と問トはれて、知シれるだけを悉コト〴〵く對コタへたれば、太祖︀の旨ムネに稱カナひ、遂ツヒに命ぜられて太子タイシ 諸︀王シヨワウに敎ヲシへ、畏吾字ウイウモジを以モて蒙古語モウココトバを書く事としたる由ヨシ 見ミゆ。委兀兒ウイウルは、唐タウの回紇クワイコツにて、捏思脫兒宗ネストルシウの傳道師デンダウシの敎化ケウケを受ウけて、夙ハヤくより文字を用ひたりしが、元の太祖︀ 四年に、委兀兒ウイウル 國主コクシユ、蒙古に降クダりてより、委兀兒ウイウルの名士メイシの蒙古に事ツカへて文臣ブンシンとなれる者︀ 多オホく、委兀兒字ウイウルモジは遂ツヒに蒙古の國書となれり。されば此書の文字は、もと委兀兒字ウイウルモジなりけんこと疑ウタガひなく、之を書きたる人も蓋ケダシ 委兀兒人ウイウルジンならん。
世祖︀セイソの時、西蕃セイハンの聖僧︀セイソウ 八思巴パスパに命じて、蒙古モウコ 新字シンジを作らしめ、天下テンガに頒行ハンカウしたれども、その新字シンジは、不便フベンなる文字にて、遍アマネくは行オコナはれざりし程ホドなれば、此書の原字ゲンジを書カき改アラタむるには至イタらざりしなるべし。後ノチに引ヒける鄭曉テイゲウの今言キンゲンの文ブンに據ヨれば、此書の原字の委兀兒字ウイウルモジの儘マヽなりしこと甚ハナハだ明アキラかなり。
元史 察罕チヤハンChahan察罕 二人あり。一人は、卷の百二十なる西夏の人にて、この察罕に非ず。この察罕は、卷の百三十七なる西域 班勒紇の人なり。の傳デンに「博覽强記ハクランキヤウキニシテ、通ツウジ㆓諸︀國シヨコクノ字書ジシヨニ㆒云云シカジカ。嘗カツテ譯