成吉思汗実録続編/1
成吉思汗實錄續編。
太祖︀即位の時に名ざしたる八十八の功臣の內にて、元史に傳を立てられたるは、次の十人のみなり。
列傳卷五(元史一一八)、「ボト孛禿、イキレス亦乞列思」氏は、功臣の第八十七なるイキレス亦乞咧思のブトグレゲン不禿古咧堅なり。太祖︀の妹テムルン帖木倫を娶り、テムルン帖木倫薨じて太祖︀の女ホチンベキ火臣別吉(ゴヂンベキ豁眞別乞)を娶り、太祖︀即位の後「從太師國王ムカリ木華黎、略地遼東西、以功封冠懿二州、從征西夏、病薨。」その子ソルハ鎖兒哈は、「事太宗、與ムカリ木華黎取嘉州、降其民」とあるを、錢大昕の廿二史考異に「木華黎卒於太祖︀朝、亦無取嘉州事。嘉州、恐是葭州之譌。太宗當爲太祖︀」と云へり。また「ソルハ鎖兒哈要皇子オチ斡赤(コチユ闊出)女アント安禿公主、生女、是爲憲宗皇后」とあるを、考異に「后妃傳、憲宗皇后無イキレ亦乞列氏、恐誤」と云へれども、后妃表にチユビ出卑三皇后ミンリフドル明里忽都︀魯 皇后ありて、何氏とも云はざれば、その內の一人は、鎖兒哈の女なるべし。その外、ボト孛禿の子孫にて公主に尙したるものは、錢大昕の元史氏族表に據れば、十一人あり。
二。オングト汪古惕のアラクシ ヂギトクリ阿剌忽失 的吉惕忽哩駙馬。
列傳卷五、「アラウステギフリ阿剌兀思剔吉忽里、オング汪古部人」は、功臣の第八十八なるオングト汪古惕のアラクシデギトフリグレゲン阿剌忽失的吉惕忽哩古咧堅なり。太祖︀の女アラハイベキ阿剌海︀別吉(アラカベキ阿剌合別乞)は、初にアラクシ阿剌忽失に配し、次にその姪ヂング鎭國に配し、後に幼子ボヤウカ孛要合に配したる事は、實錄卷八、三二九、三三〇頁の注に云へり。ヂング鎭國の子ネグタイ聶古台は、睿宗の女トムガン獨木干公主に尙し、ボヤウカ孛要合の子孫にて公主に尙したるもの十人あり。
三。ヂヤライル札剌亦兒のムカリ木合黎國王。
列傳卷六(元史一一九)、「ムカリ木華黎、ヂヤラル札剌兒氏」は、功臣の第三なる札剌亦兒の木合黎國王なり。あまたの功臣の中にて實に第一の元勳にして、太祖︀卽位の時は、アルラト阿嚕剌惕のボオルチユ孛斡兒出と竝びて左右の萬戶となり、「丁丑(太祖︀十二年)八月、詔封太師國王、都︀行省、承制行事。賜誓券黃金印、曰「子孫傳國、世世不絕」。分ホンギラ弘吉剌・イキレス亦乞烈思・ウルウ兀魯兀・モング忙兀等十軍及 ウエル吾也而・キダン契丹蕃漢︀等軍、竝屬麾下、且諭曰「太行之北、朕自經略。太行以南、卿其勉︀之」。賜大駕所建九斿大旗、仍諭諸︀將曰「木華黎建此旗、以出號令、如朕親臨也」。乃建行省于雲燕、以圖中原」。麾下に屬する諸︀軍の事は、親征錄に委しく、「戊寅(十三年)、封木華黎爲國王、總率ワング王孤部萬騎、ホヂユル火朱勒部千騎、ウル兀魯部四千騎、モング忙兀部 ムゲ木哥・ハンヂヤ漢︀札千騎、ホンギラ弘吉剌部・アンチ安赤・ノヤン那顏三千騎、イキラ亦乞剌部、ボト孛徒駙馬二千騎、ヂヤラル札剌兒部及ダイスン帶孫等二千騎、同北京諸︀部ウエル烏葉兒元帥トハ禿花元帥所將漢︀兵、及ベラル北剌兒所將 ギタン契丹兵、南伐金國」とあり。戊寅と云へるは誤れり。金史宣宗紀にある、丁丑の冬、大元の兵益都︀・淄・沂・密等の州を下したるは、卽木合黎の南征にして、太祖︀紀にも木華黎の傳にも合へれば、その南征の命を受けたるは、必丁丑の年にありけん。何秋濤曰く「此錄載ホンギラ弘吉剌等止七軍、則本傳(十軍の)十、乃七之誤」。ワング王孤部は、オングト汪古惕なり。ホヂユル火朱勒部は、ヲルフ倭勒甫の史にクシクル庫失庫勒とあれば、ヂユ朱はシ失の誤にて、その下に一字脫ちたるならん。但クシクル庫失庫勒と云ふ部の名は知らず。ウル兀魯部は、ウルウト兀嚕兀惕なり。モング忙兀部 ムゲ木哥・ハンヂヤ漢︀札は、モンクト忙忽惕のモンコ蒙可・ハルヂヤ哈勒札、列傳ウイダル畏荅兒の子モンゲ忙哥、太宗紀のモング蒙古・ハンヂヤ漢︀札なり。ベレジン別咧津のムルゲ木勒哥・ハルヂヤ哈勒札と讀めるに據れば、ムゲ木哥の間に勒の字脫ちたるに似たり。ホンギラ弘吉剌部アンチ安赤・ノヤン那顏は、オンギラト翁吉喇惕のアルチ阿勒赤・ノヤン那顏、イキラ亦乞剌部ボト孛徒駙馬は、イキレス亦乞咧思のブトグレゲン不禿古咧堅、ヂヤラル札剌兒部ダイスン帶孫は、ヂヤライル札剌亦兒のムカリ木合黎の弟ダイスン帶孫郡王なり。ウエル烏葉兒元帥は、列傳卷七のウエル吾也而、卽サルムヂウト撒勒只兀惕のウエル兀也兒、トハ禿花元帥は、列傳卷三十六なるキダン契丹のエリユトハ耶律禿花なり。ベラル北剌兒は、親征錄の前文、甲戌四月金主南遷の條に「契丹眾殺︀主帥スウン素溫而叛去、推ヂヤダ斫荅ビシエル比涉兒〈[#「ビシエル」は底本では「ビチエル」]〉ヂヤラル札剌兒爲帥、而還中都︀、遣使詣上行營納款〈[#「款」は底本では「※[#「上/示+欠」]」]〉」とあれば、札剌兒の札を北に誤れるか。又比涉兒札剌兒の中三字を脫して、比を北に誤れるならん。
木華黎は、太祖︀十八年三月、年五十四歲にて薨じ、その子ボル孛魯、國王の爵を襲げり。ボル孛魯は、睿宗監國戊子の年に薨じ、長子タス塔思又の名はチヤラウン査剌溫襲ぎ、太宗二年、萬戶インヂギタイ因只吉台(祕史のエルヂギダイ額勒只吉歹)と共に叛將武仙を敗り、潞州を復し、三年、太宗に從ひて、河中を定め、四年、諸︀王アンチタイ按赤台(カチウン合赤溫の子アルチダイ阿勒赤歹)等と三峯山の戰に與り、五年、皇子グユ貴由に從ひ、ブセンワンヌ蒲鮮萬奴を平げ、七年、皇子クチユ曲出に從ひ、宋を伐ち、十一年薨じ、弟スクンチヤ速渾察爵を襲げり。タス塔思〈[#ルビの「タス」は底本では「アントン」。塔思(タス)は旣出であり、隣接行の安童(アントン)のルビを誤植したことが明確なので訂正]〉の第二子バートル霸都︀魯は、木華黎の傳に孛魯の第三子としたれども、錢大昕の考異氏族表は、元明善の撰れるアントン安童(バートル霸都︀魯の子)の碑に據り、孛魯の孫、塔思の子なりと云へり。霸都︀魯の長子安童は、至元中、中書右丞相。列傳卷十三に委しき傳あり。安童の孫バイヂユ拜住は、英宗の時中書右丞相、逆臣テシ鐵失に殺︀されき。列傳卷二十三に傳あり。スクンチヤ速渾察の子四人、フリンチ忽林赤・ナヤン乃燕・シヤンウイ相威・サマン撒蠻。フリンチ忽林赤は、國王の爵を襲ぎ、ナヤン乃燕は、世祖︀よりセチエン薛禪の號を賜はれり。乃燕の曾孫ドルヂバン朶兒直班は、順帝の朝の名臣、列傳卷二十六に傳あり。シヤンウイ相威は、至元二十年、江淮行省の左丞相、列傳卷十五に傳あり。サマン撒蠻の孫ドルヂ朶兒只は、順帝の時、中書右丞相にて國王を嗣ぎ、列傳卷二十六に傳あり、子エンムゲシリ俺木哥失里國王を襲げり。タス塔思の末弟アリキシ阿里乞失の子國王[416]フスフル忽速忽爾。フスフル忽速忽爾の子國王ドロタイ朶羅台は、泰定の朝に仕へ、天曆二年、文宗に殺︀されき。ドロタイ朶羅台の弟ナイマンタイ乃蠻台は、列傳卷二十六に傳あり。天曆中、陝西行臺の御史大夫となりし時、「奉命送太宗皇帝舊鑄皇兄之寶於其後嗣エンヂゲダイ燕只哥䚟。考異に云く「按、ジユチ朮赤・チヤガタイ察合台、皆太宗之兄。エンヂゲダイ燕只哥䚟、必其後也。而宗室世系表不著︀其名。泰定紀、泰定四年、諸︀王エンヂギタイ燕只吉台襲位、遣使來朝、蓋卽其人」。ドーソン多遜の世系表に據るに、察合台の五世の孫イツセンブカ亦先不喀薨じ、弟デベク格別克嗣ぎ、デベク格別克薨じ、子イルチカダイ亦勒赤喀歹嗣ぎたり。イツセンブカ亦先不喀は、仁宗紀皇慶元年に見えたる諸︀王エツセンブハ也先不花、デベク格別克は、泰定三年九月に見えたる諸︀王ケベ怯別にして、イルチカダイ亦勒赤喀歹は、卽泰定四年七月のエンヂギタイ燕只吉台、卽こゝのエンヂゲダイ燕只哥䚟なり。乃蠻台は、順帝至元三年國王を襲ぎ、至正二年遼陽行省の左丞相。木華黎の弟ダイスン帶孫郡王の後なるタタルタイ塔塔兒台は、世祖︀の時、東平のダルハチ達魯花赤となり、二子五孫皆次第にその職を襲げり。
四。アルラト阿嚕剌惕のボオルチユ孛斡兒出。
列傳卷六、「ボルチユ博爾朮、アルラ阿兒剌氏」は、功臣の第二なるアルラト阿嚕剌惕のボオルチユ孛斡兒出なり。太祖︀卽位の時、「從容謂博爾朮及木華黎曰「今國內平定、我之與汝、多汝等之力。猶車之有轅、身之有臂。汝等宜體此勿・替」。遂以博爾朮及木華黎爲左右萬戶、各以其屬翊衞、位在諸︀將上」とあるは、實錄卷八太祖︀の勅に「ボオルチユ孛斡兒出・ムカリ木合黎二人は、我が善き事を引き進め、善からぬ事を引き止めて、この位に到らせたり。今衆の上に位して、九度の罪にな罪なひそ。孛斡兒出は、右手のアルタイ阿勒台山に倚れる萬戶を知れ。木合黎國王は、左手のカラウン合喇溫・ヂトン只敦に倚れる萬戶を知れ」と云へる趣旨と、閻復の撰れる廣平の貞憲王(ユシテムル玉昔帖木兒)の碑に、祖︀父武忠王ボールチユ博爾朮の功を叙べて「左右萬夫長、位諸︀將之上首。以武忠居右、東平忠武王居左、翊衞辰極、猶車之有軸、身之有臂」と云へる字句とを取り鎔鑄して作れるなり。その後の事蹟は、傳に漏れたれども、太祖︀の西征に從へることは、祕史の文と西游記に萬戶ボルヂ播魯只と見えたるとにて明かなり。傳に皇子チヤハダイ察哈歹西域に封ぜられたる時ボールチユ博爾朮より敎を受けたりとあれば、西征より還りても健全なりしと見ゆれども、「未幾、賜廣平路戶一萬七千三百有奇爲分地、以老病薨、太祖︀痛悼之」とあれば、太祖︀より前に薨じたるなり。併四傑の內にては最後まで殘れり。
博爾朮の子ボロンタイ孛欒台は、萬戶の職を襲げり。ボロンタイ孛欒台は、正しくはボロルダイ孛囉勒歹なるべし。十三翼の戰にまづ變を吿げたるイキレス亦乞咧思のボロルダイ孛囉勒歹も、親征錄にブロンタイ卜欒台、ボト孛禿の傳にボロンダイ波欒歹と書けり。ボロンタイ孛欒台の子ユシテムル玉昔帖木兒は、「世祖︀時、嘗寵以不名、賜號ユリユルノヤン月呂魯那演、猶華言能官也。弱冠襲爵、統アンダイ按台部眾」。アンダイ按台は、卽アルタイ阿勒台にして、その部眾はボールチユ博爾朮の舊統べたる部眾なり。至元十二年、御史大夫。二十四年、叛王ノヤン乃顏を討じて大功あり、二十六年、太傅となり、出でてハンガイ杭海︀を鎭め、成宗位に卽き、太師に進み、元貞元年薨じき。ユシテムル玉昔帖木兒の孫アルト阿魯圖は、順帝至正四年、中書右丞相、十一年太傅。列傳卷二十六に傳あり。博爾朮の四世の孫ニウヂダイ紐的該は、至正十七年、中書添設左丞相。列傳卷二十六に傳あり。
列傳卷六、「ボルフ博爾忽、フウジン許兀愼氏。事太祖︀、爲第一千戶、歿於敵」とあるは、功臣の第十五なるボロクル孛囉忽勒なり。四傑の一人にして、その傳は只これのみなるは、甚あつけなし。却てその從孫タチヤル塔察兒の處に「伯祖︀父ボルフ博爾忽、從太祖︀、起朔方、直宿衞、爲ホルチ火兒赤。ホルチ火兒赤者︀、佩囊韃侍左右者︀也。由是子孫世其職。ボルフ博爾忽從太祖︀平諸︀國、宣力爲多。當時與ムカリ木華黎等、俱以功號四傑」とあるにつきて、錢大昕は「詳略可謂失當矣」と譏れり。
ボルフ博爾忽の子トホン脫歡は、千戶の職を襲ぎ、「從憲宗、四征不庭、有拓地功」とあるは、功臣の第六十なるトゴン脫歡なるべし。耶律楚材の傳に、太宗の時「侍臣トホン脫歡奏簡天下室女」とあるも、その人ならん。脫歡の孫ユチチヤル月赤察兒[417]は、至元十七年ケセ怯薛の長、明年宣徽使、成宗の時ホリム和林行省の右丞相太師洪陽王。考異には、姚燧の撰れる姚文獻公の神︀道碑に太師洪陽王之兄故承相ムトゴル木土各兒とあるを引き、「ムトゴル木土各兒、亦作トムゴル土木各兒。其爲丞相、蓋在中統初、而本紀表傳俱失之」と云へり。又考異氏族表に據れば、ユチチヤル月赤察兒の子七人、長子トラハイ塔剌海︀は中書右丞相太保、第三子クワトウ𠇗頭は太師錄軍國重事淇陽王、第五子エツセンテムル也先鐵木兒は中書右丞相洪陽王、第二子マラ馬剌の子オンヂヤイテムル完者︀鐵木兒は御史大夫太傅洪陽王などあり。タチヤル塔察兒の事は、後に云ふべし。
六。ウルウト兀嚕兀惕のヂユルチエダイ主兒扯歹。
列傳卷七(元史一二〇)、「チユチタイ朮赤台、ウルウタイ兀魯兀台氏」は、功臣の第六なるウルウト兀魯兀惕のヂユルチエダイ主兒扯歹なり。チユチタイ朮赤台の子ケタイ怯台は、功臣の第五十七なるケタイ客台なり。傳に曰く「子ケタイ怯台、材武過人。自太宗及世祖︀、歷事四朝、以勞封德淸郡王、賜金印。丙申、賜德州戶二萬爲食邑。至元十八年、增食邑二萬一千戶、肇慶路連州德州泊屬邑俱隷焉」と云ひ、親征錄には、太祖︀癸酉居庸關の戰に「上留ケタイ怯台・ボチヤ薄察等、頓軍拒守、遂將別眾西行、由紫荆口出。云云。乃命ヂエベ哲別攻居庸南口、出其不備破之、進長至北口、與怯台・薄察軍合。旣而又遣諸︀部精︀兵五千騎、合ケタイ怯台・ハタイ哈台二將圍中都︀」とあり。太祖︀紀にはこのケタイ怯台をケテ可忒と書き、郝ホシヤンバード和尙拔都︀の傳には「在郡王ヒテ迄忒麾下」と云ひ、黑韃事略に十七頭項を列記してケテ紇忒郡王黑縫人と云へり。怯台の子ドンヂンバード端眞拔都︀兒は、「襲爵爲郡王。太宗時、與イラハタイ亦剌哈台戰勝、帝卽以イラハ亦剌哈妻賜之」。太宗の時の敵將にイラハタイ亦剌哈台と云へる人あるを聞かず。蓋祕史卷十一のイレカダ亦列合荅に同じく、金の二將イラブア移剌蒲阿・ワンヤンカダ完顏合達を指せるに似たり。もし然らば、イラハ亦剌哈妻は、イラ亦剌の妻かハタイ哈台の妻か定め難︀し。イラハ亦剌哈にては、ワンカン王罕の子イラカ亦剌合を想ひ起さしむ。太宗紀八年丙申、中原諸︀州の民戶を諸︀王貴戚に分け賜へる處にドンヂンモングカンヂヤ鍛眞蒙古寒札とあるは、このドンヂン端眞とモングト忙忽惕のモンケハルヂヤ蒙可哈勒札となり。ドンヂン端眞の弟ハダ哈荅、ハダ哈荅〈[#ルビの「ハダ」は底本では「ハタイ」。「荅」を「タイ」と読む箇所は他に見当たらないので誤植と判断]〉の三子三孫、皆郡王に封ぜられき。
七。ウリヤンカン兀哴罕のスベエタイ速別額台。
列傳卷八(元史一二一)、「スブタイ速不台、蒙古ウリヤンカ兀良合人」、列傳第九(元史一二二)、「セブタイ雪不台、蒙古部ウリヤンハン兀良罕氏」は、二つながら功臣の第五十一なるウリヤンカン兀哴罕のスベエタイ速別額台なり。スブタイ速不台は、功勞甚多く、本傳も頗委しけれども、誤謬又少からず。その西征を叙べたる所は、西國の諸︀史に據りて訂正すべし。
スブタイ速不台の子ウリヤンカタイ兀良合台は、「歲乙巳、領兵從定宗征ヂユチン女眞國、破ワンヌ萬奴於遼東。繼從諸︀王バド拔都︀、征キムチヤ欽察・ウルス兀魯思・アボレル阿孛烈兒諸︀部。丙午、又從拔都︀、討ボレル孛烈兒乃ニエミス捏迷思部平之。己酉、定宗崩云云」。これらの紀年 皆誤れり。乙巳は、癸巳(太宗五年)の誤、丙午は、辛丑(太宗十三年)の誤、己酉は、戊申(定宗三年)の誤なり。キムチヤ欽察等の征伐は、ワンヌ萬奴の征伐に關係なく、三年後(太宗八年丙申)の出師なれば、紀年を略きて「繼」と書きたるも非なり。アボレル阿孛烈兒は、次のボレル孛烈兒とは異なり。秘史卷十一のボレル孛剌兒、卷十二のブラル不剌兒〈[#ルビの「ブラル」は底本では「ブラブル」。明治40年初版「成吉思汗実録」五八九頁(§270)に倣い修正]〉、卽ブルガ佛勒噶河の東に居りしボルガル孛勒噶兒を元史地理志にブリアル不里阿耳と書けるに由りて思へば、これはボレアル孛烈阿兒の阿の字を上に飛ばしたるなり。ボレル孛烈兒ナイニエミス乃捏迷思は、ポール玻勒卽ポランド玻關篤人と獨逸︀人とにして、ナイ乃はキフ及の誤なり。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「獨逸︀人を、ルシア嚕西亞の史にはニエムツイ尼額姆次(單稱ニエメツ尼額篾慈と云ひ、ボヘミア孛赫米亞人は夙くよりネムツイ捏姆次と云ひ、ビザンチン必贊靑の古史にはネメツイ捏篾次またネミツイ捏米次と云ひ、あるモハメト抹哈篾惕敎徒はネメヂ捏篾只と云ひ、今もトルク突︀兒克人はニエメシ尼額篾昔と云ひ、ホンガル洪噶兒人はネメト捏篾惕と云ふ」。ウリヤンカタイ兀良合台の功勞最大なるは、憲宗の時、皇弟フビレイ忽必烈に從ひ、雲南に入り、白蠻・烏蠻・鬼蠻等の諸︀國を平げ、大元帥となりて大理を鎭め、遂に交趾を降して還れる事なり。その子アチユ阿朮は、中統三年、征南都︀元帥。至元五年、宋の襄陽を圍み、十年樊城を破り、襄陽を降し、十一年、丞相バヤン伯顏に從ひ宋を[418]伐ち、十二年七月、張世傑の舟師を焦山の下に敗り、その月中書左丞相。列傳卷十五に傳あり。氏族表に據れば、阿朮の子ブレンギダイ不憐吉歹は、河南行省の左丞河南王。
八。モンクト忙忽惕のクイルダル忽亦兒荅兒。
列傳卷八、「ウイダル畏荅兒、モング忙兀人」は、功臣の第二十一なるモンクト忙忽惕のクイルダル忽亦兒荅兒なり。その子モンゲ忙哥は、功臣の第五十二なるモンケハルヂヤ蒙可哈勒札〈[#ルビの「モンケハルヂヤ」はママ。明治40年初版「成吉思汗実録」三二三頁(§202)では「モンコハルヂヤ」]〉なり。太宗、ウイダル畏荅兒の功を思ひ、「復以北方萬戶、封其子モンゲ忙哥爲郡王。歲丙申、フドフ忽都︀忽大料漢︀民、分城邑、以封功臣、授モンゲ忙哥泰安州民萬戶。帝訝其少。フドフ忽都︀忽對曰「臣今差次、惟視︀舊數多寡。モンゲ忙哥舊纔八百戶」。帝曰「不然。ウイダル畏荅兒封戶雖少、戰功則多。其增封爲二萬戶、與十功臣同爲諸︀侯者︀、封戶皆異其籍」。ウル兀魯爭曰「モンゲ忙哥舊兵、不及臣之半、今封顧多於臣」。帝曰「汝忘而先橫鞭馬鬣時耶」。ウル兀魯遂不敢言」。兀魯は、ウルウト兀嚕兀惕のヂユルチエダイ主兒扯歹の子ケタイ怯台郡王なり。この傳は、全く姚燧の撰れる平章モング忙兀公(ボロホン博羅歡)の碑に據りたるが、事實に誤あり。丙申の年、ケタイ怯台は、德州の二萬戶を賜はり、モンゲ忙哥と同額なれば、「今封顧多於臣と云ふべき筈なし。橫鞭馬鬣の一事に至りては、有無も知るべからず。たとひ有りとも、旣に命を受けて、王罕の大軍を敗り、太祖︀一生の大戰なるカラカルヂト合剌合勒只惕の役は、ヂユルチエダイ主兒扯歹の力に依りて勝を決したれば、太祖︀深くその功を賞し。主兒扯歹を高山の遮護に譬へ、元史の撰者︀も、その語を採りて傳に入れたる程なるに、太宗何ぞその微過を摘みて大勳を傷くるの理あるべけんや。これは、蓋兩家の子孫、その祖︀の功を述ぶるに競ひて、遂にかゝる中傷の談をも造れるにて、二大功臣の同功一體の素志にも違ひ、太祖︀太宗の功臣を優遇する盛意にも怫れり。チユチタイ朮赤台の傳にも誤は多けれども、この傳の誤は殊に誣罔に似たるが故に、聊辨じ置くなり。モンゲ忙哥の孫ヂリワダイ只里瓦䚟・キダダイ乞荅䚟曾孫フトフ忽都︀忽・チユナイ兀及・フリ忽里・ハチ哈赤、皆郡王を襲げり。朮赤台の傳に、アリブカ阿里不哥の亂の時、ケタイ怯台の少子ハダ哈荅とフドフ忽都︀忽と自ら請ひて軍に從ひ、シムウンド石木溫都︀の地に戰へりとあるは、この忽都︀忽なり。忙哥の從孫ボロホン博羅歡は、至元中、宋を擊ち、叛王ノヤン乃顏を討じ、皆功あり、大德中、江浙行省の平章政事。その子孫に顯人多し。第三子エツセンテムル埜先帖木兒は、河南行省の左丞相。
列傳卷九、「ハサナ哈散納、ケレイ怯烈亦氏」は、功臣の第二十なるフスン許孫なるべし。ハサナ哈散納は、バルヂユト巴勒主惕の一人にて、後には「管領アルクン阿兒渾軍、從太祖︀征西域、下セミスカン薛迷則干・ブハラ不花剌等城」。太宗の時、平陽太原兩路のダルハチ達魯花赤。
列傳卷十(元史一二三)、「ブヂル布智兒、蒙古トトリタイ脫脫里台氏」は、功臣の第三十八なるブヂル不只兒なり。父ニウルケ紐兒傑「嘗道逢太祖︀。前驅騎士ベノヤン別那顏邀與俱見、云云」とあるベノヤン別那顏は、ジエベノヤン者︀別那顏なるべし。ブヂル布智兒は、軍に從ひ、フイフイ回回・オロス斡羅思等の國を征して、屢力戰し、その後「憲宗以ブヂル布智兒爲大都︀行天下諸︀路エケジヤルフチ也可札魯忽赤、印造寶鈔」。エケジヤルフチ也可札魯忽赤は、大斷事官なり。憲宗紀元年卽位の條に「以ヤラワチ牙剌瓦赤・ブヂル不只兒・オルブ斡魯不・ドダル覩荅兒等、充燕京等處行尙書省事」とあるは、官名を漢︀語に飾りたるにて、その實は卽ヂヤルフチ札魯忽赤なり。大都︀行天下諸︀路と云へるも、蒙古語を後に譯したるにて、憲宗の時は、未大都︀の名あらざりしなり。シリケンブ昔里鈐部の傳に「遷斷事官云云。憲宗以ブヂル卜只兒來茫行臺、命ケンブ鈴部同署︀」とある行臺は、卽燕京の行省なり。ブルハイヤ布魯海︀牙も、夙くより斷事官となりて、卜只兒と共に順天等路を按察したる人なるが、その傳に曰く「時斷事官得專生殺︀、多倚勢作威。而ブルハイヤ布魯海︀牙、小心謹︀密、愼於用刑、云云」。ブヂル布智兒は、ブルハイヤ布魯海︀牙の如くにはあらざりけん。本傳には何とも云はざれ[419]ども、世祖︀紀に「壬子(憲宗二年)、帝駐桓撫間。憲宗令斷事官ヤルワチ牙魯瓦赤、與ブヂル不只兒等、總天下財賦于燕。視︀事、一日殺︀二十八人。其一人盜馬者︀、杖而釋之矣。偶有獻環刀者︀、遂追還所杖者︀、手試刀斬之。帝責之曰「凡死罪、必詳識而後行刑。今一日殺︀二十八人、必多非辜。旣杖復斬、此何刑也。」ブヂル不只兒錯愕不能對」とあり。ブヂル布智兒の長子ハウリ好禮は、丞相バヤン伯顏に從ひ、水軍を督して宋を擊ち、水軍翼萬戶府のダルハチ達魯花赤。第四子ブランヒ不蘭奚は、水軍翼萬戶招討使。
功臣の子孫(又は父)の傳にその功臣の名見えたるもの、十六人あり。
一。オンギラト翁吉喇惕のアルチ阿勒赤駙馬。
列傳卷五テイセチエン特薛禪の傳なるその子アンチンノヤン按陳那顏は、功臣の第八十六なるオンギラト翁吉喇惕のアルチグレゲン阿勒赤古咧堅なり。その傳に曰く「テイセチエン特薛禪、姓ボスフルホンギラ孛思忽兒弘吉剌氏、世居朔漠。本名テイ特、因從太祖︀起兵有功、賜名セチエン薛禪、故兼稱曰テイセチエン特薛禪。女曰ボルタイ孛兒台、太祖︀光獻翼聖皇后」。本の名テイ特を、乾隆︀の史臣は、下の因の字を附けてテイン特因と讀み、殿本にトイン托音と改め、テイセチエン特薛禪をもトインセチエン托音色辰と改め、語解に「トイン托音、僧︀也」と注せり。又太祖︀紀に見えたるホンギラ弘吉剌部長デイ迭夷は、卽特薛禪なることを知らずして、殿本にダイン岱音と改め、語解に「敵也」と注せり。デイ迭夷卽テイセチエン特薛禪は、祕史のデイセチエン德薛禪、蒙古源流のデイチエチエン岱徹辰なり。何ぞ曾てイン因の音を附けたるものあらんや。錢大昕は、明初の史臣の鹵莽を譏りて、「若乃句讀之不通、而妄加點竄、欲以備石室金匱之藏、與三史竝列、毋乃不知量之甚乎」と云ひしが、その言は、移して乾隆︀の史臣を評すべし。これは、たゞ殿本の誤りだらけなる一例を筆の序に云ふなり。「子曰アンチン按陳〈[#「アンチン」は底本では「アンチ」]〉、從太祖︀征伐、凡三十二戰。平西夏、斷潼關道、取フイフ回紇・セミスカン尋斯干城、皆與有功。歲丁亥(太祖︀二十二年)、賜號國舅アンチンノヤン按陳那顏。壬辰(太宗四年)、賜銀印、封河西王、以統其國族。丁酉(九年)、賜錢二十萬緡。有旨、ホンギラ弘吉剌氏生女、世以爲后、生男、世尙公主、每歲四時孟月、聽讀所賜旨、世世不絕。又賜所俘獲軍民五千二百、仍授萬戶以領之」。
オンギラト翁吉喇惕の女子の皇后となれるは、ボルタイ孛兒台卽ボルテウヂン孛兒帖兀眞より始まり、公主に尙したるは、アンチン按陳卽アルチグレゲン阿勒赤古咧堅より始まれり。祕史にグレゲン古咧堅と云ひ、ラシツトエツヂン喇失惕額丁の集史にもグルカン古兒干と云へば、按陳の、公主に尙したるは確なるべけれども、元史にはその事を漏せり。按陳の女チヤビ察必は、世祖︀の昭睿順聖皇后。按陳の子オナン斡陳の配は、睿宗の女エスブハ也速不花公主。オチン斡陳の弟ナチン納陳の配は、太祖︀の孫女セヂガン薛只干公主(公主表)。ナチン納陳の子オロチン斡羅陳の配は、オンジエイ完澤公主。繼配は、世祖︀の女ノンガヂン囊加眞公主。オロチン斡羅陳の弟テムル帖木兒(賜名アンダルトノヤン按荅兒禿那顏)の配も、ノンガヂン囊加眞公主(公主表)。その弟マンツタイ蠻子台の配も、囊加眞公主。繼配は、裕宗の女ナンガブラ喃哥不剌公主。オロチン斡羅陳の女シレンダリ實憐荅里は、成宗の貞慈靜懿皇后。帖木兒の子ヂヤウアブラ琱阿不剌の配は、順宗の女シヤンガラギ祥︀哥剌吉公主。その弟サンガブラ桑哥不剌の配は、ブナ普納公主。ヂヤウアブラ琱阿不剌の女ブダシリ不荅失里は、文宗の皇后。ヂヤウアブラ琱阿不剌の子アリガシリ阿里嘉室利の配は、ドルヂバン朶兒只班公主。ナチン納陳の孫セントン仙童の女ナンビ喃必は、世祖︀の皇后。按陳の次子ビゲ必哥の孫チウハン丑漢︀の配は、タイフルド台忽魯都︀公主。按陳の季子ソルホド唆兒火都︀の子に、アハ阿哈駙馬あり。按陳の孫ナカ納合の配は、太宗の女ソルハハン唆兒哈罕公主。按陳の孫クンドテムル渾都︀帖木兒の女ダギ荅吉は、順宗の昭獻元聖皇后。按陳の孫オリウチヤル斡留察兒の女ハブハン八不罕は、泰定帝の皇后。按陳の孫(曾孫か)トレンバドル脫憐拔都︀見の女タラハイ塔剌海︀は、世祖︀の皇后。トレン脫憐の子ベンブラ迸不剌の女ヂンゲ眞哥は、武宗の宣慈惠聖皇后。ベンブラ迸不剌の子マイチユハン買住罕の配は、ハイダシヤ拜荅沙公主。マイチユハン買住罕の女ビハン必罕・スガダリ速哥荅里二人は、皆泰定帝の皇后。マイチユハン買住罕の弟ボロテムル孛羅帖木兒の女バヤンフド伯顏忽都︀は、順帝の皇后(后妃傳)。按陳の弟ホフ火忽の孫ブヂル不只兒の配は、オケヂン斡可眞公主。テイセチエン特薛禪の諸︀孫トロホ脫維禾の配は、ブルハン不魯罕公主。繼配は、ココルン闊闊倫公主。テイセチエン特薛禪の孫(公主[420]表)モゲチン忙哥陳の女フタイ忽台は、憲宗の貞節︀皇后。その妹エスル也速兒も、憲宗の皇后。テイセチエン特薛禪の曾孫(按陳の從孫)ハルヂ哈兒只の女スガシリ速哥失里は、武宗の皇后。その外裕宗の徽仁裕聖皇后バランエケチ伯藍也性赤又の名ココヂン闊闊眞、顯宗の宣懿淑聖皇后ブヤンケリミシ普顏怯里迷失、仁宗の莊懿慈聖皇后アナシシリ阿納失失里、寧宗のダリエテミシ荅里也忒迷失皇后も、皆ホンギラ弘吉剌氏なり(后妃傳)。蒙古にオンギラト翁吉喇惕あるは、恰も遼に蕭氏あり、我が朝に藤原氏あるが如くなりき。
二。フウヂン許兀愼のトゴン脫歡、ウルウト兀嚕兀惕のケタイ客台、モンクト忙忽惕のモンケハルヂヤ蒙可哈勒札。
列傳卷六ボルフ博爾忽の傳なるその子トホン脫歡は、功臣の第六十なるトゴン脫歡なるべきこと、列傳卷七チユチタイ朮赤台の傳なるその子ケタイ怯台は、功臣の第五十七なるケタイ客台なること、列傳卷八ウイダル畏荅兒の傳なるその子モンケ忙哥は、功臣の第五十二なるモンケハルヂヤ蒙可哈勒札なることは、已に前に云へり。
三。ニチユグトバアリン儞出古惕巴阿𡂰のアラク阿剌黑。
列傳卷十四(元史一二七)、バヤン伯顏の傳なる祖︀父アラ阿剌は、功臣の第二十六なるニチユグトバアリン儞出古惕巴阿𡂰のアラク阿剌黑なり。その傳に曰く「伯顏、蒙古バリン八隣部人。曾祖︀シユルゲト述律哥圖、事太祖︀、爲バリン八隣部左千戶。祖︀アラ阿剌、襲父職、兼斷事官、平フチエン忽禪有功、得食其地」。シユルゲト述律哥圖は、太祖︀紀のシリゲエブゲン失力哥也不干、實錄卷五の初のシルグエトエブゲン失兒古額禿額不堅、卷九、三六六頁のシルゲトエブゲン失兒歌禿額不堅なり。フチエン忽禪は、シルダリア失兒荅哩牙のオホマガリ大曲の南岸にあるコヂエンド闊氈篤なり。ラシツト喇失惕に據るに、太祖︀西征の役、オトラル斡惕喇兒にて全軍を四に分け、アラクノヤン阿剌黑那顏は、スケトトガイ速客禿脫該と共に、シフン昔渾河(シルダリア失兒荅哩牙)に泝り、ベナケトコヂエンド別納客惕闊氈篤を攻め落せり。
アラ阿剌の子をヒヤウグタイ曉古台と云ふ。バヤン伯顏の傳に「父ヒヤウグタイ曉古台、世其官、從宗王フレウ旭烈兀、開西域。伯顏長於西域。至元初、フラグ旭烈兀遣入奏事。世祖︀見其貌偉、聽其言厲、曰「非諸︀侯王臣也。其留事朕」。與謀國事、恆出廷臣右。世祖︀益賢之。勅以中書右丞相アントン安童女弟妻之、若曰「爲伯顏婦不慚爾氏矣」。二年七月、拜光祿大夫中書左丞相。諸︀曹白事、有難決者︀、徐以一二語決之。眾服曰「眞宰輔也」」。ラシツト喇失惕に據れば、バリン巴𡂰の伯顏は、もとフラク旭剌庫(卽フレウ旭烈兀)に仕へたりしが、クブラカン庫卜賚汗の使者︀サルタク撒兒塔克等、一二六五年(至元二年)にペルシヤ珀兒沙より東に歸る時、フラク旭剌庫は伯顏をそれらに伴なひて大汗の處に使せしめき(エルドマン額兒篤曼の「テムヂン帖木眞」二一四)。マルコポーロ馬兒科保羅の紀行(ユール裕勒譯註)第三第四章に、ニコラスポーロ尼闊剌思保羅・マフエオポーロ馬弗斡保羅兄弟、ボカラ孛合喇の城に至り、進退窮まりて三年留まりし時、東の君(ペルシア珀兒沙のイルカン亦兒罕)アラウ阿剌兀(フラウ旭剌罕〈[#「旭剌罕」はママ。]〉)より世界のあらゆるタルタル塔兒塔兒の主なるカガン大合罕の朝廷に赴く使者︀至り、二人を見て、かゝる處にてラチン剌甸の人に遇へるを喜び、カガン大合罕の朝廷に伴なひ往かんことを勸め、二人はその使者︀に從ひ、クブライカン庫卜賚汗の朝廷に至れることを載せたり。これは、恰も一二六五年、サルタク撒兒塔克等の歸れると同じ年なれば、ポーロ保羅兄弟の伴なひしは、サルタク撒兒塔克・バヤン伯顏等の一行なりけん。
伯顏の功業は、本傳に甚委し。至元十一年、中書左丞相となり、中書省を荆湖に行ひ、江を渡り、鄂州を降し、十二年春、賈似道の大軍を江上に破り、江淮の州軍を降し、六月上都︀に至り、世祖︀に見え、七月右丞相に進み、八月南に還り、「九月戊寅、會師淮之城下、遣新附官孫嗣武叩城大呼、又射書城中、諭守將使降。皆不應」。伯顏は、その南城の堡を拔き、寶應・高郵を過ぎ、十月兵を留めて揚州を圍み、江を渡りて鎭江に至り、十一月軍を分けて水陸より竝び進み、「壬午、伯顏軍至常州。先是常州守王宗洙遁、通判王虎臣以城降。(世祖︀紀「三月、宋常州安撫戴之泰・通判王虎臣以城降」、續綱目「三月、知常州趙與鑑遁、州人王良臣以城降元」。)其都︀統制劉師勇、與張彥王安節︀等復拒之(世祖︀紀「五月、宋都︀統制劉師勇・殿帥張彥據常州」、推姚訔爲守、固守數月不下。伯顏遣人至城下、射書城中、招諭「勿以已降復叛爲疑、勿以拒敵我師爲懼」。皆不應。乃[421]親督帳前軍、臨南城、又多建火砲、張弓弩、晝夜攻之。淛西制置文天祥︀遣尹玉・麻士龍來援、皆戰死。(續綱目には「十月、常州吿急。知平江府文天祥︀、使尹王・麻士龍・張全・朱華、將兵赴援。士龍・玉戰死、全・華不戰而遁とあり)。甲辰、伯顏叱帳前軍先登、竪赤旗城上。諸︀軍見而大呼曰「丞相登矣」。師畢登、宋兵大潰。拔之、屠其城。姚訔及通判陳炤等死之。生獲王安節︀斬之。劉師勇變服單騎奔平江。諸︀將請追之。伯顏曰「勿追。師勇所過城、守者︀膽落矣」。この戰につきてマルコポーロ馬兒科保羅の聞きたる奇談あり。その紀行の第七十四章に曰く「鎭江府の城を去り、繁華なる都︀邑の連なる所を通り、東南に三日旅すれば、盛大なるチンギングイ成斤傀(シヤンチウ常州の訛)の城に至る。… 伯顏將となり、マンツ蠻子の大州を征する時、クリスト克哩思惕敎徒なるアラン阿闌人の一隊をこの城を取りに遣りき。取りてそこに入りたる時、アラン阿闌人は、ある好き酒を見附け、飮みて皆醉ひ、豚の如く横だはり睡りき。かくて日暮れたる時、城の民は、彼等の醉ひて死人の如きを見て、跳びかゝりて悉く殺︀し、一人も逃れざりき。城の民のかく欺きてその兵を殺︀せるを聞きて、伯顏は、他の將を大軍と共に送り、城を攻めて、住民皆を劍に掛け、一人も死を免︀れざりき、かくて城の民は根絕やしせられき」。本傳には「屠其城」とあるのみなれども、この寬仁なる名將も、常州の役には例外に殘忍なりしと見え、續綱目には「伯顏至常州、會兵圍城。姚訔・陳炤・劉師勇・王安節︀力戰固守。伯顏遣人招之、譬喩百端、終不聽。伯顏怒、命降人王良臣、役城外居民、運土爲壘。土至、併人以築之。且殺︀民煎膏、取油以作砲、焚其牌杈、日夜攻不息。城中甚急、而訔等守志益堅。伯顏乃叱帳前諸︀軍、奮勇爭先、四面竝進。城遂破、訔死之、炤與安節︀猶巷戰。或謂炤曰「城東北門未合、可走」。炤曰「去此一步、非死所矣」。日中兵至、死焉。伯顏命屠其民。執安節︀至軍前、不屈、亦死。師勇以八騎突︀圍、走平江」とあり。「取油以作砲」と云へることにつき、ユール裕勒は曰く「この殘忍なる製油の用ひ方に誤解あるならん。カルピニ喀兒闢尼の話に、タルタル塔兒塔兒は、砲火を消えずに燃えさせんが爲に、砲火を城に投ぐる時、それと共に人の油を發射すと云へる故に」と云へり。
この年十二月、伯顏の軍平江府に入り、十三年正月嘉興を降せり。「甲辰、次皐亭山。宋主遺知臨安府賈餘慶、同宗室保康軍承宣使尹甫、和州防禦使吉甫、奉傳國璽及降表、詣軍前(續綱目には「太皇太后遺監察御史楊應奎、上傳國璽以降」とあり)。乙酉、進軍至臨安北十五里。宋宰臣陳宜中、與張世傑・蘇義(世祖︀紀に蘇劉義)劉師勇等、挾益王・廣王、下涮江、航海︀而南。惟謝太后及幼主在宮中」。謝太后は、太皇太后(理宗の皇后謝氏なり。「丁亥、伯顏遺程鵬飛・洪雙壽等、入宮慰諭謝后」。考異に曰く「洪雙壽、卽洪雙叔也」。世祖︀紀に洪君祥︀とあり。君祥︀は、洪福︀源の子にして、小字を雙叔と云へり。「己丑、駐軍臨安城北之湖州市。庚寅、伯顏建大將旗鼓、率左右翼萬戶、巡臨安城、觀潮於涮江、暮還湖州市。辛卯、萬戶張弘範・郞中孟祺、以宋主謝后諭未附州郡手詔至軍前。二月辛丑(世祖︀紀に庚子)、宋主率文武百僚、望闕拜、發降表。伯顏承制、以臨安爲兩淛大都︀督府、モングダイ忙古歹・范文虎入治府事(世祖︀紀に辛丑)、復命張惠・アラハン阿剌罕・董文炳・呂文煥等、入城籍其軍民錢穀︀之數、閱實倉庫、收百官誥命符印圖籍、悉罷宋官府、取宋主、居之別室。分遣新附官、招諭南北兩廣四川未下州郡。癸卯、伯顏拜表稱賀(誰の筆に成りたるか、その文甚偉麗なり)。庚申、命ノンガダイ囊加歹、傳旨召伯顏、偕宋君臣入朝。三月丁卯、伯顏入臨安、俾郞中孟祺、籍其禮樂祭器︀冊寳儀仗圖書。乙亥、伯顏發臨安。丁丑、アダハイ阿塔海︀等宣詔、趣宋主母后入覲」。母后は、皇太后(度宗の皇后)全氏なり。「聽詔畢、卽日俱出宮。惟謝后以疾獨留。隆︀國夫人黃氏、宮人從行者︀百餘人、福︀王與芮〈[#「與芮」は底本では「與苪」。「元史」卷127第19丁に倣い修正。以後すべて同じ]〉、沂王乃猷、謝堂、楊鎭而下、官屬從行者︀數千人、三學之士數百人。五月乙未、伯顏以宋主至上都︀。世祺御大安閣受朝、降授宋主㬎〈[#「㬎」は底本では「※[#「日/𢆶」]」。「元史」卷127第19丁に倣い修正]〉開府儀同三司檢校大司徒、封瀛國公、宋平」。
マルコポーロ馬兒科保羅の紀行第六十五章に、マンジ蠻子卽宋の國を伯顏の平げたることを述べて、まづ「マンジ蠻子の大國に、[422]フアクフル發克富兒と稱へらるゝ王主君ありて、その富の大なることと臣民の數と領地の廣さとは、カガン大合罕を除きては、全世界にそれより大なるもの稀なるほど、盛大なる君なりき」。フアクフル發克富兒またバグブル巴固不兒は、ペルシヤ珀兒沙・アラビア阿喇必亞の古き記錄に支那の帝を呼べる稱號なり。「天の子」なる天子の稱號をペルシヤ珀兒沙の古言にてバグブル巴固普兒「神︀の子」と譯したるなりとノイマン諾依曼云へり。「然れどもその地の民は、軍人よりはむしろ外のものなりき。彼等の樂みは、女にありて、女の外には樂みなかりき。誰よりも王みづからは、その通りにて、貧民を惠むことを除きては、女の外何事をも考へざりき」。この好色の王は、伯顏の南征の年に崩じたる宋の度宗を云へるなり。續綱目に「帝爲太子時、以好內聞。旣立、耽于酒色。故事、嬪妾進御、晨詣閤門謝恩、主者︀書其月日。及帝之初、一日謝恩者︀三十餘人」とあり。「クリスト克哩思惕降生の一二六八年、今位に居るカガン大合罕は、バヤンチンクサン伯顏丞相と云ふ大名を彼の地に遣しき。バヤンチンクサン伯顏丞相は、バヤンヒヤクマナコ伯顏百眼と云ふが如し」。この紀年誤れり。一二六八年は、至元五年、宋の度宗咸淳四年にして、その年襄陽に攻めかゝりたるは、アチユ阿朮・劉整なり。伯顏の南征は、至元十一年、の咸淳十年、卽一二七四年より始まれり。「マンジ蠻子の王は、ヒヤクマナコ百眼ある人の爲にの外、その國を失ふことなけんと星命家の云へるを聞きたりき。かくて百眼ある人の世にあるべしとは信ぜられざる故に、みづからその位を安全なりと思ひき。然れどもこれは伯顏の名を知らざるが爲に誤れるなりき」。伯顏を百眼と云へるは、バエン百眼の音はバヤン伯顏に近きが故に、バヤンチングシヤン伯顏丞相をバエンチングシヤン百眼丞相と誰かのしやれたるなり。然るをマルコ馬兒科は、ヒヤクマナコチンクサン百眼丞相と云はずして、バヤンヒヤクマナコ伯顏百眼と云へるは、丞相をヒヤクマナコ百眼と解したるが如く聞ゆる故に、ユール裕勒は「もし然らば、馬兒科の支那語を知らざるの證據、これより確なるは無し」と云へり。これに善く似たるしやれは、輟耕錄にもあり。卷一に江南謠」と題して、「汲郡王公玉堂嘉話云、宋未下時江南謠云、「江南若破、バヤン百鴈󠄁來過」。當時莫喩其意。及宋亡。蓋知指丞相伯顏也」とありヤン顏とヤン鴈󠄁との違は、顏は平聲、鴈󠄁は去聲なるのみなり。「この伯顏は、大合罕より騎兵步兵の大軍を與へられ、それを率ゐて蠻子に入りき。又必要なる時に騎兵步兵を運ばんが爲に、夥しき舟を持ちけり。バヤン伯顏その衆を率ゐてマンジ蠻子の地に入り、コイガンヂユ匯干主(ホインガンジユ淮安州卽淮安府)の城に至れる時、その民に大合罕に降れと諭したれども、從はざりき。そこに伯顏は、他の城に往きて、同じ結果に遇ひしかども、大合罕の、他の大軍を遣して續かしむることを知りたる故に、猶進み往きけり。かくて五つの城に引續きて進みたれども、それらの攻擊にかゝることを欲せず、又それらはみづから降らざる故に、それらの一つをも取らざりき。されども第六の城に至れる時、襲ひてそれを取り、第二第三第四をも然して、遂に引續き十二の城を取りき。それらの城を皆取りたる時に、直ちに王王后の宮所なる王國の都︀城キンサイ勤賽に進みき。王は、バヤン伯顏の衆を率ゐて來ぬるを見し時に、かゝる景況を見慣れざれば、大に懼れて、人民の大衆を伴なひ、千の船に乘りて、大洋の海︀の島に遁れたるに、王后は、城に殘りて、力の及ぶ限勇婦の如く城の防禦を計りき。今王后は、敵將の名を問ひて、バヤンヒヤクマナコ伯顏百眼と名づけらるゝことを吿げられたる時、ヒヤクマナコ百眼の人は王國を奪ひ取るべきことを星命家の豫言したりしことを想ひ起しければ、みづからバヤン伯顏に降り、全き王國あらゆる城ども寨どもを渡して、少しも抵抗せざりき」。王王后は、宋帝の夫妻に非ず。この時の宋帝は、度宗の幼子㬎、六歲の幼主にて、皇后は無く、皇太后全氏と太皇太后謝氏とありき。キンサイ勤賽は、ユール裕勒の注に「卽キンシ京師にて、一一二七年より宋の都︀となりし臨安卽今の杭州を云へるなり。この名は、固有名詞の如くなりて、永く杭州に附き居たりと見えて、一五九五年旅行者︀カルレツチ喀兒列提の支那地圖に、猶この名にて記され、カルレツチ喀兒列提はカムセ坎薛と寫せり。カムセ坎薛は、第十四世紀にマリグノリ馬哩固諾里の用ひたるカムサイ坎賽と形甚近し」と云へり。されども宋は杭州を臨安府と改めたれども、假の皇居なるが故に、京師と云はずして、行在と云へり。世祖︀紀至元十四年十一月の處に「命中書省、檄諭中外、江南旣平、宋宜曰亡宋、行在宜曰杭州」とあり。キンサイ勤賽、又はカンサイ勘賽、カンザイ看在、マリグノリー馬哩固諾里のカムサイ坎賽は、[423]みなヒンザイ行在又はハンザイ行在の訛なり。王の海︀島に遁れたるは、益王・廣王の遁れたるを誤り聞けるなり。殘りてバヤン伯顏に降れる后は、太皇太后なり。王國城寨を渡せりとは、州郡に諭す手詔を下せるを云ふ。
バヤン伯顏は、宋を平げて還り、同知樞密院となり、至元十四年、叛王シリギ昔里吉を討じ、オルホン斡魯歡河にて擊破り、十八年、燕王(皇太子チンキム眞金)に從ひ、北邊を鎭し、二十二年、宗王アヂギ阿只吉の律を失へる時、代りてその軍を統べ二十四年、宗王ナヤン乃顏の反ける時、世祖︀の親征に從ひ、二十六年、知樞密院事を以てホリム和林を鎭し、三十一年正月、世祖︀崩じ、バヤン伯顏百官を總べて、成宗(皇太子チンキム眞金の子テムル帖木兒)を擁立し、五月太傅となり、軍國の重事を錄し、十二月薨じき。
列傳卷十六(元史一二九)、アタハイ阿塔海︀の傳に「アタハイ阿塔海︀、スンドス遜都︀思人。祖︀タハイバードル塔海︀拔都︀兒驍勇善戰、嘗從太祖︀、同飮黑河水、以功爲千戶」とあるタハイバードル塔海︀拔都︀兒は、功臣の第二十四なるスルドス速勒都︀思のタカイ塔孩なり。タハイ塔海︀の子ブハ卜花、ブハ卜花の子アタハイ阿塔海︀、皆千戶の職を襲ぎけり。アタハイ阿塔海︀は、憲宗の時、大帥ウリヤンカダイ兀良合歹(卽スブタイ速不台の子ウリヤンカタイ兀良合台)に從ひ、雲南を征し、至元九年、襄陽の城攻に與り、十二年、丞相バヤン伯顏の軍に會して、池州に克ち、アチユ阿朮と共に、張世傑の舟師を焦山の下に敗り、又バヤン伯顏の中軍に屬し、常州に克ち、平江を降し、十三年宋主母后を以て入覲せり。「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風舟壞、喪師十七八」とあるは、紀年誤れり。世祖︀紀日本傳に據るに、日本を侵して失敗したるは、至元十八年(我が弘安四年)八月なり。行省丞相の事は、日本傳にも「二十年、命アタハイ阿塔海︀、爲日本省丞相」とあれども、世祖︀紀二十年正月の處に「以阿塔海︀依舊爲征東行中書省相」とあれば、十八年六月、日本行中書省の右丞相(本傳誤りて左丞相)アラハン阿剌罕卒して、アタハイ阿塔海︀代れる時、嘗て丞相となりしならん。右か左か確ならず。二十四年、世祖︀に從ひてナヤン乃顏を征し、二十六年に卒しき。その子アリマ阿里麻は、江南諸︀道行御史臺の御史大夫。
五。ヂヤライル札剌亦兒のユルカン余魯罕。
列傳卷十八(元史一三一)、アウルチ奧魯赤の傳なるその祖︀シユルハン朝魯罕は、功臣の第四十五なるユルカン余魯罕なり。「アウルチ奧魯赤、ヂヤラタイ札剌台人。曾祖︀ホホチヤ豁火察、驍果善騎射。太祖︀出征、毎提精︀兵前驅。祖︀シユルハン朔魯罕、有膽力。嘗被讒、不許入見。一日俟駕出、趨前曰「臣無罪。若果有罪、速殺︀臣、臣將從先帝於地下。不然赦臣、願得自効」。帝笑而復用之。辛未(太祖︀六年)、與金人戰于野狐嶺、中流矢、戰愈力、克之。旣還、拔矢、血出昬眩。帝親撫視︀、傅以藥、竟不起。帝悲悼曰「シユルハン朔魯罕、朕之一臂。今亡矣」。賜其家馬四百匹、錦綺萬段」。シユルハン朔魯罕の子にしてアウルチ奧魯赤の父なるテムタイ忒木台も、太祖︀太宗に仕へたり。その事は、下の第一〇〇頁に云ふべし。
列傳卷十九(元史一三二)、メリ麥里の傳なるその祖︀セリゲノヤン雪里堅那顏は、功臣の第二十二なるシルカイ失魯孩なるべし。「メリ麥里、チエウダイ徹兀臺氏。祖︀セリゲノヤン雪里堅那顏、從太祖︀、與ワンハン王罕戰、同飮バンヂン班眞河水、以功授千戶、領チエリタイ徹里臺部、征討諸︀國、卒于河西」。チエウタイ徹兀臺・チエリタイ徹里臺、いづれか一つの誤あらん。チエウタイ徹兀臺のウ兀は、ル兒の誤か。又はウ兀は誤らずして、リ里はク黑の誤か。祕史にはこれに似たる姓見えず。「父メギ麥吉襲職、從太宗、定中原、以疾卒。メリ麥里襲職、從定宗、略定キムチヤ欽察・アス阿速・オルス斡魯思諸︀國。從憲宗、伐宋有功。世祖︀卽位、諸︀王ホフ霍忽〈[#ルビの「ホフ」は底本では「オフ」。以後の同ルビがすべて「ホフ」とあることに倣い修正]〉叛、掠河西諸︀城。メリ麥里以爲「帝初卽位、而王爲首亂、此不可長」。與其弟サングダル桑忽荅兒、率所部擊之、一月八戰、奪其所掠ヂヤライル札剌亦兒・トトレン脫脫憐諸︀部民以還。已[424]而サングダル桑忽荅兒爲ホフ霍忽所殺︀。帝聞而憐之、遣使者︀、以銀鈔羊馬迎致メリ麥里、賜號曰ダラハン荅剌罕、尋卒」。メリ麥里は、メリク蔑里克の略なり。從定宗は、太宗八年の西征、從憲宗は、憲宗八年の南伐なり。諸︀王ホフ霍忽は、世系表定宗の第三子ホフ禾忽大王、シハン昔班の傳のホホ火和大王、李庭の傳の叛臣ホフ霍虎なり。至元中諸︀王ハイド海︀都︀の叛ける時、ホホ火和大王もその黨なることは、シハン昔班の傳に見え、李庭の傅には「庭至ハラホリム哈剌和林・コングル晃兀兒之地、越嶺北、與サリマン撒里蠻諸︀軍大戰敗之、移軍河西、擊走叛臣ホフ霍虎、追至大磧而還」と見えたれども、世祖︀卽位の初に叛きたることは、本紀諸︀傳に見えず。世祖︀紀中統元年アリブカ阿里不哥の亂に「九月、アランダル阿藍荅兒率兵至西涼府、與クンドハイ渾都︀海︀軍合。詔諸︀王カダンカビチ合丹合必赤、與總帥汪良臣等、率師討之。丙戌、大敗其軍于姑臧、斬阿藍荅兒及渾都︀海︀、西土悉平」とあり。霍忽王は、果して中統の初に叛きしならば、アリブカ阿里不哥に黨して、アランダル阿藍荅兒等に應じたるならん。
列傳卷二十(元史一三三)、ボランヒ孛蘭奚の傳なるとの祖︀モンゲ忙哥は、貢錄四一〇頁に見えたるチヤアダイ察阿歹の傅モンケ蒙客にて、功臣の第三十七なるムゲ木格なるべし。ウイダル畏荅兒の傅なるモンゲ忙哥、太宗紀のモンクハンヂヤ蒙古漢︀札、祕史のモンケハルヂヤ蒙可哈勒札は、ベレジン別例津の史にムルゲハルヂヤ木勒格哈勒札とあれば、親征錄のムゲハンヂヤ木哥漢︀札は、ル勒の音を略きたるなり。又祕史卷四なるムルケトタク木勒客脫塔黑、ボト孛禿の傳のモリトト磨里禿禿を、親征錄にムゲ慕哥とあるも、ル勒の音を略きたるなり。然らばこゝのモンゲ忙哥・モンゲ蒙客も、正しくはムルゲ木勒格・ムルケ木勒客にして、祕史にはル勒の字を略さたる例なければ、功臣のムゲ木格は、ム木の下ル勒の字を脫したるならん。その傳に曰く「ボランヒ孛蘭奚、ヨンギレ雍吉烈氏、世居應昌。祖︀モンゲ忙哥、以后族備太祖︀宿衞」とあれば、モンゲ忙哥は、オンギラト翁吉喇惕の一人にて、デイセチエン德薛禪の族なり。「父リユシ律實、狀貌魁偉、有謀、善騎射。太宗甞問以軍旅之事、應對稱旨、卽命爲千戶」。リユシ律實始めて千戶となれるが如く聞ゆれども、モンゲ忙哥は果して功臣のムゲ木格ならば、太祖︀の時已に千戶となり、リユシ律實はその職を襲ざたるならん。「尋以爲齊王府司馬。後從睿宗伐金有功、詔還宿衞、以疾卒」。齊王とは、ヂユチカツサル拙赤合撒兒の子エスンゲ也松格を云へるなり。世系表にイシヤンゲ移相哥大王の子シドル勢都︀兒王、シドル勢都︀兒の子齊王バブシヤ八不沙ありて、諸︀王表齋王の下に「バブシヤ八不沙、大德十一年封」とあり。バブシヤ八不沙齊王に封ぜられたるに由り、その父祖︀までも泝りて齊王と云へり。「ボランヒ孛蘭奚、英邁有父風、‥‥從軍有功、襲父官爲齊王司馬。世祖︀親征ナヤン乃顏、以齊王兵從。兵始交、ボランヒ孛蘭奚躍馬陷陣、斬其旗、所向披靡、云云」。この時の齊王は、年代より考ふれば、シドル勢都︀兒王なるに似たり、然るにこのシドル勢都︀兒王は、世祖︀紀至元二十四年四月諸︀王ナヤン乃顏の反ける時、「六月、諸︀王シドル失都︀兒所部テゲ鐵哥、率其黨、取咸平府、渡遼、欲劫取豪懿州」、「七月、ナヤン乃顏黨シドル失都︀兒犯咸平」、と見え、トトハ土土哈の傳に「世祖︀親征ナヤン乃顏、遣使命トトハ土土哈、收其餘黨。沿河而下、遇叛王テゲ鐵哥軍萬騎、擊走之」とあるテゲ鐵哥も、シドル失都︀兒の所部なれば、シドル失都︀兒卽シドル勢都︀兒は、ナヤン乃顏の黨にして、世祖︀の親征に從へるに非ず。然らばボランヒ孛蘭奚のみ、その主より離れて世祖︀に從ひたるにや。又このシドル勢都︀兒は、ラシツト喇失惕の史に、エメゲン額篾根の子、エシンゲ也生哥(イシヤンゲ移相哥〈[#ルビの「イシヤンゲ」は底本では「トシヤンゲ」。以後の同ルビがすべて「イシヤンゲ」とあることに倣い修正]〉)の孫とし、世系表と異なれば、世系表は誤れるにて、イシヤンゲ移相哥の嗣子、齊王バブシヤ八不沙の父は、別に有りて、シドル勢都︀兒の叛に與せざりしにや。又ドーソン多遜に據れば、至元二十五年に平げられたるナヤン乃顏の餘黨の內にはシドル勢都︀兒もありて、シドル勢都︀兒は遂に殺︀されたりと云へれども、本紀諸︀傳にはガタントルガン合丹禿魯干等のみありて、シドル勢都︀兒なく、至元二十九年正月「賜諸︀王シドル失都︀兒金千兩」と本紀に見ゆれば、蓋二十四年敗北の後罪を悔︀いて歸順したるならん。
八。ケレイド客咧亦惕のシラクル失喇忽勒、トブカ脫不合兄弟。
列傳卷二十一(元史一三四)、エツセンブハ也先不花の傳なるその祖︀シラオフル失剌斡忽勒、伯祖︀トブハ脫不花は、功臣の第六十七なるシラクル失喇忽勒、第七十四なるトブカ脫不合なり。「エツセンブハ也先不花、蒙古ケレイ怯烈氏。祖︀曰シラオフル昔剌斡忽勒、兄弟四人、長曰トブハ脫不花、次曰[425]ケレイゲ怯烈哥、季曰ハラアフラ哈剌阿忽剌。方太祖︀微時、ケレイゲ怯烈哥已深自結納。後兄弟四人、皆率部屬來歸。太祖︀以舊好遇之、特異他族、命爲ビヂエチ必闍赤長、朝會燕饗、使居上列」。功臣の中にケレイゲ怯烈哥の名見えざるは、太祖︀卽位の頃には已に歿したるなるべし。「シラオフル昔剌斡忽勒早世、其子ボルホン孛魯歡、幼事睿宗入宿衞。憲宗卽位、與モンゲサル蒙哥撒兒、密贊謀議、拜中書右丞相、遂專國政。賜眞定之束鹿、爲其食邑。至元元年、以黨附アリブカ阿里不哥、論罪伏誅。子四人、長曰エツセンブハ也先不花云云。エツセンブハ也先不花、初世其職、爲ビチエチ必闍赤長」、又燕王チンキム眞金の傅となりき。ボルホン孛魯歡は、憲宗紀元年卽位の條に「以ボルカ孛魯合掌宣發號令、朝覲貢獻、及內外聞奏諸︀事」とある人なり。ラシツト喇失惕は、ボルガイ孛勒該と呼び、その官は大ビチクチ必提克赤にて、財政と內政とを掌ると云へり。ビチクチ必提克赤は、卽元史のビヂエチ必闍赤にて、兵志一に「爲天子主文史者︀、曰ビチエチ必闍赤」と云ひ、百官志一中書省の掾屬に蒙古ビヂエチ必闍赤二十二人、六部の蒙古ビチエチ必闍赤は、吏部に三人、戶部に七人、禮部兵部に各二人、刑部に四人、工部に六人あり。元史語解は、ビチエチ筆且齊卽ビチエチ必齊頁齊と改めて、寫字人なりと注せり。今の淸の官制にては、この寫字人をビテチ筆帖式と云ふ。後には寫字人となりたれども、初は尙書の如き大官にして、黑韃事略徐霆の疏證に「イラ移剌(楚材)及チンハイ鎭海︀、自號爲中書相公、總理國事。韃人無相之稱、只稱之曰ビチエチエ必徹徹。ビチエチエ必徹徹者︀、漢︀語令史也。使之主行文書爾」とあり。太宗三年八月、一時は中書令中書左右丞相の官を設けたれども、その名は漢︀人の間に用ひられたるのみにして、蒙古人は舊の如くビヂエチ必闍赤又はエケビヂエチ也客必闍赤と云ひ居たるなり。憲宗紀二年の末に「以ボルカ孛魯合掌ビヂエチ必闍赤、寫發宣詔及諸︀色目官職」とあるは、元年の文と重複(例の重複)したるにて、卽傳の右丞相となれることなり。エツセンブハ也先不花の「世其職」とあるも、祖︀父シラオフル昔剌斡忽勒の職のみならす、父ボルホン孛魯歡の職をも襲ぎたるなり。ボルホン孛魯歡伏誅の事は、世祖︀紀至元元年八月「アリブカ阿里不哥、自シムト昔木土之敗、不復能軍、至是與諸︀王ユロンダシ玉龍荅失・アスダイ阿速帶・シリキ昔里給、其所謀臣ブルハ不魯花・フチヤ忽察・トマナリ禿滿阿里・チヤトフス察脫忽思等來歸。詔「諸︀王、皆太祖︀之裔」、竝釋不問、其謀臣ブルハ不魯花等皆伏誅」とあり。ブルハ不魯花は、卽ボルホン孛魯歡なり。エツセンブハ也先不花〈[#ルビの「エツセンブハ」は底本では「エツブハ」]〉は、至元二十三年、雲南諸︀路行中書省の平章政事。大德二年湖廣行省に遷り、九年湖廣行省の左丞相。長子イレヂン亦憐眞は、湖南行省の左丞相。次子トル禿魯は、中書右丞相。
列傳卷二十二(元史一三五)、フド忽都︀の傳なるその父ボハン孛罕は、功臣の第四十一なるボゲン孛堅なり。フド忽都︀、蒙古ウロダイ兀羅帶氏。父ボハン孛罕、事太祖︀、備宿衞。至太宗時、爲鎭西行省、領蒙古漢︀軍、從攻河中潼關河南、與バアイチス拜只思・ヂヤフダイ札忽歹・アスラン阿思蘭、攻秦鞏及仁和諸︀堡、又與バアイチス拜只思守京兆。歲乙未(太宗七年)、授左手萬戶。從都︀元帥ダハイケンブ荅海︀鉗卜出征、卒軍中憲宗命フド忽都︀將其軍云云」。ウロダイ兀羅帶は、輟耕錄蒙古七十二種の中なるウロダイ兀羅歹なり。祕史には、この姓見えずフド忽都︀は、憲宗世祖︀に事へ、屢軍功を立て、その弟フドダリ忽都︀荅立、子ヂヤフダイ札忽帶、その職を襲ぎけり。
同卷フリンシ忽林失の傳なるその曾祖︀ブルハンヂヤ不魯罕罕剳は、功臣の第二十八なるブルカン不魯罕なり。「フリンシ忽林失、バルラダイ八魯剌䚟氏。曾祖︀ブルハンヂヤ不魯罕罕剳、事太祖︀、從平諸︀國、充バルラス八魯剌思千戶、以其軍與ダイチウン太赤溫等戰、重傷墜馬。帝親勒兵救之。以功陞萬戶、賜黃金五十兩、白金五百兩、俾直宿衞」。バルラダイ八魯剌䚟氏は、卽バルラス巴嚕剌思姓、ハンヂヤ罕剳は、卽ハルヂヤ哈勒札にて一種の稱號、タイチウン太赤溫等は、卽タイチウト泰赤兀惕なり。ブルハン不魯罕の子ヲルタイ許兒台は、太宗の時、定宗に從ひ、キムチヤ欽察を征し、憲宗の時、世祖︀に從ひ宋を伐ち、毫州に戰ひ、孫オンギラダイ翁吉剌帶は、世祖︀に從ひ、アリブガ阿里不哥を征し、曾孫フリンシ忽林失は、從ひて叛王ナヤン乃顏を征し、皇孫テムル帖木兒に從ひ、叛王ハイド海︀都︀・ドワ都︀瓦等と戰ひ、成宗の時、叛王オロス斡羅思・チヤバル察八兒等と戰ひ、フリンシ忽林失の子エンブルン燕不倫は、致和元年文宗を迎ふる謀に與り、天曆元年、屢ワンチエン王禪の兵と戰ひ、知樞密院事となりき。[426]
十一。オロナル斡囉納兒のキシリク乞失里克。
列傳卷二十三(元史一三六)、ハラハスン哈利始孫の傳なるその曾祖︀キシリ啓昔禮は、功臣の第五十六なるオロナル斡囉納兒のキシリク乞失里黑なり。「ハラハスン哈剌哈孫、オラナル斡剌納兒氏。曾祖︀キシリ啓昔禮、始事ワンカガン王可汗・トオリン脫斡璘。ワンカガン王可汗與太祖︀約爲兄弟。及太祖︀得衆、陰忌之、謀害太祖︀。キシリ啓昔禮潛以其謀來吿。太祖︀乃與二十餘人一夕遁去。諸︀部聞者︀多歸之、還攻滅王可汗、併其衆、擢啓キシリ昔禮爲千戶、賜號ダラハン荅剌罕。從半河西西域諸︀國」。ワンカガン王可汗・トオリン脫斡璘は、卽ワンカン王罕・トオリル脫斡哩勒〈[#「王罕・脫斡哩勒」は底本では「王罕脫・斡哩勒」。実録に倣い修正]〉、兄弟は父子の誤なり。「祖︀ボリチヤ博理察、太宗時、從太弟睿宗、攻河南、取汴蔡、滅金、賜順德以爲分邑。父ノンガタイ囊加台、從憲宗伐蜀、卒于軍」。者︀異に劉敏︀中の撰れる順德の忠獻王(ハラハスン哈剌哈孫)の碑を引きて、「ボリチヤ博理察・ノンガタイ囊加台、皆襲ダラハン荅剌罕之號」とあり。「ハラハスン哈剌哈孫、威重不妄言笑、善騎射、工國書、又雅重儒術。至元九年、世祖︀錄勳臣後、命掌宿衞、襲號ダラハン荅剌罕。自是人稱ダラハン荅剌罕而不名」。哈剌哈孫は、成宗の朝の名相にしで、至元二十二年大宗正、二十八年湖廣行省の平章政事、大德二年中書左丞相、七年右丞相、十一年武帝卽位の後太傅右丞相にてホリム和林省の事を行ひその年薨じき。子トホン脫歡は、ダラハン荅剌罕の號を襲ぎ、江浙行省の左丞相。
十二。コンゴタン晃豁壇のモンリク蒙里克・エチゲ額赤格、トルン脫侖・チエルビ扯兒必。
列傳卷八十忠義一(元史一六八)、ババ伯八の傳に「ババ伯八、ルカダン兒合丹氏。祖︀ミンリ明里・エチゲ也赤哥、嘗隸太祖︀帳下。初ケレイ怯列・ワンカガン王可罕、與太祖︀爲鄰國、誓相親好。旣而敗盟、與其子センクン先髠潛謀、欲襲太祖︀。因遣使通問、許以女妻太祖︀弟カツサル合撒兒至期、太祖︀欲往。ミンリエチゲ明里也赤哥疑其詐、諫止之。ワンカカン王可罕知謀泄、遂謀入寇。後爲太祖︀所滅。父トルン脫倫・チエリビ闍里必、扈從太祖︀、征西域、累立奇功」とあり。ルカダン兒合丹氏のル兒は、コン晃の誤寫にて、卽コンゴタン晃豁壇氏なり。ミンリ明里・エチゲ也赤哥は、功臣の第一なる見豁壇のモンリク蒙里克・エチゲ額赤格、トルン脫倫・チエリビ闍里必は、功臣の第十二なるトロン脫欒卽トルン脫侖・チエルビ扯兒必なり。ケレイ怯列のワンカガン王可罕は、太祖︀紀のケレイ克烈部長ワンハン汪罕、祕史のケレイト客咧亦惕のワンカン王罕なり。センクン先髠は、太祖︀紀のイラカ亦剌合、祕史のニルカ儞勒合・サングン桑昆なり。太祖︀弟カツサル合撒兒は、太祖︀紀と祕史とに據るに、長子チユチ朮赤の誤なり。トルン脫倫の子ババ伯八は、世祖︀の時、萬戶となり、諸︀部の軍馬を領ゐてケムケムヂユ欠欠州(ケムケムヂユク客姆客姆主克)を守りしが、至元十二年、親王シレギ昔列吉・トテムル脫鐵木兒叛ける時襲はれて死し、その子バラ八剌は、讎を報いんとして成らず、弟ブランヒ不蘭奚と共にトテムル脫鐵木兒に執へ殺︀されき。世系表に據るに、シレギ昔列吉は、憲宗の子河平王シリギ昔里吉、トテムル脫鐵木兒は、テムゲオチギン鐵木哥斡赤斤の曾孫トテムル脫帖木兒大王ならん。
その外列傳卷十七(元史一三〇)に「オンヂヤイ完澤、トベエン土別燕氏。祖︀トセ土薛、從太祖︀、起朔方、平諸︀部。太宗伐金、命太弟睿宗、由陝西進師、以擊其不備、トセ土薛爲先鋒。遂去武休關、越漢︀江、略方城而北、破金兵于陽翟。金亡、從攻興元閬利諸︀州、拜都︀元帥。取宋成都︀、斬其將陳隆︀之、賜食邑六百戶」。食貨志歲賜の篇に「トセ禿薛官人、丁巳年分撥興元等處種田六百戶」とあるトセ土薛卽トセ禿薛は、功臣の第七十二なるトサカ脫撒合ならんと思へども、確ならず。土薛の子センヂン線眞は、中統四年中書右丞相。センヂン線眞の子オンヂヤイ完澤は、至元二十八年中書右丞相。大德七年薨じき。
又列傳卷十九(元史一三二)に「ブルカダ步魯合荅、蒙古ホンギラ弘吉剌氏。祖︀アンヂユヌ按主奴、太宗時、率蒙古軍千人、從諸︀王チヤガタイ察合台、征河西、至山丹、攻下定會階文諸︀州、以功爲元帥、佩金符。駐軍漢︀陽禮店、成守西和階文南界、及西蕃邊境、換金虎符、眞除元帥」とあり。河西は、卽西夏にして太祖︀の末年に亡びたれば、太宗の時とあるは太祖︀の時の誤なるべし。このアンジユヌ按主奴は、功臣の第七十五なるアヂナイ阿只乃ならんかと思はる。按主奴の子チエリ車里、孫ブルカダ步魯合荅は、みな武功を以て顯れき。[427]
その他の功臣にして元史の本紀列傳にその名散見したるもの十六七人あり。
太祖︀紀にヂエベ哲別又はヂエベ遮別と書き、諸︀傳に色色なる文字にて書かれたるは、功臣の第四十七なるベスト別速惕のヂエベ者︀別なり。洪釣の元史譯文證補十八のヂエベ哲別補傳は、面白く出來たり。
太祖︀紀にバダイ把帶、ムカリ木華黎の傳にバダイ拔台、食貨志歲賜の篇にバダツ八荅子とあるは、功臣の第五十五なるバダイ巴歹なり。
三。ウリヤンカン兀哴罕のヂエルメ者︀勒篾。
太祖︀紀にヂエリメ折里麥、列傳第八なるモンゲサル忙哥撒兒の傳にウリヤンカンヂエリマ兀良罕哲里馬とあるは、功臣の第九なるウリヤンカン兀哴罕のヂエルメ者︀勒篾なり。
四。ヂヤライル札剌亦兒のアルカイカツサル阿兒孩合撒兒。
太祖︀紀のアリハイ阿里海︀は、ヂヤライル札剌亦兒のアルカイカツサル阿兒孩合撒兒なるが、功臣の第五なるイルガイ亦魯該も、恐らくはその人ならん。
太祖︀紀ナイマン乃蠻最後の役に「先遣フビライ虎必來・ヂエベ哲別二人爲前鋒」とあるクビライ虎必來は、功臣の第八なるバルラス巴嚕剌思のクビライ忽必來なり。
六。ウワスメルキト兀注思篾兒乞惕のダイルウスン荅亦兒兀孫。
メリキ篾里乞部を平げたる時「其屬ダイルウスン帶兒兀孫獻女迎降」とあるは、ウワスメルキト兀注思篾兒乞惕のダイルウスン荅亦兒兀孫なるが、功臣の第三十六なるダイル荅亦兒は、その人なるか疑はし。
七。オンギラト翁吉喇惕のチググレゲン赤古古咧堅。
德興府の戰に「皇子トルイ拖雷、駙馬チグ赤駒先登拔之」太宗紀八年に駙馬チク赤苦、公主表に「トマンルン禿滿倫公主適チク赤窟駙馬」とあるは、功臣の第八十五なるオンギラト翁吉喇惕のチググレゲン赤古古咧堅なり。
八。タタル塔塔兒のシギフドフ失吉忽禿忽。
太祖︀十年五月「遺クドク忽都︀忽等、籍中都︀帑藏」、十七年夏、西域主ヂヤランヂン札闌丁を追へる時「クトク忽都︀忽與戰不利、」太宗六年七月「以クトフノヤン胡土虎那顏爲中州斷事官、」七年春「皇子クチユ曲出及クトフ胡土虎代宋」その外諸︀傳に屢見えたるクトフ胡都︀虎、クドフ忽都︀虎は、功臣の第十六なるタタル塔塔兒のシギフドフ失吉忽禿忽なり。[428]
九。ヂヤライル札剌亦兒のバラチエルビ巴剌扯兒必。
太祖︀十七年夏「ヂヤランヂン札闌丁遁去、遣バラ八剌追之、不獲」、十八年夏「バラ八剌之兵來會」とあるは、功臣の第四十九なるヂヤライル札剌亦兒のバラチエルビ巴剌扯兒必なり。憲宗卽位の前、アラトクラウ阿剌脫忽剌兀の會議に定宗の皇后ハイミシ海︀迷失の遺せる使者︀バラ八剌はモンケサル忙哥撒兒の傳にウイウ畏兀のバラ八剌とあれば、ヂヤライル札剌亦兒のバラ巴剌とも、功臣の第三十五なる巴剌斡囉納兒台とも異なり。
憲宗紀元年卽位の續に「エスント葉孫脫アンヂダイ按只䚟チヤンギ暢吉・ヂヤナン爪難・カダ合荅・クリン曲憐・アリチユ阿里出及ゴンギタン剛疙疸・アサンクドル阿散忽都︀魯等、務持兩端、坐誘諸︀王爲亂、竝伏誅」とあり。エスント葉孫脫は、實錄卷九、三七三頁と卷十二、六四八頁とに見えたるヂエルメ者︀勒篾の子エスントエ也孫脫額にして、箭筒士千人の長となりし人なり。アンヂダイ按只䚟は、卷九、三七四頁に見えたるイルガイ亦魯該の親族アルチダイ阿勒赤歹にして、一千の侍衞の長となりし人なり。チヤンギ暢吉は卷十二、六三八頁に見えたる官人ヂヤンギ掌吉にはあらずや。ジヤナン爪難は、卷十二、六四六頁に見えたるチヤナル察納兒にして、太宗の時にアマル阿馬勒と共に宿衞の第二班の長となりし人なり。
カダ合荅は、功臣の第八十四なるカダイグレゲン合歹古咧堅にして、實錄卷十二には、太宗の時にゴリカチヤル豁哩合察兒と共に宿衞の第三班の長となり、公主表には延安公主位の處に「ホル火魯公主、適ハダ哈荅駙馬」とあり。ラシツト喇失惕に據れば、定宗の朝よりオグルガイミシ斡古勒該米失攝政の時まで、チンハイ鎭海︀・カダク喀荅克二人政を執りしが憲宗二年に殺︀されき。このカダク喀荅克は、卽カダ合荅なり。
クリン曲憐は、功臣の第八十二なるクリル忽哩勒なるべし。
アルチユ阿里出は、功臣の第七十一なるアルチ阿勒赤にして、スブタイ速不台の傳に、メリギ滅里吉征伐の命を受けたる時、「乃選裨將アリチユ阿里出、領百人先行、覘其虛實、スブタイ速不台繼進。速不台戒アリチユ阿里出曰「汝止宿、必載嬰兒具以行、去則遺之、使若掣家而逃者︀」。滅里吉見之果以爲逃者︀、遂不爲備」とあり。ゴンギタン剛疙疸は、コンゴタン晃豁壇にして、アサンクドル阿散忽都︀魯の姓なるべし。その人は外に見えず。
十三。ゴロラス豁囉剌思のセチヤウル薛潮兀兒。
列傳第七なるカスメリ曷思麥里の傳に「命與セチエウル薛徹兀兒爲ビジエチ必闍赤」とあるセチエウル薛徹兀兒は、功臣の第七十七なるゴロラス豁囉剌思のセチヤウル薛潮兀兒なり。
又功臣の第十九なるゴルゴスン豁兒豁孫は、實錄卷十、四一〇頁にゴルガスン豁兒合孫と書きて、グチユ古出・ココチユ闊闊出・チユンサイ種賽と四人、太祖︀の末弟オツチギン斡惕赤斤に傅けられたりとあり。列傳卷二十一に「サギス撒吉思、フイフ回鶻人、其國阿大都︀督ドコス多和思之次子也。初爲太祖︀弟オヂンノビジエチ斡眞必闍赤、領王傅。オヂン斡眞薨、長子ヂブガン只不干蚤世、適スンタチヤル孫塔察兒幼。庶兄トヂ脫迭狂恣、欲廢適自立。サギス撒吉思與ホルコスン火魯和孫、馳白皇后(攝政オウリハイミシカトン斡兀立海︀迷失合屯)乃授タチヤル塔察兒以皇太弟寶、襲爵爲王。サギス撒吉思以功與ホルコスン火魯和孫分治、黑山以南、サギス撒吉思理之、其北ホルコスン火魯和孫理之」とあるホルコスン火魯和孫は、卽ゴルカスン豁兒合孫なり。[429]
列傳卷三十六(元史一四九)なる郭寶玉の傳に、その子德海︀は、太祖︀昇遐の翌年太祖︀昇遐の翌年「戊子春、從元帥ココチユ闊闊出、游騎入關中」とあるは、功臣の第十八なるベスツト別速惕のココチユ闊闊出なり。
食貨志歲賜の篇にテゲ迭哥官人とあるは、功臣の第十一なるベスツト別速惕のデガイ迭該ならんか。
太祖︀の功臣數多き中にも、クビライ忽必來ヂエルメ者︀勒篾、ヂエベ者︀別、スゲタイ速格台のドルベンナガス朶兒邊那合思(四狗)、ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合黎、ボロクル孛囉忽勒、チラウン赤剌溫のドルベンクルウト朶兒邊曲魯兀惕(四駿)、ジユルチエダイク主兒扯歹忽、イルダル亦勒荅兒の兩前鋒は、太祖︀の殊に倚信せる股肱の臣なりき。ムカリ木華黎の傳に、木華黎薨じて子ボル孛魯嗣ぎたる後、「丙戌(太祖︀二十一年)夏、詔封功臣戶口爲食邑、日十投下、ボル孛魯居其首」と云ひ、ウイダル畏荅兒の傳に、太宗、ウイダル畏荅兒の子モンゲ忙哥の封戶少きを訝り、「其增封爲二萬戶、與十功臣同爲諸︀侯」と命じ、又忙哥の從孫ボロホン博羅歡の傳にも「時諸︀侯王及十功臣、各有斷事官。ボロホン博羅歡年十六、爲本部(モング忙兀部)斷事官」とあり。又列傳卷三十九(元史一五二)なる齊榮顯の傳に「授東平路總管府參議、兼領博州防禦使。時十投下議各分所屬、不隷東平。榮顯力辨於朝、遂止」とあるを見れば、十投下の功を負みて我儘なりしを知るべし。この十投下十功臣は、卽四狗四駿兩前鋒の十臣又はその子孫を云へるなり。十功臣の中にてクビライ忽必來・ヂエルメ者︀勒篾・ヂエベ者︀別・チラウン赤剌溫の四人は、元史に傳なし。チラウン赤剌溫は、功臣の第二十七なるスルドス速勒都︀思のソルガンシラ鎖兒罕失喇の子にして、父子共に勳勞ありしに、父は功臣に列して、子は列せざるは、チラウン赤剌溫早く死して、父のみ猶存したるが爲なるべし。元史には父子俱に傳なく、ソルガンシラ鎖兒罕失喇は、その名も見えざれども、チラウン赤老溫の名は、ボルチユ博爾朮・ムカリ木華黎・ボロフン博羅渾(またボルク博爾忽)と列なりて、太祖︀紀の外、ムカリ木華黎の傳、兵志宿衞の篇に見え、「號ドリバンクルウ掇里班曲律、猶言四傑也」と云へり。
太祖︀卽位の二年前、ナイマン乃蠻を伐たんとする時、モンクト忙忽惕のドダイ朶歹・ドゴルク朶豁勒忽兄弟、アルラト阿嚕剌惕のボオルチユ孛斡兒出の弟オゲレ斡格列、コンゴタン晃豁壇のモンリクエチゲ蒙里克額赤格の子トルン脫侖、姓の知れざるブチヤラン不察㘓、コンゴタン晃豁壇のシユイケト雪亦客禿の六人をチエルビン扯兒賓︀とし、六チエルビン扯兒賓︀と號し、親近の職を授けたり。この六人の內、ドダイチエルビ朶歹扯兒必卽ジエタイ者︀台は、功臣の第二十三、トルンチエルビ脫侖扯兒必卽トロン脫欒は、功臣の第十二、シエイゲトチエルビ雪亦客禿扯兒必卽スイゲト速亦客禿は、功臣の第三十一に列せり。元史にその名見えたるは、太宗紀二年の夏「ドクル朶忽魯及金兵戰、敗績、命スブタイ速不台援之」とあるは、ドゴルクチエルビ朶豁兒忽扯兒必なるべし。食貨志歲賜の篇にオコレジエリビ斡闊烈闍里必とあるは、オゲレチエルビ斡格列扯兒必なり。列傳卷四十王檝の傳に「帝(太祖︀)命ジエリビ闍里畢與皇太弟國王、分撥諸︀侯王城邑」とあるを、錢大昕の考異に「按ボルチユ博爾朮之弟、曰オコレジエリビ斡闊烈闍里必、疑卽傳之ジエリビ闍里畢也。皇太弟國王者︀、オチギン斡赤斤也」と云へり。
十八。コンゴタン晃豁壇のトルンチエルビ脫侖扯兒必。
トルンチエルビ脫侖扯兒必は、前に引けるババ伯八の傳に見えたる外に、ムカリ木華黎の傳に、太祖︀十年北京興中府を降したる後、「錦州張鯨聚眾十餘萬、殺︀節︀度使、稱臨海︀郡王、至是來降。詔木華黎、以鯨總北京十提控兵、從ドクラン掇忽闌、南征未附州郡」。列傳卷三十七(元史一五〇)なるシモエツセン石抹也先の傳に「又命エツセン也先、副トクランジエリビ脫忽闌闍里必、監張鯨等軍、征燕南未下州郡」。列傳釜三十八(元史一五)」なるシモボデル石抹孛迭兒の傅に、「又從トクランジエリビ奪忽闌闍里必、徇地山東大名」とあ[430]り。又列傳卷十なるハバルト哈八兒禿の傳に「憲宗時、從攻釣魚山有功、云云。從千戶トルン脫侖伐宋、沒于陣」とあるはトルンチエルビ脫侖扯兒必の時代と合はざるに似たり。
十九。タタル塔塔兒のシギクトク失吉忽禿忽の續。
功臣の第十五 十六 十七 十八なるヒユウヂン許兀愼のボロクル孛囉忽勒、タタル塔塔兒のシギクトク失吉忽禿忽、メルキト篾兒乞惕のコチユ古出、ベスツト別速惕のココチユ闊闊出四人は、宣懿太后の育て擧げたる拾ひ兒にして、太祖︀は弟の如く思ひて、親信他人と異なりしが、四傑に加はりたるボロクル孛囉忽勒卽ボルク博爾忽の外は、元史に傳なし。たゞシギクトク失吉忽禿忽の事は、前に引ける太祖︀紀太宗紀の文の外に、列傳卷二なる睿宗の傳に、太宗三年辛卯の十二月禹山の戰の後、「壬辰(四年)春、カダ合達等知トルイ拖雷已北、合步騎十五萬、躡其後。拖雷接兵、遣其將クドク忽都︀忽等誘之。日且暮、令軍中曰「毋令彼得休息、宜夜鼓譟以擾之」。云云」とありて、遂に三峯山の大捷を得たることを載せ、親征錄に三峯山の戰の後、「上至南京、令クドク忽都︀忽攻之」、木華黎の傳に附記せるその孫タス塔思の傳に「三月、帝北還、詔塔思、與クドフ忽都︀虎統兵略定河南諸︀郡」、列傳卷八なるチヤウス抄思の傳に三峯山の戰に功を立てたる後、「制受萬戶、與內侍クドフ胡都︀虎留、乞僉起西京等處軍人征行、及鎭守隨州」とあり。又親征錄に、太宗六年甲午金を滅ぼしたる後、「遣忽都︀忽主治漢︀民」とあるは、太宗紀の「秋七月、以クトフノヤン胡土虎那顏爲中州斷事官」を云へるにて、エリユソサイ耶律楚材の傳に「甲午、議籍中原民。大臣忽都︀虎等、議以丁爲戶。楚材曰「不可。丁逃、則賦無所出、當以戶定之」。爭之再三、卒以戶定」とあり。錢大昕の考異に未知切的主虎をシモミンガン石抹明安の次子なるクトカ忽篤奉ならんと疑ひたるは、シギクトク失吉忽禿忽の斷事官は太祖︀の命に本づきて蒙古より中州に遷りたることに心附かざりし爲ならん。列傳卷二十二なるテゲチユ鐵哥朮の傳にも、テゲチユ鐵哥朮の父エリチユ野里朮は、「兼長四環衞之必闍赤、壬辰從國兵討金、以戰功最多、賞賚優渥。甲午、副忽都︀虎、籍漢︀戶口、籌其賦役、分諸︀功臣以地。人服其敏︀」とあり。但功臣に地を分てるは、六年甲午にあらずして、下に引けるが如く八年丙申にあり。又列傳卷三十六なる郭寶玉の傳に附記せるその子德海︀の傳に「太宗詔大臣クドフ忽都︀虎等、試天下僧︀尼道士、選精︀通經文者︀千人、有能工藝者︀、則命小通事カチユ合住等領之、餘皆爲民、‥‥從德海︀之請也」とあるは、この頃の事なり。憲宗の時、劉秉忠の世祖︀に上れる書に「自クドノヤン忽都︀那演斷事之後、差徭甚大」と云へるを見れば、その政の何如を窺ふべし。七年乙未の春、皇子曲出と共に宋を伐ちたることは、列傳卷七のチヤガン察罕の傳に「皇子コチユクドト闊出忽都︀禿伐宋、命チヤガン察罕爲斥候、」列傳卷十六なるアラハン阿剌罕の傳に「父エリウガン也柳干、歲乙未、從皇子コチユクドト闊出忽都︀禿南征、」列傳卷二十なるトホン脫歡の傳に「父トドン脫端爲萬戶、從皇子コチユクドト闊出忽都︀禿、略汴宋睢宿等州」とあるは、いづれも虎を禿と誤りたるなり。列傳卷九なる鐵邁赤の傳に「從皇子閥出、忽都︀、行省鐵木荅兒、定河南、累有戰功」とあるは、クド忽都︀の下フ虎の字を脫したるなり。又列傳卷九なるシユチトルカ槊直瞃魯華の傳に「金亡、命大臣クドフ忽都︀虎、料民分封功臣」、親征錄に、乙未の夏「遺クチユクドク曲出忽都︀忽、籍到漢︀民一百二十萬有奇、遂分賜諸︀王城邑各有差」とあり。この事は、太宗紀にはこの年に載せざれども、八年丙申の六月「復括中州戶口、得續戶一百一十餘萬」、その七月「詔以眞定民戶奉太后湯沐、中原諸︀州民戶、分賜諸︀王貴戚」とあるは、卽その事にして、皆クドク忽都︀忽斷事官の取扱なり。ウイダル畏荅兒の傳に「歲丙申、クドク忽都︀忽大料漢︀民、分城邑、以封功臣」。エリユ耶律楚材の傳に、丙申の七月「クドフ忽都︀虎以民籍至、帝議裂州縣、賜親王功臣。楚材曰「裂土分民、易生嫌隙、不如多以金帛與之」。帝曰「己許、柰何」。楚材曰「若朝廷置吏、收其貢賦、歲終頒之、使母擅科徵、可也」。帝然其計、遂定天下賦稅」、とあり。楚材の傳と劉秉忠の上書の文とに依れば、クドク忽都︀忽の政は人意に滿たざる所ありしが如くなれども、世祖︀嘗て兵を典り民に宰たる者︀の害を爲すを憂へて、張德輝に問へる時、德輝對へて「莫如更遺族人之賢如クウンブハ口溫不花者︀、使掌兵權、勳舊則如クドフ忽都︀虎者︀、使主民政。若此、則天下均受賜矣」と云へる[431]を見れば、クドク忽都︀忽も、たゞに武斷を專にしたる人に非ざるに似たり。又列傳卷十なるユリマス月里麻思の傳に「歲丁丑、太宗命與斷事官クドノ忽都︀那同署︀」とあれども、太宗の世に丁丑の年なければ、丁丑は、太宗九年なる丁酉の誤にて、クドノ忽都︀那のノ那も、ク忽の誤なり。食貨志歲賜の篇に「クドフ忽都︀虎官人、五戶絲、壬子年査認過廣平等處四千戶とあるも、シギクトク失吉忽禿忽なり。
太祖︀卽位の時(實錄卷九三七三頁)に、千の宿衞の長となれるエケネウリン也客捏兀𡂰の名は、外には見當らざれども、その頃はコンゴタン晃豁壇の勢好き時にして、モンリクエチゲ蒙里克額赤格に子どもあまたありたれば、その子どもの內にてやあらん。
二。ウリヤンカン兀哴罕のエスンテエ也孫帖額、ヂヤライル札剌亦兒のブギダイ不吉歹、ゴルクダク豁兒忽荅黑、ラブラカ剌卜剌合。
同じ時に箭筒士の第一班の長にして千の箭筒士の總長を兼ねたる、ウリヤンカン兀哴罕のヂエルメ者︀勒蔑の子、エスンテエ也孫帖額、箭筒士の第二班の長にして總長の相談役となれる、ヂヤライル札剌亦兒のトゲ禿格卽トンゲ統格の子、ブギダイ不吉歹、箭筒士の第三班の長となれるゴルクダク豁兒忽荅黑、箭筒士の第四班の長となれるラブラカ剌卜剌合の四人は、太宗の時もその職を保てること、實錄六四八頁に見え、エスンテエ也孫帖額はエスントエ也孫脫額、ブキダイ不吉歹はブギダイ不乞歹、ラブラカ剌卜剌合はラバルガ剌巴勒合とあり。そのエスントエ也孫脫額は、憲宗元年にアンヂダイ按只䚟等と共に誅せられたるエスント葉孫脫なり。他の三人は、外に見當らず。
八千の侍衞の一千づゝの長八人の內、第二の一千の長にして第一班の宿老を兼ねたるムカリ木合里の弟ブカ不合は、功臣の第八十一なるブカグレゲン不合古咧堅にして、ムカリ木華黎の傳にはその名見えざれども、蒙韃備錄にムカ抹歌と書き、太師國王ムクル沒黑肋の弟、ダイスン帶孫郡王の兄として、「見在チンギス成吉思處爲護衞」と云へり。
第三の一千の長にして第二並の宿老を兼ねるるイルガイ亦魯該の親族アルチダイ阿勒赤歹は、太宗の時、コンゴルタカイ晃豁兒塔孩と共に第一班の宿老となり、太宗のグユク古余克を怒りたる時(實錄六三八頁)、諸︀王モンゲ忙格官人コンゴルタイジヤンギ晃豁兒台掌吉と共に建議したることありき。このアルチダイ阿勒赤歹も太祖︀の姪なる諸︀王アルチダイ阿勒赤歹も、元史にはアンチタイ按赤台又はアンヂダイ按只帶などありて、アル阿勒の音をアン按にて表はせり。列傳卷三十七なる張榮の傳に、榮はもと山東の地に竊據して居たりしが、丙戌の年(太祖︀二十一年)に「遂擧其兵與地、納款於アンチタイノヤン按赤台那衍」とあるは、このアルチダイ阿勒赤歹なり。又憲宗元年にエスント葉孫脫等と共に誅せられたるアンヂダイ按只䚟も、このアルチダイ阿勒赤歹にして、モンゲサル忙哥撒兒の傳にアンチタイ按赤台の亂を作さんとしたることを載せたり。後のアルヂギダイ額勒只吉歹の處に引くべし。
第六の一千の待衞の長なるウルウト兀嚕兀惕のヂユルチエダイ主兒扯歹親族チヤナイ察乃の名は、チユチタイ朮赤台の傳にもなし。
六。オンギラト翁吉喇惕のアクタイ阿忽台。
第七の一千の侍衞の長なるオンギラト翁吉喇惕のアルチグレゲン阿勒赤古咧堅の親族アクタイ阿忽台は、テイセチエン特薛禪の傳なるアンチンノヤン按陳那顏の弟ホク火忽にてもあらんか。ホク火忽の事蹟は、何も無し。只甲戌の年(太祖︀九年)、太祖︀デメケル迭篾可兒(テメエンケエル帖篾延客額兒、駱駝が原)に在せる時、アンチン按陳兄弟にノント農土(ノントク嫩禿黑、營盤の地)を分け賜ひて、ホク火忽には「ハラウン哈老溫迤東、塗河濱河之間、ホルチナ火兒赤納慶州之地、與イキレス亦乞列思爲隣、汝則居之」と諭しき。
七。ヂヤライル札剌亦兒のアルカイカツサル阿兒孩合撒兒。
第八の一千の侍衞の長なるヂヤライル札剌亦兒のアルカイカツサル阿兒孩合撒兒は、太祖︀紀のアリハイ阿里海︀なることは論なけれども、イルガイ亦魯該もその人ならんと云ひたることは疑はし。アルカイカツサル阿兒孩合撒兒は、金の中都︀陷ちたる時(實錄四五二頁)、オングル汪古兒、シギクトク失吉忽禿忽と三人にて、中都︀の帑藏を調べに遣されき。
宿衞を犯して拏へられたるエルヂギダイ額勒只吉歹(實錄三八一頁六四四頁)は姓も知れざる人なれども、ドーソン多遜の史にはイルチカダイノヤン亦勒赤喀歹那顏とありて、太祖︀西征の役にヘラト赫喇惕の叛民を殲滅したることを載せられ、太宗の時に至りては(實錄六四九頁)、眾の官人どもは、エルヂギダイ額勒只吉歹を長として、その命に從へと敕ありき。眾官の長は卽宰相にして、元史には、この人の宰相となれること見えざれども、黑韃事略には「其相四人。曰アンヂダイ按只䚟(原注。黑韃人、有謀而能斷)。曰イラ移剌楚材(原注。字晉卿、キタン契丹人、或稱中書侍郞)。曰ネンカチユンシヤン粘合重山(原注。女眞人或稱將軍)。共理漢︀事。曰チンハイ鎭海︀(原注。フイフイ回回人)。專理フイフイ回回國事」とあり。アンヂダイ按只䚟は、アルチダイ阿勒赤歹を云へるが如く聞ゆれども、アルチダイ阿勒赤歹は、番直の宿老に過ぎざる人にして、四相の首に列すべき筈なければ、このアンヂダイ按只䚟は、アンヂギダイ按只吉䚟の略稱なるべし。エルヂギ歹額勒只吉夕をアンヂギダイ按只吉歹とも云へることは、列傳卷九なるアンヂヤル按札兒の傳にも見え、又列傳卷十七なるチエリ徹里の傳にエンヂギタイ燕只吉台氏、列傳卷二十七なるベルケブハ別兒怯不花の傳にエンヂギダイ燕只吉䚟氏とありて、錢大昕の元史氏族表に「エンヂギタイ燕只吉台氏、亦作アンヂギダイ晏只吉䚟氏、蒙古世族也」とあり。これは姓なれども、その呼方は名と全く同じ。エンヂギダイ燕只吉䚟はエルヂギダイ額勒只吉歹、アンヂギダイ晏只吉䚟はアルヂギダイ阿勒只吉歹にして、エ額とア阿とは、蒙古話にては善く通ふ音なればエルヂギダイ額勒只吉歹をアルヂギダイ阿勒只吉歹とも云へることうつなし。イラ移剌楚材以下三相の事は、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、以エル耶律楚材爲中書令、ネンカチユンシヤン粘合重山爲左丞相、チンハイ鎭海︀爲右丞相」とありて、エルヂギダイ額勒只吉歹の名も無けれども、黑韃事略は、太宗三年に官命を定めたる前の事を記せるなれば、中書令左右丞相の名も無く、たゞ「其相四人」と云へるなり。このエルヂギダイ額勒只吉歹は、後に謀叛を以て誅せられたる人なれば、元史には傳をも立てず、その首相となれることまで本紀にも載せられざるなり。
ムカリ木華黎の孫タス塔思の傳に、庚寅(太宗二年)九月、武仙に潞洲を取られたる時、「冬十月、帝親征、遣萬戶インヂギタイ因只吉台、與タス塔思復取潞州、仙夜遁」とあるインヂギタイ因只吉台も、エルヂギダイ額勒只吉歹なり。「エン蕪」又は「アン按」の代りに「イン因」と云へるは、ドーソン多遜のイルチカダイ亦勒赤喀歹に近し。又アンヂヤル按札兒の傳には「帝率從弟アンヂギダイ按只吉歹、クウンブハ口溫不花大王、皇弟四太子、國王ボル孛魯、征潞州鳳翔釣州三峯山」とあり。この文は、甚混亂なり。太宗の從弟と云へば、諸︀王アンヂダイ按只歹の如くなれども、太宗二年の冬潞州を取りたるは、アンヂギダイ按只吉歹卽エルヂギダイ額勒只吉歹とタス塔思とにして、諸︀王アンヂダイ按只歹・クウンブハ口溫不花等は與らず。皇弟四太子は、トルイ拖雷なり。國王ボル孛魯は、ムカリ木華黎の子、タス塔思の父にして、二年前に已に薨じたれ[433]は、タス塔思をふと誤りたるなり。アンヂダイ按只歹・クウンブハ口溫不花・タス塔思等の河を渡りて、トルイ拖雷と三峯山に會したる太宗四年の春にして、潞州鳳翔の戰の引續きに非ざれば、かく一筆に書き連ぬべきに非ず。又睿宗の傳に、太宗三年十二月禹山の戰の後、鄧州を捨てて北に進む時、「以三千騎命ヂヤラ札剌等率之爲殿。明旦大霧迷道、爲金人所襲、殺︀傷相當。トルイ拖雷以ヂヤラ札剌失律罷之、而以エリチキダイ野里知給歹代焉。未幾敗金軍」。エリチキダイ野里知給歹もエルヂギダイ額勒只吉歹なり。ヂヤラ札剌は、太祖︀十四年ハヂン哈眞と共に高麗のキダン契丹賊を不げたる元帥ヂヤラ札剌なり。黑韃事略「其相四人」の疏證に「霆至草地時、アンヂダイ按只䚟己不爲矣。ネンカチユンシヤン粘合重山、隨クチユ屈朮僞太子南侵。次年、クチユ屈朮死、アンヂダイ按只䚟代之、ネンカチユンシヤン粘合重山復爲之助」とあり。クチユ屈朮は、太宗の第三子コチユ闊出またクチユ曲出にして、太宗紀に「七年乙未春、遣皇子クチユ曲出及クトフ胡土虎伐宋。冬十月、クチユ曲出圍棄陽拔之、遂徇襄鄧、入郢、虜︀人民牛馬數萬而還。八年丙申春二月、命應州郭勝、ボチユルキウヂウ鈞州孛朮魯九住、鄧州趙祥︀、從クチユ曲出、充先鋒伐宋。冬十月、皇子クチユ曲出薨」。ネンカチユンシヤン粘合重山の傳に「太宗七年、從伐宋、詔軍前行中書省事、許以便宜。師入宋境、江淮州邑、望風款附。チユンシヤン重山降其民三十餘萬、取定城・天長二邑、不誅一人」とあれども、エルヂギダイ額勒只吉歹のクチユ曲出に代り、チユンシヤン重山のそれを助けたる事は、載せられず。
定宗紀に、二年丁未「八月、命エリチギダイ野里知吉帶、率シユスマン搠思蠻部兵征西。是月、詔蒙古人、戶毎百以一名充バドル拔都︀魯」とあり。シユスマン搠思蠻は、シユルマン搠兒蠻の誤にて、親征錄太祖︀昇遐の翌年なる戊子の年に見えたるシユリマン搠力蠻に同じく、卽祕史のシユルマカン搠兒馬罕なり。シユルマカン搠兒馬罕卽チユルマグン出兒馬昆は、ドーソン多遜に據るに、一二四〇年(太宗十二年)に歿して、その副帥なるベスツト別速惕のハイヂユ拜主それに代りしが、今エルヂギダイ額勒只吉歹に命じて、シユルマカン搠兒馬罕の征服したる諸︀部を統べしめたるなり。ホヲルス訶倭兒思曰く「一二四七年(定宗二年)、イルチカダイ亦勒赤喀歹に命じて、師を率ゐてペルシヤ珀兒沙に往かしめき。その師を聚めんが爲に、皇族の諸︀王にその部兵の十人ごとに二人を出さしめ、イルチカダイ亦勒赤喀歹にもペルシヤ珀兒沙にて同じ割合に兵を徴すことを命じけり。グルヂルーム古兒只嚕姆の二王國モスル抹速勒・ヂヤルベクル的牙兒別克兒・アレツポ阿列披の諸︀國は、イルチカダイ亦勒赤喀歹に徵稅の全權を持ちて專轄せしめ、アルグン阿兒昆はペルシヤ珀兒沙の政治を、マススト馬思速惕はトルキスタン突︀兒其思壇・河間地方のそれを故の如く執り、皆金獅符を賜はりき(ハンメル含篾兒のイルカン亦勒罕一、五八)」。グルヂ古兒只以下の諸︀國を專轄してその兵を徵すは、卽シユルマカン搠兒馬罕の部兵を率ゐるなり。諸︀王の兵十分の二を出すは、多過ぎたり。蒙古人百分の一をバドル拔都︀魯卽戰士に充つるの誤ならん。たゞ元史は、その事をエリチギダイ野里知吉帶の西征に關せざる如く書きたるは非なり。
ホヲルス訶倭兒思又曰く「一二四八年(定宗三年)、クユク庫由克は、イミル亦米勒河の地方に赴かんとして、ビシバリク必失巴里克の西七日路の處(元史ホンシヤンギル横相乙兒之地)にて遽に崩じ、皇后オグルガイミシ斡古勒該米失(元史オウリハイミシ斡兀立海︀迷失)は、喪を祕して、まづバト巴禿とトルイ拖雷の寡婦秀兒庫克帖尼(祕史莎兒合黑塔尼)とに吿げ、バト巴禿の同意を得て、君の定まるまで攝政となりき。バト巴禿は、クユク庫由克に謁︀せんとアラクタク阿剌克塔克山(祕史卷五のウルクタク兀魯黑塔黑か)に至り、訃を聞きて、そこに留り、クリルタイ庫哩勒台を召集しければ、オゴタイ斡果台の子孫だちは抗議して、クリルタイ庫哩勒台は蒙古の舊土にて開くべしと云ひき。されどもカラコルム喀喇科嚕木の太守チムルノヤン提木兒諾顏(功臣の第六十一テムル帖木兒)を遣して議に預らしめき(ドーソン多遜二、二三四)。そのクリルタイ庫哩勒台にて將軍イルチキダイ亦勒赤奇歹(ドーソン多遜のイルチカダイ亦勒赤喀歹)は、オゴタイ斡果台の子孫に一塊の肉殘れる限りは他の皇族を選ばざることを會員の約束したりしことをその會員に想ひ起させたるに、トルイ拖雷の子クビライ忽必來答へて曰く「オゴタイ斡果台の志望は、旣に違背せられたりき。皇族の誰にても、諸︀王の大會にて審判せらるゝまでは殺︀すことを禁ぜられたるチンギスカン成吉思汗の法に逆ひて、汝等は、アルタルン阿勒塔侖(チンギス成吉思の愛女)を審問なしに殺︀さざりしか。またシラムン失喇門を相續人に名ざしたりしオゴタイ斡果台の遺言に逆ひて、汝等は、クユク庫由克をカガン合罕の位に陛せざりしか。」將軍マングサル曼古撒兒(元史のモンゲサル忙哥撒兒)は、首として議を發し、トルイ拖雷の長子マング曼古の支那西域にての武功を述べて、推戴すべきことを主張し、バト巴禿その議を賛し、マング曼古の辭するにも拘らず、議遂に定まり、バト巴禿はマング曼古に盞を捧げ、會衆は祝︀聲を揚げき。それにてこの大會は延期となり、明年更にチンギスカン成吉思汗の創業の地に皇族の諸︀王を悉[434]く聚めてこの選擧を確定せんことを議決しけり(ハンメル含篾兒のイルカン亦勒罕一、六一)」。
憲宗推戴の事情は、元史譯文證補の定宗憲宗本紀補異にドーソン多遜に本づきて委しく叙べたり。憲宗紀には、エルヂギダイ額勒只吉歹とクビライ忽必來との議論は無くて、攝政皇后の使バラ八剌とムゲ木哥(世系表睿宗の第九子モゲ末哥)との議論あり。「歲戊申、定宗崩、朝廷久未立君、中外恟恟、成屬意於帝。而覬覦者︀衆、議未決。諸︀王バド拔都︀、ムゲ木哥、アリブカ阿里不哥(世系表睿宗の第七子)、シヤイゲト唆亦哥禿(世系表睿宗の第十子サイドゲ歲都︀哥か)、タチヤル塔察兒(世系表テムゲオチギン鐵木哥斡赤斤の孫)、大將ウリヤンカタイ兀良合台(スブタイ速不台の子)、スニダイ速儞帶(は知らず)、テムゲル帖木迭兒(祕史太宗の侍衞第二班の宿老)エスブハ也速不花(食貨志歲賜篇左手千戶九人の一)、威會子アラトクラウ阿剌脫忽剌兀之地、バド拔都︀首建議推戴。時定宗皇后ハイミシ海︀迷失所遣使者︀バラ八剌在坐、日「昔太宗命以皇孫シレムン失烈門爲嗣、諸︀王百官皆與聞之。今シレムン失烈門故在、而議欲他屬、將實之何地耶」。ムゲ木哥曰「太宗有命、誰敢違之。然前議立定宗、由皇后トクレネ脫忽列乃與汝輩爲之。是則違太宗之命者︀、汝等也。今尙誰咎耶」。バラ八剌語塞。ウリヤンカタイ兀良合台曰「モンゲ蒙哥、聰明睿知、人咸知之。バド拔都︀之議良是」。バド拔都︀卽申令於眾、眾悉應之、議遂定」。アラトクラウ阿剌脫忽剌兀のラウ剌兀は、蓋アウラ阿兀剌の誤にして、アラトクアウラ阿剌脫忽阿兀剌は、卽ドーソン多遜のアラクタク阿剌克塔克山なり。トクレネ脫忽列乃は、トレクネ脫列忽乃の誤にして、卽后妃表のトレゲナ脫列哥那六皇后なり。
モンゲサル忙哥撒兒の傳は、又憲宗紀とも異なり。「定宗崩、宗王バドカン八都︀罕、大會宗親、議立憲宗。ウイウ畏兀
憲宗卽位の條は、異說もあり、明ならざる所もあるに由り、今エルヂギダイ額勒只吉歹の事を述ぶる序に、憲宗紀の文を引きて、その考證を試みん。かくて憲宗紀に「元年辛亥夏六月、西方諸︀王ベルゲ別兒哥・トハテムル脫哈帖木兒、東方諸︀王エグ也古・トク脫忽・イスンゲ亦孫哥・アンヂダイ按只帶・タチヤル塔察兒・ベリグダイ別里古帶、西方諸︀大將バリチ班里赤等、東方諸︀大將エスブハ也速不花等、復大會于コテウ闊帖兀阿闌之地、共推帝卽皇帝位於オナン斡難︀河」。卽位の日は、ドーソン多遜の史に一二五一年(西暦の七月一日とあり。ベルゲ別兒哥・トハテムル脫哈帖木兒二人は、ドーソン多遜に據るに、ヂユチ拙赤の子バルカイトカチムル巴兒開脫喀提木兒なり。エグ也古・トク脫忽・イスンゲ亦孫哥三人は、祕史卷六に見えたるヂユチカツサル拙赤合撒兒の子エグ也古・イスンゲ亦孫哥・トク脫忽、世系表シユヂハツサル搠只哈撒兒の子エクイシヤンゲトク也苦移相哥脫忽なり。アンヂダイ按只帶は、カチウン合赤溫の子アルチダイ阿勒赤歹なり。タチヤル塔察兒は、世系表テムゲオチギン鐵木哥斡赤斤の孫にしてヂブガン只不干の子なり。ベリグダイ別里古帶は、祕史のベルグタイ別勒古台、世系表のベリグタイ別里古台なり。洪鈞曰く「ベリグダイ別里古帶、改本作ベルゲタイ伯勒格台、爲太祖︀弟。案、ベルゲタイ伯勒格台、不過少太祖︀數歲、特以庶母所出故列於末。太祖︀崩、至是已二十五年。是否尙存、殊不敢必。又ベリグタイ別里古台孫メリギダイ滅里吉歹見史表、或卽ベリグダイ別里古帶」。バリチ班里赤は、錢大昕の考異に「疑卽バルチユアルテ巴而朮阿而忒也」と云へれども、憲宗紀九年にヂヤライル札剌亦兒部人トホン脫歡に對して、アルラ阿兒剌部人バリチ八里赤とあれば、ウイウト畏兀惕のバルチユ巴而朮には非ずして、アルラト阿嚕剌惕の人なり。ボオルチユ孛斡兒出の親屬にやあらん。コテウ闊帖兀・アラン阿闌は、卽コデウ闊迭兀・アラル阿喇勒、太祖︀創業の地なり。オナン斡難︀河と云へるは誤れり。コデウ闊迭兀・アラル阿喇勒は、ケルレン客魯嗹河の中島なることは、實錄の注に屢云へるが如し。
洪釣の憲宗本紀補異は、ドーソン多遜の史を述べて、アラクダク阿勒克塔克山の大會畢り、「皇后使者︀歸報。后與二子コヂヤ闊札・ナグ納古大不悅、遣使吿バト巴禿「會議非地、宗王未集、議不能從」。バト巴禿謂「明年再會於東。太祖︀太宗大業、未可輕[435]授。君位已定、請屈意相從」。遂令弟バルカイ巴兒開・脫喀提木兒將大軍、衡曼古而東、自駐於西、以備非常。第二次之會、シウルククテニ秀兒庫克帖尼爲主、召集諸︀王大將。而太宗定宗後王、チヤガタイ察合台後王イスマング亦速曼古皆不至。バト巴禿屢使往勸、仍不納。バルカイ巴兒開等以久待爲憂、請命於バト巴禿。バト巴禿乃申令於眾「定立マング曼古。宗親中梗議者︀、有國典在」。旣而東方諸︀王ヂユチ拙赤・カツサル合撒兒・カチウン合赤溫・テムグ帖木古・ウヂユキン兀主勤子孫成集。亦遣使往勸シラムン失喇門・コヂヤ闊札・ナグ納古。三王允往、猶未至。而擇日已定、不及待、遂奉マング曼古卽位、時年四十有三。卽位之日、諸︀王列右、王妃公主列左、マング曼古七弟列前、武臣以マングサル曼古撒兒爲首、文臣以ボルガイ孛勒該爲首。禮成、大宴七日」とあり。音譯字は、洪鈞に依らず、原書の音に從ひて改めたり。以下皆然り。コヂヤ闊札・ナグ納古は、世系表定宗の長子フチヤ忽察、次子ナク腦忽にして、陳桱の通鑑續編にコヂヤ和者︀・ナクダイ腦忽歹とあり。イスマング亦速曼古は、世系表チヤガタイ察合台の子エスモンゲ也速蒙哥にして、憲宗紀下文にエスモンケ也速忙可とあり。東方諸︀王の集れるは、カツサル合撒兒の子エグ也古・エスンゲ也孫格・トク禿忽、カチウン合赤溫の子アルチダイ阿勒赤歹、オチギン斡赤斤の孫タチヤル塔察兒等なり。マング曼古の七弟は、世系表の世祖︀皇帝フレウ旭烈兀・アリブゲ阿里不哥・ボチヤ墢綽・モゲ末哥・サイドゲ歲都︀哥・シユベタイ雪別合なり。マングサル曼古撒兒・ボルガイ孛勒該の事は、憲宗紀に「以モンゲサル忙哥撒兒爲斷事官、以ボルガ孛魯合掌宣發號令、朝覲貢獻、及內外聞奏諸︀事」とあり。モンゲサル忙哥撒兒は、本傳に據るに夙くより睿宗憲宗に事へて、憲宗の斷事官の長となり、藩邸の分民を治め居たりしが、こゝに至り帝國の斷事官となれり。ボルガ孛魯合は、エセンブハ也先不花の父ボルホン孛魯歡、卽ラシツト喇失惕のボルガイ孛勒該にして、前の七〇〇頁に云へり。
さて憲宗紀卽位の續に「シレムン失烈門及諸︀弟ナク腦忽等、心不能平、有後言。帝遣諸︀王フレ旭烈與モンケサル忙可撒兒、帥兵覘之。諸︀王エスモンケ也速忙可・ブリ不里・ホヂヤ火者︀等、後期不至。遣ブリンギダイ不憐吉䚟、率兵備之」。フレ旭烈は、憲宗世祖︀の弟フラグ旭烈兀なり。ブリ不里卽ブリ不哩は、祕史に據れば、チヤガダイ察合歹の長子と見ゆれば、エスモンゲ也速蒙哥〈[#ルビの「エスモンゲ」は底本では「エスヂモンゲ」。底本の他ルビに倣い修正]〉の兄なり。ホヂヤ火者︀は、卽コヂヤ闊札、世系表のクチヤ忽察なり。ブリンギダイ不憐吉䚟は、憲宗紀七年に元帥ブリンギダイ卜隣吉䚟とある人なり。列傳卷九十二姦臣テムデル鐵木迭兒の傳に、仁宗の時「制贈︀祖︀ブリンギダイ不憐吉帶太尉、證忠武、追封歸德王」とあるは、卽その人にして、元史氏族志に、世祖︀の宰相クルブハ忽魯不花の父「卜隣吉帶大將」とあるも、同じ人なり。これらの諸︀王は、後言あるのみならず、期に後れたるのみならず、モンゲサル忙哥撒兒の傳に據れば、亂を作さんとしたるなり。「憲宗旣立、チヤハタイ察哈台之子及アンチタイ按赤台等謀作亂、刻車轅、藏兵其中、以入。轅折、兵見。クセケ克薛傑見之、上變。モンゲサル忙哥撒兒卽發兵迎之。アンチタイ按赤台不虞事遽覺、倉卒不能戰、遂悉就擒。憲宗親簡其有罪者︀、付之鞠治。モンゲサル忙哥撒兒悉誅之」。チヤハタイ察哈台之子は、卽ブリ不哩・エスモンゲ也速忙哥なり。アンチタイ按赤台は、祕史の官人アルチダイ阿勒赤歹なり。後にモンゲサル忙哥撒兒の二子トホン脫歡・トルチ脫兒赤に賜はれる憲宗の詔に「チヤハタイ察哈台・アハ阿哈之孫、太宗之裔、定宗コチユ闊出之子、及其民人、越有他志」と云へるを見れば、定宗の子フチヤ忽察・ナク腦忽、コチユ闊出の子シレムン失咧門などもその謀に與れる趣なり。憲宗紀は、次にホリム和林また各地方の文武大官二十九人の補任を載せたる後に、「エスント葉孫脫・アンヂダイ按只䚟・チヤンギ暢吉・ヂヤナン爪難・カダ合荅・クリン曲憐・アリチユ阿里出及ゴンギタン剛疙疸〈[#「剛疙疸」は底本では「剛疙疽」。疽(jǖ)は疸(dǎn)の異体字だが発音が遠いので底本の他ルビに倣い修正]〉・阿散忽務持兩端、坐誘諸︀王爲亂、竝伏誅。冬、以エンヂギダイ宴只吉帶違命、遣カダン合丹誅之、仍籍其家」とあり。エスント葉孫脫以下八人の事は、旣に前に云へり。エンヂギダイ宴只吉帶は、卽エルヂギダイ額勒只吉歹なり。カダン合丹は、功臣の第六十三なるカダアン合荅安か。然らずば、世系表太宗の第六子なるカダン合丹大王なるべし。
この騷動の始末は、ラシツト喇失惕の史に委し(ドーソン多遜二、二六五-)。憲宗本紀補異「禮成、大宴七日」の續に、「正燕樂時、御者︀ケクセ客克薛上變謂「以失騾出覓、道遇車乘甚衆。一車折轅、其御束縛之、誤以爲同伴、呼使助。則見車中藏兵甚多。訝而問之。其御曰「汝車同我車、何問爲」。益訝之。更詢他車、始知シラムン失喇門・コヂヤ闊札・ナク納古三王、以朝會爲名、將乘飮宴不爲備作亂、故馳返以吿」。マンク曼古乃令マングサル曼古撒兒〈[#「曼古撒兒」は底本では「撒古撒兒」。底本の他ルビに倣い修正]〉率兵往覘、止其衞士、令各從二十人入謁︀、具貢物凡九。始至時、猶令與宴。越日拘係マンク曼古自鞫之。皆堅謂無逆謀。刑訊シラムン失喇門從官、乃吐其實、而自到以死。復令マングサル曼古撒兒訊諸︀從官、咸辭伏。マング曼古以初卽位、不欲多行殺︀戮。衆以爲未可。正猶豫間、エルワヂ也勒瓦只立於門外。呼以入、問曰「汝老成人、更事已多、何猶無言」。對曰「臣、西域人也。請得言西城事。昔者︀[436]ギリシヤ吉哩沙王アレクサンデル阿歷散迭兒、已滅ペルシヤ珀兒沙、欲入インド印度。而將領中多異議、令出不行。アレクサンデル阿歷散迭兒、遣使詢於其傳アリストーテル阿哩思脫帖兒。使者︀致命。アリストーテル阿哩思脫帖兒無言、惟與使者︀游園、遇林木之蔽觀眺礙行路者︀、悉令從人芟伐拔掘、易以新株。使者︀悟、歸報。アレクサンデル阿歷散迭兒、乃誅逐諸︀不從令將領、更易其位、遂平インド印度而回」。於是マング曼古意決、殺︀三王之黨、煽亂謀逆者︀、凡七十人。イルチキダイ亦勒赤奇歹二子亦同謀。皆以石子塡塞其口而死。イルチキダイ亦勒赤奇歹、已往西域。遣人追及於バドギス巴篤吉思之地獲之、以付バト巴禿、置諸︀死」とあり。エルヂギダイ額勒只吉歹の二子の內には、バト巴禿を罵りたりしハルガスン哈兒合孫もあるべし。
又憲宗紀二年の條に「春正月、幸シフイ失灰之地。‥‥‥皇太后(シヨルカクタニ莎兒合黑塔尼)崩。夏駐蹕ホリム和林、分遷諸︀王於各所、カダン合丹於ベシバリ別石八里地、メリ蔑里於エルチシ葉兒的石河、ハイド海︀都︀於ハイアリ海︀押立地、ベルゲ別兒哥於クルヂ曲兒只地、トト脫脫於エミリ葉密立地、モンゲト蒙哥都︀及太宗皇后キリギクテニ乞里吉忽帖尼於コドン擴端所居地之西。仍籍太宗諸︀后妃家貲分賜親王。定宗后及シレムン失烈門母、以厭禮事覺竝賜死。謫シレムン失烈門・エスボリ也速孛里等於ムトチ沒脫赤之地」。これらの諸︀王は、世系表に據るに、皆太宗の子孫にして、カダン合丹は第六子なるカダン合丹大王(ラシツト喇失惕のカダノグル喀丹斡古勒)、メリ蔑里は第七子メリ滅里大王、(メリク篾里克)ハイド海︀都︀は第五子カシ合失大王(カシ喀失)の子ハイド海︀都︀大王(カイド開都︀)、トト脫脫は第四子ハラチヤル哈剌察兒王(カラヂヤル喀喇札兒)の子トト脫脫大王(トクタ禿克塔)、モンゲド蒙哥都︀は第二子コドン闊端太子(クタン庫壇)の子モンゲト蒙哥都︀大王、コドン擴端は卽第二子コドン闊端太子、シレムン矢烈門は第三子コチユ闊出(クチユ庫出)の子シレムン昔列門太子(シラムン失喇門)なり。ベルゲ別兒哥は、バト巴禿の弟、ラシツト喇失惕のバルカイ巴兒開にして、憲宗翼戴の功ある人なれば、こゝに入りたるは誤なり。クルヂ曲兒只は、卽グルヂ古兒只にして、バト巴禿の領地の南境にある地なれば、これは、遷されたるにあらずして、新に封ぜられたるならん。キリギクテニ乞里吉忽帖尼は、后妃表に太宗の三皇后とあり。ラシツト喇失惕は(ドーソン多遜二、九九)、カシ喀失まで五人は、正后トラキナ禿喇奇納の子にして、カダン喀丹・オグル斡古勒とメリク篾里克とは、妃妾の子なりと云ひ、后妃表には「エリギナ業里訖納妃子、メリ滅里之母」とあり。陳桱の通鑑續編に據れば、長子カシダイ合西歹は二皇后ボフイ孛灰の子にして、蚤く死し、定宗・コドン闊端・クチユ屈出・カラチヤル合剌察兒四人は、六皇后の子、カダン合丹・メリ滅立二人は、七皇后の子なりと云へり。ボフイ孛灰は、表のアンフイ昻灰二皇后なり。ボ孛は、アンアン安案などの誤ならん。七皇后は、表に無し。エリギナ業里訖納妃子を云へるならん。定宗の后は、后妃表のオウリ斡兀立・ハイミシ海︀迷失、ラシツト喇失惕のオグル斡古勒・ガイミシ該米失なり。シレムン失烈門の母は、元史に名なし。ラシツト喇失惕はカタクシ喀塔庫失と云へり。エスボリ也速孛里は、太宗の子孫に見えず、諸︀王の從官なるべし。その分遷の地は、大抵太宗の分地の內又はその近傍に在り。ベシバリ別石八里は卽ビシバリク必失巴里克、エルチシ葉兒的石河は卽エルチシ額兒的失河、ハイアリ海︀押立は卽カヤリク喀牙里克、エミリ葉密立は卽エミル額米勒なり。ムトチ沒脫赤の地は、考なし。憲宗本紀補異に曰く「二年春、皇太后崩、葬睿宗墓旁。至カラコルム喀喇闊嚕木、究厭禳之獄。以定宗后シラムン失喇門母付マングサル曼古撒兒、盡法鞫治得實、裏以氈、投諸︀河。殺︀定宗后用事大臣(チンハイ鎭海︀・カダク喀荅克)。以チヤガタイ察合台孫ブリ不哩付バト巴禿。ブリ不哩曾於酒後詈バト巴禿。至是バト巴禿殺︀之。以コヂヤ闊札・ナグ納古・シラムン失喇門三王、皆由其母煽惑、得免︀死。遷コヂヤ闊札於カラコルム喀喇闊嚕木西スリガイ速里該之地、謫ナグ納古・シラムン失喇門爲兵弁。其後クビライ忽必來伐宋、請於マング曼古、使シラムン失喇門從軍效力。迨マング曼古自將南伐、仍投シラムン失喇門於水。分遷太宗後王、定其封地。太宗舊部軍、別擇親王將之、以防其擁衆爲亂。惟太宗子カダン合丹・メリク篾里克、太宗孫クタン庫壇之子、翊戴無二心、未奪兵柄、仍得分太宗諸︀后妃家資」。スリガイ速里該の地は、考なし。ハンメル含篾兒はセリンガ薛鄰噶と譯したれども、セリンガ薛鄰噶卽セレンゲ薛連格河は、カラコルム喀喇闊嚕木の北にして、西とは云ふべからず。洪鈞曰く「案本紀、二年分遷諸︀王、曰ベシバリ別石八里地、曰エルチシ葉兒的石河、曰ハイアリ海︀押立、曰エミリ葉密立、皆在太宗分地及其附近、竝未遠徙、特爲之分定疆界耳。紀又云コドン擴端所居地之西、西方何地無考、亦非甚荒遠。不明其地、又泥於元史文義、一若盡投之遠方也者︀、未爲是也。本紀元年、遣カダン合丹誅エンヂギダイ宴只吉帶、三年、以ハダンヂヤルハチ哈丹札魯花赤、八年九年、諸︀王モゲド莫哥都︀攻渠州禮義山、竊疑皆太宗後王。可就西書、以窺測元史」。シレムン失咧門の殺︀されたることは元史に見えざれども、シユチトルカ槊直腯魯華の傳に、その子ミンガンダル明安荅兒は、「癸丑(憲宗三年)、憲宗遣從シレムン昔列門太子南伐」とあるは、シレムン失咧門の世祖︀の軍に從へる時の事を云へるなり。[437]
一。カルルウト合兒魯兀惕のアルスランカン阿兒思闌罕。
カルルウト合兒魯兀惕のアルスランカン阿兒思闌罕(實錄三八九頁)は、降服の後、何事も見えざれとも、公主表トレ脫烈公主位に「トレ脫烈公主適アルスラン阿爾思蘭子エツセンブハ也先不花駙馬、ババ八八公主適エツセンブハ也先不花子クナダル忽納荅兒駙馬、某公主適クナダル忽納荅兒子ラハイヤリナ剌海︀涯里那駙馬」とありて、アルスラン阿兒思闌の公主に尙してより曾孫まて四代、引續き元の駙馬となりしなり。
二。ウイウト委兀惕のイドウト亦都︀兀惕。
ウイウト委兀惕のイドウト亦都︀兀惕(實錄三九四頁)は、ラシツト喇失惕の史にウイグル委古兒のイヂクトバルヂユク亦的庫惕巴兒主克、元史にウイウル畏兀兒のイドクバルチユアルテチキン亦都︀護巴而朮阿而忒的斤と云ひ、列傳卷五に子孫數世に涉れる委しき傳あり。但イドク亦都︀護の軍功を叙べたる後、「旣卒、而次子ユグルンチチギン玉古倫赤的斤嗣」と云ひ、その相續の間に何事も叙べざるが、ラシツト喇失惕に據れば、ユグルンチ玉古倫赤即オケンヂ斡肯只に兄二人ありて、そこに元史に漏れたる逸︀事あり。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「ラシツト喇失惕に據れば(ベレジン別咧津一、一二八)、チンギス成吉思汗は、バルヂユク巴兒主克の勳功を賞して、その女アルトムビギ阿勒禿姆必吉を妻せんことを約したりしが、チンギス成吉思の死したるが爲に婚期延びけり。この公主は、遂に婚禮を行ふ前に死したれば、オゴタイカン斡果台汗は、ウイグル委古兒の君にアラヂビギ阿剌只必吉と云へる公主を與へき。されどもバルヂユク巴兒主克死して、その子キシユマイン奇施馬因父に繼ぎて、ウイグル委古兒のイヂクト亦的庫惕となりたれば、その公主をキシユマイン奇施馬因に與へき。キシユマイン奇施馬因死したる後、その弟サレンヂ撒連的嗣ぎけり」。アルトムビギ阿勒禿姆必吉は、實錄卷十のアルアルトン阿勒阿勒屯、バルチユアルテ巴而朮阿兒忒の傳のエリ也立・アントン安敦なり。公主表にエリ也立・カトン可敦公主とあるカ可は、アン安の誤なり。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒は、「元朝祕史に、この公主の名は、アルチユアルトン阿勒扯阿勒屯と讀まる」とて、ラシツト喇失惕のアラヂビギ阿剌只必吉〈[#「阿剌只必吉」は底本では「喇剌只必吉」。底本の他ルビに倣い修正]〉に當てたり。然らばパラヂウス帕剌的兀思本には、上のアル阿勒の下にチエ扯の字ありて、我等の本には脫ちたるならん。アルチエ阿勒扯は、アラヂ阿剌只に稍似たれども、アルトン阿勒屯は、ラシツト喇失惕のアルトム阿勒禿姆、元史の安敦にして、三書共に太祖︀の女とすれは、同人なること論なし。アラヂビギ阿剌只必吉は、誰の女なるか。公主表に見えず。洪鈞の地理志西北地附錄釋地に(ドーソン多遜を譯して)曰く「バルヂユク巴兒主克先有子、名キシユマイン奇施馬因、嗣イヂクト亦的庫惕位、旋卒。攝政皇后(トラキナ禿喇奇納)命キシユマイン奇施馬因之弟サレンヂ撒連只嗣立。憲宗即位、サレンヂ撒連只來朝。而ビシパリク必失巴里克之地、流言忽起、謂撒連只將盡戮木速勒蠻徒。其僕吿變。蒙古官サイフエツヂン賽甫額丁、監治ビシバリク必失巴里克、要サレンヂ撒連只〈[#ルビの「サレンヂ」は底本では「ササンヂ」。底本の他ルビに倣い修正]〉返、詢無是謀。而其僕堅證之。事聞於朝。付マングサル曼古撒兒鞫治。刑訊サレンヂ撒連只、遂誣服。令其弟オケンヂ斡肯只殺︀之、代其位。ムスルマン木速勒蠻徒則大悅。サレンヂ撒連只崇佛法、民與異敎、故設謀害其主。有二臣同死、一臣流於遠、僕膺賞。其時憲宗與太宗子孫不協、故凡附太宗之人、在ウイグル委古兒地者︀、斥逐殆盡」。
本傳に據るに、ユグルンチチキン玉古倫赤的斤〈[#「玉古倫赤的斤」は底本では「玉古倫赤的斥(エグルンチチキン)」。底本の他ルビに倣い修正]〉(卽オケンヂ斡肯只〈[#ルビの「オケンヂ」は底本では「オケン」。底本の他ルビに倣い修正]〉)の子マムラチキン馬木剌的斤〈[#ルビの「マムラチキン」は底本では「マムラチキ」。底本の他ルビに倣い修正]〉、孫ホチハルチキン火赤哈兒的斤、皆イドク亦都︀護の位を嗣ぎしが、ホチハル火赤哈兒は、叛王ハイドドワ海︀都︀都︀哇等に攻められ、遂に戰に死せり。その子ニウリンチキン紐林的斤は、武宗の時イドク亦都︀護となり、仁宗の時高昌王に封ぜられき。ニウリンチキン紐林的斤薨じ、長子テムルブハ帖木兒補化、イドク亦都︀護高昌王を襲ぎ、天曆二年中書左丞相となり、イドク亦都︀護高昌王の位を弟ヅアンギ籛吉に讓れり。ホチハル火赤哈兒・ニウリン紐林・テムルブハ帖木兒補化は、皆公主に尙しき。文宗紀至順三年「高昌王ツアンギ藏吉薨、其弟タイビンヌ太平奴襲位。」ツアンギ藏吉は、卽傳のヅアンギ籛吉なり。考異に曰く「考虞集高昌王世勛碑、ニウリンチキン紐林的斤、止有二子、與本傳合、則タイビンヌ太平奴似非ニウリン紐林之子矣」。又順帝紀至正十三年「イドク亦都︀護高昌王ユルテムル月魯帖木兒、薨于南陽軍中。命其子サンゲ桑哥襲イドク亦都︀護高昌王爵」。ユルテムル月魯帖木兒は、誰の子なるかを知らず。又氏族表には、テムルブハ帖木兒補化の子ブダシリ不荅失里「中書平章政事、嗣イドク亦都︀護高昌王。薨。子コシヤン和賞嗣。元亡、降於明、授高昌衞同知指揮使司事。[438]有子曰タイピン太平」とあり。又忠義傳三(元史一九五)にバヤンブハチキン伯顏不花的斤と云へる忠烈の士あり、信州を援ひて、陳友諒の兵と戰ひ、國難に殉せり。その傳の首に「バヤンブハチキン伯顏不花的斤、字蒼崖、ウイウル畏吾兒氏、駙馬都︀尉中書丞相封高昌王シエシエチキン雪雪的斤之孫、駙馬都︀尉江浙行省承相封荆南王ドルチキン朶爾的斤之子也」とあり。イドク亦都︀護の家にて中書丞相となれるは、テムルブハ帖木兒補化一人のみなれば、シエシエチキン雪雪的斤は、テムルブハ帖木兒補化の別名にて、ノヤンブハ伯顏不花はテムルブハ帖木兒補化の孫なるに似たり。考異に曰く「按、諸︀王公主二表、及バルチユアルテチキン巴而朮阿而忒的斤傳、俱不載シエシエチキン雪雪的斤ドルチキン朶兒的斤之名。葉盛水東日記、引高昌王世勛碑曰「テムルブハ帖木兒補化有二子、長ブダシリ不荅失里、嗣イドク亦都︀護高昌王、次バヤンブハチキン伯顏不花的斤、爲太常鮮于樞甥、官浙東宣慰使」。如碑所言、似ドルチキン朶兒的斤與テムルブハ帖木兒補化、卽是一人。今考元文類︀、載虞集高昌王世勛碑、不叙テムルブハ帖木兒補化之子。葉文莊所見、豈別一碑邪」。太常鮮于樞の甥は、傳に據れば、太常典簿鮮于樞の外孫なり。浙東宣慰使は、傳には衢州路のダルハチ達魯花赤より浙東の都︀元帥に陞り、江東道の廉訪副使に擢てらるとあり。
三。オイラト斡亦喇惕のクドカベキ忽都︀合別乞。
オイラト斡亦喇惕のクドカベキ忽都︀合別乞(實錄三九八頁)は、降服の後、その長子トレルチ脫咧勒赤は、ヂユチ拙赤の女ゴルイカン豁雷罕を娶り、次子イナルチ亦納勒赤は、太祖︀の女チエチエイゲン扯扯亦干を娶りき。公主表延安公主位の初に「ホル火魯公主適ハダ哈荅駙馬、ココゲン闊闊干公主適トイレチ脫亦列赤駙馬」とある、ホル火魯はゴルイカン豁雷罕の下略、ココゲン闊闊干はチエチエイゲン扯扯亦干の訛、トイレチ脫亦列赤はトレルチ脫咧勒赤の訛と聞ゆれば、トイレチ脫亦列赤はホル火魯の夫にして、ハダ哈荅はココゲン闊闊干の夫イナルチ亦納勒赤なるを、互に誤れるに似たり。又ハダ哈荅駙馬は、功臣の第八十四なるカダイ合歹駙馬に似たれば、カダイ合歹は卽オイラト斡亦喇惕のイナルチ亦納勒赤の別名かとも疑はる。この疑は、已に實錄四〇二頁の注に陳ベたり。又公主表の續に「トトフイ脫脫灰公主、世祖︀孫女、適トマンダル禿滿荅兒駙馬、某公主適ベリミシ別里迷失駙馬某公主適シヤラン沙藍駙馬、延安公主適延安王エブゲン也不干」。これらの駙馬は、皆クドカベキ忽都︀合別乞の子孫なるべけれども、その關係は明ならず延安王は、諸︀王表金印駝紐の中にあり。
四。ドルベト朶兒別惕のドルベドクシン朶兒伯多黑申。
ドルベト朶兒別惕のドルベドクシン朶兒伯多黑申(實錄四〇五頁五二〇頁)は、トマト禿馬惕征伐とアブト阿卜禿征伐と二たび見えたり。
居庸關の戰にヂエベ者︀別と共に先鋒に行きたるグイクネクバアトル古亦古捏克巴阿禿兒(實錄四三二頁)は、列傳卷三十六なる郭寶玉の傳に附記せるその子德海︀の傳に、(太宗三年か)「德海︀導大將グイユナ魁欲那・バード拔都︀、假道漢︀中、歷荆襄而東」。列傳卷二なる睿宗の傳に、太宗三年の冬、「破金兵十餘萬于武當山、趨均州、乘騎浮渡漢︀水、遺グイクネ夔曲捏、率千騎馳白太宗(四年正月)太宗方詣漢︀水、將分兵應之。會グイクネ夔曲捏至、卽遣慰諭拖雷、亟合兵焉」とあり。グイユナ魁欲那もグイクネ夔曲捏も、グイクネク古亦克捏克なり。方詣漢︀水は、方渡河の誤なり。親征錄に「壬辰春正月初六日、大兵畢渡、及獲漢︀船七百餘艘。太上皇(トルイ拖雷)遣將グイユ貴由、來報集軍兵等、已渡漢︀江」とあるは、卽藝曲捏馳白太宗の事なり。又親征錄に、その年の夏「上與太上皇北渡河、避暑︀於官山。スブダイバード速不歹拔都︀、テムダイホルチ忒木歹火兒赤、グイユバード貴由拔都︀、タ塔[チヤルホルチ察兒火兒赤]等、適遇金遣荆王守仁之子曹王、入質我軍、遂退、留スブタイバード速不台拔都︀、以兵三萬鎭守河南」とあり。列傳卷三十一に「ユルテムル月魯帖木兒、ブリンキンドリベダイ卜領勤多禮伯臺氏。曾祖︀グイユ貴裕事太祖︀、爲管領ケリンクケセ怯憐口怯薛官」とありて、事蹟は[439]何も載せざれども、グイユ貴裕は、卽親征錄のグイユ貴由にして、祕史のグイクネク古亦克捏克なるべし。ドリベタイ多禮伯臺はドルベト朶兒別惕にして、ブリンキン卜領勤はその分部の名なり。
太祖︀、金・夏の二國を降して回りたる後、金帝に拘へられたるヂユブカン主卜罕(實錄四四六頁)を、元史太宗紀睿宗の傳は、シユブカン搠不罕と書き、宋に殺︀されたりとし、太宗三年の事としたるは、いづれか正しきを知らざる上に、猶この二說のいづれにも合はざる他の一說ありて、列傳卷八十忠義一石珪の傳に「歲戊寅(太祖︀十三年)、太祖︀使ガガブカン葛葛不罕與宋議和。庚辰(十五年)宋果渝盟」と見えたり。拘へらるとも殺︀さるとも云はざれども、ガガブカン葛葛不罕の名は、ヂユブカン主卜罕・シユブカン搠不罕と稍似たれば、これも同事の異聞なるべし。
西征の役にヂエベ者︀別・スベエタイ速別額台と共にシヨルタン莎勒壇を追ひたるトクチヤル脫忽察兒(實錄四八一頁)は、太宗の時にアラツエン阿喇淺と共にヂヤム站を整ふることを命ぜられき(卷十二六五九頁)。このトクチヤル脫忽察兒、卽ラシツト喇失惕のトガチヤル脫噶察兒は、ヒユウヂン許兀愼のボロクル孛囉忽勒の從孫にして、元史にはタチヤル塔察兒と云ひ、列傳卷六なるボルク博爾忽の傳に附記せり。金を滅し、宋を敗り、戰功甚多き人なり。
四。アダルギン阿荅兒斤のコンカイ晃孩、ドロンギル朶龍吉兒のコンタカル晃塔合兒、オテゲダイ斡帖格歹のシユルマカン搠兒馬罕。
三皇子の叱られ居たる時太祖︀をなだめたる三人の箭筒士、アダルギン阿荅兒斤のコンカイゴルチ晃孩豁兒赤、ドロンギル朶龍吉兒のコンタカルゴルチ晃塔合兒豁兒赤、オテゲダイ斡帖格歹のシユルマガンゴルチ搠兒馬罕豁兒赤〈[#「罕」のルビ「ガン」はママ。実録では「カン」。以後もママ]〉(實錄五一五頁)三人の內、コンカイ晃孩・コンタカル晃塔合兒は外に見當らず。シユルマガン搠兒馬罕は、卷十二、五八九頁にチヨルマガン綽兒馬罕とあり。ドーソン多遜の史にはチヤルモグン察兒抹足と云ひて西征の事蹟甚詳かなり。元史には、定宗紀二年にシユルマン搠兒蠻(誤りてシユスマン搠思蠻)の部兵、カスメリ曷思麥里の傳に西域の大帥チヤガン察罕と見え、親征錄には「太宗皇帝與太上皇、共議シユリマン搠力蠻復征征城」と見えたるのみにして、事蹟は何も見えず。
五。クルムシ忽嚕木石のヤラワチ牙剌哇赤マスクト馬思忽惕。
クルムシ忽嚕木石のヤラワチ牙剌哇赤・マスクト馬思忽惕父子(實錄五三三頁)は、ラシツト喇失惕の史に、父をマハムト馬呵木惕・エルヷヂ也勒縛只と云ひ、子をマスストベー馬思速惕閉と云へり。二人の太祖︀の時に任用せられたることは、元史に見えざれども、太宗元年八月即位の時には、親征錄に「西域賦調、命ヤルワチ牙魯瓦赤主之」、本紀に「西域人以丁計出賦調、マハムトハラシミ麻合沒的滑剌西迷主之」とあり。シミ西迷は、蓋ワチ瓦赤の誤なり。十三年十月には、親征錄に「命ヤラワチ牙老瓦赤、生管漢︀民」、本紀に「命ヤラワチ牙老瓦赤、主管漢︀民公事」とあり。列傳卷四十なる劉敏︀の傳に「辛丑(太宗十三年)春、授行尙書省。詔曰「卿之所行、有司不得與聞」。俄而ヤルワチ牙魯瓦赤自西域回、奏與敏︀同治漢︀民。帝允其請。ヤルワチ牙魯瓦赤素剛尙氣、恥不得自專、遂俾其屬モンゲル忙哥兒、誣敏︀以流言。敏︀出手詔示之、乃已。帝聞之、命ハンチヤホルチ漢︀察火兒赤中書左丞[相]ネンカチユンシヤン粘合重山奉御李簡詰問、得實、罷ヤルワチ牙魯瓦赤、仍令敏︀獨任」とあるはその時の事にして、ヤラワチ牙剌哇赤の罷められたることは、本紀に漏れたり。又列傳卷四十五なる姚樞の傳に「辛丑、賜金符、爲燕京行臺郞中。時ヤルワチ牙魯瓦赤行臺、惟事貨路、以樞幕長分及之。樞一切拒絕、因棄官去」とあるを見れば、ヤラワチ牙剌哇赤も、つまらぬ人なるが如し。ラシツト喇失惕に據れば、マスストベー馬思速惕閉は、太宗の末年にトルキスタン突︀兒其思壇河間地方の太守となり、軍にて荒されたる地方の繁榮を回復したりし[440]が、トラキナ禿喇奇納皇后の攝政の時、その政治に信服せずして、バトカン巴禿罕の處に遁げ去りき。定宗位に卽き、呼び回して舊の職に就かしめけり。プラノカルピニ普剌諾喀兒闢尼に據れば、定宗卽位の食會に、マススト馬思速惕は已に舊官(西域の牧長)を以て參列せり。憲宗紀元六月卽位の條に「以ヤラワチ牙剌瓦赤・ブヂル不只兒・オルブ斡魯不・ドダル覩荅兒等充燕京等處行尙書省事、以ヌホアイ訥懷・タラハイ塔剌海︀・マスク麻速忽等充ベシバリ別失八里等處行尙書省事」とありて、太宗の末年に罷められたる牙剌哇赤は再任用せられき。マスク麻思忽は、卽マスクト馬思忽惕にして、ラシツト喇失惕のマススト馬思速惕なり。列傳卷四十六なる趙璧の傳に據れば、憲宗卽位の初に「一日斷事官ヤラワチ牙老瓦赤、持其印、請于帝曰「此先朝賜臣印也。今陛下登極、將仍用此舊印。抑易以新者︀耶」。時壁侍旁質之曰「用汝與否、取自聖裁。汝乃敢以印爲請耶」。奪其印、置帝前。帝爲默然久之。旣而曰「朕亦不能爲此也」。自是牙老瓦赤不復用」とあり。「不復用」と云へるは、この時直に罷められたるに非ず、明年も不只兒等と我儘を働き居たること世祖︀紀に見ゆれば、數年の後遂に信用を失ひたることを終言したるならん。世祖︀紀に「歲壬子(憲宗二年)、帝駐桓・撫間。憲宗令斷事官牙魯瓦赤與不只兒等、總天下財賦于燕、視︀事一日、殺︀二十八人。其一人盜馬者︀、杖而釋之矣。偶有獻環刀者︀、遂追還所杖者︀、手試刀斬之。帝責之曰「凡死罪、必詳讞而後行刑。今一日殺︀二十八人、必多非辜。旣杖復斬、此何刑也」。不只兒錯愕不能對」。不只兒は、功臣の第三十八、列傳の不智兒なり。この淫刑につき不只兒のみ叱られたるが如くなれども、牙剌哇赤もその責を分たざるべからず。姚樞の傳に「世祖︀在潛邸、遣趙璧召樞至、大喜、待以客禮」とありて、姚燧(樞の從子)の牧菴文集に載せたる樞の神︀道碑には「上遣趙壁驛至彰德。壁恐樞避去、獨至輝、以過客見、審其爲樞、始致見徵意。樞恐使者︀誤徵、不敢應。壁曰「君非棄牙老瓦赤隱此者︀乎」。曰「然」。乃偕往彰德受命」と云へり。
チヨルマカン綽兒馬罕の後援にモンゲト蒙格禿と共に出征したるオゴトル斡豁禿兒(實錄五八九頁)、太宗のキタト乞塔惕征伐の時大オルドス斡兒朶思に留守したるオルダ斡勒荅・カルゴルチ合兒豁兒赤(五九五頁)二人は、外に見當らず。
ヂユルチエトシヨランガス主兒扯惕莎郞合思の處に出征したるヂヤライルタイゴルチ札剌亦兒台豁兒赤(實錄二八頁)は、サルタイゴルチ撒兒台豁兒赤の誤寫又は誤譯ならんと(六三四頁に)云ひたれども、獨考えれはヂヤライル札剌亦兒のムカリ木合里國王の長孫タス塔思にはあらずやとも思はる。ムカリ木華黎の傳に「タス塔思、一名チヤラウン査剌溫。‥‥癸己(太宗五年)秋九月、從定宗于潛邸東征、擒金咸平宣撫ワンヤンワンヌ完顏萬奴于遼東。ワンヌ萬奴自乙亥歲(太祖︀十年)、率眾保東海︀、至是平之」、シモエセン石抹也先の傳に、エセン也先の子チヤラ査剌は「癸巳、從國王タス塔思、征金帥宣撫ワンヌ萬奴於遼東之南京(卽東京)、先登。眾軍乘之而進、遂克之。王解錦衣以賜」。エセン也先の傳と重複せるシモアシン石抹阿辛の傳に、アシン阿辛の子チヤラ査剌は「及從國王(タス塔思)軍征ワンヌ萬奴圍南京、城堅如立鐵。査剌命偏將、先警其東北、親奮長槊、大呼登西南角、摧其飛櫓、手斬陴卒數十人。大軍乘之、遂克南京。詰旦ムカリ木華黎解錦衣賞之」。ムカリ木華黎は、タス塔思の誤なり。シモボデル石抹孛迭兒の傳に「辛卯(太宗三年)、從國王タス塔思、征河南、癸巳(五年)、又從討ワンヌ萬奴於遼東平之」。このワンヌ萬奴征伐は、太宗紀五年に「二月、幸テレド鐵列都︀之地、詔諸︀王議伐ワンヌ萬奴、遂命皇子グイユ貴由及諸︀王アンチダイ按赤帶、將左翼軍討之。九月、擒ワンヌ萬奴」とありて、タス塔思の名を擧げざれども、主帥は皇子諸︀王にして、軍の掛引はタス塔思の指圖に依れるなるべし。ヂヤライルタイゴルチ札剌亦兒台豁兒赤は、ヂヤライル札剌亦兒氏の箭筒士と云ふ義にして、タス塔思はヂヤライル札剌亦兒氏なる故にしか呼べるを、竟にヂヤライルタイ札剌亦兒台は名の如くなりしならん。傳に一名チヤラウン査剌溫[441]とあるも、ヂヤライル札剌亦兒はヂヤライン札剌因と轉じ、ヂヤライン札剌因はチヤラウン査剌溫と轉じたらんと思はる。但タス塔思は、ワンヌ萬奴を征したれども、高麗には向はざりしを、ヂユチ女直高麗に出征したりと云ふことはいかゞあらん。
因に云はん。蒙古人は、その姓卽部族の名を直ちに名とするもの往往あり。祕史なるドルベト朶兒別惕のドルベドクシン朶兒別朶黑申を始として、元史列傳にはアルラ阿兒剌氏(アルラト阿嚕剌惕)のボルチユ博爾朮の玄孫アルト阿魯圖、ウリヤンカ兀良合氏(ウリヤンカン兀哴罕)のスブタイ速不台の子ウリヤンカタイ兀良合台(ウリヤンカタイ兀哴合台)、チヤウレイタイ召烈台(ヂヤウレイト札兀咧亦惕)のチヤウル抄兀兒(ヂヤウル札兀兒)、ヂヤラル札剌兒氏(ヂヤライル札剌亦兒)のタチユ塔出の父ヂヤラタイ札剌台(ヂヤライルタイ札剌亦兒台の略)、ケレイ怯烈氏(ケレイト客咧亦惕)のエセンブハ也先不花の子ケレイ怯烈など、みなそれなり。ケレイ怯烈氏のシヤウナイタイ肖乃台は、錢大昕の考異の拾遺にケレイタイ怯烈台の稱ありと云へり。又元史氏族表には、サンヂ珊竹氏(サルヂウト撒勒只兀惕)のウエル吾也而の曾孫サンヂダイ珊竹歹(サルヂウタイ撒勒只兀台)、至正の翰林學士承旨メルギタイ默而吉台氏(メルキト篾兒乞惕)のトト脫脫の曾祖︀メルギタイ默而吉台、延祐︀五年の狀元ネゲダイ捏古䚟氏のクドタル忽都︀達兒の子ネグス捏古思などあり。蒙古人は、姓を名の上に附けて呼ばざる故に、姓を名としても重複せざるなり。然るに又己の姓に非ずして人の姓を名とする人も多ければ、その名を見てその姓を推定することは能はず。實錄卷三なるスルドス速勒都︀思のタイチウダイ泰赤兀歹は、人の姓なるタイチウト泰赤兀惕を取りて己の名とし、元史列傳なるオングト汪古惕のアラウステギクリ阿剌兀思剔吉忽里の孫ネゲダイ聶古䚟、オロナル斡囉納兒のケケリ怯怯里の孫ネグダイ捏古䚟は、皆ネグス捏古思の姓を取りて名とし、ヂヤライル札剌亦兒のムカリ木華黎の女孫ナイマンタイ乃蠻台はナイマン乃蠻の姓を、ムカリ木華黎の弟ダイスン帶孫の裔なるタタルタイ塔塔兒台はタタル塔塔兒の姓を、ヒユウヂン許兀愼のボルク博爾忽の從曾孫スンドダイ宋都︀䚟はスルドス速勒都︀思の姓を、ケレイト客咧亦惕のシヤウナイタイ肖乃台の子ウルタイ兀魯台(ウルウタイ兀嚕兀台)はウルウト兀嚕兀惕の姓を、タタル塔塔兒のモンゲタイ忙兀台はモングト忙兀惕の姓を、バルラス巴嚕剌思のクリンシ忽林失の父オンギラダイ翁吉喇帶はオンギラト翁吉喇惕の姓を取りて名とし、氏族表には、タタル塔塔兒のモングタイ忙兀古の兄ヂヤラルタイ札剌兒台・オンギラタイ雍吉剌台・イキリタイ亦乞里台三人ありて、ヂヤライル札剌亦兒・オンギラト翁吉喇惕・イキレス亦乞咧思の三姓を、メルキト篾兒乞惕のバヤン伯顏の兄シエニタイ雪你台はシエニト雪你惕の姓を、弟バヤウタイ伯要台(バヤウタイ巴牙兀台)はバヤウト巴牙兀惕の姓を取りて名とせり。又オンギラト翁吉喇惕のテイセチエン特薛禮の會孫マンツタイ蠻子台はマンツ蠻子(南人)に非ず、ウルウト兀嚕兀惕のチユチタイ朮赤台(ヂユルチエダイ主兒扯歹)はヂユルチエト主兒扯惕(ヂユチ女直)人に非ず、ケレイト客咧亦惕のハサナ哈散納の玄孫ハラヂヤン哈剌章、メルキト篾兒乞惕のマヂヤイル馬札兒台の孫ハラヂヤン哈剌章は、皆カラヂヤン合喇章(烏蠻)人に非ず、カングリ康里のオロス斡羅思はオロス斡囉思(ルシア嚕西亞)人に非ず、キブチヤク乞卜察黑のキタイ乞台はキタイ乞台(支那)人に非ず、メルキト篾兒乞惕のマヂヤイル馬札兒台はマヂヤル馬札兒(ハンガリア洪噶哩亞)人に非ず、后妃表に見えたるイキレス亦乞咧思のボト孛禿の裔なるソランハ瑣郞哈は、ソランガ瑣郞合(高麗)人に非ず。蒙古の俗は、人の姓にても國の名にても構はず、又は官職の名にても佛の名にても遠慮なく、勝手に取りて名に附けたるなり。
又憲宗四年に高麗を征伐したるヂヤラル札剌兒のヂヤラタイ札剌台は、正しく云へばヂヤライル札剌亦兒のヂヤライルタイ札剌亦兒台にして、祕史の東征の大將と名同じければ、彼のヂヤライルタイ札剌亦兒台は、この人に非ずやとも思はる。元史列傳卷二十タチユ塔出の傳に交ヂヤラタイ札剌台、歷事太祖︀憲宗。歲甲寅(憲宗四年)、奉旨伐高麗、命サンギクラチユ桑吉忽剌出諸︀王、竝聽節︀制。其年、破高麗連城、擧國遁入海︀島。己未(憲宗九年)正月、高麗計窮、遂內附、ヂヤラタイ札剌台之功居多」。ヂヤラタイ札剌台は、高麗史にチヤラタイ車羅大とあり。サンギ桑吉は、高麗史にサンキ散吉大王とあり。世系表に見えず。シユヂハツサル搠只哈撒兒王の第二子イサンゲ移相哥大王か。クラチユ忽剌出は、世系表ハチウン哈赤溫大王の曾孫、濟南王アンヂキダイ按只吉歹の孫、ハダン哈丹大王の子、隴王クラチユ忽剌出なり。高麗史に見えず、憲宗紀「二年壬子十月、命諸︀王エグ也古征高麗」。エグ也古は、シユヂハツサル搠只哈撒兒王の子淄川王エク也苦なり。高麗史にエク也窟大王とあり「三年癸丑春、諸︀王エグ也古以怨襲諸︀王タラル塔剌兒營。罷エグ也古征高麗兵、以ヂヤラルダイ札剌兒帶爲征東元帥」。タラル塔剌兒は、世系表に見えず。テムゲオチギン鐵木哥斡赤斤の孫タチヤル塔察兒國王のチヤ察をラ剌と誤れるには非ずや。ヂヤラルダイ札剌兒帶は、卽傳のヂヤラタイ札剌台なり。そ[442]の年「十二月、命宗王エフ耶虎、與洪福︀源同領軍、征高麗、攻拔禾山東州春州三角山楊根天龍等城」。エフ耶虎は、卽エグ也古なり。旣に罷めて、復命ぜられしか。然らずばヂヤラルダイ札剌兒帶を以てエグ也古に代ふるは、明年の事なるを、誤りてこの年に書きたるならん。洪福︀源の傳に「乙巳(定宗卽位の前年)、定宗命アムカン阿母罕將兵與福︀源共拔威州平虜︀城。辛亥、憲宗卽位、改授虎符、仍爲前後歸附高麗軍民長官。癸丑、從諸︀王エフ耶虎、攻禾山東州春州三角山楊根天龍等城拔之」。アムカン阿母罕は、高麗史にアムカン阿母侃と書きて、蒙古元帥とも蒙古東京路官人ともあり。乙巳は、丁未(定宗二年)の誤なり。定宗紀にはこの事を載せざれども、ドーソン多遜の史に「一二四七年に兵を出して高麗を征しき」とあり。又憲宗紀に「四年甲寅夏、遣ヂヤライル札剌亦兒部人ホルチ火兒赤征高麗」とあるは、卽ヂヤライルタイゴルチ札剌亦兒台豁兒赤にして、ホルチ火兒赤は、人の名に非ず、官の名なり。人の名は、ヂヤライルタイ札剌亦兒台にして、卽前年のヂヤラルダイ札剌兒帶、明年のヂヤラダイ剳剌䚟なり。前後に同じ人あるにも心附かずして、異なる人の如く書きたる史臣の譯し方は、なんととんまなる事ならずや。洪福︀源の傳に「甲寅、與ヂヤラタイ札剌台合兵、攻光州安城忠州玄鳳珍原甲向玉果等城、又拔之」とあるは、甲寅の後二三年の事までを一筆に書き縮めたるにて、憲宗紀には、五年乙卯の處に「是歲、改命ヂヤラダイ剳剌䚟與洪福︀源同征高麗。後此連三歲、攻拔其光州安城中州玄風珍原甲向玉果等城」とあり。「改めて命ず」とは面白し。前年のホルチ火兒赤と異なりと思へるが故に、この二字を加へたるなり。又紀六年丙辰の處に「是歲、高麗國王シツオフ細瑳甫來覲」とあるは、何を誤りたるにや考へ得ず。又紀に「八年戊午三月、命洪茶丘、率師從ヂヤラダイ剳剌䚟、同征高麗」。洪福︀源の傳「戊午、福︀源遺其子茶丘、從ヂヤラタイ札剌台軍。會高麗族子王綧入質、陰欲併統本國歸順人民、譜福︀源于帝、遂見殺︀」。王綧は、太宗十三年に質子となり、それより蒙古に留まり居たるにて、この年往きたるに非ず。福︀源の殺︀されたるは、高麗史福︀源の傳に據れば、綧の客李稠、福︀源の呪咀したることを覘ひ知りて、憲宗に訴へたるを福︀源は、綧の訴へしめたることと思ひ、綧を罵りたれば、綧の妻は、蒙古の宗女にして、その語を聞きて大に怒り奏聞しけり。そこに憲宗は使を遣りて福︀源を蹴殺︀さしめき。高麗の太子倎の憲宗九年己未四月に蒙古に入りたることは、憲宗紀に漏れたれども、世祖︀紀中統元年三月卽位の條に「陜西宣撫使廉希憲言「高麗國王、嘗遣其世子倎入覲。會憲宗將兵攻宋、倎留三年不遣。今聞其父已死。若立倎遣歸國、彼必懷德於我。是不煩兵而得一國也」。帝是其言、改館︀倎、以兵衞送之、仍赦其境內。四月己亥、詔諭高麗國王王使、仍歸所俘民及其逃戶、禁邊將勿擅掠」とあり。高麗傳には、太宗の末年王綧の質子となれることを叙べたる後に、「當定宗憲宗之世、歲貢不入。故自定宗二年至憲宗八年、凡四命將征之、凡拔其城十有四。憲宗末、㬚(高宗)遣其世子倎入朝。世祖︀中統元年三月、㬚卒。命倎歸國、爲高麗國王、以兵衞送之、仍赦其境內」と云ひて、その赦の制書と四月の諭旨とを載せたり。
四度の征伐の第一は、定宗二年丁未、高麗の高宗三十四年、アムカン阿母罕卽アムカン阿母侃の東征にして、高麗史に「七月、蒙古元帥アムカン阿母侃、領兵來屯鹽州。八月、遣起居舍人金守精︀特アムカン阿母侃。去年冬、蒙古四百人、入北塞諸︀城、至于遂安縣、托言捕獺、凡山川隱僻、無不覘知。國家以和好、殊不爲意。至是百姓避匿者︀、竝被驅掠、鮮有脫者︀」、とあり。太宗の末年以來、高麗の使每年蒙古に朝し、或は年に二たび往き、たゞ定宗元年のみは遣使の事高麗史に見えず、この年以後は又年年絕えざるに、高麗傳に「歲貢不入」と云へるは、疑ふべし。朝貢の使手ぶらにて往きたるにもあるまじ。
第二の征伐は、憲宗三年癸丑、高宗四十年、諸︀王エグ也古卽エク也窟大王の東征なり。憲宗三度の征伐は、高麗史に甚委しければ、今世家列傳に據りてその槪要を摘記せん。高麗の高宗は、太宗四年七月江華島に竄れてより、十年十二月使を遣し表を上りて哀を請ひ、十三年四月族子王綧を人質に送りし後も、高宗の君臣は島より出でざりき。蒙古人は、水戰に甚拙くして、島籠りせるものに向ひてはいかにともすること能はざれば、[443]「眞意歸順するならば、島籠りを罷めて、舊都︀に回れ」と幾たびも幾たびも諭し威し責むれども、高麗人は、百方辯疏して命に從はず、益江華の要害を固めたりき。「高宗三十七年庚戌(憲宗卽位の前年)六月、蒙古使タカ多可・ムラオスン無老孫等來、審出陸之狀。到昇天府館︀、責王出迎江外。王不出、遣新安公佺、迎入江都︀、宴於壽昌宮。七月、遣使如蒙古。八月、築江都︀中城。十二月、蒙古使洪高伊等來。王迎于梯浦宮。三十八年辛亥(憲宗元年)正月、宴蒙便于梯浦宮。導入江都︀。二月、遣同知樞密院事崔璟、上將軍金寶鼎如蒙古。七月、復遣使如蒙古。十月、蒙古使ツアンコン將困、洪高伊等來。王出迎于梯浦。皇帝新卽位、詔國王親朝、及令還舊京。三十九年壬子(憲宗二年)正月、遣樞密院副使李峴、侍郞李之蔵如蒙古。五月、始營昇天府城廓。蒙古東京路官人アムカン阿母侃、通事洪福︀原等、詣帝所言「高麗築重城、無出陸歸款意。請發兵伐之」。帝許之。李峴至、帝問「爾國出陸否」。峴承崔沆之旨、答以今年六月乃出。帝乃留峴、遺タカ多可・アト阿土等來審出陸之狀。密勅曰「汝到彼國、王出迎于陸、雖百姓未出、猶可也。不然、則待汝來、當發兵致討」。七月、タカ多可等至。峴書狀官張鎰、隨タカ多可來、密知之、具白王。王以問崔沈。對曰「大駕不宜輕出江外」。王從之、遣新安公佺出迎之、請蒙使入梯浦館︀、王乃出見。宴未罷、タカ多可等以王不從帝命、怒而還」。崔沈は、高麗の權臣崔忠獻の孫、崔瑀の子にして、父祖︀にも劣らざる專橫の臣なり。「四十年癸丑(憲宗三年)四月、原州民被擄蒙古者︀、還言「帝命皇弟シヨンチユ松柱、帥兵一萬、道東眞國、入東界、アムカン阿母侃・洪福︀源、領麾下兵、趣北界、皆屯大伊州」」。憲宗の弟にシヨンチユ松柱と似たる名なし。タチユ塔出の傳のサンギ桑吉、タング唐兀のチヤガン察罕の傳(從孫イリサカ亦力撒合の條)なるサンギ算吉、シユヂハツサル搠只哈撒兒の子イサンゲ移相哥にして、祕史にエスンゲ也松格とある人か。この時ブセンワンヌ蒲鮮萬奴の國は已に亡びたれども、ワンヌ萬奴の舊部なるヂユチン女眞の民を高麗にては東眞と呼び居たるなり。「五月、蒙古エク也窟大王遣アト阿豆等來」。エク也窟は、憲宗紀のエグ也古またエフ耶虎、アト阿豆は、前年のアト阿土なるべし。「七月、北界兵馬使、報蒙兵渡アルー鴨綠江。卽移牒諸︀道、督民入保山城海︀島。蒙兵涉大同江下馬灘、指古和州。永寧公綧在蒙古軍、貽書崔沈曰「去年秋、皇帝怒大駕不渡江迎使、發兵問罪。吾無計沮之云云。今國之安危、在此一擧。若上不出迎、須令太子若安慶公出迎、云云」。李峴降蒙古、導エク也窟而來、常隨蒙軍、諭降諸︀城。亦貽書曰「吾二年見留、觀其行事、殊異前聞、實不嗜殺︀人。去今年賜詔條件、固非難事。何不出迎。云云」。宰樞會議、皆曰「出迎、便」。崔沆不聽。八月、也窟遺人傳詔於王、責以六事。蒙古兵陷西海︀道椋山城」。元史に禾山とあるは、椋山の誤なり。「王遣崔束植、致書于エク也窟屯所、請哀。時エク也窟在土山、使人謂東植曰「帝慮國王稱老病不朝、欲驗眞否。王之來否、限六日更來報」。東植答曰「兵間、主上豈能速來」。蒙兵來屯高和二州之境、候騎至廣州、焚盧舍。蒙兵陷東州山城。九月、遣高悅致書エク也窟、請哀曰「惟大王矜恤班師、俾我東民安堵、則當明年躬率臣僚、出迎帝命」。蒙兵陷春州城、十月、圍登州、降楊根城天龍山城、陷襄州。王命文武四品以上、議却兵之策。僉曰「莫如太子出降」。王怒、詰之曰「議從誰出」。宦者︀閔陽宣進曰「崔侍中亦可其議」。王怒稍霽。十一月、遣永安伯僖、僕射金寶鼎、致書子エク也窟・アムカン阿母侃・ウウエ于越・王萬戶・洪福︀源等、遺土物」。王萬戶は、元史王珣の傳なる珣の子榮祖︀なり。傳に曰く「己丑(太宗元年)授北京等路征行萬戶、換金虎符、(三年辛卯)伐高麗、圍其王京。高麗王力屈、遣其兄淮安公奉表納貢。(五年癸巳)進討ワンヌ萬奴擒之。云云。(七年乙未)再從征高麗、破十餘城。(十三年辛丑)高麗遣子綧入質。帝賜錦衣旌其功。(憲宗三年癸丑)又從諸︀王エク也忽、略地三韓、降天龍諸︀堡、皆禁暴掠、民悅服之。破五里山城、請於主將全其民」と云へり。五里山城の戰は、高麗史に見えず。「エク也窟在忠州得病、留アムカン阿母侃洪福︀源圍守、率精︀騎一千北還。永安伯信等、追至舊京保定門外、致國贐禮物、且乞退兵。エク也窟責云「國王出江外、迎吾使、則兵可退也」。遂遣モングタイ蒙古大等十人來。王渡江、迎于昇天新闕。モングタイ蒙古大謂王曰「自大軍入境以來、一日死亡者︀、幾千萬人。王何惜一身、不顧萬民之命乎。王若早出迎、安有無辜之民、肝腦塗地者︀乎。自今以往、萬世和好、豈不樂哉」。遂酣飮而去。王還江都︀。[444]喬桐別抄伏兵平州城外、夜入虜︀營、擊殺︀甚聚。校尉張子邦持短兵、手殺︀屯長二十餘人。十二月、蒙兵解忠州圍。宰樞請遣安慶公淐乞班師、王不允。參知政事崔璘切諫。王不得已而頷之、遣淐如蒙古、使璘從行。凡進奉及饋遺金銀布帛、不可勝計、府庫皆竭、科斂百官銀布、以充其費。四十一年甲寅(憲宗四年)正月、淐至蒙古屯所、設宴張樂饗士。アムカン阿母侃還師。京城解嚴。八月、淐還自蒙古。初至江都︀、遣人奏曰「臣久染腥膻之臭︀。經宿乃進」。王曰「自爾去後、祈︀天禱佛、曷日相見。今幸好還、何宿於外。悉焚爾所著︀衣裳、更衣卽來」至夜淐入謁︀。王及左右皆泣」」。
第三の征伐は、憲宗四年甲寅、卽エク也窟の軍の引揚げたる年、ヂヤラルダイ札剌兒帶卽チヤラタイ車羅大の東征なり。高麗史に、高宗四十一年甲寅七月(安慶公渇の還る前)に「安慶府典籤還自蒙古、言帝使車羅大主東國」とあるは、憲宗紀の「以ヂヤラルダイ札剌兒帶爲征東元帥」を言へるなり。かくてその月「王聞蒙古使タカ多可等來、移御昇天新闕。蒙使諭曰「國王雖已出陸、侍中崔沆尙書某某等不出、是爲眞降耶」。仍責誅降城官吏。王徵趙邦彥・鄭臣旦、乘傳入京、見於多可、以示不誅」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉。二人は、皆天龍城の降將にして、海︀島に流されたりしものなり。「タカ多可還、附表請罷兵。王還江都︀。蒙古候騎至西海︀道。八月、蒙古軍入西北鄙。候騎至廣州。王命大將軍李長、詣蒙兵屯所普賢院、贈︀チヤラタイ車羅大等金銀酒器︀皮幣。チヤラタイ車羅大曰「君臣百姓出陸、則盡剃其髮。否則以國王還。如一不從、兵無回期」。九月、チヤラタイ車羅大攻忠州山城、十月、攻尙州山城。遣崔璘如チヤラタイ車羅大屯所、請罷兵。チヤラタイ車羅大言「崔沈奉王出陸、則兵可罷」。是歲、蒙兵所虜︀男女、二十萬餘人、殺︀戮者︀不可勝計、所經州郡、皆爲煨燼。自有蒙兵之亂、未有甚於此時也。四十二年乙卯(憲宗五年)正月、遣平章事崔璘如蒙古、獻方物、仍乞罷兵。チヤラタイ車羅大屯于舊京保定門外、二月、遣アト阿豆等來。王宴于梯浦館︀。京城䚟嚴。三月、諸︀道郡縣、入保山城海︀島者︀、悉令出陸。四月、蒙兵屯義靜州之境、自兄弟山至大府城、彌滿山野。六月、遣金守剛如蒙古、進方物。八月、蒙兵到昇天府、京城戒嚴。九月、崔璘與蒙古使來、奏曰「チヤラタイ車羅大永寧公領大兵到西京、候騎已至金郊」。十月、蒙兵踰大院嶺。四十三年丙辰(憲宗六年)三月、遣愼執平等於チヤラタイ車羅大屯所。蒙兵到窄梁外。崔沈使都︀房分守要害。四月、愼執平還、言「チヤラタイ車羅大永寧公云「若國王出迎使者︀、王太子親朝帝所、兵可罷還」。時チヤラタイ車羅大永寧公屯潭陽、洪福︀源屯海︀陽。宰樞會議、計無所出。王曰「儻得退兵、何惜一子出迎」。復遣執平、寄チヤラタイ車羅大書、日「大兵回來、惟命是從」。蒙兵入忠州、屠州城。五月、執平還、言「チヤラタイ車羅大怒曰「若欲和親、爾國何多殺︀我兵。死者︀已矣。擒者︀可還」」。仍令三十人伴行。六月、チヤラタイ車羅大屯海︀陽無等山、遣兵一千南掠。八月、チヤラタイ車羅大永寧公洪福︀源等、到甲串江外、大張旗幟、牧馬于田、登通津山、望江都︀、退屯守安縣。金守剛從帝入ホリム和林、乞罷兵。帝以不出陸爲辭。守剛奏曰「譬如獵人逐獸入於窟穴、持弓矢當其前。困獸何從而出」。帝嘉之曰「汝誠使乎」。遂遣徐趾來、命班師。九月、守剛等至。チヤラタイ車羅大等收軍北還。十月、京城䚟嚴。自乙卯八月至今、凡十五月而罷兵」。
第四の征伐は、憲宗七年丁巳、高宗四十四年、チヤラタイ車羅大等の再征なり。高麗史に曰く「四十四年正月、宰樞議以蒙古連歲加兵、竭力事之無益、停春例進奉。閏四月、中書令崔沈死、子竩承家。五月、遣金守剛如蒙古。蒙古兵入泰州、殺︀副使崔濟。六月、蒙古候兵入開京。遣李凝犒之。蒙兵入南京。又遣李凝請退兵。フオバタイ甫波大云「去留在チヤラタイ車羅大處分」。蒙兵至稷山。遣金軾詣屯所、請客使三人來。軾伴客使、如チヤラタイ車羅大屯所。チヤラタイ車羅大曰「王若親來、我卽回兵。又令王子入朝、永無後患」。七月、宰樞等請遣王子講和於蒙古、不聽。崔滋金寶鼎等力請、許之。宰樞更奏「先遣宗親觀變、然後可遣也」。乃遣永安公僖、贈︀チヤラタイ車羅大銀瓶一百酒果等物。チヤラタイ車羅大曰「太子到日、當退屯鳳州」。八月、宰樞奏請遣太子、以活民命。王猶豫未決。宰樞又遣金軾、吿チヤラタイ車羅大曰「待大軍回歸、太子親朝帝所」。チヤラタイ車羅大許之。復遣軾賷酒果銀幣獺皮等、餞チヤラタイ車羅大、以觀其意。時內外蕭然、計無所出、但祈︀禱佛字神︀祠而已。帝方自將伐宋。金守剛見帝於行營、懇乞回軍。帝許之、仍發使、九月、與守剛偕來。[445]十二月、遣安慶公淐左僕射崔永如蒙古。四十五年戊午(憲宗八年)二月、蒙兵城義州。三月、柳璥等殺︀崔竩、復政于王。四月、王聞チヤラタイ車羅大遣使來覘出陸之狀、出百官于昇天府、移市肆、修宮闕。五月、王涉海︀、御昇天府闕、引見チヤラタイ車羅大使。六月蒙古ヨチユダル余愁達・フオバタイ甫波大等、各率一千騎、來屯嘉郭二州。チヤラタイ車羅大遣バホ波乎只等來。王幸梯浦館︀、引見バホチ波乎只。傳チヤラタイ車羅大之言、日「皇帝勅云「高麗國如實出降、雖雞犬一無所殺︀。否則攻破水內」。今國王及太子出降西京、則便可回兵」。王曰「予旣老病、不可遠行。乃遣永安公僖、知中樞院事金寶鼎、如チヤラタイ車羅大屯所。蒙兵候騎到鹽白等州。ヨチユダル余愁達屯兵平州寶山驛。ヨチユダル余愁達語金寶鼎曰「皇帝以高麗之事、屬我與チヤラタイ車羅大。汝知之乎。吾以爾國降否決去留耳。國王雖不出迎、若遣太子迎降軍前、卽日回軍。否則縱兵入南界」。寶鼎對曰「太子當來見耳」。寶鼎與ヨチユダル余愁達所遣客使來。王幸梯浦館︀引見。七月、復遺寶鼎如ヨチユダル余愁達屯所、請以數騎來見太子於白馬山。ヨチユダル余愁達曰「我往見太子乎。太子來見我乎」。寶鼎曰「非敢煩大官人見枉、只畏大兵耳」。ヨチユダル余愁達曰「太子如欲見我、期猫串江邊」。宰樞以ヨチユダル余愁達去昇天府漸遠、而召見太子、恐有不測之變、遣譯語康禧齎酒果往慰、仍覘事變。又遣李祿綏等見ヨチユダル余愁達、曰「太子有疾、待疾愈往見」。余愁達曰「已知汝國之詐」。乃縱兵侵掠。又遣使來、日「國王縱不出迎、太子有來見之約、吾欲回兵。然使者︀往復數四、而太子不至、是侮︀我也。今欲知一決、又遣使介。惟國王生死之」。王亦不出迎、遣人辭謝」。ヨチユダル余愁達の音、エスデル也速迭兒に稍似たり。チヤラタイ車羅大は、果して祕史のヂヤライルタイゴルチ札剌亦兒台豁兒赤ならば、ヨチユダル余愁達は、ヂヤライルタイ札剌亦兒台の後援に出征したるエスデルゴルチ也速迭兒豁兒赤ならん。「皇帝以高麗之事、屬我與チヤラタイ車羅大」と云へるを見ても、たゞの從征の偏裨に非ざるを知るべし。「八月、永安公僖還自チヤラタイ車羅大屯所。チヤラタイ車羅大以兵來屯舊京。遊騎散入昇天府交河峯城守安童城、掠人民、牧羊馬チヤラタイ車羅大遣モングタイ蒙古大等來、曰「太子出、則兵可退矣」。王曰「太子有病、豈能出哉」。蒙兵攻西海︀道嘉殊窟、陽波穴、皆降之。九月、蒙兵自窄梁來屯甲串江外、籠絡山野。十月、遣金光宰、饗チヤラタイ車羅大、請退兵。十二月、蒙古サンギ散吉大王ボチ普只官人等、領兵來屯古和州地。龍津縣人趙暉、定州人卓靑等、以和州迤北附蒙古、蒙古置雙城總管府于和州、以暉爲總管、靑爲千戶。遣朴希實・趙文柱・朴天植如蒙古、請ダルハチ達魯花赤曰「本國所以未盡事大之誠、徒以權臣擅政、不樂內屬故爾。今崔竩已死、卽欲出水就陸、以聽上國之命。而天兵厭境、譬之穴鼠、爲猫所守、不敢出耳」。四十六年己未(憲宗九年)正月、遣李凝如西京王萬戶サコチ沙居只屯所。王萬戶謂凝曰「汝國王不愛百姓乎。何聽尹椿松山之言、不出降乎。降則秋毫不犯」。時王萬戶率軍十領、修築西京古城、又造戰艦開屯田、爲久留計」。尹椿松山は、憲宗六年、蒙古の軍より逃げて高麗に降れる人なり。王萬戶の屯田の事は、王珣の傳に、榮祖︀「遂下甕山城・竹林寨・苦苫數島。帝嘉其功、賜以金幣、官其子興千戶。仍賞其部曲、移鎭高麗平壤。帝遣使諭之曰「彼小國負險自守、釜中之魚、非久自死。緩急可否、卿當熟思」。榮祖︀乃募民屯成、闢地千里、悉得諸︀島嶼城壘。高麗遣其世子倎出降、遂以倎入朝」とあり。「以蒙兵大至、令三品以上、各陳降守之策。衆論紛紜。崔滋金寶鼎曰「江都︀地廣人稀、難以固守。出降便」。朴希實・趙文柱、先至チヤラタイ車羅大屯所、言我國將復舊都︀、遣太子朝見。チヤラタイ車羅大等喜曰「若太子來、則須及四月初吉」。三月、朴天植借チヤラタイ車羅大使者︀ウンヤンカタイ溫陽加大還。ウンヤンカタイ溫陽加大問太子入朝之期。王以五月對。ウンヤンカタイ溫陽加大怒曰「我兵進退、在太子行李遲速。若待五月、何其晩也」。王不得已、約以四月。ウンヤンカタイ溫陽加大又云「欲見太子面約」。太子出宴客使于重房」。ウンヤンカタイ溫陽加大は、ウリヤンカタイ兀哴合台の異譯なり。ウン溫はウル兀兒に通じ、ウルヤン兀兒陽はウリヤン兀哴なり。されどもこのウリヤンカタイ兀哴合台は、何姓の人なるか知らず。スブタイ速不台の子なるウリヤンカ兀良合のウリヤンカタイ兀良合台は、この頃交趾より宋の境に入りて働き居たれば、こゝのウリヤンカタイ兀哴合台とは異なり。「令州縣守令、率避亂民、出陸耕種。四月甲午、遣太子倎奉表如蒙古、李世材・金寶鼎等四十人從之、斂百官銀布、以充其費。國贐、駄馬三百餘匹、以馬不足、抑買路人馬。五月、チヤラタイ車羅大卒。六月、蒙古元帥ヨチユダル余愁達・シヨンキ松吉大王、遣チユチヤ周者︀・トーコー陶高等來、毀江都︀城郭」。シヨンキ松吉は、前に見えたるシヨンチユ松柱・サンキ散吉の異譯にして、祕史の[446]エスンゲ也松格なるべし「壬寅、高宗薨。以太子未還、太孫諶權監國事。八月、朴希實・趙文柱、偕蒙使シラムン尸羅問等來。太孫迎詔于重房。九月、エスダル也速達使者︀カタイ加大・チタイ只大等來、巡審水內及陸居之狀。十一月、エスダル也速達使者︀オサン於散等、偕李世材來、審出陸之狀。於是發軍三十領、創宮闕於舊京」。エスダル也速達は、卽ヨチユダル余愁達の異譯にして、祕史のエスデル也速迭兒に最近し。エスデル也速迭兒は、實にエスダル也速荅兒とも稱ふる名にして、高麗にては達をダルと讀めば、この也速達は、蒙古の音を正しく寫したるなり。祕史のヂヤライルタイ札剌亦兒台とエスデル也速迭兒とは、果して高麗史のチヤラタイ車羅大・エスダル也速達ならば、この二人の高麗征伐は、祕史の成りたるより遙に後の事なれば、彼の二句は、後人の攙入と見ざるべからず。チヨルマカン綽兒馬罕のバクタト巴黑塔惕〈[#ルビの「バクタト」は底本では「バグトト」。実録で「巴黑塔惕」のルビが「バクタト」だったことと「塔」を「ト」と読む例が他にないことから修正]〉征伐、スベエタイ速別額台の諸︀部征伐の事は、皆實錄卷十一にありて、卷十二にはまづ後援の出征を記し、次にその成功を記したるに、女直高麗征伐の事は、前に何とも云はずして、いきなり「先に出征したる云云」とあるは、不都︀合なる書方なりと思ひしが、攪入の文と見れば、怪むに足らず。
太子倎の國に回り位を嗣ぎたる始末は、元宗世家に詳かなり。「初憲宗皇帝南征、駐蹕釣魚山。王自燕京赴行在、過京兆、至六盤山。(七月)憲宗皇帝晏駕、而アリボカ阿里孛哥、阻兵朔野、諸︀侯虞疑、罔知所從。時皇弟クビレイ忽必烈、觀兵江南。王遂南轅、間關至梁楚之郊。皇弟適在襄陽、(閏十一月)班師北上。王迎謁︀道左。皇弟驚喜曰「高麗、萬里之國。自唐太宗、親征而不能服。今其世子自來歸我、此天意也」。大加褒奬、與俱(至燕、中統元年)至開平府。本國以高宗薨吿。乃命ダルハチソリタイ達魯花赤束里大等、護其行歸國」。クビレイ忽必烈の開平に至れるは、世祖︀紀に三月戊辰朔とあり、太子倎は二月訃を聞きて、その月に送り還されたれば、開平には至らずして、燕京より東に還れるならん。又この前の文に「二月壬戌、王在京兆府聞訃」とある京兆府は、燕京の誤ならん。「江淮宣撫使趙良弼言於皇弟曰「高麗雖名小國、依阻山海︀、國家用兵、二十餘年、尙未臣附。前歲太子倎來朝適變輿西征、留滯者︀二年矣。供張疏薄、無以懷輯其心。一旦得歸、將不復來。宜厚其館︀穀︀、待以蕃王之禮。今聞其父已死。誠能立使爲王、遣送還國、必感恩戴德、願修臣職。是不勞一卒、而得一國也」。陝西宣撫使廉希憲亦言之。皇弟然之、卽日改館︀、顧遇有加」。かくて太子倎は、二月の末に西京に至り、八九日留まり、三月十七日「甲申、與ソリタイ束里大入開京、行視︀營築」。二十日丁亥「王與ソリタイ束里大同舟渡海︀、自承平門入國」。二十四日辛卯「クビレイ忽必烈大王卽皇帝位」。その時發せられたる赦詔は、四月九日丙午に高麗に達し、二十一日戊午「王卽位于康安殿、灌頂受菩薩戒」。二日己亥の詔諭は、二十四日辛酉に高麗に達せり。
太宗のグユク古余克に怒れる時、モンゲアルチダイ忙哥阿勒赤歹と共に諫めたるコンゴルタイヂヤンギ晃豁兒台掌吉(實錄六三八頁)は元史は見當らず。憲宗元年にエスントアンヂタイ葉孫脫按只䚟と共に誅せられたるチヤンギ暢吉は、シヤンギ掌吉に似たれどもいかゞにや。
六。ブヂエク不者︀克卽ヂヤライル札剌亦兒のボチエ撥徹。
太宗のグユク古余克を叱れる言の內に「スベエタイ速別額台・ブヂエク不者︀克二人の蔭に行き」とあるブヂエク不者︀克(實錄六四〇頁)を「トルイ拖雷の子、モンゲ蒙格の弟ボチヨ撥綽大王」と注したりしが、猶考ふれば、トルイ拖雷の子を擧げんには、ボチヨ撥綽よりも長子モンゲ蒙格を云ふべきなり。又諸︀王の名は、スベエタイ速別額台の下に列ねらるべしとも思はれず。然らばこのブヂエク不者︀克は、スベエタイ速別額台と共に征西に從へる武臣にして、偶ペルシヤ珀兒沙・ルシア嚕西亞・ハンガリア洪噶哩亞の人に聞えざりし人なるべし。元史アラカン阿剌罕の傳に「祖︀ボチエ撥徹、事太祖︀、爲ホルチ火而赤、又爲ボルチ博而赤、攻城掠地、數有戰功。太宗卽位、仍以其職從、征隴北・陝西、身先戰士、死焉」とあるヂヤライル札剌亦兒のボチエ撥徹は、卽ブヂエク不者︀克には非ずや。太祖︀の金に攻め入りたる時、親征錄にボチヤ薄察、太祖︀紀にボチヤ薄刹、趙柔の傳にバヂヤ八札とあるは、必このボチエ撥徹なるべし。ボチエ撥徹の父エリウガン也柳干は、「幼隷皇子ユリギ岳里吉、爲衞[447]土長」。世系表に太宗の七子を列記して、ユリギ岳里吉の名なし。史臣附記して「按、憲宗紀有云「太宗以子ユリヤン月良不材、故不立爲嗣」。今考經世大典帝系篇及歲賜錄、並不見月良名字次序。故不敢列之世表」とあり。故に考異に「ユリギ岳里吉、豈卽ユリヤン月良之轉聲乎」と云へり。「歲乙未(太宗七年)、從皇子コチユクドト闊出忽都︀禿南征、累功授萬戶、云云」。クドト忽都︀禿のト禿はフ虎の誤にて、卽シキクドク失乞忽都︀忽なり。その後「統大軍、攻淮東西諸︀郡、戊午(憲宗八年)戰死楊州」。その子アラハン阿剌罕は、父の職を襲ぎ、諸︀翼蒙古軍馬都︀元帥となり、武功甚多かりき。憲宗九年には、世祖︀に從ひ江を渡り鄂に至り、世祖︀位に卽き、皇弟アリブゲ阿里不哥の兵を稱げたる時、その黨アランダイルクンドハイ阿藍帶兒渾都︀海︀の兵をシムント昔門禿(シムルト昔木兒禿)に擊破り、中統三年、濟南の叛將李壇を平げ、四年、アチユ阿朮に從ひ宋を伐ち、五年より十年まで襄陽樊城の攻圍に與り、十一年、丞相バヤン伯顏に從ひ宋を伐ち、十三年、宋降り、浙東園中諸︀郡を平げ、十四年江東を宣慰し、「十八年、召拜中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬、征日本。行次慶元、卒于軍中」。この時死なざりせば、スルドス速勒都︀思のアタハイ阿塔海︀の如き大失敗に陷るべかりしを、誠に運好き人なりけり。
七。シラカン失喇罕、ブラカダル不剌合荅兒、アマル阿馬勒、ゴリカチヤル豁哩合察兒、ヤルバク牙勒巴黑、カラウダル合喇兀荅兒。
コンゴルタイ晃豁兒台と共にヂヤサウ札撒兀の官になれるシラカン失喇罕(實錄六四四頁)、宿衞の長八人の內、總長カダアン合荅安と共に第一班の長たるブラカダル不剌合荅兒、第二班の長二人の一なるアマル阿馬勒、第三班の長二人の一なるゴリカチヤル豁哩合察兒(六四六頁)、第四班の長ヤルバク牙勒巴黑・カラウダル合喇兀荅兒二人(六四七頁)、この人人は、未外に見當らず。ブラカダル不剌合荅兒は、下文にブルカダル不勒合荅兒ともボルカダル孛勒合荅兒ともあり。
第二班の長の一人なるチヤナル察納兒第三斑の長の一人なるカダイ合歹は、憲宗元年にエスントアンヂタイ葉孫脫按只䚟等と共に誅せられたるヂヤナンカダ爪難合荅なるべし。
前に知りたりしアルチダイ阿勒赤歹と共に侍衞の第一車の宿老となれるコンゴルタカイ晃豁兒塔孩(實錄六四八頁)は、前文に官人アルチダイ阿勒赤歹コンゴルタイ晃豁兒台と竝べ擧げたるコンゴルタイ晃豁兒台と同じ人ならんか。憲宗紀元年卽位の處に「以コングル晃兀兒留守ホリム和林宮闕帑藏」とあるコングル晃兀兒は、コンゴルタイ晃豁兒台のタイ台を略けるにやとも見ゆれども、ドーソン多遜の史に「ヂユチカツサル拙只合撒兒の子クンクル坤庫兒をカラコルム喀喇科嚕姆の太守とせり」とあるに據れば、祕史に「前に知りたりしものの親族より任ぜり」と云へる侍衞の番直の宿老とは別なる人なり。世系表は、コングル黃兀兒王をシユヂハツサル搠只哈撒兒王の會孫、イサンゲ移相哥大王の孫、シドル勢都︀兒王の第三子とせり。食貨志歲賜の篇にコングルタハイ黄兀兒塔海︀とあるは、卽コンゴルタカイ晃豁兒塔孩なり。
侍衞の第二班の宿老の一人なるテムデル帖木迭兒(實錄六四八頁)は、テマイチ鐵邁赤の傳に、太宗の時「從皇子コチユ闊出、クド忽都︀[ク忽]、行省テムダル鐵木荅兒、定河南、累有戰功」と見え、憲宗紀には、定宗崩じて後、アラトク阿剌脫忽の山に會せし諸︀大將の中にテムデル帖木迭兒の名あり。行省テムダル鐵木荅兒とあるに由りて考ふれば、食貨志歲賜の篇なるテムタイ忒木台行省、ヂヤライル札剌亦兒のアウルチ奧魯赤の父テムタイ忒木台は、卽この人ならんと思はる。祕史に「前に知りたりしものの親族」と云へるに[448]據れば、このテムタイ忒木台は、ヂヤライル札剌亦兒のブカ不合の親族なるべし。アウルチ奧魯赤の傳に曰く「父テムタイ忒木台、從太宗、征ハングリ杭里部、俘部長以獻。復從征西夏有功。特命行省事、領ウル兀魯・モング忙兀・イケレ亦怯烈・ホンギラ弘吉剌・ヂヤラル札剌兒五部軍、平河南、以功賜戶二千。嘗駐兵太原・平陽・河南、土人德之、皆爲立祠」。ハングリ杭里部は卽カングリ康里なり。カングリ康里西夏を征したるは太祖︀の時の事なれば、從太宗と云へるは誤れり。省事を行へるは太宗七年の南征の時なり。親征錄太宗四年の條にヲシユイダイホルチ惑水歹火兒赤とありて、沈曾植の「ヲシユイ惑水當作テム忒木」と云へるも、卽テムタイゴルチ忒木台豁兒赤なり。テムタイ忒木台は、太宗四年、卽金の正大九年春、史天澤の「略地京東、招降太康柘縣瓦岡睢州、追斬金將ワンヤンキンシヤンヌ完顏慶山奴於陽邑」の役に從ひ、その事は元史に見えざれども、金史內族承立卽キンシヤンヌ慶山奴の傳に「正大九年正月、自徐引兵入援、留雎州。聞大兵且至、懼此州不可守、退保歸德。二月、行次楊驛店、遇シヤウナイダイ小乃䚟(元史列傳のシヤウナイタイ肖乃台)軍、遂潰、キンシヤンヌ慶山奴馬躓被擒。大兵以一馬載キンシヤンヌ慶山奴、擁迫而行。道中見眞定史帥、云云。及見大帥テムダイ忒木䚟、誘之使招京城、不從、又偃蹇不屈。左右以刀斫其足折、亦不降。卽殺︀之」。シチヤンニユルホン石盞女魯歡の傳に「正大九年二月、以行樞密院事守歸德。乙丑、大元將テムダイ忒木䚟率眞定信安大名東平益都︀諸︀軍來攻。適キンシヤンヌ慶山奴潰軍亦至、城中得之、頗有鬭志、云云」。ブチヤコアンヌ蒲察官奴の傳に「天興元年(卽正大九年)十二月、從哀宗北渡。明年(太宗五年)正月、上至歸德。是時、大元將テムダイ忒木䚟守歸德。コアンヌ官奴旣總兵柄、請上北渡、再圖恢復、シチヤンニユルホン石盞女魯歡沮之。自是有異心矣」。三月、遂に亂を作してニユルホン女魯歡を殺︀し、朝官三百餘人を殺︀して權を擅にせり。「初コアンヌ官奴之母、自河北軍潰、北兵得之。至是上乃命コアンヌ官奴因其母以計請和。故コアンヌ官奴密與テムダイ忒木䚟議和事、令アリカ阿里合往言欲劫上以降。テムダイ忒木䚟信之、還其母、因定和計。コアンヌ官奴乃日往來講議、或乘舟中流會飮。其遣來使者︀二十餘輩、皆ヂユチキタン女直契丹人。上密令コアンヌ官奴以金銀牌與之、勿令還營、因知王家寺大將所在。故コアンヌ官奴畫斫營之策。五月五日祭天、軍中陰備火槍戰具、率忠孝軍四百五十人、自南門登舟、由東而北、夜殺︀外堤邏卒、遂至王家寺。上御北門、繫舟待之、慮不勝則入徐州而遁。四更接戰、忠孝初小却、再進。コアンヌ官奴以小船分軍伍七十、出柵外、腹背攻之、持火槍突︀入。北軍不能支、卽大潰、溺水死者︀、凡三千五百餘人。盡焚其柵而還」。その月コアンヌ官奴は、專橫を以て誅せられき。また續通鑑綱目宋の理宗端平二年(太宗七年)夏六月「蒙古主命テムダイ忒木䚟及張柔等侵漢︀。三年(太宗八年)春正月、蒙古將テムダイ忒木䚟寇江陵、統制李復明死之。三月、襄陽將王旻等作亂、以城降蒙古。夏四月、蒙古陷隨郢州荆門軍。秋八月、蒙古陷棗陽軍德安府。冬十一月、蒙古將テムダイ忒木䚟攻江陵。史嵩之遺孟珙救之。珙遣張順先渡、而自以全師繼之、變易旌旗服色、循環往來、夜則列炬照江、數十里相接。珙又遣趙武等與戰、珙親往節︀度、遂破蒙古二十四砦、還民二萬而歸」などあるは、宋史に據りて書きたるなり。元史には、太宗紀に「七年乙未春、遣皇子クチユ曲出及クトフ胡土虎伐宋。冬十月、クチユ曲出圍棗陽拔之、遂徇襄鄧入郢、虜︀人民牛馬數萬而還。八年丙申冬十月、皇子クチユ曲出薨。張柔等攻郢州拔之。襄陽府來附」。タングト唐兀惕のチヤガン察罕の傳に「皇子クチユクドト闊出忽都︀禿伐宋、命チヤガン察罕爲斥候。又從親王クウンブハ口溫不花南伐。歲乙未、克棗陽及光化軍。未幾、召クウンブハ口溫不花赴行在、以全軍付チヤガン察罕」。張柔の傳に「歲乙未、從皇子コチユ闊出、拔棗陽、繼從大師タイチ太赤攻徐邳」などあるのみにて、忒木台の名は見えず。大帥タイチ太赤は、エンヂギタイ燕只吉台のチエリ徹里の曾祖︀なり。姚樞の傳に曰く「歲乙未南伐、詔樞從楊惟中、卽軍中、求儒道釋醫卜者︀。會破棗陽、主將將盡坑之。樞力辨非詔書意、他日何以復命。乃蹙數人、逃入篁竹中脫死。拔德安、得名儒趙復、始得程頤朱熹之書」。趙復の傳にも「德安以嘗逆戰、其民數十萬、俘戮無遺。時楊惟中行中書省軍前、姚樞奉詔、卽軍中求儒道釋醫卜士、凡儒生掛俘籍者︀、輒脫之以歸。復在其中」、と云へり。この時殺︀戮を行へる主將は、續綱目に據れば、卽テムダイ忒木䚟なり。又棗陽の陷ちたるは、元史には太宗七年乙未とすれども、宋史に據れば、太宗八年丙申の八月なり。テムタイ忒木台の父シユルカン朔魯罕は、功臣の第四十五ユルカン余魯罕なることは、前の七〇〇頁〈[#「七〇〇頁」はママ。実録には該当頁が実在しない]〉に云へり。テムタイ忒木台の子アウルチ奧魯赤は、憲宗世祖︀に事へ、憲宗八年の親征に從ひ、至元六年、蒙古軍四萬戶を領し、十一年、丞相バヤン伯顏[449]に從ひ宋を伐ち、その武功は、ヂヤライル札剌亦兒のアラハン阿剌罕に似たり。二十三年、鎖南王トホン脫歡を佐けて交趾を征し、大德元年に卒しき。
テムデル忒木迭兒と共に侍衞の第二班の宿老となれる一人は、ヂエグ者︀古とあり。ヂエグ者︀古と云ふ名は耳新し。ブヂエグ不者︀古のブ不を脫したるにて、スベエタイ速別額台と共に西征に從へるブヂエク不者︀克、卽ヂヤライル札剌亦兒のボチエ撥徹ならん。これも、ヂヤライル札剌亦兒のブカ不合の親族なるべし。
侍衞の第四班の宿老を輔くるモンクタイ忙忽台(實錄六四九百)は、前に知りたりしモンクト忙忽惕のドゴルクチエルビ朶豁勒忽徹見必の親族なるべければ、ヂヤライル札剌亦兒のヂヤライルタイ札剌亦兒台、ウリヤンカ兀哴合のウリヤンカタイ兀哴合台の如く、姓を名としたるならん。高麗史に見えたる憲宗三年十一月エク也窟大王の命を受けて高麗の朝廷に使したるモングタイ蒙古大、元史世祖︀紀に屢見えたるモングダイ忙古帶は、このモンクタイ忙忽台なるべし。世祖︀紀一に「中統元年五月、詔エンテムルモングタイ燕帖木兒忙古帶、節︀度黃河以西諸︀軍。詔平陽京兆兩路宣撫司、僉兵七千人、於延安等處守隘、以萬戶鄭鼎シラモングダイ昔剌忙古帶領之。七月、宋兵攻邊城。詔遺タイチウ太丑〈[#「丑」は底本では「※[#「𠃍/七」]」。「元史(四庫全書本)卷4第13丁」では「尹」(yǐn)に似た字。s:zh:元史/卷004に倣い発音が底本のルビ「チウ」に近い「丑」(chǒu)とした。]〉・ケレイ怯烈・モングタイ忙古帶、率所部合兵擊之。二年八月、初立勸農司、以モングタイ忙古帶爲涿州勸農使」。世祖︀紀三に「至元五年八月、命モングタイ忙古帶、率兵六千人、征西番ゲンド建都︀」。世祖︀紀四に「九年正月、勅皇子西平王アウルチ奧魯赤等、與四川行省エスダイル也速帶兒部下並モンゲダイ忙古帶等、同征ゲンド建都︀」。世祖︀紀五に「十一年正月、以モングタイ忙古帶等新舊軍一千五百人戌ゲンド建都︀」などあり。世祖︀紀二に「中統四年正月、陵州ダルハチモンゲ達魯花赤蒙哥戰死濟南、以其子モングダイ忙兀帶襲職。六月、以管民官兼統懷孟等軍エンサ俺撒戰歿汴梁、命其子モングダイ忙兀帶爲萬戶、佩金符」などあるは、太宗の時より仕へたるモンクタイ忙忽台に非ざること論なし。列傳卷十八なるタタル塔塔兒のモンゲタイ忙兀台も、「事世祖︀、爲博州路アウル奧魯總管、至元七年、又爲監戰萬戶、佩金虎符、八年、改鄧州新軍蒙古萬戶、治水軍于萬山南岸」などありて、世祖︀紀のモングタイ忙古帶と別の人なれば、祕史のモンクタイ忙忽台にも非ざるべし。又キダン契丹のエリユアハイ耶律阿海︀の長子も、モングタイ忙古台と云ひ、「在太祖︀時、爲御史大夫、佩虎符、監戰左副元帥、官金紫光祿大夫、管領キダン契丹漢︀軍、守中都︀招安水泊等處」とあれども、色目の人にて番直の官人となれる例なければ、祕史のモンクタイ忙忽台とは異なり。
十二。ウイウルタイ委兀兒台、アラツエン阿喇淺。
ウルウト兀嚕兀惕のチヤナイ察乃と共に營盤官となれるウイウルタイ委兀兒台(實錄六五五頁)、ヒユウヂン許兀愼のトクチヤル脫忽察兒と共にヂヤム站を整ふることを命ぜられたるアラツエン阿喇淺(六五九頁)は、何姓の人なるか知らず。
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