ。クビライ ノヤン忽必來 那顏は、アルスラン カン阿兒思闌 罕をヒキ率ゐキ來て、チンギス カガン成吉思 合罕にマミ見えさせたり。テキタイ敵對せ[255]ざりきとて、チンギス カガン成吉思 合罕は、アルスラン阿兒思闌をオンシヤウ恩賞して、「ムスメ女をアタ與へん」とミコト勅ありき。(合兒魯兀惕は、合兒魯黑の複稱、唐書の葛邏祿なり。葛邏祿は、鐵勒 諸︀部の一にして、唐の世に北庭の西北金山の西に居り、その盛なる時は碎葉 但邏斯の諸︀城をも有ちしが、宋の世に至りて國 衰へ、西遼の屬國となれり。
烏古孫 仲端の北使記 元史 鐵邁赤の傳に合魯、親征錄 太祖︀紀 沙全の傳 儒學 伯顏の傳に哈剌魯、哈剌䚟の傳に哈魯、也罕 的斤の傳に匣剌魯とあり。輟耕錄の色目 三十一種の中には哈剌魯とも匣剌魯とも書けり。珀兒沙の亦思塔黑哩の書には喀兒列怯、普剌諾 喀兒闢尼の紀行には科囉剌と云へり。元史 地理志の西北地 附錄には柯耳魯とありて、經世 大典の圖に、柯耳魯は阿力麻里 卽ち阿勒馬里克(今の伊犂)の西北に載せたり。親征錄に「辛未 春、上居㆓怯綠連 河㆒時、西域 哈剌魯 部主 阿昔蘭 可汗 來歸、因㆓忽必來 那顏㆒見㆑上」とあり。元史も、太祖︀ 六年 辛未の條にこの事を記せり。
カヤリク喀牙里克の君を兼ぬるカルルク カン合兒魯黑 罕
多遜は、主吠尼の史を譯して「突︀兒克 喀兒魯克の酋長にして喀牙里克の君なる阿兒思闌 汗、阿勒馬里克の君なる斡匝兒、二人ともに合喇乞台の古兒汗の臣なりしが、一二一一年 來て成吉思 汗に從ひ、成吉思 汗は、阿兒思闌に宗女を與へたり」と云へり。喇失惕の記載は、祕史に同じくして、只 皇女をば主吠尼と同じく宗女とし、「阿兒思闌 汗の號 存すべからざるに依り、撒兒惕の號を賜へり」と云へり。合兒魯兀惕の罕は喀牙里克の君を兼ぬとあれば、その國は、喀牙里克の邊、卽ち巴勒喀什 湖の東南にあるべし。喀牙里克は、嚕卜嚕克の紀行に喀亦剌克と云ひ、元史 憲宗紀「二年夏、分㆓遷諸︀王於各所㆒」の條に「海︀都︀ 於㆓海︀押立 地㆒」とありて、太宗の孫なる海︀都︀の分地となり、海︀都︀の亂に世祖︀の兵は阿勒馬里克に進み、阿剌套 山を隔てて相 對し居たり。大佐 裕勒は「その地は、今の闊帕勒に近し」と云へり。一八五七年、ある塔塔兒 人は、闊帕勒の古墳より古き金環を寶石と共に發見し、その金環に突︀兒克 字にて阿兒思闌と刻みてありしは、珍らしき堀出物なりき(露西亞の地學 協會の報吿、一八六七年 第一編 第 二百九十ぺーぢ)。
諸︀公主表に「脫烈 公主、適㆓阿爾思蘭子 也先 不花 駙馬㆒」とありて、皇女とも宗女とも云はず。又 表には阿兒思闌を駙馬と云はざれども、諸︀書みな阿兒思闌に妻せたりとあれば、これも先に阿兒思闌に配し、後にその子に配したるを、公主表は諱みて後の駙馬のみを擧げたるならん。又 脫烈 公主の次に「八八公主、適㆓也先 不花子 忽納荅兒 駙馬㆒。某 公主、適㆓忽納荅兒 子 剌海︀涯里那 駙馬㆒」とあれば、阿兒思闌の後は、曾孫までも世世 元の駙馬となりしなり。)
§236(10:11:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
メルキト篾兒乞惕のヰゲツ遺孽のサウメツ𠞰滅
スベエタイ バアトル速別額台 巴阿禿兒は、クロガネ鐵のクルマ車にて、メルキト篾兒乞惕のトクトア脫黑脫阿のクト忽禿 チラウン赤剌溫 ラ等なるコ子どもをオ追ひにシユツセイ出征して、チユイ ガハ垂 河にオヒツ追詰めてキハ窮めてキ來ぬ。(親征錄に曰く「辛未、遣㆓將 脫忽察兒㆒、率㆓騎二千㆒、出哨㆓西邊戎㆒。丁丑、上遣㆓大將 速不台拔都︀㆒、以㆑鐵裹㆓車輪㆒、征㆓蔑兒乞 部㆒、與㆓先遣征西前鋒 脫忽察兒 二千騎㆒合、至㆓嶄河㆒、遇㆓其長㆒大戰、盡滅㆓蔑兒乞㆒還」と云ひ、
喇失惕も、この戰を記して牛の年の事とし、嶄河を眞河と書けり。元史 本紀は、三年 戊辰の也兒的石 河の戰に「討㆓蔑里乞 部㆒滅㆑之」と書きて、十二年 丁丑には速不台の征戰を載せず。速不台の傳に曰く「滅里吉 部强盛不㆑附。丙子、帝[256]會㆓諸︀將於 禿兀剌 河之黑林㆒、問㆘誰能爲㆑我征㆓滅里吉㆒者︀㆖。速不台請㆑行。帝壯而許㆑之。乃選㆓裨將 阿里出㆒、領㆓百人㆒先行、覘㆓其虛實㆒。速不台 繼進云云。己卯、大軍至㆓蟾河㆒、與㆓滅里吉㆒遇、一戰而獲㆓其二將㆒、盡降㆓其眾㆒、其部主 霍都︀ 奔㆓欽察㆒。速不台 追㆑之、與㆓欽察㆒戰㆓于 玉峪〈[#「峪」は底本では「山+容」。昭和18年復刻版では「山+客」。「元史(四庫全書本)卷一百二十一、第2丁、蘇布特(速不台)の傳」では「峪」]〉㆒敗㆑之」とあり。丙子は十二年 丁丑の前年、己卯は丁丑の二年後にして、親征錄 集史と年紀 合はず。多遜は、嶄河を哲姆 河と書き、その戰を一二一六年 卽ち丙子の事とせり。諸︀書を合せ考ふるに、蓋 子の年に軍を出し、丑の年に垂河に戰ひ、卯の年に餘孽 悉く平ぎたるならん。
カングリン康鄰にハシ奔れるクド忽都︀
親征錄の嶄河、喇失惕の眞河、多遜の哲姆 河、速不台の傳の蟾河は、祕史の垂河と同じきか異なるか、知らず。霍都︀の欽察に奔れることは、卷八にも「忽都︀ 合惕 赤剌溫 等の篾兒乞惕は、康鄰 欽察兀惕を過ぎ去りき」と云ひ、土土哈の傳には「太祖︀ 征㆓蔑里乞㆒、其主 火都︀ 奔㆓欽察㆒。欽察 國主 亦納思 納㆑之。太祖︀ 遣㆑使諭㆑之 云云。亦納思 答 云云。太祖︀ 乃命㆑將 討㆑之」とあれども、西域の諸︀史には更にその事なし。喇失惕は「忽都︀は乞魄察克に奔らんとしたるを、蒙古の軍に捕へ殺︀されたり」と(別咧津 卷一 第七十三頁に)云ひ、多遜の史には「篾兒乞惕の酋 禿克脫干は、蒙古に逐はれ、眾を率ゐて氈篤の北に走り、その下に殺︀され、蒙古はその眾を海︀哩 哈米赤 兩河の間に敗りて滅ぼせり」とあれば、篾兒乞惕の走りて康鄰の地に入りたるは、實らしけれども、欽察に奔れりと云へるは、傳聞の誤りなるべし。)
§237(10:11:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
グチユルク カン古出魯克 罕のサウメツ𠞰滅
ヂエベ者︀別は、ナイマン乃蠻のグチユルク カン古出魯克 罕をオ追ひて、サリクグン撒哩黑昆にオヒツ追詰めて、グチユルク古出魯克をキハ窮めてキ來ぬ。(親征錄 戊寅(太祖︀ 十三年) 木華黎 國王 南征の次に「別遣㆓大將 哲別㆒、攻㆓曲出律 可汗㆒、至㆓撒里桓 地㆒克㆑之」とありて、その簡略なること祕史と同じ。
遼史 天祚紀の末に西遼の興亡を附記し、遼の德宗 耶律 大石の自立より大石の妻 感天 太后 塔不煙、その子 仁宗 夷列、夷列の妹 承天 太后 普速完を歷て、夷列の子 直魯古に至り、「直魯古 卽㆑位、改㆓元 天禧㆒、在位三十四年。時秋出獵、乃蠻 主 屈出律、以㆓伏兵八千㆒擒㆑之、而據㆓其位㆒、襲㆓遼衣冠㆒、尊㆓直魯古㆒爲㆓太上皇㆒、皇后爲㆓皇太后㆒、朝夕問㆓起居㆒、以侍終焉。直魯古 死、遼絕」とあり。屈出律は、卽ち古出魯克にして、その西遼に奔れるは、親征錄 主吠尼に據るに、太祖︀ 三年 戊辰、西紀 一二〇八年にあり。古出魯克の西遼を簒へるは、錢大昕の考證と主吠尼の史とに據るに、太祖︀ 六年 辛未、西紀 一二一一年にあり。直魯古の死は、主吠尼 喇失惕の書に據るに、國を奪はれて憂悶し、二年を歷て病死したるなり。長春の西游記に「自㆓金師破㆒㆑遼、大石 林牙 領㆓眾數千㆒走㆓西北㆒、移徙十餘年、方至㆓此地㆒云云。延袤萬里、傳㆑國幾百年。乃滿 失㆑國依㆓大石㆒、士馬復振、盜㆓據其土㆒。繼而 算端 西削㆓其地㆒。天兵至、乃滿 尋滅、算端 亦亡」と云へり。林牙は、學士を呼ぶ契丹語にして、耶律 大石の舊官なり。乃滿 失㆑國依㆓大石㆒とは、乃蠻の古出魯克 逃げて大石の立てたる國に依れるを云ふ。算端 西削㆓其地㆒とは、闊喇自姆の君 速勒壇 抹哈篾惕、西遼の舊境 失兒 河 以南を取れるを云ふ。乃滿 尋滅は、古出魯克の滅びたるなり。算端 亦亡は、この戊寅の年より二年後にあり。撒哩黑昆は、集史に撒哩黑庫勒とあり。今は撒哩庫勒と呼び、葉兒羌 河の上流にあり、西は直に露西亞の領地に接す。古出魯克の事蹟は、主吠尼 喇失惕の二書に詳なり。
フス メリク曷思麥里のデン傳のカウシヨウ考證
元史には只 曷思麥里の傳に「曷思麥里、西域 谷則 斡兒朶 人。初爲㆓西遼 闊兒罕 近侍㆒、後爲㆓谷則 斡兒朶 所屬 可散 八思哈 長官㆒。太祖︀西征、曷思麥里 率㆓ 可散 等城酋長㆒迎降。大將 哲伯 以聞。帝 命㆓曷思麥里㆒、從㆓哲伯㆒爲㆓先鋒㆒、攻㆓乃蠻㆒克㆑之、斬㆓其主 曲出律㆒。[257]哲伯 令㆘曷思麥里、持㆓曲出律 首㆒、往徇㆗其地㆖。若㆓可失哈兒 押兒牽 斡端 諸︀城㆒、皆臨㆑風降附」とあり。谷則 斡兒朶は、大城の義にして、垂河(今の楚河)の濱に在りし西遼の都︀なり。遼史 天祚紀に虎思 斡耳朶、金史 粘割 韓奴の傳に骨斯 訛魯朶、耶律 楚材の西游錄に虎司 窩魯朶と書けり。或は古思を略きて斡兒朶とのみも云へり。元好問の大丞相 劉氏 先瑩の碑、元史 郭寶玉の傳に、訛夷朶とあるは、兒を夷と誤りたるなり。闊兒罕は、祕史 卷五の古兒 罕、親征錄の菊律 可汗なり。遼史に記せる如く、大石 林牙 卽位して葛兒罕と號してより、子孫みなその號を襲ぎたるなり。可散は、西游錄に可傘と書き、經世 大典の圖には柯散と書きて、察赤(今の塔什干)の東南に在り。露西亞の地圖には、塔什干の東南に今も喀散 城あり。曷思麥里は、者︀別に降れるにて、この時 太祖︀は未だ親征せざれば、傳に太祖︀ 西征とあるは誤れり。可失哈兒は今の喀什噶爾、押兒牽は今の葉爾羌、斡端は今の和闐なり。)
§238(10:12:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ウイウト委兀惕のイドウト亦都︀兀惕は、チンギス カガン成吉思 合罕にツカヒ使をヤ遣りき。(この事は、親征錄 集史 元史、みな祕史より委し。親征錄にまづ「己巳(太祖︀ 四年)春、畏吾兒 國主 亦都︀護、聞㆓上威名㆒、遂殺︀㆓契丹 主所置監國 沙監㆒」とあり。亦都︀護は、卽ち亦都︀兀惕、委兀惕の王號にして、集史には亦的庫惕と云へり。この亦都︀兀惕の名は、巴而朮 阿而忒 的斤と云ひ、元史に傳あり。哈剌亦 哈赤北魯の傳には、八兒出 阿兒忒 亦都︀護とあり。契丹は、合喇 乞塔惕、卽ち西遼にして、岳璘 帖穆爾の傳には西契丹とあり。西遼の畏兀を威制したること、畏兀の叛きてその監國を殺︀したる事情は、哈剌亦 哈赤北魯、岳璘 帖穆爾 二人の傳に見ゆ。
さて親征錄に、監國を殺︀したる處へ、太祖︀の使 二人 至りたれば、亦都︀護 喜びて、使 二人を遣り降附の意を奏さしめき。この時 蔑里乞の脫脫より使 至りたるを、亦都︀護はその使を殺︀し、又 脫脫の子 四人は、父を失ひ、也兒的石 河を渉りて至りたるを嶄河にて禦ぎ戰へり。この戰は、祕史 卷八の初にある不黑都︀兒麻の戰に續きて、額兒的失 河にて多數 溺れてより西に奔るまでの間にありし事なり。嶄河は、巴兒朮の傳に襜河とあり、古の昌八里に傍ひて流るゝ昌河、卽ち今の昌吉 河にして、委兀惕の都︀城の西にあり。太祖︀ 十二年 丁丑に速不台の戰へる薪河、速不台の傳に蟾河とあるものとは、名 同じくして實は異なり。この戰の後、亦都︀護は使 四人を遣り蔑里乞の事を吿げたれば、太祖︀は又 前の使 二人を遣り、亦都︀護は復使を遣り珍寶 方物を奉れりとあり。これらの事を皆 太祖︀ 四年の事とせり。)アトキラク阿惕乞喇黑(親征錄に乞力吉思の二使の一人を阿忒黑剌と云ひ、喇失傷も乞兒吉思の二使の一人を阿惕黑剌黑と云へば、修正 祕史は、委兀惕の使を乞兒吉思の使と改めたるに似たり。)ダルベ荅兒伯(喇失惕は、太祖︀の二使の一人を迭兒拜と云へり。親征錄 初に荅拜とあるは、兒の字を落せるなり。後に荅兒班とあるは、拜を班と誤れるなり。これも委兀惕の使を太祖︀の使に混らしたるなり。)フタリ二人をツカヒ使としマウ奏してヤ遣るには
「クモ雲額兀速 ハ霽れてハヽ母額客なるヒ日(母の如き太陽)をミ見たるがゴト如く、コホリ冰抹勒孫 ト解けてカハ河木嗹のミヅ水をエ得たるがゴト如く、チンギス カガン成吉思 合罕のナ名とコヱ聲とを[258]キ聞きてハナハダ甚 ヨロコ歡べり。
チンギス カガン成吉思 合罕 オンシ恩賜せば、コガネ金阿勒壇のオビ帶不薛のシメガネ締金豁兒吉よりアケノオホミゾ大紅衣阿勒迭額勒のキヌギレ帛片忽兒帖孫よりエ得ば(分與せられば)、ナガミコト爾のダイゴ第五のコ子となりてチカラ力をアタ與へん」とマウ奏してヤ遣りき。(親征錄は、この辭を二章に分けて、辭句を增し加へ、前章は、亦都︀護の始めて二使を遣りたる時の辭とし、後章は太祖︀ 六年に亦都︀護の入朝したる時の辭とせり。その前章は「臣國聞㆓皇帝威名㆒、故棄㆓契丹舊好㆒、方將㆘遣㆑使來通㆓誠意㆒、躬自效㆖㆑順。豈料遠辱㆓天使㆒、降㆓臨下國㆒。譬㆓雲開見㆑日、冰泮得㆒㆑水、喜不㆑勝矣。而今而後、盡率㆓部眾㆒、爲㆑僕爲㆑子、竭㆓犬馬之勞㆒也」と云ひ、その後章は「陛下若恩㆓賜臣㆒、使㆘遠者︀悉聞、近者︀悉見、綴㆓袞衣之餘縷㆒、摘㆗金帶之星裝㆖、誠願在㆓陛下四子之亞㆒、竭㆓其力㆒也」と云へり。喇失暢も、殆ど之に同じ。)
そのコトバ言につき、チンギス カガン成吉思 合罕 オンシ恩賜してコタ答へノリタマ宣ひてヤ遣るには「ムスメ女をもアタ與へん。ダイゴ第五のコ子となれ。コガネ金 シロカネ銀 シラタマ眞珠 オホタマ東珠 キンラン金襴 ソウキンラン總金襴 オリモノ段匹をモ持ちてイドウト亦都︀兀惕 コ來よ」とノリタマ宣ひてヤ遣ればイドウト亦都︀兀惕は、オンシ恩賜せられたりとてヨロコ喜びて、コガネ金 シロカネ銀 シラタマ眞珠 オホタマ東珠 オリモノ段匹 キンラン金襴 ソウキンラン總金襴 ドンス緞子をモ持ちて、イドウト亦都︀兀惕〈[#「亦都︀兀惕」は底本では「都︀兀兀惕」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 キ來て、チンギス カガン成吉思 合罕にマミ見えたり。(〈[#底本では直前の「開き括弧」なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄は、「寶を持ち來よ」と太祖︀ 云へりとは云はず、太祖︀の使 二たび往きたる時、亦都︀護の使 復 至りて珍寶 方物を奉れりとあり。かくてそれより二年を歷て、辛未(太祖︀ 六年)の春、哈剌魯 部 主 阿昔蘭 可汗の來朝と同じ時に、亦都︀護 來朝して、彼の袞衣 金帶の辭を陳べたれば、「上說㆓其言㆒、使㆑尙㆓公主㆒、仍序㆓第五㆒」とあり。)チンギス カガン成吉思 合罕は、
イドウト亦都︀兀惕にオンシ恩賜してアル アルトン阿勒 阿勒屯をアタ與へたり。(元史 巴而朮 阿而忒の傳は、全く親征錄に本づきたれども、巳の年の使者︀の辭より「雲開見㆑日、冰泮得㆑水」の語を略き、また「辛未、朝㆓帝亍 怯綠連 河㆒、奏曰「陛下若恩㆓顧臣㆒、使㆓臣得㆒㆑與㆓陛下四子之末㆒、庶幾竭㆓其犬馬之力㆒。」帝感㆓其言㆒、使㆑尙㆓公主 也立 安敦㆒、且得㆑序㆓於諸︀子㆒」とありて、袞衣 金帶の語を略きたれば、亦都︀兀惕の辭命として祕史に載せられたる面白き韻文は、骨拔泥鰌となれり。公主表 高昌 公主 位の處に「也立 可敦 公主、太祖︀ 女、適㆓亦都︀護 巴而述 阿兒忒 的斤㆒」とあり。可敦は、安敦の誤、也立 安敦は、卽ち阿勒 阿勒屯なり。喇失惕は、正后の出にあらずと云へり。)
§239(10:14:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ウサギ兔のトシ年(我が土御門 天皇 承元 元年 丁卯、宋の開禧 三年、金の泰和 七年、元の太祖︀ 二年、西紀 一二〇七年、太祖︀ 四十六歲の時)、ヂユチ拙赤をミギ右のテ手のイクサ軍にてハヤシ林のタミ民のトコロ處にシユツセイ出征せしめたり。ブカ不合[259]は、ミチビキ嚮導してユ往きたり。(親征錄には、この年「遣㆓案彈 不兀剌 二人㆒、使㆓乞力吉思 部㆒」とありて、拙赤 北征の事なし。拙赤 北征の事は、この年より十一年後なる戊寅の年(太祖︀ 十三年)、哲別の曲出律を滅したる次に記し、「先 吐麻 部 叛、上遣徵㆓兵 乞兒乞思 部㆒、不㆑從亦叛去、遂先命㆓大太子㆒往討㆑之、以㆓不花㆒爲㆓前鋒㆒」とあり。集史もほゞ同じ。不花は卽ち不合、八十八 功臣の中なる不合 駙馬なり。)
オイラト斡亦喇惕のクドカ ベキ忽都︀合 別乞(前に十一部の亂に加はりたる人)は、トメン禿綿(萬の)オイラト斡亦喇惕のマヘ前にクダ降りイ入りてキ來ぬ。キ來てヂユチ拙赤をヒ引きて、トメン オイラト禿綿 斡亦喇惕のトコロ處にミチビ導きて、シクシト失黑失惕にイ入らしめたり。(親征錄には、丁卯の年、乞力吉思 部 降附し、その翌年 戊辰の冬、二たび脫脫 曲出律を征する時「斡亦剌 部 長 忽都︀花 別吉 等、遇㆓我 前鋒㆒、不㆑戰而降。因用爲㆓鄕導㆒、至㆓也兒的石 河㆒云云」とありて、拙赤に降れる忽都︀合を脫黑脫阿 征伐の軍に降れりとせり。喇失惕も同じ。洪鈞の朮赤 補傳の自注に曰く「本紀、斡亦剌 之降在㆓三年㆒、而 乞力吉思 之附在㆓二年㆒。考㆓之西圖㆒、應㆑從㆓祕史㆒。先定㆓斡亦剌㆒、由㆑東而西、軍程乃合」と云へり。)ヂユチ拙赤は、
オイラト斡亦喇惕 ブリヤト不哩牙惕 諸︀部の降附
オイラト斡亦喇惕 ブリヤト不哩牙惕 バルクン巴兒渾 ウルスト兀兒速惕 カブカナス合卜合納思 カンカス康合思 トバス禿巴思をクダ降して、(喇失惕の書に「客姆 河の上流に八河ありて、斡亦喇惕は、その左に居り、その近き東に兀喇速惕 帖連郭惕 客思的米なる林の民は、拜喀勒 湖の西に居りて、斡亦喇惕 乞兒吉思と鄰り合へり、」また「拜喀勒 湖の東に庫哩 禿剌思 不哩牙惕 禿馬惕 四部あり、都︀て巴兒古惕と云ふ」と云へり。巴兒渾は、卽ち巴兒古惕にて、卷一にその部の人 巴兒忽歹 篾兒干あり。太祖︀紀に八剌忽とあるも、巴兒古惕なり。喇失惕は、四部の總名とすれども、こゝに不哩牙惕と並べ擧げたれば、一部の名にも用ひたるなり。兀兒速惕は、卽ち兀喇速惕なり。合卜合納思は、元史 類︀編なる朮赤の傳に大方 通鑑を引きて憾哈納思とあり。親征錄に憾哈思とあるは、納の字を脫せるなり。元史 地理志には撼合納、劉 哈剌 拔都︀魯の傳には憨哈納思と書けり。その地の事は、元史 譯文 證補の地理志 西北地 附錄 釋地の下に詳なり。康合思 禿巴思は、知らず。)
トメン キルギスト禿綿 乞兒吉速惕のトコロ處にイタ到れば、(乞兒吉速惕は、乞兒吉思の複稱なり。多遜 曰く「乞兒吉思の住める地は甚 廣く、安噶喇 河の西、阿勒台 山の北の東よりに居り、乃蠻はその南東にあり、客姆 河、客姆 客姆主惕は、その境內にあり。俗は遊牧なれども、城郭もあり」と云へり。)キルギスト乞兒吉速惕のクワンニン官人 エデ イナル也迪 亦納勒、アルデエル阿勒迪額兒、オレベク チギン斡列別克 的斤なるキルギスト乞兒吉速惕のクワンニン官人どもクダ降りイ入りて、シロ白きカイセイ海︀靑どもシロ白きセンバ騸馬どもクロ黑きテウソ貂鼠どもをモ持ちキ來て、ヂユチ拙赤にマミ見えたり。(〈[#底本では直前の「開き括弧」なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄には「遣㆓案彈 不兀剌 二人㆒、使㆓乞力吉思 部㆒。其長 斡羅思 亦難︀ 及 阿忒里剌 二人、偕㆓我使㆒來、獻㆓白 海︀靑㆒、名鷹也」太祖︀紀には「野牒 亦納里 部、阿里替也兒 部、皆遣[260]㆑使來獻㆓名鷹㆒」とありて、本書と異なり。別咧津は喇失惕を譯して「阿勒壇 不剌の二人 乞兒吉思に使し、まづ一部に至り」と云ひて、「部の名も酋長の名も文字 見えず」と注し、「次の一部を也迪 斡侖、酋長を兀嚕思 亦納勒と云ふ。二酋 厚くもてなし、阿里克 帖木兒 阿惕黑喇黑 二人を遣して白き獵鳥を獻れり」と云へり。錄の亦難︀、紀の亦納里は、亦納勒の訛なり。多遜は、喇失惕を引きて「亦納勒は、乞兒吉思にて酋長を稱する號なり」と云へば、也迪 亦納勒は、也迪 部の酋長と云ふことにて、兀嚕思 又は斡囉思は、その名なるべし。名の見えざる酋長は、阿勒迪額兒ならん。元史は、二つともに人の名を部の名に誤れり。阿里克 帖木兒は、額兒篤曼の譯に阿里別克 帖木兒とあり、卽ち斡列別克 的斤なり。祕史に無き一使を阿惕黑喇黑と云へるに據れば、錄の阿忒里剌は、黑を里に誤りたるにて、祕史の委兀惕の使を修正 祕史は乞兒吉思に移せるなり。)
シビル失必兒 ケスチイム客思的音 バイト巴亦惕 トカス禿合思 テンレク田列克 トエレス脫額列思 タス塔思 バヂギト巴只吉惕よりコナタ這廂なるハヤシ林のタミ民をヂユチ拙赤 クダ降して、キルギスト乞兒吉速惕のバンコ萬戶 センコ千戶のクワンニン官人どもをハヤシ林のタミ民のクワンニン官人どもをツ伴れキ來て、チンギス カガン成吉思 合罕にシロ白きカイセイ海︀靑どもシロ白きセンバ騸馬どもクロ黑きテウソ貂鼠どもをもてマミ見えさせたり。(
失必兒は、今の昔別哩亞なり。喇失惕は、乞兒吉思の事を述べて「その國は、阿別兒 昔必兒の境に流るゝ安噶喇の大河まで廣がれり」と云ひ、元史 玉哇失の傳に「與㆓海︀都︀ 將某某等㆒戰㆓於 亦必兒 失必兒 之地㆒」とあり。篾撒列克 阿剌卜撒兒(第 十四 世紀の前半の人)は、昔必兒 卽 阿必兒と書き、亦奔 阿喇卜沙は「乞魄察克は、北は阿必兒 卽 昔必兒に界す」と云へり。合塔闌 地圖の北邊の薛不兒は、明に昔必兒を表せり。西紀 一三九四年より一四二七年まで亞細亞の諸︀國に遊び、帖木兒 大王の遠征にも伴ひし失勒篤別兒格兒の書きたるものには、亦必思昔不兒と云ふ國の名あり。然れどもこの昔必兒の名は、直に今の昔別哩亞となれるに非ず。第 十六 世紀の頃、亦兒的石 河の濱にて今の脫孛勒思克より四里 餘り河上に、昔必兒と云へる塔塔兒の城ありて、一五八一年に也兒馬克に取られ、その後 嚕西亞 人は、その名を採りて北亞細亞の總名に推廣めたり。客思的音は、親征錄に克失的迷とあり、卽 喇失惕の客思的米なり。田列克は、卷八に帖良古惕、親征錄に帖良兀とあり、卽 喇失惕の帖連郭惕なり。不咧惕施乃迭兒は「帖連古惕は、唐書の鐵勒より出でたるならん」と云へり。脫額列思は、卷八に脫斡列思とあり、卽 喇失惕の禿剌思なり。巴亦惕 禿合思 塔思 巴只吉惕は、未 考へず。
バヂギト巴只吉惕はシビル失必兒の西にある部落なり 卷十一なるスベエタイ速別額台 西征の條に注あり
親征錄なる戊寅 朮赤 北征の條には「以㆓不花㆒爲㆓先鋒㆒、追㆓乞兒吉思㆒、至㆓亦馬兒 河㆒而還。大太子領㆑兵涉㆓謙河冰㆒順下、招㆓降不困 克兒 爲思 憾哈思 帖良兀 克失的迷 火因 亦而干 諸︀部㆒」とあり。亦馬兒 河は知らず。謙河は卽 客姆 河、今の也尼塞 河の上流なり。不困 克兒 爲思は、讀み難︀し。恐らくは誤脫あらん。火因 亦而干は、祕史には槐因 亦兒堅とあり。槐因は林の、亦兒堅は民にて、林の民なり。卽 諸︀部の統名にして、部の名に非ず。)
オイラト斡亦喇惕のクドカ ベキ忽都︀合 別乞をムカ迎へ、「サキ先にクダ降り、トメン オイラト禿綿 斡亦喇惕をヒキ牽ゐ[261]てキ來ぬ」とてオンシ恩賜して、カレ彼のコ子 イナルチ亦納勒赤にチエチエイゲン扯扯亦干をアタ與へたり。イナルチ亦納勒赤のアニ兄 トレルチ脫咧勒赤にヂユチ拙赤のムスメ女 ゴルイカン豁雷罕をアタ與へたり。(
喇失惕は「成吉思 汗の第二の女 扯扯干は、忽禿合 別乞の子 脫喇勒赤に嫁げり」と云へり。扯扯干は卽 扯扯亦干なれども、脫喇勒赤は亦納勒赤に非ずして、却てその兄 脫咧勒赤に似たり。公主表もそれに同じく、延安 公主 位の處に「闊闊干 公主、適㆓脫亦列赤 駙馬㆒」とあり。然らば豁雷罕の夫を亦納勒赤とするかと云ふに、然らず。闊闊干 公主の前に「火魯 公主、適㆓哈答 駙馬㆒」とありて、火魯は、豁雷罕の下略に似たれども、哈荅は、亦納勒赤にも脫咧勒赤にも似ず。錢大昕の氏族表は、祕史と元史とを折衷し、「哈荅、一作㆓脫劣勒赤㆒、尙㆓太祖︀ 孫女 火雷 公主㆒、」「脫亦列赤、一作㆓亦納勒赤㆒、尙㆓太祖︀ 女 闊闊干 公主㆒」と書きたれども、哈荅は、八十八 功臣の內に旣に合歹 古咧堅とありて、卷十二にも合歹あり、親征錄の哈台、憲宗紀の合荅、多遜の喀荅克など、みなこの哈荅なるべく、脫咧勒赤は、八十八 功臣の定まりたる後に降附して駙馬となれる人なれば、その別人なること明なり。然れども哈荅 合歹を脫咧勒赤に非ずとし、火魯 火雷を豁雷罕に非ずとすれば、又 不都︀合なることあり。火魯 公主は、闊闊干 公主と共に、公主表 延安 公主 位の初に擧げられ、その次に公主 三人ありて、末に「延安 公主、適㆓延安王 也不干㆒」とあり、食貨志には「火雷 公主 位、丙申 年、分撥 延安府 九千七百九十六戶」とあり。闊闊干は、卽 扯扯干 扯扯亦干にして、斡亦喇惕の忽都︀合 別乞の子に嫁ぎたること確なる上は、延安王の家は、卽 忽都︀合の子孫にして、火雷 公主は、始めてその家に嫁ぎたる人なれば、その夫は必ず斡亦喇惕の首領なるべし。然らずば延安 公主 位を火雷 公主 位とも云ふべき筈なし。然らば哈荅 合歹は、果して脫咧勒赤なるか。この疑ひはいかに考へても解き得ず。)
アラカ ベキ阿剌合 別乞(元史の阿剌海︀ 別吉 公主)をオングト汪古惕(汪古惕の阿剌忽失 的吉惕忽哩 古咧堅)にアタ與へたり。(この事につきては、卷八に委しく論じたり。九十五の千戶を定められたる時は、まだ公主を娶らざりし時なれども、後の稱號に依り古咧堅と書きたるなり。)チンギス カガン成吉思 合罕は、
ヂユチ拙赤をオンシヤウ恩賞してノリタマ宣はく「ワ我がコ子どものアニ兄なるナンヂ汝は、イヘ家よりワヅカ纔にイ出でて、ミチ道 ヨ好くある(道の遠き)ユ往きたるトコロ地に、ヲトコ男 センバ騸馬をキズツ傷けずクルシ苦めずして、サイハヒ福︀あるハヤシ林のタミ民をクダ降してキ來ぬ。タミ民をアタ與へん」とミコト勅ありき。
§240(10:17:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 ボロクル ノヤン孛囉忽勒 那顏(親征錄 博羅渾 那顏、元史 太祖︀紀 鉢魯完)をゴリ トマト豁哩 禿馬惕のタミ民のトコロ處にシユツセイ出征せしめたり。(豁哩 禿馬惕は、卷一に見えたり。豁哩は、善と云ふ美稱なれば、常には略きて只 禿馬惕と云ふ。親征[262]錄には吐麻 部、元史 本紀には禿滿 部とあり。兵志 三には火里 禿麻ともあり。)トマト禿馬惕のタミ民のクワンニン官人 ダイドクル シヨゴル歹都︀忽勒 莎豁兒 シ死にたれば、
そのツマ妻 ボトクイ タルクン孛脫灰 塔兒渾(孛脫灰 勇婦)は、トマト禿馬惕のタミ民をシ知りてヲ居りき。(歹都︀忽勒 莎豁兒は、明譯文に歹都︀禿勒とあり、忽を禿に誤り、莎豁兒を略けり。倭勒甫の書に塔禿剌克 速喀兒とあるは、音 稍 近けれども、剌克は、忽勒を倒にせるに似たり。親征錄に都︀剌 莎合兒とあるは、都︀の上歹 又は塔を脫し、剌の下 克の字を略けるなり。)
ボロクル ノヤン孛囉忽勒 那顏 イタ到りて、ミタリ三人にてタイグン大軍よりマヘ前へアユ步みユ往きて、ユフグレ夕暮にオボ覺えずカタ難︀きハヤシ林のナカ中にコミチ徑にヨ依りアユ步みたれば、カレラ彼等のモノミ斥候にウシロ後よりオビヤカ脅されて、コミチ徑をハヾ阻みて、ボロクル ノヤン孛囉忽勒 那顏をトラ拏へてコロ殺︀しけり。トマト禿馬惕はボロクル孛囉忽勒をコロ殺︀せりとシ知りて、チンギス カガン成吉思 合罕 イタ甚くイカ怒りて、ミヅカ自らシユツバ出馬せんとしたれば、ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合黎 フタリ二人は、チンギス カガン成吉思 合罕をトヾ止まるまでイサ諫めたり。
ドルベ ドクシン朶兒伯 多黑申のトマト禿馬惕 征服
サテ却 ドルベト朶兒別惕(朶兒邊の複稱)のドルベ ドクシン朶兒伯 多黑申(親征錄 都︀魯伯、元史 朶魯伯)にコトヨサ任し「イクサ軍をオゴソカ嚴にトヽノ整へて、トコヨ長生のアマツカミ上帝にイノ禱りて、トマト禿馬惕のタミ民をクダ降さんとコヽロ試みよ」とミコト勅ありき。ドルベ朶兒伯は、イクサ軍をトヽノ整へて、サキ前にイクサ軍のユ行きたる、モノミ斥候のマモ守りたるミチ路 コミチ徑のクチグチ口口に、ムナ虛しきイキホヒ勢をハ張りて、アカ紅きキヤウギウ强牛(野牛の一種)のユ行きたるミチ路にヨ依り、イクサビト軍士どもにガウレイ號令し、イクサ軍のカズ數ある(數に具はれる)ヒト人、コヽロ ヲク心 臆せばウ打たんがタメ爲に、ヒト人ごとにトヲ十のシモト笞をマ負はせて、ヲノ斧 ホン錛(蒙語 兀哈里。義を知らず、明譯に從へり。錛は、字典に「音奔、平木器︀」とあれども、これも解り得ず。)ノコギリ鋸 ノミ鑿なるヒト人 ゴト毎の(人ごとに用ふる)キカイ器︀械をトヽノ整へさせて、アカ紅きキヤウギウ强牛のユ行きたるミチ路にヨ依り、ミチ路にタ立てるキ樹どもをタ斷ち斫らせて、ノコギ鋸らしめてミチ路をなして、ヤマ山のウヘ上[263]にノボ上りたれば、トマト禿馬惕のタミ民のソラマド天窗のウヘ上より、フイ不意にてウタゲ筵會してヲ居るトコロ處をトラ虜︀へたり。
§241(10:20:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
サキ前にゴルチ ノヤン豁兒赤 那顏、クドカ ベキ忽都︀合 別乞 フタリ二人はトマト禿馬惕にトラ拏へられて、ボトクイ タルクン孛脫灰 塔兒渾のトコロ處にそこにありき。ゴルチ豁兒赤のトラ拏へられたるワケ理由は、トマト禿馬惕のタミ民のヲトメ女子どもはウツク美しくあり、サンジフ三十のツマ妻をト取れとミコト勅ありたるにつき、トマト禿馬惕のタミ民のヲトメ女子どもをト取らんとてユ往きたるに、サキ前にクダ降りたるタミ民は、カヘツ却てテキ敵となりて、ゴルチ ノヤン豁兒赤 那顏をトラ拏へたりき。ゴルチ豁兒赤はトマト禿馬惕にトラ拏へられたりとチンギス カガン成吉思 合罕 シ知りて、「ハヤシ林のタミ民のオコナヒ行は、クドカ忽都︀合 シ知れるぞ」とノリタマ宣ひてヤ遣りたれば、クドカ ベキ忽都︀合 別乞 マタ又 トラ拏へられき。
[こたび]トマト禿馬惕のタミ民をクダ降しヲ畢へたれば、ボロクル孛囉忽勒のホネ骨のユヱ故にヒヤク百のトマト禿馬惕をタマ賜へり。(孛囉忽勒の遺族に賜はりたるなり。)ゴルチ豁兒赤は、サンジフ三十のムスメ女子をト取れり。クドカ ベキ忽都︀合 別乞にボトクイ タルクン孛脫灰 塔兒渾をタマ賜へり。(親征錄は、禿馬惕 征伐を丁丑(太祖︀ 十二年)に移し、簡短に「是歲、吐麻 部 主 都︀剌 莎合兒、旣 附而叛、上命㆓博羅渾 那顏 都︀魯伯 二將㆒討㆓平之㆒、博羅渾 那顏 卒㆓於彼㆒」と記せり。元史は、それよりも簡略にて、たゞ「是歲、禿滿 部 民 叛、命㆓鉢魯完 朶魯伯㆒討㆓平之㆒」とありて、鉢魯完の殺︀されたる事も云はず。蓋 四傑の一人なることに心附かざりしならん。)
§242(10:22:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅ありて「ハヽ母にコ子どもにオトヽ弟どもにタミ民をワカ分けてアタ與へん」とてアタ與ふるトキ時「クニタミ國民をアツ聚むるにカンナン艱難︀したるは、ハヽ母なるぞ。ワ我がコ子どものアニ兄は、ヂユチ拙赤なるぞ。ワ我がオトヽ弟どものスエ末は、オツチギン斡惕赤斤なるぞ」とノリタマ宣ひて、ハヽ母にはオツチギン斡惕赤斤[264]のワケマヘ分前となしてマン萬のタミ民をアタ與へたり。ハヽ母は、フソク不足にオモ思ひてコヱ聲をなさざりき。ヂユチ拙赤にクセン九千のタミ民をアタ與へたり。チヤアダイ察阿歹にハツセン八千のタミ民をアタ與へたり。オゴダイ斡歌歹にゴセン五千のタミ民をアタ與へたり。トルイ脫雷にゴセン五千のタミ民をアタ與へたり。(元史の宗室 世系表に「太祖︀ 皇帝 六子、長 尤赤 太子、次 二 察合台 太子、次 三 太宗 皇帝、次 四 拖雷、卽 睿宗 也。次 五 兀魯赤、無㆑嗣、次 六 闊列堅 太子」とあり。拖雷まで四人は、光獻 翼聖 皇后の子なり。兀魯赤 闊列堅は、庶子にしてかつ幼き故に、分民なかりき。)カツサル合撒兒にシセン四千のタミ民をアタ與へたり。アルチダイ阿勒赤歹にニセン二千のタミ民をアタ與へたり。ベルグタイ別勒古台にイツセンゴヒヤク一千五百のタミ民をアタ與へたり(世系表に「烈祖︀ 神︀元 皇帝 五子、長 太祖︀ 皇帝、次 二 撒只 哈兒 王、次 三 哈赤溫 大王、次 四 鐵木哥 斡赤斤、所謂 皇太弟 國王 斡嗔 那顏 者︀也。次 五 別里古台 大王」とあり。搠只 哈兒は、太祖︀紀に皇弟 哈撒兒、食貨志に搠只 哈撒兒 大王とあり。表の哈兒は、撒の字を脫したり。合赤溫は、早く死にたる故に、その子に民を與へたり。この阿勒赤歹も、亦魯該の親屬なる阿勒赤歹も、卷九なる額勒只吉歹とは名 稍 異なり。元史にも太宗紀に按赤帶、定宗 憲宗 世祖︀紀に按只帶とありて、阿勒赤吉歹と云へる事 無ければ、世系表なる按只吉台の吉の字は、恐らくは衍字ならん。)
ダアリタイ荅阿哩台(卷一の荅哩台 斡惕赤斤、太祖︀紀 荅力台、世系表 荅里眞、食貨志 太祖︀ 叔 荅里眞 官人)は、ケレイト客咧亦惕にクミ與したりとて「メ眼のカゲ背處にシリゾ黜けん」とノリタマ宣へば、ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合黎、シギ クトク失吉 忽禿忽 ミタリ三人 イ言はく「オノ己がヒ火をケ滅すがゴト如く、オノ己がイヘ家をヤブ壞るがゴト如く、ナガミコト爾のヨ善きチヽ父のカタミ遺念は、ヒトリ獨 ナガミコト爾のヲヂ叔父 ノコ殘りてあるを、いかんぞス棄てん。カレ彼のキ氣をツ附けざりしことをナ勿[オモ想ひ]そ。ナガミコト爾のヨ好きチヽ父のマツテイ末弟にイヘヰ營盤のケムリ煙をタ立てさせア合ひてヲ居れ」とイ云はれて、ハナ鼻合巴兒よりケムリ煙忽泥 ツ搶康失くまでアキラ明合合思かにハナシ話されて(意 明ならざれども、明本 語譯に從へり、文譯にはタイソ太祖︀ コヽロノウチ心下 クルシミテ辛酸)、「ウベナ諾へり」とて、ヨ好きチヽ父をオモ想ひて、ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合里、シギ クトク失吉 忽禿忽 ミタリ三人のハナシ話にてシヅ靜まりたるぞ(明譯イカリ怒 ツヒニ遂 ヤミタリ息了)。(好き父 以下は、叙事の文なり。原文[265]に太祖︀の語氣として、「我」の字を末に加へたるは誤りならん。)
§243(10:25:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ハヽ母にオツチギン斡惕赤斤にマン萬のタミ民をアタ與へて、クワンニン官人どもよりグチユ古出 ココチユ闊闊出 チユンサイ種賽 ゴルカスン豁兒合孫(八十八の功臣の中にて第十七 第十八 第三十三 第十九)ヨタリ四人をツ傅けたり。ヂユチ拙赤にはクナン忽難︀ モンケウル蒙客兀兒 ケテ客帖(功臣の第七 第三十九 第五十)ミタリ三人をツ傳けたり。チヤアダイ察阿歹にはカラチヤル合喇察兒 モンケ蒙客 イドクダイ亦多忽歹(功臣の第二十九 第三十七 第六十六)ミタリ三人をツ傅けたり。マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「チヤアダイ察阿歹は、タケ猛くあり。コマヤカ細なるサガ性あるなり。コケシユス闊客搠思(卽 闊闊搠思、功臣の第三十)は、オソ晩くハヤ早く(朝夕に)マヘ前にヰ居て、オモ思へるコト事をカタ語りてヲ居れ」とミコト勅ありき。(明譯マタ又 イハク說、チヤアダイハ察阿歹 セイ性 コハシ剛。コマヤカニ子細 シム敎㆓コケシユス闊客搠思 ハヤクオソク早晩 マヘニテ根前 モノガタリセ說話㆒ベシ者︀とあるに據れば、原文「細なる性あるなり」の「なり」は、衍字にて、「細なる性ある」は、闊客搠思に係る詞ならん。)オゴダイ斡歌歹にはイルゲ亦魯格(卽 亦魯該)デガイ迭該(功臣の第五 第十一)フタリ二人をツ傅けたり。トルイ拖雷にはヂエダイ哲歹(功臣の第二十三なる者︀台)バラ巴剌(功臣の第三十五なる巴剌 斡囉納兒台 又は第四十九なる巴剌 扯兒必)フタリ二人をツ傅けたり。カツサル合撒兒にはヂエブケ者︀卜客(功臣の第四十四)をツ傅けたり。アルチダイ阿勒赤歹にはチヤウルカイ察兀兒孩(功臣の第五十八)をツ傅けたり。
§244(10:26:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
コンゴタト晃豁塔惕にカツサル合撒兒の打たれ
コンゴタト晃豁塔惕(晃豁壇の複稱)のモンリク エチゲ蒙力克 額赤格のコ子どもナヽタリ七人ありき。ナヽタリ七人のナカ中にココチユ テブテンゲリ闊闊出 帖卜騰格哩(闊闊出と云ふ神︀巫)ありき(元史 憲宗紀の「初に母曰㆓莊聖 太后 怯烈 氏㆒、歲 戊辰 十二月三日、生㆑帝。時 有㆘黃忽荅 部 知㆓天象㆒者︀㆖、言㆓帝後必大貴㆒、故以㆓蒙哥㆒爲㆑名。蒙哥、華言 長生 也」とあり。黃忽荅は、卽 晃豁塔惕にして、いはゆる天象を知れる者︀は、卽この帖卜騰格哩なり。歲 戊辰は、太祖︀ 卽位の三年なれば、この晃豁壇の騷動は、三年 以後に起れる事なるべし。)そのナヽタリ七人のコンゴタン晃豁壇は、カツサル合撒兒をイチミ黨してウ打ちたりき。カツサル合撒兒は「ナヽタリ七人のコンゴタン晃豁壇に、イチミ黨してウ打たれたり」とチンギス カガン成吉思 合罕にウタ愬へたれば、[266]チンギス カガン成吉思 合罕は、ホカ別のコト事にてイカ怒りてイマ在せるアヒダ閒にマウ申したるユヱ故に、チンギス カガン成吉思 合罕は、イカリ怒のウチ裏にカツサル合撒兒にノリタマ宣はく「イノチ命あるものにカ勝たれざる[ヒト人]なりき、ナンヂ汝(明譯ナンヂハ你 ツネニ平日 イヘリ說㆓ヒト人 ズト不㆒㆑アタハ能㆑テキスル敵)。いかんぞカ勝たれたる、ナンヂ汝」とイ云はれて、カツサル合撒兒 ナミダ涙をオト墮しタ起ちてサ去りて、カツサル合撒兒 ウレ憂へてミカ三日 コ來ざりき。
そこにテブテンゲリ帖卜騰格哩は、チンギス カガン成吉思 合罕にマウ白さく「トコヨ長生のアマツカミ上帝のミコト勅にてカン罕[をサダ定むる]ミツゲ神︀吿をノリタマ宣へり。「ヒトタビ一次はテムヂン帖木眞 クニ國をト取れ」とノリタマ宣へり。「ヒトタビ一次はカツサル合撒兒を」とノリタマ宣へり。カツサル合撒兒をハカ圖らずば、[コト事]シ知られずあるぞ」とイ云はれて、
チンギス カガン成吉思 合罕は、そのヨル夜 シユツバ出馬して、カツサル合撒兒をトラ拏へにユ往きたれば、グチユ古出 ココチユ闊闊出 フタリ二人は「カツサル合撒兒をトラ拏へにユ往きたり」とハヽ母にツ吿げけり。ハヽ母 シ知ると、ヨル夜 スナハチ便 ツヾ續きて、シロ白きラクダ駱駝にヒ引かせてクロ黑きクルマ車にてヨドオ夜通しユ行きて、ヒイ日出づるコロ頃 イタ到れば、チンギス カガン成吉思 合罕は、カツサル合撒兒のソデ袖をシバリ縛りて、そのバウオビ帽帶をハ褫ぎて、そのコトバ言をト問ひヲ居るトコロ處に、
ハヽ母にイタ到られて、チンギス カガン成吉思 合罕 オドロ驚きてハヽ母をオソ畏れたり。ハヽ母 イカ怒りてイタ到りてクルマ車よりオ降り、ハヽ母 ミヅカラ自 カツサル合撒兒のシバ縛れるソデ袖をト解きてハナ放し、そのバウオビ帽帶をカツサル合撒兒にアタ與へて、ハヽ母 イカ怒りてキ氣(怒氣)をオサ壓へかね、アグミ盤脚 ヰ坐てフタツ兩のチ乳をイダ出してフタツ兩のヒザ膝のウヘ上にのせてイ言はく「ミ見たりや。ナンヂ汝のチ乳(乳汁)をノ飮みたるチ乳(乳房)は、コレ此なり。このタヅ尋合荅侖ねオ追ひて、エナ胞衣合兒必速をカ咬合札みたる、ホソノヲ臍帶灰亦をタ斷ちたるカツサル合撒兒は、[267]ナニ何をかシ爲たる。(合撒兒は、猛き野犬の名を采りて名づけたるなり。故にその野犬の猛く生れたるさまを韻語に云ひて、合撒兒の勇猛なるに譬へたり。)テムヂン帖木眞は、ワ我がコ此のヒト一つのチ乳をツク盡したりき。カチウン合赤溫、オツチギン斡惕赤斤は、フタリ二人となりてヒト一つのチ乳をツク盡さざりき。カツサル合撒兒こそは、ワ我がフタツ兩のチ乳 ミナ皆をツク盡して、ワ我がムネ胷 ユルヤカ寬になるまでヤス休ましめて、ムネ胷をユルヤカ寬になしたりき。それがタメ爲にギノウ技能あるワ我がテムヂン帖木眞は、ムネ胷扯額只 シカジカ云云。(こゝに脫文あり、補ふこと能はず。)ギノウ技能あるワ我がカツサル合撒兒は、ユミイ射合兒不るチカラ力 ギノウ技能あるユヱ故に、ソム叛合兒不察きて(語譯に交參とあれども、今 文譯に從へり、)イ出合嚕でたるをカブラヤ鏑失合兒不 イ射てクダ降らしめたりき。オドロ驚斡黑札惕きてイ出でたるをトホヤ遠箭桓禿察 イ射てクダ降らしめたりき。イマ今 テキ敵のヒト人をキハ窮めたりとイ云ひて、カツサル合撒兒をミ見る(用ふること)アタ能はざるなり、ナンヂ汝」とイ云へり。ハヽ母をヤス休ましめヲ畢へて、チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「ハヽ母にイカ怒られて、オソ畏れもオソ畏れたり、ハ羞ぢもハ羞ぢたり、ワレ我」とノリタマ宣ひて、「シリゾ退かん、ワレラ我等」とノリタマ宣ひてシリゾ退きたり。ハヽ母にシ知らしめずヒソカ陰にカツサル合撒兒のタミ民をト取りて、カツサル合撒兒にセンシヒヤク千四百のタミ民をアタ與へたり。ハヽ母 シ知りて、コヽロ心に[ウレ憂へ](原文に脫ちたるを、明譯に依りて補へり。)ハヤ早くオ老いたるリイウ理由はかくあり。ヂヤライル札剌亦兒のヂエブケ者︀卜客は、そこにオドロ驚きて、バルクヂン巴兒忽眞にイ入りノガ逃れたり。
§245(10:33:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのノチ後 コヽノイロ九種のクニコトバ方言あるタミ民、テブテンゲリ帖卜騰格哩のトコロ處にアツマ聚りて、チンギス カガン成吉思 合罕のウマヨセバ聚馬處よりオホ多くテブテンゲリ帖卜騰格哩のトコロ處にアツマ聚るとなれり。かくアツマ聚れるトキ時、テムゲ オツチギン帖木格 斡惕赤斤にシタガ屬へるタミ民[268]は、テブテンゲリ帖卜騰格哩のトコロ處にサ去りき。オツチギン ノヤン斡惕赤斤 那顏は、サ去りたるタミ民をモト索めにシヨゴル莎豁兒とイ云ふツカヒ使をヤ遣りき。テブテンゲリ帖卜騰格哩は、シヨゴル ツカヒ莎豁兒 使にイ言へらく「オツチギン斡惕赤斤、ナンヂラ汝等 フタリ二女 ツカヒ使となりき」とイ云ひて、(この言、意 通せず。二女とは、莎豁見と馬とを云ひ、莎豁兒を馬に比べ女に比べて辱めたるならんか。)シヨゴル ツカヒ莎豁兒 使をウ打ちて、アユ步ませてそのクラ鞍をオ負はせてカヘ回らしめき。オツチギン斡惕赤斤は、シヨゴル ツカヒ莎豁兒 使をウ打ちてアユ步ませオコ致せられて、アスノアサ明朝 オツチギン斡惕赤斤〈[#「斡惕赤斤」は底本では「斡惕兒斤」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉ミヅカラ自 テブテンゲリ帖卜騰格哩のトコロ處にユ往きてイ言はく「シヨゴル ツカヒ莎豁兒 使をヤ遣りたれば、ウ打ちてアユ步ませオコ致せき。イマ今 ワレ我 タミ民をモト索めにキ來つ」とイ云はれて、ナヽタリ七人のコンゴタン晃豁壇は、オツチギン斡惕赤斤をここよりそこよりカコ圍みて「シヨゴル ツカヒ莎豁兒 使をナンヂ汝のオコ致せたるは、ヨ善くア有り」とイ云ひて、(明譯ナンヂ你 イカンゾ如何 アヘテ敢ツカハシテ差㆑ヒトヲ人キテトル來取㆓タミヲ百姓㆒とあれば、原文には打消の副詞 脫ちたるならん。)トラ拏へんとウ打たんとナ做さるゝにオソ懼れて、オツチギン ノヤン斡惕赤斤 那顏 イ言はく「ツカヒ使をワ我がオコ致せたるは、ヨ善からず」とイ云ひき。ナヽタリ七人のコンゴタン晃豁壇 イ言はく「ヨ善からずあらば、サンゲ懺悔︀してヒザマヅ跪け」とイ云ひて、テブテンゲリ帖卜騰格哩のシリヘ後よりヒザマヅ跪かせけり。タミ民をもアタ與へられずして、
オツチギン斡惕赤斤は、アスノアサ明朝 ハヤ早くチンギス カガン成吉思 合罕に、オ起きざるにネドコ寢床のウチ內にイマ在すトコロ處にイ入りて、ナ哭きヒザマヅ跪きてマウ申さく「コヽノイロ九種のクニコトバ方言あるタミ民は、テブテンゲリ帖卜騰格哩のトコロ處にアツマ聚られて、ワレ我にシタガ屬へるタミ民をテブテンゲリ帖卜騰格哩よりモト索めにシヨゴル莎豁兒とイ云ふツカヒ使をヤ遣りたるに、ワ我がシヨゴル ツカヒ莎豁兒 使をウ打ちてアユ步ませクラ鞍をオ負はせてオコ致せられて、ワレ我 ミヅカラ自[269]モト索めにユ往けば、ナヽタリ七人のコンゴタン晃豁壇に、こゝよりそこよりカコ圍みてサンゲ懺悔︀せしめて、テブテンゲリ帖卜騰格哩のシリヘ後よりヒザマヅ跪かせられたり」とイ云ひナ哭きたり。チンギス カガン成吉思 合罕、コヱ聲をイダ出さざるに、
ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞のウタレ慨︀みゴト言
ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞は、ネドコ寢床のウチ內にオ起きてスワ坐りて、フスマ衾のエリ領にてムネ胷をオホ蔽ひて、オツチギン斡惕赤斤のナ哭けるをミ見て、ナミダ涙をオト墮してイ言はく「ナニ何をかするコンゴタン晃豁壇ぞ。カレラ彼等は、サキゴロ先頃 カツサル合撒兒をもイチミ黨してウ打ちてありき。イマ今 マタ又このオツチギン斡惕赤斤をいかんぞシリヘ後よりヒザマヅ跪かせたる。いかなるダウリ道理かア有りし。マシテ況このヒノキマツ檜松のゴト如きナ爾がオトヽ弟だちをかくソコナ害ひア合へり。マコト實兀年にマタ又 ユクスヱ久後 オイキ老木揑兀列のゴト如きナ爾がミ身 カタム傾捏古思きサ去らば、アサガラ麻穰捏惕客勒のゴト如きナ爾がクニタミ國民をタレ誰にかシ知らしめん、カレラ彼等。ハシラ柱禿魯のゴト如きナ爾がミ身 タフ倒禿勒巴思れサ去らば、ムラスヾメ羣雀禿牙勒のゴト如きナ爾がクニタミ國民をタレ誰にかシ知らしめん、カレラ彼等。ヒノキマツ檜松のゴト如きナ爾がオトヽ弟だちをかくソコナ害ふワ我がケニン家人は、ミタリ三人 ヨタリ四人のワ我がチヒサ小きヨワ弱きものどもセイチヤウ成長するまでは、いかんぞシ知らしめん、カレラ彼等。ナニ何をかするコンゴタン晃豁壇なりし、カレラ彼等。オトヽ弟だちをカレラ彼等にかくナ做さしめて、いかんぞミ見ておはせん。ナガミコト爾」とイ云ひて、ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞はナミダ涙をオト墮したり。
ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞のこのコトバ言につき、チンギス カガン成吉思 合罕は、オツチギン斡惕赤斤にノリタマ宣はく「テブテンゲリ帖卜騰格哩 イマ今 コ來ん。ナ爲しウ得ることをいかにもオコナ行ひア合はば、ナンヂ汝 シ知れ」とノリタマ宣へり。そのトキ時 オツチギン斡惕赤斤 タ起ちてナミダ涙をヌグ拭ひイ出でて、ミタリ三人のリキシ力士をソナ備へて[270]タ立てり。シバラク暫ありてモンリク エチゲ蒙力克 額赤格は、ナヽタリ七人のコ子どもとキ來て、ナヽタリ七人 ミナ皆 イ入りて、テブテンゲリ帖卜騰格哩は、シユキヨク酒局のミギ右のホトリ邊にスワ坐ると、オツチギン斡惕赤斤は、テブテンゲリ帖卜騰格哩のエリ領をトラ拏へて、「キノフ昨のヒ日 ワレ我をサンゲ懺悔︀せしめたりき、ナンヂ汝。コヽロ試みア合はん」とイ云ひて、カレ彼のエリ領をトラ拏へてカド門のトコロ處にヒ拖きたり。テブテンゲリ帖卜騰格哩は、オツチギン斡惕赤斤をムカ迎へエリ領をトラ拏へてウ搏ちア合へり。テブテンゲリ帖卜騰格哩のバウ帽は、ウ搏ちア合ふトキ時にヒバチ火盤のウヘ上にオ落ちたり。モンリク エチゲ蒙力克 額赤格は、そのバウ帽をト取りてカ嗅きてフトコロ懷にオ置きたり。チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「イ出でてリキシ力士のチカラ力をアラソ爭ひア合へ」とノリタマ宣へり。オツチギン斡惕赤斤は、テブテンゲリ帖卜騰格哩をヒ拖きてイ出づるトキ時、カド門のシキミ閾のアヒダ閒にサキ先にソナ備へたるミタリ三人のリキシ力士 ムカ迎へて、テブテンゲリ帖卜騰格哩をトラ拏へヒ拖きてイ出でて、カレ彼のセボネ脊梁をヲ折りて、ヒダリ左のホトリ邊のクルマ車のハシ端にサ去てて、オツチギン斡惕赤斤 イ入りてイ言はく「テブテンゲリ帖卜騰格哩は、ワレ我をサンゲ懺悔︀せしめたりき。コヽロ試みんとイ云へば、キ肯かず。アザム欺〈[#ルビの「アザム」は底本では「アサム」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉きてフ臥したり。ヨノツネ尋常のトモ伴なりき」とイ云へば、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格 サト覺りて、ナミダ涙をオト墮してイ言はく「オホキ大荅亦兒なるチ地にツチクレ土塊のシカ然 ア有りしより、ウミ海︀荅來なすカハ河にヲガハ小川のしかありしより、トモ件となれりワレ我(明譯ワレ我 ヨリ自㆘クワウテイ皇帝 ザリシ未㆓タチ起ハジメ創㆒之サキ先㆖、ナリテ做㆓トモト伴當㆒イタレリ到㆓イマニ今日㆒)」とイ云ふとひとしく、ムタリ六人のコンゴタン晃豁壇なるカレ彼のコ子どもは、カド門をフサ塞ぎて、ヒバチ火盤のマハリ周圍にタ立ちて、そのソデ袖をヒ挽かれて、チンギス カガン成吉思 合罕 オソ恐れてセマ迫られて、「ノガ躱れイ出でん」とノリタマ宣ひ[271]てイ出づれば、チンギス カガン成吉思 合罕のマハリ周圍にセントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞 ラ等 メグ繞りてタ立てり。テブテンゲリ帖卜騰格哩をクルマ車のハシ端にセボネ脊梁をヲ折りてサ去てたるをチンギス カガン成吉思 合罕 ミソナハ御覽して、アトベ後方よりヒト一つのアヲ靑きチヤウバウ帳房をモ持ちコ來させて、テブテンゲリ帖卜騰格哩のウヘ上にオホ被はせて、「カセルクルマ駕車に[ワレ我を]イ入らしめよ。タ起たん」とノリタマ宣ひて、そこよりタヽ起したり。
§246(10:42:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
テブ帖卜(帖卜騰格哩の略稱)をオホ被ひたるチヤウバウ帳房のソラマド天窗にフタ蓋して、カド門をオサ壓へてヒト人にマモ守らせたれば、ダイサン第三のヨル夜、ヒ日 キ黃なるトキ時(明譯スルトキ將㆑アケント曉)、ソラマド天窗 ア開けてミ身ぐるみイ出でけり。タシカ審むれば、マコト實にテブ帖卜 カレ彼の[イ出でたる]は、そこにタシカ審められたり。チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「テブテンゲリ帖卜騰格哩は、ワ我がオトヽ弟どもにテアシ手足をイタ致したるユヱ故に、ワ我がオトヽ弟どものアヒダ閒に、アトカタ跡形なきザンゲン讒言のユヱ故に、アマツカミ上帝にイツクシ愛まれずして、イノチ命をミ身ぐるみモ持ちてサ去られたるぞ」とノリタマ宣へり。
チンギス カガン成吉思 合罕は、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格をそこにセ責めけらく「コ子どもをセイカウ性行をセイ制せず、[ワレ我と]ヒト齊しからんとオモ思へるユヱ故に、[ワザハヒ禍︀は]テブテンゲリ帖卜騰格哩のカシラ頭にイタ到りぬ、ナンヂラ汝等。ナンヂラ汝等のかゝるセイカウ性行をサト覺れるならば、ヂヤムカ札木合、アルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒 ラ等の[ゴト如き]リイウ理由あるものとナ做さるべきなりき、ナンヂラ汝等」とノリタマ宣ひて、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格をセ責めて、セ責めヲ畢へてさて「アシタ朝にイ言へるをユフベ夕にカ變へば、ユフベ夕にイ言へるをアシタ朝にカ變へば、ハヂ恥(恥づべきこと)とカナラズ必 イ云はれん。タヾ只 サキ前にコトバ言をサダ定められたるぞ、カ彼のコト事を(明譯ヨリテ因㆘サキニ在先 イヒ說㆔サダメユルスト定免㆓[272]ナンヂノシヲ汝死㆒タリシニ有來㆖ヤメン罷)」とて、オンシ恩賜してイカリ怒をヤ息めたり。「ヰエツ違越するセイコウ性行をヒキシ引締めたりせば、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格のシソン子孫にタレ誰かヒト齊しきモノ者︀あらん」とノリタマ宣へり。テブテンゲリ帖卜騰格哩をナ無くなすと、コンゴタン晃豁壇のガンシヨク顏色はキエウ消失せけるぞ。(こゝにて祕史 正集 十卷は終れり。次の二卷は、續集なり。卷八に虎の年(丙寅)の卽位を記してより この卷の初までは、功臣の恩賞、親衞の制度を定むる詔勅を列ね、次に合兒魯兀惕の降服 篾兒乞惕 古出魯克の𠞰滅、委兀惕の親附を記し、次に兔の年(丁卯)と年を揭げて、朮赤の北征、禿馬惕の征服、皇族の分民 傳相の事を記し、晃豁壇の敗滅を以て終れり。されば この集は、太祖︀ 二年 丁卯に終れるが如くなれども、古出魯克の勦滅は、太祖︀ 元年に非ずして、實は十三年 戊寅にあること甚 確なれば、篾兒乞惕の勦滅も、親征錄 集史の十二年 丁丑とせるに從はざるべからず。續集は、太祖︀ 六年 辛未の征金の役より始まりたるに、この集に已に十二年 丁丑 十三年 戊寅の事を載せたるはいかにと云ふに、そは怪むべき事に非ず。蓋この集の成れるは、征金の役の起れる後なれども、征金の役は、未 事 竣らざりし故に、後の記錄に讓りて、この集には載せず。幾兒乞惕 古出魯克の勦滅は、卷三の篾兒乞惕 征伐より、卷五 卷七の乃蠻 征伐より引續きたる戡定の大業なるに由り、その局を結ばんが爲に、太祖︀ 騰極の續きに、年をも揭げずに十餘年 後の事を附記したるなり。)
成吉思 汗 實錄 卷の十 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート読み込みサイズが制限値を越えるので分冊化しています。
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