成吉思汗実録続編/1

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成吉思汗實錄續編。



壹 太祖︀の功臣。



弌。元史に傳ある者︀。

 太祖︀即位の時に名ざしたる八十八の功臣の內にて、元史に傳を立てられたるは、次の十人のみなり。


一。​イキレス​​亦乞咧思​​ブト​​不禿​駙馬。

 列傳卷五(元史一一八)、「​ボト​​孛禿​​イキレス​​亦乞列思​」氏は、功臣の第八十七なる​イキレス​​亦乞咧思​​ブトグレゲン​​不禿古咧堅​なり。太祖︀の妹​テムルン​​帖木倫​を娶り、​テムルン​​帖木倫​薨じて太祖︀の女​ホチンベキ​​火臣別吉​​ゴヂンベキ​​豁眞別乞​)を娶り、太祖︀即位の後「從太師國王​ムカリ​​木華黎​、略地遼東西、以功封冠懿二州、從征西夏、病薨。」その子​ソルハ​​鎖兒哈​は、「事太宗、與​ムカリ​​木華黎​取嘉州、降其民」とあるを、錢大昕の廿二史考異に「木華黎卒於太祖︀朝、亦無取嘉州事。嘉州、恐是葭州之譌。太宗當爲太祖︀」と云へり。また「​ソルハ​​鎖兒哈​要皇子​オチ​​斡赤​​コチユ​​闊出​)女​アント​​安禿​公主、生女、是爲憲宗皇后」とあるを、考異に「后妃傳、憲宗皇后無​イキレ​​亦乞列​氏、恐誤」と云へれども、后妃表に​チユビ​​出卑​三皇后​ミンリフドル​​明里忽都︀魯​ 皇后ありて、何氏とも云はざれば、その內の一人は、鎖兒哈の女なるべし。その外、​ボト​​孛禿​の子孫にて公主に尙したるものは、錢大昕の元史氏族表に據れば、十一人あり。


二。​オングト​​汪古惕​​アラクシ ヂギトクリ​​阿剌忽失 的吉惕忽哩​駙馬。

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 列傳卷五、「​アラウステギフリ​​阿剌兀思剔吉忽里​​オング​​汪古​部人」は、功臣の第八十八なる​オングト​​汪古惕​​アラクシデギトフリグレゲン​​阿剌忽失的吉惕忽哩古咧堅​なり。太祖︀の女​アラハイベキ​​阿剌海︀別吉​​アラカベキ​​阿剌合別乞​)は、初に​アラクシ​​阿剌忽失​に配し、次にその姪​ヂング​​鎭國​に配し、後に幼子​ボヤウカ​​孛要合​に配したる事は、實錄卷八、三二九、三三〇頁の注に云へり。​ヂング​​鎭國​の子​ネグタイ​​聶古台​は、睿宗の女​トムガン​​獨木干​公主に尙し、​ボヤウカ​​孛要合​の子孫にて公主に尙したるもの十人あり。


三。​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ムカリ​​木合黎​國王。

 列傳卷六(元史一一九)、「​ムカリ​​木華黎​​ヂヤラル​​札剌兒​氏」は、功臣の第三なる札剌亦兒の木合黎國王なり。あまたの功臣の中にて實に第一の元勳にして、太祖︀卽位の時は、​アルラト​​阿嚕剌惕​​ボオルチユ​​孛斡兒出​と竝びて左右の萬戶となり、「丁丑(太祖︀十二年)八月、詔封太師國王、都︀行省、承制行事。賜誓劵黃金印、曰「子孫傳國、世世不絕」。分​ホンギラ​​弘吉剌​​イキレス​​亦乞烈思​​ウルウ​​兀魯兀​​モング​​忙兀​等十軍及 ​ウエル​​吾也而​​キダン​​契丹​蕃漢︀等軍、竝屬麾下、且諭曰「太行之北、朕自經略。太行以南、卿其勉︀之」。賜大駕所建九斿大旗、仍諭諸︀將曰「木華黎建此旗、以出號令、如朕親臨也」。乃建行省于雲燕、以圖中原」。麾下に屬する諸︀軍の事は、親征錄に委しく、「戊寅(十三年)、封木華黎爲國王、總率​ワング​​王孤​部萬騎、​ホヂユル​​火朱勒​部千騎、​ウル​​兀魯​部四千騎、​モング​​忙兀​​ムゲ​​木哥​​ハンヂヤ​​漢︀札​千騎、​ホンギラ​​弘吉剌​部・​アンチ​​安赤​​ノヤン​​那顏​三千騎、​イキラ​​亦乞剌​部、​ボト​​孛徒​駙馬二千騎、​ヂヤラル​​札剌兒​部及​ダイスン​​帶孫​等二千騎、同北京諸︀部​ウエル​​烏葉兒​元帥​トハ​​禿花​元帥所將漢︀兵、及​ベラル​​北剌兒​所將 ​ギタン​​契丹​兵、南伐金國」とあり。戊寅と云へるは誤れり。金史宣宗紀にある、丁丑の冬、大元の兵益都︀・淄・沂・密等の州を下したるは、卽木合黎の南征にして、太祖︀紀にも木華黎の傳にも合へれば、その南征の命を受けたるは、必丁丑の年にありけん。何秋濤曰く「此錄載​ホンギラ​​弘吉剌​等止七軍、則本傳(十軍の)十、乃七之誤」。​ワング​​王孤​部は、​オングト​​汪古惕​なり。​ホヂユル​​火朱勒​部は、​ヲルフ​​倭勒甫​の史に​クシクル​​庫失庫勒​とあれば、​ヂユ​​朱​​シ​​失​の誤にて、その下に一字脫ちたるならん。但​クシクル​​庫失庫勒​と云ふ部の名は知らず。​ウル​​兀魯​部は、​ウルウト​​兀嚕兀惕​なり。​モング​​忙兀​​ムゲ​​木哥​​ハンヂヤ​​漢︀札​は、​モンクト​​忙忽惕​​モンコ​​蒙可​​ハルヂヤ​​哈勒札​、列傳​ウイダル​​畏荅兒​の子​モンゲ​​忙哥​、太宗紀の​モング​​蒙古​​ハンヂヤ​​漢︀札​なり。​ベレジン​​別咧津​​ムルゲ​​木勒哥​​ハルヂヤ​​哈勒札​と讀めるに據れば、​ムゲ​​木哥​の間に勒の字脫ちたるに似たり。​ホンギラ​​弘吉剌​​アンチ​​安赤​​ノヤン​​那顏​は、​オンギラト​​翁吉喇惕​​アルチ​​阿勒赤​​ノヤン​​那顏​​イキラ​​亦乞剌​​ボト​​孛徒​駙馬は、​イキレス​​亦乞咧思​​ブトグレゲン​​不禿古咧堅​​ヂヤラル​​札剌兒​​ダイスン​​帶孫​は、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ムカリ​​木合黎​の弟​ダイスン​​帶孫​郡王なり。​ウエル​​烏葉兒​元帥は、列傳卷七の​ウエル​​吾也而​、卽​サルムヂウト​​撒勒只兀惕​​ウエル​​兀也兒​​トハ​​禿花​元帥は、列傳卷三十六なる​キダン​​契丹​​エリユトハ​​耶律禿花​なり。​ベラル​​北剌兒​は、親征錄の前文、甲戌四月金主南遷の條に「契丹眾殺︀主帥​スウン​​素溫​而叛去、推​ヂヤダ​​斫荅​​ビシエル​​比涉兒​〈[#「ビシエル」は底本では「ビチエル」]〉​ヂヤラル​​札剌兒​爲帥、而還中都︀、遣使詣上行營納款〈[#「款」は底本では「※[#「上/示+欠」]」]〉」とあれば、札剌兒の札を北に誤れるか。又比涉兒札剌兒の中三字を脫して、比を北に誤れるならん。

 木華黎は、太祖︀十八年三月、年五十四歲にて薨じ、その子​ボル​​孛魯​、國王の爵を襲げり。​ボル​​孛魯​は、睿宗監國戊子の年に薨じ、長子​タス​​塔思​又の名は​チヤラウン​​査剌溫​襲ぎ、太宗二年、萬戶​インヂギタイ​​因只吉台​(祕史の​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​)と共に叛將武仙を敗り、潞州を復し、三年、太宗に從ひて、河中を定め、四年、諸︀王​アンチタイ​​按赤台​​カチウン​​合赤溫​の子​アルチダイ​​阿勒赤歹​)等と三峯山の戰に與り、五年、皇子​グユ​​貴由​に從ひ、​ブセンワンヌ​​蒲鮮萬奴​を平げ、七年、皇子​クチユ​​曲出​に從ひ、宋を伐ち、十一年薨じ、弟​スクンチヤ​​速渾察​爵を襲げり。​タス​​塔思​〈[#ルビの「タス」は底本では「アントン」。塔思(タス)は旣出であり、隣接行の安童(アントン)のルビを誤植したことが明確なので訂正]〉の第二子​バートル​​霸都︀魯​は、木華黎の傳に孛魯の第三子としたれども、錢大昕の考異氏族表は、元明善の撰れる​アントン​​安童​​バートル​​霸都︀魯​の子)の碑に據り、孛魯の孫、塔思の子なりと云へり。霸都︀魯の長子安童は、至元中、中書右丞相。列傳卷十三に委しき傳あり。安童の孫​バイヂユ​​拜住​は、英宗の時中書右丞相、逆臣​テシ​​鐵失​に殺︀されき。列傳卷二十三に傳あり。​スクンチヤ​​速渾察​の子四人、​フリンチ​​忽林赤​​ナヤン​​乃燕​​シヤンウイ​​相威​​サマン​​撒蠻​​フリンチ​​忽林赤​は、國王の爵を襲ぎ、​ナヤン​​乃燕​は、世祖︀より​セチエン​​薛禪​の號を賜はれり。乃燕の曾孫​ドルヂバン​​朶兒直班​は、順帝の朝の名臣、列傳卷二十六に傳あり。​シヤンウイ​​相威​は、至元二十年、江淮行省の左丞相、列傳卷十五に傳あり。​サマン​​撒蠻​の孫​ドルヂ​​朶兒只​は、順帝の時、中書右丞相にて國王を嗣ぎ、列傳卷二十六に傳あり、子​エンムゲシリ​​俺木哥失里​國王を襲げり。​タス​​塔思​の末弟​アリキシ​​阿里乞失​の子國王[416]​フスフル​​忽速忽爾​​フスフル​​忽速忽爾​の子國王​ドロタイ​​朶羅台​は、泰定の朝に仕へ、天曆二年、文宗に殺︀されき。​ドロタイ​​朶羅台​の弟​ナイマンタイ​​乃蠻台​は、列傳卷二十六に傳あり。天曆中、陝西行臺の御史大夫となりし時、「奉命送太宗皇帝舊鑄皇兄之寶於其後嗣​エンヂゲダイ​​燕只哥䚟​。考異に云く「按、​ジユチ​​朮赤​​チヤガタイ​​察合台​、皆太宗之兄。​エンヂゲダイ​​燕只哥䚟​、必其後也。而宗室世系表不著︀其名。泰定紀、泰定四年、諸︀王​エンヂギタイ​​燕只吉台​襲位、遣使來朝、蓋卽其人」。​ドーソン​​多遜​の世系表に據るに、察合台の五世の孫​イツセンブカ​​亦先不喀​薨じ、弟​デベク​​格別克​嗣ぎ、​デベク​​格別克​薨じ、子​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​嗣ぎたり。​イツセンブカ​​亦先不喀​は、仁宗紀皇慶元年に見えたる諸︀王​エツセンブハ​​也先不花​​デベク​​格別克​は、泰定三年九月に見えたる諸︀王​ケベ​​怯別​にして、​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​は、卽泰定四年七月の​エンヂギタイ​​燕只吉台​、卽こゝの​エンヂゲダイ​​燕只哥䚟​なり。乃蠻台は、順帝至元三年國王を襲ぎ、至正二年遼陽行省の左丞相。木華黎の弟​ダイスン​​帶孫​郡王の後なる​タタルタイ​​塔塔兒台​は、世祖︀の時、東平の​ダルハチ​​達魯花赤​となり、二子五孫皆次第にその職を襲げり。


四。​アルラト​​阿嚕剌惕​​ボオルチユ​​孛斡兒出​

 列傳卷六、「​ボルチユ​​博爾朮​​アルラ​​阿兒剌​氏」は、功臣の第二なる​アルラト​​阿嚕剌惕​​ボオルチユ​​孛斡兒出​なり。太祖︀卽位の時、「從容謂博爾朮及木華黎曰「今國內平定、我之與汝、多汝等之力。猶車之有轅、身之有臂。汝等宜體此勿・替」。遂以博爾朮及木華黎爲左右萬戶、各以其屬翊衞、位在諸︀將上」とあるは、實錄卷八太祖︀の勅に「​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合黎​二人は、我が善き事を引き進め、善からぬ事を引き止めて、この位に到らせたり。今衆の上に位して、九度の罪にな罪なひそ。孛斡兒出は、右手の​アルタイ​​阿勒台​山に倚れる萬戶を知れ。木合黎國王は、左手の​カラウン​​合喇溫​​ヂトン​​只敦​に倚れる萬戶を知れ」と云へる趣旨と、閻復の撰れる廣平の貞憲王(​ユシテムル​​玉昔帖木兒​)の碑に、祖︀父武忠王​ボールチユ​​博爾朮​の功を叙べて「左右萬夫長、位諸︀將之上首。以武忠居右、東平忠武王居左、翊衞辰極、猶車之有軸、身之有臂」と云へる字句とを取り鎔鑄して作れるなり。その後の事蹟は、傳に漏れたれども、太祖︀の西征に從へることは、祕史の文と西游記に萬戶​ボルヂ​​播魯只​と見えたるとにて明かなり。傳に皇子​チヤハダイ​​察哈歹​西域に封ぜられたる時​ボールチユ​​博爾朮​より敎を受けたりとあれば、西征より還りても健全なりしと見ゆれども、「未幾、賜廣平路戶一萬七千三百有奇爲分地、以老病薨、太祖︀痛悼之」とあれば、太祖︀より前に薨じたるなり。併四傑の內にては最後まで殘れり。

 博爾朮の子​ボロンタイ​​孛欒台​は、萬戶の職を襲げり。​ボロンタイ​​孛欒台​は、正しくは​ボロルダイ​​孛囉勒歹​なるべし。十三翼の戰にまづ變を吿げたる​イキレス​​亦乞咧思​​ボロルダイ​​孛囉勒歹​も、親征錄に​ブロンタイ​​卜欒台​​ボト​​孛禿​の傳に​ボロンダイ​​波欒歹​と書けり。​ボロンタイ​​孛欒台​の子​ユシテムル​​玉昔帖木兒​は、「世祖︀時、嘗寵以不名、賜號​ユリユルノヤン​​月呂魯那演​、猶華言能官也。弱冠襲爵、統​アンダイ​​按台​部眾」。​アンダイ​​按台​は、卽​アルタイ​​阿勒台​にして、その部眾は​ボールチユ​​博爾朮​の舊統べたる部眾なり。至元十二年、御史大夫。二十四年、叛王​ノヤン​​乃顏​を討じて大功あり、二十六年、太傅となり、出でて​ハンガイ​​杭海︀​を鎭め、成宗位に卽き、太師に進み、元貞元年薨じき。​ユシテムル​​玉昔帖木兒​の孫​アルト​​阿魯圖​は、順帝至正四年、中書右丞相、十一年太傅。列傳卷二十六に傳あり。博爾朮の四世の孫​ニウヂダイ​​紐的該​は、至正十七年、中書添設左丞相。列傳卷二十六に傳あり。


五。​フウジン​​許兀愼​​ボロクル​​孛囉忽勒​

 列傳卷六、「​ボルフ​​博爾忽​​フウジン​​許兀愼​氏。事太祖︀、爲第一千戶、歿於敵」とあるは、功臣の第十五なる​ボロクル​​孛囉忽勒​なり。四傑の一人にして、その傳は只これのみなるは、甚あつけなし。却てその從孫​タチヤル​​塔察兒​の處に「伯祖︀父​ボルフ​​博爾忽​、從太祖︀、起朔方、直宿衞、爲​ホルチ​​火兒赤​​ホルチ​​火兒赤​者︀、佩囊韃侍左右者︀也。由是子孫世其職。​ボルフ​​博爾忽​從太祖︀平諸︀國、宣力爲多。當時與​ムカリ​​木華黎​等、俱以功號四傑」とあるにつきて、錢大昕は「詳略可謂失當矣」と譏れり。

 ​ボルフ​​博爾忽​の子​トホン​​脫歡​は、千戶の職を襲ぎ、「從憲宗、四征不庭、有拓地功」とあるは、功臣の第六十なる​トゴン​​脫歡​なるべし。耶律楚材の傳に、太宗の時「侍臣​トホン​​脫歡​奏簡天下室女」とあるも、その人ならん。脫歡の孫​ユチチヤル​​月赤察兒​[417]は、至元十七年​ケセ​​怯薛​の長、明年宣徽使、成宗の時​ホリム​​和林​行省の右丞相太師洪陽王。考異には、姚燧の撰れる姚文獻公の神︀道碑に太師洪陽王之兄故承相​ムトゴル​​木土各兒​とあるを引き、「​ムトゴル​​木土各兒​、亦作​トムゴル​​土木各兒​。其爲丞相、蓋在中統初、而本紀表傳俱失之」と云へり。又考異氏族表に據れば、​ユチチヤル​​月赤察兒​の子七人、長子​トラハイ​​塔剌海︀​は中書右丞相太保、第三子​クワトウ​​𠇗頭​は太師錄軍國重事淇陽王、第五子​エツセンテムル​​也先鐵木兒​は中書右丞相洪陽王、第二子​マラ​​馬剌​の子​オンヂヤイテムル​​完者︀鐵木兒​は御史大夫太傅洪陽王などあり。​タチヤル​​塔察兒​の事は、後に云ふべし。


六。​ウルウト​​兀嚕兀惕​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​

 列傳卷七(元史一二〇)、「​チユチタイ​​朮赤台​​ウルウタイ​​兀魯兀台​氏」は、功臣の第六なる​ウルウト​​兀魯兀惕​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​なり。​チユチタイ​​朮赤台​の子​ケタイ​​怯台​は、功臣の第五十七なる​ケタイ​​客台​なり。傳に曰く「子​ケタイ​​怯台​、材武過人。自太宗及世祖︀、歷事四朝、以勞封德淸郡王、賜金印。丙申、賜德州戶二萬爲食邑。至元十八年、增食邑二萬一千戶、肇慶路連州德州泊屬邑俱隷焉」と云ひ、親征錄には、太祖︀癸酉居庸關の戰に「上留​ケタイ​​怯台​​ボチヤ​​薄察​等、頓軍拒守、遂將別眾西行、由紫荆口出。云云。乃命​ヂエベ​​哲別​攻居庸南口、出其不備破之、進長至北口、與怯台・薄察軍合。旣而又遣諸︀部精︀兵五千騎、合​ケタイ​​怯台​​ハタイ​​哈台​二將圍中都︀」とあり。太祖︀紀にはこの​ケタイ​​怯台​​ケテ​​可忒​と書き、郝​ホシヤンバード​​和尙拔都︀​の傳には「在郡王​ヒテ​​迄忒​麾下」と云ひ、黑韃事略に十七頭項を列記して​ケテ​​紇忒​郡王黑縫人と云へり。怯台の子​ドンヂンバード​​端眞拔都︀兒​は、「襲爵爲郡王。太宗時、與​イラハタイ​​亦剌哈台​戰勝、帝卽以​イラハ​​亦剌哈​妻賜之」。太宗の時の敵將に​イラハタイ​​亦剌哈台​と云へる人あるを聞かず。蓋祕史卷十一の​イレカダ​​亦列合荅​に同じく、金の二將​イラブア​​移剌蒲阿​​ワンヤンカダ​​完顏合達​を指せるに似たり。もし然らば、​イラハ​​亦剌哈​妻は、​イラ​​亦剌​の妻か​ハタイ​​哈台​の妻か定め難︀し。​イラハ​​亦剌哈​にては、​ワンカン​​王罕​の子​イラカ​​亦剌合​を想ひ起さしむ。太宗紀八年丙申、中原諸︀州の民戶を諸︀王貴戚に分け賜へる處に​ドンヂンモングカンヂヤ​​鍛眞蒙古寒札​とあるは、この​ドンヂン​​端眞​​モングト​​忙忽惕​​モンケハルヂヤ​​蒙可哈勒札​となり。​ドンヂン​​端眞​の弟​ハダ​​哈荅​​ハダ​​哈荅​〈[#ルビの「ハダ」は底本では「ハタイ」。「荅」を「タイ」と読む箇所は他に見当たらないので誤植と判断]〉の三子三孫、皆郡王に封ぜられき。


七。​ウリヤンカン​​兀哴罕​​スベエタイ​​速別額台​

 列傳卷八(元史一二一)、「​スブタイ​​速不台​、蒙古​ウリヤンカ​​兀良合​人」、列傳第九(元史一二二)、「​セブタイ​​雪不台​、蒙古部​ウリヤンハン​​兀良罕​氏」は、二つながら功臣の第五十一なる​ウリヤンカン​​兀哴罕​​スベエタイ​​速別額台​なり。​スブタイ​​速不台​は、功勞甚多く、本傳も頗委しけれども、誤謬又少からず。その西征を叙べたる所は、西國の諸︀史に據りて訂正すべし。

 ​スブタイ​​速不台​の子​ウリヤンカタイ​​兀良合台​は、「歲乙巳、領兵從定宗征​ヂユチン​​女眞​國、破​ワンヌ​​萬奴​於遼東。繼從諸︀王​バド​​拔都︀​、征​キムチヤ​​欽察​​ウルス​​兀魯思​​アボレル​​阿孛烈兒​諸︀部。丙午、又從拔都︀、討​ボレル​​孛烈兒​​ニエミス​​捏迷思​部平之。己酉、定宗崩云云」。これらの紀年 皆誤れり。乙巳は、癸巳(太宗五年)の誤、丙午は、辛丑(太宗十三年)の誤、己酉は、戊申(定宗三年)の誤なり。​キムチヤ​​欽察​等の征伐は、​ワンヌ​​萬奴​の征伐に關係なく、三年後(太宗八年丙申)の出師なれば、紀年を略きて「繼」と書きたるも非なり。​アボレル​​阿孛烈兒​は、次の​ボレル​​孛烈兒​とは異なり。秘史卷十一の​ボレル​​孛剌兒​、卷十二の​ブラル​​不剌兒​〈[#ルビの「ブラル」は底本では「ブラブル」。明治40年初版「成吉思汗実録」五八九頁(§270)に倣い修正]〉、卽​ブルガ​​佛勒噶​河の東に居りし​ボルガル​​孛勒噶兒​を元史地理志に​ブリアル​​不里阿耳​と書けるに由りて思へば、これは​ボレアル​​孛烈阿兒​の阿の字を上に飛ばしたるなり。​ボレル​​孛烈兒​​ナイニエミス​​乃捏迷思​は、​ポール​​玻勒​​ポランド​​玻關篤​人と獨逸︀人とにして、​ナイ​​乃​​キフ​​及​の誤なり。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「獨逸︀人を、​ルシア​​嚕西亞​の史には​ニエムツイ​​尼額姆次​(單稱​ニエメツ​​尼額篾慈​と云ひ、​ボヘミア​​孛赫米亞​人は夙くより​ネムツイ​​捏姆次​と云ひ、​ビザンチン​​必贊靑​の古史には​ネメツイ​​捏篾次​また​ネミツイ​​捏米次​と云ひ、ある​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒は​ネメヂ​​捏篾只​と云ひ、今も​トルク​​突︀兒克​人は​ニエメシ​​尼額篾昔​と云ひ、​ホンガル​​洪噶兒​人は​ネメト​​捏篾惕​と云ふ」。​ウリヤンカタイ​​兀良合台​の功勞最大なるは、憲宗の時、皇弟​フビレイ​​忽必烈​に從ひ、雲南に入り、白蠻・烏蠻・鬼蠻等の諸︀國を平げ、大元帥となりて大理を鎭め、遂に交趾を降して還れる事なり。その子​アチユ​​阿朮​は、中統三年、征南都︀元帥。至元五年、宋の襄陽を圍み、十年樊城を破り、襄陽を降し、十一年、丞相​バヤン​​伯顏​に從ひ宋を[418]伐ち、十二年七月、張世傑の舟師を焦山の下に敗り、その月中書左丞相。列傳卷十五に傳あり。氏族表に據れば、阿朮の子​ブレンギダイ​​不憐吉歹​は、河南行省の左丞河南王。


八。​モンクト​​忙忽惕​​クイルダル​​忽亦兒荅兒​

 列傳卷八、「​ウイダル​​畏荅兒​​モング​​忙兀​人」は、功臣の第二十一なる​モンクト​​忙忽惕​​クイルダル​​忽亦兒荅兒​なり。その子​モンゲ​​忙哥​は、功臣の第五十二なる​モンケハルヂヤ​​蒙可哈勒札​〈[#ルビの「モンケハルヂヤ」はママ。明治40年初版「成吉思汗実録」三二三頁(§202)では「モンコハルヂヤ」]〉なり。太宗、​ウイダル​​畏荅兒​の功を思ひ、「復以北方萬戶、封其子​モンゲ​​忙哥​爲郡王。歲丙申、​フドフ​​忽都︀忽​大料漢︀民、分城邑、以封功臣、授​モンゲ​​忙哥​泰安州民萬戶。帝訝其少。​フドフ​​忽都︀忽​對曰「臣今差次、惟視︀舊數多寡。​モンゲ​​忙哥​舊纔八百戶」。帝曰「不然。​ウイダル​​畏荅兒​封戶雖少、戰功則多。其增封爲二萬戶、與十功臣同爲諸︀侯者︀、封戶皆異其籍」。​ウル​​兀魯​爭曰「​モンゲ​​忙哥​舊兵、不及臣之半、今封顧多於臣」。帝曰「汝忘而先橫鞭馬鬣時耶」。​ウル​​兀魯​遂不敢言」。兀魯は、​ウルウト​​兀嚕兀惕​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​の子​ケタイ​​怯台​郡王なり。この傳は、全く姚燧の撰れる平章​モング​​忙兀​公(​ボロホン​​博羅歡​)の碑に據りたるが、事實に誤あり。丙申の年、​ケタイ​​怯台​は、德州の二萬戶を賜はり、​モンゲ​​忙哥​と同額なれば、「今封顧多於臣と云ふべき筈なし。橫鞭馬鬣の一事に至りては、有無も知るべからず。たとひ有りとも、旣に命を受けて、王罕の大軍を敗り、太祖︀一生の大戰なる​カラカルヂト​​合剌合勒只惕​の役は、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​の力に依りて勝を決したれば、太祖︀深くその功を賞し。主兒扯歹を高山の遮護に譬へ、元史の撰者︀も、その語を採りて傳に入れたる程なるに、太宗何ぞその微過を摘みて大勳を傷くるの理あるべけんや。これは、蓋兩家の子孫、その祖︀の功を述ぶるに競ひて、遂にかゝる中傷の談をも造れるにて、二大功臣の同功一體の素志にも違ひ、太祖︀太宗の功臣を優遇する盛意にも怫れり。​チユチタイ​​朮赤台​の傳にも誤は多けれども、この傳の誤は殊に誣罔に似たるが故に、聊辨じ置くなり。​モンゲ​​忙哥​の孫​ヂリワダイ​​只里瓦䚟​​キダダイ​​乞荅䚟​曾孫​フトフ​​忽都︀忽​​チユナイ​​兀及​​フリ​​忽里​​ハチ​​哈赤​、皆郡王を襲げり。朮赤台の傳に、​アリブカ​​阿里不哥​の亂の時、​ケタイ​​怯台​の少子​ハダ​​哈荅​​フドフ​​忽都︀忽​と自ら請ひて軍に從ひ、​シムウンド​​石木溫都︀​の地に戰へりとあるは、この忽都︀忽なり。忙哥の從孫​ボロホン​​博羅歡​は、至元中、宋を擊ち、叛王​ノヤン​​乃顏​を討じ、皆功あり、大德中、江浙行省の平章政事。その子孫に顯人多し。第三子​エツセンテムル​​埜先帖木兒​は、河南行省の左丞相。


九。​ケレイト​​客咧亦惕​​ハサンナ​​哈散納​

 列傳卷九、「​ハサナ​​哈散納​​ケレイ​​怯烈亦​氏」は、功臣の第二十なる​フスン​​許孫​なるべし。​ハサナ​​哈散納​は、​バルヂユト​​巴勒主惕​の一人にて、後には「管領​アルクン​​阿兒渾​軍、從太祖︀征西域、下​セミスカン​​薛迷則干​​ブハラ​​不花剌​等城」。太宗の時、平陽太原兩路の​ダルハチ​​達魯花赤​


十。​タタル​​塔塔兒​​ブヂル​​不只兒​

 列傳卷十(元史一二三)、「​ブヂル​​布智兒​、蒙古​トトリタイ​​脫脫里台​氏」は、功臣の第三十八なる​ブヂル​​不只兒​なり。父​ニウルケ​​紐兒傑​「嘗道逢太祖︀。前驅騎士​ベノヤン​​別那顏​邀與俱見、云云」とある​ベノヤン​​別那顏​は、​ジエベノヤン​​者︀別那顏​なるべし。​ブヂル​​布智兒​は、軍に從ひ、​フイフイ​​回回​​オロス​​斡羅思​等の國を征して、屢力戰し、その後「憲宗以​ブヂル​​布智兒​爲大都︀行天下諸︀路​エケジヤルフチ​​也可札魯忽赤​、印造寶鈔」。​エケジヤルフチ​​也可札魯忽赤​は、大斷事官なり。憲宗紀元年卽位の條に「以​ヤラワチ​​牙剌瓦赤​​ブヂル​​不只兒​​オルブ​​斡魯不​​ドダル​​覩荅兒​等、充燕京等處行尙書省事」とあるは、官名を漢︀語に飾りたるにて、その實は卽​ヂヤルフチ​​札魯忽赤​なり。大都︀行天下諸︀路と云へるも、蒙古語を後に譯したるにて、憲宗の時は、未大都︀の名あらざりしなり。​シリケンブ​​昔里鈐部​の傳に「遷斷事官云云。憲宗以​ブヂル​​卜只兒​來茫行臺、命​ケンブ​​鈴部​同署︀」とある行臺は、卽燕京の行省なり。​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​も、夙くより斷事官となりて、卜只兒と共に順天等路を按察したる人なるが、その傳に曰く「時斷事官得專生殺︀、多倚勢作威。而​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​、小心謹︀密、愼於用刑、云云」。​ブヂル​​布智兒​は、​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​の如くにはあらざりけん。本傳には何とも云はざれ[419]ども、世祖︀紀に「壬子(憲宗二年)、帝駐桓撫間。憲宗令斷事官​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​、與​ブヂル​​不只兒​等、總天下財賦于燕。視︀事、一日殺︀二十八人。其一人盜馬者︀、杖而釋之矣。偶有獻環刀者︀、遂追還所杖者︀、手試刀斬之。帝責之曰「凡死罪、必詳識而後行刑。今一日殺︀二十八人、必多非辜。旣杖復斬、此何刑也。」​ブヂル​​不只兒​錯愕不能對」とあり。​ブヂル​​布智兒​の長子​ハウリ​​好禮​は、丞相​バヤン​​伯顏​に從ひ、水軍を督して宋を擊ち、水軍翼萬戶府の​ダルハチ​​達魯花赤​。第四子​ブランヒ​​不蘭奚​は、水軍翼萬戶招討使。


貳。元史に附傳ある者︀。

 功臣の子孫(又は父)の傳にその功臣の名見えたるもの、十六人あり。


一。​オンギラト​​翁吉喇惕​​アルチ​​阿勒赤​駙馬。

 列傳卷五​テイセチエン​​特薛禪​の傳なるその子​アンチンノヤン​​按陳那顏​は、功臣の第八十六なる​オンギラト​​翁吉喇惕​​アルチグレゲン​​阿勒赤古咧堅​なり。その傳に曰く「​テイセチエン​​特薛禪​、姓​ボスフルホンギラ​​孛思忽兒弘吉剌​氏、世居朔漠。本名​テイ​​特​、因從太祖︀起兵有功、賜名​セチエン​​薛禪​、故兼稱曰​テイセチエン​​特薛禪​。女曰​ボルタイ​​孛兒台​、太祖︀光獻翼聖皇后」。本の名​テイ​​特​を、乾隆︀の史臣は、下の因の字を附けて​テイン​​特因​と讀み、殿本に​トイン​​托音​と改め、​テイセチエン​​特薛禪​をも​トインセチエン​​托音色辰​と改め、語解に「​トイン​​托音​、僧︀也」と注せり。又太祖︀紀に見えたる​ホンギラ​​弘吉剌​部長​デイ​​迭夷​は、卽特薛禪なることを知らずして、殿本に​ダイン​​岱音​と改め、語解に「敵也」と注せり。​デイ​​迭夷​​テイセチエン​​特薛禪​は、祕史の​デイセチエン​​德薛禪​、蒙古源流の​デイチエチエン​​岱徹辰​なり。何ぞ曾て​イン​​因​の音を附けたるものあらんや。錢大昕は、明初の史臣の鹵莽を譏りて、「若乃句讀之不通、而妄加點竄、欲以備石室金匱之藏、與三史竝列、毋乃不知量之甚乎」と云ひしが、その言は、移して乾隆︀の史臣を評すべし。これは、たゞ殿本の誤りだらけなる一例を筆の序に云ふなり。「子曰​アンチン​​按陳​〈[#「アンチン」は底本では「アンチ」]〉、從太祖︀征伐、凡三十二戰。平西夏、斷潼關道、取​フイフ​​回紇​​セミスカン​​尋斯干​城、皆與有功。歲丁亥(太祖︀二十二年)、賜號國舅​アンチンノヤン​​按陳那顏​。壬辰(太宗四年)、賜銀印、封河西王、以統其國族。丁酉(九年)、賜錢二十萬緡。有旨、​ホンギラ​​弘吉剌​氏生女、世以爲后、生男、世尙公主、每歲四時孟月、聽讀所賜旨、世世不絕。又賜所俘獲軍民五千二百、仍授萬戶以領之」。

 ​オンギラト​​翁吉喇惕​の女子の皇后となれるは、​ボルタイ​​孛兒台​​ボルテウヂン​​孛兒帖兀眞​より始まり、公主に尙したるは、​アンチン​​按陳​​アルチグレゲン​​阿勒赤古咧堅​より始まれり。祕史に​グレゲン​​古咧堅​と云ひ、​ラシツトエツヂン​​喇失惕額丁​の集史にも​グルカン​​古兒干​と云へば、按陳の、公主に尙したるは確なるべけれども、元史にはその事を漏せり。按陳の女​チヤビ​​察必​は、世祖︀の昭睿順聖皇后。按陳の子​オナン​​斡陳​の配は、睿宗の女​エスブハ​​也速不花​公主。​オチン​​斡陳​の弟​ナチン​​納陳​の配は、太祖︀の孫女​セヂガン​​薛只干​公主(公主表)。​ナチン​​納陳​の子​オロチン​​斡羅陳​の配は、​オンジエイ​​完澤​公主。繼配は、世祖︀の女​ノンガヂン​​囊加眞​公主。​オロチン​​斡羅陳​の弟​テムル​​帖木兒​(賜名​アンダルトノヤン​​按荅兒禿那顏​)の配も、​ノンガヂン​​囊加眞​公主(公主表)。その弟​マンツタイ​​蠻子台​の配も、囊加眞公主。繼配は、裕宗の女​ナンガブラ​​喃哥不剌​公主。​オロチン​​斡羅陳​の女​シレンダリ​​實憐荅里​は、成宗の貞慈靜懿皇后。帖木兒の子​ヂヤウアブラ​​琱阿不剌​の配は、順宗の女​シヤンガラギ​​祥︀哥剌吉​公主。その弟​サンガブラ​​桑哥不剌​の配は、​ブナ​​普納​公主。​ヂヤウアブラ​​琱阿不剌​の女​ブダシリ​​不荅失里​は、文宗の皇后。​ヂヤウアブラ​​琱阿不剌​の子​アリガシリ​​阿里嘉室利​の配は、​ドルヂバン​​朶兒只班​公主。​ナチン​​納陳​の孫​セントン​​仙童​の女​ナンビ​​喃必​は、世祖︀の皇后。按陳の次子​ビゲ​​必哥​の孫​チウハン​​丑漢︀​の配は、​タイフルド​​台忽魯都︀​公主。按陳の季子​ソルホド​​唆兒火都︀​の子に、​アハ​​阿哈​駙馬あり。按陳の孫​ナカ​​納合​の配は、太宗の女​ソルハハン​​唆兒哈罕​公主。按陳の孫​クンドテムル​​渾都︀帖木兒​の女​ダギ​​荅吉​は、順宗の昭獻元聖皇后。按陳の孫​オリウチヤル​​斡留察兒​の女​ハブハン​​八不罕​は、泰定帝の皇后。按陳の孫(曾孫か)​トレンバドル​​脫憐拔都︀見​の女​タラハイ​​塔剌海︀​は、世祖︀の皇后。​トレン​​脫憐​の子​ベンブラ​​迸不剌​の女​ヂンゲ​​眞哥​は、武宗の宣慈惠聖皇后。​ベンブラ​​迸不剌​の子​マイチユハン​​買住罕​の配は、​ハイダシヤ​​拜荅沙​公主。​マイチユハン​​買住罕​の女​ビハン​​必罕​​スガダリ​​速哥荅里​二人は、皆泰定帝の皇后。​マイチユハン​​買住罕​の弟​ボロテムル​​孛羅帖木兒​の女​バヤンフド​​伯顏忽都︀​は、順帝の皇后(后妃傳)。按陳の弟​ホフ​​火忽​の孫​ブヂル​​不只兒​の配は、​オケヂン​​斡可眞​公主。​テイセチエン​​特薛禪​の諸︀孫​トロホ​​脫維禾​の配は、​ブルハン​​不魯罕​公主。繼配は、​ココルン​​闊闊倫​公主。​テイセチエン​​特薛禪​の孫(公主[420]表)​モゲチン​​忙哥陳​の女​フタイ​​忽台​は、憲宗の貞節︀皇后。その妹​エスル​​也速兒​も、憲宗の皇后。​テイセチエン​​特薛禪​の曾孫(按陳の從孫)​ハルヂ​​哈兒只​の女​スガシリ​​速哥失里​は、武宗の皇后。その外裕宗の徽仁裕聖皇后​バランエケチ​​伯藍也性赤​又の名​ココヂン​​闊闊眞​、顯宗の宣懿淑聖皇后​ブヤンケリミシ​​普顏怯里迷失​、仁宗の莊懿慈聖皇后​アナシシリ​​阿納失失里​、寧宗の​ダリエテミシ​​荅里也忒迷失​皇后も、皆​ホンギラ​​弘吉剌​氏なり(后妃傳)。蒙古に​オンギラト​​翁吉喇惕​あるは、恰も遼に蕭氏あり、我が朝に藤原氏あるが如くなりき。


二。​フウヂン​​許兀愼​​トゴン​​脫歡​​ウルウト​​兀嚕兀惕​​ケタイ​​客台​​モンクト​​忙忽惕​​モンケハルヂヤ​​蒙可哈勒札​

 列傳卷六​ボルフ​​博爾忽​の傳なるその子​トホン​​脫歡​は、功臣の第六十なる​トゴン​​脫歡​なるべきこと、列傳卷七​チユチタイ​​朮赤台​の傳なるその子​ケタイ​​怯台​は、功臣の第五十七なる​ケタイ​​客台​なること、列傳卷八​ウイダル​​畏荅兒​の傳なるその子​モンケ​​忙哥​は、功臣の第五十二なる​モンケハルヂヤ​​蒙可哈勒札​なることは、已に前に云へり。


三。​ニチユグトバアリン​​儞出古惕巴阿𡂰​​アラク​​阿剌黑​

 列傳卷十四(元史一二七)、​バヤン​​伯顏​の傳なる祖︀父​アラ​​阿剌​は、功臣の第二十六なる​ニチユグトバアリン​​儞出古惕巴阿𡂰​​アラク​​阿剌黑​なり。その傳に曰く「伯顏、蒙古​バリン​​八隣​部人。曾祖︀​シユルゲト​​述律哥圖​、事太祖︀、爲​バリン​​八隣​部左千戶。祖︀​アラ​​阿剌​、襲父職、兼斷事官、平​フチエン​​忽禪​有功、得食其地」。​シユルゲト​​述律哥圖​は、太祖︀紀の​シリゲエブゲン​​失力哥也不干​、實錄卷五の初の​シルグエトエブゲン​​失兒古額禿額不堅​、卷九、三六六頁の​シルゲトエブゲン​​失兒歌禿額不堅​なり。​フチエン​​忽禪​は、​シルダリア​​失兒荅哩牙​​オホマガリ​​大曲​の南岸にある​コヂエンド​​闊氈篤​なり。​ラシツト​​喇失惕​に據るに、太祖︀西征の役、​オトラル​​斡惕喇兒​にて全軍を四に分け、​アラクノヤン​​阿剌黑那顏​は、​スケトトガイ​​速客禿脫該​と共に、​シフン​​昔渾​河(​シルダリア​​失兒荅哩牙​)に泝り、​ベナケトコヂエンド​​別納客惕闊氈篤​を攻め落せり。

 ​アラ​​阿剌​の子を​ヒヤウグタイ​​曉古台​と云ふ。​バヤン​​伯顏​の傳に「父​ヒヤウグタイ​​曉古台​、世其官、從宗王​フレウ​​旭烈兀​、開西域。伯顏長於西域。至元初、​フラグ​​旭烈兀​遣入奏事。世祖︀見其貌偉、聽其言厲、曰「非諸︀侯王臣也。其留事朕」。與謀國事、恆出廷臣右。世祖︀益賢之。勅以中書右丞相​アントン​​安童​女弟妻之、若曰「爲伯顏婦不慚爾氏矣」。二年七月、拜光祿大夫中書左丞。諸︀曹白事、有難決者︀、徐以一二語決之。眾服曰「眞宰輔也」」。​ラシツト​​喇失惕​に據れば、​バリン​​巴𡂰​の伯顏は、もと​フラク​​旭剌庫​(卽​フレウ​​旭烈兀​)に仕へたりしが、​クブラカン​​庫卜賚汗​の使者︀​サルタク​​撒兒塔克​等、一二六五年(至元二年)に​ペルシヤ​​珀兒沙​より東に歸る時、​フラク​​旭剌庫​は伯顏をそれらに伴なひて大汗の處に使せしめき(​エルドマン​​額兒篤曼​の「​テムヂン​​帖木眞​」二一四)。​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の紀行(​ユール​​裕勒​譯註)第三第四章に、​ニコラスポーロ​​尼闊剌思保羅​​マフエオポーロ​​馬弗斡保羅​兄弟、​ボカラ​​孛合喇​の城に至り、進退窮まりて三年留まりし時、東の君(​ペルシア​​珀兒沙​​イルカン​​亦兒罕​​アラウ​​阿剌兀​​フラウ​​旭剌罕​〈[#「旭剌罕」はママ。]〉)より世界のあらゆる​タルタル​​塔兒塔兒​の主なる​カガン​​大合罕​の朝廷に赴く使者︀至り、二人を見て、かゝる處にて​ラチン​​剌甸​の人に遇へるを喜び、​カガン​​大合罕​の朝廷に伴なひ往かんことを勸め、二人はその使者︀に從ひ、​クブライカン​​庫卜賚汗​の朝廷に至れることを載せたり。これは、恰も一二六五年、​サルタク​​撒兒塔克​等の歸れると同じ年なれば、​ポーロ​​保羅​兄弟の伴なひしは、​サルタク​​撒兒塔克​​バヤン​​伯顏​等の一行なりけん。

 伯顏の功業は、本傳に甚委し。至元十一年、中書左丞相となり、中書省を荆湖に行ひ、江を渡り、鄂州を降し、十二年春、賈似道の大軍を江上に破り、江淮の州軍を降し、六月上都︀に至り、世祖︀に見え、七月右丞相に進み、八月南に還り、「九月戊寅、會師淮之城下、遣新附官孫嗣武叩城大呼、又射書城中、諭守將使降。皆不應」。伯顏は、その南城の堡を拔き、寶應・高郵を過ぎ、十月兵を留めて揚州を圍み、江を渡りて鎭江に至り、十一月軍を分けて水陸より竝び進み、「壬午、伯顏軍至常州。先是常州守王宗洙遁、通判王虎臣以城降。(世祖︀紀「三月、宋常州安撫戴之泰・通判王虎臣以城降」、續綱目「三月、知常州趙與鑑遁、州人王良臣以城降元」。)其都︀統制劉師勇、與張彥王安節︀等復拒之(世祖︀紀「五月、宋都︀統制劉師勇・殿帥張彥據常州」、推姚訔爲守、固守數月不下。伯顏遣人至城下、射書城中、招諭「勿以已降復叛爲疑、勿以拒敵我師爲懼」。皆不應。乃[421]親督帳前軍、臨南城、又多建火砲、張弓弩、晝夜攻之。淛西制置文天祥︀遣尹玉・麻士龍來援、皆戰死。(續綱目には「十月、常州吿急。知平江府文天祥︀、使尹王・麻士龍・張全・朱華、將兵赴援。士龍・玉戰死、全・華不戰而遁とあり)。甲辰、伯顏叱帳前軍先登、竪赤旗城上。諸︀軍見而大呼曰「丞相登矣」。師畢登、宋兵大潰。拔之、屠其城。姚訔及通判陳炤等死之。生獲王安節︀斬之。劉師勇變服單騎奔平江。諸︀將請追之。伯顏曰「勿追。師勇所過城、守者︀膽落矣」。この戰につきて​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の聞きたる奇談あり。その紀行の第七十四章に曰く「鎭江府の城を去り、繁華なる都︀邑の連なる所を通り、東南に三日旅すれば、盛大なる​チンギングイ​​成斤傀​​シヤンチウ​​常州​の訛)の城に至る。… 伯顏將となり、​マンツ​​蠻子​の大州を征する時、​クリスト​​克哩思惕​敎徒なる​アラン​​阿闌​人の一隊をこの城を取りに遣りき。取りてそこに入りたる時、​アラン​​阿闌​人は、ある好き酒を見附け、飮みて皆醉ひ、豚の如く横だはり睡りき。かくて日暮れたる時、城の民は、彼等の醉ひて死人の如きを見て、跳びかゝりて悉く殺︀し、一人も逃れざりき。城の民のかく欺きてその兵を殺︀せるを聞きて、伯顏は、他の將を大軍と共に送り、城を攻めて、住民皆を劍に掛け、一人も死を免︀れざりき、かくて城の民は根絕やしせられき」。本傳には「屠其城」とあるのみなれども、この寬仁なる名將も、常州の役には例外に殘忍なりしと見え、續綱目には「伯顏至常州、會兵圍城。姚訔・陳炤・劉師勇・王安節︀力戰固守。伯顏遣人招之、譬喩百端、終不聽。伯顏怒、命降人王良臣、役城外居民、運土爲壘。土至、併人以築之。且殺︀民煎膏、取油以作砲、焚其牌杈、日夜攻不息。城中甚急、而訔等守志益堅。伯顏乃叱帳前諸︀軍、奮勇爭先、四面竝進。城遂破、訔死之、炤與安節︀猶巷戰。或謂炤曰「城東北門未合、可走」。炤曰「去此一步、非死所矣」。日中兵至、死焉。伯顏命屠其民。執安節︀至軍前、不屈、亦死。師勇以八騎突︀圍、走平江」とあり。「取油以作砲」と云へることにつき、​ユール​​裕勒​は曰く「この殘忍なる製油の用ひ方に誤解あるならん。​カルピニ​​喀兒闢尼​の話に、​タルタル​​塔兒塔兒​は、砲火を消えずに燃えさせんが爲に、砲火を城に投ぐる時、それと共に人の油を發射すと云へる故に」と云へり。

 この年十二月、伯顏の軍平江府に入り、十三年正月嘉興を降せり。「甲辰、次皐亭山。宋主遺知臨安府賈餘慶、同宗室保康軍承宣使尹甫、和州防禦使吉甫、奉傳國璽及降表、詣軍前(續綱目には「太皇太后遺監察御史楊應奎、上傳國璽以降」とあり)。乙酉、進軍至臨安北十五里。宋宰臣陳宜中、與張世傑・蘇義(世祖︀紀に蘇劉義)劉師勇等、挾益王・廣王、下涮江、航海︀而南。惟謝太后及幼主在宮中」。謝太后は、太皇太后(理宗の皇后謝氏なり。「丁亥、伯顏遺程鵬飛・洪雙壽等、入宮慰諭謝后」。考異に曰く「洪雙壽、卽洪雙叔也」。世祖︀紀に洪君祥︀とあり。君祥︀は、洪福︀源の子にして、小字を雙叔と云へり。「己丑、駐軍臨安城北之湖州市。庚寅、伯顏建大將旗鼓、率左右翼萬戶、巡臨安城、觀潮於涮江、暮還湖州市。辛卯、萬戶張弘範・郞中孟祺、以宋主謝后諭未附州郡手詔至軍前。二月辛丑(世祖︀紀に庚子)、宋主率文武百僚、望闕拜、發降表。伯顏承制、以臨安爲兩淛大都︀督府、​モングダイ​​忙古歹​・范文虎入治府事(世祖︀紀に辛丑)、復命張惠・​アラハン​​阿剌罕​・董文炳・呂文煥等、入城籍其軍民錢穀︀之數、閱實倉庫、收百官誥命符印圖籍、悉罷宋官府、取宋主、居之別室。分遣新附官、招諭南北兩廣四川未下州郡。癸卯、伯顏拜表稱賀(誰の筆に成りたるか、その文甚偉麗なり)。庚申、命​ノンガダイ​​囊加歹​、傳旨召伯顏、偕宋君臣入朝。三月丁卯、伯顏入臨安、俾郞中孟祺、籍其禮樂祭器︀冊寳儀仗圖書。乙亥、伯顏發臨安。丁丑、​アダハイ​​阿塔海︀​等宣詔、趣宋主母后入覲」。母后は、皇太后(度宗の皇后)全氏なり。「聽詔畢、卽日俱出宮。惟謝后以疾獨留。隆︀國夫人黃氏、宮人從行者︀百餘人、福︀王與芮〈[#「與芮」は底本では「與苪」。「元史」卷127第19丁に倣い修正。以後すべて同じ]〉、沂王乃猷、謝堂、楊鎭而下、官屬從行者︀數千人、三學之士數百人。五月乙未、伯顏以宋主至上都︀。世祺御大安閣受朝、降授宋主㬎〈[#「㬎」は底本では「※[#「日/𢆶」]」。「元史」卷127第19丁に倣い修正]〉開府儀同三司檢校大司徒、封瀛國公、宋平」。

 ​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の紀行第六十五章に、​マンジ​​蠻子​卽宋の國を伯顏の平げたることを述べて、まづ「​マンジ​​蠻子​の大國に、[422]​フアクフル​​發克富兒​と稱へらるゝ王主君ありて、その富の大なることと臣民の數と領地の廣さとは、​カガン​​大合罕​を除きては、全世界にそれより大なるもの稀なるほど、盛大なる君なりき」。​フアクフル​​發克富兒​また​バグブル​​巴固不兒​は、​ペルシヤ​​珀兒沙​​アラビア​​阿喇必亞​の古き記錄に支那の帝を呼べる稱號なり。「天の子」なる天子の稱號を​ペルシヤ​​珀兒沙​の古言にて​バグブル​​巴固普兒​「神︀の子」と譯したるなりと​ノイマン​​諾依曼​云へり。「然れどもその地の民は、軍人よりはむしろ外のものなりき。彼等の樂みは、女にありて、女の外には樂みなかりき。誰よりも王みづからは、その通りにて、貧民を惠むことを除きては、女の外何事をも考へざりき」。この好色の王は、伯顏の南征の年に崩じたる宋の度宗を云へるなり。續綱目に「帝爲太子時、以好內聞。旣立、耽于酒色。故事、嬪妾進御、晨詣閤門謝恩、主者︀書其月日。及帝之初、一日謝恩者︀三十餘人」とあり。「​クリスト​​克哩思惕​降生の一二六八年、今位に居る​カガン​​大合罕​は、​バヤンチンクサン​​伯顏丞相​と云ふ大名を彼の地に遣しき。​バヤンチンクサン​​伯顏丞相​は、​バヤンヒヤクマナコ​​伯顏百眼​と云ふが如し」。この紀年誤れり。一二六八年は、至元五年、宋の度宗咸淳四年にして、その年襄陽に攻めかゝりたるは、​アチユ​​阿朮​・劉整なり。伯顏の南征は、至元十一年、の咸淳十年、卽一二七四年より始まれり。「​マンジ​​蠻子​の王は、​ヒヤクマナコ​​百眼​ある人の爲にの外、その國を失ふことなけんと星命家の云へるを聞きたりき。かくて百眼ある人の世にあるべしとは信ぜられざる故に、みづからその位を安全なりと思ひき。然れどもこれは伯顏の名を知らざるが爲に誤れるなりき」。伯顏を百眼と云へるは、​バエン​​百眼​の音は​バヤン​​伯顏​に近きが故に、​バヤンチングシヤン​​伯顏丞相​​バエンチングシヤン​​百眼丞相​と誰かのしやれたるなり。然るを​マルコ​​馬兒科​は、​ヒヤクマナコチンクサン​​百眼丞相​と云はずして、​バヤンヒヤクマナコ​​伯顏百眼​と云へるは、丞相を​ヒヤクマナコ​​百眼​と解したるが如く聞ゆる故に、​ユール​​裕勒​は「もし然らば、馬兒科の支那語を知らざるの證據、これより確なるは無し」と云へり。これに善く似たるしやれは、輟耕錄にもあり。卷一に江南謠」と題して、「汲郡王公玉堂嘉話云、宋未下時江南謠云、「江南若破、​バヤン​​百鴈󠄁​來過」。當時莫喩其意。及宋亡。蓋知指丞相伯顏也」とあり​ヤン​​顏​​ヤン​​鴈󠄁​との違は、顏は平聲、鴈󠄁は去聲なるのみなり。「この伯顏は、大合罕より騎兵步兵の大軍を與へられ、それを率ゐて蠻子に入りき。又必要なる時に騎兵步兵を運ばんが爲に、夥しき舟を持ちけり。​バヤン​​伯顏​その衆を率ゐて​マンジ​​蠻子​の地に入り、​コイガンヂユ​​匯干主​​ホインガンジユ​​淮安州​卽淮安府)の城に至れる時、その民に大合罕に降れと諭したれども、從はざりき。そこに伯顏は、他の城に往きて、同じ結果に遇ひしかども、大合罕の、他の大軍を遣して續かしむることを知りたる故に、猶進み往きけり。かくて五つの城に引續きて進みたれども、それらの攻擊にかゝることを欲せず、又それらはみづから降らざる故に、それらの一つをも取らざりき。されども第六の城に至れる時、襲ひてそれを取り、第二第三第四をも然して、遂に引續き十二の城を取りき。それらの城を皆取りたる時に、直ちに王王后の宮所なる王國の都︀城​キンサイ​​勤賽​に進みき。王は、​バヤン​​伯顏​の衆を率ゐて來ぬるを見し時に、かゝる景況を見慣れざれば、大に懼れて、人民の大衆を伴なひ、千の船に乘りて、大洋の海︀の島に遁れたるに、王后は、城に殘りて、力の及ぶ限勇婦の如く城の防禦を計りき。今王后は、敵將の名を問ひて、​バヤンヒヤクマナコ​​伯顏百眼​と名づけらるゝことを吿げられたる時、​ヒヤクマナコ​​百眼​の人は王國を奪ひ取るべきことを星命家の豫言したりしことを想ひ起しければ、みづから​バヤン​​伯顏​に降り、全き王國あらゆる城ども寨どもを渡して、少しも抵抗せざりき」。王王后は、宋帝の夫妻に非ず。この時の宋帝は、度宗の幼子㬎、六歲の幼主にて、皇后は無く、皇太后全氏と太皇太后謝氏とありき。​キンサイ​​勤賽​は、​ユール​​裕勒​の注に「卽​キンシ​​京師​にて、一一二七年より宋の都︀となりし臨安卽今の杭州を云へるなり。この名は、固有名詞の如くなりて、永く杭州に附き居たりと見えて、一五九五年旅行者︀​カルレツチ​​喀兒列提​の支那地圖に、猶この名にて記され、​カルレツチ​​喀兒列提​​カムセ​​坎薛​と寫せり。​カムセ​​坎薛​は、第十四世紀に​マリグノリ​​馬哩固諾里​の用ひたる​カムサイ​​坎賽​と形甚近し」と云へり。されども宋は杭州を臨安府と改めたれども、假の皇居なるが故に、京師と云はずして、行在と云へり。世祖︀紀至元十四年十一月の處に「命中書省、檄諭中外、江南旣平、宋宜曰亡宋、行在宜曰杭州」とあり。​キンサイ​​勤賽​、又は​カンサイ​​勘賽​​カンザイ​​看在​​マリグノリー​​馬哩固諾里​​カムサイ​​坎賽​は、[423]みな​ヒンザイ​​行在​又は​ハンザイ​​行在​の訛なり。王の海︀島に遁れたるは、益王・廣王の遁れたるを誤り聞けるなり。殘りて​バヤン​​伯顏​に降れる后は、太皇太后なり。王國城寨を渡せりとは、州郡に諭す手詔を下せるを云ふ。

 ​バヤン​​伯顏​は、宋を平げて還り、同知樞密院となり、至元十四年、叛王​シリギ​​昔里吉​を討じ、​オルホン​​斡魯歡​河にて擊破り、十八年、燕王(皇太子​チンキム​​眞金​)に從ひ、北邊を鎭し、二十二年、宗王​アヂギ​​阿只吉​の律を失へる時、代りてその軍を統べ二十四年、宗王​ナヤン​​乃顏​の反ける時、世祖︀の親征に從ひ、二十六年、知樞密院事を以て​ホリム​​和林​を鎭し、三十一年正月、世祖︀崩じ、​バヤン​​伯顏​百官を總べて、成宗(皇太子​チンキム​​眞金​の子​テムル​​帖木兒​)を擁立し、五月太傅となり、軍國の重事を錄し、十二月薨じき。


四。​スルドス​​速勒都︀思​​タカイ​​塔孩​

 列傳卷十六(元史一二九)、​アタハイ​​阿塔海︀​の傳に「​アタハイ​​阿塔海︀​​スンドス​​遜都︀思​人。祖︀​タハイバードル​​塔海︀拔都︀兒​驍勇善戰、嘗從太祖︀、同飮黑河水、以功爲千戶」とある​タハイバードル​​塔海︀拔都︀兒​は、功臣の第二十四なる​スルドス​​速勒都︀思​​タカイ​​塔孩​なり。​タハイ​​塔海︀​の子​ブハ​​卜花​​ブハ​​卜花​の子​アタハイ​​阿塔海︀​、皆千戶の職を襲ぎけり。​アタハイ​​阿塔海︀​は、憲宗の時、大帥​ウリヤンカダイ​​兀良合歹​(卽​スブタイ​​速不台​の子​ウリヤンカタイ​​兀良合台​)に從ひ、雲南を征し、至元九年、襄陽の城攻に與り、十二年、丞相​バヤン​​伯顏​の軍に會して、池州に克ち、​アチユ​​阿朮​と共に、張世傑の舟師を焦山の下に敗り、又​バヤン​​伯顏​の中軍に屬し、常州に克ち、平江を降し、十三年宋主母后を以て入覲せり。「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風舟壞、喪師十七八」とあるは、紀年誤れり。世祖︀紀日本傳に據るに、日本を侵して失敗したるは、至元十八年(我が弘安四年)八月なり。行省丞相の事は、日本傳にも「二十年、命​アタハイ​​阿塔海︀​、爲日本省丞相」とあれども、世祖︀紀二十年正月の處に「以阿塔海︀依舊爲征東行中書省相」とあれば、十八年六月、日本行中書省の右丞相(本傳誤りて左丞相)​アラハン​​阿剌罕​卒して、​アタハイ​​阿塔海︀​代れる時、嘗て丞相となりしならん。右か左か確ならず。二十四年、世祖︀に從ひて​ナヤン​​乃顏​を征し、二十六年に卒しき。その子​アリマ​​阿里麻​は、江南諸︀道行御史臺の御史大夫。


五。​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ユルカン​​余魯罕​

 列傳卷十八(元史一三一)、​アウルチ​​奧魯赤​の傳なるその祖︀​シユルハン​​朝魯罕​は、功臣の第四十五なる​ユルカン​​余魯罕​なり。「​アウルチ​​奧魯赤​​ヂヤラタイ​​札剌台​人。曾祖︀​ホホチヤ​​豁火察​、驍果善騎射。太祖︀出征、毎提精︀兵前驅。祖︀​シユルハン​​朔魯罕​、有膽力。嘗被讒、不許入見。一日俟駕出、趨前曰「臣無罪。若果有罪、速殺︀臣、臣將從先帝於地下。不然赦臣、願得自効」。帝笑而復用之。辛未(太祖︀六年)、與金人戰于野狐嶺、中流矢、戰愈力、克之。旣還、拔矢、血出昬眩。帝親撫視︀、傅以藥、竟不起。帝悲悼曰「​シユルハン​​朔魯罕​、朕之一臂。今亡矣」。賜其家馬四百匹、錦綺萬段」。​シユルハン​​朔魯罕​の子にして​アウルチ​​奧魯赤​の父なる​テムタイ​​忒木台​も、太祖︀太宗に仕へたり。その事は、下の第一〇〇頁に云ふべし。


六。​シルカイ​​失魯孩​

 列傳卷十九(元史一三二)、​メリ​​麥里​の傳なるその祖︀​セリゲノヤン​​雪里堅那顏​は、功臣の第二十二なる​シルカイ​​失魯孩​なるべし。「​メリ​​麥里​​チエウダイ​​徹兀臺​氏。祖︀​セリゲノヤン​​雪里堅那顏​、從太祖︀、與​ワンハン​​王罕​戰、同飮​バンヂン​​班眞​河水、以功授千戶、領​チエリタイ​​徹里臺​部、征討諸︀國、卒于河西」。​チエウタイ​​徹兀臺​​チエリタイ​​徹里臺​、いづれか一つの誤あらん。​チエウタイ​​徹兀臺​​ウ​​兀​は、​ル​​兒​の誤か。又は​ウ​​兀​は誤らずして、​リ​​里​​ク​​黑​の誤か。祕史にはこれに似たる姓見えず。「父​メギ​​麥吉​襲職、從太宗、定中原、以疾卒。​メリ​​麥里​襲職、從定宗、略定​キムチヤ​​欽察​​アス​​阿速​​オルス​​斡魯思​諸︀國。從憲宗、伐宋有功。世祖︀卽位、諸︀王​ホフ​​霍忽​〈[#ルビの「ホフ」は底本では「オフ」。以後の同ルビがすべて「ホフ」とあることに倣い修正]〉叛、掠河西諸︀城。​メリ​​麥里​以爲「帝初卽位、而王爲首亂、此不可長」。與其弟​サングダル​​桑忽荅兒​、率所部擊之、一月八戰、奪其所掠​ヂヤライル​​札剌亦兒​​トトレン​​脫脫憐​諸︀部民以還。已[424]​サングダル​​桑忽荅兒​​ホフ​​霍忽​所殺︀。帝聞而憐之、遣使者︀、以銀鈔羊馬迎致​メリ​​麥里​、賜號曰​ダラハン​​荅剌罕​、尋卒」。​メリ​​麥里​は、​メリク​​蔑里克​の略なり。從定宗は、太宗八年の西征、從憲宗は、憲宗八年の南伐なり。諸︀王​ホフ​​霍忽​は、世系表定宗の第三子​ホフ​​禾忽​大王、​シハン​​昔班​の傳の​ホホ​​火和​大王、李庭の傳の叛臣​ホフ​​霍虎​なり。至元中諸︀王​ハイド​​海︀都︀​の叛ける時、​ホホ​​火和​大王もその黨なることは、​シハン​​昔班​の傳に見え、李庭の傅には「庭至​ハラホリム​​哈剌和林​​コングル​​晃兀兒​之地、越嶺北、與​サリマン​​撒里蠻​諸︀軍大戰敗之、移軍河西、擊走叛臣​ホフ​​霍虎​、追至大磧而還」と見えたれども、世祖︀卽位の初に叛きたることは、本紀諸︀傳に見えず。世祖︀紀中統元年​アリブカ​​阿里不哥​の亂に「九月、​アランダル​​阿藍荅兒​率兵至西涼府、與​クンドハイ​​渾都︀海︀​軍合。詔諸︀王​カダンカビチ​​合丹合必赤​、與總帥汪良臣等、率師討之。丙戌、大敗其軍于姑臧、斬阿藍荅兒及渾都︀海︀、西土悉平」とあり。霍忽王は、果して中統の初に叛きしならば、​アリブカ​​阿里不哥​に黨して、​アランダル​​阿藍荅兒​等に應じたるならん。


七。​オンギラト​​翁吉喇惕​​モンゲ​​忙哥​

 列傳卷二十(元史一三三)、​ボランヒ​​孛蘭奚​の傳なるとの祖︀​モンゲ​​忙哥​は、貢錄四一〇頁に見えたる​チヤアダイ​​察阿歹​の傅​モンケ​​蒙客​にて、功臣の第三十七なる​ムゲ​​木格​なるべし。​ウイダル​​畏荅兒​の傅なる​モンゲ​​忙哥​、太宗紀の​モンクハンヂヤ​​蒙古漢︀札​、祕史の​モンケハルヂヤ​​蒙可哈勒札​は、​ベレジン​​別例津​の史に​ムルゲハルヂヤ​​木勒格哈勒札​とあれば、親征錄の​ムゲハンヂヤ​​木哥漢︀札​は、​ル​​勒​の音を略きたるなり。又祕史卷四なる​ムルケトタク​​木勒客脫塔黑​​ボト​​孛禿​の傳の​モリトト​​磨里禿禿​を、親征錄に​ムゲ​​慕哥​とあるも、​ル​​勒​の音を略きたるなり。然らばこゝの​モンゲ​​忙哥​​モンゲ​​蒙客​も、正しくは​ムルゲ​​木勒格​​ムルケ​​木勒客​にして、祕史には​ル​​勒​の字を略さたる例なければ、功臣の​ムゲ​​木格​は、​ム​​木​の下​ル​​勒​の字を脫したるならん。その傳に曰く「​ボランヒ​​孛蘭奚​​ヨンギレ​​雍吉烈​氏、世居應昌。祖︀​モンゲ​​忙哥​、以后族備太祖︀宿衞」とあれば、​モンゲ​​忙哥​は、​オンギラト​​翁吉喇惕​の一人にて、​デイセチエン​​德薛禪​の族なり。「父​リユシ​​律實​、狀貌魁偉、有謀、善騎射。太宗甞問以軍旅之事、應對稱旨、卽命爲千戶」。​リユシ​​律實​始めて千戶となれるが如く聞ゆれども、​モンゲ​​忙哥​は果して功臣の​ムゲ​​木格​ならば、太祖︀の時已に千戶となり、​リユシ​​律實​はその職を襲ざたるならん。「尋以爲齊王府司馬。後從睿宗伐金有功、詔還宿衞、以疾卒」。齊王とは、​ヂユチカツサル​​拙赤合撒兒​の子​エスンゲ​​也松格​を云へるなり。世系表に​イシヤンゲ​​移相哥​大王の子​シドル​​勢都︀兒​王、​シドル​​勢都︀兒​の子齊王​バブシヤ​​八不沙​ありて、諸︀王表齋王の下に「​バブシヤ​​八不沙​、大德十一年封」とあり。​バブシヤ​​八不沙​齊王に封ぜられたるに由り、その父祖︀までも泝りて齊王と云へり。「​ボランヒ​​孛蘭奚​、英邁有父風、‥‥從軍有功、襲父官爲齊王司馬。世祖︀親征​ナヤン​​乃顏​、以齊王兵從。兵始交、​ボランヒ​​孛蘭奚​躍馬陷陣、斬其旗、所向披靡、云云」。この時の齊王は、年代より考ふれば、​シドル​​勢都︀兒​王なるに似たり、然るにこの​シドル​​勢都︀兒​王は、世祖︀紀至元二十四年四月諸︀王​ナヤン​​乃顏​の反ける時、「六月、諸︀王​シドル​​失都︀兒​所部​テゲ​​鐵哥​、率其黨、取咸平府、渡遼、欲劫取豪懿州」、「七月、​ナヤン​​乃顏​​シドル​​失都︀兒​犯咸平」、と見え、​トトハ​​土土哈​の傳に「世祖︀親征​ナヤン​​乃顏​、遣使命​トトハ​​土土哈​、收其餘黨。沿河而下、遇叛王​テゲ​​鐵哥​軍萬騎、擊走之」とある​テゲ​​鐵哥​も、​シドル​​失都︀兒​の所部なれば、​シドル​​失都︀兒​​シドル​​勢都︀兒​は、​ナヤン​​乃顏​の黨にして、世祖︀の親征に從へるに非ず。然らば​ボランヒ​​孛蘭奚​のみ、その主より離れて世祖︀に從ひたるにや。又この​シドル​​勢都︀兒​は、​ラシツト​​喇失惕​の史に、​エメゲン​​額篾根​の子、​エシンゲ​​也生哥​​イシヤンゲ​​移相哥​〈[#ルビの「イシヤンゲ」は底本では「トシヤンゲ」。以後の同ルビがすべて「イシヤンゲ」とあることに倣い修正]〉)の孫とし、世系表と異なれば、世系表は誤れるにて、​イシヤンゲ​​移相哥​の嗣子、齊王​バブシヤ​​八不沙​の父は、別に有りて、​シドル​​勢都︀兒​の叛に與せざりしにや。又​ドーソン​​多遜​に據れば、至元二十五年に平げられたる​ナヤン​​乃顏​の餘黨の內には​シドル​​勢都︀兒​もありて、​シドル​​勢都︀兒​は遂に殺︀されたりと云へれども、本紀諸︀傳には​ガタントルガン​​合丹禿魯干​等のみありて、​シドル​​勢都︀兒​なく、至元二十九年正月「賜諸︀王​シドル​​失都︀兒​金千兩」と本紀に見ゆれば、蓋二十四年敗北の後罪を悔︀いて歸順したるならん。


八。​ケレイド​​客咧亦惕​​シラクル​​失喇忽勒​​トブカ​​脫不合​兄弟。

 列傳卷二十一(元史一三四)、​エツセンブハ​​也先不花​の傳なるその祖︀​シラオフル​​失剌斡忽勒​、伯祖︀​トブハ​​脫不花​は、功臣の第六十七なる​シラクル​​失喇忽勒​、第七十四なる​トブカ​​脫不合​なり。「​エツセンブハ​​也先不花​、蒙古​ケレイ​​怯烈​氏。祖︀曰​シラオフル​​昔剌斡忽勒​、兄弟四人、長曰​トブハ​​脫不花​、次曰[425]​ケレイゲ​​怯烈哥​、季曰​ハラアフラ​​哈剌阿忽剌​。方太祖︀微時、​ケレイゲ​​怯烈哥​已深自結納。後兄弟四人、皆率部屬來歸。太祖︀以舊好遇之、特異他族、命爲​ビヂエチ​​必闍赤​長、朝會燕饗、使居上列」。功臣の中に​ケレイゲ​​怯烈哥​の名見えざるは、太祖︀卽位の頃には已に歿したるなるべし。「​シラオフル​​昔剌斡忽勒​早世、其子​ボルホン​​孛魯歡​、幼事睿宗入宿衞。憲宗卽位、與​モンゲサル​​蒙哥撒兒​、密贊謀議、拜中書右丞相、遂專國政。賜眞定之束鹿、爲其食邑。至元元年、以黨附​アリブカ​​阿里不哥​、論罪伏誅。子四人、長曰​エツセンブハ​​也先不花​云云。​エツセンブハ​​也先不花​、初世其職、爲​ビチエチ​​必闍赤​長」、又燕王​チンキム​​眞金​の傅となりき。​ボルホン​​孛魯歡​は、憲宗紀元年卽位の條に「以​ボルカ​​孛魯合​掌宣發號令、朝覲貢獻、及內外聞奏諸︀事」とある人なり。​ラシツト​​喇失惕​は、​ボルガイ​​孛勒該​と呼び、その官は大​ビチクチ​​必提克赤​にて、財政と內政とを掌ると云へり。​ビチクチ​​必提克赤​は、卽元史の​ビヂエチ​​必闍赤​にて、兵志一に「爲天子主文史者︀、曰​ビチエチ​​必闍赤​」と云ひ、百官志一中書省の掾屬に蒙古​ビヂエチ​​必闍赤​二十二人、六部の蒙古​ビチエチ​​必闍赤​は、吏部に三人、戶部に七人、禮部兵部に各二人、刑部に四人、工部に六人あり。元史語解は、​ビチエチ​​筆且齊​​ビチエチ​​必齊頁齊​と改めて、寫字人なりと注せり。今の淸の官制にては、この寫字人を​ビテチ​​筆帖式​と云ふ。後には寫字人となりたれども、初は尙書の如き大官にして、黑韃事略徐霆の疏證に「​イラ​​移剌​(楚材)及​チンハイ​​鎭海︀​、自號爲中書相公、總理國事。韃人無相之稱、只稱之曰​ビチエチエ​​必徹徹​​ビチエチエ​​必徹徹​者︀、漢︀語令史也。使之主行文書爾」とあり。太宗三年八月、一時は中書令中書左右丞相の官を設けたれども、その名は漢︀人の間に用ひられたるのみにして、蒙古人は舊の如く​ビヂエチ​​必闍赤​又は​エケビヂエチ​​也客必闍赤​と云ひ居たるなり。憲宗紀二年の末に「以​ボルカ​​孛魯合​​ビヂエチ​​必闍赤​、寫發宣詔及諸︀色目官職」とあるは、元年の文と重複(例の重複)したるにて、卽傳の右丞相となれることなり。​エツセンブハ​​也先不花​の「世其職」とあるも、祖︀父​シラオフル​​昔剌斡忽勒​の職のみならす、父​ボルホン​​孛魯歡​の職をも襲ぎたるなり。​ボルホン​​孛魯歡​伏誅の事は、世祖︀紀至元元年八月「​アリブカ​​阿里不哥​、自​シムト​​昔木土​之敗、不復能軍、至是與諸︀王​ユロンダシ​​玉龍荅失​​アスダイ​​阿速帶​​シリキ​​昔里給​、其所謀臣​ブルハ​​不魯花​​フチヤ​​忽察​​トマナリ​​禿滿阿里​​チヤトフス​​察脫忽思​等來歸。詔「諸︀王、皆太祖︀之裔」、竝釋不問、其謀臣​ブルハ​​不魯花​等皆伏誅」とあり。​ブルハ​​不魯花​は、卽​ボルホン​​孛魯歡​なり。​エツセンブハ​​也先不花​〈[#ルビの「エツセンブハ」は底本では「エツブハ」]〉は、至元二十三年、雲南諸︀路行中書省の平章政事。大德二年湖廣行省に遷り、九年湖廣行省の左丞相。長子​イレヂン​​亦憐眞​は、湖南行省の左丞相。次子​トル​​禿魯​は、中書右丞相。


九。​ボゲン​​孛堅​

 列傳卷二十二(元史一三五)、​フド​​忽都︀​の傳なるその父​ボハン​​孛罕​は、功臣の第四十一なる​ボゲン​​孛堅​なり。​フド​​忽都︀​、蒙古​ウロダイ​​兀羅帶​氏。父​ボハン​​孛罕​、事太祖︀、備宿衞。至太宗時、爲鎭西行省、領蒙古漢︀軍、從攻河中潼關河南、與​バアイチス​​拜只思​​ヂヤフダイ​​札忽歹​​アスラン​​阿思蘭​、攻秦鞏及仁和諸︀堡、又與​バアイチス​​拜只思​守京兆。歲乙未(太宗七年)、授左手萬戶。從都︀元帥​ダハイケンブ​​荅海︀鉗卜​出征、卒軍中憲宗命​フド​​忽都︀​將其軍云云」。​ウロダイ​​兀羅帶​は、輟耕錄蒙古七十二種の中なる​ウロダイ​​兀羅歹​なり。祕史には、この姓見えず​フド​​忽都︀​は、憲宗世祖︀に事へ、屢軍功を立て、その弟​フドダリ​​忽都︀荅立​、子​ヂヤフダイ​​札忽帶​、その職を襲ぎけり。


十。​ブルカン​​不魯罕​

 同卷​フリンシ​​忽林失​の傳なるその曾祖︀​ブルハンヂヤ​​不魯罕罕剳​は、功臣の第二十八なる​ブルカン​​不魯罕​なり。「​フリンシ​​忽林失​​バルラダイ​​八魯剌䚟​氏。曾祖︀​ブルハンヂヤ​​不魯罕罕剳​、事太祖︀、從平諸︀國、充​バルラス​​八魯剌思​千戶、以其軍與​ダイチウン​​太赤溫​等戰、重傷墜馬。帝親勒兵救之。以功陞萬戶、賜黃金五十兩、白金五百兩、俾直宿衞」。​バルラダイ​​八魯剌䚟​氏は、卽​バルラス​​巴嚕剌思​姓、​ハンヂヤ​​罕剳​は、卽​ハルヂヤ​​哈勒札​にて一種の稱號、​タイチウン​​太赤溫​等は、卽​タイチウト​​泰赤兀惕​なり。​ブルハン​​不魯罕​の子​ヲルタイ​​許兒台​は、太宗の時、定宗に從ひ、​キムチヤ​​欽察​を征し、憲宗の時、世祖︀に從ひ宋を伐ち、毫州に戰ひ、孫​オンギラダイ​​翁吉剌帶​は、世祖︀に從ひ、​アリブガ​​阿里不哥​を征し、曾孫​フリンシ​​忽林失​は、從ひて叛王​ナヤン​​乃顏​を征し、皇孫​テムル​​帖木兒​に從ひ、叛王​ハイド​​海︀都︀​​ドワ​​都︀瓦​等と戰ひ、成宗の時、叛王​オロス​​斡羅思​​チヤバル​​察八兒​等と戰ひ、​フリンシ​​忽林失​の子​エンブルン​​燕不倫​は、致和元年文宗を迎ふる謀に與り、天曆元年、屢​ワンチエン​​王禪​の兵と戰ひ、知樞密院事となりき。[426]


十一。​オロナル​​斡囉納兒​​キシリク​​乞失里克​

 列傳卷二十三(元史一三六)、​ハラハスン​​哈利始孫​の傳なるその曾祖︀​キシリ​​啓昔禮​は、功臣の第五十六なる​オロナル​​斡囉納兒​​キシリク​​乞失里黑​なり。「​ハラハスン​​哈剌哈孫​​オラナル​​斡剌納兒​氏。曾祖︀​キシリ​​啓昔禮​、始事​ワンカガン​​王可汗​​トオリン​​脫斡璘​​ワンカガン​​王可汗​與太祖︀約爲兄弟。及太祖︀得衆、陰忌之、謀害太祖︀。​キシリ​​啓昔禮​潛以其謀來吿。太祖︀乃與二十餘人一夕遁去。諸︀部聞者︀多歸之、還攻滅王可汗、併其衆、擢啓​キシリ​​昔禮​爲千戶、賜號​ダラハン​​荅剌罕​。從半河西西域諸︀國」。​ワンカガン​​王可汗​​トオリン​​脫斡璘​は、卽​ワンカン​​王罕​​トオリル​​脫斡哩勒​〈[#「王罕・脫斡哩勒」は底本では「王罕脫・斡哩勒」。実録に倣い修正]〉、兄弟は父子の誤なり。「祖︀​ボリチヤ​​博理察​、太宗時、從太弟睿宗、攻河南、取汴蔡、滅金、賜順德以爲分邑。父​ノンガタイ​​囊加台​、從憲宗伐蜀、卒于軍」。者︀異に劉敏︀中の撰れる順德の忠獻王(​ハラハスン​​哈剌哈孫​)の碑を引きて、「​ボリチヤ​​博理察​​ノンガタイ​​囊加台​、皆襲​ダラハン​​荅剌罕​之號」とあり。「​ハラハスン​​哈剌哈孫​、威重不妄言笑、善騎射、工國書、又雅重儒術。至元九年、世祖︀錄勳臣後、命掌宿衞、襲號​ダラハン​​荅剌罕​。自是人稱​ダラハン​​荅剌罕​而不名」。哈剌哈孫は、成宗の朝の名相にしで、至元二十二年大宗正、二十八年湖廣行省の平章政事、大德二年中書左丞相、七年右丞相、十一年武帝卽位の後太傅右丞相にて​ホリム​​和林​省の事を行ひその年薨じき。子​トホン​​脫歡​は、​ダラハン​​荅剌罕​の號を襲ぎ、江浙行省の左丞相。


十二。​コンゴタン​​晃豁壇​​モンリク​​蒙里克​​エチゲ​​額赤格​​トルン​​脫侖​​チエルビ​​扯兒必​

 列傳卷八十忠義一(元史一六八)、​ババ​​伯八​の傳に「​ババ​​伯八​​ルカダン​​兒合丹​氏。祖︀​ミンリ​​明里​​エチゲ​​也赤哥​、嘗隸太祖︀帳下。初​ケレイ​​怯列​​ワンカガン​​王可罕​、與太祖︀爲鄰國、誓相親好。旣而敗盟、與其子​センクン​​先髠​潛謀、欲襲太祖︀。因遣使通問、許以女妻太祖︀弟​カツサル​​合撒兒​至期、太祖︀欲往。​ミンリエチゲ​​明里也赤哥​疑其詐、諫止之。​ワンカカン​​王可罕​知謀泄、遂謀入寇。後爲太祖︀所滅。父​トルン​​脫倫​​チエリビ​​闍里必​、扈從太祖︀、征西域、累立奇功」とあり。​ルカダン​​兒合丹​氏の​ル​​兒​は、​コン​​晃​の誤寫にて、卽​コンゴタン​​晃豁壇​氏なり。​ミンリ​​明里​​エチゲ​​也赤哥​は、功臣の第一なる見豁壇の​モンリク​​蒙里克​​エチゲ​​額赤格​​トルン​​脫倫​​チエリビ​​闍里必​は、功臣の第十二なる​トロン​​脫欒​​トルン​​脫侖​​チエルビ​​扯兒必​なり。​ケレイ​​怯列​​ワンカガン​​王可罕​は、太祖︀紀の​ケレイ​​克烈​部長​ワンハン​​汪罕​、祕史の​ケレイト​​客咧亦惕​​ワンカン​​王罕​なり。​センクン​​先髠​は、太祖︀紀の​イラカ​​亦剌合​、祕史の​ニルカ​​儞勒合​​サングン​​桑昆​なり。太祖︀弟​カツサル​​合撒兒​は、太祖︀紀と祕史とに據るに、長子​チユチ​​朮赤​の誤なり。​トルン​​脫倫​の子​ババ​​伯八​は、世祖︀の時、萬戶となり、諸︀部の軍馬を領ゐて​ケムケムヂユ​​欠欠州​​ケムケムヂユク​​客姆客姆主克​)を守りしが、至元十二年、親王​シレギ​​昔列吉​​トテムル​​脫鐵木兒​叛ける時襲はれて死し、その子​バラ​​八剌​は、讎を報いんとして成らず、弟​ブランヒ​​不蘭奚​と共に​トテムル​​脫鐵木兒​に執へ殺︀されき。世系表に據るに、​シレギ​​昔列吉​は、憲宗の子河平王​シリギ​​昔里吉​​トテムル​​脫鐵木兒​は、​テムゲオチギン​​鐵木哥斡赤斤​の曾孫​トテムル​​脫帖木兒​大王ならん。


十三。脫撒合。

 その外列傳卷十七(元史一三〇)に「​オンヂヤイ​​完澤​​トベエン​​土別燕​氏。祖︀​トセ​​土薛​、從太祖︀、起朔方、平諸︀部。太宗伐金、命太弟睿宗、由陝西進師、以擊其不備、​トセ​​土薛​爲先鋒。遂去武休關、越漢︀江、略方城而北、破金兵于陽翟。金亡、從攻興元閬利諸︀州、拜都︀元帥。取宋成都︀、斬其將陳隆︀之、賜食邑六百戶」。食貨志歲賜の篇に「​トセ​​禿薛​官人、丁巳年分撥興元等處種田六百戶」とある​トセ​​土薛​​トセ​​禿薛​は、功臣の第七十二なる​トサカ​​脫撒合​ならんと思へども、確ならず。土薛の子​センヂン​​線眞​は、中統四年中書右丞相。​センヂン​​線眞​の子​オンヂヤイ​​完澤​は、至元二十八年中書右丞相。大德七年薨じき。

 又列傳卷十九(元史一三二)に「​ブルカダ​​步魯合荅​、蒙古​ホンギラ​​弘吉剌​氏。祖︀​アンヂユヌ​​按主奴​、太宗時、率蒙古軍千人、從諸︀王​チヤガタイ​​察合台​、征河西、至山丹、攻下定會階文諸︀州、以功爲元帥、佩金符。駐軍漢︀陽禮店、成守西和階文南界、及西蕃邊境、換金虎符、眞除元帥」とあり。河西は、卽西夏にして太祖︀の末年に亡びたれば、太宗の時とあるは太祖︀の時の誤なるべし。この​アンジユヌ​​按主奴​は、功臣の第七十五なる​アヂナイ​​阿只乃​ならんかと思はる。按主奴の子​チエリ​​車里​、孫​ブルカダ​​步魯合荅​は、みな武功を以て顯れき。[427]


弎。元史の紀傳に散見せる者︀。

 その他の功臣にして元史の本紀列傳にその名散見したるもの十六七人あり。


一。​ヂエベ​​者︀別​

 太祖︀紀に​ヂエベ​​哲別​又は​ヂエベ​​遮別​と書き、諸︀傳に色色なる文字にて書かれたるは、功臣の第四十七なる​ベスト​​別速惕​​ヂエベ​​者︀別​なり。洪釣の元史譯文證補十八の​ヂエベ​​哲別​補傳は、面白く出來たり。


二。​バダイ​​巴歹​

 太祖︀紀に​バダイ​​把帶​​ムカリ​​木華黎​の傳に​バダイ​​拔台​、食貨志歲賜の篇に​バダツ​​八荅子​とあるは、功臣の第五十五なる​バダイ​​巴歹​なり。


三。​ウリヤンカン​​兀哴罕​​ヂエルメ​​者︀勒篾​

 太祖︀紀に​ヂエリメ​​折里麥​、列傳第八なる​モンゲサル​​忙哥撒兒​の傳に​ウリヤンカンヂエリマ​​兀良罕哲里馬​とあるは、功臣の第九なる​ウリヤンカン​​兀哴罕​​ヂエルメ​​者︀勒篾​なり。


四。​ヂヤライル​​札剌亦兒​​アルカイカツサル​​阿兒孩合撒兒​

 太祖︀紀の​アリハイ​​阿里海︀​は、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​アルカイカツサル​​阿兒孩合撒兒​なるが、功臣の第五なる​イルガイ​​亦魯該​も、恐らくはその人ならん。


五。​バルラス​​巴嚕剌思​​クビライ​​忽必來​

 太祖︀紀​ナイマン​​乃蠻​最後の役に「先遣​フビライ​​虎必來​​ヂエベ​​哲別​二人爲前鋒」とある​クビライ​​虎必來​は、功臣の第八なる​バルラス​​巴嚕剌思​​クビライ​​忽必來​なり。


六。​ウワスメルキト​​兀注思篾兒乞惕​​ダイルウスン​​荅亦兒兀孫​

 ​メリキ​​篾里乞​部を平げたる時「其屬​ダイルウスン​​帶兒兀孫​獻女迎降」とあるは、​ウワスメルキト​​兀注思篾兒乞惕​​ダイルウスン​​荅亦兒兀孫​なるが、功臣の第三十六なる​ダイル​​荅亦兒​は、その人なるか疑はし。


七。​オンギラト​​翁吉喇惕​​チググレゲン​​赤古古咧堅​

 德興府の戰に「皇子​トルイ​​拖雷​、駙馬​チグ​​赤駒​先登拔之」太宗紀八年に駙馬​チク​​赤苦​、公主表に「​トマンルン​​禿滿倫​公主適​チク​​赤窟​駙馬」とあるは、功臣の第八十五なる​オンギラト​​翁吉喇惕​​チググレゲン​​赤古古咧堅​なり。


八。​タタル​​塔塔兒​​シギフドフ​​失吉忽禿忽​

 太祖︀十年五月「遺​クドク​​忽都︀忽​等、籍中都︀帑藏」、十七年夏、西域主​ヂヤランヂン​​札闌丁​を追へる時「​クトク​​忽都︀忽​與戰不利、」太宗六年七月「以​クトフノヤン​​胡土虎那顏​爲中州斷事官、」七年春「皇子​クチユ​​曲出​​クトフ​​胡土虎​代宋」その外諸︀傳に屢見えたる​クトフ​​胡都︀虎​​クドフ​​忽都︀虎​は、功臣の第十六なる​タタル​​塔塔兒​​シギフドフ​​失吉忽禿忽​なり。[428]


九。​ヂヤライル​​札剌亦兒​​バラチエルビ​​巴剌扯兒必​

 太祖︀十七年夏「​ヂヤランヂン​​札闌丁​遁去、遣​バラ​​八剌​追之、不獲」、十八年夏「​バラ​​八剌​之兵來會」とあるは、功臣の第四十九なる​ヂヤライル​​札剌亦兒​​バラチエルビ​​巴剌扯兒必​なり。憲宗卽位の前、​アラトクラウ​​阿剌脫忽剌兀​の會議に定宗の皇后​ハイミシ​​海︀迷失​の遺せる使者︀​バラ​​八剌​​モンケサル​​忙哥撒兒​の傳に​ウイウ​​畏兀​​バラ​​八剌​とあれば、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​バラ​​巴剌​とも、功臣の第三十五なる巴剌斡囉納兒台とも異なり。

 憲宗紀元年卽位の續に「​エスント​​葉孫脫​​アンヂダイ​​按只䚟​​チヤンギ​​暢吉​​ヂヤナン​​爪難​​カダ​​合荅​​クリン​​曲憐​​アリチユ​​阿里出​​ゴンギタン​​剛疙疸​​アサンクドル​​阿散忽都︀魯​等、務持兩端、坐誘諸︀王爲亂、竝伏誅」とあり。​エスント​​葉孫脫​は、實錄卷九、三七三頁と卷十二、六四八頁とに見えたる​ヂエルメ​​者︀勒篾​の子​エスントエ​​也孫脫額​にして、箭筒士千人の長となりし人なり。​アンヂダイ​​按只䚟​は、卷九、三七四頁に見えたる​イルガイ​​亦魯該​の親族​アルチダイ​​阿勒赤歹​にして、一千の侍衞の長となりし人なり。​チヤンギ​​暢吉​は卷十二、六三八頁に見えたる官人​ヂヤンギ​​掌吉​にはあらずや。​ジヤナン​​爪難​は、卷十二、六四六頁に見えたる​チヤナル​​察納兒​にして、太宗の時に​アマル​​阿馬勒​と共に宿衞の第二班の長となりし人なり。


十。​カダイグレゲン​​合歹古咧堅​

 ​カダ​​合荅​は、功臣の第八十四なる​カダイグレゲン​​合歹古咧堅​にして、實錄卷十二には、太宗の時に​ゴリカチヤル​​豁哩合察兒​と共に宿衞の第三班の長となり、公主表には延安公主位の處に「​ホル​​火魯​公主、適​ハダ​​哈荅​駙馬」とあり。​ラシツト​​喇失惕​に據れば、定宗の朝より​オグルガイミシ​​斡古勒該米失​攝政の時まで、​チンハイ​​鎭海︀​​カダク​​喀荅克​二人政を執りしが憲宗二年に殺︀されき。この​カダク​​喀荅克​は、卽​カダ​​合荅​なり。


十一。​クリル​​忽哩勒​

 ​クリン​​曲憐​は、功臣の第八十二なる​クリル​​忽哩勒​なるべし。


十二。​アルチ​​阿勒赤​

 ​アルチユ​​阿里出​は、功臣の第七十一なる​アルチ​​阿勒赤​にして、​スブタイ​​速不台​の傳に、​メリギ​​滅里吉​征伐の命を受けたる時、「乃選裨將​アリチユ​​阿里出​、領百人先行、覘其虛實、​スブタイ​​速不台​繼進。速不台戒​アリチユ​​阿里出​曰「汝止宿、必載嬰兒具以行、去則遺之、使若掣家而逃者︀」。滅里吉見之果以爲逃者︀、遂不爲備」とあり。​ゴンギタン​​剛疙疸​は、​コンゴタン​​晃豁壇​にして、​アサンクドル​​阿散忽都︀魯​の姓なるべし。その人は外に見えず。


十三。​ゴロラス​​豁囉剌思​​セチヤウル​​薛潮兀兒​

 列傳第七なる​カスメリ​​曷思麥里​の傳に「命與​セチエウル​​薛徹兀兒​​ビジエチ​​必闍赤​」とある​セチエウル​​薛徹兀兒​は、功臣の第七十七なる​ゴロラス​​豁囉剌思​​セチヤウル​​薛潮兀兒​なり。


十四。​ゴルゴスン​​豁兒豁孫​

 又功臣の第十九なる​ゴルゴスン​​豁兒豁孫​は、實錄卷十、四一〇頁に​ゴルガスン​​豁兒合孫​と書きて、​グチユ​​古出​​ココチユ​​闊闊出​​チユンサイ​​種賽​と四人、太祖︀の末弟​オツチギン​​斡惕赤斤​に傅けられたりとあり。列傳卷二十一に「​サギス​​撒吉思​​フイフ​​回鶻​人、其國阿大都︀督​ドコス​​多和思​之次子也。初爲太祖︀弟​オヂンノビジエチ​​斡眞必闍赤​、領王傅。​オヂン​​斡眞​薨、長子​ヂブガン​​只不干​蚤世、適​スンタチヤル​​孫塔察兒​幼。庶兄​トヂ​​脫迭​狂恣、欲廢適自立。​サギス​​撒吉思​​ホルコスン​​火魯和孫​、馳白皇后(攝政​オウリハイミシカトン​​斡兀立海︀迷失合屯​)乃授​タチヤル​​塔察兒​以皇太弟寶、襲爵爲王。​サギス​​撒吉思​以功與​ホルコスン​​火魯和孫​分治、黑山以南、​サギス​​撒吉思​理之、其北​ホルコスン​​火魯和孫​理之」とある​ホルコスン​​火魯和孫​は、卽​ゴルカスン​​豁兒合孫​なり。[429]


十五。​ベスツト​​別速惕​​ココチユ​​闊闊出​

 列傳卷三十六(元史一四九)なる郭寶玉の傳に、その子德海︀は、太祖︀昇遐の翌年太祖︀昇遐の翌年「戊子春、從元帥​ココチユ​​闊闊出​、游騎入關中」とあるは、功臣の第十八なる​ベスツト​​別速惕​​ココチユ​​闊闊出​なり。

 食貨志歲賜の篇に​テゲ​​迭哥​官人とあるは、功臣の第十一なる​ベスツト​​別速惕​​デガイ​​迭該​ならんか。


十六。十功臣。

 太祖︀の功臣數多き中にも、​クビライ​​忽必來​​ヂエルメ​​者︀勒篾​​ヂエベ​​者︀別​​スゲタイ​​速格台​​ドルベンナガス​​朶兒邊那合思​(四狗)、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合黎​​ボロクル​​孛囉忽勒​​チラウン​​赤剌溫​​ドルベンクルウト​​朶兒邊曲魯兀惕​(四駿)、​ジユルチエダイク​​主兒扯歹忽​​イルダル​​亦勒荅兒​の兩前鋒は、太祖︀の殊に倚信せる股肱の臣なりき。​ムカリ​​木華黎​の傳に、木華黎薨じて子​ボル​​孛魯​嗣ぎたる後、「丙戌(太祖︀二十一年)夏、詔封功臣戶口爲食邑、日十投下、​ボル​​孛魯​居其首」と云ひ、​ウイダル​​畏荅兒​の傳に、太宗、​ウイダル​​畏荅兒​の子​モンゲ​​忙哥​の封戶少きを訝り、「其增封爲二萬戶、與十功臣同爲諸︀侯」と命じ、又忙哥の從孫​ボロホン​​博羅歡​の傳にも「時諸︀侯王及十功臣、各有斷事官。​ボロホン​​博羅歡​年十六、爲本部(​モング​​忙兀​部)斷事官」とあり。又列傳卷三十九(元史一五二)なる齊榮顯の傳に「授東平路總管府參議、兼領博州防禦使。時十投下議各分所屬、不隷東平。榮顯力辨於朝、遂止」とあるを見れば、十投下の功を負みて我儘なりしを知るべし。この十投下十功臣は、卽四狗四駿兩前鋒の十臣又はその子孫を云へるなり。十功臣の中にて​クビライ​​忽必來​​ヂエルメ​​者︀勒篾​​ヂエベ​​者︀別​​チラウン​​赤剌溫​の四人は、元史に傳なし。​チラウン​​赤剌溫​は、功臣の第二十七なる​スルドス​​速勒都︀思​​ソルガンシラ​​鎖兒罕失喇​の子にして、父子共に勳勞ありしに、父は功臣に列して、子は列せざるは、​チラウン​​赤剌溫​早く死して、父のみ猶存したるが爲なるべし。元史には父子俱に傳なく、​ソルガンシラ​​鎖兒罕失喇​は、その名も見えざれども、​チラウン​​赤老溫​の名は、​ボルチユ​​博爾朮​​ムカリ​​木華黎​​ボロフン​​博羅渾​(また​ボルク​​博爾忽​)と列なりて、太祖︀紀の外、​ムカリ​​木華黎​の傳、兵志宿衞の篇に見え、「號​ドリバンクルウ​​掇里班曲律​、猶言四傑也」と云へり。


十七。六​チエルビン​​扯兒賓︀​

 太祖︀卽位の二年前、​ナイマン​​乃蠻​を伐たんとする時、​モンクト​​忙忽惕​​ドダイ​​朶歹​​ドゴルク​​朶豁勒忽​兄弟、​アルラト​​阿嚕剌惕​​ボオルチユ​​孛斡兒出​の弟​オゲレ​​斡格列​​コンゴタン​​晃豁壇​​モンリクエチゲ​​蒙里克額赤格​の子​トルン​​脫侖​、姓の知れざる​ブチヤラン​​不察㘓​​コンゴタン​​晃豁壇​​シユイケト​​雪亦客禿​の六人を​チエルビン​​扯兒賓︀​とし、六​チエルビン​​扯兒賓︀​と號し、親近の職を授けたり。この六人の內、​ドダイチエルビ​​朶歹扯兒必​​ジエタイ​​者︀台​は、功臣の第二十三、​トルンチエルビ​​脫侖扯兒必​​トロン​​脫欒​は、功臣の第十二、​シエイゲトチエルビ​​雪亦客禿扯兒必​​スイゲト​​速亦客禿​は、功臣の第三十一に列せり。元史にその名見えたるは、太宗紀二年の夏「​ドクル​​朶忽魯​及金兵戰、敗績、命​スブタイ​​速不台​援之」とあるは、​ドゴルクチエルビ​​朶豁兒忽扯兒必​なるべし。食貨志歲賜の篇に​オコレジエリビ​​斡闊烈闍里必​とあるは、​オゲレチエルビ​​斡格列扯兒必​なり。列傳卷四十王檝の傳に「帝(太祖︀)命​ジエリビ​​闍里畢​與皇太弟國王、分撥諸︀侯王城邑」とあるを、錢大昕の考異に「按​ボルチユ​​博爾朮​之弟、曰​オコレジエリビ​​斡闊烈闍里必​、疑卽傳之​ジエリビ​​闍里畢​也。皇太弟國王者︀、​オチギン​​斡赤斤​也」と云へり。


十八。​コンゴタン​​晃豁壇​​トルンチエルビ​​脫侖扯兒必​

 ​トルンチエルビ​​脫侖扯兒必​は、前に引ける​ババ​​伯八​の傳に見えたる外に、​ムカリ​​木華黎​の傳に、太祖︀十年北京興中府を降したる後、「錦州張鯨聚眾十餘萬、殺︀節︀度使、稱臨海︀郡王、至是來降。詔木華黎、以鯨總北京十提控兵、從​ドクラン​​掇忽闌​、南征未附州郡」。列傳卷三十七(元史一五〇)なる​シモエツセン​​石抹也先​の傳に「又命​エツセン​​也先​、副​トクランジエリビ​​脫忽闌闍里必​、監張鯨等軍、征燕南未下州郡」。列傳釜三十八(元史一五)」なる​シモボデル​​石抹孛迭兒​の傅に、「又從​トクランジエリビ​​奪忽闌闍里必​、徇地山東大名」とあ[430]り。又列傳卷十なる​ハバルト​​哈八兒禿​の傳に「憲宗時、從攻釣魚山有功、云云。從千戶​トルン​​脫侖​伐宋、沒于陣」とあるは​トルンチエルビ​​脫侖扯兒必​の時代と合はざるに似たり。


十九。​タタル​​塔塔兒​​シギクトク​​失吉忽禿忽​の續。

 功臣の第十五 十六 十七 十八なる​ヒユウヂン​​許兀愼​​ボロクル​​孛囉忽勒​​タタル​​塔塔兒​​シギクトク​​失吉忽禿忽​​メルキト​​篾兒乞惕​​コチユ​​古出​​ベスツト​​別速惕​​ココチユ​​闊闊出​四人は、宣懿太后の育て擧げたる拾ひ兒にして、太祖︀は弟の如く思ひて、親信他人と異なりしが、四傑に加はりたる​ボロクル​​孛囉忽勒​​ボルク​​博爾忽​の外は、元史に傳なし。たゞ​シギクトク​​失吉忽禿忽​の事は、前に引ける太祖︀紀太宗紀の文の外に、列傳卷二なる睿宗の傳に、太宗三年辛卯の十二月禹山の戰の後、「壬辰(四年)春、​カダ​​合達​等知​トルイ​​拖雷​已北、合步騎十五萬、躡其後。拖雷接兵、遣其將​クドク​​忽都︀忽​等誘之。日且暮、令軍中曰「毋令彼得休息、宜夜鼓譟以擾之」。云云」とありて、遂に三峯山の大捷を得たることを載せ、親征錄に三峯山の戰の後、「上至南京、令​クドク​​忽都︀忽​攻之」、木華黎の傳に附記せるその孫​タス​​塔思​の傳に「三月、帝北還、詔塔思、與​クドフ​​忽都︀虎​統兵略定河南諸︀郡」、列傳卷八なる​チヤウス​​抄思​の傳に三峯山の戰に功を立てたる後、「制受萬戶、與內侍​クドフ​​胡都︀虎​留、乞僉起西京等處軍人征行、及鎭守隨州」とあり。又親征錄に、太宗六年甲午金を滅ぼしたる後、「遣忽都︀忽主治漢︀民」とあるは、太宗紀の「秋七月、以​クトフノヤン​​胡土虎那顏​爲中州斷事官」を云へるにて、​エリユソサイ​​耶律楚材​の傳に「甲午、議籍中原民。大臣忽都︀虎等、議以丁爲戶。楚材曰「不可。丁逃、則賦無所出、當以戶定之」。爭之再三、卒以戶定」とあり。錢大昕の考異に未知切的主虎を​シモミンガン​​石抹明安​の次子なる​クトカ​​忽篤奉​ならんと疑ひたるは、​シギクトク​​失吉忽禿忽​の斷事官は太祖︀の命に本づきて蒙古より中州に遷りたることに心附かざりし爲ならん。列傳卷二十二なる​テゲチユ​​鐵哥朮​の傳にも、​テゲチユ​​鐵哥朮​の父​エリチユ​​野里朮​は、「兼長四環衞之必闍赤、壬辰從國兵討金、以戰功最多、賞賚優渥。甲午、副忽都︀虎、籍漢︀戶口、籌其賦役、分諸︀功臣以地。人服其敏︀」とあり。但功臣に地を分てるは、六年甲午にあらずして、下に引けるが如く八年丙申にあり。又列傳卷三十六なる郭寶玉の傳に附記せるその子德海︀の傳に「太宗詔大臣​クドフ​​忽都︀虎​等、試天下僧︀尼道士、選精︀通經文者︀千人、有能工藝者︀、則命小通事​カチユ​​合住​等領之、餘皆爲民、‥‥從德海︀之請也」とあるは、この頃の事なり。憲宗の時、劉秉忠の世祖︀に上れる書に「自​クドノヤン​​忽都︀那演​斷事之後、差徭甚大」と云へるを見れば、その政の何如を窺ふべし。七年乙未の春、皇子曲出と共に宋を伐ちたることは、列傳卷七の​チヤガン​​察罕​の傳に「皇子​コチユクドト​​闊出忽都︀禿​伐宋、命​チヤガン​​察罕​爲斥候、」列傳卷十六なる​アラハン​​阿剌罕​の傳に「父​エリウガン​​也柳干​、歲乙未、從皇子​コチユクドト​​闊出忽都︀禿​南征、」列傳卷二十なる​トホン​​脫歡​の傳に「父​トドン​​脫端​爲萬戶、從皇子​コチユクドト​​闊出忽都︀禿​、略汴宋睢宿等州」とあるは、いづれも虎を禿と誤りたるなり。列傳卷九なる鐵邁赤の傳に「從皇子閥出、忽都︀、行省鐵木荅兒、定河南、累有戰功」とあるは、​クド​​忽都︀​の下​フ​​虎​の字を脫したるなり。又列傳卷九なる​シユチトルカ​​槊直瞃魯華​の傳に「金亡、命大臣​クドフ​​忽都︀虎​、料民分封功臣」、親征錄に、乙未の夏「遺​クチユクドク​​曲出忽都︀忽​、籍到漢︀民一百二十萬有奇、遂分賜諸︀王城邑各有差」とあり。この事は、太宗紀にはこの年に載せざれども、八年丙申の六月「復括中州戶口、得續戶一百一十餘萬」、その七月「詔以眞定民戶奉太后湯沐、中原諸︀州民戶、分賜諸︀王貴戚」とあるは、卽その事にして、皆​クドク​​忽都︀忽​斷事官の取扱なり。​ウイダル​​畏荅兒​の傳に「歲丙申、​クドク​​忽都︀忽​大料漢︀民、分城邑、以封功臣」。​エリユ​​耶律​楚材の傳に、丙申の七月「​クドフ​​忽都︀虎​以民籍至、帝議裂州縣、賜親王功臣。楚材曰「裂土分民、易生嫌隙、不如多以金帛與之」。帝曰「己許、柰何」。楚材曰「若朝廷置吏、收其貢賦、歲終頒之、使母擅科徵、可也」。帝然其計、遂定天下賦稅」、とあり。楚材の傳と劉秉忠の上書の文とに依れば、​クドク​​忽都︀忽​の政は人意に滿たざる所ありしが如くなれども、世祖︀嘗て兵を典り民に宰たる者︀の害を爲すを憂へて、張德輝に問へる時、德輝對へて「莫如更遺族人之賢如​クウンブハ​​口溫不花​者︀、使掌兵權、勳舊則如​クドフ​​忽都︀虎​者︀、使主民政。若此、則天下均受賜矣」と云へる[431]を見れば、​クドク​​忽都︀忽​も、たゞに武斷を專にしたる人に非ざるに似たり。又列傳卷十なる​ユリマス​​月里麻思​の傳に「歲丁丑、太宗命與斷事官​クドノ​​忽都︀那​同署︀」とあれども、太宗の世に丁丑の年なければ、丁丑は、太宗九年なる丁酉の誤にて、​クドノ​​忽都︀那​​ノ​​那​も、​ク​​忽​の誤なり。食貨志歲賜の篇に「​クドフ​​忽都︀虎​官人、五戶絲、壬子年査認過廣平等處四千戶とあるも、​シギクトク​​失吉忽禿忽​なり。



貳。太祖︀卽位の後に見えたる諸︀臣。



弌。實錄卷九に見えたる分。


一。​エケネウリン​​也客捏兀𡂰​

 太祖︀卽位の時(實錄卷九三七三頁)に、千の宿衞の長となれる​エケネウリン​​也客捏兀𡂰​の名は、外には見當らざれども、その頃は​コンゴタン​​晃豁壇​の勢好き時にして、​モンリクエチゲ​​蒙里克額赤格​に子どもあまたありたれば、その子どもの內にてやあらん。


二。​ウリヤンカン​​兀哴罕​​エスンテエ​​也孫帖額​​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ブギダイ​​不吉歹​​ゴルクダク​​豁兒忽荅黑​​ラブラカ​​剌卜剌合​

 同じ時に箭筒士の第一班の長にして千の箭筒士の總長を兼ねたる、​ウリヤンカン​​兀哴罕​​ヂエルメ​​者︀勒蔑​の子、​エスンテエ​​也孫帖額​、箭筒士の第二班の長にして總長の相談役となれる、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​トゲ​​禿格​​トンゲ​​統格​の子、​ブギダイ​​不吉歹​、箭筒士の第三班の長となれる​ゴルクダク​​豁兒忽荅黑​、箭筒士の第四班の長となれる​ラブラカ​​剌卜剌合​の四人は、太宗の時もその職を保てること、實錄六四八頁に見え、​エスンテエ​​也孫帖額​​エスントエ​​也孫脫額​​ブキダイ​​不吉歹​​ブギダイ​​不乞歹​​ラブラカ​​剌卜剌合​​ラバルガ​​剌巴勒合​とあり。その​エスントエ​​也孫脫額​は、憲宗元年に​アンヂダイ​​按只䚟​等と共に誅せられたる​エスント​​葉孫脫​なり。他の三人は、外に見當らず。


三。​ヂヤイル​​札剌亦兒​​ブカ​​不合​

 八千の侍衞の一千づゝの長八人の內、第二の一千の長にして第一班の宿老を兼ねたる​ムカリ​​木合里​の弟​ブカ​​不合​は、功臣の第八十一なる​ブカグレゲン​​不合古咧堅​にして、​ムカリ​​木華黎​の傳にはその名見えざれども、蒙韃備錄に​ムカ​​抹歌​と書き、太師國王​ムクル​​沒黑肋​の弟、​ダイスン​​帶孫​郡王の兄として、「見在​チンギス​​成吉思​處爲護衞」と云へり。


四。​アルチダイノヤン​​阿勒赤歹那顏​

 第三の一千の長にして第二並の宿老を兼ねるる​イルガイ​​亦魯該​の親族​アルチダイ​​阿勒赤歹​は、太宗の時、​コンゴルタカイ​​晃豁兒塔孩​と共に第一班の宿老となり、太宗の​グユク​​古余克​を怒りたる時(實錄六三八頁)、諸︀王​モンゲ​​忙格​官人​コンゴルタイジヤンギ​​晃豁兒台掌吉​と共に建議したることありき。この​アルチダイ​​阿勒赤歹​も太祖︀の姪なる諸︀王​アルチダイ​​阿勒赤歹​も、元史には​アンチタイ​​按赤台​又は​アンヂダイ​​按只帶​などありて、​アル​​阿勒​の音を​アン​​按​にて表はせり。列傳卷三十七なる張榮の傳に、榮はもと山東の地に竊據して居たりしが、丙戌の年(太祖︀二十一年)に「遂擧其兵與地、納款於​アンチタイノヤン​​按赤台那衍​」とあるは、この​アルチダイ​​阿勒赤歹​なり。又憲宗元年に​エスント​​葉孫脫​等と共に誅せられたる​アンヂダイ​​按只䚟​も、この​アルチダイ​​阿勒赤歹​にして、​モンゲサル​​忙哥撒兒​の傳に​アンチタイ​​按赤台​の亂を作さんとしたることを載せたり。後の​アルヂギダイ​​額勒只吉歹​の處に引くべし。


五。​ウルウト​​兀嚕兀惕​​チヤナイ​​察乃​

[432]

 第六の一千の待衞の長なる​ウルウト​​兀嚕兀惕​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​親族​チヤナイ​​察乃​の名は、​チユチタイ​​朮赤台​の傳にもなし。


六。​オンギラト​​翁吉喇惕​​アクタイ​​阿忽台​

 第七の一千の侍衞の長なる​オンギラト​​翁吉喇惕​​アルチグレゲン​​阿勒赤古咧堅​の親族​アクタイ​​阿忽台​は、​テイセチエン​​特薛禪​の傳なる​アンチンノヤン​​按陳那顏​の弟​ホク​​火忽​にてもあらんか。​ホク​​火忽​の事蹟は、何も無し。只甲戌の年(太祖︀九年)、太祖︀​デメケル​​迭篾可兒​​テメエンケエル​​帖篾延客額兒​、駱駝が原)に在せる時、​アンチン​​按陳​兄弟に​ノント​​農土​​ノントク​​嫩禿黑​、營盤の地)を分け賜ひて、​ホク​​火忽​には「​ハラウン​​哈老溫​迤東、塗河濱河之間、​ホルチナ​​火兒赤納​慶州之地、與​イキレス​​亦乞列思​爲隣、汝則居之」と諭しき。


七。​ヂヤライル​​札剌亦兒​​アルカイカツサル​​阿兒孩合撒兒​

 第八の一千の侍衞の長なる​ヂヤライル​​札剌亦兒​​アルカイカツサル​​阿兒孩合撒兒​は、太祖︀紀の​アリハイ​​阿里海︀​なることは論なけれども、​イルガイ​​亦魯該​もその人ならんと云ひたることは疑はし。​アルカイカツサル​​阿兒孩合撒兒​は、金の中都︀陷ちたる時(實錄四五二頁)、​オングル​​汪古兒​​シギクトク​​失吉忽禿忽​と三人にて、中都︀の帑藏を調べに遣されき。


八。​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​

 宿衞を犯して拏へられたる​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​(實錄三八一頁六四四頁)は姓も知れざる人なれども、​ドーソン​​多遜​の史には​イルチカダイノヤン​​亦勒赤喀歹那顏​とありて、太祖︀西征の役に​ヘラト​​赫喇惕​の叛民を殲滅したることを載せられ、太宗の時に至りては(實錄六四九頁)、眾の官人どもは、​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​を長として、その命に從へと敕ありき。眾官の長は卽宰相にして、元史には、この人の宰相となれること見えざれども、黑韃事略には「其相四人。曰​アンヂダイ​​按只䚟​(原注。黑韃人、有謀而能斷)。曰​イラ​​移剌​楚材(原注。字晉卿、​キタン​​契丹​人、或稱中書侍郞)。曰​ネンカチユンシヤン​​粘合重山​(原注。女眞人或稱將軍)。共理漢︀事。曰​チンハイ​​鎭海︀​(原注。​フイフイ​​回回​人)。專理​フイフイ​​回回​國事」とあり。​アンヂダイ​​按只䚟​は、​アルチダイ​​阿勒赤歹​を云へるが如く聞ゆれども、​アルチダイ​​阿勒赤歹​は、番直の宿老に過ぎざる人にして、四相の首に列すべき筈なければ、この​アンヂダイ​​按只䚟​は、​アンヂギダイ​​按只吉䚟​の略稱なるべし。​エルヂギ歹​​額勒只吉夕​​アンヂギダイ​​按只吉歹​とも云へることは、列傳卷九なる​アンヂヤル​​按札兒​の傳にも見え、又列傳卷十七なる​チエリ​​徹里​の傳に​エンヂギタイ​​燕只吉台​氏、列傳卷二十七なる​ベルケブハ​​別兒怯不花​の傳に​エンヂギダイ​​燕只吉䚟​氏とありて、錢大昕の元史氏族表に「​エンヂギタイ​​燕只吉台​氏、亦作​アンヂギダイ​​晏只吉䚟​氏、蒙古世族也」とあり。これは姓なれども、その呼方は名と全く同じ。​エンヂギダイ​​燕只吉䚟​​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​​アンヂギダイ​​晏只吉䚟​​アルヂギダイ​​阿勒只吉歹​にして、​エ​​額​​ア​​阿​とは、蒙古話にては善く通ふ音なれば​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​​アルヂギダイ​​阿勒只吉歹​とも云へることうつなし。​イラ​​移剌​楚材以下三相の事は、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、以​エル​​耶律​楚材爲中書令、​ネンカチユンシヤン​​粘合重山​爲左丞相、​チンハイ​​鎭海︀​爲右丞相」とありて、​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​の名も無けれども、黑韃事略は、太宗三年に官命を定めたる前の事を記せるなれば、中書令左右丞相の名も無く、たゞ「其相四人」と云へるなり。この​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​は、後に謀叛を以て誅せられたる人なれば、元史には傳をも立てず、その首相となれることまで本紀にも載せられざるなり。

 ​ムカリ​​木華黎​の孫​タス​​塔思​の傳に、庚寅(太宗二年)九月、武仙に潞洲を取られたる時、「冬十月、帝親征、遣萬戶​インヂギタイ​​因只吉台​、與​タス​​塔思​復取潞州、仙夜遁」とある​インヂギタイ​​因只吉台​も、​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​なり。「​エン​​蕪​」又は「​アン​​按​」の代りに「​イン​​因​」と云へるは、​ドーソン​​多遜​​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​に近し。又​アンヂヤル​​按札兒​の傳には「帝率從弟​アンヂギダイ​​按只吉歹​​クウンブハ​​口溫不花​大王、皇弟四太子、國王​ボル​​孛魯​、征潞州鳳翔釣州三峯山」とあり。この文は、甚混亂なり。太宗の從弟と云へば、諸︀王​アンヂダイ​​按只歹​の如くなれども、太宗二年の冬潞州を取りたるは、​アンヂギダイ​​按只吉歹​​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​​タス​​塔思​とにして、諸︀王​アンヂダイ​​按只歹​​クウンブハ​​口溫不花​等は與らず。皇弟四太子は、​トルイ​​拖雷​なり。國王​ボル​​孛魯​は、​ムカリ​​木華黎​の子、​タス​​塔思​の父にして、二年前に已に薨じたれ[433]は、​タス​​塔思​をふと誤りたるなり。​アンヂダイ​​按只歹​​クウンブハ​​口溫不花​​タス​​塔思​等の河を渡りて、​トルイ​​拖雷​と三峯山に會したる太宗四年の春にして、潞州鳳翔の戰の引續きに非ざれば、かく一筆に書き連ぬべきに非ず。又睿宗の傳に、太宗三年十二月禹山の戰の後、鄧州を捨てて北に進む時、「以三千騎命​ヂヤラ​​札剌​等率之爲殿。明旦大霧迷道、爲金人所襲、殺︀傷相當。​トルイ​​拖雷​​ヂヤラ​​札剌​失律罷之、而以​エリチキダイ​​野里知給歹​代焉。未幾敗金軍」。​エリチキダイ​​野里知給歹​​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​なり。​ヂヤラ​​札剌​は、太祖︀十四年​ハヂン​​哈眞​と共に高麗の​キダン​​契丹​賊を不げたる元帥​ヂヤラ​​札剌​なり。黑韃事略「其相四人」の疏證に「霆至草地時、​アンヂダイ​​按只䚟​己不爲矣。​ネンカチユンシヤン​​粘合重山​、隨​クチユ​​屈朮​僞太子南侵。次年、​クチユ​​屈朮​死、​アンヂダイ​​按只䚟​代之、​ネンカチユンシヤン​​粘合重山​復爲之助」とあり。​クチユ​​屈朮​は、太宗の第三子​コチユ​​闊出​また​クチユ​​曲出​にして、太宗紀に「七年乙未春、遣皇子​クチユ​​曲出​​クトフ​​胡土虎​伐宋。冬十月、​クチユ​​曲出​圍棄陽拔之、遂徇襄鄧、入郢、虜︀人民牛馬數萬而還。八年丙申春二月、命應州郭勝、​ボチユルキウヂウ​​鈞州孛朮魯九住​、鄧州趙祥︀、從​クチユ​​曲出​、充先鋒伐宋。冬十月、皇子​クチユ​​曲出​薨」。​ネンカチユンシヤン​​粘合重山​の傳に「太宗七年、從伐宋、詔軍前行中書省事、許以便宜。師入宋境、江淮州邑、望風款附。​チユンシヤン​​重山​降其民三十餘萬、取定城・天長二邑、不誅一人」とあれども、​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​​クチユ​​曲出​に代り、​チユンシヤン​​重山​のそれを助けたる事は、載せられず。

 定宗紀に、二年丁未「八月、命​エリチギダイ​​野里知吉帶​、率​シユスマン​​搠思蠻​部兵征西。是月、詔蒙古人、戶毎百以一名充​バドル​​拔都︀魯​」とあり。​シユスマン​​搠思蠻​は、​シユルマン​​搠兒蠻​の誤にて、親征錄太祖︀昇遐の翌年なる戊子の年に見えたる​シユリマン​​搠力蠻​に同じく、卽祕史の​シユルマカン​​搠兒馬罕​なり。​シユルマカン​​搠兒馬罕​​チユルマグン​​出兒馬昆​は、​ドーソン​​多遜​に據るに、一二四〇年(太宗十二年)に歿して、その副帥なる​ベスツト​​別速惕​​ハイヂユ​​拜主​それに代りしが、今​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​に命じて、​シユルマカン​​搠兒馬罕​の征服したる諸︀部を統べしめたるなり。​ホヲルス​​訶倭兒思​曰く「一二四七年(定宗二年)、​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​に命じて、師を率ゐて​ペルシヤ​​珀兒沙​に往かしめき。その師を聚めんが爲に、皇族の諸︀王にその部兵の十人ごとに二人を出さしめ、​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​にも​ペルシヤ​​珀兒沙​にて同じ割合に兵を徴すことを命じけり。​グルヂルーム​​古兒只嚕姆​の二王國​モスル​​抹速勒​​ヂヤルベクル​​的牙兒別克兒​​アレツポ​​阿列披​の諸︀國は、​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​に徵稅の全權を持ちて專轄せしめ、​アルグン​​阿兒昆​​ペルシヤ​​珀兒沙​の政治を、​マススト​​馬思速惕​​トルキスタン​​突︀兒其思壇​・河間地方のそれを故の如く執り、皆金獅符を賜はりき(​ハンメル​​含篾兒​​イルカン​​亦勒罕​一、五八)」。​グルヂ​​古兒只​以下の諸︀國を專轄してその兵を徵すは、卽​シユルマカン​​搠兒馬罕​の部兵を率ゐるなり。諸︀王の兵十分の二を出すは、多過ぎたり。蒙古人百分の一を​バドル​​拔都︀魯​卽戰士に充つるの誤ならん。たゞ元史は、その事を​エリチギダイ​​野里知吉帶​の西征に關せざる如く書きたるは非なり。

 ​ホヲルス​​訶倭兒思​又曰く「一二四八年(定宗三年)、​クユク​​庫由克​は、​イミル​​亦米勒​河の地方に赴かんとして、​ビシバリク​​必失巴里克​の西七日路の處(元史​ホンシヤンギル​​横相乙兒​之地)にて遽に崩じ、皇后​オグルガイミシ​​斡古勒該米失​(元史​オウリハイミシ​​斡兀立海︀迷失​)は、喪を祕して、まづ​バト​​巴禿​​トルイ​​拖雷​の寡婦秀兒庫克帖尼(祕史莎兒合黑塔尼)とに吿げ、​バト​​巴禿​の同意を得て、君の定まるまで攝政となりき。​バト​​巴禿​は、​クユク​​庫由克​に謁︀せんと​アラクタク​​阿剌克塔克​山(祕史卷五の​ウルクタク​​兀魯黑塔黑​か)に至り、訃を聞きて、そこに留り、​クリルタイ​​庫哩勒台​を召集しければ、​オゴタイ​​斡果台​の子孫だちは抗議して、​クリルタイ​​庫哩勒台​は蒙古の舊土にて開くべしと云ひき。されども​カラコルム​​喀喇科嚕木​の太守​チムルノヤン​​提木兒諸︀顏​(功臣の第六十一​テムル​​帖木兒​)を遣して議に預らしめき(​ドーソン​​多遜​二、二三四)。その​クリルタイ​​庫哩勒台​にて將軍​イルチキダイ​​亦勒赤奇歹​​ドーソン​​多遜​​イルチカダイ​​亦勒赤喀歹​)は、​オゴタイ​​斡果台​の子孫に一塊の肉殘れる限りは他の皇族を選ばざることを會員の約束したりしことをその會員に想ひ起させたるに、​トルイ​​拖雷​の子​クビライ​​忽必來​答へて曰く「​オゴタイ​​斡果台​の志望は、旣に違背せられたりき。皇族の誰にても、諸︀王の大會にて審判せらるゝまでは殺︀すことを禁ぜられたる​チンギスカン​​成吉思汗​の法に逆ひて、汝等は、​アルタルン​​阿勒塔侖​​チンギス​​成吉思​の愛女)を審問なしに殺︀さざりしか。また​シラムン​​失喇門​を相續人に名ざしたりし​オゴタイ​​斡果台​の遺言に逆ひて、汝等は、​クユク​​庫由克​​カガン​​合罕​の位に陛せざりしか。」將軍​マングサル​​曼古撒兒​(元史の​モンゲサル​​忙哥撒兒​)は、首として議を發し、​トルイ​​拖雷​の長子​マング​​曼古​の支那西域にての武功を述べて、推戴すべきことを主張し、​バト​​巴禿​その議を賛し、​マング​​曼古​の辭するにも拘らず、議遂に定まり、​バト​​巴禿​​マング​​曼古​に盞を捧げ、會衆は祝︀聲を揚げき。それにてこの大會は延期となり、明年更に​チンギスカン​​成吉思汗​の創業の地に皇族の諸︀王を悉[434]く聚めてこの選擧を確定せんことを議決しけり(​ハンメル​​含篾兒​​イルカン​​亦勒罕​一、六一)」。

 憲宗推戴の事情は、元史譯文證補の定宗憲宗本紀補異に​ドーソン​​多遜​に本づきて委しく叙べたり。憲宗紀には、​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​​クビライ​​忽必來​との議論は無くて、攝政皇后の使​バラ​​八剌​​ムゲ​​木哥​(世系表睿宗の第九子​モゲ​​末哥​)との議論あり。「歲戊申、定宗崩、朝廷久未立君、中外恟恟、成屬意於帝。而覬覦者︀衆、議未決。諸︀王​バド​​拔都︀​​ムゲ​​木哥​​アリブカ​​阿里不哥​(世系表睿宗の第七子)、​シヤイゲト​​唆亦哥禿​(世系表睿宗の第十子​サイドゲ​​歲都︀哥​か)、​タチヤル​​塔察兒​(世系表​テムゲオチギン​​鐵木哥斡赤斤​の孫)、大將​ウリヤンカタイ​​兀良合台​​スブタイ​​速不台​の子)、​スニダイ​​速儞帶​(は知らず)、​テムゲル​​帖木迭兒​(祕史太宗の侍衞第二班の宿老)​エスブハ​​也速不花​(食貨志歲賜篇左手千戶九人の一)、威會子​アラトクラウ​​阿剌脫忽剌兀​之地、​バド​​拔都︀​首建議推戴。時定宗皇后​ハイミシ​​海︀迷失​所遣使者︀​バラ​​八剌​在坐、日「昔太宗命以皇孫​シレムン​​失烈門​爲嗣、諸︀王百官皆與聞之。今​シレムン​​失烈門​故在、而議欲他屬、將實之何地耶」。​ムゲ​​木哥​曰「太宗有命、誰敢違之。然前議立定宗、由皇后​トクレネ​​脫忽列乃​與汝輩爲之。是則違太宗之命者︀、汝等也。今尙誰咎耶」。​バラ​​八剌​語塞。​ウリヤンカタイ​​兀良合台​曰「​モンゲ​​蒙哥​、聰明睿知、人咸知之。​バド​​拔都︀​之議良是」。​バド​​拔都︀​卽申令於眾、眾悉應之、議遂定」。​アラトクラウ​​阿剌脫忽剌兀​​ラウ​​剌兀​は、蓋​アウラ​​阿兀剌​の誤にして、​アラトクアウラ​​阿剌脫忽阿兀剌​は、卽​ドーソン​​多遜​​アラクタク​​阿剌克塔克​山なり。​トクレネ​​脫忽列乃​は、​トレクネ​​脫列忽乃​の誤にして、卽后妃表の​トレゲナ​​脫列哥那​六皇后なり。

 ​モンゲサル​​忙哥撒兒​の傳は、又憲宗紀とも異なり。「定宗崩、宗王​バドカン​​八都︀罕​、大會宗親、議立憲宗。​ウイウ​​畏兀​​バラ​​八剌​曰「​シレムン​​失烈門​、皇孫也、宜立。且先帝嘗言其可以君天下」。諸︀大臣皆莫敢言。​モンゲサル​​忙哥撒兒​獨曰「汝言誠是。然先皇后立定宗時、汝何不言耶。​バドカン​​八都︀罕​固亦遵先帝遺言也。有異議者︀、吾請斬之」。眾乃不敢異。​バドカン​​八都︀罕​乃奉憲宗立之。憲宗之幼也、太宗甚重之。一日行幸、天大風、入帳殿。命憲宗坐膝下、撫其首曰「是可以君天下也」。他日用牸按豹。皇孫​シレムン​​失烈門​尙幼、曰「以牸按豹、則犢將安所養」。太宗以爲有仁心、又曰「是可以君天下」。其後太宗崩、六皇后攝政、竟立定宗。故至是二人各擧以爲言云」。洪鈞曰く「案本紀、卽與​モンゲサル​​忙哥撒兒​傳異、西書又異。蓋會議時、人眾語多、各就所聞紀之、故不同如此。惟大致同耳」。


九。憲宗卽位の事情。

 憲宗卽位の條は、異說もあり、明ならざる所もあるに由り、今​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​の事を述ぶる序に、憲宗紀の文を引きて、その考證を試みん。かくて憲宗紀に「元年辛亥夏六月、西方諸︀王​ベルゲ​​別兒哥​​トハテムル​​脫哈帖木兒​、東方諸︀王​エグ​​也古​​トク​​脫忽​​イスンゲ​​亦孫哥​​アンヂダイ​​按只帶​​タチヤル​​塔察兒​​ベリグダイ​​別里古帶​、西方諸︀大將​バリチ​​班里赤​等、東方諸︀大將​エスブハ​​也速不花​等、復大會于​コテウ​​闊帖兀​阿闌之地、共推帝卽皇帝位於​オナン​​斡難︀​河」。卽位の日は、​ドーソン​​多遜​の史に一二五一年(西暦の七月一日とあり。​ベルゲ​​別兒哥​​トハテムル​​脫哈帖木兒​二人は、​ドーソン​​多遜​に據るに、​ヂユチ​​拙赤​の子​バルカイトカチムル​​巴兒開脫喀提木兒​なり。​エグ​​也古​​トク​​脫忽​​イスンゲ​​亦孫哥​三人は、祕史卷六に見えたる​ヂユチカツサル​​拙赤合撒兒​の子​エグ​​也古​​イスンゲ​​亦孫哥​​トク​​脫忽​、世系表​シユヂハツサル​​搠只哈撒兒​の子​エクイシヤンゲトク​​也苦移相哥脫忽​なり。​アンヂダイ​​按只帶​は、​カチウン​​合赤溫​の子​アルチダイ​​阿勒赤歹​なり。​タチヤル​​塔察兒​は、世系表​テムゲオチギン​​鐵木哥斡赤斤​の孫にして​ヂブガン​​只不干​の子なり。​ベリグダイ​​別里古帶​は、祕史の​ベルグタイ​​別勒古台​、世系表の​ベリグタイ​​別里古台​なり。洪鈞曰く「​ベリグダイ​​別里古帶​、改本作​ベルゲタイ​​伯勒格台​、爲太祖︀弟。案、​ベルゲタイ​​伯勒格台​、不過少太祖︀數歲、特以庶母所出故列於末。太祖︀崩、至是已二十五年。是否尙存、殊不敢必。又​ベリグタイ​​別里古台​​メリギダイ​​滅里吉歹​見史表、或卽​ベリグダイ​​別里古帶​」。​バリチ​​班里赤​は、錢大昕の考異に「疑卽​バルチユアルテ​​巴而朮阿而忒​也」と云へれども、憲宗紀九年に​ヂヤライル​​札剌亦兒​部人​トホン​​脫歡​に對して、​アルラ​​阿兒剌​部人​バリチ​​八里赤​とあれば、​ウイウト​​畏兀惕​​バルチユ​​巴而朮​には非ずして、​アルラト​​阿嚕剌惕​の人なり。​ボオルチユ​​孛斡兒出​の親屬にやあらん。​コテウ​​闊帖兀​​アラン​​阿闌​は、卽​コデウ​​闊迭兀​​アラル​​阿喇勒​、太祖︀創業の地なり。​オナン​​斡難︀​河と云へるは誤れり。​コデウ​​闊迭兀​​アラル​​阿喇勒​は、​ケルレン​​客魯嗹​河の中島なることは、實錄の注に屢云へるが如し。

 洪釣の憲宗本紀補異は、​ドーソン​​多遜​の史を述べて、​アラクダク​​阿勒克塔克​山の大會畢り、「皇后使者︀歸報。后與二子​コヂヤ​​闊札​​ナグ​​納古​大不悅、遣使吿​バト​​巴禿​「會議非地、宗王未集、議不能從」。​バト​​巴禿​謂「明年再會於東。太祖︀太宗大業、未可輕[435]授。君位已定、請屈意相從」。遂令弟​バルカイ​​巴兒開​・脫喀提木兒將大軍、衡曼古而東、自駐於西、以備非常。第二次之會、​シウルククテニ​​秀兒庫克帖尼​爲主、召集諸︀王大將。而太宗定宗後王、​チヤガタイ​​察合台​後王​イスマング​​亦速曼古​皆不至。​バト​​巴禿​屢使往勸、仍不納。​バルカイ​​巴兒開​等以久待爲憂、請命於​バト​​巴禿​​バト​​巴禿​乃申令於眾「定立​マング​​曼古​。宗親中梗議者︀、有國典在」。旣而東方諸︀王​ヂユチ​​拙赤​​カツサル​​合撒兒​​カチウン​​合赤溫​​テムグ​​帖木古​​ウヂユキン​​兀主勤​子孫成集。亦遣使往勸​シラムン​​失喇門​​コヂヤ​​闊札​​ナグ​​納古​。三王允往、猶未至。而擇日已定、不及待、遂奉​マング​​曼古​卽位、時年四十有三。卽位之日、諸︀王列右、王妃公主列左、​マング​​曼古​七弟列前、武臣以​マングサル​​曼古撒兒​爲首、文臣以​ボルガイ​​孛勒該​爲首。禮成、大宴七日」とあり。音譯字は、洪鈞に依らず、原書の音に從ひて改めたり。以下皆然り。​コヂヤ​​闊札​​ナグ​​納古​は、世系表定宗の長子​フチヤ​​忽察​、次子​ナク​​腦忽​にして、陳桱の通鑑續編に​コヂヤ​​和者︀​​ナクダイ​​腦忽歹​とあり。​イスマング​​亦速曼古​は、世系表​チヤガタイ​​察合台​の子​エスモンゲ​​也速蒙哥​にして、憲宗紀下文に​エスモンケ​​也速忙可​とあり。東方諸︀王の集れるは、​カツサル​​合撒兒​の子​エグ​​也古​​エスンゲ​​也孫格​​トク​​禿忽​​カチウン​​合赤溫​の子​アルチダイ​​阿勒赤歹​​オチギン​​斡赤斤​の孫​タチヤル​​塔察兒​等なり。​マング​​曼古​の七弟は、世系表の世祖︀皇帝​フレウ​​旭烈兀​​アリブゲ​​阿里不哥​​ボチヤ​​墢綽​​モゲ​​末哥​​サイドゲ​​歲都︀哥​​シユベタイ​​雪別合​なり。​マングサル​​曼古撒兒​​ボルガイ​​孛勒該​の事は、憲宗紀に「以​モンゲサル​​忙哥撒兒​爲斷事官、以​ボルガ​​孛魯合​掌宣發號令、朝覲貢獻、及內外聞奏諸︀事」とあり。​モンゲサル​​忙哥撒兒​は、本傳に據るに夙くより睿宗憲宗に事へて、憲宗の斷事官の長となり、藩邸の分民を治め居たりしが、こゝに至り帝國の斷事官となれり。​ボルガ​​孛魯合​は、​エセンブハ​​也先不花​の父​ボルホン​​孛魯歡​、卽​ラシツト​​喇失惕​​ボルガイ​​孛勒該​にして、前の七〇〇頁に云へり。

 さて憲宗紀卽位の續に「​シレムン​​失烈門​及諸︀弟​ナク​​腦忽​等、心不能平、有後言。帝遣諸︀王​フレ​​旭烈​​モンケサル​​忙可撒兒​、帥兵覘之。諸︀王​エスモンケ​​也速忙可​​ブリ​​不里​​ホヂヤ​​火者︀​等、後期不至。遣​ブリンギダイ​​不憐吉䚟​、率兵備之」。​フレ​​旭烈​は、憲宗世祖︀の弟​フラグ​​旭烈兀​なり。​ブリ​​不里​​ブリ​​不哩​は、祕史に據れば、​チヤガダイ​​察合歹​の長子と見ゆれば、​エスモンゲ​​也速蒙哥​〈[#ルビの「エスモンゲ」は底本では「エスヂモンゲ」。底本の他ルビに倣い修正]〉の兄なり。​ホヂヤ​​火者︀​は、卽​コヂヤ​​闊札​、世系表の​クチヤ​​忽察​なり。​ブリンギダイ​​不憐吉䚟​は、憲宗紀七年に元帥​ブリンギダイ​​卜隣吉䚟​とある人なり。列傳卷九十二姦臣​テムデル​​鐵木迭兒​の傳に、仁宗の時「制贈︀祖︀​ブリンギダイ​​不憐吉帶​太尉、證忠武、追封歸德王」とあるは、卽その人にして、元史氏族志に、世祖︀の宰相​クルブハ​​忽魯不花​の父「卜隣吉帶大將」とあるも、同じ人なり。これらの諸︀王は、後言あるのみならず、期に後れたるのみならず、​モンゲサル​​忙哥撒兒​の傳に據れば、亂を作さんとしたるなり。「憲宗旣立、​チヤハタイ​​察哈台​之子及​アンチタイ​​按赤台​等謀作亂、刻車轅、藏兵其中、以入。轅折、兵見。​クセケ​​克薛傑​見之、上變。​モンゲサル​​忙哥撒兒​卽發兵迎之。​アンチタイ​​按赤台​不虞事遽覺、倉卒不能戰、遂悉就擒。憲宗親簡其有罪者︀、付之鞠治。​モンゲサル​​忙哥撒兒​悉誅之」。​チヤハタイ​​察哈台​之子は、卽​ブリ​​不哩​​エスモンゲ​​也速忙哥​なり。​アンチタイ​​按赤台​は、祕史の官人​アルチダイ​​阿勒赤歹​なり。後に​モンゲサル​​忙哥撒兒​の二子​トホン​​脫歡​​トルチ​​脫兒赤​に賜はれる憲宗の詔に「​チヤハタイ​​察哈台​​アハ​​阿哈​之孫、太宗之裔、定宗​コチユ​​闊出​之子、及其民人、越有他志」と云へるを見れば、定宗の子​フチヤ​​忽察​​ナク​​腦忽​​コチユ​​闊出​の子​シレムン​​失咧門​などもその謀に與れる趣なり。憲宗紀は、次に​ホリム​​和林​また各地方の文武大官二十九人の補任を載せたる後に、「​エスント​​葉孫脫​​アンヂダイ​​按只䚟​​チヤンギ​​暢吉​​ヂヤナン​​爪難​​カダ​​合荅​​クリン​​曲憐​​アリチユ​​阿里出​​ゴンギタン​​剛疙疸​〈[#「剛疙疸」は底本では「剛疙疽」。疽(jǖ)は疸(dǎn)の異体字だが発音が遠いので底本の他ルビに倣い修正]〉・阿散忽務持兩端、坐誘諸︀王爲亂、竝伏誅。冬、以​エンヂギダイ​​宴只吉帶​違命、遣​カダン​​合丹​誅之、仍籍其家」とあり。​エスント​​葉孫脫​以下八人の事は、旣に前に云へり。​エンヂギダイ​​宴只吉帶​は、卽​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​なり。​カダン​​合丹​は、功臣の第六十三なる​カダアン​​合荅安​か。然らずば、世系表太宗の第六子なる​カダン​​合丹​大王なるべし。

 この騷動の始末は、​ラシツト​​喇失惕​の史に委し(​ドーソン​​多遜​二、二六五-)。憲宗本紀補異「禮成、大宴七日」の續に、「正燕樂時、御者︀​ケクセ​​客克薛​上變謂「以失騾出覓、道遇車乘甚衆。一車折轅、其御束縛之、誤以爲同伴、呼使助。則見車中藏兵甚多。訝而問之。其御曰「汝車同我車、何問爲」。益訝之。更詢他車、始知​シラムン​​失喇門​​コヂヤ​​闊札​​ナク​​納古​三王、以朝會爲名、將乘飮宴不爲備作亂、故馳返以吿」。​マンク​​曼古​乃令​マングサル​​曼古撒兒​〈[#「曼古撒兒」は底本では「撒古撒兒」。底本の他ルビに倣い修正]〉率兵往覘、止其衞士、令各從二十人入謁︀、具貢物凡九。始至時、猶令與宴。越日拘係​マンク​​曼古​自鞫之。皆堅謂無逆謀。刑訊​シラムン​​失喇門​從官、乃吐其實、而自到以死。復令​マングサル​​曼古撒兒​訊諸︀從官、咸辭伏。​マング​​曼古​以初卽位、不欲多行殺︀戮。衆以爲未可。正猶豫間、​エルワヂ​​也勒瓦只​立於門外。呼以入、問曰「汝老成人、更事已多、何猶無言」。對曰「臣、西域人也。請得言西城事。昔者︀[436]​ギリシヤ​​吉哩沙​​アレクサンデル​​阿歷散迭兒​、已滅​ペルシヤ​​珀兒沙​、欲入​インド​​印度​。而將領中多異議、令出不行。​アレクサンデル​​阿歷散迭兒​、遣使詢於其傳​アリストーテル​​阿哩思脫帖兒​。使者︀致命。​アリストーテル​​阿哩思脫帖兒​無言、惟與使者︀游園、遇林木之蔽觀眺礙行路者︀、悉令從人芟伐拔掘、易以新株。使者︀悟、歸報。​アレクサンデル​​阿歷散迭兒​、乃誅逐諸︀不從令將領、更易其位、遂平​インド​​印度​而回」。於是​マング​​曼古​意決、殺︀三王之黨、煽亂謀逆者︀、凡七十人。​イルチキダイ​​亦勒赤奇歹​二子亦同謀。皆以石子塡塞其口而死。​イルチキダイ​​亦勒赤奇歹​、已往西域。遣人追及於​バドギス​​巴篤吉思​之地獲之、以付​バト​​巴禿​、置諸︀死」とあり。​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​の二子の內には、​バト​​巴禿​を罵りたりし​ハルガスン​​哈兒合孫​もあるべし。

 又憲宗紀二年の條に「春正月、幸​シフイ​​失灰​之地。‥‥‥皇太后(​シヨルカクタニ​​莎兒合黑塔尼​)崩。夏駐蹕​ホリム​​和林​、分遷諸︀王於各所、​カダン​​合丹​​ベシバリ​​別石八里​地、​メリ​​蔑里​​エルチシ​​葉兒的石​河、​ハイド​​海︀都︀​​ハイアリ​​海︀押立​地、​ベルゲ​​別兒哥​​クルヂ​​曲兒只​地、​トト​​脫脫​​エミリ​​葉密立​地、​モンゲト​​蒙哥都︀​及太宗皇后​キリギクテニ​​乞里吉忽帖尼​​コドン​​擴端​所居地之西。仍籍太宗諸︀后妃家貲分賜親王。定宗后及​シレムン​​失烈門​母、以厭禮事覺竝賜死。謫​シレムン​​失烈門​​エスボリ​​也速孛里​等於​ムトチ​​沒脫赤​之地」。これらの諸︀王は、世系表に據るに、皆太宗の子孫にして、​カダン​​合丹​は第六子なる​カダン​​合丹​大王(​ラシツト​​喇失惕​​カダノグル​​喀丹斡古勒​)、​メリ​​蔑里​は第七子​メリ​​滅里​大王、(​メリク​​篾里克​​ハイド​​海︀都︀​は第五子​カシ​​合失​大王(​カシ​​喀失​)の子​ハイド​​海︀都︀​大王(​カイド​​開都︀​)、​トト​​脫脫​は第四子​ハラチヤル​​哈剌察兒​王(​カラヂヤル​​喀喇札兒​)の子​トト​​脫脫​大王(​トクタ​​禿克塔​)、​モンゲド​​蒙哥都︀​は第二子​コドン​​闊端​太子(​クタン​​庫壇​)の子​モンゲト​​蒙哥都︀​大王、​コドン​​擴端​は卽第二子​コドン​​闊端​太子、​シレムン​​矢烈門​は第三子​コチユ​​闊出​​クチユ​​庫出​)の子​シレムン​​昔列門​太子(​シラムン​​失喇門​)なり。​ベルゲ​​別兒哥​は、​バト​​巴禿​の弟、​ラシツト​​喇失惕​​バルカイ​​巴兒開​にして、憲宗翼戴の功ある人なれば、こゝに入りたるは誤なり。​クルヂ​​曲兒只​は、卽​グルヂ​​古兒只​にして、​バト​​巴禿​の領地の南境にある地なれば、これは、遷されたるにあらずして、新に封ぜられたるならん。​キリギクテニ​​乞里吉忽帖尼​は、后妃表に太宗の三皇后とあり。​ラシツト​​喇失惕​は(​ドーソン​​多遜​二、九九)、​カシ​​喀失​まで五人は、正后​トラキナ​​禿喇奇納​の子にして、​カダン​​喀丹​​オグル​​斡古勒​​メリク​​篾里克​とは、妃妾の子なりと云ひ、后妃表には「​エリギナ​​業里訖納​妃子、​メリ​​滅里​之母」とあり。陳桱の通鑑續編に據れば、長子​カシダイ​​合西歹​は二皇后​ボフイ​​孛灰​の子にして、蚤く死し、定宗・​コドン​​闊端​​クチユ​​屈出​​カラチヤル​​合剌察兒​四人は、六皇后の子、​カダン​​合丹​​メリ​​滅立​二人は、七皇后の子なりと云へり。​ボフイ​​孛灰​は、表の​アンフイ​​昻灰​二皇后なり。​ボ​​孛​は、​アンアン​​安案​などの誤ならん。七皇后は、表に無し。​エリギナ​​業里訖納​妃子を云へるならん。定宗の后は、后妃表の​オウリ​​斡兀立​​ハイミシ​​海︀迷失​​ラシツト​​喇失惕​​オグル​​斡古勒​​ガイミシ​​該米失​なり。​シレムン​​失烈門​の母は、元史に名なし。​ラシツト​​喇失惕​​カタクシ​​喀塔庫失​と云へり。​エスボリ​​也速孛里​は、太宗の子孫に見えず、諸︀王の從官なるべし。その分遷の地は、大抵太宗の分地の內又はその近傍に在り。​ベシバリ​​別石八里​は卽​ビシバリク​​必失巴里克​​エルチシ​​葉兒的石​河は卽​エルチシ​​額兒的失​河、​ハイアリ​​海︀押立​は卽​カヤリク​​喀牙里克​​エミリ​​葉密立​は卽​エミル​​額米勒​なり。​ムトチ​​沒脫赤​の地は、考なし。憲宗本紀補異に曰く「二年春、皇太后崩、葬睿宗墓旁。至​カラコルム​​喀喇闊嚕木​、究厭禳之獄。以定宗后​シラムン​​失喇門​母付​マングサル​​曼古撒兒​、盡法鞫治得實、裏以氈、投諸︀河。殺︀定宗后用事大臣(​チンハイ​​鎭海︀​​カダク​​喀荅克​)。以​チヤガタイ​​察合台​​ブリ​​不哩​​バト​​巴禿​​ブリ​​不哩​曾於酒後詈​バト​​巴禿​。至是​バト​​巴禿​殺︀之。以​コヂヤ​​闊札​​ナグ​​納古​​シラムン​​失喇門​三王、皆由其母煽惑、得免︀死。遷​コヂヤ​​闊札​​カラコルム​​喀喇闊嚕木​西​スリガイ​​速里該​之地、謫​ナグ​​納古​​シラムン​​失喇門​爲兵弁。其後​クビライ​​忽必來​伐宋、請於​マング​​曼古​、使​シラムン​​失喇門​從軍效力。迨​マング​​曼古​自將南伐、仍投​シラムン​​失喇門​於水。分遷太宗後王、定其封地。太宗舊部軍、別擇親王將之、以防其擁衆爲亂。惟太宗子​カダン​​合丹​​メリク​​篾里克​、太宗孫​クタン​​庫壇​之子、翊戴無二心、未奪兵柄、仍得分太宗諸︀后妃家資」。​スリガイ​​速里該​の地は、考なし。​ハンメル​​含篾兒​​セリンガ​​薛鄰噶​と譯したれども、​セリンガ​​薛鄰噶​​セレンゲ​​薛連格​河は、​カラコルム​​喀喇闊嚕木​の北にして、西とは云ふべからず。洪鈞曰く「案本紀、二年分遷諸︀王、曰​ベシバリ​​別石八里​地、曰​エルチシ​​葉兒的石​河、曰​ハイアリ​​海︀押立​、曰​エミリ​​葉密立​、皆在太宗分地及其附近、竝未遠徙、特爲之分定疆界耳。紀又云​コドン​​擴端​所居地之西、西方何地無考、亦非甚荒遠。不明其地、又泥於元史文義、一若盡投之遠方也者︀、未爲是也。本紀元年、遣​カダン​​合丹​​エンヂギダイ​​宴只吉帶​、三年、以​ハダンヂヤルハチ​​哈丹札魯花赤​、八年九年、諸︀王​モゲド​​莫哥都︀​攻渠州禮義山、竊疑皆太宗後王。可就西書、以窺測元史」。​シレムン​​失咧門​の殺︀されたることは元史に見えざれども、​シユチトルカ​​槊直腯魯華​の傳に、その子​ミンガンダル​​明安荅兒​は、「癸丑(憲宗三年)、憲宗遣從​シレムン​​昔列門​太子南伐」とあるは、​シレムン​​失咧門​の世祖︀の軍に從へる時の事を云へるなり。[437]


弐。實錄卷十に見えたる分。


一。​カルルウト​​合兒魯兀惕​​アルスランカン​​阿兒思闌罕​

 ​カルルウト​​合兒魯兀惕​​アルスランカン​​阿兒思闌罕​(實錄三八九頁)は、降服の後、何事も見えざれとも、公主表​トレ​​脫烈​公主位に「​トレ​​脫烈​公主適​アルスラン​​阿爾思蘭​​エツセンブハ​​也先不花​駙馬、​ババ​​八八​公主適​エツセンブハ​​也先不花​​クナダル​​忽納荅兒​駙馬、某公主適​クナダル​​忽納荅兒​​ラハイヤリナ​​剌海︀涯里那​駙馬」とありて、​アルスラン​​阿兒思闌​の公主に尙してより曾孫まて四代、引續き元の駙馬となりしなり。


二。​ウイウト​​委兀惕​​イドウト​​亦都︀兀惕​

 ​ウイウト​​委兀惕​​イドウト​​亦都︀兀惕​(實錄三九四頁)は、​ラシツト​​喇失惕​の史に​ウイグル​​委古兒​​イヂクトバルヂユク​​亦的庫惕巴兒主克​、元史に​ウイウル​​畏兀兒​​イドクバルチユアルテチキン​​亦都︀護巴而朮阿而忒的斤​と云ひ、列傳卷五に子孫數世に涉れる委しき傳あり。但​イドク​​亦都︀護​の軍功を叙べたる後、「旣卒、而次子​ユグルンチチギン​​玉古倫赤的斤​嗣」と云ひ、その相續の間に何事も叙べざるが、​ラシツト​​喇失惕​に據れば、​ユグルンチ​​玉古倫赤​​オケンヂ​​斡肯只​に兄二人ありて、そこに元史に漏れたる逸︀事あり。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​ラシツト​​喇失惕​に據れば(​ベレジン​​別咧津​一、一二八)、​チンギス​​成吉思​汗は、​バルヂユク​​巴兒主克​の勳功を賞して、その女​アルトムビギ​​阿勒禿姆必吉​を妻せんことを約したりしが、​チンギス​​成吉思​の死したるが爲に婚期延びけり。この公主は、遂に婚禮を行ふ前に死したれば、​オゴタイカン​​斡果台汗​は、​ウイグル​​委古兒​の君に​アラヂビギ​​阿剌只必吉​と云へる公主を與へき。されども​バルヂユク​​巴兒主克​死して、その子​キシユマイン​​奇施馬因​父に繼ぎて、​ウイグル​​委古兒​​イヂクト​​亦的庫惕​となりたれば、その公主を​キシユマイン​​奇施馬因​に與へき。​キシユマイン​​奇施馬因​死したる後、その弟​サレンヂ​​撒連的​嗣ぎけり」。​アルトムビギ​​阿勒禿姆必吉​は、實錄卷十の​アルアルトン​​阿勒阿勒屯​​バルチユアルテ​​巴而朮阿兒忒​の傳の​エリ​​也立​​アントン​​安敦​なり。公主表に​エリ​​也立​​カトン​​可敦​公主とある​カ​​可​は、​アン​​安​の誤なり。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​は、「元朝祕史に、この公主の名は、​アルチユアルトン​​阿勒扯阿勒屯​と讀まる」とて、​ラシツト​​喇失惕​​アラヂビギ​​阿剌只必吉​〈[#「阿剌只必吉」は底本では「喇剌只必吉」。底本の他ルビに倣い修正]〉に當てたり。然らば​パラヂウス​​帕剌的兀思​本には、上の​アル​​阿勒​の下に​チエ​​扯​の字ありて、我等の本には脫ちたるならん。​アルチエ​​阿勒扯​は、​アラヂ​​阿剌只​に稍似たれども、​アルトン​​阿勒屯​は、​ラシツト​​喇失惕​​アルトム​​阿勒禿姆​、元史の安敦にして、三書共に太祖︀の女とすれは、同人なること論なし。​アラヂビギ​​阿剌只必吉​は、誰の女なるか。公主表に見えず。洪鈞の地理志西北地附錄釋地に(​ドーソン​​多遜​を譯して)曰く「​バルヂユク​​巴兒主克​先有子、名​キシユマイン​​奇施馬因​、嗣​イヂクト​​亦的庫惕​位、旋卒。攝政皇后(​トラキナ​​禿喇奇納​)命​キシユマイン​​奇施馬因​之弟​サレンヂ​​撒連只​嗣立。憲宗即位、​サレンヂ​​撒連只​來朝。而​ビシパリク​​必失巴里克​之地、流言忽起、謂撒連只將盡戮木速勒蠻徒。其僕吿變。蒙古官​サイフエツヂン​​賽甫額丁​、監治​ビシバリク​​必失巴里克​、要​サレンヂ​​撒連只​〈[#ルビの「サレンヂ」は底本では「ササンヂ」。底本の他ルビに倣い修正]〉返、詢無是謀。而其僕堅證之。事聞於朝。付​マングサル​​曼古撒兒​鞫治。刑訊​サレンヂ​​撒連只​、遂誣服。令其弟​オケンヂ​​斡肯只​殺︀之、代其位。​ムスルマン​​木速勒蠻​徒則大悅。​サレンヂ​​撒連只​崇佛法、民與異敎、故設謀害其主。有二臣同死、一臣流於遠、僕膺賞。其時憲宗與太宗子孫不協、故凡附太宗之人、在​ウイグル​​委古兒​地者︀、斥逐殆盡」。

 本傳に據るに、​ユグルンチチキン​​玉古倫赤的斤​〈[#「玉古倫赤的斤」は底本では「玉古倫赤的斥(エグルンチチキン)」。底本の他ルビに倣い修正]〉(卽​オケンヂ​​斡肯只​〈[#ルビの「オケンヂ」は底本では「オケン」。底本の他ルビに倣い修正]〉)の子​マムラチキン​​馬木剌的斤​〈[#ルビの「マムラチキン」は底本では「マムラチキ」。底本の他ルビに倣い修正]〉、孫​ホチハルチキン​​火赤哈兒的斤​、皆​イドク​​亦都︀護​の位を嗣ぎしが、​ホチハル​​火赤哈兒​は、叛王​ハイドドワ​​海︀都︀都︀哇​等に攻められ、遂に戰に死せり。その子​ニウリンチキン​​紐林的斤​は、武宗の時​イドク​​亦都︀護​となり、仁宗の時高昌王に封ぜられき。​ニウリンチキン​​紐林的斤​薨じ、長子​テムルブハ​​帖木兒補化​​イドク​​亦都︀護​高昌王を襲ぎ、天曆二年中書左丞相となり、​イドク​​亦都︀護​高昌王の位を弟​ヅアンギ​​籛吉​に讓れり。​ホチハル​​火赤哈兒​​ニウリン​​紐林​​テムルブハ​​帖木兒補化​は、皆公主に尙しき。文宗紀至順三年「高昌王​ツアンギ​​藏吉​薨、其弟​タイビンヌ​​太平奴​襲位。」​ツアンギ​​藏吉​は、卽傳の​ヅアンギ​​籛吉​なり。考異に曰く「考虞集高昌王世勛碑、​ニウリンチキン​​紐林的斤​、止有二子、與本傳合、則​タイビンヌ​​太平奴​似非​ニウリン​​紐林​之子矣」。又順帝紀至正十三年「​イドク​​亦都︀護​高昌王​ユルテムル​​月魯帖木兒​、薨于南陽軍中。命其子​サンゲ​​桑哥​​イドク​​亦都︀護​高昌王爵」。​ユルテムル​​月魯帖木兒​は、誰の子なるかを知らず。又氏族表には、​テムルブハ​​帖木兒補化​の子​ブダシリ​​不荅失里​「中書平章政事、嗣​イドク​​亦都︀護​高昌王。薨。子​コシヤン​​和賞​嗣。元亡、降於明、授高昌衞同知指揮使司事。[438]有子曰​タイピン​​太平​」とあり。又忠義傳三(元史一九五)に​バヤンブハチキン​​伯顏不花的斤​と云へる忠烈の士あり、信州を援ひて、陳友諒の兵と戰ひ、國難に殉せり。その傳の首に「​バヤンブハチキン​​伯顏不花的斤​、字蒼崖、​ウイウル​​畏吾兒​氏、駙馬都︀尉中書丞相封高昌王​シエシエチキン​​雪雪的斤​之孫、駙馬都︀尉江浙行省承相封荆南王​ドルチキン​​朶爾的斤​之子也」とあり。​イドク​​亦都︀護​の家にて中書丞相となれるは、​テムルブハ​​帖木兒補化​一人のみなれば、​シエシエチキン​​雪雪的斤​は、​テムルブハ​​帖木兒補化​の別名にて、​ノヤンブハ​​伯顏不花​​テムルブハ​​帖木兒補化​の孫なるに似たり。考異に曰く「按、諸︀王公主二表、及​バルチユアルテチキン​​巴而朮阿而忒的斤​傳、俱不載​シエシエチキン​​雪雪的斤​​ドルチキン​​朶兒的斤​之名。葉盛水東日記、引高昌王世勛碑曰「​テムルブハ​​帖木兒補化​有二子、長​ブダシリ​​不荅失里​、嗣​イドク​​亦都︀護​高昌王、次​バヤンブハチキン​​伯顏不花的斤​、爲太常鮮于樞甥、官浙東宣慰使」。如碑所言、似​ドルチキン​​朶兒的斤​​テムルブハ​​帖木兒補化​、卽是一人。今考元文類︀、載虞集高昌王世勛碑、不叙​テムルブハ​​帖木兒補化​之子。葉文莊所見、豈別一碑邪」。太常鮮于樞の甥は、傳に據れば、太常典簿鮮于樞の外孫なり。浙東宣慰使は、傳には衢州路の​ダルハチ​​達魯花赤​より浙東の都︀元帥に陞り、江東道の廉訪副使に擢てらるとあり。


三。​オイラト​​斡亦喇惕​​クドカベキ​​忽都︀合別乞​

 ​オイラト​​斡亦喇惕​​クドカベキ​​忽都︀合別乞​(實錄三九八頁)は、降服の後、その長子​トレルチ​​脫咧勒赤​は、​ヂユチ​​拙赤​の女​ゴルイカン​​豁雷罕​を娶り、次子​イナルチ​​亦納勒赤​は、太祖︀の女​チエチエイゲン​​扯扯亦干​を娶りき。公主表延安公主位の初に「​ホル​​火魯​公主適​ハダ​​哈荅​駙馬、​ココゲン​​闊闊干​公主適​トイレチ​​脫亦列赤​駙馬」とある、​ホル​​火魯​​ゴルイカン​​豁雷罕​の下略、​ココゲン​​闊闊干​​チエチエイゲン​​扯扯亦干​の訛、​トイレチ​​脫亦列赤​​トレルチ​​脫咧勒赤​の訛と聞ゆれば、​トイレチ​​脫亦列赤​​ホル​​火魯​の夫にして、​ハダ​​哈荅​​ココゲン​​闊闊干​の夫​イナルチ​​亦納勒赤​なるを、互に誤れるに似たり。又​ハダ​​哈荅​駙馬は、功臣の第八十四なる​カダイ​​合歹​駙馬に似たれば、​カダイ​​合歹​は卽​オイラト​​斡亦喇惕​​イナルチ​​亦納勒赤​の別名かとも疑はる。この疑は、已に實錄四〇二頁の注に陳ベたり。又公主表の續に「​トトフイ​​脫脫灰​公主、世祖︀孫女、適​トマンダル​​禿滿荅兒​駙馬、某公主適​ベリミシ​​別里迷失​駙馬某公主適​シヤラン​​沙藍​駙馬、延安公主適延安王​エブゲン​​也不干​」。これらの駙馬は、皆​クドカベキ​​忽都︀合別乞​の子孫なるべけれども、その關係は明ならず延安王は、諸︀王表金印駝紐の中にあり。


四。​ドルベト​​朶兒別惕​​ドルベドクシン​​朶兒伯多黑申​

 ​ドルベト​​朶兒別惕​​ドルベドクシン​​朶兒伯多黑申​(實錄四〇五頁五二〇頁)は、​トマト​​禿馬惕​征伐と​アブト​​阿卜禿​征伐と二たび見えたり。


弎。實錄卷十一に見えたる分。


一。​グイクネクバアトル​​古亦古捏克巴阿禿兒​

 居庸關の戰に​ヂエベ​​者︀別​と共に先鋒に行きたる​グイクネクバアトル​​古亦古捏克巴阿禿兒​(實錄四三二頁)は、列傳卷三十六なる郭寶玉の傳に附記せるその子德海︀の傳に、(太宗三年か)「德海︀導大將​グイユナ​​魁欲那​​バード​​拔都︀​、假道漢︀中、歷荆襄而東」。列傳卷二なる睿宗の傳に、太宗三年の冬、「破金兵十餘萬于武當山、趨均州、乘騎浮渡漢︀水、遺​グイクネ​​夔曲捏​、率千騎馳白太宗(四年正月)太宗方詣漢︀水、將分兵應之。會​グイクネ​​夔曲捏​至、卽遣慰諭拖雷、亟合兵焉」とあり。​グイユナ​​魁欲那​​グイクネ​​夔曲捏​も、​グイクネク​​古亦克捏克​なり。方詣漢︀水は、方渡河の誤なり。親征錄に「壬辰春正月初六日、大兵畢渡、及獲漢︀船七百餘艘。太上皇(​トルイ​​拖雷​)遣將​グイユ​​貴由​、來報集軍兵等、已渡漢︀江」とあるは、卽藝曲捏馳白太宗の事なり。又親征錄に、その年の夏「上與太上皇北渡河、避暑︀於官山。​スブダイバード​​速不歹拔都︀​​テムダイホルチ​​忒木歹火兒赤​​グイユバード​​貴由拔都︀​​タ​​塔​​チヤルホルチ​​察兒火兒赤​]等、適遇金遣荆王守仁之子曹王、入質我軍、遂退、留​スブタイバード​​速不台拔都︀​、以兵三萬鎭守河南」とあり。列傳卷三十一に「​ユルテムル​​月魯帖木兒​​ブリンキンドリベダイ​​卜領勤多禮伯臺​氏。曾祖︀​グイユ​​貴裕​事太祖︀、爲管領​ケリンクケセ​​怯憐口怯薛​官」とありて、事蹟は[439]何も載せざれども、​グイユ​​貴裕​は、卽親征錄の​グイユ​​貴由​にして、祕史の​グイクネク​​古亦克捏克​なるべし。​ドリベタイ​​多禮伯臺​​ドルベト​​朶兒別惕​にして、​ブリンキン​​卜領勤​はその分部の名なり。


二。​ヂユブカン​​主卜罕​

 太祖︀、金・夏の二國を降して回りたる後、金帝に拘へられたる​ヂユブカン​​主卜罕​(實錄四四六頁)を、元史太宗紀睿宗の傳は、​シユブカン​​搠不罕​と書き、宋に殺︀されたりとし、太宗三年の事としたるは、いづれか正しきを知らざる上に、猶この二說のいづれにも合はざる他の一說ありて、列傳卷八十忠義一石珪の傳に「歲戊寅(太祖︀十三年)、太祖︀使​ガガブカン​​葛葛不罕​與宋議和。庚辰(十五年)宋果渝盟」と見えたり。拘へらるとも殺︀さるとも云はざれども、​ガガブカン​​葛葛不罕​の名は、​ヂユブカン​​主卜罕​​シユブカン​​搠不罕​と稍似たれば、これも同事の異聞なるべし。


三。​ヒユウヂン​​許兀愼​の脫忽察兒。

 西征の役に​ヂエベ​​者︀別​​スベエタイ​​速別額台​と共に​シヨルタン​​莎勒壇​を追ひたる​トクチヤル​​脫忽察兒​(實錄四八一頁)は、太宗の時に​アラツエン​​阿喇淺​と共に​ヂヤム​​站​を整ふることを命ぜられき(卷十二六五九頁)。この​トクチヤル​​脫忽察兒​、卽​ラシツト​​喇失惕​​トガチヤル​​脫噶察兒​は、​ヒユウヂン​​許兀愼​​ボロクル​​孛囉忽勒​の從孫にして、元史には​タチヤル​​塔察兒​と云ひ、列傳卷六なる​ボルク​​博爾忽​の傳に附記せり。金を滅し、宋を敗り、戰功甚多き人なり。


四。​アダルギン​​阿荅兒斤​​コンカイ​​晃孩​​ドロンギル​​朶龍吉兒​​コンタカル​​晃塔合兒​​オテゲダイ​​斡帖格歹​​シユルマカン​​搠兒馬罕​

 三皇子の叱られ居たる時太祖︀をなだめたる三人の箭筒士、​アダルギン​​阿荅兒斤​​コンカイゴルチ​​晃孩豁兒赤​​ドロンギル​​朶龍吉兒​​コンタカルゴルチ​​晃塔合兒豁兒赤​​オテゲダイ​​斡帖格歹​​シユルマガンゴルチ​​搠兒馬罕豁兒赤​〈[#「罕」のルビ「ガン」はママ。実録では「カン」。以後もママ]〉(實錄五一五頁)三人の內、​コンカイ​​晃孩​​コンタカル​​晃塔合兒​は外に見當らず。​シユルマガン​​搠兒馬罕​は、卷十二、五八九頁に​チヨルマガン​​綽兒馬罕​とあり。​ドーソン​​多遜​の史には​チヤルモグン​​察兒抹足​と云ひて西征の事蹟甚詳かなり。元史には、定宗紀二年に​シユルマン​​搠兒蠻​(誤りて​シユスマン​​搠思蠻​)の部兵、​カスメリ​​曷思麥里​の傳に西域の大帥​チヤガン​​察罕​と見え、親征錄には「太宗皇帝與太上皇、共議​シユリマン​​搠力蠻​復征征城」と見えたるのみにして、事蹟は何も見えず。


五。​クルムシ​​忽嚕木石​​ヤラワチ​​牙剌哇赤​​マスクト​​馬思忽惕​

 ​クルムシ​​忽嚕木石​​ヤラワチ​​牙剌哇赤​​マスクト​​馬思忽惕​父子(實錄五三三頁)は、​ラシツト​​喇失惕​の史に、父を​マハムト​​馬呵木惕​​エルヷヂ​​也勒縛只​と云ひ、子を​マスストベー​​馬思速惕閉​と云へり。二人の太祖︀の時に任用せられたることは、元史に見えざれども、太宗元年八月即位の時には、親征錄に「西域賦調、命​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​主之」、本紀に「西域人以丁計出賦調、​マハムトハラシミ​​麻合沒的滑剌西迷​主之」とあり。​シミ​​西迷​は、蓋​ワチ​​瓦赤​の誤なり。十三年十月には、親征錄に「命​ヤラワチ​​牙老瓦赤​、生管漢︀民」、本紀に「命​ヤラワチ​​牙老瓦赤​、主管漢︀民公事」とあり。列傳卷四十なる劉敏︀の傳に「辛丑(太宗十三年)春、授行尙書省。詔曰「卿之所行、有司不得與聞」。俄而​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​自西域回、奏與敏︀同治漢︀民。帝允其請。​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​素剛尙氣、恥不得自專、遂俾其屬​モンゲル​​忙哥兒​、誣敏︀以流言。敏︀出手詔示之、乃已。帝聞之、命​ハンチヤホルチ​​漢︀察火兒赤​中書左丞[相]​ネンカチユンシヤン​​粘合重山​奉御李簡詰問、得實、罷​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​、仍令敏︀獨任」とあるはその時の事にして、​ヤラワチ​​牙剌哇赤​の罷められたることは、本紀に漏れたり。又列傳卷四十五なる姚樞の傳に「辛丑、賜金符、爲燕京行臺郞中。時​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​行臺、惟事貨路、以樞幕長分及之。樞一切拒絕、因棄官去」とあるを見れば、​ヤラワチ​​牙剌哇赤​も、つまらぬ人なるが如し。​ラシツト​​喇失惕​に據れば、​マスストベー​​馬思速惕閉​は、太宗の末年に​トルキスタン​​突︀兒其思壇​河間地方の太守となり、軍にて荒されたる地方の繁榮を回復したりし[440]が、​トラキナ​​禿喇奇納​皇后の攝政の時、その政治に信服せずして、​バトカン​​巴禿罕​の處に遁げ去りき。定宗位に卽き、呼び回して舊の職に就かしめけり。​プラノカルピニ​​普剌諾喀兒闢尼​に據れば、定宗卽位の食會に、​マススト​​馬思速惕​は已に舊官(西域の牧長)を以て參列せり。憲宗紀元六月卽位の條に「以​ヤラワチ​​牙剌瓦赤​​ブヂル​​不只兒​​オルブ​​斡魯不​​ドダル​​覩荅兒​等充燕京等處行尙書省事、以​ヌホアイ​​訥懷​​タラハイ​​塔剌海︀​​マスク​​麻速忽​等充​ベシバリ​​別失八里​等處行尙書省事」とありて、太宗の末年に罷められたる牙剌哇赤は再任用せられき。​マスク​​麻思忽​は、卽​マスクト​​馬思忽惕​にして、​ラシツト​​喇失惕​​マススト​​馬思速惕​なり。列傳卷四十六なる趙璧の傳に據れば、憲宗卽位の初に「一日斷事官​ヤラワチ​​牙老瓦赤​、持其印、請于帝曰「此先朝賜臣印也。今陛下登極、將仍用此舊印。抑易以新者︀耶」。時壁侍旁質之曰「用汝與否、取自聖裁。汝乃敢以印爲請耶」。奪其印、置帝前。帝爲默然久之。旣而曰「朕亦不能爲此也」。自是牙老瓦赤不復用」とあり。「不復用」と云へるは、この時直に罷められたるに非ず、明年も不只兒等と我儘を働き居たること世祖︀紀に見ゆれば、數年の後遂に信用を失ひたることを終言したるならん。世祖︀紀に「歲壬子(憲宗二年)、帝駐桓・撫間。憲宗令斷事官牙魯瓦赤與不只兒等、總天下財賦于燕、視︀事一日、殺︀二十八人。其一人盜馬者︀、杖而釋之矣。偶有獻環刀者︀、遂追還所杖者︀、手試刀斬之。帝責之曰「凡死罪、必詳讞而後行刑。今一日殺︀二十八人、必多非辜。旣杖復斬、此何刑也」。不只兒錯愕不能對」。不只兒は、功臣の第三十八、列傳の不智兒なり。この淫刑につき不只兒のみ叱られたるが如くなれども、牙剌哇赤もその責を分たざるべからず。姚樞の傳に「世祖︀在潛邸、遣趙璧召樞至、大喜、待以客禮」とありて、姚燧(樞の從子)の牧菴文集に載せたる樞の神︀道碑には「上遣趙壁驛至彰德。壁恐樞避去、獨至輝、以過客見、審其爲樞、始致見徵意。樞恐使者︀誤徵、不敢應。壁曰「君非棄牙老瓦赤隱此者︀乎」。曰「然」。乃偕往彰德受命」と云へり。


四。實錄卷十二に見えたる分。


一。​オゴトルオルダカル​​斡豁禿兒斡勒荅合兒​

 ​チヨルマカン​​綽兒馬罕​の後援に​モンゲト​​蒙格禿​と共に出征したる​オゴトル​​斡豁禿兒​(實錄五八九頁)、太宗の​キタト​​乞塔惕​征伐の時大​オルドス​​斡兒朶思​に留守したる​オルダ​​斡勒荅​​カルゴルチ​​合兒豁兒赤​(五九五頁)二人は、外に見當らず。


二。​ヂヤライルタイゴルチ​​札剌亦兒台豁兒赤​

 ​ヂユルチエトシヨランガス​​主兒扯惕莎郞合思​の處に出征したる​ヂヤライルタイゴルチ​​札剌亦兒台豁兒赤​(實錄二八頁)は、​サルタイゴルチ​​撒兒台豁兒赤​の誤寫又は誤譯ならんと(六三四頁に)云ひたれども、獨考えれは​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ムカリ​​木合里​國王の長孫​タス​​塔思​にはあらずやとも思はる。​ムカリ​​木華黎​の傳に「​タス​​塔思​、一名​チヤラウン​​査剌溫​。‥‥癸己(太宗五年)秋九月、從定宗于潛邸東征、擒金咸平宣撫​ワンヤンワンヌ​​完顏萬奴​于遼東。​ワンヌ​​萬奴​自乙亥歲(太祖︀十年)、率眾保東海︀、至是平之」、​シモエセン​​石抹也先​の傳に、​エセン​​也先​の子​チヤラ​​査剌​は「癸巳、從國王​タス​​塔思​、征金帥宣撫​ワンヌ​​萬奴​於遼東之南京(卽東京)、先登。眾軍乘之而進、遂克之。王解錦衣以賜」。​エセン​​也先​の傳と重複せる​シモアシン​​石抹阿辛​の傳に、​アシン​​阿辛​の子​チヤラ​​査剌​は「及從國王(​タス​​塔思​)軍征​ワンヌ​​萬奴​圍南京、城堅如立鐵。査剌命偏將、先警其東北、親奮長槊、大呼登西南角、摧其飛櫓、手斬陴卒數十人。大軍乘之、遂克南京。詰旦​ムカリ​​木華黎​解錦衣賞之」。​ムカリ​​木華黎​は、​タス​​塔思​の誤なり。​シモボデル​​石抹孛迭兒​の傳に「辛卯(太宗三年)、從國王​タス​​塔思​、征河南、癸巳(五年)、又從討​ワンヌ​​萬奴​於遼東平之」。この​ワンヌ​​萬奴​征伐は、太宗紀五年に「二月、幸​テレド​​鐵列都︀​之地、詔諸︀王議伐​ワンヌ​​萬奴​、遂命皇子​グイユ​​貴由​及諸︀王​アンチダイ​​按赤帶​、將左翼軍討之。九月、擒​ワンヌ​​萬奴​」とありて、​タス​​塔思​の名を擧げざれども、主帥は皇子諸︀王にして、軍の掛引は​タス​​塔思​の指圖に依れるなるべし。​ヂヤライルタイゴルチ​​札剌亦兒台豁兒赤​は、​ヂヤライル​​札剌亦兒​氏の箭筒士と云ふ義にして、​タス​​塔思​​ヂヤライル​​札剌亦兒​氏なる故にしか呼べるを、竟に​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​は名の如くなりしならん。傳に一名​チヤラウン​​査剌溫​[441]とあるも、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ヂヤライン​​札剌因​と轉じ、​ヂヤライン​​札剌因​​チヤラウン​​査剌溫​と轉じたらんと思はる。但​タス​​塔思​は、​ワンヌ​​萬奴​を征したれども、高麗には向はざりしを、​ヂユチ​​女直​高麗に出征したりと云ふことはいかゞあらん。


三。蒙古人の名の附けかた。

 因に云はん。蒙古人は、その姓卽部族の名を直ちに名とするもの往往あり。祕史なる​ドルベト​​朶兒別惕​​ドルベドクシン​​朶兒別朶黑申​を始として、元史列傳には​アルラ​​阿兒剌​氏(​アルラト​​阿嚕剌惕​)の​ボルチユ​​博爾朮​の玄孫​アルト​​阿魯圖​​ウリヤンカ​​兀良合​氏(​ウリヤンカン​​兀哴罕​)の​スブタイ​​速不台​の子​ウリヤンカタイ​​兀良合台​​ウリヤンカタイ​​兀哴合台​)、​チヤウレイタイ​​召烈台​​ヂヤウレイト​​札兀咧亦惕​)の​チヤウル​​抄兀兒​​ヂヤウル​​札兀兒​)、​ヂヤラル​​札剌兒​氏(​ヂヤライル​​札剌亦兒​)の​タチユ​​塔出​の父​ヂヤラタイ​​札剌台​​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​の略)、​ケレイ​​怯烈​氏(​ケレイト​​客咧亦惕​)の​エセンブハ​​也先不花​の子​ケレイ​​怯烈​など、みなそれなり。​ケレイ​​怯烈​氏の​シヤウナイタイ​​肖乃台​は、錢大昕の考異の拾遺に​ケレイタイ​​怯烈台​の稱ありと云へり。又元史氏族表には、​サンヂ​​珊竹​氏(​サルヂウト​​撒勒只兀惕​)の​ウエル​​吾也而​の曾孫​サンヂダイ​​珊竹歹​​サルヂウタイ​​撒勒只兀台​)、至正の翰林學士承旨​メルギタイ​​默而吉台​氏(​メルキト​​篾兒乞惕​)の​トト​​脫脫​の曾祖︀​メルギタイ​​默而吉台​、延祐︀五年の狀元​ネゲダイ​​捏古䚟​氏の​クドタル​​忽都︀達兒​の子​ネグス​​捏古思​などあり。蒙古人は、姓を名の上に附けて呼ばざる故に、姓を名としても重複せざるなり。然るに又己の姓に非ずして人の姓を名とする人も多ければ、その名を見てその姓を推定することは能はず。實錄卷三なる​スルドス​​速勒都︀思​​タイチウダイ​​泰赤兀歹​は、人の姓なる​タイチウト​​泰赤兀惕​を取りて己の名とし、元史列傳なる​オングト​​汪古惕​​アラウステギクリ​​阿剌兀思剔吉忽里​の孫​ネゲダイ​​聶古䚟​​オロナル​​斡囉納兒​​ケケリ​​怯怯里​の孫​ネグダイ​​捏古䚟​は、皆​ネグス​​捏古思​の姓を取りて名とし、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ムカリ​​木華黎​の女孫​ナイマンタイ​​乃蠻台​​ナイマン​​乃蠻​の姓を、​ムカリ​​木華黎​の弟​ダイスン​​帶孫​の裔なる​タタルタイ​​塔塔兒台​​タタル​​塔塔兒​の姓を、​ヒユウヂン​​許兀愼​​ボルク​​博爾忽​の從曾孫​スンドダイ​​宋都︀䚟​​スルドス​​速勒都︀思​の姓を、​ケレイト​​客咧亦惕​​シヤウナイタイ​​肖乃台​の子​ウルタイ​​兀魯台​​ウルウタイ​​兀嚕兀台​)は​ウルウト​​兀嚕兀惕​の姓を、​タタル​​塔塔兒​​モンゲタイ​​忙兀台​​モングト​​忙兀惕​の姓を、​バルラス​​巴嚕剌思​​クリンシ​​忽林失​の父​オンギラダイ​​翁吉喇帶​​オンギラト​​翁吉喇惕​の姓を取りて名とし、氏族表には、​タタル​​塔塔兒​​モングタイ​​忙兀古​の兄​ヂヤラルタイ​​札剌兒台​​オンギラタイ​​雍吉剌台​​イキリタイ​​亦乞里台​三人ありて、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​オンギラト​​翁吉喇惕​​イキレス​​亦乞咧思​の三姓を、​メルキト​​篾兒乞惕​​バヤン​​伯顏​の兄​シエニタイ​​雪你台​​シエニト​​雪你惕​の姓を、弟​バヤウタイ​​伯要台​​バヤウタイ​​巴牙兀台​)は​バヤウト​​巴牙兀惕​の姓を取りて名とせり。又​オンギラト​​翁吉喇惕​​テイセチエン​​特薛禮​の會孫​マンツタイ​​蠻子台​​マンツ​​蠻子​(南人)に非ず、​ウルウト​​兀嚕兀惕​​チユチタイ​​朮赤台​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​)は​ヂユルチエト​​主兒扯惕​​ヂユチ​​女直​)人に非ず、​ケレイト​​客咧亦惕​​ハサナ​​哈散納​の玄孫​ハラヂヤン​​哈剌章​​メルキト​​篾兒乞惕​​マヂヤイル​​馬札兒台​の孫​ハラヂヤン​​哈剌章​は、皆​カラヂヤン​​合喇章​(烏蠻)人に非ず、​カングリ​​康里​​オロス​​斡羅思​​オロス​​斡囉思​​ルシア​​嚕西亞​)人に非ず、​キブチヤク​​乞卜察黑​​キタイ​​乞台​​キタイ​​乞台​(支那)人に非ず、​メルキト​​篾兒乞惕​​マヂヤイル​​馬札兒台​​マヂヤル​​馬札兒​​ハンガリア​​洪噶哩亞​)人に非ず、后妃表に見えたる​イキレス​​亦乞咧思​​ボト​​孛禿​の裔なる​ソランハ​​瑣郞哈​は、​ソランガ​​瑣郞合​(高麗)人に非ず。蒙古の俗は、人の姓にても國の名にても構はず、又は官職の名にても佛の名にても遠慮なく、勝手に取りて名に附けたるなり。


四。憲宗の高麗征伐。

 又憲宗四年に高麗を征伐したる​ヂヤラル​​札剌兒​​ヂヤラタイ​​札剌台​は、正しく云へば​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​にして、祕史の東征の大將と名同じければ、彼の​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​は、この人に非ずやとも思はる。元史列傳卷二十​タチユ​​塔出​の傳に交​ヂヤラタイ​​札剌台​、歷事太祖︀憲宗。歲甲寅(憲宗四年)、奉旨伐高麗、命​サンギクラチユ​​桑吉忽剌出​諸︀王、竝聽節︀制。其年、破高麗連城、擧國遁入海︀島。己未(憲宗九年)正月、高麗計窮、遂內附、​ヂヤラタイ​​札剌台​之功居多」。​ヂヤラタイ​​札剌台​は、高麗史に​チヤラタイ​​車羅大​とあり。​サンギ​​桑吉​は、高麗史に​サンキ​​散吉​大王とあり。世系表に見えず。​シユヂハツサル​​搠只哈撒兒​王の第二子​イサンゲ​​移相哥​大王か。​クラチユ​​忽剌出​は、世系表​ハチウン​​哈赤溫​大王の曾孫、濟南王​アンヂキダイ​​按只吉歹​の孫、​ハダン​​哈丹​大王の子、隴王​クラチユ​​忽剌出​なり。高麗史に見えず、憲宗紀「二年壬子十月、命諸︀王​エグ​​也古​征高麗」。​エグ​​也古​は、​シユヂハツサル​​搠只哈撒兒​王の子淄川王​エク​​也苦​なり。高麗史に​エク​​也窟​大王とあり「三年癸丑春、諸︀王​エグ​​也古​以怨襲諸︀王​タラル​​塔剌兒​營。罷​エグ​​也古​征高麗兵、以​ヂヤラルダイ​​札剌兒帶​爲征東元帥」。​タラル​​塔剌兒​は、世系表に見えず。​テムゲオチギン​​鐵木哥斡赤斤​の孫​タチヤル​​塔察兒​國王の​チヤ​​察​​ラ​​剌​と誤れるには非ずや。​ヂヤラルダイ​​札剌兒帶​は、卽傳の​ヂヤラタイ​​札剌台​なり。そ[442]の年「十二月、命宗王​エフ​​耶虎​、與洪福︀源同領軍、征高麗、攻拔禾山東州春州三角山楊根天龍等城」。​エフ​​耶虎​は、卽​エグ​​也古​なり。旣に罷めて、復命ぜられしか。然らずば​ヂヤラルダイ​​札剌兒帶​を以て​エグ​​也古​に代ふるは、明年の事なるを、誤りてこの年に書きたるならん。洪福︀源の傳に「乙巳(定宗卽位の前年)、定宗命​アムカン​​阿母罕​將兵與福︀源共拔威州平虜︀城。辛亥、憲宗卽位、改授虎符、仍爲前後歸附高麗軍民長官。癸丑、從諸︀王​エフ​​耶虎​、攻禾山東州春州三角山楊根天龍等城拔之」。​アムカン​​阿母罕​は、高麗史に​アムカン​​阿母侃​と書きて、蒙古元帥とも蒙古東京路官人ともあり。乙巳は、丁未(定宗二年)の誤なり。定宗紀にはこの事を載せざれども、​ドーソン​​多遜​の史に「一二四七年に兵を出して高麗を征しき」とあり。又憲宗紀に「四年甲寅夏、遣​ヂヤライル​​札剌亦兒​部人​ホルチ​​火兒赤​征高麗」とあるは、卽​ヂヤライルタイゴルチ​​札剌亦兒台豁兒赤​にして、​ホルチ​​火兒赤​は、人の名に非ず、官の名なり。人の名は、​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​にして、卽前年の​ヂヤラルダイ​​札剌兒帶​、明年の​ヂヤラダイ​​剳剌䚟​なり。前後に同じ人あるにも心附かずして、異なる人の如く書きたる史臣の譯し方は、なんととんまなる事ならずや。洪福︀源の傳に「甲寅、與​ヂヤラタイ​​札剌台​合兵、攻光州安城忠州玄鳳珍原甲向玉果等城、又拔之」とあるは、甲寅の後二三年の事までを一筆に書き縮めたるにて、憲宗紀には、五年乙卯の處に「是歲、改命​ヂヤラダイ​​剳剌䚟​與洪福︀源同征高麗。後此連三歲、攻拔其光州安城中州玄風珍原甲向玉果等城」とあり。「改めて命ず」とは面白し。前年の​ホルチ​​火兒赤​と異なりと思へるが故に、この二字を加へたるなり。又紀六年丙辰の處に「是歲、高麗國王​シツオフ​​細瑳甫​來覲」とあるは、何を誤りたるにや考へ得ず。又紀に「八年戊午三月、命洪茶丘、率師從​ヂヤラダイ​​剳剌䚟​、同征高麗」。洪福︀源の傳「戊午、福︀源遺其子茶丘、從​ヂヤラタイ​​札剌台​軍。會高麗族子王綧入質、陰欲併統本國歸順人民、譜福︀源于帝、遂見殺︀」。王綧は、太宗十三年に質子となり、それより蒙古に留まり居たるにて、この年往きたるに非ず。福︀源の殺︀されたるは、高麗史福︀源の傳に據れば、綧の客李稠、福︀源の呪咀したることを覘ひ知りて、憲宗に訴へたるを福︀源は、綧の訴へしめたることと思ひ、綧を罵りたれば、綧の妻は、蒙古の宗女にして、その語を聞きて大に怒り奏聞しけり。そこに憲宗は使を遣りて福︀源を蹴殺︀さしめき。高麗の太子倎の憲宗九年己未四月に蒙古に入りたることは、憲宗紀に漏れたれども、世祖︀紀中統元年三月卽位の條に「陜西宣撫使廉希憲言「高麗國王、嘗遣其世子倎入覲。會憲宗將兵攻宋、倎留三年不遣。今聞其父已死。若立倎遣歸國、彼必懷德於我。是不煩兵而得一國也」。帝是其言、改館︀倎、以兵衞送之、仍赦其境內。四月己亥、詔諭高麗國王王使、仍歸所俘民及其逃戶、禁邊將勿擅掠」とあり。高麗傳には、太宗の末年王綧の質子となれることを叙べたる後に、「當定宗憲宗之世、歲貢不入。故自定宗二年至憲宗八年、凡四命將征之、凡拔其城十有四。憲宗末、㬚(高宗)遣其世子倎入朝。世祖︀中統元年三月、㬚卒。命倎歸國、爲高麗國王、以兵衞送之、仍赦其境內」と云ひて、その赦の制書と四月の諭旨とを載せたり。

 四度の征伐の第一は、定宗二年丁未、高麗の高宗三十四年、​アムカン​​阿母罕​​アムカン​​阿母侃​の東征にして、高麗史に「七月、蒙古元帥​アムカン​​阿母侃​、領兵來屯鹽州。八月、遣起居舍人金守精︀特​アムカン​​阿母侃​。去年冬、蒙古四百人、入北塞諸︀城、至于遂安縣、托言捕獺、凡山川隱僻、無不覘知。國家以和好、殊不爲意。至是百姓避匿者︀、竝被驅掠、鮮有脫者︀」、とあり。太宗の末年以來、高麗の使每年蒙古に朝し、或は年に二たび往き、たゞ定宗元年のみは遣使の事高麗史に見えず、この年以後は又年年絕えざるに、高麗傳に「歲貢不入」と云へるは、疑ふべし。朝貢の使手ぶらにて往きたるにもあるまじ。

 第二の征伐は、憲宗三年癸丑、高宗四十年、諸︀王​エグ​​也古​​エク​​也窟​大王の東征なり。憲宗三度の征伐は、高麗史に甚委しければ、今世家列傳に據りてその槪要を摘記せん。高麗の高宗は、太宗四年七月江華島に竄れてより、十年十二月使を遣し表を上りて哀を請ひ、十三年四月族子王綧を人質に送りし後も、高宗の君臣は島より出でざりき。蒙古人は、水戰に甚拙くして、島籠りせるものに向ひてはいかにともすること能はざれば、[443]「眞意歸順するならば、島籠りを罷めて、舊都︀に回れ」と幾たびも幾たびも諭し威し責むれども、高麗人は、百方辯疏して命に從はず、益江華の要害を固めたりき。「高宗三十七年庚戌(憲宗卽位の前年)六月、蒙古使​タカ​​多可​​ムラオスン​​無老孫​等來、審出陸之狀。到昇天府館︀、責王出迎江外。王不出、遣新安公佺、迎入江都︀、宴於壽昌宮。七月、遣使如蒙古。八月、築江都︀中城。十二月、蒙古使洪高伊等來。王迎于梯浦宮。三十八年辛亥(憲宗元年)正月、宴蒙便于梯浦宮。導入江都︀。二月、遣同知樞密院事崔璟、上將軍金寶鼎如蒙古。七月、復遣使如蒙古。十月、蒙古使​ツアンコン​​將困​、洪高伊等來。王出迎于梯浦。皇帝新卽位、詔國王親朝、及令還舊京。三十九年壬子(憲宗二年)正月、遣樞密院副使李峴、侍郞李之蔵如蒙古。五月、始營昇天府城廓。蒙古東京路官人​アムカン​​阿母侃​、通事洪福︀原等、詣帝所言「高麗築重城、無出陸歸款意。請發兵伐之」。帝許之。李峴至、帝問「爾國出陸否」。峴承崔沆之旨、答以今年六月乃出。帝乃留峴、遺​タカ​​多可​​アト​​阿土​等來審出陸之狀。密勅曰「汝到彼國、王出迎于陸、雖百姓未出、猶可也。不然、則待汝來、當發兵致討」。七月、​タカ​​多可​等至。峴書狀官張鎰、隨​タカ​​多可​來、密知之、具白王。王以問崔沈。對曰「大駕不宜輕出江外」。王從之、遣新安公佺出迎之、請蒙使入梯浦館︀、王乃出見。宴未罷、​タカ​​多可​等以王不從帝命、怒而還」。崔沈は、高麗の權臣崔忠獻の孫、崔瑀の子にして、父祖︀にも劣らざる專橫の臣なり。「四十年癸丑(憲宗三年)四月、原州民被擄蒙古者︀、還言「帝命皇弟​シヨンチユ​​松柱​、帥兵一萬、道東眞國、入東界、​アムカン​​阿母侃​・洪福︀源、領麾下兵、趣北界、皆屯大伊州」」。憲宗の弟に​シヨンチユ​​松柱​と似たる名なし。​タチユ​​塔出​の傳の​サンギ​​桑吉​​タング​​唐兀​​チヤガン​​察罕​の傳(從孫​イリサカ​​亦力撒合​の條)なる​サンギ​​算吉​​シユヂハツサル​​搠只哈撒兒​の子​イサンゲ​​移相哥​にして、祕史に​エスンゲ​​也松格​とある人か。この時​ブセンワンヌ​​蒲鮮萬奴​の國は已に亡びたれども、​ワンヌ​​萬奴​の舊部なる​ヂユチン​​女眞​の民を高麗にては東眞と呼び居たるなり。「五月、蒙古​エク​​也窟​大王遣​アト​​阿豆​等來」。​エク​​也窟​は、憲宗紀の​エグ​​也古​また​エフ​​耶虎​​アト​​阿豆​は、前年の​アト​​阿土​なるべし。「七月、北界兵馬使、報蒙兵渡​アルー​​鴨綠​江。卽移牒諸︀道、督民入保山城海︀島。蒙兵涉大同江下馬灘、指古和州。永寧公綧在蒙古軍、貽書崔沈曰「去年秋、皇帝怒大駕不渡江迎使、發兵問罪。吾無計沮之云云。今國之安危、在此一擧。若上不出迎、須令太子若安慶公出迎、云云」。李峴降蒙古、導​エク​​也窟​而來、常隨蒙軍、諭降諸︀城。亦貽書曰「吾二年見留、觀其行事、殊異前聞、實不嗜殺︀人。去今年賜詔條件、固非難事。何不出迎。云云」。宰樞會議、皆曰「出迎、便」。崔沆不聽。八月、也窟遺人傳詔於王、責以六事。蒙古兵陷西海︀道椋山城」。元史に禾山とあるは、椋山の誤なり。「王遣崔束植、致書于​エク​​也窟​屯所、請哀。時​エク​​也窟​在土山、使人謂東植曰「帝慮國王稱老病不朝、欲驗眞否。王之來否、限六日更來報」。東植答曰「兵間、主上豈能速來」。蒙兵來屯高和二州之境、候騎至廣州、焚盧舍。蒙兵陷東州山城。九月、遣高悅致書​エク​​也窟​、請哀曰「惟大王矜恤班師、俾我東民安堵、則當明年躬率臣僚、出迎帝命」。蒙兵陷春州城、十月、圍登州、降楊根城天龍山城、陷襄州。王命文武四品以上、議却兵之策。僉曰「莫如太子出降」。王怒、詰之曰「議從誰出」。宦者︀閔陽宣進曰「崔侍中亦可其議」。王怒稍霽。十一月、遣永安伯僖、僕射金寶鼎、致書子​エク​​也窟​​アムカン​​阿母侃​​ウウエ​​于越​・王萬戶・洪福︀源等、遺土物」。王萬戶は、元史王珣の傳なる珣の子榮祖︀なり。傳に曰く「己丑(太宗元年)授北京等路征行萬戶、換金虎符、(三年辛卯)伐高麗、圍其王京。高麗王力屈、遣其兄淮安公奉表納貢。(五年癸巳)進討​ワンヌ​​萬奴​擒之。云云。(七年乙未)再從征高麗、破十餘城。(十三年辛丑)高麗遣子綧入質。帝賜錦衣旌其功。(憲宗三年癸丑)又從諸︀王​エク​​也忽​、略地三韓、降天龍諸︀堡、皆禁暴掠、民悅服之。破五里山城、請於主將全其民」と云へり。五里山城の戰は、高麗史に見えず。「​エク​​也窟​在忠州得病、留​アムカン​​阿母侃​洪福︀源圍守、率精︀騎一千北還。永安伯信等、追至舊京保定門外、致國贐禮物、且乞退兵。​エク​​也窟​責云「國王出江外、迎吾使、則兵可退也」。遂遣​モングタイ​​蒙古大​等十人來。王渡江、迎于昇天新闕。​モングタイ​​蒙古大​謂王曰「自大軍入境以來、一日死亡者︀、幾千萬人。王何惜一身、不顧萬民之命乎。王若早出迎、安有無辜之民、肝腦塗地者︀乎。自今以往、萬世和好、豈不樂哉」。遂酣飮而去。王還江都︀。[444]喬桐別抄伏兵平州城外、夜入虜︀營、擊殺︀甚聚。校尉張子邦持短兵、手殺︀屯長二十餘人。十二月、蒙兵解忠州圍。宰樞請遣安慶公淐乞班師、王不允。參知政事崔璘切諫。王不得已而頷之、遣淐如蒙古、使璘從行。凡進奉及饋遺金銀布帛、不可勝計、府庫皆竭、科斂百官銀布、以充其費。四十一年甲寅(憲宗四年)正月、淐至蒙古屯所、設宴張樂饗士。​アムカン​​阿母侃​還師。京城解嚴。八月、淐還自蒙古。初至江都︀、遣人奏曰「臣久染腥膻之臭︀。經宿乃進」。王曰「自爾去後、祈︀天禱佛、曷日相見。今幸好還、何宿於外。悉焚爾所著︀衣裳、更衣卽來」至夜淐入謁︀。王及左右皆泣」」。

 第三の征伐は、憲宗四年甲寅、卽​エク​​也窟​の軍の引揚げたる年、​ヂヤラルダイ​​札剌兒帶​​チヤラタイ​​車羅大​の東征なり。高麗史に、高宗四十一年甲寅七月(安慶公渇の還る前)に「安慶府典籤還自蒙古、言帝使車羅大主東國」とあるは、憲宗紀の「以​ヂヤラルダイ​​札剌兒帶​爲征東元帥」を言へるなり。かくてその月「王聞蒙古使​タカ​​多可​等來、移御昇天新闕。蒙使諭曰「國王雖已出陸、侍中崔沆尙書某某等不出、是爲眞降耶」。仍責誅降城官吏。王徵趙邦彥・鄭臣旦、乘傳入京、見於多可、以示不誅」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉。二人は、皆天龍城の降將にして、海︀島に流されたりしものなり。「​タカ​​多可​還、附表請罷兵。王還江都︀。蒙古候騎至西海︀道。八月、蒙古軍入西北鄙。候騎至廣州。王命大將軍李長、詣蒙兵屯所普賢院、贈︀​チヤラタイ​​車羅大​等金銀酒器︀皮幣。​チヤラタイ​​車羅大​曰「君臣百姓出陸、則盡剃其髮。否則以國王還。如一不從、兵無回期」。九月、​チヤラタイ​​車羅大​攻忠州山城、十月、攻尙州山城。遣崔璘如​チヤラタイ​​車羅大​屯所、請罷兵。​チヤラタイ​​車羅大​言「崔沈奉王出陸、則兵可罷」。是歲、蒙兵所虜︀男女、二十萬餘人、殺︀戮者︀不可勝計、所經州郡、皆爲煨燼。自有蒙兵之亂、未有甚於此時也。四十二年乙卯(憲宗五年)正月、遣平章事崔璘如蒙古、獻方物、仍乞罷兵。​チヤラタイ​​車羅大​屯于舊京保定門外、二月、遣​アト​​阿豆​等來。王宴于梯浦館︀。京城䚟嚴。三月、諸︀道郡縣、入保山城海︀島者︀、悉令出陸。四月、蒙兵屯義靜州之境、自兄弟山至大府城、彌滿山野。六月、遣金守剛如蒙古、進方物。八月、蒙兵到昇天府、京城戒嚴。九月、崔璘與蒙古使來、奏曰「​チヤラタイ​​車羅大​永寧公領大兵到西京、候騎已至金郊」。十月、蒙兵踰大院嶺。四十三年丙辰(憲宗六年)三月、遣愼執平等於​チヤラタイ​​車羅大​屯所。蒙兵到窄梁外。崔沈使都︀房分守要害。四月、愼執平還、言「​チヤラタイ​​車羅大​永寧公云「若國王出迎使者︀、王太子親朝帝所、兵可罷還」。時​チヤラタイ​​車羅大​永寧公屯潭陽、洪福︀源屯海︀陽。宰樞會議、計無所出。王曰「儻得退兵、何惜一子出迎」。復遣執平、寄​チヤラタイ​​車羅大​書、日「大兵回來、惟命是從」。蒙兵入忠州、屠州城。五月、執平還、言「​チヤラタイ​​車羅大​怒曰「若欲和親、爾國何多殺︀我兵。死者︀已矣。擒者︀可還」」。仍令三十人伴行。六月、​チヤラタイ​​車羅大​屯海︀陽無等山、遣兵一千南掠。八月、​チヤラタイ​​車羅大​永寧公洪福︀源等、到甲串江外、大張旗幟、牧馬于田、登通津山、望江都︀、退屯守安縣。金守剛從帝入​ホリム​​和林​、乞罷兵。帝以不出陸爲辭。守剛奏曰「譬如獵人逐獸入於窟穴、持弓矢當其前。困獸何從而出」。帝嘉之曰「汝誠使乎」。遂遣徐趾來、命班師。九月、守剛等至。​チヤラタイ​​車羅大​等收軍北還。十月、京城䚟嚴。自乙卯八月至今、凡十五月而罷兵」。

 第四の征伐は、憲宗七年丁巳、高宗四十四年、​チヤラタイ​​車羅大​等の再征なり。高麗史に曰く「四十四年正月、宰樞議以蒙古連歲加兵、竭力事之無益、停春例進奉。閏四月、中書令崔沈死、子竩承家。五月、遣金守剛如蒙古。蒙古兵入泰州、殺︀副使崔濟。六月、蒙古候兵入開京。遣李凝犒之。蒙兵入南京。又遣李凝請退兵。​フオバタイ​​甫波大​云「去留在​チヤラタイ​​車羅大​處分」。蒙兵至稷山。遣金軾詣屯所、請客使三人來。軾伴客使、如​チヤラタイ​​車羅大​屯所。​チヤラタイ​​車羅大​曰「王若親來、我卽回兵。又令王子入朝、永無後患」。七月、宰樞等請遣王子講和於蒙古、不聽。崔滋金寶鼎等力請、許之。宰樞更奏「先遣宗親觀變、然後可遣也」。乃遣永安公僖、贈︀​チヤラタイ​​車羅大​銀瓶一百酒果等物。​チヤラタイ​​車羅大​曰「太子到日、當退屯鳳州」。八月、宰樞奏請遣太子、以活民命。王猶豫未決。宰樞又遣金軾、吿​チヤラタイ​​車羅大​曰「待大軍回歸、太子親朝帝所」。​チヤラタイ​​車羅大​許之。復遣軾賷酒果銀幣獺皮等、餞​チヤラタイ​​車羅大​、以觀其意。時內外蕭然、計無所出、但祈︀禱佛字神︀祠而已。帝方自將伐宋。金守剛見帝於行營、懇乞回軍。帝許之、仍發使、九月、與守剛偕來。[445]十二月、遣安慶公淐左僕射崔永如蒙古。四十五年戊午(憲宗八年)二月、蒙兵城義州。三月、柳璥等殺︀崔竩、復政于王。四月、王聞​チヤラタイ​​車羅大​遣使來覘出陸之狀、出百官于昇天府、移市肆、修宮闕。五月、王涉海︀、御昇天府闕、引見​チヤラタイ​​車羅大​使。六月蒙古​ヨチユダル​​余愁達​​フオバタイ​​甫波大​等、各率一千騎、來屯嘉郭二州。​チヤラタイ​​車羅大​​バホ​​波乎​只等來。王幸梯浦館︀、引見​バホチ​​波乎只​。傳​チヤラタイ​​車羅大​之言、日「皇帝勅云「高麗國如實出降、雖雞犬一無所殺︀。否則攻破水內」。今國王及太子出降西京、則便可回兵」。王曰「予旣老病、不可遠行。乃遣永安公僖、知中樞院事金寶鼎、如​チヤラタイ​​車羅大​屯所。蒙兵候騎到鹽白等州。​ヨチユダル​​余愁達​屯兵平州寶山驛。​ヨチユダル​​余愁達​語金寶鼎曰「皇帝以高麗之事、屬我與​チヤラタイ​​車羅大​。汝知之乎。吾以爾國降否決去留耳。國王雖不出迎、若遣太子迎降軍前、卽日回軍。否則縱兵入南界」。寶鼎對曰「太子當來見耳」。寶鼎與​ヨチユダル​​余愁達​所遣客使來。王幸梯浦館︀引見。七月、復遺寶鼎如​ヨチユダル​​余愁達​屯所、請以數騎來見太子於白馬山。​ヨチユダル​​余愁達​曰「我往見太子乎。太子來見我乎」。寶鼎曰「非敢煩大官人見枉、只畏大兵耳」。​ヨチユダル​​余愁達​曰「太子如欲見我、期猫串江邊」。宰樞以​ヨチユダル​​余愁達​去昇天府漸遠、而召見太子、恐有不測之變、遣譯語康禧齎酒果往慰、仍覘事變。又遣李祿綏等見​ヨチユダル​​余愁達​、曰「太子有疾、待疾愈往見」。余愁達曰「已知汝國之詐」。乃縱兵侵掠。又遣使來、日「國王縱不出迎、太子有來見之約、吾欲回兵。然使者︀往復數四、而太子不至、是侮︀我也。今欲知一決、又遣使介。惟國王生死之」。王亦不出迎、遣人辭謝」。​ヨチユダル​​余愁達​の音、​エスデル​​也速迭兒​に稍似たり。​チヤラタイ​​車羅大​は、果して祕史の​ヂヤライルタイゴルチ​​札剌亦兒台豁兒赤​ならば、​ヨチユダル​​余愁達​は、​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​の後援に出征したる​エスデルゴルチ​​也速迭兒豁兒赤​ならん。「皇帝以高麗之事、屬我與​チヤラタイ​​車羅大​」と云へるを見ても、たゞの從征の偏裨に非ざるを知るべし。「八月、永安公僖還自​チヤラタイ​​車羅大​屯所。​チヤラタイ​​車羅大​以兵來屯舊京。遊騎散入昇天府交河峯城守安童城、掠人民、牧羊馬​チヤラタイ​​車羅大​​モングタイ​​蒙古大​等來、曰「太子出、則兵可退矣」。王曰「太子有病、豈能出哉」。蒙兵攻西海︀道嘉殊窟、陽波穴、皆降之。九月、蒙兵自窄梁來屯甲串江外、籠絡山野。十月、遣金光宰、饗​チヤラタイ​​車羅大​、請退兵。十二月、蒙古​サンギ​​散吉​大王​ボチ​​普只​官人等、領兵來屯古和州地。龍津縣人趙暉、定州人卓靑等、以和州迤北附蒙古、蒙古置雙城總管府于和州、以暉爲總管、靑爲千戶。遣朴希實・趙文柱・朴天植如蒙古、請​ダルハチ​​達魯花赤​曰「本國所以未盡事大之誠、徒以權臣擅政、不樂內屬故爾。今崔竩已死、卽欲出水就陸、以聽上國之命。而天兵厭境、譬之穴鼠、爲猫所守、不敢出耳」。四十六年己未(憲宗九年)正月、遣李凝如西京王萬戶​サコチ​​沙居只​屯所。王萬戶謂凝曰「汝國王不愛百姓乎。何聽尹椿松山之言、不出降乎。降則秋毫不犯」。時王萬戶率軍十領、修築西京古城、又造戰艦開屯田、爲久留計」。尹椿松山は、憲宗六年、蒙古の軍より逃げて高麗に降れる人なり。王萬戶の屯田の事は、王珣の傳に、榮祖︀「遂下甕山城・竹林寨・苦苫數島。帝嘉其功、賜以金幣、官其子興千戶。仍賞其部曲、移鎭高麗平壤。帝遣使諭之曰「彼小國負險自守、釜中之魚、非久自死。緩急可否、卿當熟思」。榮祖︀乃募民屯成、闢地千里、悉得諸︀島嶼城壘。高麗遣其世子倎出降、遂以倎入朝」とあり。「以蒙兵大至、令三品以上、各陳降守之策。衆論紛紜。崔滋金寶鼎曰「江都︀地廣人稀、難以固守。出降便」。朴希實・趙文柱、先至​チヤラタイ​​車羅大​屯所、言我國將復舊都︀、遣太子朝見。​チヤラタイ​​車羅大​等喜曰「若太子來、則須及四月初吉」。三月、朴天植借​チヤラタイ​​車羅大​使者︀​ウンヤンカタイ​​溫陽加大​還。​ウンヤンカタイ​​溫陽加大​問太子入朝之期。王以五月對。​ウンヤンカタイ​​溫陽加大​怒曰「我兵進退、在太子行李遲速。若待五月、何其晩也」。王不得已、約以四月。​ウンヤンカタイ​​溫陽加大​又云「欲見太子面約」。太子出宴客使于重房」。​ウンヤンカタイ​​溫陽加大​は、​ウリヤンカタイ​​兀哴合台​の異譯なり。​ウン​​溫​​ウル​​兀兒​に通じ、​ウルヤン​​兀兒陽​​ウリヤン​​兀哴​なり。されどもこの​ウリヤンカタイ​​兀哴合台​は、何姓の人なるか知らず。​スブタイ​​速不台​の子なる​ウリヤンカ​​兀良合​​ウリヤンカタイ​​兀良合台​は、この頃交趾より宋の境に入りて働き居たれば、こゝの​ウリヤンカタイ​​兀哴合台​とは異なり。「令州縣守令、率避亂民、出陸耕種。四月甲午、遣太子倎奉表如蒙古、李世材・金寶鼎等四十人從之、斂百官銀布、以充其費。國贐、駄馬三百餘匹、以馬不足、抑買路人馬。五月、​チヤラタイ​​車羅大​卒。六月、蒙古元帥​ヨチユダル​​余愁達​​シヨンキ​​松吉​大王、遣​チユチヤ​​周者︀​​トーコー​​陶高​等來、毀江都︀城郭」。​シヨンキ​​松吉​は、前に見えたる​シヨンチユ​​松柱​​サンキ​​散吉​の異譯にして、祕史の[446]​エスンゲ​​也松格​なるべし「壬寅、高宗薨。以太子未還、太孫諶權監國事。八月、朴希實・趙文柱、偕蒙使​シラムン​​尸羅問​等來。太孫迎詔于重房。九月、​エスダル​​也速達​使者︀​カタイ​​加大​​チタイ​​只大​等來、巡審水內及陸居之狀。十一月、​エスダル​​也速達​使者︀​オサン​​於散​等、偕李世材來、審出陸之狀。於是發軍三十領、創宮闕於舊京」。​エスダル​​也速達​は、卽​ヨチユダル​​余愁達​の異譯にして、祕史の​エスデル​​也速迭兒​に最近し。​エスデル​​也速迭兒​は、實に​エスダル​​也速荅兒​とも稱ふる名にして、高麗にては達をダルと讀めば、この也速達は、蒙古の音を正しく寫したるなり。祕史の​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​​エスデル​​也速迭兒​とは、果して高麗史の​チヤラタイ​​車羅大​​エスダル​​也速達​ならば、この二人の高麗征伐は、祕史の成りたるより遙に後の事なれば、彼の二句は、後人の攙入と見ざるべからず。​チヨルマカン​​綽兒馬罕​​バクタト​​巴黑塔惕​〈[#ルビの「バクタト」は底本では「バグトト」。実録で「巴黑塔惕」のルビが「バクタト」だったことと「塔」を「ト」と読む例が他にないことから修正]〉征伐、​スベエタイ​​速別額台​の諸︀部征伐の事は、皆實錄卷十一にありて、卷十二にはまづ後援の出征を記し、次にその成功を記したるに、女直高麗征伐の事は、前に何とも云はずして、いきなり「先に出征したる云云」とあるは、不都︀合なる書方なりと思ひしが、攪入の文と見れば、怪むに足らず。

 太子倎の國に回り位を嗣ぎたる始末は、元宗世家に詳かなり。「初憲宗皇帝南征、駐蹕釣魚山。王自燕京赴行在、過京兆、至六盤山。(七月)憲宗皇帝晏駕、而​アリボカ​​阿里孛哥​、阻兵朔野、諸︀侯虞疑、罔知所從。時皇弟​クビレイ​​忽必烈​、觀兵江南。王遂南轅、間關至梁楚之郊。皇弟適在襄陽、(閏十一月)班師北上。王迎謁︀道左。皇弟驚喜曰「高麗、萬里之國。自唐太宗、親征而不能服。今其世子自來歸我、此天意也」。大加褒奬、與俱(至燕、中統元年)至開平府。本國以高宗薨吿。乃命​ダルハチソリタイ​​達魯花赤束里大​等、護其行歸國」。​クビレイ​​忽必烈​の開平に至れるは、世祖︀紀に三月戊辰朔とあり、太子倎は二月訃を聞きて、その月に送り還されたれば、開平には至らずして、燕京より東に還れるならん。又この前の文に「二月壬戌、王在京兆府聞訃」とある京兆府は、燕京の誤ならん。「江淮宣撫使趙良弼言於皇弟曰「高麗雖名小國、依阻山海︀、國家用兵、二十餘年、尙未臣附。前歲太子倎來朝適變輿西征、留滯者︀二年矣。供張疏薄、無以懷輯其心。一旦得歸、將不復來。宜厚其館︀穀︀、待以蕃王之禮。今聞其父已死。誠能立使爲王、遣送還國、必感恩戴德、願修臣職。是不勞一卒、而得一國也」。陝西宣撫使廉希憲亦言之。皇弟然之、卽日改館︀、顧遇有加」。かくて太子倎は、二月の末に西京に至り、八九日留まり、三月十七日「甲申、與​ソリタイ​​束里大​入開京、行視︀營築」。二十日丁亥「王與​ソリタイ​​束里大​同舟渡海︀、自承平門入國」。二十四日辛卯「​クビレイ​​忽必烈​大王卽皇帝位」。その時發せられたる赦詔は、四月九日丙午に高麗に達し、二十一日戊午「王卽位于康安殿、灌頂受菩薩戒」。二日己亥の詔諭は、二十四日辛酉に高麗に達せり。


五。​シヤンギ​​掌吉​

 太宗の​グユク​​古余克​に怒れる時、​モンゲアルチダイ​​忙哥阿勒赤歹​と共に諫めたる​コンゴルタイヂヤンギ​​晃豁兒台掌吉​(實錄六三八頁)は元史は見當らず。憲宗元年に​エスントアンヂタイ​​葉孫脫按只䚟​と共に誅せられたる​チヤンギ​​暢吉​は、​シヤンギ​​掌吉​に似たれどもいかゞにや。


六。​ブヂエク​​不者︀克​​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ボチエ​​撥徹​

 太宗の​グユク​​古余克​を叱れる言の內に「​スベエタイ​​速別額台​​ブヂエク​​不者︀克​二人の蔭に行き」とある​ブヂエク​​不者︀克​(實錄六四〇頁)を「​トルイ​​拖雷​の子、​モンゲ​​蒙格​の弟​ボチヨ​​撥綽​大王」と注したりしが、猶考ふれば、​トルイ​​拖雷​の子を擧げんには、​ボチヨ​​撥綽​よりも長子​モンゲ​​蒙格​を云ふべきなり。又諸︀王の名は、​スベエタイ​​速別額台​の下に列ねらるべしとも思はれず。然らばこの​ブヂエク​​不者︀克​は、​スベエタイ​​速別額台​と共に征西に從へる武臣にして、偶​ペルシヤ​​珀兒沙​​ルシア​​嚕西亞​​ハンガリア​​洪噶哩亞​の人に聞えざりし人なるべし。元史​アラカン​​阿剌罕​の傳に「祖︀​ボチエ​​撥徹​、事太祖︀、爲​ホルチ​​火而赤​、又爲​ボルチ​​博而赤​、攻城掠地、數有戰功。太宗卽位、仍以其職從、征隴北・陝西、身先戰士、死焉」とある​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ボチエ​​撥徹​は、卽​ブヂエク​​不者︀克​には非ずや。太祖︀の金に攻め入りたる時、親征錄に​ボチヤ​​薄察​、太祖︀紀に​ボチヤ​​薄刹​、趙柔の傳に​バヂヤ​​八札​とあるは、必この​ボチエ​​撥徹​なるべし。​ボチエ​​撥徹​の父​エリウガン​​也柳干​は、「幼隷皇子​ユリギ​​岳里吉​、爲衞[447]土長」。世系表に太宗の七子を列記して、​ユリギ​​岳里吉​の名なし。史臣附記して「按、憲宗紀有云「太宗以子​ユリヤン​​月良​不材、故不立爲嗣」。今考經世大典帝系篇及歲賜錄、並不見月良名字次序。故不敢列之世表」とあり。故に考異に「​ユリギ​​岳里吉​、豈卽​ユリヤン​​月良​之轉聲乎」と云へり。「歲乙未(太宗七年)、從皇子​コチユクドト​​闊出忽都︀禿​南征、累功授萬戶、云云」。​クドト​​忽都︀禿​​ト​​禿​​フ​​虎​の誤にて、卽​シキクドク​​失乞忽都︀忽​なり。その後「統大軍、攻淮東西諸︀郡、戊午(憲宗八年)戰死楊州」。その子​アラハン​​阿剌罕​は、父の職を襲ぎ、諸︀翼蒙古軍馬都︀元帥となり、武功甚多かりき。憲宗九年には、世祖︀に從ひ江を渡り鄂に至り、世祖︀位に卽き、皇弟​アリブゲ​​阿里不哥​の兵を稱げたる時、その黨​アランダイルクンドハイ​​阿藍帶兒渾都︀海︀​の兵を​シムント​​昔門禿​​シムルト​​昔木兒禿​)に擊破り、中統三年、濟南の叛將李壇を平げ、四年、​アチユ​​阿朮​に從ひ宋を伐ち、五年より十年まで襄陽樊城の攻圍に與り、十一年、丞相​バヤン​​伯顏​に從ひ宋を伐ち、十三年、宋降り、浙東園中諸︀郡を平げ、十四年江東を宣慰し、「十八年、召拜中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬、征日本。行次慶元、卒于軍中」。この時死なざりせば、​スルドス​​速勒都︀思​​アタハイ​​阿塔海︀​の如き大失敗に陷るべかりしを、誠に運好き人なりけり。


七。​シラカン​​失喇罕​​ブラカダル​​不剌合荅兒​​アマル​​阿馬勒​​ゴリカチヤル​​豁哩合察兒​​ヤルバク​​牙勒巴黑​​カラウダル​​合喇兀荅兒​

 ​コンゴルタイ​​晃豁兒台​と共に​ヂヤサウ​​札撒兀​の官になれる​シラカン​​失喇罕​(實錄六四四頁)、宿衞の長八人の內、總長​カダアン​​合荅安​と共に第一班の長たる​ブラカダル​​不剌合荅兒​、第二班の長二人の一なる​アマル​​阿馬勒​、第三班の長二人の一なる​ゴリカチヤル​​豁哩合察兒​(六四六頁)、第四班の長​ヤルバク​​牙勒巴黑​​カラウダル​​合喇兀荅兒​二人(六四七頁)、この人人は、未外に見當らず。​ブラカダル​​不剌合荅兒​は、下文に​ブルカダル​​不勒合荅兒​とも​ボルカダル​​孛勒合荅兒​ともあり。


八。​チヤナル​​察納兒​​カダイ​​合歹​

 第二班の長の一人なる​チヤナル​​察納兒​第三斑の長の一人なる​カダイ​​合歹​は、憲宗元年に​エスントアンヂタイ​​葉孫脫按只䚟​等と共に誅せられたる​ヂヤナンカダ​​爪難合荅​なるべし。


九。​コンゴルタカイ​​晃豁兒塔孩​

 前に知りたりし​アルチダイ​​阿勒赤歹​と共に侍衞の第一車の宿老となれる​コンゴルタカイ​​晃豁兒塔孩​(實錄六四八頁)は、前文に官人​アルチダイ​​阿勒赤歹​​コンゴルタイ​​晃豁兒台​と竝べ擧げたる​コンゴルタイ​​晃豁兒台​と同じ人ならんか。憲宗紀元年卽位の處に「以​コングル​​晃兀兒​留守​ホリム​​和林​宮闕帑藏」とある​コングル​​晃兀兒​は、​コンゴルタイ​​晃豁兒台​​タイ​​台​を略けるにやとも見ゆれども、​ドーソン​​多遜​の史に「​ヂユチカツサル​​拙只合撒兒​の子​クンクル​​坤庫兒​​カラコルム​​喀喇科嚕姆​の太守とせり」とあるに據れば、祕史に「前に知りたりしものの親族より任ぜり」と云へる侍衞の番直の宿老とは別なる人なり。世系表は、​コングル​​黃兀兒​王を​シユヂハツサル​​搠只哈撒兒​王の會孫、​イサンゲ​​移相哥​大王の孫、​シドル​​勢都︀兒​王の第三子とせり。食貨志歲賜の篇に​コングルタハイ​​黄兀兒塔海︀​とあるは、卽​コンゴルタカイ​​晃豁兒塔孩​なり。


十。​テムデル​​帖木迭兒​

 侍衞の第二班の宿老の一人なる​テムデル​​帖木迭兒​(實錄六四八頁)は、​テマイチ​​鐵邁赤​の傳に、太宗の時「從皇子​コチユ​​闊出​​クド​​忽都︀​​ク​​忽​]、行省​テムダル​​鐵木荅兒​、定河南、累有戰功」と見え、憲宗紀には、定宗崩じて後、​アラトク​​阿剌脫忽​の山に會せし諸︀大將の中に​テムデル​​帖木迭兒​の名あり。行省​テムダル​​鐵木荅兒​とあるに由りて考ふれば、食貨志歲賜の篇なる​テムタイ​​忒木台​行省、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​アウルチ​​奧魯赤​の父​テムタイ​​忒木台​は、卽この人ならんと思はる。祕史に「前に知りたりしものの親族」と云へるに[448]據れば、この​テムタイ​​忒木台​は、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ブカ​​不合​の親族なるべし。​アウルチ​​奧魯赤​の傳に曰く「父​テムタイ​​忒木台​、從太宗、征​ハングリ​​杭里​部、俘部長以獻。復從征西夏有功。特命行省事、領​ウル​​兀魯​​モング​​忙兀​​イケレ​​亦怯烈​​ホンギラ​​弘吉剌​​ヂヤラル​​札剌兒​五部軍、平河南、以功賜戶二千。嘗駐兵太原・平陽・河南、土人德之、皆爲立祠」。​ハングリ​​杭里​部は卽​カングリ​​康里​なり。​カングリ​​康里​西夏を征したるは太祖︀の時の事なれば、從太宗と云へるは誤れり。省事を行へるは太宗七年の南征の時なり。親征錄太宗四年の條に​ヲシユイダイホルチ​​惑水歹火兒赤​とありて、沈曾植の「​ヲシユイ​​惑水​當作​テム​​忒木​」と云へるも、卽​テムタイゴルチ​​忒木台豁兒赤​なり。​テムタイ​​忒木台​は、太宗四年、卽金の正大九年春、史天澤の「略地京東、招降太康柘縣瓦岡睢州、追斬金將​ワンヤンキンシヤンヌ​​完顏慶山奴​於陽邑」の役に從ひ、その事は元史に見えざれども、金史內族承立卽​キンシヤンヌ​​慶山奴​の傳に「正大九年正月、自徐引兵入援、留雎州。聞大兵且至、懼此州不可守、退保歸德。二月、行次楊驛店、遇​シヤウナイダイ​​小乃䚟​(元史列傳の​シヤウナイタイ​​肖乃台​)軍、遂潰、​キンシヤンヌ​​慶山奴​馬躓被擒。大兵以一馬載​キンシヤンヌ​​慶山奴​、擁迫而行。道中見眞定史帥、云云。及見大帥​テムダイ​​忒木䚟​、誘之使招京城、不從、又偃蹇不屈。左右以刀斫其足折、亦不降。卽殺︀之」。​シチヤンニユルホン​​石盞女魯歡​の傳に「正大九年二月、以行樞密院事守歸德。乙丑、大元將​テムダイ​​忒木䚟​率眞定信安大名東平益都︀諸︀軍來攻。適​キンシヤンヌ​​慶山奴​潰軍亦至、城中得之、頗有鬭志、云云」。​ブチヤコアンヌ​​蒲察官奴​の傳に「天興元年(卽正大九年)十二月、從哀宗北渡。明年(太宗五年)正月、上至歸德。是時、大元將​テムダイ​​忒木䚟​守歸德。​コアンヌ​​官奴​旣總兵柄、請上北渡、再圖恢復、​シチヤンニユルホン​​石盞女魯歡​沮之。自是有異心矣」。三月、遂に亂を作して​ニユルホン​​女魯歡​を殺︀し、朝官三百餘人を殺︀して權を擅にせり。「初​コアンヌ​​官奴​之母、自河北軍潰、北兵得之。至是上乃命​コアンヌ​​官奴​因其母以計請和。故​コアンヌ​​官奴​密與​テムダイ​​忒木䚟​議和事、令​アリカ​​阿里合​往言欲劫上以降。​テムダイ​​忒木䚟​信之、還其母、因定和計。​コアンヌ​​官奴​乃日往來講議、或乘舟中流會飮。其遣來使者︀二十餘輩、皆​ヂユチキタン​​女直契丹​人。上密令​コアンヌ​​官奴​以金銀牌與之、勿令還營、因知王家寺大將所在。故​コアンヌ​​官奴​畫斫營之策。五月五日祭天、軍中陰備火槍戰具、率忠孝軍四百五十人、自南門登舟、由東而北、夜殺︀外堤邏卒、遂至王家寺。上御北門、繫舟待之、慮不勝則入徐州而遁。四更接戰、忠孝初小却、再進。​コアンヌ​​官奴​以小船分軍伍七十、出柵外、腹背攻之、持火槍突︀入。北軍不能支、卽大潰、溺水死者︀、凡三千五百餘人。盡焚其柵而還」。その月​コアンヌ​​官奴​は、專橫を以て誅せられき。また續通鑑綱目宋の理宗端平二年(太宗七年)夏六月「蒙古主命​テムダイ​​忒木䚟​及張柔等侵漢︀。三年(太宗八年)春正月、蒙古將​テムダイ​​忒木䚟​寇江陵、統制李復明死之。三月、襄陽將王旻等作亂、以城降蒙古。夏四月、蒙古陷隨郢州荆門軍。秋八月、蒙古陷棗陽軍德安府。冬十一月、蒙古將​テムダイ​​忒木䚟​攻江陵。史嵩之遺孟珙救之。珙遣張順先渡、而自以全師繼之、變易旌旗服色、循環往來、夜則列炬照江、數十里相接。珙又遣趙武等與戰、珙親往節︀度、遂破蒙古二十四砦、還民二萬而歸」などあるは、宋史に據りて書きたるなり。元史には、太宗紀に「七年乙未春、遣皇子​クチユ​​曲出​​クトフ​​胡土虎​伐宋。冬十月、​クチユ​​曲出​圍棗陽拔之、遂徇襄鄧入郢、虜︀人民牛馬數萬而還。八年丙申冬十月、皇子​クチユ​​曲出​薨。張柔等攻郢州拔之。襄陽府來附」。​タングト​​唐兀惕​​チヤガン​​察罕​の傳に「皇子​クチユクドト​​闊出忽都︀禿​伐宋、命​チヤガン​​察罕​爲斥候。又從親王​クウンブハ​​口溫不花​南伐。歲乙未、克棗陽及光化軍。未幾、召​クウンブハ​​口溫不花​赴行在、以全軍付​チヤガン​​察罕​」。張柔の傳に「歲乙未、從皇子​コチユ​​闊出​、拔棗陽、繼從大師​タイチ​​太赤​攻徐邳」などあるのみにて、忒木台の名は見えず。大帥​タイチ​​太赤​は、​エンヂギタイ​​燕只吉台​​チエリ​​徹里​の曾祖︀なり。姚樞の傳に曰く「歲乙未南伐、詔樞從楊惟中、卽軍中、求儒道釋醫卜者︀。會破棗陽、主將將盡坑之。樞力辨非詔書意、他日何以復命。乃蹙數人、逃入篁竹中脫死。拔德安、得名儒趙復、始得程頤朱熹之書」。趙復の傳にも「德安以嘗逆戰、其民數十萬、俘戮無遺。時楊惟中行中書省軍前、姚樞奉詔、卽軍中求儒道釋醫卜士、凡儒生掛俘籍者︀、輒脫之以歸。復在其中」、と云へり。この時殺︀戮を行へる主將は、續綱目に據れば、卽​テムダイ​​忒木䚟​なり。又棗陽の陷ちたるは、元史には太宗七年乙未とすれども、宋史に據れば、太宗八年丙申の八月なり。​テムタイ​​忒木台​の父​シユルカン​​朔魯罕​は、功臣の第四十五​ユルカン​​余魯罕​なることは、前の七〇〇頁〈[#「七〇〇頁」はママ。実録には該当頁が実在しない]〉に云へり。​テムタイ​​忒木台​の子​アウルチ​​奧魯赤​は、憲宗世祖︀に事へ、憲宗八年の親征に從ひ、至元六年、蒙古軍四萬戶を領し、十一年、丞相​バヤン​​伯顏​[449]に從ひ宋を伐ち、その武功は、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​アラハン​​阿剌罕​に似たり。二十三年、鎖南王​トホン​​脫歡​を佐けて交趾を征し、大德元年に卒しき。

 ​テムデル​​忒木迭兒​と共に侍衞の第二班の宿老となれる一人は、​ヂエグ​​者︀古​とあり。​ヂエグ​​者︀古​と云ふ名は耳新し。​ブヂエグ​​不者︀古​​ブ​​不​を脫したるにて、​スベエタイ​​速別額台​と共に西征に從へる​ブヂエク​​不者︀克​、卽​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ボチエ​​撥徹​ならん。これも、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ブカ​​不合​の親族なるべし。


十一。​モンクタイ​​忙忽台​

 侍衞の第四班の宿老を輔くる​モンクタイ​​忙忽台​(實錄六四九百)は、前に知りたりし​モンクト​​忙忽惕​​ドゴルクチエルビ​​朶豁勒忽徹見必​の親族なるべければ、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ヂヤライルタイ​​札剌亦兒台​​ウリヤンカ​​兀哴合​​ウリヤンカタイ​​兀哴合台​の如く、姓を名としたるならん。高麗史に見えたる憲宗三年十一月​エク​​也窟​大王の命を受けて高麗の朝廷に使したる​モングタイ​​蒙古大​、元史世祖︀紀に屢見えたる​モングダイ​​忙古帶​は、この​モンクタイ​​忙忽台​なるべし。世祖︀紀一に「中統元年五月、詔​エンテムルモングタイ​​燕帖木兒忙古帶​、節︀度黃河以西諸︀軍。詔平陽京兆兩路宣撫司、僉兵七千人、於延安等處守隘、以萬戶鄭鼎​シラモングダイ​​昔剌忙古帶​領之。七月、宋兵攻邊城。詔遺​タイチウ​​太丑​〈[#「丑」は底本では「※[#「𠃍/七」]」。「元史(四庫全書本)卷4第13丁」では「尹」(yǐn)に似た字。s:zh:元史/卷004に倣い発音が底本のルビ「チウ」に近い「丑」(chǒu)とした。]〉​ケレイ​​怯烈​​モングタイ​​忙古帶​、率所部合兵擊之。二年八月、初立勸農司、以​モングタイ​​忙古帶​爲涿州勸農使」。世祖︀紀三に「至元五年八月、命​モングタイ​​忙古帶​、率兵六千人、征西番​ゲンド​​建都︀​」。世祖︀紀四に「九年正月、勅皇子西平王​アウルチ​​奧魯赤​等、與四川行省​エスダイル​​也速帶兒​部下並​モンゲダイ​​忙古帶​等、同征​ゲンド​​建都︀​」。世祖︀紀五に「十一年正月、以​モングタイ​​忙古帶​等新舊軍一千五百人戌​ゲンド​​建都︀​」などあり。世祖︀紀二に「中統四年正月、陵州​ダルハチモンゲ​​達魯花赤蒙哥​戰死濟南、以其子​モングダイ​​忙兀帶​襲職。六月、以管民官兼統懷孟等軍​エンサ​​俺撒​戰歿汴梁、命其子​モングダイ​​忙兀帶​爲萬戶、佩金符」などあるは、太宗の時より仕へたる​モンクタイ​​忙忽台​に非ざること論なし。列傳卷十八なる​タタル​​塔塔兒​​モンゲタイ​​忙兀台​も、「事世祖︀、爲博州路​アウル​​奧魯​總管、至元七年、又爲監戰萬戶、佩金虎符、八年、改鄧州新軍蒙古萬戶、治水軍于萬山南岸」などありて、世祖︀紀の​モングタイ​​忙古帶​と別の人なれば、祕史の​モンクタイ​​忙忽台​にも非ざるべし。又​キダン​​契丹​​エリユアハイ​​耶律阿海︀​の長子も、​モングタイ​​忙古台​と云ひ、「在太祖︀時、爲御史大夫、佩虎符、監戰左副元帥、官金紫光祿大夫、管領​キダン​​契丹​漢︀軍、守中都︀招安水泊等處」とあれども、色目の人にて番直の官人となれる例なければ、祕史の​モンクタイ​​忙忽台​とは異なり。


十二。​ウイウルタイ​​委兀兒台​​アラツエン​​阿喇淺​

 ​ウルウト​​兀嚕兀惕​​チヤナイ​​察乃​と共に營盤官となれる​ウイウルタイ​​委兀兒台​(實錄六五五頁)、​ヒユウヂン​​許兀愼​​トクチヤル​​脫忽察兒​と共に​ヂヤム​​站​を整ふることを命ぜられたる​アラツエン​​阿喇淺​(六五九頁)は、何姓の人なるか知らず。



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