成吉思汗実録/巻の七
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のシチ七。
§186(07:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かくケレイト客咧亦惕のタミ民をクツプク屈服せしめてオノ〳〵各ワ分けてトラ虜︀へさせたり。スルドス速勒都︀思のタカイ バアトル塔孩 巴阿禿兒(卷三の塔孩)のイサヲ功のユヱ故に、イツピヤク一百のヂンギン只兒斤をアタ與へたり。マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あり。ワンカン王罕のオトヽ弟ヂヤカガンブ札合敢不にフタリ二女のムスメ息女ありし
そのアネムスメ姊女 イバカ ベキ亦巴合 別乞を(卷八の末に二たび見ゆ)チンギス カガン成吉思 合罕 ミヅカ自らト取り、イモトムスメ妹女 シヨルカクタニ ベキ莎兒合黑塔泥 別乞をトルイ拖雷にアタ與へたり(元史 本紀に、憲宗 桓肅 皇帝、諱は蒙哥、睿宗 拖雷の長子なり。母を莊獻 太后 怯烈 氏、諱はソルカテニ唆魯禾帖尼と曰ふ。后妃表に、睿宗の唆魯和帖尼 妃子、怯烈 氏、追諡 莊聖 皇后、また顯懿 莊聖 皇后とあり。拖雷は、本傳に「睿宗 景襄 皇帝、諱は拖雷、太祖︀の第四子、太宗の母弟なり」とあり。)そのチナミ緣にヨ依りて、ヂヤカガンブ札合敢不をカレ彼にシタガ從ふヂツキン昵近のタミ民もマトマリテ圓全 ダイニ第二のナガエ轅とナ爲れとイ云ひて、オンシ恩賜してトラ虜︀へさせざり[189]き。
§187(07:02:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「バダイ巴歹、キシリク乞失里黑 フタリ二人のイサヲ功のユヱ故に、ワンカン王罕のコガネ金のテンマク天幕、フチン鋪陳したるコガネ金のシユキヨク酒局のキベイ器︀皿を、トリアツカ取扱ふヒト人ごめに[アタ與へん。]オンゴヂト ケレイト汪豁只惕 客咧亦惕は、(汪豁只惕 姓の客咧亦惕 人。汪豁只惕は、汪豁眞の複稱なり。卷四の溫眞は、親征錄の嫩眞、別咧津の弘豁攸惕にして、弘豁依惕は、卽ち汪豁只惕なれば、溫眞は、溫豁眞の中略 又は缺脫なるべし。)カレラ彼等のバンシ番士とナ爲れ。ヤナグヒ箭筒をオ帶ばしめて、アイサン喝︀盞せしめて、(明譯ノム飲㆑サケヲ酒トキ時、マタ又 ユルシ許㆓カレニ他 アイサンヲ喝︀盞㆒)シソン子孫のシソン子孫にイタ至るまでジザイ自在にクワイラク快樂せ[しめ]ん。オホ多斡欒きテキ敵にハシ奔らばタカラ財斡勒札をエ得斡替阿速ば、エ得斡魯克撒阿兒たるまゝにト取れ。ノ野斡喇阿のケダモノ獸をコロ殺︀阿剌阿速さば、コロ殺︀阿剌黑撒阿兒したるまゝにト取阿不惕れ」とミコト勅ありき。(
喝︀盞は、盞を乾かすと云ふ意にて、筵會の時に樂を奏して酒を進むるを云ふ。蒙語はオトク斡脫克にて、明譯には進酒とも譯せり。輟耕錄 卷の二十一に天子スベテ凡 宴饗
ケレイト客咧亦惕のタミ民をトラ虜︀倒里へて、タレ誰客揑にもカ缺都︀塔けざるまでにチラ撒しア合へり。ヨロヅ萬土綿のトベエン禿別延(卷五の土綿 禿別干。元史 完澤の傳、土伯燕 氏)をチラ撒禿格額勒都︀しア合ひて、ヒキウ引受禿格帖列けつゝト取りア合へり。オホ多斡欒きドンガイト董合亦惕をトヽノ整斡忽合ふるヒ日にイタ到らずトラ虜︀へさせたるぞ。チ血赤速禿あるモノ物(生きたる人)をハ剝ぎトラ要ふるヂルギン只兒斤のユウシ勇士どもをヒラ開只速きてワ分けて、トモ共にイタ到るアタ能はざらしめたり。ケレイト客咧亦惕のタミ民をかくホロボ滅して、そのフユ冬はアブヂア コデゲル阿卜只阿 闊迭格兒(親征錄アブヂヤ コテゲル ノ ヤマ阿不札 闊忒哥兒 之 山)にフユゴモリ冬籠したり。
§188(07:05:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ワンカン王罕、サングン桑昆 フタリ二人、ミ身をモテ以てカエ反りてイ出でてサ去ると、ヂヂク サカル的的克 撒合勒のネクン ウスン捏坤 兀孫(捏坤の水。親征錄ネクン ウスン ガハ捏羣 烏孫 河)にてワンカン王罕 ノド喉 カワ乾きてイ入りたるに、ナイマン乃蠻のモノミ斥候 ゴリ スベチ豁哩 速別赤(親征錄ホリ スバチ火里 速八赤)のトコロ處にイ入りき。ゴリ スベチ豁哩 速別赤は、ワンカン王罕をトラ拏へけり。「ワレ我は、ワンカン王罕なり」とイ云へども、ミト認めずシン信ぜずして、そこにコロ殺︀しけり。サングン桑昆はヂヂク サカル的的克 撒合勒のネクン ウスン捏坤 兀孫にイ入らず、ホカ外にサ去りて
ココチユ バテイ闊闊出 馬丁にサングン桑昆の棄てられ
チエル徹勒にイ入りてミヅ水 モト求めたるに(徹勒は、唐書の勅勒 鐵勒の音に似たり。鐵勒の故地 又は故地の一部に古名の殘れるなるべし。卷十二に徹勒の地に井を穿てる事あり、廣き地方の名に似たり。)ノウマ野馬ども(蒙語クラト忽剌惕、黃にして薄靑き馬)アブ䖟にサ刺されてタ立てるを、サングン桑昆 ウマ馬よりオ下りてウカヾ覷ひけリ。サングン桑昆のトモビト從者︀ ココチユ闊闊出とイ云ふバテイ馬丁にツマ妻ありて、サングン桑昆と[191]ミタリ三人にてありき。ウマ馬をココチユ バテイ闊闊出 馬丁にト執らしめけり。ココチユ バテイ闊闊出 馬丁、そのセンバ騸馬をヒ牽くと、カヘ回りハシ走りき。
そのツマ妻 イハ言く「コガネ金阿勒塔塔あるをキ被るトキ時、ジミ滋味奄塔塔あるをクラ食ふトキ時、[サングン桑昆は]ワ我がココチユ闊闊出とイ云ふなりき。オノ己がキミ君をサングン桑昆をいかんぞ かくス捨ててハフ投りてサ去りたる、ナムチ爾」とイ云ひて、そのツマ妻 タ立ちてノコ殘りけり。ココチユ闊闊出 イ言はく「サングン桑昆をヲトコ男にせんとてなるぞ、ナンヂ汝」とイ云ひき。そのコトバ言につき、そのツマ妻 イ言はく「ヲンナ婦のヒト人はイヌ狗のツラ面ありとイ云はるゝぞ、ワレ我。カレ彼のコガネ金のツキ盂をもアタ與へ、ミヅ水もク汲みてノ飮ませよ」とイ云ひき。そこよりココチユ バテイ闊闊出 馬丁は、カレ彼のコガネ金のツキ盂をト取るとて、ウシロ後にム向きス棄ててハシ走りき。かくてク來ると、チンギス カガン成吉思 合罕のトコロ處にココチユ バテイ闊闊出 馬丁 キ來て、
「サングン桑昆をかくチエル徹勒にス棄てててキ來ぬ、ワレ我」とて、そこにイ言ひア合へるイ言をスベ都︀てをみなマウ申してア上ぐれば、チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅ありて、そのツマ妻をオンシヤウ恩賞して、そのココチユ バテイ闊闊出 馬丁をば「セイシユ正主のキミ君をかくス棄ててキ來ぬ。かゝるヒト人 イマ今 タレ誰にトモ伴とならばイシン倚信すべけん」とイ云ひてキ斬りてス棄てたり。
§189(07:09:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ワンカン王罕のカウベ頭をナイマン乃蠻にての祭
ナイマン乃蠻のタヤン カン塔陽 罕(親征錄タヤン カガン太陽 可汗、元史 太祖︀紀 太陽罕、蒙古 源流 達延 汗)のハヽ母 グルベス古兒別速(親征錄グルバス菊兒八速、塔陽 罕の妻)イ言はく「ワンカン王罕は、サキ前のオイ老たるオホキ大なるカン罕なりき。カレ彼のカウベ頭をモ持ちコ來よ。ソレ其ならばマツ祭らん、ワレラ我等」とイ云ひて、ゴリ スベチ豁哩 速別赤のトコロ處にツカヒ使をヤ遣りて、カレ彼のカウベ頭をタ斷ち[192]てモ持ちコ來させて、ミト認めてシロ白きマウセン毛氈のウヘ上にオ置きて、ヨメ媳婦どもにヨメ媳婦のレイ禮をオコナ行はしめて、アイサン喝︀盞せしめて、ガクキ樂器︀をハジ彈かしめて、サカヅキ盞をト執りてマツ祭りき。そのカウベ頭かくマツ祭らるゝトキ時 ワラ笑ひけり。ワラ笑へりとて、タヤン カン塔陽 罕は、クダ碎くべくフ踐みけり。そこにコクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑 イ言ひき。
タヤン カン塔陽 罕をソシ譏るコクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑のガイゲン慨︀言
「シ死にたるワウシヤ王者︀(蒙語カン グウン罕 古溫、罕なる人)のカウベ頭をナムチダチ爾等 マタ又 タ斷ちてモ持ちキ來て、ツギ次にはナムチダチ爾等 マタ又 クダ碎きて、ナン何のヨ善きコト事か。ワレラ我等のイヌ狗のホ吠ゆるコヱ聲 ア惡しくナ爲れり。イナンチヤ ビルゲ カン亦難︀察 必勒格 罕 イ言ひき。「ツマ妻 ワカ少くヲツト夫なるワレ我 オ老いたり。このタヤン塔陽をキタウ祈︀禱にヨ依りてウマ生れさせけり。アヽ嗚呼 ヲヂナ懦くウマ生れたるワ我がコ子は、ユクスヱ久後あまたのカトウ下等なるア惡しきブシウ部眾をナ撫でてモ持ちアタ能はんや」とイ云ひき。イマ今 イヌ狗のコヱ聲は[ワザハヒ禍︀の]チカ近づけるホ吠えをホ吠えたり。ワレラ我等のカトン合敦 グルベス古兒別速のハフド法度はスルド鋭くナ爲れり。ワ我がカン罕 ヲヂナ懦きタヤン塔陽はヨワ弱くあり。ナムチ爾は、タカ鷹をツカヒ使ふことマキガリ圍獵することフタ二つよりホカ外にコヽロ心もワザ技もナ無し」とイ云はれて、そこにタヤン カン塔陽 罕 イ言はく
「このヒガシ東にスコシ些のモンゴル忙豁勒ありとイ云はれたり。カレ彼のタミ民は、オ老いたるオホイ大なるサキ前のワンカン王罕をヤナグヒ箭筒にてオド威してカエ反らしめてシ死なしめたり。イマ今そのカン罕とナ爲らんとしてあり、カレラ彼等。テン天のウヘ上にはヒツキ日月 フタ二つカヾヤ耀くヒカリ光となれとて、ヒツキ日月 フタ二つはア有るぞ。チ地のウヘ上にフタ二つのカト合惕(罕の複稱)にはいかでかナ爲られん。ワレラ我等 ユ往きてカ彼のモンゴル忙豁勒をモ持ちコ來ん」とイ云ひ[193]き。(
明譯テンノウヘニ天上タヾ止アリ有㆓ヒトツノ一箇 ヒツキ日月㆒。チノウヘニ地上 イカンゾ如何 アラン有㆓フタリノ兩箇 シユジン主人㆒。イマ如今 ワレラユキテ咱去ヲ將㆓カノ那 タタ達達㆒トラン取了。日月 二つを一箇と譯したるは違へり。修正 祕史は、この言を汪古惕 部に言ひ遣りたる言に入れたりと見えて、親征錄には、使者︀の言として「日月在㆑天、了然見㆑之。世豈有㆓二王㆒哉」と譯し、一つとも二つとも云はず、耀く光をば了然にてごまかせり。訶渥兒斯の重譯には「天に日二つ、一つの鞘に刀二つ、一つの目に眼二つ、一つの天下に二人の王あるべけんや」とあり。これは、修正 祕史の原文に拘らずして增飾したるなり。洪鈞の重譯は、刀眼の譬を省き、「我知㆓天上惟一日一月㆒、地下亦不㆑容㆑有㆓兩王㆒」と譯して、親征錄の文に近寄らせたり。元史の「天無㆓二日㆒、民豈有㆓二王㆒邪」と書けるは、祕史の文とは違へども、支那の古語にも合ひ、文意 簡明にして、筆力 雄健なり。)そのトキ時そのハヽ母 グルベス古兒別速 イ言はく「いかにせんぞ、カレラ彼等を。
モンゴル忙豁勒のタミ民は、キソク氣息忽訥兒 ア惡しく、イフク衣服忽卜察速 クロラカ黑暗なりき。(宋の黃震の古今 紀要 逸︀編に「韃靼 之 近㆑漢︀者︀、曰㆓熟 韃靼㆒、其 遠㆓於漢︀㆒者︀、曰㆓生 韃靼㆒。生 韃靼 有㆑二、曰㆑黑 曰㆑白。皆 事㆓女眞㆒。黑 韃靼、至㆓忒沒眞㆒叛㆑之、自 稱㆓成吉思 皇帝㆒」と云ひ、孟珙の蒙韃 備録に「韃靼 始起之地、處㆓契丹 之 西北㆒。其種有㆑三、曰㆑黑 曰㆑白 曰㆑生。今 成吉思 皇帝 及 將相 大臣、皆 黑 韃靼 也」と云ひ、又 彭大雅の黑韃 事略に「黑韃 之國、號㆓大 蒙古㆒」と云へり。黑 韃靼は、漢︀人の蒙古を呼べる名にして、之を黑と云へるは、蓋 衣服の黑きに由れり。然れども黑韃 事略に「其服右衽而方領、舊以㆓氈毳革㆒、新以㆓紵絲金線㆒、色用㆓紅紫紺綠㆒、紋以㆓日月龍鳳㆒、無㆓貴賤等差㆒」と云へば、黑衣の黑韃靼も、太宗の世に至りては、旣に文彩を尙ぶ風俗となれりしなり。)ホカ外にトホ遠ざかりてヲ居れ。カレラ彼等のキヨ淸きヨメ媳婦どもムスメ息女どもをモシ若くはト取りコ來させて、カレラ彼等のテアシ手足をアラ洗はせて、ウシ牛 ヒツジ羊のチ乳をモシ若くはシボ擠らしめん、タヾ只」とイ云ひき。そのトキ時 タヤン カン塔陽 罕 イ言はく「かくあらば、ナニ何かア有らん。カレラ彼等 モンゴル忙豁勒のトコロ處にユ往きて、カレラ彼等のヤナグヒ箭筒をビ必ずト取りモ持ちコ來ん」とイ云ひき。
§190(07:13:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
老將の諫をキ聽かざるタヤン カン塔陽 罕の狂愚
このコトバ言につき、コクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑 イ言はく「アア嗚呼、オホイ大なるコトバ言をイ言ふかな、ナムチダチ爾等。アア嗚呼、ヲヂナ懦きカン罕、ヨロ宜しからんや。ヒミツ祕密你兀惕渾にせよ(明譯ナムチ你ズ不㆑ベカラ可㆑イフ說㆓タイワヲ大話㆒。コノハナシヲ這話ナムチフタヽビ你再ナ休㆑イフ說)」とイ云ひき。コクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑にスヽ勸められ(諫められ)てあるに、トルビ タシ脫兒必 塔失〈[#「脫兒必 塔失」は底本では「脫兒必塔失」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§190(07:13:09)の漢︀字音訳「脫兒必-塔失」に倣い二語に分割]〉とイ云ふツカヒ使[194]をオングト汪古惕のアラクシ チギトクリ阿剌忽石 的吉惕忽哩にイ言ひてヤ遣るには「このヒガシ東にスコシ些のモンゴル忙豁勒ありとイ云はれたり。ナンヂ汝はミギ右のテ手となれ。ワレ我はこゝよりチカラ力をアハ幷せてカ彼のスコ少しのモンゴル忙豁勒のヤナグヒ箭筒をト取らん」とイ云ひてヤ遣りき。
そのコトバ言に、アラクシ チギトクリ阿剌忽石 的吉惕忽哩 コタ答へてイ言はく「ミギ右のテ手となることアタ能はず、ワレ我」とイ云ひてヤ遣りて、アラクシ チギトクリ阿剌忽石 的吉惕忽哩は、ユクナン月忽難︀とイ云ふツカヒ使もてチンギス カガン成吉思 合罕にイ言ひてヤ遣るには「ナイマン乃蠻のタヤン カン塔陽 罕は、ナムチ爾のヤナグヒ箭筒をト取りにコ來ん。ワレ我にミギ右のテ手となれとイ云ひてキ來ぬ。ワレ我はナ爲らず。イマ今 ワレ我 ナムチ爾にケイコク警吿してヤ遣りぬ。(明譯補足モシ若 ズバ不㆓隄防
テメエン ケエル帖篾延 客額兒(駱駝が原。親征錄 元史テメゲイ セン帖麥該 川、親征錄 また 帖木垓 川)にマキガリ圍獵して、トルキンチエウト禿勒勤扯兀惕をカコ圍みてヲ居る時、アラクシ チギトクリ阿剌忽石 的吉惕忽哩のヤ遣りたるユクナン月忽難︀なるツカヒ使 このシラセ報をイタ致しキ來ぬ。こ[195]のシラセ報につき、マキガリ圍獵のウヘ上にてスナハ便ち「いかにかせん、ワレラ我等」とイ云ひア合へれば、
オホ多くのヒト人 イ言はく「ワレラ我等のセンバ騸馬どもヤ瘦せたり。イマ今 ナニ何かせん、ワレラ我等」とイ云ひア合ひき。そのトキ時 オツチギン ノヤン斡惕赤斤 那顏(卽 帖木格 斡惕赤斤)イ言はく「センバ騸馬ともヤ瘦せたりとて、いかんぞイナ辭まれん。ワ我がセンバ騸馬どもはコ肥えたり。かゝるコトバ言をキ聞きて、いかんぞスワ坐られん」とイ云へり。マタ又 ベルグタイ ノヤン別勒古台 那顏 イ言はく「イ生きてヲ居るアヒダ閒にケニン家人 ヤナグヒ箭筒をト取られば、ウマ生きてナニ何のカヒ詮かア有らん。ウマ生れたるヲトコ丈夫、シ死なばマタ又 ヤナグヒ箭筒 ユミ弓とカバネ骸とヒト一つにフ臥さばヨ善からずや。ナイマン乃蠻のタミ民は、クニ國 オホキ大くタミ民 オホ多しとて、オホキ大なるコトバ言をイ言ひたり。ワレラ我等、このカレラ彼等のオホキ大なるコトバ言にヨ倚り、シユツバ出馬してユ往きて、カレラ彼等のヤナグヒ箭筒をト取らば、カタ難︀きことあらんや。ユ往斡都︀かば、カレラ彼等のあまた斡欒のバグン馬羣は、トヾ止まりてノコ殘らざらんや。カレラ彼等のキウシツ宮室斡兒朶格兒は、カラ空になりてノコ殘らざらんや。カレラ彼等のあまた斡欒のブシウ部眾は、タカ高きトコロ處にノガ遁れてノボ上らざらんや。カレラ彼等にこのかゝるオホキ大なるコトバ言をイ言はしめて、いかんぞスワ坐られん。シユツバ出馬せん、スナハ便ち」とイ云へり。
§191(07:18:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
オルヌウ ザン斡兒訥兀 山のハンガイ半崖のチウエイ駐營
ベルグタイ ノヤン別勒古台 那顏のコ此のコトバ言をヨ善しとして、チンギス カガン成吉思 合罕は、マキガリ圍獵をヤ罷めて、アブヂカ コテゲル阿卜只合 闊帖格兒(前の阿卜只阿 闊迭格兒)よりウゴ動きて、カルカ ガハ合勒合 河のオルヌウ ザン斡兒訥兀 山のハンガイ半崖にゲバ下馬して、(半崖は、蒙語ケルテガイ カダ客勒帖該 合荅。卷六の客勒帖該 合勒都︀惕〈[#「合勒都︀惕」は底本では「合勒 都︀惕」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§164(05:36:03)のローマ字音訳「qaldud-ta」に倣い修正]〉と義 同じ。卽ち忽亦勒荅兒を葬りたる處なり。親征錄には哈勒合 河 建忒垓 山、元史には建忒該 山とありて、斡兒訥兀なる山の[196]名を脫し、半の蒙語なる客勒帖該を山の名とせり。喇失惕も親征錄に同じ。この句に依りて考ふれば、成吉思 汗の圍獵したる帖篾延 客額兒も、冬籠したる阿卜只阿 闊迭格兒も、溯りて王罕の不意打を食ひし者︀者︀額兒 溫都︀兒も、みな今の車臣汗 部の東南境にありて、王罕は、合剌合勒只惕の戰の後に、未だ土兀剌の黑林の舊庭に還らざりしなり。洪鈞は「この哈勒合 河は、必ず東方の哈勒哈 河に非ず」と云へれども、祕史の下文に、客魯嗹 河に泝り撒阿哩 客額兒に到るとあれば、東方の地なること、何の疑ひ かあらん。)カズ數(人數)をカゾ數へア合ひて、セン千をそこにセン千とし(千人を以て千人組とし)て、
千戶 百戶 ハイシトウ牌子頭 六 チエルビン扯兒賓︀の任命
センコ千戶のクワンニン官人、ヒヤクコ百戶のクワンニン官人、ジツコ十戶のクワンニン官人をそこにヨサ任したり。(元史 兵志に「國初典㆑兵之官、視︀㆓兵數多寡㆒、爲㆓爵秩崇卑㆒、長㆓萬夫㆒者︀爲㆓萬戶㆒、千夫者︀爲㆓千戶㆒、百夫者︀爲㆓百戶㆒、」又「十人爲㆓一牌㆒、設㆓牌頭㆒」とあり。この牌頭は、後文にはみな牌子頭と云へり。然れば千戶の官人は、漢︀語にては只 千戶と云ひ、百戶の官人は、百戶と云ひ、十戶の官人は、牌子頭と云へるなり。蒙韃 備錄にも「韃人生㆓長鞍馬間㆒、起㆓兵數十萬㆒、略無㆓文書㆒。自㆓元帥㆒至㆓千戶百戶牌子頭㆒、傳㆑令而行」とあり。)チエルビン扯兒賓︀(侍從の官)をもそこにヨサ任したり。ドダイ チエルビ朶歹 扯兒必(卷三の多歹 扯兒必)、ドゴルク チエルビ朶豁勒忽 扯兒必〈[#ルビの「ドゴルク チエルビ」は底本では「ドコルク チエルビ」]〉(卷三の多豁勒忽 徹兒必)、オゲレ チエルビ斡格列 扯兒必〈[#ルビの「オゲレ チエルビ」は底本では「オゲレイ チエルビ」]〉(卷三の斡歌連 徹兒必、又 斡歌來 徹兒必)、トルン チエルビ脫侖 扯兒必、(親征錄 脫脫欒 闍兒必、脫の字一つ多し。元史 木華黎の傳 掇忽闌、哈八兒禿の傳 千戶 脫倫、石抹 也先の傳 脫忽闌 闍里必、石抹 孛迭兒の傳 奪忽闌 闍里必、忠義傳に伯八の父 脫倫 闍里必、晃合丹 氏、明里 也赤哥の子。別咧津は蒙格里克の子 脫命 扯兒必と云へり。明里も蒙格里克も、晃豁壇の蒙力克 額赤格なり。)ブチヤラン チエルビ不察㘓 扯兒必、(前には見えず。)シエイケト チエルビ雪亦客禿 扯兒必(卷三の雪亦客禿 徹兒必)、このムタリ六人のチエルビン扯兒賓︀をそこにヨサ任したり。セン千をセン千とし、ヒヤク百をヒヤク百とし、ジフ十をジフ十とし(千人百人十人の組合を作り)ヲ畢へて、ハチジフ八十のシユクヱイ宿衞(蒙語ケブデウル客卜帖兀勒)シチジフ七十のジヱイ侍衞(蒙語トルカウト土兒合兀惕、明譯 散班)を
そこにバンシ番士(番直の士、蒙語ケシクテン客失克田、明譯 護衞、元史 兵志ケセテイ怯薛歹)にエラ選びてイ入らしむるに、センコ千戶 ヒヤクコ百戶のクワンニン官人どものコ子どもオトヽ弟どもをツギ次にハクシン白身のヒト人のコ子どもオトヽ弟どもをイ入らしむるに、ギノウ技能ありシンサイ身材 ヨ好きモノ者︀どもをエラ選びてイ入らしめたり。
親軍 センプ千夫のヲサ長なるアルカイ カツサル阿兒孩 合撒兒
そこにアルカイ カツサル阿兒孩 合撒兒にオンシ恩賜して、「イウシ勇士どもをエラ選びてセンプ千夫とせよ。タヽカ戰ふ[197]ヒ日にはワ我がマヘ前にタ立ちてタヽカ戰へ。オホ多くのヒ日はワ我がジヱイ侍衞のバンシ番士となれ」とミコト勅ありき。
ジヱイ侍衞のヲサ長なるオゲレ チエルビ斡歌列 扯兒必
「シチジフ七十のジヱイ侍衞には、オゲレ チエルビ斡歌列 扯兒必〈[#ルビの「オゲレ チエルビ」は底本では「オゲレイ チエルビ」]〉 オサ長となりてヲ居れ。クドス カルチエン忽都︀思 合勒潺(卷三なる忽都︀思にて忽必來の弟)とハカ議りア合ひてヲ居れ」とイ云へり。
§192(07:20:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ジヱイ侍衞 シユクヱイ宿衞 等のシヨクシヤウ職掌
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「セントウシ箭筒士(蒙語ゴルチ豁兒赤、明譯オブル帶㆓ユミヤヲ弓箭㆒モノ的、元史 兵志ホルチ火兒赤、塔察兒の傳「火兒赤 者︀、佩㆓櫜鞬㆒侍㆓左右㆒者︀也。」)ジヱイ バンシ侍衞 番士(侍衞の番士なるべし。)カシハデ厨官(蒙語バウルチ巴兀兒赤、元史 兵志「親烹飪以奉㆓上飲食㆒者︀曰㆓博爾赤㆒。」)カドモリ門者︀(蒙語エウデンチ額兀顚赤)ウマヅカサ馬官(蒙語アクタチ阿黑塔赤)ども、ヒル晝はバンチヨク番直(蒙語ケシク客失克)にイ入りて、ヒ日 オ落つるマヘ前にシユクヱイ宿衞にワタ挪して、―[ウマヅカサ馬官は]センバ騸馬のトコロ處に―イ出でてヤド宿れ(明譯オブル帶㆓ユミヤヲ弓箭㆒的 ヒト人 マタ幷 サンパン散班 ゴヱイ護衞 カシハデ厨子 カドモルヒト把門人 ドモハ等、サセ敎㆓ヒルノウチ日裏 イリ入㆑ハンニ班 コ來㆒、イタリ至㆓ヒ日 オツルトキニ落時㆒、ヲ將㆓ツカサドレル管的 ジブツ事物㆒ワタシ交付㆓アタヘ與 シユクヱイノ宿衞 モノニ的㆒、イデサリヤドルベシ出去宿者︀。ゴトキハ若㆓ツカサドル管㆑ウマヲ馬モノヽ的㆒、マモレ守㆓著︀ウマヲ馬㆒)。シユクヱイ宿衞は、ヨル夜 ヘヤ室のマハリ周圍にフ臥すものにはフ臥させて、カド門にタ立つものにはリンチヨク輪直してタ立たしめよ。セントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞は、そのツギノアサ翌朝 ワレラ我等 ユ湯をノ飮まば、シユクエイ宿衞にツ吿げて、セントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞 カシハデ厨官 カドモリ門者︀ども、タヾタヾ只只そのシヨクブン職分をオコナ行へ。そのヰドコロ居處にヰ居よ。[シユクヱイ宿衞は、]ミヨ三夜 ミカ三日 バンチヨク番直するヒ日をツク盡して、タヾ只 マタ又 ハフ法に、ヨ依りミヨ三夜 ヤド宿り(下宿し)ア合ひて、カハ替りア合ひて、ヨル夜 シユクヱイ宿衞してヲ居れ。マハリ周圍にフ臥してヤド宿れ」とミコト勅ありき。かくセン千をセン千としヲ畢へて、チエルビ扯兒必をヨサ任して、ハチジフ八十のシユクヱイ宿衞 シチジフ七十のジヱイ侍衞をバンシ番士にイ入らしめて、アルカイ カツサル阿兒孩 合撒兒にイウシ勇士どもをエラ選び(選ばしめ)て、カルカ ガハ合勒合 河の[198]オルヌウ ザン斡兒訥兀 山のハンガイ半崖よりナイマン乃蠻のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬したるに、
§193(07:22:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ネズミ鼠のトシ年(我が土御門 天皇 元久 元年 甲子、宋の嘉泰 四年、金の泰和 四年、西紀 一二〇四年、成吉思 汗 四十三歲の時)、ナツ夏のハジメ首のツキ月のダイジフロク第十六のヒ日のアカ紅きヒカリ光に、トウ纛をマツ祭りてシユツバ出馬したるに、ケルレン ガハ客魯嗹 河にサカノボ泝り、ヂエベ者︀別 クビライ忽必來(親征錄 元史フビライ虎必來 ヂエベ哲別)フタリ二人をセンポウ先鋒としてユ行き、サアリ ケエル撒阿哩 客額兒にイタ到れば、カンカルカン ザン康合兒罕 山のイタヾキ頂にナイマン乃蠻のモノミ斥候そこにありき。(康合兒罕 山 は、露西亞の地圖に見ゆる布爾林 達班 嶺なるべし。康合兒罕と云ふ名は、今の地圖には見えざれども、その嶺の東なる古の撒阿哩 客額兒の地を袞古魯台 草地と云ひ、その嶺の西南を渾呼魯台 戈壁と云ひ、袞古魯も渾呼魯も康合兒に近ければ、古は、その嶺 又はその嶺の一部を康合兒罕と云ひしならん。)
ワレラ我等のモノミ斥候とオ逐ひア合ひて、ワレラ我等のモノミ斥候より、ヒトツ一匹のアヲウマ靑馬にア惡しきクラ鞍あるを、ナイマン乃蠻のモノミ斥候にト取られき。ナイマン乃蠻のモノミ斥候は、そのウマ馬をト取りてカタ語りア合へらく「モンゴル忙豁勒のセンバ騸馬 ヤ瘦せたり」とイ云ひア合ひけり。ワレラ我等の[イクサ軍]は、サアリ ケエル撒阿哩 客額兒にイタ到りて、そこにトヾ止まりて「いかにせん」とイ云ひア合へば、
そこにドダイ チエルビ朶歹 扯兒必は、チンギス カガン成吉思 合罕にケンゲン建言すらく「ワレラ我等はタヾ但 スクナ少くあり。スクナ少きがウヘ上にツカ疲れてキ來ぬ。かくもトヾ止まりてセンバ騸馬どもをア飽かせつゝ、このサアリ ケエル撒阿哩 客額兒にヒロ廣がりカエイ下營して、イノチ命あるだけのヒト人ゴト毎に(この間に「男の」と譯すべき語あり。文法上の關係 確かならず。)イツトコロ五處にヒ火をタ燒きて、ヒ火にてオドカ嚇さん。ナイマン乃蠻のタミ民はオホ多しとイ云はれたり。カレラ彼等のカン罕はイヘ家よりイ出でざりしヨワ弱き[ヒト人]とイ云はれたり。ヒ火にてマド惑はするアヒダ閒に、ワレラ我等のセンバ騸馬どももア飽けらんぞ。センバ騸馬どもをア飽かしめ、ナイマン乃蠻のモノミ斥候[199]をオ逐ひてオヒセマ追逼りて、カレラ彼等のチウグン中軍にア合はしめ、そのミダレ亂のウチ裏にタヽカ戰はば成らんか」とケンゲン建言したれば、このコトバ言をヨ善しとして、チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「かくスナハ便ちヒ火をタ燒かしめよ」とて、イクサビト軍士どもにガウレイ號令をツタ傳へたり。かくてサアリ ケエル撒阿哩 客額兒にヒロ廣がりカエイ下營して、イノチ命あるだけのヒト人[ゴト毎に]イツトコロ五處にヒ火をタ燒かしめたり。ヨル夜 ナイマン乃蠻のモノミ斥候はカンカルカン ザン康合兒罕 山のイタヾキ頂よりヨル夜あまたのヒ火をミ見て、「モンゴル忙豁勒を、スクナ少しとはイ云はざりしか。ホシ星よりオホ多きヒ火あり」とイ云ひ、タヤン カン塔陽 罕にア惡しきクラ鞍あるアヲウマ靑馬のコウマ小馬をオク送りてヤ遣りて、「モンゴル忙豁勒のイクサビト軍士どもサアリ ケエル撒阿哩 客額兒にミ滿つるまでカエイ下營したり。ヒル晝のウチ內にマ增したらんか。ホシ星よりオホ多きヒ火あり」とイ云ひてヤ遣りき。
§194(07:26:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
モノミ斥候のこのシラセ報にイタ到られて、タヤン カン塔陽 罕は カンガイ ザン康孩 山(親征錄ハンガイ ザン杭海︀ 山、元史 太祖︀紀 沆海︀ 山、世祖︀紀 十四 康里 脫脫の傳 杭海︀、今の杭愛 山)のカチル ウスン合池兒 兀孫(合池兒の水、親征錄ハデル ウスン ガハ哈只兒 兀孫 河)にありしが、このシラセ報をイタ致さるゝと、グチエルク カン古出魯克 罕〈[#ルビの「グチエルク カン」はママ。他の節︀ではすべて「グチユルク カン」。昭和18年復刻版もここだけ「グチエルク カン」]〉(親征錄 屈出律 可汗、又 曲出律 可汗、元史 屈出律 罕、抄思の傳 曲書律)なるコ子のトコロ處にツ吿げてヤ遣るには「モンゴル忙豁勒のセンバ騸馬どもヤ瘦せたり。ホシ星よりオホ多きヒ火ありとイ云へり。モンゴル忙豁勒 オホ多くア有り。イマ今 ワレラ我等 ア合ひヲ畢へば、ハナ離るゝことカタ難︀くならんか(明譯イマモシ今若ト與㆑カレ他ツラネバ連㆑ヘイヲ兵、ノチカナラズ後必ガタケン難︀㆑トケ解)。ア合含禿敦ひヲ畢へば、そのクロ黑合喇きメ目をマジロ瞬喜兒篾思きナ做さず、そのホヽ腮合察兒をサ刺合惕忽黑荅さるとも、クロ黑合喇きチ血 イ出合嚕づとも、サ避合勒塔里勒くることナ無きガウ剛合堂斤なるモンゴル忙豁勒にア合はば、ナ成らん[200]や。モンゴル忙豁勒のセンバ騸馬どもヤ瘦せたりとイ云はれたり。ワレラ我等は、ブシウ部眾にアルタイ ザン阿勒台 山(親征錄 案臺、元史 按臺)をコ越えさせシリゾ退かせウゴ動きて、イクサ軍をトヽノ整へて、カレラ彼等をイザナ誘ひてユ行きて、アルタイ ザン阿勒台 山のモト下にイタ到るまで
イヌ狗のタヽカ鬭ひをタヽカ鬭ひてユ行きて、ワレラ我等のセンバ騸馬どもはコ肥えてあり、ハラ腹をヒキオコ引起させ、モンゴル忙豁勒のセンバ騸馬どもをツカ疲れさせ、カレラ彼等のツラ面のウヘ上にミヅ水 カ注けん、ワレラ我等」とイ云ひてヤ遣りき。(阿勒台の東南幹山は、東に向ひて烏蘭郭馬 山となり、奇勒稽思 泊の北を繞り、又 東南に向ひ白勒克那克 科克依 山となり、又 東して杭愛 山の陽に接す。白勒克那克 科克依 山の南麓に今 烏里雅蘇台 城あり。塔陽 罕は、蓋その邊に駐牧せり。こゝに阿勒台 山と云へるは、その杭愛 山に接する邊を指せるなり。)
そのコトバ言につき、グチユルク カン古出魯克 罕 イ言はく「カレラ彼等にかくヲミナ婦人 タヤン塔陽 コヽロ心 オ怖ぢて、このコトバ言をイ言へり。モンゴル忙豁勒のオホ多きは、いづこよりかキ來けん。モンゴル忙豁勒のタイハン大半は、ヂヤムカ札木合とこゝにワレラ我等のトコロ處にあり。ハラミヲンナ孕婦坤都︀額篾のユマリ更衣のトコロ地合札兒にイ出合嚕でたることナ無き、クルマシタ車下古兒敦のコウシ犢のクサク草喫ふトコロ處にイタ到古嚕れることナ無きヲミナ婦人 タヤン塔陽は、コヽロ心 オ怖ぢて、このコトバ言をイ言ひておこせたるにアラ非ずや」とて、ツカヒ使にヨ依り、チヽ父をイタ痛むるまでヤマシ疚むるまで、イ言ひてヤ遣りき。このコトバ言につき、タヤン カン塔陽 罕は、オノレ己をヲミナ婦人とせらるべくイ言はれて、タヤン カン塔陽 罕 イ言はく「チカラ力ありユウ勇あるグチユルク古出魯克、イタ到りア合ひコロ殺︀しア合ふヒ日にカナラ必ずこのユウ勇をナ勿 ウシナ失ひそ。イタ到りあひア合ひヲ畢へば、ハナ離るゝことビ必ずカタ難︀くあるぞ」とイ云へり。
そのコトバ言につき、タヤン カン塔陽 罕のシタ下をツカサド管れるダイクワンニン大官人 ゴリ スベチ豁哩 速別赤(親征錄 元史 火力 速八赤)イ言はく「イナンチヤ ビルゲ カン亦難︀察 必勒格 罕なるのチヽ父[201]は、ドウトウ同等のテキ敵にヲトコ男のセナカ背、センバ騸馬のシリ臀をミ見せざりき。イマ今 ナムチ爾 アサハヤ朝早くスナハ便ち いかんぞコヽロ心 オ怖ぢたる、ナムチ爾。(「朝氣銳、畫氣惰、暮氣歸」と孫子 曰へり。今 早朝にして惰歸の氣あるは、恇怯 甚しきなり。)ナムチ爾をかくコヽロ心 オ怖づるをシ知りたらば、カトン合屯のヒト人にもあれども、ナムチ爾のハヽ母をグルベス古兒別速をツ伴れキ來てイクサ軍をヲサ治めしめざらんや。(親征錄「昔君父 亦年 可汗、勇戰不㆑回。士背馬後、未㆔嘗使㆓人見㆒也。今何怯邪。果懼㆑之、何不㆑令㆓菊兒八速 來㆒。」この譯は、簡にして質なり。元史は修飾を加へ「先王戰伐、勇進不㆑回。馬尾人背、不㆑使㆓敵人見㆒之。今爲㆓此遷延之計㆒、得㆑非㆓心中有㆒㆑所㆑懼乎。苟懼㆑之、何不㆑令㆓后妃來統㆒㆑軍也」と改め、頗る雅馴なる文となれり。)アヽ嗟 ヲシ惜けくもコクセウ サブラク可克薛兀 撒卜喇黑にオ老いられたり。いかにもワ我がイクサ軍のハフド法度はタイマン怠慢になれり。モンゴル忙豁勒のテンジ天時 キウン氣運とぞナ爲れるにアラ非ずや、アヽ嗚呼、オヂナ懦きタヤン塔陽、オクビヤウ臆病のゴト如くのみあり、ナムチ爾」とイ云ひて、そのヤナグヒ箭筒をウ打ちてワカ別れカ驅けサ去れり。
§195(07:31:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのトキ時 タヤン カン塔陽 罕 イカ怒りてイハ言く「シ死ぬるイノチ命、クルシ苦むミ身は、すべてヒト一つなるぞ(苦まんよりは死なん との意)。しかあらばタヽカ戰はん(明譯ヒトシヌル人死的 イノチ性命 クルシム辛苦 的 ミ身軀 スベテ都︀ オナジ一般。ナンヂラ您 シカ那般 イハバ說呵、ワレラ咱ムカヘユキ迎去ト與㆑カレ他 タヽカハン厮殺︀)」とイ云ひて、カチル合池兒のミヅ水よりウゴ動きて、タミル ガハ塔米兒 河(水道 提綱の他米勒 河、會典の圖の塔米爾 河)にシタガ沿ひユ行きて、オルゴン ガハ斡兒桓 河をワタ渡りて、ナク納忽のガケ崖のヒガシ東のスソ裾をス過ぎ、チヤキルマウト察乞兒馬兀惕にイタ到りてキ來つるトキ時、チンギス カガン成吉思 合罕のモノミ斥候 ミ見て、「ナイマン乃蠻 イタ到りてキ來つ」とイ云ふシラセ報をイタ致したれば、このシラセ報をイタ致さるゝと、
チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「オホ多きよりはオホ多く、スクナ少きよりはスクナ少くソンシツ損失になるぞ(多き乃蠻には死傷 多く、寡き蒙古には死傷 寡からん)」とイ云ひて、「カレラ彼等のムカ迎へにシユツバ出馬して、カレラ彼等のモノミ斥候[202]をオ逐ひて、イクサ軍をトヽノ整ふるに、
クサムラ叢[のゴト如き]ユ行きをユ行きてウミ海︀[のゴト如き]タチア立合ひをタチア立合ひて、ノミ鑿[のゴト如き]タヽカ戰ひをタヽカ戰はん」とイ云ひア合へり。(叢行きは、廣がり行くこと、海︀立合ひは、廣がれる陣立、鑿戰ひは、烈しき突︀擊なり。黑韃 事略に「其行軍。常恐㆑衝㆑伏、雖㆓偏師㆒、亦必先發㆓精︀騎㆒四散而出、登㆑高眺㆑遠、深哨㆓一二百里間㆒、掩㆓捕居者︀㆒、以審㆓左右前後之虛實㆒」と云へるは、卽ち謂はゆる叢行きなり。「其陣、利㆓野㆒戰、不㆑見㆑利不㆑進、動靜之間、知㆓敵强弱㆒、百騎環繞、可㆑裹㆓萬眾㆒、千騎分張、可㆑盈㆓百里㆒」と云へるは、卽ち謂はゆる海︀立合ひなり。「摧㆑堅陷㆑陣、全藉㆓前鋒㆒、衽㆑革當㆑先、例十之三」と云ひ、又「交㆑鋒之始、每以㆓騎隊㆒徑突︀㆓敵陣㆒。一衝纔動、則不㆑論㆓取寡㆒、長驅直入、敵雖㆓十萬㆒、亦不㆑能㆑支」と云へるは、卽ち謂はゆる鑿戰ひなり。)かくイ云ひて、チンギス カガン成吉思 合罕 ミヅカ自らセンポウ先鋒となりて、カツサル合撒兒にチウグン中軍をトヽノ整へさせて、オツチギン ノヤン斡惕赤斤 那顏にジウバ從馬をトヽノ整へさせたり。
ナイマン乃蠻は、チヤキルマウト察乞兒馬兀惕よりシリゾ退きて、ナク納忽のガケ崖のマヘ前なるヤマ山のスソ裾にヨ緣りてタ立ちき。かくてナイマン乃蠻のモノミ斥候をワレラ我等のモノミ斥候はオ逐ひて、ナク納忽のガケ崖のマヘ前なるカレラ彼等のタイ大 チウグン中軍にア遇ふまでオ逐ひてイタ到りき。かくオ逐ひてイタ到れるをタヤン カン塔陽 罕 ミ見て、ヂヤムカ札木合はそこにナイマン乃蠻とトモ共にシユツジン出陣してキ來 ア合ひて、そこにヲ居て、
タヤン カン塔陽 罕 ヂヤムカ札木合の問答
タヤン カン塔陽 罕はヂヤムカ札木合にト問ひけり。「カレラ彼等はいかに。オホ多きヒツジ羊をオホカミ狼 オ追ひてヲリ圈にイタ到るまでオ追ひてク來るがゴト如きは、これらはいかなるヒト人か かくオ追ひてキ來ぬる」とト問へり。
ヂヤムカ札木合 イ言はく「ワ我がテムヂン アンダ帖木眞 安荅、ヨ四つのイヌ狗をヒト人のニク肉にてヤシナ養ひて、クサリ鎖つけてツナ繫ぎて、ヲ居るなりき、カレラ彼等。ワレラ我等のモノミ斥候をオ追ひてキ來ぬるは、カレラ彼等なるぞ。カレラ彼等 ヨ四つのイヌ狗は、アカヾネ銅失咧門のヒタヒ額あり、ノミ鑿失兀赤のクチバシ嘴あり、キリ錐失不格のシタ舌あり、クロガネ鐵帖木兒のコヽロ心あり、クワンタウ環刀のムチ鞭あり、ツユ露失兀迭兒をノ喫みて、カゼ風にノ乘りてユ行く、[203]カレラ彼等。コロ殺︀阿剌勒都︀しア合ふヒ日は、ヒト人哈闌のニク肉をクラ喫ふ、カレラ彼等。イタ到古魯りア合ふヒ日は、ヒト人古溫のニク肉をカレヒ糧古捏速とす、カレラ彼等。クサリ鎖をト解かれて、イマ今 ツナ繫がれずしてヲ居るをヨロコ喜びて、かくヨダレ涎 タ垂れキ來ぬ、カレラ彼等」とイ云ひき。「それらヨ四つのイヌ狗、タレタレ誰誰はそれらか」とイ云へば、「ヂエベ者︀別、クビライ忽必來 フタリ二人、ヂエルメ者︀勒篾、スベエタイ速別額台 フタリ二人、それらヨタリ四人なり」とイ云ひき。タヤン カン塔陽 罕 イ言はく「タヾ但それらのシモビト下人よりトホ遠くタ立たん」とイ云ひて、シザ退りヒ引きて、ヤマ山をオ負ひてタ立てり。
ヲド躍りメグ繞るウルウト兀嚕兀惕 モンクト忙忽惕
そのウシロ後よりヲド躍りてメグ繞りてキ來ぬるものどもをミ見て、マタ又 タヤン カン塔陽 罕は、ヂヤムカ札木合にト問ひき。「カレラ彼等はいかに。アシタ朝額兒帖にハナ放てるコマ駒、ハヽ母額客のチ乳をス咂ひてハヽ母額客のマハ廻りをト疾くハシ走るコマ駒のゴト如く、いかんぞ かくメグ繞りキ來ぬる、カレラ彼等」とト問ひき。ヂヤムカ札木合 イ言はく「カレラ彼等は、ヤリ鎗赤荅あるヲトコ男をオ追只兀ひて、チ赤赤孫あるもの(生きたる人)をハ剝ぎにハ剝ぐ、クワンタウ環刀兀勒都︀あるヲトコ男をオ逐忽勒迭ひて、タフ倒兀納合してコロ殺︀してタカラ財兀卜脫納黑をハ剝ぎト取る、ウルウト兀嚕兀惕、モンクト忙忽惕とイ云はる、カレラ彼等。イマ今[ツナ繫がれ]ず[してヲ居るを]ヨロコ喜びて、かくヲド躍りてキ來ぬ、カレラ彼等」とイ云ひき。それよりタヤン カン塔陽 罕 イ言はく「タヾ但しかあらば、それらのシモビト下人よりトホ遠くタ立たん」とイ云ひて、マタ又 シザ退りヤマ山にノボ登りタ立てり。
「そのウシロ後よりキ來ぬる、ムサボ貪るタカ鷹のゴト如くヨダレ涎 タ垂れてスヽ前みてキ來ぬるは、タレ誰なる」と、タヤン カン塔陽 罕は、ヂヤムカ札木合にト問ひき。ヂヤムカ札木合 イ言はく「このキ來ぬるは、ワ我がテムヂン アンダ帖木眞 安荅。カレ彼のソウミ總身は、アカヾネ銅失咧木にてキタ鍛失列克迭へられたるもの、キリ錐失不格をサ刺すにスキマ隙閒 ナ無く、クロガネ鐵帖木兒にて[204]タヽ疊荅卜塔みあげたるもの、オホハリ大針帖別捏をサ刺すにスキマ隙閒 ナ無きワ我がテムヂン アンダ帖木眞 安荅、ムサボ貪るタカ鷹のゴト如く、かくヨダレ涎 タ垂れキ來ぬるのみ。ミ見たりや、ナンヂラ汝等。ナイマン乃蠻のシウ眾は「モンゴル忙豁勒をミ見ば、コヒツジ子羊のテイヒ蹄皮もアマ餘さじ」とイ云ひたりき。ナンヂラ汝等 ミ見よ」とイ云へり。(親征錄に「汝等 見㆓案荅 擧止英異㆒乎。乃蠻 語嘗有㆑言「雖㆓駁㆑革去㆒㆑皮、猶貪不㆑捨。」豈能當㆑之」と云へるは、こゝの語を譯して修飾を加へたるに似たれども、文は甚だ蹇拙なり。元史に「乃蠻 初擧㆑兵、視︀㆓蒙古 軍㆒、若㆓羖䍽羔兒㆒、意謂㆓蹄皮亦不㆒㆑畱。今吾觀㆓其氣勢㆒、殆非㆓往時㆒矣」とあるは、親征錄の文に似ずして、却て祕史の文に似たり。蓋 元史のこの條は、親征錄に據らずして、大德 七年に成れる太祖︀ 實錄に據り、その實錄は、修正 祕史の文を辭通りに譯してありしなるべし。)このコトバ言につき、タヤン カン塔陽 罕 イ言はく「タヾ但 オソロ畏し。ヤマ山にノボ登りタ立たん」とイ云ひて、ヤマ山にノボ登りてタ立ちけり。マタ又 タヤン カン塔陽 罕は、ヂヤムカ札木合にト問ふに、「マタ又そのウシロ後よりアツ厚く(大眾を率ゐて)キ來ぬるは、タレ誰なる」とト問へり。
ヂヤムカ札木合 イ言はく「ホエルン エケ訶額侖 額客は、ヒトリ一人のコ子をヒト人のニク肉にてヤシナ養ひてありき。ミヒロ三尋のミ身あり、サンサイ三歲のトウコウ頭口をクラ喫ひ、ミヘ三重のヨロヒ甲をキ被て、サンビキ三匹のキヤウギウ强牛をヒ拽きてク來るぞ。ヤナグヒ箭筒豁兒あるヒト人をスベ都︀豁脫剌てをノ嚥むとも、ノド喉豁斡來をサヽ碍へられず。マタ全古卜臣きヲトコ男をノ呑むとも、シンザウ心臓斡咧にサハ障らず。イカ怒阿兀兒剌れば、アンクア昂忽阿(箭の名)のヤ箭をヒ拽きてハナ放てば、ヤマ山阿兀剌をコ越阿魯思えてあるトタリ十人哈兒班 ハタタリ廿人のヒト人哈闌をウガ穿つほどにイ射る。タヽカ鬭客咧勒都︀ふテキ敵をヒロノ曠野客額兒をヘダ隔客禿思ててあるものをケイブル客亦不兒(箭の名)のヤ箭をヒ拽きてハナ放てば、ツラ連客勒乞ぬるほどにウガ穿つほどにイ射る(明譯ヲ將㆑ヒトツラネウガチトホス人連穿透)。オホイ大也客迭にヒ拽きてイ射れば、クヒヤクヒロ九百尋也孫札兀惕のトコロ地にイ射る。ヘラ減塔壇しヒ拽きてイ射れば、ゴヒヤクヒロ五百尋塔奔札兀惕のトコロ地にイ射る。ヒトビト人人古溫古溫よりタガ違ひ、グレルグ古咧勒古(蟒の一種)なるウハヾミ蟒にウマ生れたるヂユチ カツサル拙赤 合撒兒と[205]イ云はるゝは、カレ彼なるぞ」とイ云ひき。それよりタヤン カン塔陽 罕 イ言はく「タヾ但 シカ然あらば、ヤマ山のタカ高みをアラソ爭はん。ウヘ上へノボ登れ」とイ云ひて、ヤマ山にノボ登りタ立てり。マタ又 タヤン カン塔陽 罕は、ヂヤムカ札木合にト問ふに「カレ彼のウシロ後よりキ來ぬるは、タレ誰なる」とイ云ひき。
ヂヤムカ札木合 イ言はく「カレ彼は、ホエルン エケ訶額侖 額客のスエ末のコ子 オツチギン斡惕赤斤、カン肝ありとイ云はるゝなり。ハヤ早くネム睡りアカツキ曉にオ起き、クラヤミ黑闇巴嚕安よりもオク後れたることナ無く、タチドコロ立處巴亦荅勒よりもオク後れたることナ無し」とイ云ひき。タヤン カン塔陽 罕 イ言はく「シカ然あらば、ヤマ山のイタヾキ頂のウヘ上にノボ上らん」とイ云ひけり。
§196(07:42:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ヂヤムカ札木合は、タヤン塔陽にこのコトバ言をかくイ言ふと、ナイマン乃蠻よりハナ離れ、ワカ別れてイ出でて、チンギス カガン成吉思 合罕にハウコク報吿をイ入れてヤ遣るに、「アンダ安荅にイ言へ」とてイ言ひてヤ遣るに「タヤン カン塔陽 罕は、ワ我がコトバ言兀格にクラ昏兀窟惕古みて、ノボ上斡額迭りアラソ爭ひオドロ驚兀兒古きてアガ上れり。クチ口阿馬阿兒にてコロ殺︀阿剌黑荅されて、オソ怕阿余れてヤマ山阿兀剌にノボ登阿巴鄰りアガ上れり。アンダ安荅 カイシン戒愼せよ。カレラ彼等は、ヤマ山にアガ上れり。このヒト人どもは、ムカ逆ふるケシキ氣色なし。ワレ我こそは、ナイマン乃蠻よりハナ離れたれ」とイ云ひてヤ遣りき。チンギス カガン成吉思 合罕は、ヒクレ日晩になられて、ナク納忽のガケ崖のヤマ山をトリマ取卷きイクサダチ軍立してヤド宿れり。
そのヨル夜 ナイマン乃蠻はノガ躱れウゴ動かんとし、ナク納忽のウヘ上よりオ墜ちて、ウヘ上にウヘ上にカサ重なりア合ひて、ホネカミ骨髮をクダ碎きタフ倒れア合ひて、クチキ爛木[のゴト如く]タ立つまでオ壓しア合ひてシ死にア合ひけり。
タヤン塔陽のトラ虜︀はれ グチユルク古出魯克の走り 諸︀部落の降り
そのアシタ明朝 タヤン カン塔陽 罕をキハ窮めてトラ拿へたり。グチユルク カン古出魯克 罕は、ベツ別にヰ居たるにより、ワヅカ僅のヒト人にてソム背[206]きウゴ動きて、オヒカ追驅けらるゝトキ時、タミル ガハ塔米兒 河にチウエイ駐營しけり。そのダンエイ團營をタ立てかねて、ウゴ動きてハシ走りてイ出でてサ去れり。ナイマン乃蠻のタミ民のブラク部落をアルタイ ザン阿勒台 山のマヘ前にキハ窮めてヲサ收めたり。ヂヤムカ札木合とヰ居たるヂヤダラン札荅㘓、カタギン合塔斤、サルヂウト撒勒只兀惕、ドルベン朶兒邊、タイチウト泰赤兀惕、オンギラト翁吉喇惕 ラ等、そこにマタ又 クダ降れり。(元史は火力 速八赤の言を叙べたる次に「太陽 罕 怒、卽躍㆑馬索㆑戰。帝以㆓哈撒兒㆒主㆓中軍㆒。時 札木合 從㆓太陽 罕㆒來、見㆓帝軍容整肅㆒、謂㆓左右㆒曰㆓云云㆒、遂引㆓所部兵㆒遁去。是日帝與㆓乃蠻 軍㆒大戰、至㆑晡禽㆓殺︀ 太陽 罕㆒。諸︀部軍一時皆潰、夜走㆓絕險㆒、墜㆑崖死者︀、不㆑可㆓勝計㆒。明日、餘眾悉降。於㆑是 朶魯班 塔塔兒 哈荅斤 散只兀 四部、亦來降」と云へり。これは、太祖︀ 實錄と親征錄 卽ち聖武 開天記とに本づきて、修飾を加へたるものにて、文は甚だ雅健なれども、事實は原本 祕史と稍 違へり。來降の部落の名にも誤りあり。塔塔兒の諸︀部は、前に已に殲滅せられたれば、この中に加はらざる方 事實なるべし。)
タヤン塔陽のハヽ母 グルベス古兒別速をチンギス カガン成吉思 合罕は、ツ伴れコ來させてイ言はく「ナンヂ汝は、モンゴル忙豁勒のキソク氣息 ア惡しとイ云ひてヲ居らざりしか。イマ今いかでキ來ぬる、ナンヂ汝」とイ云ひて、チンギス カガン成吉思 合罕はメド娶りけり。
§197(07:45:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのネズミ鼠のトシ年 アキ秋、カラダル クジヤウル合喇荅勒 忽札兀兒〈[#「合喇荅勒 忽札兀兒」は底本では「合喇 荅勒 忽札兀兒」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§197(07:45:02)の漢︀字音訳「合喇荅勒-忽札兀舌剌」に倣い二語に結合]〉(合喇荅勒の源。親征錄デルオ ガハノミナモト迭兒惡 河源別咧津塔兒 河)にメルキト篾兒乞惕(親征錄 蔑兒乞 部、元史 蔑里乞 部)のトクトア ベキ脫黑脫阿 別乞(親征錄 元史 脫脫)とチンギス カガン成吉思 合罕 タイヂン對陣して、トクトア脫黑脫阿をウゴ動かして、サアリ ケエル撒阿哩 客額兒にカレ彼のジンミン人民 ヂウグ住具 ブラク部落をトラ虜︀へたり。(この撒阿哩 原は、蒙古の舊庭の地と異なるに似たり。塞北には同名の地 甚だ多し。親征錄には迭兒惡 河 源 不剌納矮胡 之 地とあり。)トクトア脫黑脫阿は、クド忽都︀ チラウン赤剌溫なるコ子どもと、ワヅカ僅のヒト人にて、ミ身をモテ以てノガ逃れてイ出でたり。かくメルキト篾兒乞惕のタミ民 トラ虜︀へらるゝトキ時、
ダイル ウスン荅亦兒 兀孫のムスメ女 クラン カトン忽闌 合屯の拜謁︀
ゴアス メルキト豁阿思 篾兒乞惕(卷二 卷三の兀洼思 篾兒乞惕、親征錄 兀花思 蔑兒乞 部)のダイル ウスン荅亦兒 兀孫(親征錄 元史ダイル ウスン帶兒 兀孫)は、ムスメ息女 クラン カトン忽闌 合屯(親征錄 忽蘭 哈敦、元史 后妃表 忽蘭 皇后)をチンギス カガン成吉思 合罕にミ見せまつらんとてツ伴れ[207]てキ來ぬるに、ミチ路にてイクサビト軍士どもにサマタ妨げられて、バアリン巴阿𡂰 のナヤ ノヤン納牙 那顏(卷五なる你出古惕 巴阿𡂰の納牙阿)にア遇ひて、ダイル ウスン荅亦兒 兀孫 イハ言く「このムスメ息女をチンギス カガン成吉思 合罕にミ見せまつらんとてキ來ぬ、ワレ我」とイ云ひき。そこにナヤ ノヤン納牙 那顏 イハ言く「ナンヂ汝のムスメ息女をワレラ我等 トモ俱にミ見せまつらん」とてトヾ止めけり。トヾ止むるトキ時、ダイル ウスン荅亦兒 兀孫に「ナンヂ汝 ヒトリ獨にてユ往かば、ミチ路にてイクサビト軍士どもアバ亂るゝトキ時に、ナンヂ汝をもイ活さず、ナンヂ汝のムスメ息女をもオカ亂すべし」とイ云ひて、ミカ三日 ミヨ三夜 トヾ止めけり。そこよりクラン カトン忽闌 合敦とトモ共にダイル ウスン荅亦兒 兀孫をヒキ率ゐて、トモ共にナヤ ノヤン納牙 那顏は、チンギス カガン成吉思 合罕にイタ致せり。それよりチンギス カガン成吉思 合罕は、ナヤ納牙に「いかんぞサマタ妨げてヰ居たる、ナンヂ汝」とて、ハナハ甚だイカ怒りて、キビ嚴しくシサイ仔細をト問ひて、「ハフ法にあてん」とてト問ひつゝあるトキ時、クラン カトン忽闌 合敦 イ言はく
「ナヤア納牙阿はイ言ひき。「チンギス カガン成吉思 合罕のタイクワンニン大官人なり、ワレ我は。ワレラ我等 トモ俱にナンヂ汝のムスメ息女をカガン合罕にミ見せまつらん。ミチ路にてイクサビト軍士どもオカ亂さん」とてスヽ勸めけり。イマ今 ナヤア納牙阿よりコト別なるイクサビト軍士どもにア遇はば、ラン亂に[マタ又は]セイ正にイ入りけんか(明譯モシ若ズ不㆘アヒ遇㆓テ著︀ ナヤニ納牙㆒トヾマリヰ畱住㆖バ呵、イマ如今 マタ也ズ不㆑シラ知㆓イカニヲ如何㆒)。このナヤア納牙阿にア遇ひたるは、ワレラ我等のサイハヒ幸となれり。イマ今 ナヤア納牙阿をト問ひタマ給ふに、カガン合罕 オンシ恩賜せば、アマツカミ上帝のイノチ命にてチヽハヽ父母のウ生みたるヒフ皮膚をト問ひタマ給はば」とマウ奏さしめけり。ナヤア納牙阿は、ト問はるゝトキ時「カガン合罕よりホカ外にワ我がカホ面は「ムカ向ふこと」ナ無くあるぞ。トツクニ外國合哩のタミ民のホヽ腮合察兒 ウツク美しき ムスメ女子 キサキ妃合屯、シリブシ臀節︀合兒含 ヨ好きセンバ騸馬にア遇へば、「オホギミ大君合罕のもの[それ]も」とイ云ひてヲ居りしぞ、ワレ我。これよりホカ外にワ我がコヽロ心あらば、シ死なん、ワレ我」とイ云ひき。チンギス カガン成吉思 合罕は、クラン カトン忽闌 合敦のゴンジヤウ言上をヨ善しとして、そのヒ日にスナハ便ちシラ審べコヽロ試みれば、クラン カトン忽闌 合敦のマウ奏したるにタガ違はずして、チンギス カガン成吉思 合罕は、クラン カトン忽闌 合敦をオンシヤウ恩賞してイツクシ愛みたり。ナヤア納牙阿のコトバ言 タガ違はずして、[チンギス カガン成吉思 合罕は]ヨ善しとして、「マコト實のコトバ言ある[ヒト人]なりき」とイ云ひ、「オホイ大なるコウタウ勾當をユダ委ねん」とてオンシヤウ恩賞せり。
成吉思 汗 實錄 卷の七 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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