成吉思汗実録/巻の五
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のゴ五。
§148(05:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕は、そこにタイチウト泰赤兀惕〈[#「泰赤兀惕」は底本では「泰亦兀惕」。昭和18年復刻版に倣い修正。以後すべて同じ]〉をトラ虜︀へて、タイチウト泰赤兀惕のホネ骨あるヒト人を、アウチユ バアトル阿兀出 巴阿禿兒、(親征錄は、前後に阿忽出 拔都︀と云ひ、ここには沆忽 阿忽出と云ふ。喇失惕の集史も、前後に阿忽朱 巴哈都︀兒と云ひ、こゝには昂忽 兀忽出と云ふ。その實は同じ人なり。元史は阿忽出を省きてたゞ沈忽と書きたれば、阿忽出とは益 遠ざかれり。)ゴドン オルチヤン豁團 斡兒昌(卷四、豁敦 斡兒長)、クドウダル忽都︀兀荅兒(親征錄フドラル忽都︀荅兒)ラ等なるタイチウト泰赤兀惕を、シソン子孫のシソン子孫にイタ至るまで、ハヒ灰のゴト如くカ刮きハラ拂ひチウメツ誅滅せり。カレ彼のブラク部落のタミ民をウゴ動かしめてキ來て、チンギス カガン成吉思 合罕は、クバカヤ忽巴合牙(親征錄フバハヤ ザン忽八海︀牙 山)にフユゴモリ冬籠せり。
§149(05:01:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
主君をトラ拏へたるシルグエト失兒古額禿 オキナ翁
ニチウグト バアリン你出古惕 巴阿𡂰(眾巴阿𡂰の中の一部)のシルグエト エブゲン失兒古額禿 額不堅(失兒古額禿の翁、親征錄 元史 本紀シリゲ エブゲン失力哥 也不干、伯顏の傳 述律哥圖)は、アラク阿剌黑(親征錄 伯顏の傳アラ阿剌)、ナヤア納牙阿[141](親征錄ナヤ乃牙)なるコ子どもと、タイチウト泰赤兀惕のクワンニン官人 タルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑、ハヤシ林にイ入りてヲ居るを、アタ讎あるヒト人なりきとイ云ひて、ウマ馬にノ乘ることアタ能はざる(明譯カラダコエテ體肥ザル不㆑アタハ能㆑ノルヿ騎㆑ウマニ馬)タルクタイ塔兒忽台をトラ拏へて、クルマ車にノ載せて、シルグエト失兒古額禿 オキナ翁は、アラク阿剌黑、ナヤア納牙阿なるコ子どもと、
タルクタイ キルリトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑をトラ拏へてク來るトキ時、タルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑のコ子どもオトヽ弟どもは、ウバ奪ひてト取らんとてオヒカ追驅けてキ來ぬ。カレ彼のコ子どもオトヽ弟どもオヒカ追驅けてク來ると、
シルグエト失兒古額禿 オキナ翁は、タ起つことアタ能はざるタルクタイ塔兒忽台を、クルマ車のウヘ上にノボ上りてそのアフ仰むけるウヘ上にマタガ跨りザ坐して、カタナ刀をイダ出してイ言はく「ナムチ爾のシテイ子弟らは、ナムチ爾をウバ奪ひてト取りにキ來ぬ。ナムチ爾をワ我がシユクン主君をテ手にカ掛けたりとイ云ひて、コロ殺︀さずとも、シユクン主君をテ手にカ掛けたりとて、コロ殺︀さん。コロ殺︀すとも、マタ亦 タヾ只 コロ殺︀されん、ワレ我。タヾシ但そのシ死のナカ中にツクノ償ひをト取りシ死なん(明譯ワレ我コロス殺︀㆑ナムチヲ你トモ也シナン死。ズ不㆑コロサ殺︀㆑ナムチヲ你トモ也シナン死。ズ不㆑シカ如㆘マズ先コロシ殺︀㆓テ了ナムチヲ你㆒、ワレシカルノチニシヌルニ我然後死㆖)」とイ云ひて、マタガ跨りてオホイ大なるカタナ刀にてカレ彼のノド喉を切らんとするトキ時、タルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑、オホイ大なるコヱ聲にてオトヽ弟どもコ子どもにサケ叫びてイ言はく「シルグエト失兒古額禿は、ワレ我をコロ殺︀さんとす。コロ殺︀しヲ了へば、シ死にたるイノチ命なきワ我がミ身をト取りてサ去りてナニ何かせん、ナンヂラ汝等。ワレ我をコロ殺︀さざるにト疾くカヘ回れ。テムヂン帖木眞は、ワレ我をコロ殺︀さじ。テムヂン帖木眞を、チヒサ小きトキ時に、メ眼你敦にヒ火合勒あり、メン面你兀兒にヒカリ光格咧ある[コ子]なりきとて、アルジ主なきイヘヰ營盤のウチ裏にノコ遺り[142]てありとて、ト取りサ去りてツ伴れキ來てナラ習はせたれば、ナラ習ふゴト如くなりとて、アタラ新しきサンサイ ニサイ三歲 二歲のコマ駒をナラ習はすゴト如くナラ習はしヲシ敎へユ行きたり。シ死なしめんとイ云へども、シ死なしむるアタ能はざりき、ワレ我。イマ今 カレ彼のコヽロ情にイ入りてあり。カレ彼のコヽロ心はヒラ開けてありとイ言はるゝなり。テムヂン帖木眞はワレ我をシ死なしめじ。ナンヂラ汝等、ワ我がコ子どもオトヽ弟ども、ト疾くカヘ回れ。[シカ然らずば]シルグエト失兒古額禿は、ワレ我をコロ殺︀してヤ遣らん」とイ云ひて、オホイ大なるコヱ聲にてサケ叫べり。
カレ彼のコ子どもオトヽ弟ともイ言ひア合へらく「チヽ父のイノチ命をスク救はんとてキ來ぬ、ワレラ我等。シルグエト失兒古額禿 カレ彼のイノチ命をシ死なしめヲ了へば、ムナ空しきイノチ命なきカレ彼のミ身をナニ何かせん、ワレラ我等。カヘツ却てコロ殺︀さざるにト疾くカヘ回らん」とイ云ひア合ひてカヘ回れり。カレラ彼等をサ去らしめ(彼等去り)たるトキ時、アラク阿剌黑、ナヤア納牙阿なるシルグエト失兒古額禿 オキナ翁のコ子ども、ハナ離れたるモノ者︀どもキ來ぬ。ソレラ其等にコ來らるゝと、ウゴ動きてク來るに、ミチ途にクトクル ヌウ忽禿忽勒 訥兀(忽禿忽勒の隅)にイタ到れば、
そこにナヤア納牙阿 イ言はく「ワレラ我等このタルクタイ塔兒忽台をトラ拏へてイタ到らば、チンギス カガン成吉思 合罕は、ワレラ我等を「セイシユ正主のキミ君をテ手にカ掛けてキ來ぬ」とイ云ひ、チンギス カガン成吉思 合罕は、ワレラ我等を「セイシユ正主をテ手にカ掛けてキ來ぬるもの、ナニ何ぞイシン倚信すべきヒト人ならん。コレラ此等は、ワレラ我等のトコロ處にいかんぞトモ伴とならん。トモ伴となるナ無きヒト人、セイシユ正主のキミ君をテ手にカ掛けたるヒト人をば、キ斬らしめん」とイ云てキ斬らしめられんか、ワレラ我等。カヘツ却てタルクタイ塔兒忽台をコヽ此處よりハナ放[143]ちてヤ遣りて、ワレラ我等、ミ身をモテ以て「チンギス カガン成吉思 合罕にチカラ力をアタ與へにキ來ぬ、ワレラ我等」とイ云ひてユ往かん。「タルクタイ塔兒忽台をトラ拏へてキ來つ。セイシユ正主のキミ君をス廢てかねて、「ミ視︀るといかんぞシ死なしめん」とイ云ひて、ハナ放ちてヤ遣りて、「ワレラ我等、セイジツ誠實にチカラ力をアタ與へん」とてキ來ぬ、ワレラ我等」とイ云はん」とイ云へり。ナヤア納牙阿のこのコトバ言をチヽ父もコ子どももヨ善しとしア合ひて、タルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑をクドクル忽都︀忽勒のスミ隅よりハナ放ちてヤ遣りて、そのシルグエト失兒古額禿 オキナ翁は、アラク阿剌黑、ナヤア納牙阿なるコ子どもとキ來ぬれば、「いかでキ來て」とイ云へり。(ては、つるの誤りか。)シルグエト失兒古額禿 オキナ翁は、チンギス カガン成吉思 合罕にマウ申さく「タルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑をトラ拏へてキ來つるに、カヘツ却て「セイシユ正主のキミ君をミ視︀ると、いかんぞシ死なしめん」とイ云ひて、ス廢てかねて、ハナ放ちてヤ遣りて、チンギス カガン成吉思 合罕にチカラ力をアタ與へんとてキ來ぬ」とイ云へり。
ナヤア納牙阿 等の心をチンギス カン成吉思 汗の褒賞
そのトキ時、チンギス カガン成吉思 合罕 イ言はく「キミ君をタルクタイ塔兒忽台をテ手にカ掛けてキ來つるならば、セイシユ正主のキミ君をテ手にカ掛けたるヒト人をナンヂラ汝等を、ゾク族をア擧げてキ斬らしめらるゝなりき、ナンヂラ汝等。セイシユ正主のキミ君をス廢てかねたるナンヂラ汝等のコヽロ心 ヨ善くあり」とイ云ひ、ナヤア納牙阿をオンシヤウ恩賞せり。
§150(05:08:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのノチ後 チンギス カガン成吉思 合罕のトコロ處に、ケレイト客咧亦惕のヂヤカガンブ札合敢不(親征錄 元史 本紀ヂヤアカンボ札阿紺孛、朮赤台の傳 札哈堅普)は、テルスト帖兒速惕(卷六の忽兒班 帖列速惕。親征錄タラス ノ塔剌速 野)にヲ居るトコロ處にトモ伴となりにキ來ぬ。カレ彼のキ來ぬるトキ時、メルキト篾兒乞惕 タヽカ戰ひにキ來つれば、チンギス カガン成吉思 合罕、ヂヤカガンブ札合敢不は、スナハ便ちタヽカ戰ひてシリゾ退け[144]たり。そのトキ時 トメン トベゲン土綿 禿別干(萬の禿別干部。親征錄トマン トベイ ブ土滿 土伯夷 部、元史 完澤の傳 土伯燕 氏)、オロン ドンガイト斡欒 董合亦惕(あまたの董合亦惕 部 親征錄 元史ドンガイ ブ董哀 部)、ツイ潰えたるケレイト客咧亦惕のタミ民も、チンギス カガン成吉思 合罕にトウ投じてキ來にけり。
ワンカン王罕 エスガイ也速該のアンダ安荅の交り
ケレイト客咧亦惕のワン王 カガン合罕(卽ち王罕。親征錄ワン カガン汪 可汗)こそは、サキ先にエスガイ カガン也速該 合罕のトキ時に、ナカヨ中好くタヒラ平かにス住みア合へるコロ頃、エスガイ カン也速該 罕とアンダ安荅とイ云ひア合ひたりけれ。カレ彼のアンダ安荅とイ云ひア合ひたるコトノモト緣故は、ワンカン王罕は、そのチヽ父 クルチヤクス ブイルク カン忽兒察忽思 不亦嚕黑 罕の(親征錄フルヂヤクス ブイル カガン忽兒札胡思 盃祿 可汗。元史は、可汗の二字を省けり。)オトヽ弟どもをコロ殺︀すのユヱ故に、グル カン古兒 罕〈[#「古兒 罕」は底本では「古兒罕」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§150(05:09:09)の漢︀字音訳「古兒 罕」に倣い二語に分割。以後の「古兒 罕」すべて漢︀字音訳が「古兒 罕」または「古兒-罕」なので、すべて同じ]〉(親征錄グル カガン菊兒 可汗、元史 菊兒)なるヲヂ叔父とテキ敵にナ爲りア合ひて、カラウン カブチヤル合剌溫 合卜察勒(合剌溫の隘處。親征錄カラウンノ ハサマ合剌溫 隘元史、哈剌溫 隘)にキ鑽りイ入りて、ヒヤクニン百人にてイ出でて、エスガイ カン也速該 罕のトコロ處にキ來つれば、エスガイ カン也速該 罕は、カレ彼にオノ己がトコロ處にキ來られて、オノ己がイクサ軍にてシユツバ出馬して、グル カン古兒 罕をカシン合申(河西の轉、親征錄 元史の西夏)のチ地にオ逐ひて、カレ彼のジンミン人民 ヂウグ住具をワンカン王罕にト取りてアタ與へたるユヱ故に、アンダ安荅とナ爲りア合へることシカ然り。
§151(05:11:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのノチ後 ワンカン王罕のオトヽ弟 エルケ カラ額兒客 合喇〈[#「額兒客 合喇」は底本では「額兒客合喇」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§151(05:11:01)の漢︀字音訳「額兒客-合喇」に倣い二語に分割]〉(親征錄 元史エリコハラ也力可哈剌)は、ワンカン王罕 アニ兄にコロ殺︀さるゝをノガ逃れてサ去りて、ナイマン乃蠻のイナンチヤ カン亦難︀察 罕(親征錄イナンチ カガン亦難︀赤 可汗、元史、部長 亦難︀赤。喇失惕に依れば、乃蠻の不亦嚕黑 罕の父)のトコロ處にトウ投じけり。イナンチヤ カン亦難︀察 罕は、イクサビト軍士どもをヤ遣りて、
さてワン王は、ミ三つのシロ城(三城は卽ち三國にて、唐忽惕 畏忽惕 合兒魯兀惕)にソ沿ひサ去りて、カラ キダト合喇 乞荅惕(合喇 乞丹の複稱、卽ち西遼。親征錄 元史キダン契丹、元史また黑 契丹)のグル カン古兒 罕(親征錄グル カガン菊律 可汗、元史 曷思麥里の傳 西遼 闊兒汗、哈剌亦 哈赤北魯の傳 西遠主 鞠兒 可汗、卽ち西遼の葛兒罕 直魯古)[145]のトコロ處にユ往きたりき。(札合敢不 等の成吉思 汗に降れるは、この時に在り。)そこよりソム背きて、ウイクト畏忽惕(委兀兒の複稱。唐書の回紇。親征錄 元史ウイウル畏吾兒)、タンクト唐忽惕(唐書の黨項、卽ち西夏人)のシロ城をス過ぐると、ゴヒキ五匹のクロヒツジ𦍩䍽をトラ拘へて、チ乳をシボ擠りア合ひて、ラクダ駱駝のチ血をサ刺してノ飮み、コンキウ困窮してグセウル ナウル古薛兀兒 納兀兒(古薛兀兒 湖。親征錄グセウル タク曲薛兀兒 澤)にキ來つれば、チンギス カガン成吉思 合罕は、
父の友にタイ對するチンギス カン成吉思 汗の厚遇
サキ先にエスガイ カン也速該 罕とアンダ安荅とイ云ひア合ひたるエンコ緣故にて、タカイ バアトル塔孩 巴阿禿兒(卷三の塔孩。親征錄タハイ塔海︀)、スケガイ ヂエウン速客該 者︀溫(親征錄シユエカイ雪也垓)フタリ二人をツカヒ使にヤ遣りて、ケルレン ガハ客魯嗹 河のミナモト源よりチンギス カガン成吉思 合罕 ミヅカ自らムカ迎へにユ往きて、「ウ飢ゑてヤ瘦せてキ來ぬ」とて、ワンカン王罕にクワレン科斂をヲサ斂めてアタ與へて、ダンエイ團營のウチ內にイ入らしめてヤシナ養へり。そのフユ冬 シダイ次第にタ起ちて、チンギス カガン成吉思 合罕は、クバカヤ忽巴合牙にフユゴモリ冬籠せり。
§152(05:12:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そこにワンカン王罕のオトヽ弟どもクワンニン官人どもスナハ便ちイ言ひア合へらく「ワレラ我等のコ此のカン罕 アカ阿合(罕なる兄)は、トボ乏しきサガ性あり、クサ臭きカン肝をイダ懷きてユ行くなり。アニオトヽ兄弟をコロ殺︀せり。カラ キダト合喇 乞荅惕にもイ入りたり。マタ又 ブシウ部眾をもクルシ苦めたり。イマ今これをいかにかセ爲ん、ワレラ我等。サキ先のヒ日をイ云へば、ナヽツ七歲なるをメルキト篾兒乞惕のタミ民 トラ虜︀へてサ去りて、クロ黑きハナガタ花紋のクロヒツジ𦍩䍽のカハコロモ裘をキ着せて、セレンゲ薛涼格[のカハベ河邊]のブウラ ケエル不兀喇 客額兒にてメルキト篾兒乞惕のウス碓をツ擣きたり。クルチヤクス ブイルク カン忽兒察忽思 不亦嚕黑 罕なるカレ彼のチヽ父は、カヘツ却てメルキト篾兒乞惕のタミ民をヤブ破りて、そのコ子をそこにスク救ひてキ來つれば、マタ又 タタル塔塔兒のアヂエイ カン阿澤 罕は、ジフサンサイ十三歲な[146]るをハヽ母ごめにマタ又 トラ虜︀へてサ去りて、ラクダ駝駱をカ牧はしめユ行くトキ時、アヂエイ カン阿澤 罕のヒツジカヒ羊飼︀をヒキ率ゐてノガ逃れてキ來たるぞ。マタ又そのノチ後 ナイマン乃蠻よりオソ怕れてカク躱れて、サルタウル撒兒塔兀兒(中亞細亞の抹哈篾惕 敎徒なる撒兒惕人)のチ地なるチユイ ムレン垂 木嗹(垂河、唐書の碎葉 河、西遊記の吹 沒輦。西域 水道記の吹河、今の珠河)にカラ キダト合喇 乞荅惕のグル カン古兒 罕のトコロ處にユ往きたるぞ。そこにヒトトセ一年をツク盡さず、カヘツ却てソム背きウゴ動きて、ウイウト委兀惕(前の長忽惕)タングト唐兀惕(前の唐忽惕)のチ地にソ沿ひてユ行くに、コンキウ困窮して、ゴヒキ五匹のクロヒツジ𦍩䍽をトラ拘へてチ乳をシボ擠りて、ラクダ駱駝のチ血をサ刺してノ飮みて、ヒト一つメシヒ盲(片目)のクロガミ黑鬛のキイロマ黃馬(蒙語カリウン モリン合哩溫 抹𡂰、明 旁譯 黑鬃尾黃馬)にて、コンキウ困窮してテムヂン帖木眞なるコ子のトコロ處にキ來つれば、クワレン科斂をヲサ斂めてヤシナ養へるぞ。イマ今 テムヂン帖木眞なるコ子のトコロ處にかくユ行きたるをワス忘れて、クサ臭きカン肝をイダ懷きてユ行くなり。いかにかセ爲ん、ワレラ我等」とイ云ひア合へり。かくイ言ひア合へるコトバ言を、アルトン アシユク阿勒屯 阿倏黑(親征錄 元史アントン アシユ案敦 阿述)は、ワンカン王罕にアバ訐きけり。
アルトン アシユク阿勒屯 阿倏黑 イ言はく「ワレ我もこのサウダン相談にイ入りア合ひたりき。カヘツ却てオノ己がキミ君をナムチ爾をス捨てかねたり」とイ云ひて、そこにワンカン王罕は、かくイ言ひア合ひたるエル クトル額勒 忽禿兒〈[#「額勒 忽禿兒」は底本では「額勒忽禿兒」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§152(05:15:06)の漢︀字音訳「額勒-忽禿兒」に倣い二語に分割]〉(親征錄 元史エンコルト燕火脫兒)、クルバリ忽勒巴哩(親征錄クンバリ渾八力)、アリン タイシ阿𡂰 大石(親征錄ナリン タイシ納憐 太石、後に阿隣 太石)など、オトヽ弟どもクワンニン官人どもをトラ拏へさせけり。オトヽ弟どもよりヂヤカガンブ札合敢不はノガ躱れて、ナイマン乃蠻にイ入りけり。(札合敢不は、王罕の西遼に走れる時、成吉思汗に降りしが、王罕 歸りて後、復 王罕の處に返り、こゝに至り又 逃げたるなり。)カレラ彼等をナハカ繩繫けヘヤ房にイ入らしめて、ワンカン王罕 イ言はく「ワレラ我等、ウイウト委兀惕、タングト唐兀惕のチ地[147]よりキ來つるトキ時、ナニ何とかイ云ひア合ひし。ナンヂラ汝等のゴト如くナニ何をかオモ思はん、ワレ我は」とイ云ひて、カレラ彼等のオモテ面にツバキ唾して、カレラ彼等のシバリ縛をト解かしめたり。カン罕にタヾ只 ツバキ唾せられて、ヘヤ房にヲ居るヒト人 スベ都︀てにてタ起ちてツバキ唾しけり。
§153(05:17:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのフユ冬 フユゴモリ冬籠してイヌ狗のトシ年(我が建仁 二年 壬戌、金の秦和 二年、宋の嘉泰 二年、西紀 一二〇二年、成吉思 汗 四十一歲の時)のアキ秋、チンギス カガン成吉思 合罕は、チヤガアン タタル察阿安 塔塔兒(親征錄 元史チヤハン タタル察罕 塔塔兒、喇失惕、札干 塔塔兒)、アルチ タタル阿勒赤 塔塔兒(親征錄 元史アンチ タタル案赤 塔塔兒、喇失惕。阿勒只 塔塔兒)、ドタウト タタル都︀塔兀惕 塔塔兒(喇失惕、禿禿克魯暢 塔塔兒)、アルカイ タタル阿魯孩 塔塔兒(朶遜、別勒奎 塔塔兒、額兒忒曼、也勒奎 塔塔兒)、それらのタタル塔塔兒とダラン ネムルゲス荅闌 捏木兒格思(親征錄ダラン ネムルゲ ノ ノ荅蘭 捏木兒哥 之 野)にタイヂン對陣してタヽカ戰ふマヘ前に、チンギス カガン成吉思 合罕は、グンパフ軍法をイ言ひア合へらく「テキジン敵人にカ勝たば、タカラ財のトコロ處にナ勿 タ立ちそ。カ勝ちヲ了へば、そのタカラ財は、ワレラ我等のモノ物なるぞ。ワカ分ちア合ふぞ、ワレラ我等。テキジン敵人にシリゾ退けられば、ハジメ初のツ衝きだしたるトコロ地にてカヘ回りタヽカヒ戰はん。ハジメ初のツ衝きだしたるトコロ處にてカヘ回らざるヒト人をばキ斬らしめん」とてグンパフ軍法をサダ定めア合へり。
ダラン ネムルゲス荅闌 捏木兒格思にタヽカ戰ひて、タタル塔塔兒をウゴ動かせり。カ勝ちて、ウルクイ兀勒灰 シルゲルヂト失魯格勒只惕にて[カレラ彼等を]カレラ彼等のクニ國にアツ集めてトラ虜︀へたり。(兀勒灰 河と失魯格勒只惕 河と合流する處。親征錄 元史ウルフイ シレンヂン ガハ兀魯回 失連眞 河、喇失惕 集史ウルフイ シルチユルヂト ガハ兀魯回 失魯出兒只惕 河。水道 提綱に據るに、蘆河 土名は烏爾虎 河、索岳爾濟 山より出でて西南に流れ、烏朱穆秦 左翼の東を經て、西に折れ、色野爾濟 河に合ひ、右翼の界に入りて涸る。烏爾虎 河は、一統志の圖に吳兒灰 河とあり、卽ち兀勒灰 河なり。色野爾濟は、卽ち索岳爾濟にして、山の名も河の名に同じ。この色野爾濟 河は、卽ち失魯格勒只惕 河なり。魯と惕とを失ひ、格は野に轉じて、失野勒只 卽ち色野爾濟となれり。露西亞の地圖には、烏爾灰を烏拉圭とし、色野爾濟を蘇攸勒奇と[148]し、二河 合流して、昌克圖布里圖 湖に入りて止まり、烏珠穆沁 右翼の界へは流れ往かず。成吉思 汗の勝ちて進みたる處は、その湖水の北なるべし。)チヤガン タタル察罕 塔塔兒(前の察阿安 塔塔兒)、アルチ タタル阿勒赤 塔塔兒、ドタウト タタル都︀塔兀惕 塔塔兒、アルカイ タタル阿魯孩 塔塔兒、ジウエウ重要なるタミ民をそこにホロボ滅して、
アルタン阿勒壇 クチヤル忽察兒 ダリタイ荅哩台の軍法違犯
グンパフ軍法をイ言ひア合ひたるコトバ言に、アルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒、ダリタイ荅哩台〈[#ルビの「ダリタイ」は底本では「タリタイ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉(親征錄 元史ゾクジン アンタン族人 案彈、ホチヤル火察兒、ダリタイ荅力台)ミタリ三人、コトバ言にシタガ遵はず、タカラ財のトコロ處にタ立ちけり。「コトバ言にシタガ遵はざりき」とて、ヂエベ者︀別、クビライ忽必來(親征錄フビライ虎必來、ヂエベ折別) フタリ二人をヤ遣りて、カス掠めたるバグン馬羣、ナニ何にてもト取りたるスベ都︀てをト取らしめたり。
§154(05:19:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
タタル塔塔兒をホロボ滅してトラ虜︀へヲ了へてカレラ彼等のブラク部落 ジンミン人民をイカニ如何せんとて、チンギス カガン成吉思 合罕は、ダイヒヤウギ大評議をイチゾク一族にてヒトツ一のヘヤ房にイ入りてハカ議りア合へり。ハカ議りア合へらく「サキ先のヒ日よりタタル塔塔兒のタミ民は、ミオヤ御祖︀なるチヽ父をウシナ失ひたるなりき。ミオヤ御祖︀なるチヽ父のアタ讎カヘ復してウラミ怨 ムク報いて、シヤカツ車轄にクラ比べてホフ屠りてコロ殺︀してアタ與へん(明譯ベシ可㆚ヲ將㆘カレノ他ダンシノ男子ホド似㆓シヤカツ車轄㆒オホキナルモノ大的㆖コトゴトク盡チウス誅了㆙)。タ絕ゆるまでホフ屠らん。ノコ殘れるをヌヒ奴婢とせん。オノ〳〵各にワカ分けア合はん」とて、ヒヤウギ評議 サダ定めア合ひて、ヘヤ房よりイ出づれば、タタル塔塔兒のエケ チエレン也客 扯嗹は、ベルグタイ別勒古台に「いかにヒヤウギ評議をハカ議りア合へる」とト問ひけり。ベルグタイ別勒古台 イ言はく「ナンヂラ汝等をスベ都︀てをシヤカツ車轄にクラ比べてホフ屠らんとイ云ひア合へり」とイ云ひき。
ベルグタイ別勒古台のこのコトバ言にて、エケ チエレン也客 扯嗹は、タタル塔塔兒のトコロ處にデンセツ傳說をハナ放ちてトリデ寨にヨ據りき。トリデ寨にヨ據りたるタタル塔塔兒のトコロ處にワレラ我等のイクサビト軍士どもセ攻むるとなり、イタ甚だソンシツ損失しけり。トリデ寨に[149]ヨ據れるタタル塔塔兒をシンク辛苦してクダ降してタ絕やさんとシヤカツ車轄にクラ比べてホフ屠る時、タタル塔塔兒 イ言ひア合へらく「ヒト人ごとにソデ袖のウチ裏にカタナ刀をソデ袖にして、ツクノ償ひをト取りシ死なん」とイ云ひア合ひて、マタ又 ハナハ甚だソンシツ損失しけり。かくタタル塔塔兒をシヤカツ車轄にクラ比べてホフ屠りヲ了へて、そこにチンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あり、「ワレラ我等 イチゾク一族にてダイヒヤウギ大評議をサダ定めア合ひたるをベルグタイ別勒古台のツ吿げたるユヱ故に、ワレラ我等のイクサビト軍士どもハナハ甚だソンシツ損失せり。このノチ後 ダイヒヤウギ大評議のトコロ處にベルグタイ別勒古台 ナ勿 イ入りそ。ヒヤウギ評議 ヲ畢ふるまでソト外にあるモノ者︀をヲサ治めよ。ヲサ治めてトウヲウ鬭毆のコト事をタウゾク盜賊 サギ詐譌にカヽ係るコト事をサイダン裁斷せよ。ヒヤウギ評議 ヲハ畢らば、シンシユ進酒をノ飮みたるノチ後に、ベルグタイ別勒古台、ダアリタイ荅阿哩台(前の荅哩台、卷一 卷三 の荅哩台 斡惕赤斤)フタリ二人そこにイ入れ」とミコト勅ありき。
§155(05:22:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
エスゲン カトン也速干 合屯のアネ姊思ひ
そこにタタル塔塔兒のエケ チエレン也客 扯嗹のムスメ女 エスゲン カトン也速干 合屯(元史 后妃表エスゲン クワウゴウ也速干 皇后)をチンギス カガン成吉思 合罕はそこにト取れり。メ寵でられたるユヱ故に、エスゲン カトン也速干 合屯 イ言はく「カガン合罕 オンシ恩賜せば、―ワレ我を[カン罕の]ヒト人にモノ物になしてヤシナ畜ひタマ給り。―ワレ我よりは、アネ姊 エスイ也遂とイ云ふものワレ我よりタカ高溫都︀兒く、カン罕のヒト人にカナ適へるものなるぞ。このゴト頃 ムコ壻をムコ壻とりたりき。イマ今はケダシ蓋このサウドウ騒動のウチ裏いづくにかサ去れらん」とイ云へり。このコトバ言につき、チンギス カガン成吉思 合罕 イ言はく「ナンヂ汝のアネ姊、ナンヂ汝よりヨ善くあるならば、タヅ尋ねさせん。アネ姊をキ來なばサ避けてアタ與へんか、ナンヂ汝(明譯アヘテ肯ヲ將㆓ナンヂノクラヰ你位子㆒ユヅリアタフルカ讓與麼)」とイ云へり。エスゲン カトン也速干 合屯[150]イ言はく「カガン可罕 オンシ恩賜せば、アネ姊をタヾ只 ミ見ば、アネ姊をサ避けん」とイ云へり。このコトバ言により、チンギス カガン成吉思 合罕はミコト勅をツタ傳へてタヅ尋ねさせたれば、メアハ妻されたるムコ壻とトモ共にハヤシ林にイ入りてユ行けるに、ワレラ我等のイクサビト軍士どもア遇ひき。カレ彼のヲツト夫はハシ走りき。エスイ カトン也遂 合屯(元史 后妃表エス クワウゴウ也速 皇后)をそこにト取りキ來ぬ。エスゲン カトン也速干 合屯は、アネ姊をミ見ると、サキ先にイ言へるコトバ言にシタガ遵ひ、タ起ちてスワ坐れるクラヰ位にス坐ゑて、そのオノレ己はシタ下にスワ坐れり。エスゲン カトン也速干 合屯のコトバ言にナラ倣ひて、チンギス カガン成吉思 合罕は、コヽロ情をイ入れてエスイ カトン也遂 合屯をト取りてレツイ列位にス坐ゑたり。
§156(05:24:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
エスイ カトン也遂 合屯のムコ壻の殺︀され
タタル塔塔兒のタミ民をトラ虜︀へヲ畢へて、ヒトヒ一日 チンギス カガン成吉思 合罕は、ソト外にスワ坐りてサケ酒 ノ飮みア合ふに、エスイ カトン也遂 合屯、エスゲン カトン也速干 合屯 フタリ二女のアヒダ閒にスワ坐りてサケ酒 ノ飮みア合ひヲ居るトキ時、エスイ カトン也遂 合屯 オホイ大にナゲ歎きたり。そこにチンギス カガン成吉思 合罕は、コヽロ心にオモ想ひて(明譯ギワクシテ疑惑了)、ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合里 ラ等 クワンニン ドモ官人 眾をヨ喚びてコ來させてイ言はく「ナンヂラ汝等、コ此のタヾ只 アツマ聚れるヒト人 スベ都︀てにてブラク部落 ブラク部落にタ立て。オノレ己よりコト別なるブラク部落のヒト人をベツ別にハナ離れしめよ」とミコト勅ありき。かくブラク部落 ブラク部落にタ立ちたれば、ヒトリ一人のトシワカ年少きヨ善きサワヤ爽かなるヒト人、ブラク部落どもよりベツ別にタ立てり。「ナンヂ汝はナニビト何人なるか」とイ云へば、そのヒト人 イ言はく「タタル塔塔兒のエケ チエレン也客 扯嗹のエスイ也遂とイ云ふムスメ女をアタ與へられたるムコビト壻人なりき、ワレ我。テキ敵にトラ虜︀へらるゝトキ時、ハク伯れてノガ逃れてユ行きて、イマ今 シヅマ鎭れるぞとてキ來て、あまたのヒト人のナカ中 ナン何ぞミト認められんとイ云ひ[151]てユ行きけり」とイ云へり。このコトバ言をチンギス カガン成吉思 合罕にマウ奏したれば、ミコト勅あり「タヾ只 マタ又 テキ敵せんとオモ思ひてヌスビト劫賊となりてユ行きけり。イマ今 ナニ何をウカヾ窺ひにかキ來し。カレ彼がゴト如きモノ者︀どもは、シヤカツ車轄にクラ比べたり。ナニ何ぞウタガ疑はん。メ目のカゲ背處(目に見えぬ處)にス棄てよ」とイ云へり。ツイ尋でキ斬らしめたり。
§157(05:27:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのイヌ狗のトシ年、チンギス カガン成吉思 合罕(「の」は、原文に「を」なる宜と誤れり。)タタル塔塔兒のタミ民のトコロ處にシユツセイ出征したるトキ時、ワンカン王罕は、メルキト篾兒乞惕のタミ民のトコロ處にシユツセイ出征して、トクトア ベキ脫黑脫阿 別乞をバルクヂン トクム巴兒忽眞 脫窟木(親征錄 元史バルフヂン ノ ハサマ巴兒忽眞 之 隘、卷一の闊勒 巴兒忽眞 脫古木)にオ逐ひて、トクトア脫黑脫阿のオホイコ大子 トグス ベキ脫古思 別乞(親征錄トクス ベギ土居思 別吉)をコロ殺︀して、トクトア脫黑脫阿のクトクタイ忽禿黑台 チヤアルン察阿㖮 フタリ二女なるカレ彼のムスメ女ども、(親征錄フドタイ忽都︀台 チヤルフン察勒渾 ニハトン二哈敦。女の名を合屯の名と誤れり。)カレ彼のキサキ妃どもをト取りて、クト忽圖、チラウン赤剌溫(親征錄ホド和都︀、チラウン赤剌溫)フタリ二人なるカレ彼のコ子どもをタミ民ごめにトラ虜︀へて、チンギス カガン成吉思 合罕にナニ何もアタ與へざりき。
§158(05:28:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カン成吉思 汗 ワンカン王罕のナイマン乃蠻 征伐
そのノチ後 チンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人、ナイマン乃蠻のグチユグト古出古惕(乃蠻の分部の名、卷四の古出兀惕 乃蠻)のブイルク カン不亦嚕黑 罕のトコロ處にシユツセイ出征して、ウルクタク兀魯黑塔黑(親征錄ウルタ ザン兀魯塔 山)のソゴク ウスン鎖豁黑 兀孫(鎖豁黑の水。親征錄シヨカ ガハ莎合 水、今の科布多 河の上流なる索果克 河)にヲ居るトコロ處にイタ到りて、ブイルク カン不亦嚕黑 罕はタイヂン對陣するアタ能はずして、アルタイ ザン阿勒台 山(今の科布多 城の西南なる阿爾泰の東南幹山)をコ越えウゴ動きたり。ソゴク ガハ鎖豁黑 水よりブイルク カン不亦嚕黑 罕をオソ襲ひて、アルタイ ザン阿勒台 山をコ越えさせ、クムセンギル忽木升吉兒[152]のウロング ガハ兀嚨古 河(劉郁の西使記の龍骨 河、西域 水道記の烏隆︀古 河)にシタガ沿ひオ追ひてユ行く時、エデ トブルク也廸 土卜魯黑(親征錄 元史エデ トボル也的 脫孛魯)とイ云ふカレラ彼等のクワンニン官人 モノミ斥候にユ行きて、ワレラ我等のモノミ斥候にオ追はれて、ヤマ山のウヘ上にハシ走らんとし、ハラオビ肚帶をタ斷たれて、そこにトラ拏へられき。ウロング ガハ兀嚨古 河にシタガ沿ひオ追ひて、キシルバシ ナウル乞失勒巴失 納兀兒(乞失勒巴失の湖、親征錄 元史ヘシンバシ ノ ノ黑辛八石 之 野西使記の乞則里八寺、水道 提綱の奇薩爾巴思 鄂模、西域 水道記の噶勒札爾巴什 淖爾、また赫色勒巴什 淖爾)にハ馳せイタ到りて、ブイルク カン不亦嚕黑 罕をそこにキハ窮めたり。
§159(05:29:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そこよりチンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人 カヘ回りてク來るトキ時、ナイマン乃蠻 のタヽカ戰ふ(善く戰ふ)コクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑(親征錄 元史コクセウ サバラ曲薛吾 撒八剌)は、バイダラク ベルチル巴亦荅喇黑 別勒赤兒に(巴亦荅喇黑の汭 卽ち落合。親征錄バイダラ ベンヂル ノ ノ拜荅剌 邊只兒 之 野。水道 提綱、貝德勒克 河の庫冷 白兒齊爾。蒙古 遊牧記、拜達里克 河の庫倫 伯勒齊爾。この伯勒齊爾は、拜達里克 河と査克 河との落合なり。)イクサ軍をトヽノ整へてタヽカ戰はんとしけり。チンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人は、タヽカ戰はんとてイクサ軍をトヽノ整へてイタ到りて、ユフグレ夕暮になられて、アシタ朝にタヽカ戰はんとてヂンレツ陣列にてヤド宿れり。そこにワンカン王罕そのヂンシヨ陣處にヒ火をタ燒かせて、ヨル夜 スナハ便ちカラ セウル ガハ合喇 薛兀勒 河に(親征錄ハ セウリ ガハ哈 薛兀里 河。哈の下、剌の字脫ちたり。)サカノボ泝りてウゴ動きけり。
§160(05:30:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そこにヂヤムカ札木合は(闊亦田の戰に敗れ、額兒古捏 河にて王罕に降りてより、王罕の伴となりて居たれば、)ワンカン王罕とトモ共にウゴ動きア合ひてユ行くトキ時、ワンカン王罕にヂヤムカ札木合 イ言へらく「テムヂン帖木眞なるワ我がアンダ安荅は、サキ先よりナイマン乃蠻のトコロ處にシヘイ使聘ありき。イマ今はコ來ず。カン罕、カン罕。ヲ居阿忽るハクレイジヤク白翎雀にてワレ我はあるぞ。ワタ渡阿只剌忽るコクテンジヤク吿天雀[153]にてワ我がアンダ安荅はあり。ナイマン乃蠻にユ往きしぞ。トウ投ぜんとしてオク後れたり」とイ云ひき。(親征錄トキニ時ヂヤムカ札木合アリ在㆓バクカニ幕下㆒、ヒ日イデヽ出、ノゾミ望㆘ミ見ワン汪カガン可汗タツル立㆓キシヲ旗幟㆒アラザルヲ非㆗モトノトコロニ舊處㆖、ハセユキ馳往トヒテ問㆑コレニ之イハク曰「ワウ王チシツセリヤ知悉イナヤ否。ワガ我コンテイハ昆弟、ゴトク如㆓ヤテウノ野鳥ヨルガ依㆒㆑ヒトニ人、ツヒニハカナラズトビサラン終必飛去。ワレハ余ゴトシ若㆓ハクレイジヤクノ白翎鵲㆒也。セイ棲㆓ソクシ息マクノウヘニ幕上㆒、ナンゾアヘテサランヤ寧肯去乎。ワレカツテ我嘗イヘリ言㆑コレヲ之矣。」元史 本紀ヂヤムカ札木合マウシテ言㆓於ワンハンニ汪罕㆒イハク曰「ワレハ我ニ於㆑キミ君ナリ是㆓ハクレイジヤク白翎雀㆒、タニンハ他人ナル是㆓カウガン鴻雁㆒ノミ耳。ハクレイジヤク白翎雀、カンシヨ寒暑︀ツネニ常アリ在㆓キタノカタニ北方㆒。カウガンハ鴻雁アハヾ遇㆑カンニ寒、則ミナミニトビ南飛ツカン就㆑ダンニ暖ノミ耳。」
ハクレイジヤク白翎雀とコクテンジヤク吿天雀
コヽロハ意イヘル謂㆓テイノコヽロ帝心ズト不㆒㆑ベカラ可㆑タモツナリ保也。白翎雀は、豪語カユルガナ合余嚕合納、明譯 白翎雀兒、訶渥兒斯の重譯 雪鳥。搠米惕の字書カイラガナ孩喇合納、鷗と譯し、果勒思屯思奇の字書カイルガナ孩兒合納、海︀鷗と譯せり。今 元史に從へり。輟耕錄 卷の二十に「白翎雀、生㆓於烏桓朔漠之地㆒、雌雄和鳴、自得㆓其樂㆒」とあり。吿天雀は、蒙語ビルドウル必勒都︀兀兒、明譯 吿天雀兒、訶渥兒斯の重譯 野鵞 卽ち雁類︀、洪鈞の重譯 寒暑︀ 異棲 之 鳥、明の茅元儀の武備志なる韃靼 方言に叫天兒を賓︀堵兒と云ふとある賓︀堵兒は、卽ち必勒都︀兀兒なり。爾雅の釋鳥に「鷚、天鷦。」その郭注に「大如㆓鷃雀㆒、色似㆑鶉、好高飛作㆑聲。江東呼爲㆓天鷚㆒。」正字通に「鷚、俗呼㆓吿天鳥㆒。其鳴如㆑龠、形醜善鳴、聲高多㆑韻。」至順 鎭江府志に「噪天、又名㆓吿天㆒、似㆑雀而稍大。愈鳴、則飛愈高。力乏、則自㆑空投㆑地、伏㆓於草中㆒。」方濬頣の夢園 叢說に「叫天子、栖㆓海︀濱叢草之中㆒。遇㆓天中晴︀朗︀㆒、飛鳴直上㆓雲霄㆒、連緜不㆑已。翻㆑身而下、終朝若㆑是。」吿天雀も叫天兒も天鸙も天鷚も噪天も吿天も叫天子も、みな鷚の異名にして、我がひばり卽ち雲雀なり。元史の鴻鴈 訶渥兒斯の雁類︀にても文義は通ずれども、原語の意とは異なり。)ヂヤムカ札木合のこのコトバ言につき、ウブチクタイ兀卜赤黑台(喇失惕の集史ウブチル兀卜赤兒、紅果の名。古𡂰 顏 赤きが故に號とせりと云ふ。)グリン バアトル古𡂰 巴阿禿兒(親征錄グリン バード曲憐 拔都︀)イ言はく「ヘツラ諂ひてナン何ぞカ彼のヨ善きアニオトヽ兄弟をザン讒しイ言へる」とイ云へり。
§161(05:31:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕、ヨル夜はすぐソコ其處にヤド宿りて、タヽカ戰はんとてアス明日のアサヒ朝日 ア明けてワンカン王罕のヂンシヨ陣處をミ見れば、ナ無くなられて、「コレラ此等は、ワレラ我等をヤキメシ燒飯︀しけり(明譯カレハ他ヲ將㆑ワレ我ナシテ做㆓ヤキメシノゴトク燒飯︀般㆒ステタリ撇了。喇失惕の史には、我 今 火坑の中に在るを王李 棄てたり。親征錄には此輩無㆓乃異志㆒乎)」とイ云ひて、そこより[154]チンギス カガン成吉思 可罕はウゴ動きて、エデル アルタイ額迭兒 阿勒台のカハマタ汭(卽ち落合)にてワタ渡りて(親征錄エデル アンタイ ガハ也迭而 案臺 河。この河の名は、阿爾泰 山の東北幹山なる唐努 嶺の東麓より出づる伊第爾 河 また額德爾 河に同じく、その河股は、額德爾 河と齊拉圖 河との落合を指せるに似たり。されども色楞格 河の上流の地は、この時 乃蠻の塔陽 罕に屬して、その勢 未だ衰へざれば、蒙古の兵そこを通るに由なし。又その地は、拜達里克 河の河股の北 三度ほどにあれば、拜達里克 河より土拉 河の方に向はんとする時、道を曲げてそこを通るべき筈なし。されば名の同じきは偶然の事にして、成吉思 汗の渡れる河は、他の處にあるべし。)そのウゴ動きたるにヨ依りウゴ動きて、サアリ ケエル撒阿哩 客額兒〈[#ルビの「サアリ ケエル」は底本では「サアリ エケル」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉にゲバ下馬せり。(親征錄サリ セン撒里 川。客額兒は原にて、川も河を中にせる原なり。元史に薩里 河と書きたるは、非なり。) それよりチンギス カガン成吉思 合罕 カツサル合撒兒 フタリ二人は、ナイマン乃蠻のタイガイ大槩をミ視︀てヒト人とカゾ算へざりき。
§162(05:32:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
コクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑にワンカン王罕の襲はれ
コクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑は、ワンカン王罕のシリヘ後よりオソ襲ひて、サングン桑昆のツマコ妻子 ジンミン人民をヂウグ住具ごめにトラ虜︀へてヒキ率ゐて、ワンカン王罕のテレゲト アマサル帖列格禿 阿馬撒兒(帖列格禿の口)にあるイツパン一半のジンミン人民 バグン馬羣 リヤウシヨク糧食をトラ虜︀へてヒキ率ゐてカヘ回りき。(帖列格禿の口は、卷四なる撒察 泰出の拏へられたる處と名同じ。されども彼の地は、蒙古の南に在り、此の地は、客咧亦惕の西に在れば、同名の異地なるべし。すべて蒙古 地方には、同名の地 甚だ多し。帖列格禿の口も、この二處に限らず。露西亞の地圖に、科布多 城の西に帖列克特 山あり。その山の北に帖列克特 山口と云ふ所あり。これも阿馬撒兒なるべし。されどもその地は、古出兀惕 乃蠻の腹地に在りて、客咧亦惕の民の居るべき所に非ざれば、本文なる隘口は、今 考ふべからず。)そのタヽカヒ戰のウチ中に、メルキト篾兒乞惕のトクトア脫黑脫阿のクト忽圖 チラウン赤剌溫なるフタリ二人のコ子そこにヲ居り、そのタミ民をヒキ率ゐてハナ離れて、そのチヽ父にア合はんと、セレンゲ ガハ薛涼格 河にシタガ沿ひウゴ動きけり。
§163(05:33:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ワンカン王罕 サングン桑昆を救へるシケツ四傑
コクセグ サブラク可克薛古 撒卜喇黑(前の可克薛兀 撒卜喇黑)にカス掠められて、ワンカン王罕は、チンギス カガン成吉思 合罕にツカヒ使をヤ遣りき。ツカヒ使をヤ遣るに「ナイマン乃蠻にジンミン人民 ヂウグ住具をツマコ妻子をトラ虜︀へられたり、ワレ我。コ子[なるナンヂ汝]よりナンヂ汝の[155]ドルベン クルウト朶兒邊 曲魯兀惕を(四つの駿良。元史 兵志また木華黎の傳に「掇里班 曲律、猶㆑言㆓四傑㆒也。」とあり。)モト求めてヤ遣りぬ、ワレ我。ワ我がジンミン人民 ヂウグ住具をスク救ひてアタ與へよ」とイ云ひてヤ遣りき。チンギス カガン成吉思 合罕は、そこにボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合里(卷三の模合里〈[#「卷三の模合里」はママ。実際は卷四が初出]〉)、ボロクル孛囉忽勒(卷三の孛囉兀勒。〈[#「卷三の孛囉兀勒」はママ。実際は卷四が初出]〉)、チラウン バアトル赤剌溫 巴阿禿兒(卷二の赤老溫。親征錄ボオルチユ ノヤン博爾朮 那顏、ムホアリ コクワウ木華黎 國王、ボロフン ノヤン博羅渾 那顏、チラウン バード赤老溫 拔都︀)このシケツ四傑をイクサ軍をトヽノ整へてヤ遣りぬ。このシケツ四傑をイタ到らするマヘ前に、クラアンクト忽剌安忽惕(親征錄フラカ ザン忽剌河 山)にてサングン桑昆はタイヂン對陣となり、そのウマ馬 モヽ腿をイ射られてトラ捕へられんとしてヲ居るトコロ處へ、このシケツ四傑 イタ到りてスク救ひて、ジンミン人民 ヂウグ住具 ツマコ妻子 スベ都︀てをスク救ひてアタ與へたり。
そこにワンカン王罕 イ言はく「サキ曩にカレ彼のヨ善きチヽ父にかくのゴト如くサ去りヲ畢へたるブシウ部眾をスク救ひてアタ與へられき。イマ今 マタ又そのコ子にサ去りヲ畢へたるワ我がブシウ部眾をシケツ四傑にキ來てスク救ひてアタ與へられたり。オン恩をカヘ報さんことをアマツカミ皇天 クニツカミ后土のイウゴ祐︀護 シロ知しめせ」とイ云へり。
§164(05:35:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ワンカン王罕 チンギス カン成吉思 汗の父子の盟約
マタ又 ワンカン王罕 イ言はく「エスガイ バアトル也速該 巴阿禿兒なるワ我がアンダ安荅は、サ去りたるワ我がブシウ部眾をヒト一たびスク救ひてアタ與へたり。テムヂン帖木眞 コ子は、マタ又 サ去りたるワ我がブシウ部眾をスク救ひて與へたり。このオヤコ父子 フタリ二人、サ去りヲ畢へたるブシウ部眾をワレ我にヲサ收めてアタ與へたるは、タレ誰がマヘ前に(誰が爲に)ヲサ收めてアタ與へんとホネヲ骨折りたらん。ワレ我もイマ今 オ老斡脫勒いたり。ワレ我 オ老斡脫勒いてタカ高溫都︀惕きトコロ處(天)にノボ上らば。フ古合兀赤惕りたり、ワレ我。フ古合兀赤惕りてサンガイ山崖合勒都︀惕(墓地)にノボ上らば、アマネ普合木黑きブシウ部眾をタレ誰虔かウシハ管かん。ワ我がオトヽ弟どもは、トクカウ德行[156]ナ無くあり、ワ我がヒトリコ獨子、ナ無きがゴト如きサングン桑昆 ヒトリ獨あり。テムヂン帖木眞 コ子をサングン桑昆のアニ兄となして、フタリ二人のコ子あるとなりて、ヤスラ休はん」とイ云ひて、チンギス カガン成吉思 合罕と、ワンカン王罕はトウラ土兀剌のカラトン合喇屯(親征錄、土兀剌 河 上 黑林 閒)にクワイ會して、オヤコ父子とイ云ひア合ひたり。オヤコ父子とイ云ひア合へるコトノモト理由は、サキ先にサキ前のヒ日 エスガイ カン エチゲ也速該 罕 額赤格と、ワンカン王罕はアンダ安荅とイ云ひア合ひたるエンコ緣故にて、チヽ父のゴト如しとイ云ひて、オヤコ父子とイ云ひア合ひたるコトノモト理由かくあり。
コトバ言(誓の辭)をイ言ひア合へらく「オホ多斡欒きテキ敵のトコロ處にハシ奔哈兀魯㖮るには、トモ共にヒト一つにハシ奔哈兀魯牙らん。ノ野斡囉阿のケダモノ獸のトコロ處にマキガリ圍獵阿巴剌㖮するには、ヒト一つにトモ共にマキガリ圍獵阿巴剌牙せん」とイ云ひア合へり。マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人 イ言ひア合へらく「ワレラ我等 フタリ二人を妬みて、キバ牙速都︀あるヘビ蛇にソヾノカ唆雪都︀兒帖〈[#ルビの「ソヾノカ」はママ。昭和18年復刻版も同じ。以後の同じルビ「ソヾノカ」はすべてママ]〉されば。[カレ彼の]ソヾノカ唆雪都︀兒堅しにナ勿 イ入りそ。キバ牙速都︀額兒にてクチ口にてイ言ひア合ひてシン信ぜん。オホキ大牙阿喇阿あるヘビ蛇にリカン離閒阿荅兒荅せられば、カレ彼のリカン離閒阿荅兒罕をナ勿 ト取阿不勒察りア合ひそ。クチ口阿馬阿兒にてシタ舌にてアカ證しア合ひてシン信ぜん」とイ云ひ、かくコトバ言をキ極めア合ひて、シタシ親みてス住みア合へり。
§165(05:38:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
シタ親しきウヘ上にカサ重ねてシタ親しくならんとチンギス カガン成吉思 合罕はオモ思ひて、ヂユチ拙赤(成吉思 汗の長子。親征錄 元史チユチ朮赤)にサングン桑昆のイモト妹 チヤウル ベキ察兀兒 別乞(親征錄 元史 チヤウル ベキ抄兒 伯姫)をモト索むるに、サングン桑昆のコ子 トサカ禿撒合に(親征錄、汪 可汗 之 孫 禿撒合。元史は、孫を子と誤れり。)ワレラ我等のゴヂン ベキ豁眞 別乞(親征錄 元史ホアヂン ベキ火阿眞 伯姫。元史 公主表、太祖︀ 女 昌國 大長公主 火臣 別吉)をカ換ひア合いてアタ與へんとてモト索むれば、そこにサングン桑昆はオノレ己をオホ大きくオモ思ひてイ言はく「ワレラ我等のシンゾク親屬、カレラ彼等のトコロ處にユ往かば、[157]モンゴ門後にタ立ちてモツパラ專にシヤウメン正面をノゾ望むなり。(明譯ワレラノ ムスメ俺的 女子 イタラ到㆓カレノイヘニ他家㆒バ呵、センイチモンゴニ專一門後 ムカヒ向㆑キタニ北タヽン立㆑チニ地。卑辱なるを云ふ。)カレラ彼等のシンゾク親屬、ワレラ我等のトコロ處にコ來ば、シヤンメン正面にスワ坐りてモンゴ門後をノゾ望むなり(明譯カレノムスメ他的女子イタラ到㆓ワレラノイヘニ俺家㆒バ呵、シヤウメンニ正面ムカヒ向㆑ミナミニスワラン南坐。尊榮なるを云ふ。)」とて、オノレ己をオホ大きくオモ思ひて、ワレラ我等をミクダ見下しイ言ひてチヤウル ベキ察兀兒 別乞をアタ與へず、シタシ親まざりき。そのコトバ言にて、チンギス カガン成吉思 合罕は、コヽロ心のウチ內にワンカン王罕、ニルカ サングン你勒合 桑昆(桑昆の全名なり。親征錄イラカ セングン亦剌合 鮮昆)フタリ二人にコヽロ心 オク後れけり。(心 進まず協はざるを云ふ。)
§166(05:40:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かくコヽロ心 オク後れたるをヂヤムカ札木合 サト覺りて、ヰ猪︀のトシ年(我が 建仁 三年 癸亥、金の泰和 三年、宋の嘉泰 三年、西紀 一二三〇年、成吉思汗 四十二歲の時)のハル春、ヂヤムカ札木合、アルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒、カルダキダイ合兒荅乞歹、エブゲヂン額不格眞、ノヤキン那牙勤、(合兒荅乞歹 以下 三名は、明譯に皆 種族の名とせり。那牙勤 氏は、篾年 土敦の子 合臣の裔なり。)シエゲエタイ雪格額台、トオリル脫斡哩勒、(親征錄トーリン脫憐、成吉思 汗の祖︀先の家奴の裔なり。卷六に見ゆ。)ガチウン ベキ合赤溫 別乞、(成吉思 汗の弟なる合赤溫と異なり。)カレラ彼等 トモ共にヒト一つのケフギ協議をなして、タ起ちてユ往きて、ヂエヂエエル ウンドル者︀者︀額兒 溫都︀兒(者︀者︀額兒の高地。親征錄チエチエル ウンド ザン徹徹兒 運都︀ 山、元史 折折 運都︀山。明史 韃靼の傳なる徹徹兒 山、水道 提綱 哈納哈達 山の東北なる徹徹 山に音は似たれども、いかゞあらん。)のカゲ陰にベレケ エレト別兒客 額列惕(困難︀なる沙漠。親征錄ベリケ サダ別里怯 沙陀)にニルカ サングン你勒合 桑昆のトコロ處にユ往きて、ヂヤムカ札木合 ザン讒してイ言はく「テムヂン帖木眞なるワ我がアンダ安荅は、ナイマン乃蠻のタヤン カン塔陽 罕(不亦嚕黑 罕の兄。親征錄タヤン カガン太陽 可汗、元史 太陽 罕)の、トコロ處にデンゴン傳言ありツカヒ使あるなり。カレ彼のクチ口阿蠻にはオヤコ父子とイ云ひてヲ居り、カレ彼のセイカウ性行阿不里はベツ別なり。イシン倚信してヲ居るなリ、ナンヂラ汝等。マヅ先 ハカ圖らずば、ナンヂラ汝等にナニ何ぞシタガ從はん。テムヂン帖木眞 アンダ安荅のトコロ處にシユツバ出馬せば、ワレ我はヨコ橫よりイ入りア合はん」とイ云ひき。アルタン阿勒壇、[158]クチヤル忽察兒 フタリ二人 イ言はく「ワレラ我等は、ホエルン エケ訶額侖 額客のコ子を、アニ兄阿合をばコロ殺︀阿剌して、オトヽ弟迭兀をばス棄帖卜赤ててアタ與へん」とイ云ひき。エブゲヂン額不格眞、ノヤキン那牙勤、カルタアト合兒塔阿惕(前の合兒荅乞歹。乞と阿と何れか誤りあらん。)イ言はく「カレ彼のテ手合兒をテト手取合兒荅りて、カレ彼のアシ足闊勒をアシト足取闊勒迭りてアタ與へん」とイ云ひき。トオリル脫斡哩勒 イ言はく「オモ思ふに、ユ往きてテムヂン帖木眞をそのブシウ部眾をト取らん。ブシウ部眾をト取られば、ブシウ部眾 ナ無くならば、ナニ何をかせん、カレラ彼等」とイ云ひき。カチウン ベキ合赤溫 別乞 イ言はく「ニルカ サングン你勒合 桑昆なるコ子。ナンヂ汝 ナニ何をかオモ思はば、ナガ長兀兒禿きコズヱ梢兀主兀兒にフカ深古訥きソコ底希喇兀兒にイタ到古嚕勒扯速りア合はん」とイ云ひて、
§167(05:42:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
サングン桑昆の繰言に迷へるワンカン王罕の優柔
コレラ此等のコトバ言をイ言はれて、ニルカ サングン你勒合 桑昆は、チヽ父にワンカン王罕にカレラ彼等のコトバ言をサイカン トデエン撒亦罕 脫迭延(親征錄サイカン トトゲン寨罕 脫脫干)もてイ言ひてヤ遣りき。コレラ此等のコトバ言をイ言はれて、ワンカン王罕 イハ言く「ワ我がコ子をテムヂン帖木眞をナン何ぞかくオモ思へる、ナンヂラ汝等。イマ今までセワ世話にカレ彼よりナ爲りてヰ居て、イマ今 ワ我がコ子をかくワロ惡くオモ思はば、アマツカミ上帝にイツクシ愛まれざらん、ワレラ我等。ヂヤムカ札木合は、ウロツキ走作のコトバ言ある[ヒト人]なりき。とやかくや(蒙語ヂヨブウ タブウ勺不兀 塔不兀)イ言ふなり(明譯ヂヤムカ札木合 ノ的 ゲンゴハ言語、キヤウタンニシテ誑誕ズ不㆑ベカラ可㆑シンズ信。親征錄ヂヤムカ札木合、カウゲンニシテ巧言スクナシ寡㆑シン信ヒト人ナリ也。ズ不㆑タラ足㆑シンズルニ信)」とイ云ひて、ヨロコ喜ばずしてヤ遣りき。マタ又 サングン桑昆 イ言ひてヤ遣るに「クチ口ありシタ舌あるヒト人 イ言ひヲ居るに、ナン何ぞシン信ぜられざらん」とてクリカヘ繰返しイ言ひてヤ遣りて、キ聽かれずして、オノレ己 ミ身づからユ往きてイハ言く「カツ且 ナムチ爾がかくあるトキ時すら、ワレラ我等をナニ何ともナ爲さざるなり(明譯ナムチ你 イマ如今 マノアタリニアレドモ見存、カレハワレラ他俺[159]ヲ行 ズ不㆑アテ當㆑カズニ數)。マコト誠にマタ又 カン エチゲ罕 額赤格、ナムチ爾をシロ白察合阿納くツ搶撒察阿速かば、クロ黑合喇荅くムセ噎合合阿速ばば(詞どほりに譯したれども、解し得ず。蓋 上の句は、病むを云ひ、下の句は、死ぬるを云ふならん。明譯にはモシ若 チヽオヤ父親 オイナバ老了呵)、クルチヤクス ブイルク カン忽兒察忽思 不亦嚕黑 罕なるナムチ爾のチヽ父のシンク辛苦してかくヲサ收めてヰ居たるナムチ爾のブシウ部眾をワレラ我等にウシハ管かしめんや。タレ誰にもナン何ぞウシハ管かしめんや」とイ云へり。そのイ言にワンカン王罕 イハ言く「ワ我がワラハ童 ワ我がコ子(桑昆)をいかんぞス捨てん。イマ今までセワ世話にカレ彼よりナ爲りて、アシ惡くオモ思はば、ヨ善からんや。アマツカミ上帝にイツクシ愛まれざらん、ワレラ我等」とイ云ひき。そのコトバ言にカレ彼のコ子 ニルカ サングン你勒合 桑昆はウレ憂へて、カド門をイ出でてサ去りき。カヘツ却てそのコ子 サングン桑昆のコヽロ心をアハレ憐みて、ヨ喚びてコ來させて、ワンカン王罕 イハ言く「アマツカミ上帝に、ケダシ蓋 イツクシ愛まれん、ワレラ我等。コ子をいかんぞス捨てんとイ云へり。ナンヂラ汝等 ヨ能くタヾ但 トリハカ取計らへ。ナンヂラ汝等 シ知れ(明譯テン天 ケダシ莫不 ザラン不㆓アイゴセ愛護㆒ヤ麼。コ兒子 ヲ行 ナンヂラヲ您 イカンゾ怎生 ベケン要㆓スツ棄捨㆒。ナンヂラ您 タヾ但 サリテ去 ナセ做㆘可㆔以カチ勝㆓ウ得カレニ他㆒ノコトヲ的事㆖。ナンヂラミヅカラシルベシ您自知者︀)」とイ云ひき。(元史 忠義 伯八の傳に、王罕を怯列王可汗と、桑昆を先髠と書けり。)
§168(05:45:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
それよりサングン桑昆 イ言はく「カレラ彼等こそは、ワレラ我等のチヤウル ベキ察兀兒 別乞をモト索めたりけれ。イマ今 キヨコン許婚のアヘ饗(蒙語ブウルヂヤル不兀勒札兒、元史ブフンチヤル布渾察兒、原注に許親酒)をク喫ひにコ來よとて、ヒ日をヤク約してヨ喚びてキ來させてそこにトラ拏へん」とイ云ひア合ひて、シカ然りとてケフギ協議をキ極めア合ひて、「チヤウル ベキ察兀兒 別乞をアタ與へん。キヨコン許婚のアヘ饗をク喫ひにキ來よ」とてヤ遣りぬ。ヨ喚ばれて、チンギス カガン成吉思 合罕は、トタリ十人にてユ往くに、
モンリク エチゲ蒙力克 額赤格のケイコク警吿
ミチ途にてモンリク エチゲ蒙力克 額赤格(親征錄メリゲ蔑里哥、またメリ エチケ蔑力 也赤可、伯八の傳 明里 也赤哥)のイヘ家に[160]ヤド宿れば、そこにモンリク エチゲ蒙力克 額赤格 イ言はく「チヤウル ベキ察兀兒 別乞をモト索むれば、カレラ彼等こそは、ワレラ我等をミクダ見下してアタ與へざりけれ。イマ今いかんぞコト特にキヨコン許婚のアヘ饗をク喫ひにとてヨ喚びし。オノレ己をオホ大きくなせるヒト人、コト特にイカン柰何ぞアタ與へんとてヨ喚びたりし。とやかくやのコヽロ心あり。[ワ我[ルビの#「ワ」は底本では「ワガ」。昭和18年復刻版に倣い修正]が]コ子 キ氣をツ附けてユ往くべし。「ハル春になりぬ。ワレラ我等のバグン馬羣 ヤ痩せたり。バグン馬羣をヤシナ養はん」とてイナ辭みてヤ遣らん」とイ云ひて、[チンギス カガン成吉思 合罕は]ユ往かず、ブカタイ不合台、キラタイ乞喇台 フタリ二人をキヨコン許婚のアヘ饗をク喫へとイ云ひてヤ遣りて、(親征錄は、ブハダイ キチヤ不花台 乞察の二人を王罕より喚びに遣りたる使とせり。)チンギス カガン成吉思 合罕は、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格のイヘ家よりカヘ回りぬ。ブカタイ不合台、キラタイ乞喇台 フタリ二人にイタ到られたれば、「サト覺られたり、ワレラ我等。アス明日のアサ朝 カコ圍みてトラ拏へん」とイ云ひア合へり。
§169(05:47:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
エンシフ掩襲の謀を漏せるエケ チエレン也客 扯嗹〈[#ルビの「也客 扯嗹」は底本では「也客 扯連」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉の輕率
かく「カコ圍みてトラ拏へん」とてコトバ言をキ極めア合ひたるを、アルタン阿勒壇のオトヽ弟(阿勒壇は、忽圖剌 合罕の子、也客 扯嗹は忽圖剌の弟 忽闌 巴阿禿兒の子なれば、兄弟に非ず。弟は、從弟の義なり。エケ チエレン也客 扯嗹、親征錄エケ チヤハラン也可 察合蘭)は、イヘ家にキ來てイ言へらく「アス明日のアサ朝 テムヂン帖木眞をトラ拏へんとイ云ひア合へり。このコトバ言をテムヂン帖木眞にコトヅテ言傳をイタ致しユ往くヒト人をば、いかにかタヾ但 ナ爲さるべき」とイ云ひき。かくイ言へるにより、そのツマ妻 アラクイト阿剌黑亦惕(親征錄は、イラハン亦剌罕と書き、察合蘭の子とせり。)イ言はく「そのネナ根無しのナムチ爾のコトバ言(明譯那ソノ那 ウキタル泛濫 コトバ言語、親征錄コノ此ナキ無㆑ヨリドコロ據 之 コトバ言)、ナニ何となるらん。ケニン家人もマコト眞とナ爲さん」とイ云ひき。かくウハサ噂せるトキ時、そのウマカヒ馬飼︀ バダイ巴歹(親征錄 元史バダイ把帶、木華黎の傳 拔台)は、ウマノチ馬乳をオク送りにキ來[161]て、このコトバ言をキ聽きてカヘ回りぬ。バダイ巴歹 サ去りて、ドウヤク同役のウマカヒ馬飼︀ キシリク乞失里黑にチエレン扯嗹のイ言へるコトバ言をイ言ひき。(乞失里黑は、卷一の乞失黎黑なり。親征錄 元史は、誤りてキリシ乞力失と書き、失力を倒にせり。哈剌哈孫の傳には、曾祖︀ 啓昔禮と云ひて、斡剌納兒 氏なりとあれば、抄眞 斡兒帖該の長子の裔なり。)キシリク乞失里黑 イ言はく「ワレ我 マタ又 ユ往きてサツ察せん」とイ云ひて、イヘ家にユ往きぬ。チエレン扯嗹のコ子 ナリン ケエン納𡂰 客延は(親征錄チヤハラン察合蘭
バダイ巴歹 キシリク乞失里黑〈[#ルビの「乞失里黑」は底本では「失乞里黑」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉の密吿
キシリク乞失里黑 サ去りてバダイ巴歹にイ言へらく「タヾイマ只今 ナンヂ汝のハナシ話をタシカ慥めたり。マコト眞となりたり。イマ今 ワレラ我等 フタリ二人、テムヂン帖木眞にハウコク報吿をオク送りサ去らん」とて、コトバ言をキ極めア合ひて、メルキト篾兒乞惕のシロウマ白馬、クチ口 シロ白きクリゲウマ驑馬 フタツ二匹をト取りてキ來てタヅナ手綱つけて、ユフベ夕にスナハ便ちヘヤ房のウチ內にヒトツ一匹のコヒツジ子羊をコロ殺︀して、ユカ床もてニ煮︀て(明譯モテ將㆓ユカノキヲ床木㆒シヨジユクシ煮︀熟、親征錄ヒラキ拆㆓グワタフヲ臥榻㆒シヨジユクシ煮︀熟)、メルキト篾兒乞惕のシロウマ白馬、クチ口 シロ白きクリゲウマ驑馬 フタツ二匹、マノアタリ目前 タヅナ手綱つけたるにノ乘りて、ヨル夜 サ去りて、チンギス カガン成吉思 合罕にヨル夜 イタ到りて、イヘ家のキタ北(卽ち後)よりバダイ巴歹 キシリク乞失里黑 フタリ二人 マウ申して、エケ チエレン也客 扯嗹のイ言へるコトバ言、カレ彼のコ子 ナリン ケエン納𡂰 客延のヤ箭をミガ磋きヰ居てイ言へること、メルキト篾兒乞惕のシロウマ白馬 クチ口 シロ白きクリゲウマ驑馬、フタツ二匹の センバ騸馬をト取りてタヅナ手綱つけよとイ云へるコトバ言、スベ都︀てをマウ申してア上げたり。マタ又 バダイ巴歹 キシリク乞失里黑 フタリ二人 マウ申さく「チンギス カガン成吉思 合罕 オンシ恩賜せば、ウタガ疑ひナ無くあり。カコ圍みてトラ拏へんとてコトバ言をキ極めア合へり」とイ云へり。
成吉思 汗 實錄 卷の五 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート読み込みサイズが制限値を越えるので分冊化しています。
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