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成吉思汗実録/巻の十一-1

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​チンギス カン ジツロク​​成吉思 汗 實錄​ ​マキ​​卷​​ジフイチ​​十一​。(明譯本の原の名は元朝 秘史 續集 卷一。次の卷も、これに準ふ。

​ゲンノ タイソウジフニネン​​元 太宗十二年​​バクホクノブンシン​​漠北文臣​ ​ムメイシ​​無名氏​​モテ​​以​​モウコブン​​蒙古文​​ウイウモジヲ​​委兀字​​ゾクセンス​​續撰​

​ミンノ コウブジフゴネン​​明 洪武十五年​​カンリンジコウ​​翰待講​​クワゲンケツ​​火原潔​​ラ​​等​​カンジニテ​​漢︀字​ ​オンヤクシ​​音譯​ ​ゾクゴニテ​​俗語​ ​ハウヤクス​​旁譯​

​ニツポンメイジサンジフクネン​​日本明治三十九年​​モリオカノ​​盛岡​​ナカミチヨ​​那珂通世​​モテ​​以​​ワブンヲ​​和文​​チヨクヤクシ​​直譯​ ​フス​​附​​カウチウヲ​​校注​


§247(11:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


金國征伐の始まり

 その​ノチ​​後​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヒツジ​​羊​​トシ​​年​我が順德 天皇 建曆 元年 辛未、宋の寧宗 嘉定 四年、金帝(衞の紹王)永濟 大安 三年、元の太祖︀ 六年、西紀 一二一一年、太祖︀ 五十歲の時なり。​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​​トコロ​​處​​シユツセイ​​出征​せり。​ブシウ​​撫州​​ト​​取​りて、(

國交の破裂

撫州は、金の西京路の一州にして、張家口の外、今の鑲黃旗 等 四旗の牧廠の西南 二十 淸里にありき。金國 征伐の始まりの事は、元史 太祖︀紀に元年 丙寅「帝始議金。初金殺︀帝宗親 咸補海︀ 罕、帝欲讎。會金降俘等、具言金主璟肆行暴虐、帝乃定議致討、然未敢輕動也。」木華黎の傳に「金之降者︀、皆言其主璟殺︀戮宗親、荒淫日恣。帝曰「朕出師有名矣。」」又 太祖︀紀に「五年庚午春、金謀來伐、築烏沙 堡。帝遣遮別殺︀其眾、遂略地而東。初帝貢歲幣于金、金主使衞王允濟受貢於靜州。帝見允濟、不禮。允濟歸、欲兵攻之。會金主璟殂、允濟嗣位、有詔至國、傳言拜受。帝問金使曰「新君爲誰。」金使曰「衞王也」帝遽南面睡曰「我謂中原[274]皇帝、是天上人做。此等庸懦、亦爲之耶。何以拜爲。」卽 乘馬北去。金使還言、允濟益怒、欲帝再入貢、就進場之帝知之、遂與金絕、益嚴兵爲備」と云ひ、金國志にも「大安元年、敵人聞金主新立、而喜曰「彼老懦無能、不畏也、」遂決意南侵」と云へり。釁端 開けたる後、金國の事情は、兩朝 綱目 備要に「允濟遣眾分屯山後、欲殺︀ 鐵木眞、然後引兵深入、會金之乣軍、有蒙古其事者︀。蒙古 遣人伺之得實。遂遷延不進」と云ひ、

太祖︀ 五年 庚午の出兵

金史 衞紹王 本紀に「大安二年九月丙午、京師戒嚴、上日出巡撫。百官請視︀朝、不允是歲、禁百姓、不說邊事。」續 通鑑 綱目に「金 納哈 買住 守北鄙、知蒙古 將邊、奔吿于金主云云金主以其擅生邊隙之、」また「蒙古 數侵掠金西北之境、其勢漸盛。金人皇皇、遂禁百姓傳說邊事」とあり。畢沅の續 資治 通鑑は金史 續綱目の文に據り「金承平日久、驟聞蒙古 用兵、人情恇懼、流言四起。九月丙午、中都︀戒嚴云云。旣而知蒙古 未嘗大擧、始解嚴、旋禁百姓、不說邊事」と書けり。諸︀書を參考するに、蒙古の南征は、實に五年庚午より始まりたれども、但 烏沙堡を取れるは、親征錄も金史 獨吉 思忠の傳 承裕の傳も、皆 明年 辛未の事とすれば、元史の五年に載せたるは誤れり。

太祖︀ 六年 辛未の親征

かくて六年 辛未には、親征錄に「秋、上始誓眾南征、克大水濼、又拔烏沙 堡及昌桓撫等州。大太子 朮赤、二太子 察合台、三太子 窩闊台、破雲內 東勝 武 宣寧 豐靖︀ 等州。金人懼棄西京」とあり。續綱目には「蒙古 侵擾雲中九原、連歲不休嘉定四年、遂破大水濼以進。金主始恐、四月、釋買住、而遣西北路招討使 粘合 合打和。蒙古 主不許。金主命平章政事 獨吉 千家奴、參知政事 完顏 胡沙、行省事于撫州、西京 畱守 紇石烈 胡沙虎、行樞密院事、以禦蒙古。秋、千家奴 胡沙 至烏沙 堡、未備、蒙古 兵奄至、拔烏沙 堡及 烏月 營。八月、蒙古 主乘勝破白登城、遂攻西京、凡七日。胡沙虎 懼、以麾下城突︀圍遁去。蒙古 主以精︀騎三千之。金兵大敗。追至翠屏口。遂取西京及桓撫州」と書けり。この文は、金國志 金史 本紀 獨吉 思忠(卽 千家奴)承裕(卽 完顏 胡沙)紇石烈 執中(卽 胡沙虎)の傳に據り檃括したるものなれば、親征錄よりは委しく、元史 太祖︀紀よりは確實なり。只「破白登城、遂攻西京、凡七日」と云へるは、察罕の傳なる野狐嶺の戰に「圍白樓七日拔之」とあるを誤會して採れるに似たり。また耶律 楚材の湛然 居士 集に進庚午 元曆表あり、「歲 在庚午、天啓宸衷、決志南征。辛未 之春、天兵南度、不五年、而天下略定。此天授也、非人力所能及也」と云へれば、太祖︀の親征は、春にして秋にあらず。親征錄の「秋、上始誓眾南征」は、固より非にして、衞紹王紀の大安 三年 四月に始めて太祖︀の來征を書きたるも、未是ならず。これのみは、太祖︀紀の六年 辛未 春「二月、帝自將南伐」と云へるに從ふべし。蓋 太祖︀の親征は春にあり、金帝の和を求め邊に備へたるは夏にあり、西京 諸︀州の取られたるは秋にあるなり。

元史の叙事の傎倒 複沓

然るに太祖︀紀この二三年の間の叙事は傎倒 複沓にして、その失 數ふるに暇あらず。まづ「二月、帝自將南伐、敗金將 定薛 於野狐嶺、取大水濼 豐利 等縣。金復築烏沙 堡。秋七月、命遮別、攻烏沙 堡及 烏月 營之」とある野狐嶺の戰は、豐利 等縣卽 撫州を取れる後にあるを、その前に記して、明年 壬申に至り、復 野狐嶺の戰を記し、撫州を取るは、烏沙堡を取れる後なるを、その前に記して、明年 復それを記し、烏沙堡を拔くは、今年 一たびなるを、已に去年に記し、今年に至り「金復築烏沙 堡」の一句を加へて、復 記したり。その病の本を尋ぬるに、太祖︀紀は、親征錄 金史 金國志 等の諸︀書を雜へ採り、咀嚼 融會せずして、筆に任せて列記したるに由れるなり。故に烏沙堡を取れる事は、或書に據りて、五年 春に記し、親征錄に據りて、復 六年 秋に記せり。撫州 卽[275]豐利 等縣を取れる事は、或書に據りて、六年 春に記し、親征錄に六年 秋として記せる「取昌桓撫等州」をば七年 春にまはせり。野狐嶺の戰は、察罕の傳の本づきたる記錄に據りて、六年 春に記し、親征錄に六年 秋として記したる獾兒觜 卽 野狐嶺の戰をば七年 春にまはせり。獾兒觜の戰に續きたる會合堡の戰は、金史 承裕の傳に據り、六年 八月に記し、地名も宣平の會河川として、親征錄には據らず。親征錄に據れば、七年 宣德府を破り、次に德興府に克ちたるを、元史は、宣德府に克つを八年 七月に記し、德興府を拔くをば、金國志に據りて、六年 九月に記し、又 或書に據りて、七年 九月に記し、その異名を用ひて奉聖州と云へるは、金國志に據れるにも似たり。さて後に親征錄の文を採りて、八年 七月 克宣德府の次に又 記し、親征錄の「後金人復收之、癸酉(八年)秋、上復破之」をば削れり。重複の最 驚くべきは、哲別の居庸關を破りたる事にて、金國志 金史 本紀に據りて、早くも六年 九月に記し、八年 七月に至り、親征錄に據り、懷來 居庸の戰を記せり。これらの重複あることを悟らずして元史を讀まば、何が何やら少も分らず、恰も諸︀葛 孔明の八陣 變化の中に入りたるが如くなるべし。

​ヤコレイ​​野狐嶺​の戰

​キツネタウゲ​​狐峠​​ヨ​​依​​コ​​越​えて、(蒙語​クネゲン ダバ​​忽揑堅 荅巴​忽揑堅は狐、荅巴は峠なり。漢︀名は野狐嶺と云ひ、直隷 宣化府 萬全 縣の西北 三十 淸里、張家口の外に在り。畿輔 通志に「勢極高峻、風力猛烈、雁飛遇風輒墮地」とあり。この峠は、たゞ越えたるに非ず。親征錄に「上之將撫州也、金人以招討 九斤 監軍 爲奴 等大軍、設備於野狐嶺、又以參政胡沙軍爲後繼。契丹 軍帥、謀謂九斤曰「聞彼新破撫州、以所獲物賜軍中、馬牧於野。出不虞之際、宜速騎以掩之也。」九斤 曰「此危道也。不馬步俱進、爲計萬全。」上聞金馬至、進拒獾兒 嘴。(この閒に金の使 石抹 明安の降れることを記せり。)遂與九斤戰、大破之。其人馬蹂躪死者︀、不勝計。因彼、復破胡沙 軍於會合堡。金人精︀銳、盡沒於此」とあり。九斤は、太祖︀紀に紇石烈 九斤、察罕の傳に定薛とあり。爲奴は、喇失惕の史に斡奴とあり。胡沙は、金史 列傳の承裕なり。獾兒嘴は、野狐嶺の北の口にあり。會合堡は、金史 本紀の會河堡にして、今の萬全縣の西に在りき。金國志には灰河、承裕の傳には會河川、木華黎 耶律 阿海︀の傳には澮河と書けり。木華黎の傳は、この戰の功を專に木華黎に歸して、「金兵號四十萬、陣野狐嶺北。木華黎 曰「彼眾我寡、弗死力戰、未破也。」率敢死士、策馬橫戈、大呼陷陣。帝麾諸︀軍竝進、大敗金兵、追至澮河、殭尸百里」と云へり。

會河堡の戰

會河堡の戰は、金史 本紀に「大安 三年 八月、千家奴 胡沙 自撫州退軍、駐宣平。九月、敗績于 會河堡。」承裕の傳に「八月、大元兵至野狐嶺、承裕 喪氣、不敢拒戰、退至宣平、云云。其夜南行。大元兵踵擊之。明日至會河川、承裕 兵大潰。承裕 僅脫身入宣德」とあり。宣平は、金の西京路 宣德州の屬縣にして、今の直隷 宣化府 懷安縣の東北にありき。撫州 野狐嶺 會河堡の戰は、親征錄 蒙古 集史 金國志 金史 本紀 諸︀傳みな太祖︀ 六年 辛未にあるを、元史 本紀は會河の戰のみを正しく六年 辛未に記し、撫州 野狐嶺の戰は、みな誤りて六年 辛未 七年 壬申の二所に記し、速不台 石抹 明安の傳は、誤りて壬申の年とし、木華黎の傳に至りては、壬申の年にある宣德 德興の戰を辛未として前に記し、辛未の年にある撫州 野狐嶺 澮河の戰を壬申として後に記せり。耶律 阿海︀の傳に烏沙堡 宣平 澮河の戰を辛未としたるは、善けれども、その年の內に「癸酉、拔宣德德興」の前に「遂出居庸、耀兵燕北」と書けるは非なり。

宣德 德興の攻め取り

​セントクフ​​宣德府​​ト​​取​りて、(親征錄に「壬申(太祖︀ 七年)、[276]宣德府、至德興府、失利引卻。四太子 也可 那顏、赤渠 駙馬率兵、盡克德興境內諸︀堡而還。後金人復收之。癸酉(太祖︀ 八年)秋、上復破之」とあり。宣德府は、金の西京路 宣德州にして、元の初 陞せて宣寧府とし、世祖︀の時 宣德府と改めて上都︀路に隸せり。今の直隷 宣化府なり。太祖︀のそれを破れるは未府とならざりし時なれば、府と云ふべき筈なし。喇失惕の史に宣德州と云へるを見れば、修正 祕史には州とありけんを、親征錄の撰者︀は、當時の稱に依り府と書けるなり。この祕史の原本にも必ず州とありしならめど、明の譯人は、宣德府の名を聞き慣れ居たるに由り、ふと音譯を誤りたるならん。德興府は、遼の奉聖州にして、金の時 德興府と改め、西京路に隸し、元の世祖︀の時 復 奉聖州とし、宣德府に隸せり。今の直隷 保安州なり。四太子は、第四の皇子 拖雷、也可 那顏は、大官人の義にして、拖雷の號なり。赤渠 駙馬は、卷八の赤古古咧堅なり。

​ヂエベ​​者︀別​ ​グイグネク​​古亦古捏克​の先鋒

​ヂエベ​​者︀別​​グイグネク バアトル​​古亦古捏克 巴阿禿兒​ ​フタリ​​二人​​センポウ​​先鋒​​ヤ​​遣​りたり。(この戰に者︀別の大に働きたる旁證としては、元史 耶律 阿海︀の傳に「敕左師 闍別、略地漠南、阿海︀ 爲先鋒。辛未、破烏沙 堡、鏖戰宣平、大㨗澮河、遂出居庸、耀兵燕北云云」とあり。古亦古揑克は、何人とも知れず。親征錄 壬辰(太宗 四年)の處に貴由 拔都︀とある人ならんか。もし然らば、元史 列傳に「月魯帖木兒、卜領勤 多禮伯臺 氏。曾祖︀ 貴裕、事太祖︀、爲管領 怯憐口 怯薛 官」とある貴裕も、その人なるべし。多禮伯臺は、朶兒別惕にして、卜領勤は、朶兒別惕の分部の名なり。​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​イタ​​到​りて、(漢︀名 居庸關、今の順天府 昌平州の西北、直隷 宣化府 延慶州の東南にあり。

​キヨヨウクワン​​居庸關​​フセ​​禦​

​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​タウゲ​​峠​​フセ​​禦​がれて、(昌平州の西北 二十四 淸里に居庸の南口あり、南口より十五 淸里 上れる所に關城あり、又 八 淸里に上關あり、上關より十七 淸里に延慶州の八達 嶺あり、嶺の上に城あり、元人はそれを居庸の北口と云へり。卽 察卜赤牙勒の峠なり。昌平 山水記に「自八達 嶺、下視︀居庸關、若瓶、若井。昔人謂、居庸之險、不關城、在八達 嶺也」と云へり。金人 守禦の事は、親征錄に「時金人塹山築壁、悉力爲備、」札八兒 火者︀の傳に「金人恃居庸之險、冶鐵鋼關門、布鐵蒺藜百餘里、守以精︀銳」とあり。

縉山の戰

そこに​ヂエベ​​者︀別​ ​イハ​​言​く「​カレラ​​彼等​​イザナ​​誘​ひて​ウゴ​​動​かして​コ​​來​させんとそこに​コヽロ​​試​みん」と​イ​​云​ひて​カヘ​​回​りぬ。​カヘ​​回​られて、​キタト​​乞塔惕​​イクサビト​​軍士​ども​オ​​追​はんとて、​カハ​​河​ ​ヤマ​​山​​ミ​​滿​つるまで​オ​​追​ひて​キ​​來​ぬ。​セントクフ​​宣德府​​クチバシ​​觜​山の鼻)に​イタ​​至​りて、​ヂエベ​​者︀別​ ​ウシロム​​後向​​カヘ​​飜​れり。​フル​​奮​ひて​ツ​​衝​きて、​ツヾ​​續​きて​ク​​來​​テキ​​敵​​ヤブ​​敗​れり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​チウグン​​中軍​ ​ツヾ​​續​きて、​キタト​​乞塔惕​​ウゴ​​動​かして、​カラ キダト​​合喇 乞荅惕​契丹 卽 合喇 乞丹の複稱)、​ヂユルチエト​​主兒扯惕​女眞 卽 主兒臣の複稱)、​ヂユイン​​主因​卷一に見えたる種族)の​ヲヲ​​雄雄​しく​タケ​​猛​​イクサ​​軍​​ヤブ​​敗​りて、​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​[277]​イタ​​至​るまで​クチキ​​爛木​​ツモ​​積​れる​ゴト​​如​​コロ​​殺︀​して、(親征錄「癸酉、上復破之」の續きに「遂進軍至懷來。帥高琪、將兵與戰。我軍勝、追至北口、大敗之。死者︀不勝計」とあり。帥の上に脫字あり。元史 本紀には金の行省 完顏 綱 元帥 高琪とあり。高琪は、金史の朮虎 高琪なり。この時 金軍の總督は、完顏 綱にして、完顏 綱 徒單 鎰 朮虎 高琪の傳にみな「綱行省事於縉山、大敗」とあり。高琪は、この時 鎭州の防禦使にて元帥 右都︀監を權して居たれども、蒙古 人は元帥と云ひたるなり。懷來は、遼の奉聖州の屬縣、金の德興 府 嬀川縣、元の宣德府 奉聖州の屬縣、今の直隷 宣化府 懷來縣なり。錄は元代の名を以て記せり。北口は、卽 居庸の北口なり。縉山は、金の德興府の屬縣、今の宣化府 延慶州なり。

​キヨヨウクワン​​居庸關​の攻め破り

​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​セキ​​關​​ヂエベ​​者︀別​ ​ト​​取​りて、​タウゲ​​峠​〈[#ルビの「タウゲ」は底本では「トウゲ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉どもを​ウバ​​奪​ひて​コ​​越​えて、(この文に據れば、北口より南口に出でたる如くなれどもさにあらず。親征錄に「時金人塹山築壁、悉力爲備。上畱怯台 薄察 等、頓軍拒守、遂將別眾西行、由紫荆口出。金主聞之、遣大將 奧敦、將兵拒隘、勿使平地。比其至、我眾度關矣。乃命哲別、率眾 攻居庸南口、出其不備破之、進兵與怯台 薄察 軍合」とあれば、南口より倒に北口に攻め上りたるなり。怯台は、卽 客台、八十八 功臣の第五十七、兀嚕兀惕の主兒扯歹の子なり。太祖︀紀に可忒と書けり。薄察は、太祖︀紀に薄刹とあり。趙柔の傳に「歲癸酉、太祖︀遣兵破紫荆關、柔以其眾降。行省 八札 奏聞、以柔爲涿易二州長官、佩金符」とある八札なるべしと沈曾植は云へり。紫荆口は、卽 紫荆關にて、直隷 易州の西 八十 淸里 紫荆嶺の上にあり。奧敦は、太祖︀紀に奧屯とあり。金史 章宗紀 衞紹王紀 李英の傳に烏古孫 兀屯とある人なるべし。元史は錄の文を節︀錄したれども、叙事 明瞭ならず。

​リヨウコダイ​​龍虎臺​​チウヒツ​​駐蹕​

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​シラデク​​失喇迭克​​ゲバ​​下馬​せり。(失喇迭克は、漢︀名 龍虎臺、昌平州の西にあり。昌平 山水記に「居庸關 南、地勢高平如臺、廣二里、袤三里。元時、車駕巡幸上都、皆駐蹕於此。」畿輔 通志に「龍虎臺、在昌平州 西二十里。云云。舊志、臺在舊縣西十里、去京師百里、當居庸關之南」とあり。この臺は、いはゆる臺地にて、樓臺の臺にあらず。

​チウト​​中都︀​の城攻め

​チウト​​中都︀​​セ​​攻​めて、(中都︀は、今の淸京にして、遼 南京と云ひ、金 中都︀と云ひ、元の世祖︀ 大都︀と改め、明の初 北平と云ひ、成祖︀ 北京と改め、淸の世祖︀ 定めて京師とし、俗には今も北京と云ふ。蒙文には中都︀とあるを、語譯には大都︀、文譯には北平と書けり。洪武の史臣、後の名を用ひて追稱したるなり。親征錄に「旣而又遣諸︀部精︀兵五千騎、合怯台 哈古 二將中都︀。上自率兵攻涿易二州、卽日拔之」とあり。怯台は、卽 兀嚕兀惕の客台、哈台は卽 合歹 古咧堅、八十八 功臣の末より第四に見えたり。涿易は、皆 金の中都︀路の屬州、涿州は今 順天府に隸し、易州は、直隷の直隸州なり。蒙古の關に入りたるは、太祖︀ 八年 癸酉の秋にして、金史 宣宗紀 貞祐︀ 元年(卽 太祖︀ 八年)十月「大元兵下涿州」とあれば、關に入りたる月に直に涿州を拔きたるに非ず。また卽日 二州を拔くは、いかにも速すぎたるに、喇失惕の史には「涿州を改めて二十日にて破れり」とあれば、錄の卽の字は、誤寫なるかも知れず。

河北 山西 山東の侵掠

​クニグニ​​郡郡​​シロ​​城​どもに​イクサ​​軍​​ヤ​​遣​りてて​セ​​攻​めさせたり。(親征錄に「乃分軍爲三道。大太子二太子三太子爲右軍、循太行而南、破保州 中山邢洛磁相輝衞懷孟等州、棄[278]定威州境、抵黃河、大掠而還。哈撒兒 及 斡津 那顏 拙赤䚟 薄刹 爲左軍、沿東海︀、破灤薊等城而還。上與四太子、馭諸︀部軍、由中道、遂破雄莫 河閒 開淸滄景獻 濟南 濱棣益都︀等城。棄東平大名攻、餘皆風而拔。下令北還。又 遣木華黎、回攻密州、拔之。上至中都︀、亦來合」とあり。哈撒兒は、皇弟 拙赤 合撒兒なり。斡津 那顏は、太祖︀紀に斡陳 那顏とあり、翁吉喇惕の阿勒赤 古咧堅の子、德 薛禪の孫にして、元史 特薛禪の傳にその名 見えたり。拙赤䚟は、兀嚕兀惕の主兒扯歹なり。薄刹は、卽 薄察なり。孛囉忽勒の從孫 塔察兒 一名 倴盞は、薄察と音近きに由り、沈曾植は、薄察は塔察兒ならんと疑ひたれどもいかゞにや。太祖︀紀は、この三道の軍を叙べて、右軍は「取保遂 安肅 安定邢洛磁相衞輝懷孟、掠澤潞遼沁 平陽 太原 吉隰、拔汾石嵐忻代武等州而還、」左軍は「取薊州 平灤 遼西 諸︀郡而還、」中軍は「取雄霸莫安 河閒 滄景獻深祁蠡冀恩濮開滑博濟 泰安 濟南 濱棣 益都︀ 淄濰 登萊 沂等郡、復命木華黎、攻密州、屠之。云云。帝至中都︀、三道兵還、合屯大口。是歲、河北郡縣盡拔、唯中都︀通順 眞定 淸沃 大名 東平 德邳海︀州十一城不下」とありて、親征錄より委し。金史 宣宗紀を案ずるに、貞祐︀ 元年(太祖︀ 八年 癸酉)十一月、大元の兵 觀州を徇へ、(金の觀州は、卽 元の景州なり。)又 河閒府 滄州を徇へ、二年(太祖︀ 九年 甲戌)正月 辛未、彰德府を徇へ、(金 元の彰德府は、卽 古の相州なり。)又 益都︀府を徇へ、乙未、懷州を徇へ、二月 壬辰、嵐州を徇へたること見えて、末に「時山東河北諸︀郡失守、惟 眞定 淸沃 大名 東平 徐邳海︀數城僅存而已。河東州縣、亦多殘燬」とあれば、三道の侵掠は、癸酉の十一月に始まりて、甲戌の二月に終りたるなり。親征錄 元史にその時月を明にせざるに由り、金史に據りて考へ見たり。又 金史 李英の傳に「貞祐︀ 三年 三月、英自淸州糧運、救中都︀、」宣宗紀にも、その年「七月、詔河閒孤城、移其軍民、就粟淸州」とあれば、淸州は未 殘破せられざりき。親征錄 中軍の破れる諸︀城の中に淸州あるは非なり。淸は、滑の誤ならん。元史は「十一城不下」の中に、金史は「數城僅存」の中に、いづれも淸州あり。

​トウシヤウ​​東昌​の不意打ち

​ヂエベ​​者︀別​をば​トウシヤウ​​東昌​​シロ​​城​​セ​​攻​めさせに​ヤ​​遣​りたり。​トウシヤウ​​東昌​​シロ​​城​​イタ​​到​りて、​セ​​攻​めて​ト​​取​りかねて、​カヘ​​回​りて​ムトマリ​​六宿​​トコロ​​地​​イタ​​到​りて、​ユダン​​油斷​せさせて、さて​カヘ​​回​​フル​​奮​ひ、​ウマ​​馬​​テ​​手​​ヒ​​牽​き(蒙語​カルコトルタン​​合兒闊脫勒壇​明譯​ゴトニ​​每​​ヒトヒキ​​人牽​​イツピキノトモウマヲ​​一匹從馬​)、​ヨル​​夜​ ​ケンコウ​​兼行​して、​ユダン​​油斷​​ヲ​​居​​トコロ​​處​​イタ​​到​りて、​トウシヤウ​​東昌​​シロ​​城​​ト​​取​りき。(今の山東 東昌府は、元史 地理志に「唐博州、宋隸河北東路、金隸大名府、元初隷東平路、至元四年、析爲博州路、十三年改東昌路」とありて、

元の初に無かりし​トウシヤウ​​東昌​

東昌の名は、元の世祖︀の時より始まりたれば、太祖︀の時その名なきのみならず、太宗の史臣もその名を書くべき由なし。然らばこの東昌の字は、明の史官の音譯を誤れるなるべし。

修正 祕史の東京

親征錄には、辛未(太祖︀ 六年)の秋、西京路の諸︀州を破れる次に「又遣哲別眾取東京。哲別 知其中堅、難︀眾墮城、卽引退五百里。金人謂我軍已還、不復設備。哲別 戒軍中、一騎牽一馬、一晝夜馳還、急攻、大掠之以歸」と云ひ、喇失惕もこれに同じければ、修正 祕史には東京とありしなり。太祖︀紀には、七年 壬申の末に月日まで揭げて「冬十二月 甲申、遮別[279]東京拔、卽引去、夜馳還、襲克之」と云ひ、吾也而の傳には、逸︀早くも太祖︀ 五年に「吾也而 與折不 那演、克金東京功」と云ひ、年月は合はざれども、その東京としたるは、いづれも親征錄に本づきたるなり。

東京を攻むる暇なき​ヂエベ​​者︀別​

然れども東京を取れる人は、實は者︀別に非ず。耶律 阿海︀の傳に、者︀別の先鋒となりて、烏沙堡 宣平 澮河の戰より「拔宣德德興諸︀郡、乘勝次北口、攻下紫荆關」まで、阿海︀は常に者︀別と共に働きたる由 見ゆれば、者︀別は常に大軍に先だちて轉戰したるなり。者︀別は、いかに戰馬の如く駿速なりとも、何の暇ありてか北京路を踰えて徑に東京を攻めらるべき。

遼東を經略せる按陳

耶律 畱哥の傳に「歲壬申(太祖︀ 七年)太祖︀命按陳 那衍軍至遼東。畱哥 率所部之、共破金軍。帝召按陳還、而以可特哥畱哥其地。癸酉(八年)春、眾推畱哥遼王、云云」とあれば、始めて遼東を經略したる者︀は、阿勒赤 那顏と可特哥とにして、者︀別は與らず。八年 甲戌に至り、

東京を取れる​ムホアリ​​木華黎​

木華黎は命を受けて、諸︀軍を統べて遼東を征し、九年 乙亥に裨將 蕭 也先は計を以て東京を平定したること、木華黎の傳に見え、蕭 也先 卽 石抹 也先の傳にも、木華黎に從ひて先鋒となり、奇計を用ひて東京を降したることを委しく叙べたれば、東京を取れる者︀は、木華黎 也先にして、者︀別に非ず。然らば者︀別の取れるは、東昌にも非ず、東京にも非ず、いづこなりけん。

東勝の奇功

太祖︀ 六年に取れる西京路 諸︀州の內に東勝州あり、その地は、金の西京 今の山西 大同府の西北に在りき。者︀別の奇功を立てたるは、疑はくはその地ならん。蓋 祕史の原本には東勝とありしを、明人は誤りて東昌と音譯して、元の初に東昌なきことに心附かざりしなり。修正 祕史は誤りて東京とし、親征錄 集史 元史みなそれに依りて、いづれも東京を取れるは者︀別に非ざることに心附かざりしなり。


§248(11:04:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


完顏 承暉の請和の建議

 ​ヂエベ​​者︀別​は、​トウシヤウ​​東昌​​シロ​​城​​ト​​取​りて​カヘ​​回​りて​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ア​​合​へり。(親征錄に據れば、者︀別の奇功を立てたるは、太祖︀ 六年 西京路の諸︀州を取れる時なれば、回りて太祖︀に合へるは、西京路の或地にて合へるなり。​チウト​​中都︀​​セ​​攻​められて、​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​ダイクワンニン​​大官人​ ​ワンキン シヨウジヤウ​​王京 丞相​、(この阿勒壇 罕は、金の宣宗なり。太祖︀ 八年 癸酉の八月、金帝(衞の紹王)永濟は、紇石烈 執中に弑せられ、章宗の庶兄 豐王 珣 立てられたり。これを宣宗と云ふ。王京は、完顏の轉なり。王京 丞相は、親征錄 元史に丞相 完顏 福︀興とあり、金史に完顏 承暉として傳あり。承暉、本の名は福︀興にして、この時 平章政事 兼 都︀元帥となり、尋で右丞相に進みたり。​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​ケンギ​​建議​しけらく「​アマツカミクニツカミ​​天地​​ミコト​​命​ある​トキ​​時​​タカミクラ​​大位​​カハ​​代​​トキ​​時​ ​イタ​​至​れり。​モンゴル​​忙豁勒​ ​ハナハダ​​甚​ ​チカラ​​力​あり、​キ​​來​​ワレラ​​我等​​ヲヲ​​雄雄​しく​タケ​​猛​​カラ キタト​​合喇 乞塔惕​〈[#「合喇 乞塔惕」は底本では「合喇乞塔惕」。前述、巻の一§53の割り注に倣い修正。以後すべて同じ]〉 ​ヂユルチエト​​主兒扯惕​ ​ヂユイン​​主因​​キンエウ​​緊要​なる​イクサ​​軍​​ヤブ​​敗​りて、​ツ​​盡​くるまで​コロ​​殺︀​しけり。​タノミ​​賴​ある​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​をも​ウバ​​奪​ひて​ト​​取​りけり。​イマ​​今​ ​ワレラ​​我等​ ​フタヽビ​​再​ ​イクサ​​軍​​トヽノ​​整​へて​イダ​​出​さば、​フタヽビ​​再​ ​モンゴル​​忙豁勒​​ヤブ​​敗​られ[280]ば、​カナラズ​​必​ ​シロジロ​​城城​にて​ツイ​​潰​えん、​カレラ​​彼等​​カヘツ​​却​​ワレラ​​我等​​ヲサ​​收​めば​キ​​肯​かず、​ワレラ​​我等​​テキ​​敵​となりて、​トモ​​伴​とならざらん、​カレラ​​彼等​​アルタン カン​​阿勒壇 罕​ ​オンシ​​恩賜​せば、​モンゴル カン​​忙豁勒 罕​​イマ​​今​​ウチ​​內​​クダ​​降​らんと​サウダン​​相談​せん。​サウダン​​相談​​イ​​入​りて、​モンゴル​​忙豁勒​​シリゾ​​退​けば、​シリゾ​​退​けたる​ノチ​​後​に、​マタ​​復​ ​ベツ​​別​​カンガ​​考​へ、​ワレラ​​我等​そこに​ハカ​​議​​ア​​合​はんぞ。​モンゴル​​忙豁勒​​ヒト​​人​ ​センバ​​騸馬​も、​チ​​地​ ​ア​​合​はずして​エヤミ​​疫病​​ヲ​​居​ると​イ​​云​はれたり。​カレラ​​彼等​​カン​​罕​​ヒメミコ​​女子​​アタ​​與​へん。​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​ドンス​​緞子​ ​タカラ​​財​​イクサ​​軍​​ヒト​​人​​オモ​​重​くいだして​アタ​​與​へん。​ワレラ​​我等​​コ​​此​​サウダン​​相談​​イ​​入​らざるをいかで​シ​​知​られん」と​ケンギ​​建議​しければ、

金の宣宗の屈服

​アルタン カン​​阿勒壇 罕​は、​ワンキン シヤウジヤウ​​王京 丞相​​コ​​此​​コトバ​​言​​ヨ​​善​しとして、「かく​スナハチ​​便​ ​ナ​​爲​れ」とて、​クダ​​降​らんと、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​コウシユ​​公主​​ナ​​號​ある​ヒメミコ​​女子​​イダ​​出​して、​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​ドンス​​緞子​ ​タカラ​​財​もて​イクサ​​軍​​ヒト​​人​​チカラ​​力​​シ​​知​らしむべく、​チカラカギリ​​力限​ ​チウト​​中都︀​より​イダ​​出​して、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トコロ​​處​​ワンキン シヤウジヤウ​​王京 丞相​ ​イタ​​致​して​キ​​來​ぬ。​クダ​​降​りに​コ​​來​られて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​カレラ​​彼等​​サウダン​​相談​​イ​​入​りて、​クニグニ​​郡郡​​セ​​攻​​クダ​​下​りたる​イクサ​​軍​どもを​カヘ​​回​らしめて​シリゾ​​退​きたり。​ワンキン シヤウジヤウ​​王京 丞相​は、​マチユ​​莫州​ ​ブシユ​​撫州​​ナ​​名​ある​クチバシ​​觜​山の鼻)に​イタ​​到​るまで​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​オク​​送​りて​カヘ​​回​れり。​ドンス​​緞子​ ​タカラ​​財​​ワレラ​​我等​​イクサビト​​軍士​ども​チカラカギリ​​力限​ ​ニ​​荷​​ツ​​駄​けて、​ネリギヌ​​熟絹​にてその​ニ​​荷​​シバ​​縛​りて​ユ​​行​きたり。(

太祖︀ 九年 甲戌の凱旋

これは、太祖︀ 九年 甲戌の三月の事なり。親征錄には「甲戌、上駐營於中都︀北壬甸。金丞相高琪、與其主謀曰「聞彼人馬瘦病。乘此決戰、可乎。」丞相 完顏 福︀興曰「不可。我軍、身在都︀城、家屬多居諸︀路。其心向背未知。戰敗、必散。苟勝、亦思妻子而去。祖︀宗社︀稷安危、在此擧矣。當熟思之。今莫使議和。待彼主還軍、更爲之計、如何。」金主然之、遣使求和、因獻衞紹王公主、令福︀興來送上、至野麻池而還」とあり。丞相 高琪は、金史 高琪の傳に據れば、この時 平章政事にして、丞相に非ず。金の莫州は、河北[281]東路に隸し、今の直隸 河閒府 任邱縣にして、中都︀より蒙古に赴く路にあらざれば、この二字 誤あらん。親征錄の野麻池も、地志に見えず。これも池の名には非ずして、山の名 又は地の名なるべし。二書の地名につきて考ふるに、莫州 撫州は倒置にて、撫州の莫州と云ふ觜とありしを誤り、その莫州は又 野麻池の野を脫して、麻池を州の諸︀將 如く音譯したるには非ずや。元史 太祖︀紀に「九年甲戌春三月、駐蹕中都︀北郊〈[#底本では「名の」が混入している。昭和18年復刻版に倣い修正]〉勝破燕、帝不從。乃遣使諭金主曰「汝山東河北郡縣、悉爲我有。汝所守唯燕京耳。天旣弱汝、我復迫汝於險、天其謂我何。我今還軍、汝不師、以弭我諸︀將之怒耶耶。」金主遂遣使求和、奉衞紹王女岐國公主及金帛童男女五百馬三千以獻。仍遣其丞相 完顏 福︀興、送帝出居庸」とあるは、親征錄と金史の紀傳とに依りて書けるなり。岐國 公主は、金史 宣宗紀に公主 皇后の稱あり。喇失惕の史に昆主 哈屯とある昆主は、公主を訛れるなり。


§249(11:08:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​タングト​​唐兀惕​ 征伐

 かく​シユツセイ​​出征​したるに​ヨ​​依​​カシン​​合申​​タミ​​民​​トコロ​​處​​サ​​去​れり。​サ​​指​して​イタ​​到​れば、​カシン​​合申​​タミ​​民​​ブルカン​​不兒罕​ ​クダ​​降​らんと「​ナガミコト​​爾​​ミギ​​右​​テ​​手​となりて​チカラ​​力​​アタ​​與​へん」と​イ​​云​ひ、​チヤカ​​察合​​イ​​云​​ムスメ​​女​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​イダ​​出​して​タテマツ​​獻​れり。(不兒罕は、蒙古語にては神︀また佛の義なれども、唐兀惕の國にては國主の稱號に用ひたりと見ゆ。この時の不兒罕は、夏の桓宗 李純佑の族弟にして、元の太祖︀ 元年に純佑を廢して簒立したる襄宗 安全なり。察合は、親征錄も集史も元史も、みな名を略けり。后妃表 第三 斡兒朶の察兒 皇后は、察合の誤りかとも思はる。しかれども喇失惕は、唐古惕の人にて名の知れざる哈屯を擧げて、自注に「速哈惕これを得んと願ひ、成吉思 汗 卽 贈︀れり」と附記したれば、后妃の列を脫したる故に、表には載せられざるならん。

駱駝 貢獻の願ひ

​マタ​​又​ ​ブルカン​​不兒罕​ ​イハ​​言​く「​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ナ​​名​ ​コヱ​​聲​​キ​​聞​きて​オソ​​畏​れて​ヲ​​居​りき、​ワレラ​​我等​​イマ​​今​ ​ミイツ​​威靈​ある​ナガミコト​​爾​​ミ​​身​ ​イタ​​到​りて​コ​​來​られて、​ミイツ​​威靈​​オソ​​畏​れたり。​オソ​​畏​れて、​ワレラ​​我等​ ​タングト​​唐兀惕​​タミ​​民​は、「​ナガミコト​​爾​​ミギ​​右​​テ​​手​となりて​チカラ​​力​​アタ​​與​へん」と​マウ​​申​せり。​チカラ​​力​​アタ​​與​へんにも、​ウゴ​​動​​嫩只​かぬ​イヘヰ​​營盤​​嫩禿黑​ある、​キヅ​​築​​那都︀克先​きたる​シロ​​城​ある​モノ​​者︀​なるぞ。​トモ​​伴​​那可扯​なひて、​ハヤ​​疾​​忽兒敦​​シユツセイ​​出征​​シユツセイ​​出征​する​トキ​​時​​スルド​​鋭​​忽兒察​​タヽカ​​戰​ひを​タヽカ​​戰​​トキ​​時​​ハヤ​​疾​​忽兒敦​​シユツセイ​​出征​​オヒツ​​追附​​癸亦躔​くことぞ​アタ​​能​はぬぞ。​スルド​​鋭​​忽兒察​​タヽカ​​戰​ひに​タヽカ​​戰​ふことぞ​アタ​​能​はぬぞ、​ワレラ​​我等​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​オンシ​​恩賜​せば、​ワレラ​​我等​ ​タングト​​唐兀惕​​タミ​​民​は、[282]​タカ​​高​​溫都︀兒​​デレスン​​迭咧孫​良き牧草の名、明 語譯 蓆棘草)の​カゲ​​蔭​​タ​​長​​斡思格​けさせて、​オホ​​多​​斡欒​​ラクダ​​駱駝​​イダ​​出​​合兒合​して、​ケイワン​​係綰​​合​となりて​タテマツ​​獻​​斡克速​らん。​ケドンス​​毛段​​斡兒篾格​​オ​​織​りて、​タンモノ​​段物​​阿兀喇孫​となして​タテマツ​​獻​​斡克速​らん。​ハナ​​放​​斡斡兒忽​​タカ​​鷹​​ナ​​馴​らして、​アツ​​聚​​忽喇兀勒​めてその​ヨ​​好​きを​イタ​​致​​古兒格兀侖​さしめ​ヲ​​居​らん」と​マウ​​奏​したり。[かく]​イ​​言​ひて、その​コトバ​​言​​シタガ​​遵​ひ、​タングト​​唐兀惕​​タミ​​民​より​ラクダ​​駱駝​​トリタ​​取立​てて​オ​​趕​ふこと​アタ​​能​はぬまで​モ​​持​​キ​​來​​タテマツ​​獻​れり。(

三回の西夏 征伐

この唐兀惕 征伐は、親征錄に據れば、一回の役に非ず。旣に太祖︀ 卽位の前の年に「乙丑、征西夏、攻破 力吉里 寨 經落思 城、大掠人民、多獲橐駝以還」とあり、元史も同じ。駱駝を獲たるは、西夏 降服の後なるを、前に繰上げて分捕とせり。次に太祖︀ 二年 丁卯には「秋、再征西夏。冬、克斡羅孩 城。」三年 戊辰には「春、班師至西夏。」元史も同じ。五年 庚午には「秋、復征西夏、入孛王廟。其主 失都︀兒忽 出降、獻女爲好」とあるを、元史は、一年前なる四年 己巳に繰上げて「帝入河西。夏主李安全、遣其世子、率師來戰。敗之、獲其副元帥高 令公、克兀剌海︀ 城、俘其太傅 西壁 氏、進至克夷門、復敗夏師、獲其將 嵬名 令公、薄中興府、引河水之。堤決、水外潰。遂撤圍還、遺太傅 訛荅中興、招諭夏主。夏主納女請和」と委しく記せり。兀剌海︀ 城は、卽 斡羅孩 城なり。丁卯の年 克ちて守らず、今 再 入りたるなり。また西夏 書事 嘉定 四年(太祖︀ 六年 辛未)五月の處に「塔坦 有黑白二種。時 黑塔坦 王 白厮波 强盛、兼倂諸︀族地、起兵攻夏河西州郡。安全親率兵拒戰大敗、失其公主、遺使請臣禮。塔坦 方退。自是國勢益衰」とあり。黑塔坦は、卽 黑韃靼にして蒙古なり。公主を失ふは、察合を與へたる事なり。白厮波は、白韃靼の阿剌兀思 惕吉忽里の姪 鎭國、蒙韃 備錄の白四部、黑韃 事略の白厮馬にして、鐵木眞と云ふべきを何故にか誤れり。又 金國志にも「大安 三年(辛未)春、西夏始爲大軍所攻、遣使求援。金主新立、不援。大軍至興靈而反。夏人恨之、遂叛」とあり。西夏の降服は、元史の己巳と親征錄 集史の庚午と金國志 西夏 書事の辛未と三說ありて、いづれか是なるを知らす。いづれにしても金の降服よりは前に在れば、祕史の記載の順序は違へるに似たり。


§250(11:10:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


辛未の一擧に二國の降服

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、かく​シユツセイ​​出征​したる時、​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​クダ​​降​して、​オホ​​多​​タンモノ​​段物​​ト​​取​りて、​カシン​​合申​​タミ​​民​​ブルカン​​不兒罕​​クダ​​降​して、​オホ​​多​​ラクダ​​駱駝​​ト​​取​りて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヒツジ​​羊​​トシ​​年​この卷の初にある太祖︀ 六年 辛未の歲)かく​シユツセイ​​出征​したる​トキ​​時​​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​​アクタイ​​阿忽台​​イ​​云​へる​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​クダ​​降​して、​タングト​​唐兀惕​​タミ​​民​​イルク ブルカン​​亦魯忽 不兒罕​[283]​クダ​​降​して、​カヘ​​回​りて、​サアリ ケエル​​撒阿哩 客額兒​​ゲバ​​下馬​せり。(阿忽台は、金の宣宗 珣なり。宣宗の國語の名は、金史 本紀に吾賭補とあれば、阿忽台は、國語の名にもあらず、蒙古人の附けたる あだな なるべし。亦魯忽は、不兒罕 李安全の國語の名なるべし。親征錄に失都︀兒忽とあるは、次の卷に見ゆる末帝 李睍〈[#「目+見」は底本では「日+見」。以後同じ]〉の一名を誤り書きたるに似たり。


§251(11:11:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


太祖︀ 九年 甲戌の再征

 ​マタ​​又​その​ノチ​​後​ ​チヤウカン​​趙官​​トコロ​​處​に(趙官は、宋の蒙語なり。趙家の轉訛か。又は趙氏の官家の義か​ワシン​​和親​​ヤ​​遣​りたる​ヂユブカン​​主卜罕​​カシラ​​頭​とせるあまたの​ツカヒ​​使​​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​​アクタイ​​阿忽台​なる​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​サマタ​​妨​げられて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​イヌ​​狗​​トシ​​年​我が順德 天皇 建保 二年 甲戌、宋の嘉定 七年、金の宣宗 貞祐︀ 二年 元の太祖︀ 九年、西紀 一二一四年、太祖︀ 五十三歲の時)、​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​​トコロ​​處​​フタタビ​​再​ ​シユツバ​​出馬​せり。(

​シユブカン​​搠不罕​の殺︀され

主卜罕の拘へられたる事は、親征錄 集史 みな載せず。元史は、主卜罕を搠不罕 と書きて、太宗紀に三年 辛卯 夏「命拖雷師寶鶏、遣搠不罕使宋假道、宋殺︀之。復遣李國昌使宋需糧」と云ひ、睿宗の傳に辛卯「拖雷 總右軍、自鳳翔渭水、過寶雞、入小潼關、渉宋人之境、沿漢︀水而下、遣搠不罕宋假道、且約兵。宋殺︀使者︀。拖雷 大怒曰「彼昔遣苟夢玉來通好、遽自食言背盟乎。」乃分兵攻宋諸︀城堡、長驅入漢︀中、進入四川、陷閬州、過南部而還」と云へり。然れば搠不罕 卽ち主卜罕は、金人に拘へられたるに非ずして、宋人に殺︀されたるなり。その殺︀されたるは、この年の事に非ずして、この年より十七年 後なる太宗 三年の事なり。されども元史は已に誤り多く、且 陳桎の通鑑 續編には「搠不罕 至靑野原、金統制張宣殺︀之」とあるに據り、

高寶銓〈[#「銓」は底本では「詮」]〉の回護の說

高寶銓は、祕史を誤れりとはせず、「元史曰宋殺︀、蓋金殺︀之、而諉爲宋殺︀也」と云ひ、又 太宗紀に搠不罕の事を載せたるをも「彼紀、蓋因李國昌糧、追溯太祖︀時遣使之事耳。不然、豈有道被殺︀、復遣使需糧乎」と云へり。この考も一說に備ふべし。但 甲戌の再征は、太祖︀ 自ら出馬したるに非ず。太祖︀は塞外に駐り、諸︀將を遣して中都︀を攻めしめたるなり。太祖︀紀に、九年 甲戌、太祖︀ 居庸關を出でたる後

遷都︀の後なる再征

「夏五月、金主遷汴、以完顏 福︀興 及參政 抹撚 盡忠、輔其太子守忠、畱守中都︀。六月、金乣軍 斫荅 等、殺︀其主帥、率眾來降。詔三摸合 石抹 明安、與斫荅 等中都︀。帝避暑︀魚兒濼。秋七月、金太子守忠走汴」とあり。親征錄も略同じくして、甚だ委し。又 通鑑 續編には「五月、金主遷汴。蒙古 主聞之怒曰「旣和而遷、是有疑心、而特以和款我耳。」複圖南侵」とあり。いづれに據りても、甲戌の再征は、金の宣宗の遁れたる後にあるを、祕史にこの再征に由りて金帝 遁れ出でたりと云へるは誤れり。)「​クダ​​降​​ヲ​​畢​へて​チヤウクワン​​趙官​​トコロ​​處​​ヤ​​遣​りたる​ツカヒ​​使​をいかでか​サマタ​​妨​げたる」と​イ​​云​​シユツバ​​出馬​するに、

​トウクワン​​潼關​の戰

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​トウクワン​​潼關​​クチ​​口​​サ​​指​して、​ヂエベ​​者︀別​をば​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​ヨ​​依​り[​スヽ​​進​ま]しめたり。(潼關 は、河南 陝[284]西の間の關門にして、今の河南 陝州 閿鄕縣の西 六十 淸里、陝西 同州府 華陰縣の東 四十 淸里に在り。察卜赤牙勒は、居庸關の蒙語、前に見えたり。親征錄 元史 本紀に據るに、潼關を攻めたるは、撒兒只兀惕の撒木合 巴阿禿兒にして、太祖︀ 自ら出でたるに非ず。又 甲戌の年 者︀別の關に入りたることも、元史 親征錄に見えず。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トウクワン​​潼關​​クチ​​口​​ヨ​​依​り[​スヽ​​進​み]たりと​アルタン カン​​阿勒壇 罕​ ​シ​​知​リて、​イレ​​亦列​ ​カダ​​合荅​ ​ゴボゲトル​​豁孛格禿兒​ ​ミタリ​​三人​​イクサ​​軍​​ス​​統​べさせて、「​イクサ​​軍​ ​フサガ​​塞​りて、​クラアン デゲレン​​忽剌安 迭格連​譯すれば赤き帽、金史の謂はゆる山東の花帽軍)を​センポウ​​先鋒​とし​トヽノ​​整​へて、​トウクワン​​潼關​​クチ​​口​​アラソ​​爭​ひ、​タウゲ​​峠​​ナ​​勿​ ​コ​​越​させそ」とて、​イレ​​亦列​ ​カダ​​合荅​ ​ゴボゲトル​​豁孛格禿兒​ ​ミタリ​​三人​​イクサ​​軍​​イソ​​急​がし​ヤ​​遣​りき。​トウクワン​​潼關​​クチ​​口​​イタ​​到​れば、​キタト​​乞塔惕​​イクサ​​軍​は、​チ​​地​​マ​​捲​きて​キ​​來​ぬ。(地の下、原文に誤字あり譯し難︀し。意を以て語を作れり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​イレ​​亦列​ ​カダ​​合荅​ ​ゴボゲトル​​豁孛格禿兒​ ​ミタリ​​三人​​タ​​立​​ア​​合​ひ(對戰し)て、​イレ​​亦列​ ​カダ​​合荅​​ウゴ​​動​せり。

​トルイ​​拖雷​ ​チユグ​​出古​の奮戰

​トルイ​​拖雷​​チユグ グリゲン​​出古 古哩堅​卽ち卷八の赤古 古剛堅​フタリ​​二人​は、​ヨコ​​横​より​ツ​​衝​きて、​クラアン デゲレン​​忽剌安 迭格連​​シリゾ​​退​けて​イタ​​到​りて、​イレ​​亦列​ ​カダ​​合荅​​ウゴ​​動​して​ヤブ​​敗​りて、​キタト​​乞塔惕​​クチキ​​爛木​​ツモ​​積​れる​ゴト​​如​​コロ​​殺︀​せり。​キタト​​乞塔惕​​イクサ​​軍​どもを​コロ​​殺︀​して​ヲ​​畢​はれたりと​アルタン カン​​阿勒壇 罕​ ​シ​​知​りて、​チウト​​中都︀​より​イ​​出​でて、​ノガ​​遁​れんと​ナンケイ​​南京​​シロ​​城​​イ​​入​りき。(金の南京は、古の大梁また汴梁、今の河南 開封府なり。​ノコ​​殘​れる​カレラ​​彼等​​イクサビト​​軍士​どもは、​ヤ​​痩​せて​シ​​死​ぬる​トキ​​時​​オノレラ​​己等​​アヒダ​​閒​にて​ヒト​​人​​ニク​​肉​​ク​​食​​ア​​合​ひけり。​トルイ​​拖雷​ ​チユグ グリゲン​​出古 古哩堅​ ​フタリ​​二人​​ヨ​​善​​トコロ​​處​​ハタラ​​働​けりとて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​トルイ​​拖雷​ ​チユグ グリゲン​​出古 古哩堅​ ​フタリ​​二人​​オホイ​​大​​オンシヤウ​​恩賞​せり。(金史 元史 親征錄に據るに、潼關の戰には、太祖︀ 親ら臨まざるのみに非ず、拖雷 出古 二人もそれに與りたりとは見えず。二人の相 攜へて奮戰したるは、親征錄 通鑑 續編に據るに、太祖︀ 七年 壬申 德興府を攻むる時にありき。又 潼關の守將は尼龎古 蒲魯虎にして、亦列 合荅など云へる人も見えず。親征錄に、金の通州の元帥 蒲察 七斤 來降(金史 元史に據るに、太祖︀ 十年 乙亥 正月)の後、丙子(太祖︀ 十一年)の前に「上駐軍魚兒濼、命[285]三合 拔都︀、師蒙古 軍萬騎、由西夏、抵京兆、出潼關、破嵩汝等郡、直趨汴梁、至杏花營、大掠河南、回至陝州。適河冰合、遂渡而北」とあり。

​サムカ バアトル​​撒木合 巴阿禿兒​ 南侵の委しき事實

元史 太祖︀紀は「十一年 丙子 秋、撒里知兀䚟 三摸合 拔都︀魯 率師、由西夏關中、遂越潼關、獲金西安軍節︀度使 尼龎古 蒲魯虎、拔汝州等郡、抵汴京而還」とありて、親征錄と年 違へり。金史は、この戰の始末を叙ぶること最 詳なり。今 宣宗 本紀、必蘭 阿魯帶、完顏 仲元、朮虎 高琪、胥鼎、尼龎古 蒲魯虎 等の諸︀傳を合せ考ふるに、「貞祐︀四年(太祖︀ 十一年)秋八月丙子、元兵攻延安。九月辛巳朔、元兵攻防州。以簽樞密院事永錫御史大夫、領兵赴陝西、便宜從事。冬十月癸未、招射生獵戶、練︀習武藝、知山徑者︀、分屯陝虢要地。命遙授知歸德府事 完顏 仲元、率山東花帽軍、徙軍盧氏、改商州經略使、權元帥右都︀監。元兵攻潼關、由禁坑出。戍卒皆潰、西安軍節︀度使 尼龎古 蒲魯虎 禦戰、兵敗死焉」禁坑は、一名 禁谷、今の潼關廳の南にあり。元の兵は、この閒道より遶り出でて、潼關を破れり。「戊辰、元兵 徇汝州。仲元軍趨商虢、復至嵩汝、皆弗及。河東南路行省胥鼎、聞元兵已越關、庚午、遣潞州元帥左監軍 必蘭 阿魯帶軍一萬、孟州經略使 徒單 百家、領兵五千、自便道河趣關陝、自將平陽精︀兵、赴援京師。十一月壬午、胥鼎入京師、拜尙書左丞、兼樞密副使。乙酉、元兵至沔池。右副元帥 蒲察 阿里不孫、軍潰而逃、阿魯帶 亦被創、元兵過陝州、由三門集津北渡而去。戊戌、華州元帥府復潼關。十二月癸亥、元兵攻平陽。胥鼎遣兵拒戰。元兵不利、乃去。」金國志は、親征錄の如く、誤りてこの役を一年前の事とし「貞祐︀三年八月、大軍自河東河、攻潼關、不下。乃由嵩山小路、趨汝州。遇山㵎、輒以鐵鎗相鎖、連接爲橋以渡。于是潼關失守。金主急召花帽軍于山東。十月、大軍至杏花營、距汴京二十里。花帽軍擊敗之。大軍復取潼關、自三門析津、乘河冰合、布灰引兵而渡。自是不復出」とあり。年月は金史と違へれども、事實は大槪 合へり。「攻潼關下」と云へるは、竟に下らざるに非ず、禁坑より遶り出でられて、戌卒 潰えたる故に、下に「潼關失守」とあり。その「由嵩山小路」と云へるは、潼關を遶れる閒道に非ず、潼關を越えたる後に汝州に趨ける山徑なり。「召花帽軍于山東」は、完顏 仲元に命じて入り援はしめたることなり。

續 綱目 續 資治 通鑑の誤

金史 元史に記せる丙子の役と一事なること、疑ふべきなし。然るに商輅の續 綱目は、金國志 親征錄に據り、乙亥の年に三合 拔都︀ 南侵の事を記して、「潼關失守」「自是不復出」の二句を省き、又 丙子の年に金史 元史に據りて「冬十月、蒙古兵克金潼關、次嵩汝閒、云云」と書きて、三合 拔都︀の名を省きたるは、金國志の紀年の誤に因り、一事を兩事としたるにて、謂はゆる誤に因りて更に誤れるなり。畢沅の續 資治 通鑑も續 綱目の誤に襲れり。この二史は、人の信用する書なるが故に、その誤をかく辨じ置くなり。さて又 丙子の役は、金の腹地を荒したれども、さほどの大㨗もなかりしに、祕史には金軍の殲滅 窮餓の狀を事事しく叙ぶるを見れば、太宗 三年 拖雷の陝西より入りて汴京に迫りたる三峯山の大㨗、元史に「流血 被道、資仗委積、金之精︀銳、盡於此矣」とあるものと混じたるに似たり。然らば亦列 合荅は、三峯山の敗將 移剌 蒲阿 完顏 合達なるべし。豁孛格禿兒に似たる名は見えず。忠孝軍の總領 完顏 陳和尙の稱號などにてやあらん。


§252(11:14:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​シラ ケエル​​失喇 客額兒​​チウヒツ​​駐蹕​

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​カセイム​​河西務​​クダ​​下​すと、​チウト​​中都︀​​シラ ケエル​​失喇 客額兒​​ゲバ​​下馬​せり。(河西務は、鎭の名、今の順天府 武淸縣の北、白河の支流なる新引河の西にあり。失喇 客額兒は、黃なる原の義なれば、中都︀の近郊を呼べる[286]蒙語なるべけれども、〈[#直前の読点は底本では句点]〉いづこを指せるか知らず。但この文 誤れり。金の宣の遷れる頃は、親征錄 元史に據るに、太祖︀は塞外に居りて、中都︀の邊に到らざりしなり。

​ヂエベ​​者︀別​​セキヤブ​​關破​

​ヂエベ​​者︀別​は、​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​セキ​​關​​ヤブ​​破​りて、​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​マモ​​守​れる​イクサ​​軍​​ウゴカ​​動​して​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ア​​合​へり。(この時 居庸關には金の守兵なかりき​アルタン カン​​阿勒壇 罕​​チウト​​中都︀​より​イ​​出​づるに、

​チウト​​中都︀​​ルス​​畱守​ ​カダ​​合荅​

​チウト​​中都︀​​ウチ​​內​​カダ​​合荅​​ルス​​畱守​となし​ヨサ​​任​せて​サ​​去​りたりき。(太祖︀紀に「十年乙亥三月、金御史中丞李英等、率師援中都︀。戰于霸州、敗之、五月庚申、金中都︀畱守 完顏 福︀興 仰藥死、抹撚 盡忠棄城走、明安 入守之」とあり。この時の事は、金史の承暉(卽 福︀興)、抹撚 盡忠、李英、烏古論 慶壽 等の傳に甚 委しけれども、合荅の名は見えず。親征錄には金の畱守 哈荅 國和 等とあり。衝紹王紀 大安 三年に 西北路 招討使 粘合 合打、宣宗紀 貞祐︀ 三年に陝西 統軍使 完顏 合打あれども、この合荅なりとも見えず。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​チウト​​中都︀​​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​タカラ​​財​ ​タンモノ​​段物​ ​ナニ​​何​にても​カゾ​​數​へしめに、​オングル​​汪古兒​ ​カシハデ​​厨官​​アルカイ カツサル​​阿兒孩 合撒兒​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​ミタリ​​三人​​ヤ​​遣​りき。この​ミタリ​​三人​を「​キ​​來​ぬ」とて、​カダ​​合荅​​ムカ​​迎​​ウ​​接​けんと、​キン​​金​あり​アヤ​​紋​ある​タンモノ​​段物​​ト​​取​りて、​チウト​​中都︀​​ウチ​​內​より​イ​​出​でて、​ムカ​​迎​へに​キ​​來​ぬ。

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​の廉直

​カダ​​合荅​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​イ​​言​へらく「​サキ​​前​にこの​チウト​​中都︀​​モノ​​物​​スナハチ​​卽​ ​チウト​​中都︀​は、​アルタン カン​​阿勒壇 罕​のなりしぞ。​イマ​​今​ ​チウト​​中都︀​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​のなるぞ。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​モノ​​物​なる​タンモノ​​段物​​カゲ​​背處​にて​イカン​​柰何​​ヌス​​偷​みて​モ​​持​​キ​​來​​アタ​​與​ふる、​ナンヂ​​汝​​ワレ​​我​ ​ト​​取​らず」と​イ​​云​ひて、​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​ト​​取​らざりき。​オングル​​汪古兒​ ​カシハデ​​厨官​​アルカイ​​阿兒孩​ ​フタリ​​二人​​ト​​取​りたり。この​ミタリ​​三人​は、​チウト​​中都︀​​モノ​​物​ ​ミナ​​皆​​カゾ​​數​へて​キ​​來​ぬ。そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​オングル​​汪古兒​ ​アルカイ​​阿兒孩​ ​クトク​​忽禿忽​ ​ミタリ​​三人​に「​カダ​​合荅​​ナニ​​何​をか​アタ​​與​へたる」と​ト​​問​へり。​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​マウ​​申​さく「​コガネ​​金​あり​アヤ​​紋​ある​タンモノ​​段物​​モ​​持​​キ​​來​​アタ​​與​へき。​ワレ​​我​ ​イハ​​言​く「​サキ​​前​にこの​チウト​​中都︀​は、​アルタン カン​​阿勒壇 罕​のなりし[287]ぞ。​イマ​​今​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​のとなりたるぞ。​ナンヂ​​汝​ ​カダ​​合荅​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​モノ​​物​​カゲ​​背處​にて​ヌス​​偷​みて​イカン​​柰何​​アタ​​與​ふる、​ナンヂ​​汝​」と​イ​​云​ひて、​ワレ​​我​​ト​​取​らざりき。​オングル​​汪古兒​ ​アルカイ​​阿兒孩​ ​フタリ​​二人​は、​カレ​​彼​​アタ​​與​へたるを​ト​​取​りき」と​イ​​云​へり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、そこに​オングル​​汪古兒​ ​アルカイ​​阿兒孩​ ​フタリ​​二人​​イタ​​甚​​トガ​​咎​めたり。​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​を「​オホイ​​大​なる​ダウリ​​道理​​カンガ​​考​へけり、​ナンヂ​​汝​」と​イ​​云​ひ、​オホイ​​大​​オンシヤウ​​恩賞​して「​ミ​​視︀​​ワ​​我​​メ​​目​​キ​​聽​​ワ​​我​​ミヽ​​耳​となりて​ヲ​​居​らずや、​ナンヂ​​汝​」と​ミコト​​勅​ありき。(親征錄に「明安 太保入據之、遣使獻㨗。上時駐桓州、遂命忽都︀忽 那顏、與雍古兒 寶兒赤、阿兒海︀ 哈撒兒 三人、檢視︀中都︀帑藏。時金畱守 哈荅 國和 等、奉金幣、爲拜見之禮。雍古兒 哈撒兒 受之。獨 忽都︀忽 拒 不受、將哈荅 及 其物北來。上問忽都︀忽曰「哈答 等嘗與你物乎。」對曰「有之。未敢受之。」上問其故。對曰「臣嘗與哈荅言「未城時、寸帛尺縷、皆金主之物。今旣城陷、悉我君物矣。汝又安得我君物私惠乎。」」上正佳之、以爲大體。而重責 雍古兒、阿兒海︀ 哈撒兒 等、不珍也。哈荅 因見其孫榮山而還」とあり。正佳 不珍の二語は、字の誤りあらん。元史には「明安入守之」の下に、ただ「是月、避暑︀桓州涼涇、遣忽都︀忽 等、籍中都︀帑藏」とあり。


§253(11:18:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


金の質子

 ​アルタン カン​​阿勒壇 罕​は、​ナンケイ​​南京​​イ​​入​りて、​ミヅカラ​​親​ ​クダ​​降​​ヌカヅキ​​頓首​て、​テンゲリ​​騰格哩​​イ​​云​​コ​​子​​ヒヤク​​百​​トモビト​​従者︀​にて「​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トコロ​​處​​ジヱイ​​侍衞​になれ」とておこせけり。(金史 元史を考ふるに、金の宣宗は、質子を送りたることなし。太宗 四年(金の哀宗 天興 元年)三月、速不台 等 南京を圍みたる時、金の哀宗は、弟 荆王 守純の子 曹王 訛可を出して質たらしめ、太宗は速不台を畱めて還り、居庸を出でたることを、太祖︀ 宣宗の時の事と誤りたるに非ずや。​カレラ​​彼等​​クダ​​降​られて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​シリゾ​​退​かんとて​チヤブチヤル​​察卜赤牙勒​​ヨ​​依​りそこに​シリゾ​​退​​トキ​​時​

​カツサル​​合撒兒​ 東略の命

​カツサル​​合撒兒​​ヒダリテ​​左手​​イクサ​​軍​にて​ウミ​​海︀​​シタガ​​遵​ひて​ヤ​​遣​​トキ​​時​、「​ホクケイ​​北京​​シロ​​城​​ゲバ​​下馬​せよ。​ホクケイ​​北京​​シロ​​城​​クダ​​降​して、​カナタ​​彼方​ ​ヂユルチエト​​主兒扯惕​​ブカヌ​​夫合訥​​ス​​過​​サ​​去​りて、​ブカヌ​​夫合訥​ ​ソム​​反​かんとせば、​ウチト​​打取​れ。​クダ​​降​らば、​カレ​​彼​​ホトリ​​邊​なる​カレ​​彼​​シロ​​城​どもを​ス​​過​ぎ、[288]​ウラ ガハ​​兀剌 河​ ​ナウ ガハ​​訥元 河​​ソ​​沿​​サ​​去​りて、​タウル ガハ​​塔兀兒 河​​サカノボ​​泝​​ヤマ​​山​ ​コ​​越​えて、​タイラウエイ​​大老營​​ア​​會​ひに​コ​​來​よ」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りぬ。(金の北京 大定府は、古の奚の地、遼 中京を建て、大定府と名づけ、金 北京と改め、元の至元 七年 大寧路と改め、明 大寧衞とせり。淸 一統志に「大甯故城、在今內 蒙古 喀喇沁 右翼南百里、喜峯口 東北 四百八十 里、老哈 河 之北。」老哈 河は、白狼 河とも云ふ。水道 提綱に「白狼 河、經故大甯城南。俗稱巴爾漢︀城、一曰察罕 巴爾漢︀ 城」とあり。主兒扯惕は、女眞 卽 主兒臣の複稱、金の本國の民なり。

女眞の蒲鮮 萬奴

夫合訥は、蒲鮮の訛ならん。親征錄 甲戌(太祖︀ 九年)四月の處に「金主之南遷也、以招討 萬奴咸平路宣撫、復移治於 忽必 阿蘭。至是亦以眾來降、仍遣子 鐵哥入質。旣而復叛、自稱東夏王。」太祖︀紀に「十年乙亥冬十月、金宣撫 蒲鮮 萬奴 據遼東、僭稱天王、國號大眞、改元天秦。十一年丙子冬十月、蒲鮮 萬奴 降、以其子 帖哥入侍。旣而復叛、僭稱東夏」とあり。

兀剌 河 納兀 河 塔兀兒 河

兀剌は、女眞語 河なり。黑龍 江を薩哈連 烏剌と云ひ、松花 江を吉林 烏剌と云ふ。こゝの兀剌は、松花 江なり。淸 一統志に「打牲 烏拉 城、在吉林 城北七十里、混同江東岸。烏拉 之先 布顏、築城於 烏拉 河上 洪尼 地、國號烏拉」とある混同 江も烏拉 河も、皆 松花 江なり。納兀 河は、盛京 通志の諾尼 江、水道 提綱の嫩泥 江、龍沙 紀略の腦溫 江にして、今は嫩江と云ふ。高寶銓〈[#「銓」は底本では「詮」]〉 曰く「嫩泥 江、古名難︀水、亦曰那河、元史 地理志 稱桃溫 水、特 薛禪 傳 曰惱 木連、忽憐 傳 曰猱河、伯帖木兒 傳 曰納兀 河、洪萬傳曰那兀 河、王綽傳曰那河、皆卽 納浯 對音。」塔兀兒 河は、水道 提綱に「洮兒 河、亦曰桃爾 河、源出西興安山東麓、云云、至札賴特 旗南、匯爲納藍 撒藍 池、猶日月池也。東流入嫩泥江。」黑龍江 外紀に「唐 書 他漏 河、卽 今 拖爾 河、一作淘兒 河。其源流千里、竝在蒙古 境內。」高寶銓〈[#「銓」は底本では「詮」]〉 曰く「洮兒 河、魏書稱太彌 河、北史曰太岳魯 水、唐書曰它漏 河、遼史曰他魯 河、曰撻魯 河、金史曰撻魯古 河、皆卽 討浯兒 之對音。」高氏は、元史の桃溫を納兀 河としたれども、納兀にはあらずして、塔兀兒なるべし。

​カツサル​​合撒兒​に從へる三將

​カツサル​​合撒兒​​トモ​​共​に、​クワンニン​​官人​より​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​ ​アルチ​​阿勒赤​ ​トルン チエルビ​​脫侖 扯兒必​ ​ミタリ​​三人​​ヤ​​遣​りたり。(この東征の軍は、太祖︀ 八年 発酉 九年 甲戌に渉れる三道 侵掠の左軍なり。親征錄に「哈撒兒 及 斡津 那顏 拙赤䚟 薄刹 爲左軍、沿東海︀、破濼薊等城而還」と云ひ、太祖︀紀に「皇弟 哈撒兒 及 斡陳 那顏 拙赤䚟 薄刹 爲左軍、遵海︀而東、取薊州 平濼遼西諸︀郡而還」と云へり。哈撒兒は、卽 合撒兒なり。斡津 那顏 卽 斡陳 那顏は按陳 那顏の子なり。然るに祕史の阿勒赤は、斡陳に非ずして卽 按陳なれば、斡津 斡陳は按陳の誤なるべし。拙赤䚟は、喇失惕の集史に主兒赤歹と云ひて、成吉思 汗の幼子と注し、陳桱の通鑑 續編に太祖︀の六子を擧げて庶子 朮兒徹歹あるに由り、洪鈞は、集史と蒙韃 備錄とを引きて、太祖︀の皇子なることを考證したれども、祕史に官人 主兒扯歹と云へるを見れば、やはり兀嚕兀惕の主兒扯歹なりけり。元史 親征錄には薄刹ありて、脫侖 扯兒必なし。脫侖 扯兒必は、親征錄 乙亥(太祖︀ 十年)北京 降服の續に「上遣脫脫欒 闍兒必、帥蒙古 契丹 漢︀軍南征、」木華黎の傳、乙亥 北京 興中 降服、錦州の張鯨 來降の續に「詔木華黎鯨總北京十提控兵、從掇忽闌、南征附州郡、」石抹 也先の傳にも「命也先、副脫忽闌 闍里必、監張鯨等軍、征燕南未下州郡、」石抹 孛迭兒の傳にも「從奪忽闌 闍里必、徇山東大名」などあれば、脫侖は、合撒兒に從はず、又は從へりとも、途よ[289]り還りて、木華黎の部下に屬したるなりけん。

​カツサル​​合撒兒​の東略

​カツサル​​合撒兒​は、​ホクケイ​​北京​​シロ​​城​​ト​​取​りて、​ヂユルチエト​​主兒扯惕​​ブカヌ​​夫合訥​​クダ​​降​して、​ミチ​​路​にある​シロ​​城​​ト​​取​ると、​カツサル​​合撒兒​は、​タウル ガハ​​塔兀兒 河​​サカノボ​​泝​​キ​​來​て、​タイラウエイ​​大老營​​ゲバ​​下馬​して​キ​​來​ぬ。(

​ムホアリ​​木華黎​に降れる北京

北京の降服は、元史に據れば、木華黎の功なり。親征錄には、三合 拔都︀ 黃河を渡りて北に還れる後「金 元帥 尹荅忽監軍 斜烈、以北京來降」とありて、誰に降れりとも云はず。喇失惕の史に「撒兒主惕の撒木哈、黃河を渡り、西京に趨きたれば、西京の守將 因荅兒、罕撒兒 撒列 迎へ降れり」とあるに由り、洪鈞は「錄作北京、係誤」と云ひたれども、太祖︀紀には「十年乙亥二月、木華黎 攻北京、金元帥 寅荅虎 烏古倫 以城降。以寅荅虎畱守、吾也而權兵馬都︀元帥之」と云ひ、木華黎 吾也而 石抹 也先の傳に、その事 詳なれば、北京は誤らずして、西史の西京は却て誤れり。但 石抹 也先の傳には、北京を降す前に、奇計を用ひて東京を降したることを載せたるに、東京の守將を寅荅虎としたるは誤れり。

​インダク​​寅荅虎​の僚屬なる​ウクルン​​烏古倫​

又 太祖︀紀の寅荅虎 烏古倫を殿本は烏庫哩 伊勒都︀呼と改め、その考證に「考 烏庫哩 爲金之著︀姓。若是兩人、不一稱名而一擧姓。此事、宣宗本紀 未載。蘇天爵名臣事略、載「木華黎 攻北京。金守將銀靑嬰城自守。其將高德玉等殺︀銀靑、推烏古論 寅荅虎帥、未幾 以城降。」覈之續通鑑亦同。爲太祖︀九年事。年月雖符、而姓名則合。且以下文 寅荅虎 爲畱守文義之、其爲名氏顚倒疑。今據改」と云ひ、畢沅の續 資治 通鑑の考異に「疑載筆者︀未烏古論 爲姓、寅荅虎 爲名、文有顚倒耳、」錢大昕の諸︀史 拾遺にも「東平王世家作烏古倫 寅荅虎。烏古倫 者︀、寅荅虎 之氏、非兩人也。史臣不姓名、傎倒其文、遂若別有一人矣」と嘲りたり。然れども史天祥︀の傳に「乙亥、與大師 烏野兒、降其北京畱守 銀荅忽、同知 烏古倫」とあり。烏野兒は卽 吾也而、銀荅忽は卽 寅荅虎なり。烏古倫は、寅荅虎の僚屬なるを、寅荅虎はその姓を略し、烏古倫はその名を佚して、本紀は又 烏古倫の官名を脫したる故に、遂に一人ならんと疑はしむるに至れり。明の史臣いかに史事に昧くとも、烏古倫の姓なることを知らざらんや。又 續 綱目 甲戌 九月の條に

銀靑 奧屯 襄

「木華黎 攻金北京。北京裨將 完顏 昔烈 高德玉等、殺︀守將銀靑云云、」木華黎の傳にも「其下殺︀銀靑」とあり。錢大昕の考異に「銀靑、蓋擧其官名、謂銀靑光祿大夫、非人姓名也」と云へり。今 金史 奧屯 襄の傳を見るに「貞祐︀三年正月、襄爲北京宣差提控 完顏 習烈 所害」とあり。習烈は、卽 續 綱目の昔烈、又 卽 親征錄の斜烈、奧屯 襄は、卽 謂はゆる銀靑なり。北京の降れるは、元史 紀傳みな乙亥の年なるを續 綱目に甲戌の年としたるは、名臣 事略に因りて誤れるなり。

​カツサル​​合撒兒​の東略につきての疑ひ

さて合撒兒の東征は、元史に據れば、遼西 諸︀郡を取れるのみにして、北京を取れるは木華黎なるを、祕史に合撒兒 北京を取ると云へるは、傳聞の異辭なり。むしろ祕史の誤ならん。又 遼東の經略も、耶律 畱哥の傳に「歲壬申(太祖︀ 七年)太祖︀命按陳 那衍軍至遼東、畱哥 率所部之云云」とあれば、この按陳 卽 阿勒赤の東略は、卽 合撒兒に從ひて行きたるにやとも思はるれども、その年(七年 壬申)は、三道 侵掠の年(八年 癸酉)の前なれば、强ひて牽き合はせ難︀し。又 夫合訥を蒲鮮の訛とすれば、蒲鮮 萬奴の降りたるは、親征錄は九年 甲戌の四月とし、太祖︀紀は十一年 丙子の十月とし、相 去ること二年半にして、いづれも合撒兒に降ると云はず、その詳なることは、今 考ふべからず。[290]


§254(11:20:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


西域征伐の始まり

 その後 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ は、​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​ウクナ​​兀忽納​​カシラ​​頭​たる​ヒヤク​​百​​ツカヒ​​使​​トラ​​拘​へて​コロ​​殺︀​されて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​コガネ​​金​​ハヅナ​​縻繩​​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​にいかでか​タ​​斷​たしめたりし」とて、「​ウクナ​​兀忽納​​カシラ​​頭​たる​ヒヤク​​百​​ツカヒ​​使​[の​タメ​​爲​]に、​アタ​​讎​​斡雪勒​ ​カヘ​​復​​斡旋​​ウラミ​​怨​​乞撒勒​ ​ムク​​報​​乞三​いに、​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​トコロ​​處​​シユツバ​​出馬​せん」とて​シユツバ​​出馬​する​トキ​​時​、(

​コラズム​​闊喇自姆​の異稱

この撒兒塔兀勒は、闊喇自姆 朝を云へるなり。闊喇自姆 朝の管內には撒兒惕 人 卽 抹哈篾惕 敎徒 多きが故に、蒙古 人は撒兒塔兀勒の國と云へり。親征錄 元史 本紀には西域の汎稱を用ひ、列傳には回紇 回鶻 又は回回と云ふ。回回も、回紇の轉なり。唐の回紇の遺種は、實に畏兀兒にして、畏兀兒も回紇の轉なり。元人は回紇の遺種を呼ぶに畏兀兒の新名を用ふるは善けれども、回紇の舊名を闊喇自姆 朝に當てたるは誤れり。長春の西游記には、畏兀兒をも撤兒塔兀勒をも皆 回紇と云へり。闊喇自姆 朝の本土は、鹹海︀の南、裏海︀の東に在り、今の希哇の地にして、玄弉の西域記に貨利習彌伽、隋書 西域傳に穆國、新唐書 西域傳に「火尋、或曰貨利習彌、曰過利、」元史 地理志に花剌子模と云ひ、西人は合喇自姆とも闊哇咧自姆とも忽哇咧自姆とも云ふ。闊喇自姆 朝の興亡と蒙古 西征の事蹟とは、主吠尼 喇失惕の記載 甚 詳かなり。北宋の時、薛勒主克 王 馬里克沙の僕

​コラズム​​闊喇自姆​ 朝の興り

努施 特勤、始めて闊喇自姆 部の酋長となり、その子 庫惕別丁 抹哈篾惕は、闊喇自姆 沙と稱し、西遼 興りて、庫惕別丁の子 阿次思は、その屬國となれり。阿次思の子 亦牙勒 阿兒思闌は、闊喇散を取り、その嗣子 塔喀施は、宋の光宗 紹熙 五年(西紀 一一九四年)薛勒主克 朝を滅し、亦喇克 阿者︀姆を取り、巴固荅惕の合里發より册封を受けたり。宋の寧宗 慶元 六年(西紀 一二〇〇年)塔喀施の子 阿剌 額丁 抹哈篾惕 嗣ぎ立ち、巴勒黑 赫喇惕 馬贊迭㘓 乞兒曼を幷せ、乞魄察克を打破り、元の太祖︀ 四年(一二〇九年)西遼に叛き、その西境を奪ひ、八年(一二一三年)河閒の國(西 回紇)を滅し、撒馬兒罕に新都︀を建て、闊喇自姆の兀兒堅只 城を舊都︀と云へり。又 誥兒の國を幷せ、その後 噶自納の地を定めたる時、合里發 納資兒より誥兒の君に與へて闊喇自姆を圖らしむる密書を得て、大に怒り、納資兒を廢せんと欲し、大軍を率ゐて西征し、路にて發兒思 阿在兒拜展を降し、太祖︀ 十三年 戊寅(一二一八年)合里發の領地に入りたれども、大雪に遭ひ、又 土兵に襲はれ、利あらずして退けり。還りて孛合喇に到れば、西域の商侶 蒙古より歸り、太祖︀の贈︀物を上り、通商を求むる辭を傳へ、阿剌 額丁はいやいやながらそれを許せり。

兩大國の​キンタン​​釁端​

旣にして太祖︀は諸︀王 官人に命じて各貨を出さしめ、畏兀兒 人 四百餘人を發して、西域の商侶に從ひ往きて、その產物を求めしめたり。然るに斡惕喇兒 城に到れる時、城將 亦納勒主克 該兒罕は悉く拘へて、蒙古より細作を遣せりと王に吿げたれば、王は命じて悉く殺︀さしめ、惟一人 逸︀げ歸りたり。捏撒腓は「その中 四人は使にて、外は皆 商人なり。それらを殺︀せるは、亦納勒主克の意にして、王の命に非ず」と云へり。耶律 楚材の西游錄に「苦盞 西北五百里、有訛打剌 城。此城渠酋、嘗殺︀命吏數人、商賈百數、盡掠其財貨。西伐之擧由是也」とあり。命吏 數人は、捏撒腓の使 四人と云へる[291]に近く、商賈 百數は、祕史の百の使と數は合へり。喇失惕の四百餘人は、おまけあるに似たり。洪鈞の西域 補傳に多遜を譯して「太祖︀聞逸︀者︀歸報、驚怒而慟、免冠解帶、跪禱於天、誓必雪恨。其時 古出魯克 餘孽猶未靖︀、乃先遣西域人 巴固喇使、偕蒙古 官二人往詰責、云云。王箠死 巴固喇、薙蒙古 官鬚釋歸、以辱之、自聚兵於 撒馬兒罕」と云ひ、この下に蒙古の兵 篾兒乞惕の餘眾を逐へるもの、合米赤 河にて闊喇自姆の兵と衝突︀せる小戰あり。太祖︀紀には只「十四年己卯夏六月、西域殺︀使者︀、帝率師親征」とあり。

​エスイ カトン​​也遂 合屯​の建議

そこに​エスイ カトン​​也遂 合敦​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ケンギ​​建議​して​マウ​​奏​さく「​カガン​​合罕​​タカ​​高​​溫都︀兒​​タウゲ​​峠​​コ​​越​え、​ヒロ​​廣​​斡兒堅​​カハ​​河​​ワタ​​渡​り、​ナガ​​長​​兀兒禿​​シユツセイ​​出征​​シユツセイ​​出征​し、​オホ​​多​​斡欒​​クニ​​國​​兀魯思​​タヒラ​​平​げんと​オモ​​思​​タマ​​給​へり。​ウマ​​生​れたる​タヾ​​只​ ​イノチ​​命​あるものに​トコヨ​​長生​なるは​ナ​​無​かりき。​オホキ​​大木​​揑兀列​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​ミ​​身​ ​カタム​​傾​​揑古思​​サ​​去​らば、​アサガラ​​麻穰​​揑惕客勒​​ゴト​​如​​クニタミ​​國民​​タレ​​誰​にか​ユダ​​委​ねん。​ハシラ​​柱​​禿魯​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​ミ​​身​ ​タフ​​倒​​禿勒巴思​​サ​​去​らば、​ムラトリ​​羣鳥​​禿牙勒​​ゴト​​如​​クニタミ​​國民​​タレ​​誰​にか​ユダ​​委​ねん。​ウマ​​生​れたる​ヨタリ​​四人​​スグ​​駿​れたる​ミコ​​子​だちを、​カレラ​​彼等​​タレ​​誰​をとか​ノリタマ​​宣​ふらん。​ミコ​​子​だちに​オトヽ​​弟​だちにあまたの​タミグサ​​民草​​ワレラ​​我儕​ ​シヅノメ​​小人​にも​コヽロヅ​​心附​けてあらまほし。​コヽロヅ​​心附​きたることを​ケンギ​​建議​したるなり。​オホミコト​​聖旨​ ​シロ​​知​しめせ(明譯​クワウテイ​​皇帝​ ​ワタリ​​涉​​ヘテ​​歷​ ​ヤマカハヲ​​山川​​トホクサリテ​​遠去​ ​セイセンシタマフ​​征戰​​モシ​​若​ ​ヒトヒ​​一日​ ​モシ​​倘​ ​アラバ​​有​​ザルヿ​​不​​イマレ​​諱​​ヨタリノミコノ​​四子​ ​ウチニテ​​內​ ​オホセテ​​命​​タレニ​​誰​ ​シタマハン​​爲​​キミト​​王​​ベシ​​可​​シム​​令​​モトビトニ​​眾人​ ​マヅシラ​​先知​)」と​マウ​​奏​したれば、

太祖︀の嘉納

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あるには「​カトン​​合敦​​ヒト​​人​にもあれど(婦人なれども)、​エスイ​​也遂​​コトバ​​言​は、​ヨ​​善​きよりも​ヨ​​善​し。​タレ​​誰​​オトヽ​​弟​ども​コ​​子​ども​ナンヂラ​​汝等​​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ムカリ​​木合里​ ​ラ​​等​も、かくは​ケンギ​​建議​せざりき。​ワレ​​我​​トホツミオヤ​​先祖︀​​兀哩都︀思​[の​タイゲフ​​大業​]を​ウケツ​​承繼​​兀荅阿剌恢​がざるに(承繼ぐべき人を定めざるに)、​ワス​​忘​​兀馬兒塔​れて​ヲ​​居​りき。​シ​​死​​兀忽艮額​ぬることを​エ​​得​られざるに、​ネム​​睡​​溫塔喇​りて​ヲ​​居​りき」と​ノリタマ​​宣​ひて、「​ワ​​我​​コ​​子​どもの​アニ​​兄​は、​ヂユチ​​拙赤​なるぞ。​ナニ​​何​をか​イ​​云​ふ、​ナンヂ​​汝​​イ​​言​へ」と​ノリタマ​​宣​へり。[292]

​ヂユチ​​拙赤​​チヤアダイ​​察阿歹​の罵り

​ヂユチ​​拙赤​ ​コヱ​​聲​​イダ​​出​​マヘ​​前​に、​チヤアダイ​​察阿歹​ ​イハ​​言​く「​ヂユチ​​拙赤​​イ​​言​へと​ノリタマ​​宣​ふは、​ヂユチ​​拙赤​にや​ユダ​​委​ねんと​ノリタマ​​宣​ふならん。この​メルキト​​篾兒乞惕​より​イ​​出​でたるものにいかんぞ​シ​​知​らしめん、​ワレラ​​我等​」と​イ​​云​ふと​ラ​​等​しく(拙赤の生れたる時の事は、祕史に載せざれども、孛兒帖 兀眞の、篾兒乞惕に掠められ、太祖︀ 王罕 札木合 三人の征伐に乘じて逃げ歸りたる後に生れたる故に、拙赤と名づけられたり。拙赤は、蒙古語 客なり。洪鈞の朮赤 補傳は喇失惕 阿不勒噶資に據り、「孛兒台 有姊爲汪罕 妃、烈祖︀又嘗有於 汪罕、故聞太祖︀之訴、卽脅蔑兒乞、歸孛兒台。未掠時、孕已數月、比歸途朮赤生。倉卒無襁兒具、乃摶麫如籃形、置於騎以載歸。太祖︀喜曰「此不速之客也。」故名曰朮赤」と云へり。この事情に依りて、篾兒乞惕のおみやげなりとの疑ひもありしと見ゆ。

​ヂユチ​​拙赤​の怒り

​ヂユチ​​拙赤​​タ​​起​ちて、​チヤアダイ​​察阿歹​​エリ​​領​にしがみつきて​イハ​​言​く「​カン エチゲ​​罕 額赤格​には​トリワ​​取分​けて​イ​​言​はれざるに、​ナンヂ​​汝​​ワレ​​我​をいかでか​エリワ​​揀分​けたる。​いかなる​​黯巴兒​​ギノウ​​技能​​額兒顚​にて​スグ​​勝​れたる、​ナンヂ​​汝​​たゞ​​合黑察​​ガウジヤウ​​剛情​​客察兀​にてのみ​ケダシ​​蓋​ ​スグ​​勝​れたり、​ナンヂ​​汝​​トホヤ​​遠箭​​桓禿察​​イ​​射​​ナンヂ​​汝​​カ​​勝​​合兒荅​たれば、​オヤユビ​​親指​​赫咧該​​タ​​斷​ちて​ス​​去​てん。​ウ​​搏​​阿巴勒都︀​​ア​​合​ひて​ナンヂ​​汝​​カ​​勝​​亦剌黑荅​たれば、​タフ​​倒​​兀納​れたる​トコロ​​地​​タ​​起​きざらん。​カン エチゲ​​罕 額赤格​​オホミコト​​聖旨​ ​シロ​​知​しめせ」と​イ​​云​へり。

喧嘩の引き分け

​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​フタリ​​二人​ ​エリ​​領​​ト​​執​​ア​​合​ひて​タ​​立​​ヲ​​居​​トキ​​時​​ヂユチ​​拙赤​​テ​​手​​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ヒ​​扯​きて、​チヤアダイ​​察阿歹​​テ​​手​​ムカリ​​木合黎​ ​ヒ​​扯​きて​ヲ​​居​​トキ​​時​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​キ​​聽​きて、​ツグ​​噤​みて​イマ​​在​せり。

​ココシユス​​闊闊搠思​の懇なる訓諭

そこに​ココシユス​​闊闊搠思​は、​ヒダリ​​左​​ホトリ​​邊​​タ​​立​ちて​イ​​言​く「​チヤアダイ​​察阿歹​は、​ナニ​​何​​アワ​​遽​てたる、​ミマシ​​爾​​ミマシ​​爾​​カン エチゲ​​罕 額赤格​は、​ミコ​​子​だちの​ウチ​​內​にて​ミマシ​​爾​​ノゾミ​​望​​カ​​掛​けて​ヰ​​居​ ​タマ​​給​ひき。​ミマシ​​爾​だち​ウマ​​生​るゝ​マヘ​​前​は、​ホシ​​星​​豁都︀​ある​テン​​天​は、​メグ​​迴​​豁兒赤​り(變動し)てありき。​オホ​​多​​斡欒​​クニタミ​​國民​は、​ソム​​反​​ヲ​​居​りき。​フシド​​臥處​​斡欒都︀兒​にも​イ​​入​​斡欒​らず、​カス​​掠​​斡勒札剌勒敦​​ア​​合​ひたりき。​チヒ​​地皮​​闊哩速​ある​チ​​地​は、​ヒルガヘ​​飜​​闊兒別​りてありき。​アマネ​​普​​古兒​​クニタミ​​國民​は、​ソム​​反​​ヲ​​居​[293]き。​フスマ​​衾​​款只列​にも​フ​​臥​​格卜田​さず、​セ​​攻​​歌嚕列勒敦​​ア​​合​ひたりき。かゝる​トキ​​時​には、[​タガヒ​​互​に]​ヨウジン​​用心​​古薛​して[​ソト​​外​に]​ユ​​行​かざりしぞ。[​ユ​​行​けば]​イデア​​出遇​​古嚕勒扯​ふこととなりしぞ。[​イヘ​​家​に]​カク​​躱​​不嚕兀惕​れて、[​ソト​​外​に]​ユ​​行​かざりしぞ[​ユ​​行​けば]​タヽカ​​鬭​​不勒合勒都︀​ふこととなりしぞ。[​イチゾク​​一族​]​シタシ​​親​​阿馬剌​みて、[​ソト​​外​に]​ユ​​行​かざりしぞ。[​ユ​​行​けば]​コロ​​殺︀​​阿剌勒都︀​​ア​​合​ふこととなりしぞ。​カシコ​​賢​​カトン​​合敦​なる​ハヽ​​母​を、​ソイウ​​蘇油​​脫孫​​コヽロ​​心​​都︀㘓​ ​コ​​凝​らしめて、​ウマノチ​​馬乳​​循​​コヽロ​​心​​主嚕堅​ ​ト​​解​けしめて、​モノイ​​物言​へり、​ミマシ​​爾​。(醉ひて妄語せりとの意ならん。​オンシヨ​​溫處​​不列延​より​ひよこり​​不勒惕​とその​ハラ​​腹​より​ウマ​​生​れざりしか、​ミマシダチ​​爾等​​ネツシヨ​​熱處​​合剌溫​より​むく​​合剌惕​​ヒトリ​​獨​​合黑察​ ​エナ​​胞衣​​合忽納黑​より​イ​​出​​合嚕​でざりしか、​ミマシダチ​​爾等​​コヽロ​​心​​主嚕堅​より​ウマ​​生​れたるその​ハヽ​​母​​イカ​​怒​​赤馬惕合​らせば、​カレ​​彼​​トク​​德​​赤納兒​​ウタ​​歌​​者︀乞兒​ひて​イカリ​​怒​​札里喇兀魯​ ​ヤ​​息​ましむとも​アタ​​能​はじ。​ハラ​​腹​​客額里​より​ウマ​​生​れたるその​ハヽ​​母​​ウラ​​怨​​格木哩兀魯​みさせば、​カレ​​彼​​クヤシ​​悔︀​​格訥額兒​みを​キヤ​​消​​格思格​すとも​アタ​​能​はじ。(明譯​チヤアダイ​​察阿歹​ ​ミマシハ​​你​ ​ナニユヘニ​​爲甚​ ​アワテタル​​忙​​クワウテイハ​​皇帝​ ​マノアタリニ​​見​ ​サシ​​指​​ノゾミタマヘリ​​望​ ​ミマシヲ​​你​​アタリ​​當​ ​ミマシダチノ​​您​​ザリシ​​未​​ウマレ​​生​​トキニ​​時​​アメノシタ​​天下​ ​ミダレサワギ​​擾攘​​アヒタガヒニ​​互相​ ​セメオビヤカシテ​攻劫​​ヒト​​人​ ​ザリキ​​不​​ヤスクセ​​安​​スギハヒヲ​​生​​コノユヱニ​​所以​ ​ミマシノ​​你​ ​ケンメイ​​賢明​ ​ナル​​的​ ​ハヽハ​​母​​フカウニシテ​​不幸​ ​ラレキ​​被​​トラヘ​​擄​​モシ​​若​ ​ミマシ​​你​ ​カク​​如此​ ​イハヾ​​說​​アニ​​豈​ ​ザランヤ​​不​​イタマ​​傷​​シメ​​著︀​ ​ミマシノ​​你​ ​ハヽオヤ​​母親​ ​ノ​​的​ ​コヽロヲ​​心​。)

創業の艱難︀

​ミマシ​​爾​だちの​カン エチゲ​​罕 額赤格​は、​スメラミクニ​​帝國​​合木黑兀魯思​​タ​​立​つるに、​クロ​​黑​​合喇​​カシラ​​頭​​帖哩兀​​ウマ​​馬​​罕土合剌​​ノ​​載​せて、​クロ​​黑​​合喇​​チ​​血​​赤速​​カハヲケ​​皮桶​​南不合剌​​イ​​入​れて、​クロ​​黑​​合剌​​マナコ​​眼​​你都︀​​マタヽキ​​瞬​​喜兒篾思​​せ​​勤​ず、​ヒラタ​​匾​​合塔孫​​ミヽ​​耳​​赤乞​​マクラ​​枕​​迭咧​にも​オ​​置​​塔勒賓︀​かず、​ソデ​​袖​​罕出​​マ​​枕​​迭咧列​きて、​エリ​​襟​​豁兒里​​シ​​鋪​​迭不思​きて、​ヨダレ​​涎​​失魯孫​​ノ​​飮​​溫荅剌​み(涎に渴を愈し)て、​シギ​​失吉​齒の間に挿まれる肉)を​クラ​​食​​豁納黑剌​ひ(宿食に當て)て、​ヒタヒ​​額​​アセ​​汗​​アシノウラ​​脚底​​イタ​​到​るまで、​アシノウラ​​脚底​​アセ​​汗​​ヒタヒ​​額​​イタ​​到​るまで、​スヽ​​進​​ツヽシ​​愼​​ユ​​行​​トキ​​時​に、

鞠育の劬勞

​ミマシ​​爾​だちの​ハヽ​​母​は、​モロトモ​​諸︀共​​クシミ​​苦​​ア​​合​ふに、​さつぱり​​豁唻塔剌​​カミユ​​髮結​​孛黑塔剌周​ひて、​スソカラ​​裾紮​​豁斡只塔剌​​オビシ​​帶締​​不薛列周​めて、[294]​しつかり​​亦台塔剌​​カミユ​​髮結​​孛黑塔剌周​ひて、​ミ​​身​​你都︀喇塔剌​​カタ​​堅​​オビシ​​帶締​​不薛列周​めて、​ミマシ​​爾​だちを​ソダ​​育​つるに、​ノ​​嚥​​札勒吉​​アヒダ​​閒​​ナカバ​​半​​札𡂰​​アタ​​與​へて、​ノド​​喉​​豁斡來​​ムセ​​咽​びて​スベ​​都︀​​豁脫剌​てを​アタ​​與​へて、​ムナ​​空​​豁斡孫​しくて​ユ​​行​きたりき。​ミマシ​​爾​だちの​カタ​​肩​​額格木​​ヒ​​扯​きて、「​ヲトコ​​男​​額咧​​ヒトシナミ​​齊等​​タレ​​誰​にならせん。」​ミマシ​​爾​だちの​クビ​​頸​​古主溫​​ヒ​​扯​きて、「​ヒト​​人​​古溫​​ヒトシナミ​​齊等​​タレ​​誰​にならせん」と​イ​​云​ひて、​ミマシ​​爾​だちの​ブイ​​不亦​譯義を知らず。)を​キヨ​​淨​めて、​ミマシ​​爾​だちの​クビス​​踵​​不兒備​​モタ​​擡​げさせて、​ヲトコ​​男​​額咧​​カタ​​肩​​額甘​​センバ​​騸馬​​阿黑塔​​シリ​​臀​​合兒甘​​トヾ​​達​かしめて、​イマ​​今​ ​ミマシ​​爾​だちを​ヨ​​好​​ミ​​見​んと​オモ​​思​ひて​ヰ​​居​ ​タマ​​給​はずや。​ケンメイ​​賢明​なる​ワレラ​​我等​​カトン​​合敦​は、​ヒ​​日​​納㘓​​ゴト​​如​​アキラカ​​明​なる​ミヅウミ​​湖​​納兀兒​​ゴト​​如​​ヒロ​​寬​​コヽロ​​心​ ​マ​​坐​しましき(明譯​ミマシノチヽ​​你父​​ハジメテ​​初​​タツル​​立​​クニヲ​​國​​トキ​​時​​ト​​與​​ミマシノハヽ​​你母​​モロトモニ​​一同​ ​イタヅキテ​​辛苦​​ヲ​​將​​ミマシダチ​​您​ ​ミコ​​兒子​​ダチ​​每​​ヤシナヒ​​養​​オホシ​​大​​ノゾミタマヒキ​​望​​ミマシノ​​你​​ナランヿヲ​​成​​ヒトヽ​​人​​ミマシノハヽハ​​你的母​​ゴトク​​如​​ヒノ​​日般​​アキラカニ​​明​​ウミノゴトクフカシ​​海︀般深​​カクノゴトク​​這等​ ​ケンメイナルニ​​賢明​​ミマシ​​你​ ​イカンゾ​​如何​ ​ベケン​​可​​カク​​這般​ ​イフ​​說​)」と​イ​​云​へり。


§255(11:28:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


太祖︀の諭し

 それより​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​ヂユチ​​拙赤​をいかんぞかく​イ​​云​へる、​ナンヂラ​​汝等​​ワ​​我​​コ​​子​どもの​アニ​​兄​は、​ヂユチ​​拙赤​​アラ​​非​ずや。​ノチ​​後​はかく​ナ​​勿​ ​イ​​云​ひそ」と​ミコト​​勅​ありき。

​チヤアダイ​​察阿歹​の讓り

この​コトバ​​言​につき、​チヤアダイ​​察阿歹​ ​ホヽエ​​微笑​みて​イハ​​言​く「​ヂユチ​​拙赤​​チカラ​​力​ある​ギノウ​​技能​​コタ​​答​​イ​​言​ふまじ。​クチ​​口​​阿馬阿兒​にて​コロ​​殺︀​​阿剌黑三​したるは、​タ​​駄​​阿赤​すべからず。​コトバ​​言​​兀格額兒​にて​シ​​死​​兀忽兀魯克先​なしめたるは、​ハギト​​剝取​​兀卜赤​るべからず。(惡く言はれても減りはせずとの意ならん。​コ​​子​どもの​アニ​​兄​​ヂユチ​​拙赤​ ​ワレラ​​我等​ ​フタリ​​二人​なるぞ。​カン エチゲ​​罕 額赤格​​ナラビユ​​竝行​き、​チカラ​​力​​アタ​​與​へん。​ニ​​逃​​荅勒荅哩黑三​げたるをば、​ツンザ​​劈​​荅勒巴魯​​キ​​斫​​ア​​合​はん。​オク​​後​​豁只荅黑三​れたるをば、​クビス​​踵​​タ​​斷​​輕古嚕​​キ​​斫​​ア​​合​はん。​オゴダイ​​斡歌歹​のみは、​トンコウ​​敦厚​なり。​オゴダイ​​斡歌歹​​イ​​云​​ア​​合​はん。(勸進せん。​オゴダイ​​斡歌歹​は、[295]​カン エチゲ​​罕 額赤格​​マヘ​​前​​ヰ​​居​て、​ケハヒ​​形影​​巴喇阿​ ​オホイ​​大​なる​ヒバウ​​皮帽​​ヲシヘ​​訓​​保里牙​​ウ​​奉​けしめば、​ヨ​​可​からんぞ」と​イ​​云​へり。この​コトバ​​言​につき​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​ヂユチ​​拙赤​は、​ナニ​​何​をか​イ​​云​ふ。​イ​​言​へ」と​ノリタマ​​宣​へり。

​ヂユチ​​拙赤​の讓り

​ヂユチ​​拙赤​ ​イハ​​言​く「​チヤアダイ​​察阿歹​ ​スデ​​已​​イ​​言​へり。​チヤアダイ​​察阿歹​ ​ワレラ​​我等​ ​フタリ​​二人​[​カン エチゲ​​罕 額赤格​に]​ナラビユ​​竝行​き、​チカラ​​力​​アタ​​與​へん。​オゴダイ​​斡歌歹​​イ​​云​​ア​​合​はん(明譯​シム​​敎​​オゴダイ​​斡歌歹​​ウケツガ​​承繼​​ベシ​​者︀​)」と​イ​​云​へり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あるには、

諸︀子 分封の端

​ナラビユ​​竝行​きつゝ​ナン​​何​ぞあらん(明譯​ナンヂ​​你​​フタリ​​二人​​ザレ​​不​​カナラズシモ​​必​​ナラビユカ​​竝行​)。​トチ​​土地​なる​ハヽ​​母​は、​ヒロ​​廣​くあり。​カハ​​河​ども​ミヅ​​水​どもは​オホ​​多​くあり。​ワカ​​分​つべき​スミカ​​營盤​​ヒロ​​廣​げ、​トツクニ​​外國​​シヅ​​鎭​めさせ​ワカ​​分​たん」と​ノリタマ​​宣​ひて、「​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​フタリ​​二人​は、​コトバ​​言​​シタガ​​遵​​ア​​合​へ。​タミ​​民​​亦兒堅​​ナ​​勿​ ​ワラ​​笑​​亦揑額兀魯惕​はせそ。​ヒト​​人​​合㘓​​ナ​​勿​ ​アザケ​​嘲​​合卜合哩兀魯惕​らせそ。​サキ​​前​​アルタン​​阿勒壇​ ​クチヤル​​忽察兒​ ​フタリ​​二人​は、かくの​ゴト​​如​​コトバ​​言​​サダ​​定​​ア​​合​ひて、​カヘツ​​却​てその​コトバ​​言​​シタガ​​遵​はざる​ユヱ​​故​に、いかにか​セ​​爲​られし。​ナニ​​何​をか​ナ​​爲​されし。​イマ​​今​ ​アルタン​​阿勒壇​ ​クチヤル​​忽察兒​ ​フタリ​​二人​​シソン​​子孫​より​ナンヂラ​​汝等​​トモ​​共​​ワカ​​分​​ア​​合​はん。​カレラ​​彼等​​ミ​​見​ては、いかんぞ​オコタ​​慢​られん、​ナンヂラ​​汝等​明譯​イマ​​如今​ ​カレノ​​他​ ​シソン​​子孫​ ​マノアタリニアリ​​見在​​シメ​​敎​​シタガハ​​隨​​ナンヂラニ​​您每​​テ​​以​ ​セン​​爲​​カンガミイマシメト​​鑑戒​)」と​ノリタマ​​宣​ひて、「​オゴダイ​​斡歌歹​は、​ナニ​​何​をか​イ​​云​ふ。​イ​​言​へ」と​ノリタマ​​宣​へり。​オゴダイ​​斡歌歹​ ​イハ​​言​

​オゴダイ​​斡歌歹​ 相續のうけがひ

​カガン エチゲ​​合罕 額赤格​ ​オンシ​​恩賜​して​イ​​言​へと​イ​​云​はるれども、​ナニ​​何​をか​マウ​​申​さん、​ワレ​​我​​アタ​​能​はずといかでか​マウ​​申​さん。​デキ​​出來​​カギリ​​限​ ​ツヽシ​​愼​まんとも​マウ​​申​さんぞ。​ユクスヱ​​久後​ ​モシ​​若​ ​ワ​​我​​シソン​​子孫​に、​アヲクサ​​靑草​​斡郞突︀兒​​ツヽ​​裹​​忽赤阿速​むとも、​ウシ​​牛​​忽客兒​​ク​​喫​​兀祿亦迭克迭古​はれざる、​アブラ​​膏​​斡兀坤突︀兒​​ツヽ​​裹​​忽赤阿速​むとも、​イヌ​​狗​​那孩​​ク​​喫​​兀祿亦迭克迭古​はれざる[もの]​ウマ​​生​​脫咧額速​れば、​オホシカ​​麋​​罕荅孩​[の​ゴト​​如​く]​トビコ​​跳越​​客禿思​え、​ネズミ​​鼠​​忽魯合納​、[の​ゴト​​如​く]​シタガ​​順​​搠列思​​サ​​去​​阿勒荅忽余兀​らしめんか。(辭の[296]まゝに譯したれども、さつぱり分らず。善く讀む人の判斷 又は改譯を竢つ。明の譯官も困りたりと見えて、​タヾ​​只​ ​オソラクハ​​恐​ ​コウセイ​​後世​ ​シソン​​子孫​ ​フサイニシテ​不才​​ザラン​​不​​アタハ​​能​​ウケツグヿ​​承繼​と約めて、大意だけを譯せり。)これだけをぞ​マウ​​申​さん。​ベツ​​別​​ナニ​​何​をか​マウ​​申​さん、​ワレ​​我​」と​イ​​云​へり。この​コトバ​​言​につき​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あるには「​オゴダイ​​斡歌歹​かゝる​コトバ​​言​​イ​​言​ふならば、​ヨ​​可​きぞ」と​ノリタマ​​宣​へり。​マタ​​又​​トルイ​​拖雷​​ナニ​​何​をか​イ​​云​ふ。​イ​​言​へ」と​ノリタマ​​宣​へり。

​トルイ​​拖雷​ 翼衞の志

​トルイ​​拖雷​ ​イ​​言​く「​ワレ​​我​は、​カガン エチゲ​​合罕 額赤格​​ナ​​名​ざしたる​アニ​​兄​に、​マヘ​​前​​ヰ​​居​て、​ワス​​忘​​兀馬兒塔黑散​れたるを​コヽロヅ​​心附​けて、​ネム​​睡​​溫塔喇黑散​りたるを​ヨビサマ​​喚覺​して、​ゼンダク​​然諾​​者︀​の伴、​アカウマ​​赤馬​​者︀額兒迭​​ムチ​​鞭​となりて、​ゼンダク​​然諾​​者︀​より​オク​​後​れず、​ハンレツ​​班列​​者︀兒格​より​カ​​缺​けず、​ナガ​​長​​兀兒禿​​シユツセイ​​出征​​シユツセイ​​出征​して、​ミジカ​​短​​斡豁兒​〈[#ルビの「斡豁兒」は底本では「斜豁兒」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§255(11:32:08)の漢︀字音訳に倣い修正]〉き(劇しき​タヽカヒ​​戰​​タヽカ​​戰​ひて​アタ​​與​へん」と​イ​​言​へば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ヨ​​善​しとし、​ミコト​​勅​あるには

太祖︀の兄弟 五人 各一人 相續の約

​カツサル​​合撒兒​​シソン​​子孫​ ​ヒトリ​​一人​に[その​クラヰ​​位​を]​シ​​知​らしめ、​アルチダイ​​阿勒赤歹​​シソン​​子孫​ ​ヒトリ​​一人​​シ​​知​らしめ、​オツチギン​​斡惕赤斤​​シソン​​子孫​ ​ヒトリ​​一人​​シ​​知​らしめ、​ベルグタイ​​別勒古台​​シソン​​子孫​ ​ヒトリ​​一人​​シ​​知​らしめん。かく​オモ​​思​ひて、​ワ​​我​​シソン​​子孫​ ​ヒトリ​​一人​​シ​​知​らしめて、​ワ​​我​​ミコト​​勅​は、​コト​​別​​ナ​​爲​さず(變へず​ヤブ​​毀​らざれば、​タガ​​違​はざれ、​ウシナ​​失​はざれ、​ナンヂラ​​汝等​​オゴダイ​​斡歌歹​​シソン​​子孫​に、​オアヲクサ​​靑草​​斡郞​​ツヽ​​裹​むとも​ウシ​​牛​​ク​​喫​はれざる、​アブラ​​膏​​斡兀坤​​ツヽ​​裹​むとも​イヌ​​狗​​ク​​喫​はれざる[もの]​ウマ​​生​れば、​ワ​​我​​シソン​​子孫​​ウチ​​內​​ヒトリ​​一人​​ヨ​​善​きもの​ウマ​​生​れずやはあらん」と​ミコト​​勅​ありて、(合撒兒 阿勒赤歹 斡惕赤斤 別勒古台 四人の子孫の相續の事と太祖︀の子孫 卽 元帝 金帳 罕 察合台 罕 亦勒罕の相續の事とは、編末の附錄に述ぶべし。


§256(11:35:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​タングト​​唐兀惕​の徴發

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​シユツバ​​出馬​するに、​タングト​​唐兀惕​​タミ​​民​​ブルカン​​不兒罕​​トコロ​​處​​ツカヒ​​使​​ヤ​​遣​り、「​ナンヂ​​汝​​ミギ​​右​​テ​​手​​ナ​​爲​らんと​イ​​云​ひたりき、​ナンヂ​​汝​[297]​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​コガネ​​金​​ハヅナ​​縻繩​​タ​​斷​たれて​セツシヨウ​​折證​せんと​シユツバ​​出馬​せり、​ワレ​​我​​ミギ​​右​​テ​​手​となりて​シユツバ​​出馬​せよ」と​イ​​云​​ヤ​​遣​りたれば、​ブルカン​​不兒罕​ ​コヱ​​聲​​イダ​​出​さざるに、まづ​アシヤガンブ​​阿沙敢不​ ​イハ​​言​

​アシヤガンブ​​阿沙敢不​の大言

​チカラ​​力​ ​タ​​足​らざる​ウチ​​內​​カン​​罕​​ナ​​爲​りつゝ​ナニ​​何​」と​イ​​云​ひて、​イクサ​​軍​​ソ​​添​へず、​オホイ​​大​なる​コトバ​​言​​イ​​言​ひて​ヤ​​遣​りき。そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​アシヤガンブ​​阿沙敢不​にいかでか かく​イ​​言​はれたりしと​カンガ​​考​へ、​カレラ​​彼等​​トコロ​​處​​スナハチ​​便​ ​カヘ​​翻​りて​サ​​指​して​ユ​​往​かば、​ナン​​何​​カタ​​難︀​きことかあらん。​ベツ​​別​​スナハチ​​卽​ ​ヒト​​人​​トコロ​​處​​ムカ​​向​ひて​ヲ​​居​​トキ​​時​なるぞ。[​ヤ​​罷​めん]その​コト​​事​を。​トコヨ​​長生​​アマツカミ​​上帝​​イウゴ​​祐︀護​せられば、​コガネ​​金​​ムナガイ​​牽胷​ ​ケンゴ​​堅固​なるを​ヒ​​扯​きて​コ​​來​ば、そこに​スナハチ​​卽​ ​ジヤウジユ​​成就​せよ、その​コト​​事​を」と​ノリタマ​​宣​ひて、(この時の不兒罕は、夏の神︀宗 李遵頊なり。襄宗 安全は太祖︀ 六年に殂し、族人なる遵頊 位を嗣げり。元史 太祖︀紀には、十三年 戊寅、卽 西域征伐の前年、「是歲、伐西夏、圍其王城。夏主李遵頊出走西涼」とあれども、祕史の趣にては、釁隙 開けたるのみにて、征伐は無かりし樣なり。親征錄 集史にも、その年 西夏を伐ちたることを載せず。


§257(11:36:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​クラン カトン​​忽闌 合屯​の隨行 ​オツチギン​​斡惕赤斤​の畱守

 ​ウサギ​​兔​​トシ​​年​我が順德 天皇 承久 元年 己卯、宋の嘉定 十二年、金の宣宗 興定 三年、元の太祖︀ 十四年、西紀 一二一九年、太祖︀ 五十八歲の時)、​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​トコロ​​處​​アライ​​阿喇亦​​ヨ​​依​​コ​​越​​シユツバ​​出馬​するに、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​カトン​​合屯​より​クラン カトン​​忽闌 合屯​​ツ​​伴​​スヽ​​進​み、​オトヽ​​弟​だちより​オツチギン ノヤン​​斡惕赤斤 那顏​​タイラウエイ​​大老營​​ルス​​畱守​せしめて​シユツバ​​出馬​せり。(

諸︀書 異辭なき己卯の西征

耶律 楚材の西游錄に「戊寅春三月、出雲中、抵天山、渉大磧、踰沙漠、達行在所。明年、大擧西伐〈[#底本では「伐」のあとに不正な返点「一」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉。」元史 耶律 楚材の傳にも「己卯夏六月、帝西討回回國。」親征錄「己卯、上總兵征西域。」太祖︀紀「十四年己卯夏六月、西域殺︀使者︀、帝率師親征。」使者︀の殺︀されたるは戊寅の年にして、己卯の年に出征したるなり。多遜の史は、主吠尼に本づきて、「一二一八年に使者︀ 殺︀され、その冬 成吉思 汗は斡兒朶を發し、弟 兀主堅(斡惕赤斤)に國の政を委ね、一二一九年の夏、亦兒的失の河邊に駐りて、馬を養ひ軍を整へ、委古兒の君(巴兒主克)、阿勒馬里克の君 昔固納克 帖勤、合兒魯克の阿兒思闌 罕みな會し、秋、師 進み、六十萬と云はれたり。闊喇自姆 王 懼れて、何の計もえせず、蒙古の軍 昔渾 河に至るまで、抗[298]敵するもの無かりき」と云へり。一二一九年は、卽 己卯の年なり。丘長春の西游記に、宣使 劉仲祿、己卯の五月「在乃滿 國 兀里朶旨」とあるは、太祖︀ 親發の前月なり。乃滿 國 兀里朶は、太祖︀の四 斡兒朶の一なる乃蠻の斡兒朶、辛巳の六月 長春の立寄りたる處にして、下文に「窩里朶、漢︀語行宮也。其車與亭帳、望之儼然。古之大 單于、未此之盛也」と云へり。耶律 楚材の雲中より至りたる行在所も、この斡兒朶なり。一二一八年(戊寅)の冬 斡兒朶を發したる(多遜の史)は、客魯嗹 河の大 斡兒朶にして、乃蠻の斡兒朶を發したるは、己卯の六月なり。翌年 庚辰の二月、長春 燕京に入りて「行宮漸西」と聞けるは、己卯の秋 軍を進めたることなり。己卯の西征は、諸︀書 殆ど異辭なし。然るに喇失惕の史には

修正 祕史の紀年の一年後れ

「兔の年、諸︀皇子 將帥を集めて西伐の事を議り、軍中の法度を定め、龍の年 亦兒的失 河に駐夏し、秋、軍を進めて、斡惕喇兒 城に至る」とあり、諸︀書に較ぶれば、一年後れたり。親征錄は「己卯、上總兵征西域」とは書き〈[#「書き」は底本では「書ぎ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉出したれども、次に「庚辰、上至也兒的石 河夏、秋進兵、所過城皆克、至斡脫羅兒 城」と云へるは、全く喇失惕に同じ。蓋 修正 祕史の紀年に一年の後れありしと見えて、己卯より癸未まで五年の間の事蹟は、親征錄も集史も皆一年づゝ後れたり。洪鈞 曰く「帝駐也兒的石 河、應是己卯夏、而西域史、辰年方至也兒的石 河、與親征錄同。由是而見脫必赤顏 之 叙西伐、誤始龍年。元史旣本之、而又考知他書始於己卯、據以增入。於是攻取 蒲華 薛迷思干 兩城、一事兩記。譯西域史、乃知其病在此。」この一事 兩記は、錢大昕より疑ひ始めたる難︀題なりしが、洪鈞の解說にて、その病の根本 明になれり。阿喇亦は、卷八なる阿唻 嶺にして、乃蠻の地より不黑都︀兒麻 河の源に赴くに越ゆる所なり。

西征の路順

然るに太祖︀ 西征の路は、不黑都︀兒麻 河に向はずして、乃蠻の地より阿勒台 山の東南幹山を越えて、合喇 額兒的失 河に出でたれば、阿喇亦を越ゆと云へるは、いかゞあらん。耶律 楚材 丘長春の經たる路は、蓋 大軍のに異ならざる故に、楚材の西游錄と長春の西游記とに依り、太祖︀の進軍を跡附くるは、頗る興味ある事なれば語 長けれども、こゝに補叙せん。まづ西游記に、辛巳 五月 中旬、陸局 河(客魯嗹 河)を離れてより西に行き、六月 十四日 長松嶺を越え、西北に行き、平地に出で、石河を見、高嶺に登り、海︀子に臨み、「二十八日、泊窩里朶 之東。宣使往奏稟皇后、奉旨請師渡河。其水東北流。」玻塔紉は、長松嶺を康該 山の東の枝なる溫都︀兒 沙納(高き松)山に當て、石河を薛連噶 河の南の潀水なる赤羅禿(石ある)河に當て、高嶺の下なる海︀子を赤羅禿 河の流れ出づる察罕 諾兒(白き湖)に當て、

​エテル​​額帖兒​ 河の​ホトリ​​邊​なる​ナイマン​​乃蠻​​オルド​​斡兒朶​

乃蠻の斡兒朶を薛連噶 河の一源なる額帖兒 河の邊に置けり。次に「七月九日、同宣使西南行五六日云云。又三二日歷一山、高峰如削、松杉鬱茂、而有海︀子。南出大峽、則一水西流。」玻塔紉 曰く「尖れる峰は、烏里雅蘇台の東なる康該の雪峰の一なる斡惕桓 孩兒罕 山なり。それの麓、孛固丁 河の源に一の湖あり。峽より出でたる後、西に流るゝ河は、烏里雅蘇台 河なり」と云へり。長春は、それより西南に行き、沙場を過ぎ、又 五六日 嶺を踰えて南し、田 鎭海︀の城の北を過ぎ、二十六日、阿不罕 山の北に鎭海︀ 來謁︀し、八月八日、大山に傍ひて西に行き、

​アルタイ​​阿勒台​の東南幹山

又「西南約行三日、復東南過大山、經大峽。中秋日、抵金山東北少駐、復南行。其山高大、深谷長坂、車不行。三太子出軍、始闢其路。約行四程、連度五嶺、南出山前、臨河止泊。從官連幕爲營、因水草便、以待鋪牛驛騎、數日乃行、渡河而南。」卜咧惕施乃迭兒 曰く「長春の過ぎたる山口にて大軍の過ぐる爲に路の聞かれたるを見れば、長春は、成吉思 汗 耶律 楚材と同じ路を行きたることうつなし。荅必思騰 荅班の山口は、阿勒台 山脈を越ゆ[299]る峠の內にて困難︀ 少き所なれば、長春 等はその山口を過ぎたるならん。然れども又 上文の水草の便と河を渡るとの二語に據れば、兀闌 荅班を越えて不勒昆 河(兀侖古 河の上流)に下れりとも考へらる。」これより長春は、直に南に進み、白骨甸を度り、沙陀を過ぎ、委兀兒の國に向ひたれども、西征の軍は、金山を越えたる後、馬力を養はんが爲に、西に轉じて合喇 額兒的失 河に一夏を過したりき。合喇 額兒的失 河の谷とその潀水なる克㘓 河の谷とは、今も善き牧場として名高しと云ふ。西游錄に「道過金山云云。金山而西、水皆西流入海︀」とあるは、兀侖古 河の乞失勤巴什 湖に入り、合喇 額兒的失 河の齋桑 湖に入るの類︀を云ふ。

​ビシユバリク​​必什巴里克​

次に「其南有回鶻 城、名別石把云云。城西二百里、有輪臺縣。」西游記に「八月二十七日、抵陰山(天山)後。翌日、沿川西行、歷二小城。西卽 鼈思馬 大城云云「此大唐時北庭端府。」其西三百餘里、有縣曰輪臺。九月二日、西行。四日、宿輪臺之東。又歷二城、重九日至回紇 昌八剌 城。」記の鼈思馬は、卽 錄の別石把、元史の別失八里、喇失惕の必什巴里克にて、委兀兒の都︀なり。克剌普囉惕は、必什巴里克を今の烏嚕木齊に當てて、洪鈞もそれに從ひたれども、かくては昌八剌に接近して、輪臺を置くべき所なし。徐松 曰く「唐北庭大都︀護府治、在今 濟木薩 之北。端、卽都︀護字之合音。輪臺縣治、約在阜康縣西五六十里」と云へる、從ふべし。昌八剌は、元史 地理志に彰八里、耶律 希亮の傳に昌八里と書けり。程同文 曰く「中統 元年、阿里不哥 反、希亮踰天山、至北庭都︀護府、二年、至昌八里 城、夏、踰馬納思 河、則 昌八里 在今 瑪納斯 河之東也。」錄に「瀚海︀去(別石把)城數百里。過瀚海︀千餘里、有不剌 城。不剌南有陰山。山頂有池、周圍七八十里。出陰山、有阿里馬 城。」

​サイラム ノル​​賽喇姆 諾兒​

記に「翌日(九月十日)、竝陰山而西、約十程。又度沙場五日、宿陰山北。詰朝南行、長坂七八十里、抵暮乃宿。晨起、西南行約二十里、忽有大池、方圓幾二百里。師名之曰天池。沿池正南下、左右峯巒峭拔。眾流入峽、奔騰洶湧、曲折彎環、可六七十里。二太子扈從西征、始鑿石理道、刋木爲四十八橋、橋可車。薄暮宿峽中、翌日方出、入東西大川。次及一程、九月二十七日、至阿里馬 城。」錄の瀚海︀は、卽 記の沙場なり。徐松 曰く「晶河城東、至托多克積沙成山、浮澀難︀行。東距阜康縣、一千一百里、故云十餘程。」不剌は、地理志に普剌、耶律 希亮の傳に布拉と書き、喇失惕は普剌惕と云へり。洪鈞 曰く「今城已廢。當博羅塔拉 河左近、南臨賽喇木 淖爾。」徐松 曰く「自托多克晶河、山行五百五十里、至賽喇木 淖爾 東岸。淖爾 正圓、周百餘里、雪山環之、所謂天池海︀。竝淖爾南行五十里、入塔勤奇 山峡、諺曰果子溝。溝水南流、勢甚湍急。架木橋、以度車馬。峽長 六十里、爲四十二橋、卽 四十八橋遺趾。」記の東西大川は、伊犂 河の谷を云へるなり。

​アルマリク​​阿勒馬里克​

〈[#「阿勒馬里克」は底本では「阿勤馬里克」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉阿里馬 城は、元史の阿力麻里、珀兒沙 人の阿勒馬里克なり。嚕西亞の薛篾諾甫は「阿勒馬里克は、庫勒札の西北 四十 嚕里 伊犂 河の谷にありき」と云ひ、嚕西亞の庫勒札 領事たりし敎授 咱合囉甫は「綏定より七 嚕里の所に古城の大なる廢墟あることを聞き知れり」と云ひき。又 錄に「又 西有大河伊列」とあるは、卽 伊犂 河なるを、記には「又西行四日、至荅剌速 沒輦、水勢深闊、抵西北流。十月二日、乘舟以濟」とあり。塔剌思 河は、伊犂 河より遙に西にあり、記を書きたる人ふと誤りたるなれば、これは伊犂 河として見るべし。長春の歸路に、癸未 三月 二十三日、吹 沒輦の南岸に至り、「又十日、至阿里馬 城西百餘里、濟大河」とある大河は、この伊犂 河なり。

西遼の故都︀

錄に「其西有城、曰虎司 窩魯朶、卽 西遼之都︀。附庸城數十。」記に「十月二日、乘舟以濟、南下至一大山(阿剌套 嶺か)又西行五日云云。西行七日、度西南一山(喀思帖克 山口か)。明日至回紇 小城。十有六日、[300]西南過板橋河、晩至南山(阿列克散迭兒 山脈)下、卽 大石 林牙。其國王、遼後也云云。」板橋にて渡れる河は卽 吹 沒輦、今の楚河にして、合喇 乞塔惕の都︀は、楚河と阿列克散迭兒 山脈との間にありしなり。

​タラス​​塔剌思​

錄に「又西數百里、有塔剌思 城。」記に「十有八日、沿山而西七八日、山忽南去。一石城當途、石色盡赤、有軍古跡。西有大塚︀、若斗星相聯。又渡石橋、竝西南山、行五程、至塞藍城。」記を書ける人、伊犂 河を荅剌速 沒輦と誤りたる故に、こゝには塔剌思 河の名を擧げず。然れども渡れる石橋は、塔剌思 河の橋なるべし。卜咧惕施乃迭兒 曰く「長春は、今の庫勒札に近き阿勒馬里克を發したる後、伊犂 河を庫勒札より遠からぬ所にて渡りたりと見ゆ。それより蓋 今の威兒尼のある所に進みたり。阿剌套 連山に沿ひ 西に行き、蓋 舊き驛路に由り、喀思帖克 山口にて、連山を越えたり。(原注、威兒尼より塔什肯篤に車の通らるゝ新しき驛路は、北に廻り路して、闢什珀克にて舊路に合ふ。)楚河をば必ず今の脫克馬克にて渡り、阿列克散迭兒 山脈の麓に達したるならん。それより今 驛路あるこの山脈の麓を西に行き、塔剌思 河に到り、今の奧列 阿塔の邊にて河を渡りき、賽喇姆 城は、沁肯惕の東 十三 英里に今も猶あり。奧列 阿塔より塔什肯篤に至る驛路は、賽喇姆に近く通るなり。」錄に「又西南四百餘里、有苦盞 城 八普 城 可傘 城 芭欖 城。苦蓋 西北五百里、有訛打剌 城。」苦蓋は、失兒 荅哩牙の南岸なる闊氈篤なり。八普は、地理志に巴補と書き、經世 大典の圖は柯散の南に置けり。嚕西亞の地圖に、納曼干の西 失兒 荅哩牙の北に帕魄とあるは、それなり。可傘は、地理志の柯散、曷思麥里の傳の可散にして、納曼干の西北 三十 嚕里、喀散 小河の傍にあり。

​バタン​​巴擔​

芭欖 城は、速勒壇 巴別兒の記錄に見えたる康底 巴擔にして、闊氈篤の東にありき。康底は城邑、巴擔は、巴旦杏にして、巴旦杏の名高き所なり。この果は支那に無かりし故に、珀兒沙 語をその儘に用ひたり。本草 綱目には巴旦杏と書き、本草 正要には八擔 杏と書けり。錄に「芭欖 城邊、皆 芭欖 園、故以名。其花如杏而微淡、葉如桃而差小、冬季而花、夏盛而實」と云ひ、記にも「正月杷欖始華、類︀小桃。俟秋、採其實食之、味如胡桃」と云へり。芭欖も把欖も、巴擔を聞き誤りたるなるべし。嚕西亞の地圖に、浩罕篤と闊氈篤との間に康亦 巴擔と云ふ所あるは、卽 その地なり。訛打剌は、名高き斡惕喇兒なり。後に言ふべし。記に十一月 五日 塞藍にて病死したる門人 趙九古を葬り、「卽行西南、復三日至一城。明日又歷一城、復行二日有河、是爲霍闡 沒輦。由浮橋渡。」

​ホジェンド​​闊氈篤​

霍闡 沒輦は、中世の阿喇必亞 地理家の昔渾 河、今の失兒 荅哩牙なり。常德の西使記に忽牽 河、元史 郭賣玉の傳に忽章 河、明史の西域 傳に火站 河と云ひ、赫兒別羅惕は「阿喇必亞 人は、昔渾 河を通俗には「納哈兒 闊展篤」闊展篤の河と呼びたり」と云ひ、速勤壇 巴別兒も、この河をしか呼べりと云ふ。卜咧惕施乃迭兒 曰く「長春の歷たる二城の一は、沙什 卽 塔什肯篤なるべし。失兒 荅哩牙を渡れる所は、蓋 撒馬兒罕に至る驛路の通る赤納思なりけん。」蒙古の軍は、斡惕喇兒 指して西に進みたりしに、長春は、賽喇姆より直に西南に行きたれば、賽喇姆 以往の行程は、大軍と同じからざりき。

​ヂエベ​​者︀別​ 等 三將の派遣

​ヂエベ​​者︀別​​センパウ​​先鋒​​ヤ​​遣​りぬ。​ヂエベ​​者︀別​​ゴヱン​​後援​​スベエタイ​​速別額台​​ヤ​​遣​りぬ。​スベエタイ​​速別額台​​ゴヱン​​後援​​トクチヤル​​脫忽察兒​​ヤ​​遣​りぬ。(脫忽察兒は、多遜の史に脫噶察兒とありて、太祖︀の壻なりと云へり。元史 世系表なる鐵木哥 斡赤斤の孫 塔察兒 國王を集史に脫噶察兒と云へるに依れば、この脫噶察兒は、博爾忽[301]の傳に附記せる從孫 塔察兒ならんと考へらる。塔察兒の傳に西征に從へることを載せざるは、軍令に違ひて太祖︀に責められたる故に、その家傳に諱みて略かれたりしならん。)この​ミタリ​​三人​​ヤ​​遣​るに、「​ソトモ​​外面​​ユ​​往​きて​スルタン​​速勒壇​​カナタ​​彼方​​イ​​出​でて、​ワレラ​​我等​​イタ​​到​らしめて​ハサミセ​​夾攻​めん」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りぬ。​ヂエベ​​者︀別​はかく​ユ​​往​きて​カンメリク​​罕篾里克​​シロ​​城​どもを​ヘ​​經​​ウゴ​​動​さず、​ソトモ​​外面​​ス​​過​ぎけり。その​ウシロ​​後​より​スベエタイ​​速別額台​も、その​リイウ​​理由​​ヨ​​依​​ウゴカ​​動​さず​ス​​過​ぎけり。

​トクチヤル​​脫忽察兒​の軍令違反

その​ウシロ​​後​より​トクチヤル​​脫忽察兒​は、​カンメリク​​罕篾里克​​カタハラ​​傍​​シロ​​城​ども​オカ​​侵​して​カレ​​彼​​タナツモノ​​田禾​​カス​​掠​めき。​カンメリク​​罕篾里克​は、​シロ​​城​どもを​オカ​​侵​されたりとて、​ソム​​背​​ウゴ​​動​きて、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​​ア​​合​ひけり。(

​スルタン​​速勒壇​の異文

速勒壇は抹哈篾惕 敎徒の王號にして、阿剌 額丁 抹哈篾惕 闊喇自姆 沙は、合里發の命をも受けずに僭稱せり、この時 抹哈篾惕 已に死し、その子者︀剌勒 額丁 卽 者︀剌列丁は、速勒壇の位を嗣ぎたり。札剌勒丁 莎勒壇は者︀剌列丁 速勒壇の訛なり。速勒壇は、西游錄に梭里檀、親征錄に速里壇、西游記 元史 郭寳玉の傳に筭端、郭侃の傳に筭灘、巴而朮 阿而忒の傳に鎖潭とあり。者︀剌列丁は、親征錄 元史 本紀に札蘭丁とあり。

罕に非ざる​カンメリク​​罕篾里克​

罕篾里克は、巴而朮 阿而忒の傳に罕勉︀力とあり。喇失惕に據れば、篾兒甫の酋長にして、一國の罕に非ず。親征錄 元史 本紀に蔑里 可汗と云ひ、祕史 原文に罕と篾力克とを離し、語譯に皇帝 篾力克、文譯に篾力克 王と云へるは、皆 非なり。者︀別 等 三將の派遣は、太祖︀ 十四年 己卯の秋 攻擊の始まりし時の事に非ず。

親征錄なる三將の追擊

親征錄に據れば、太祖︀ 已に失兒 河の畔なる諸︀城を下し、孛合喇 撒馬兒罕を平げ、拙赤 察阿歹 斡歌歹は兀兒堅只に克ち、拖雷は闊喇散の諸︀城を破り、太祖︀ 自ら阿木 河を渡り、巴勒黑を破り、壬午(太祖︀ 十七年)の春 塔列干の寨を破りたる後、「是夏、避暑︀於 塔里汗 寨高原、時西域 速里壇 札蘭丁 遁去。遂命哲別前鋒之、再遣速不台 拔都︀繼、又遣脫忽察兒殿其後。哲別 至蔑里 可汗 城、不犯而過。速不台 拔都︀ 亦如之、脫忽察兒 至、與其外軍戰。蔑里 可汗 懼、棄城走」とあり。この文の大意は、祕史と異ならず。然れども喇失惕の集史に據れば、三將の派遣は、者︀剌列丁を追はんが爲に非ずして、抹哈篾惕を追はんが爲なりき。集史の文は甚 委し。その略に曰く

集史なる三將の追擊

「蛇の年(太祖︀ 十六年 辛巳)の春、成吉思 汗は、孛合喇を破り、諸︀軍を集めて撒馬兒罕を圍める時、速勒壇 已に南方に遁れたりと聞き、徹別 速不台を遣り、各 萬人にて追はしめ、脫噶察兒 巴哈都︀兒にも萬人にて續かしめ、戒めて曰く「彼もし强くはむかひて、汝等 力 足らずば、進まずして、速く我に吿げよ。彼 遁れば、穴に入るとも、窮めよ。過ぐる所にて、降る者︀は懷け、逆ふ者︀は壞れ。三年を期とし、迭施惕 乞魄察克より抹古里思壇に回り、我等に遇へ。汝等の後より、我 又 拖雷に闊喇散の諸︀城を平げしめ、拙赤 察合台 斡歌台に闊喇自姆の都︀を取らしめん。皇天の祐︀護に賴り、此等の事を成し畢へば、凱旋せん」と云ひて、三將を遣り、已に撒[302]馬兒罕を陷して、その秋 三皇子を闊喇自姆に遣り、成吉思 汗は拖雷と鐵門關を過ぎ、拖雷を遣りて闊喇散を攻めしめたり」と云へり。抹哈篾惕の追窮を命ぜられたる三將の內、脫噶察兒の名は、その後見えず。「徹別 速不台は、巴勒黑 你沙不兒 諸︀城を降し、路を分けて西に進みたれば、抹哈篾惕 窮迫し、裏海︀の小島に入りて病死せり。その子 者︀剌列丁 位を嗣ぎ、島より出でて、闊喇自姆に往きたれども、畱まること能はず、南に走りて噶自納に入りたり。馬の年(太祖︀ 十七年 壬午)の春、拖雷は闊喇散の諸︀城を平げて還り、成吉思 汗と兵を合せて塔列干の寨を攻め下し、察合台 斡歌台も、闊喇自姆を平げて至り會し、その夏 塔列干に駐れり」とありて、さて三將 追擊の初に遡り「三將の速勒壇を追ひし時、篾兒甫の酋長 罕篾里克は、使を遣りて降りたれば、成吉思 汗は「もし罕篾里克の地を經ば、侵すべからず」と三將に命じたり。徹別 速不台は、命の如く侵さず過ぎたるに、脫噶察兒 後れ至り、軍士 劫掠したれば、山居の人 拒ぎ戰ひ、脫噶察兒 陣歿せり。罕篾里克は、脫噶察兒の横暴なることを成吉思 汗に吿げ遣りて、衣服を贈︀りて謝したり。然れども懼れて安からず、者︀剌列丁の噶自納に奔れるを聞き、使を遣りて屬したり」と云へり。然らば脫噶察兒の軍士の劫掠は、速勒壇 抹哈篾惕を追ひて巴勒黑より你沙不兒に向へる時にして、喇失惕は、罕篾里克の者︀剌列丁に屬することを叙べんが爲に、者︀剌列丁の噶自納に奔れる後に至り追叙したるなり。然るを親征錄に札蘭丁を追へるが如く書けるは誤れり。されどもこの誤は、修正 祕史を誤譯したるにも非ず、原本 祕史より已に誤り居たるなり。

​ドーソン​​多遜​の異說

又 多遜の史には「一二二〇年(太祖︀ 十五年 庚辰)の春、孛合喇 撒馬兒罕を取り、徹別 速不台を遣り抹哈篾惕を追はしむ」とありて、脫噶察兒の事を云はず。さて「その秋、三皇子をば兀兒堅只を攻めに遣り、拖雷を闊喇散に遣りて徹別 速不台の後援を爲さしめたり。拖雷は、その冬 姊妹の夫 脫噶察兒を先鋒として捏撒に遣り、その城を屠りたる後、脫噶察兒は你沙不兒に至り、その已に降りたるを知らずして侵掠し、城兵に射殺︀されたり。一二二一年(太祖︀ 十六年 辛巳)の春、拖雷の軍は、篾嚕 沙希展(卽 篾兒甫)を降し、你沙不兒を破れる時、脫嚆察兒の妻は、萬人を率ゐて城に入り、人畜を屠りて夫の仇を報いたり」と云ひて、篾兒甫の酋長 罕篾里克の事は、名も見えず、諸︀書と異なり。多遜は、多く主吠尼に本づきたりと云へども、恐らくは誤あらん。たゞ癸未 以前 五年の間 紀年の正しきは、多遜の獨得なり。​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ムカヘ​​迎​逆戰)に​シユツバ​​出馬​しけり。

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​の敗北

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マヘ​​前​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​センポウ​​先鋒​​ユ​​行​きけり。​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​タイヂン​​對陣​して、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​は、​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​ヤブ​​敗​りて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トコロ​​處​​イタ​​到​るまで​カ​​勝​ちて​キ​​來​つるに(親征錄「蔑里 可汗 懼、棄城走」の續に「忽都︀忽 那顏 聞之、率兵進襲。時 蔑里 可汗、與札蘭丁合。就戰不利、遂遣使以聞」と云ひ、元史 太祖︀紀 十七年 壬午の條に「夏、避暑︀ 塔里寒 寨。西域 主 札闌丁 出奔、與滅里 可汗合。忽禿忽 與戰 不利」とあり。集史に、馬の年の夏、太祖︀ 塔列干に居りし時「失乞 忽禿忽を三萬人にて者︀剌列丁を禦ぎに遣りぬ。罕篾里克は、[303]その眾と康克里 人とを率ゐて者︀剌列丁に合ひ、勢 益 振ひ、蒙古の軍と別嚕安に遇へり。者︀剌列丁は自ら中軍を、罕篾里克は右翼を、賽弗丁 阿固喇克は左翼を率ゐ、終日 戰ひて決せず、明日 又 戰ふ。者︀剌列丁 眾を勵まして圍み攻め、失乞 忽禿忽 敗れ走り、死傷 夥しかりき。成吉思 汗これを聞きて憂ふる色なく、たゞ勝に狃れて戰を輕ずることを誡めたるのみなりき。者︀剌列丁は虜︀獲を分てる時、罕篾里克は、阿固喇克と駿馬を爭ひ、阿固喇克の面を策もて撾ちたるを、者︀剌列丁は、祖︀母の族人なりとて止めざりしかば、阿固喇克 怒り、部兵を率ゐて客兒曼の方に去れり。者︀剌列丁 勢 忽 弱り、又 蒙古の軍の至らんことを恐れ、噶自納に退き、信度 河を渡らんとせり」とあり。多遜は、一二二一年(太祖︀ 十六年 辛巳)の秋、成吉思 汗は塔列干を發して南に行き、失乞 忽禿忽を先鋒に遣り、その冬 巴嚕安の戰ありとし、罕篾里克を阿民馬里克に作り、突︀兒罕 合屯の弟なりと云へり。太祖︀の塔列干を發して欣都︀庫施 山を越えたるは、多遜の云へる如く十六年 辛巳の秋にして、親征錄 集史 元史の如く十七年 壬午の夏ならざることは、長春の西游記を以て證すべし。

西游記の月日の確實

そもそも西游記の記事の內には、辛巳の年(太祖︀ 十六年)客魯嗹 河の南岸を西に行ける時「五月朔亭午、日有之、旣衆星乃見、須臾復明。蝕西南、生東北」とあり、又 邪米思干の人は「此中、辰時食至六分止」と云ひ、金山の人は「已時食至七分」と云へりとあるに由り、その書の月日の確實なることは、極印を打たれたるものなり。この日食は、金史の天文志にも「興定五年五月甲申朔、日食」と記され、淮黎は、卜咧惕施乃迭兒の「支那 中世 旅行者︀」の序に、この日食は一二二一年 五月 二十三日 倫敦の午前 三時 四十五分の食 甚なることを推定して、長春の觀察の誤りなきことを云へり。さて長春は、十六年 辛巳の十月 二日 伊犁 河を濟りてより、西に行くこと十二日にして、西南の一山(喀思帖克 嶺)を越えたる時、

烏古孫 仲端の往還

「逢東夏使回、禮師於帳前。因問「來何時。」使者︀曰「自七月十二日朝。帝將兵追算端 汗印度。」」この使者︀は、金の宣宗の使 烏古孫 仲端にして、この年 七月の初に塔列干にて太祖︀に謁︀し、太祖︀の者︀剌列丁 速勒壇を追ひに出馬したるを見て辭し回れるなり。金史 宣宗紀に「興定 四年 七月、以烏古孫 仲端等使大元。五年十二月丁巳、禮部侍郞 烏古孫 仲端、翰林待制安庭珍使北還、各進一階」忠義傳に「仲端奉使乞和於大元云云。至西域、進見太祖︀皇帝、致其使事、乃還。自興定四年七月行、明年十二月還至」とあり。金の興定 五年は、卽 太祖︀ 十六年なり。劉祁の撰れる仲端の北使記に「至五年十月復命」とあるは、十の下二の字を脫せるなり。又 北使記に、四年十二月の初に北界(蒙古の地)を出で、五年 四月 上旬に西遼に至るとあるに據れば、仲端は、西遼より三月行きて、七月の初に行宮に朝し、辭し回り又 三月にして、十月中旬に西遼を過ぎて長春に逢ひ、又 二月にして復命したるなり。元史 太祖︀紀 十六年 辛巳の條に「金主遣烏古孫 仲端、奉國書和、稱帝爲兄。不允」とあるはよけれども、又 十七年 壬午の條に「秋、金復遣烏古孫 仲端來 請和、見帝 于 回鶻 國。帝謂曰「我向欲汝主授我河朔地、令汝主爲河南王、彼此罷兵、汝主不從。今 木華黎 已盡取之、乃始來請耶。」仲端 請哀。帝曰「念汝遠來。河朔旣爲我有、關西數城未下者︀、其割付我、令汝主爲河南王。勿復違也。」仲端乃歸」とあるは、前年に書くべき勅語をこの年に書き、仲端 再 至れりとして「復」の字を加へたるなり。​ヂエベ​​者︀別​ ​スベエタイ​​速別額台​ ​トクチヤル​​脫忽察兒​ ​ミタリ​​三人​

信度 河の戰

​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​ウシロ​​後​[304]より​イ​​入​りて、​カヘツ​​却​​カレラ​​彼等​​ヤブ​​敗​りて​コロ​​殺︀​して、​ブカル​​不合兒​ ​セミスカブ​​薛米思加卜​ ​ウダラル​​兀荅喇兒​​シロ​​城​​カレラ​​彼等​​ア​​合​はしめず、​カ​​勝​ちて​シン ムレン​​申 木嗹​​イタ​​到​るまで​オ​​追​ひて​イ​​行​かれ、​シン ムレン​​申 木嗹​​トビコ​​跳込​みて​イ​​入​るとなり、​オホ​​多​​サルタウル​​撒兒塔兀勒​をそこに​シン ムレン​​申 木嗹​​ホロボ​​滅​したるぞ。​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​は、​イノチ​​命​​タスケ​​助​かりて、​シン ムレン​​申 木嗹​​サカノボ​​泝​​ノガ​​逃​れたり。(この時 者︀剌列丁を追ひたるは、太祖︀ 親らなり。者︀別 速別額台は、抹哈篾惕 死し、者︀剌列丁 南に奔りたる後、亦喇克 以西の地を侵し、遂に乞卜察克の地に入り、申 木嗹の戰には加はらざれば、こゝに二將を引出したるは、大なる誤なり。不合兒 等の三城は、後に注すべし。申 木嗹は、唐 西域記の信度 河、卽 今の印度 河なり。申は信度の下略、木嗹は蒙語 河なり。親征錄に辛 自速 河とある自速は、目連の誤なり。親征錄に「上自塔里寒 寨、率精︀銳親擊之、追及辛 自速 河、獲蔑里 可汗、屠其眾。札蘭丁 脫身入河、泳水而遁」とあるを、元史に「帝自將擊之、擒滅里 可汗。札闌丁 遁去」と云ひて、河の名も云はざるは、いつもながら餘りに簡略なり。

集史なる信度 河の戰

喇失惕の集史には「失乞 忽禿忽 敗れて歸りたれば、成吉思 汗 自ら軍を率ゐて塔列干を出で、路を急ぎて、飯︀をも炊かず米を齧みながら行き、別嚕安の戰地に至り、敵 味方の陣處を問ひ、地を善く擇ばざりしことを責め、噶自納に至れば、者︀剌列丁は、已に十五日 前に去りたりき。一將を畱めて城を守らしめ、疾く追驅けたり。者︀剌列丁 已に船を備へ、明日 信度河を渡らんとする處へ、成吉思 汗 夜 疾く行き、曉に追附きて取圍めり。者︀剌列丁を生捕らんと欲し、軍士に矢を發たざらしめ、兀克兒 古勒札 古都︀思 古勒札 二將をして敵の後を絕たしむ。(古都︀思 古勒札は、祕史 卷七 卷八に見えたる巴嚕剌思の忽都︀思 合勒潺なるべし。)敵兵 漸く退き河に至れば、その右翼を二將 烈しく攻め破り、罕篾里克を殺︀せり。者︀剌列丁は、中軍を率ゐ、晨より日中まで戰ひ、左右 兩翼 皆 破られ、中軍 僅に七百人となり、右に左に衝擊す。諸︀軍は令を奉じて矢を發たざる故に、者︀剌列丁は圍を衝破りて出で、胸甲を棄て、馬を躍らして(多遜は、二丈の崖より)信度河に入り、盾を負ひ、旗を攜へて泳ぎ去れり。成吉思 汗 感じ入り、諸︀子を顧みて「誰もかくこそありたけれ」と云へり」とあり。この戰は、巴嚕安の戰の續にて、親征錄 元史 集史は皆 壬午の年とすれども、倭勒甫は、一二二一年(辛巳の年)の秋とし、多遜は、その年の冬とせり。罕篾里克は、東西の諸︀史 皆この戰に殺︀されたりとすれば、札剌列丁と共に逃れたりとせるは誤ならん。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​シン ムレン​​申 木嗹​​サカノボ​​泝​​ユ​​往​きて、​バトケセン​​巴惕客先​​カス​​掠​めて​サ​​去​りて、

​バルアン​​巴嚕安​ 原の駐夏

​ハヽ ヲガハ​​母 小河​ ​メウマ ヲガハ​​牝馬 小河​​イタ​​到​りて、​バルアン ケエル​​巴嚕安 客額兒​​ゲバ​​下馬​して、(巴惕客先の名は、​バダクシヤン​​巴荅黑山​に似たり。巴荅黑山は、唐 西域記に​バダクシヤナ​​鉢鐸創那​元史 地理志に​バダハシヤン​​巴達哈傷​淸人の書には​バダクシヤン​​巴達克山​[305]と書けり。その地は、阿木 河の上流に在りて印度 河の上流に在らず。又 巴荅黑山を平げたるは、多遜に據るに、一二二〇年の秋 帖兒篾惕を取れる後、阿木 河を渡る前にあり。巴惕客先は、もしその地ならば、こゝに書きたるは時 違へり。母 小河は、蒙古語​エケ ゴロカン​​額客 豁囉罕​牝馬小河は、蒙古語​ゲウン ゴロカン​​格溫 豁囉罕​にして、土名を蒙語に義譯したるなり。明譯に二河を合せて子母河と譯したるは、牝馬なる格溫を子なる可溫と誤りたるなり。親征錄に可溫寨、集史に古納溫 庫兒干とあるは、皆 格溫 豁囉罕の誤なり。蒙語に寨を庫兒干と云ひ、小河なる豁囉罕と音近き故に、小河を寨と誤れり。

​バルアン​​巴嚕安​ 原の位置

巴嚕安原は、親征錄 元史に八魯彎 川 集史に別嚕安とあり、卽 失乞 忽禿忽の敗北したる所なり。今も喀不勒と安迭喇卜の溪との間、欣都︀庫施 山の高き處に帕兒彎の峽あり。そこに又 同じ名の河と小邑とありて、西紀 一六〇三年に僧︀正 誥思は、喀不勒より巴荅黑山に至る路にてそこを通りき。第 九 世紀の人 亦奔 忽兒荅惕必は、已に珀嚕安を巴米安に屬する諸︀邑の中に擧げたり。速勒壇 巴別兒は、その記錄に「帕兒彎の峡路は甚 險しく、そこと大谷との間に小き峽 七つあり」と云ひ、又「喀不勒にて夏 吹く風は、帕兒彎の風と名づけらる」と云へり。

​ヂエラレツヂン​​者︀剌列丁​​バラ​​巴剌​​オヒカ​​追驅​

​ヂヤリヤル​​札里牙兒​​バラ​​巴剌​​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎兒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​オ​​追​はしめに​ヤ​​遣​りて、(札里牙兒は、札剌亦兒の誤なり。札剌亦兒の巴剌は、功臣の第四十七なる巴剌 扯兒必なり。親征錄に「遂遣八剌 那顏、將兵急追之。不獲。因大擄忻都︀ 人民之半而還。癸未(太祖︀ 十八年)春、上兵循辛 自速 河而北、命三太子河而南、至不昔思丹 城之、遣使來稟命。上曰「隆︀暑︀將及、宜別遣將攻之。」夏、上避暑︀於 八魯彎 川、候八剌 那顏、因討近敵悉平之。八剌 那顏 至、遂至可溫 寨。三太子亦至。」元史に「遣八剌之、不獲。十八年癸未夏、避暑︀ 八魯彎 川。皇子 朮赤 察合台 窩闊台 及 八剌 之兵來會。」親征錄の三太子は、斡歌歹を云へるなり。察阿歹 斡歌歹の行宮に會したるは前年の春にあり。元史に今 三皇子の來會を云へるは、錄の「三太子亦至」を誤會したるに似たり。集史に「者︀剌亦兒の巴剌 那顏を者︀剌列丁を追はしめに印度に遣り、朶兒伯にも同じく往かしめ、云云。羊の年の春、成吉思 汗は、信度 河の上游に至り、下游の地を定めさせに斡歌台を遣りき。斡歌台は、噶自納を掠め、その城を毀ち、又 薛亦思壇を攻めんとて命を請ひたれば、成吉思 汗は「暑︀さに向ひたれば回れ。別の將に攻めさせん」と云へり。夏、別嚕安に暑︀を避けて、巴剌 那顏を待ち、別嚕安の近處を平げたり。巴剌 朶兒伯 至りて、成吉思 汗は古納溫 庫兒干に往き、斡歌台も至れり。」多遜に據れば「一二二二年(十七年 壬午)の春、成吉思 汗は、別剌 禿兒台を遣り、信度 河を渡りて速勒壇を追はしめ云云。者︀剌列丁 未 得られず、軍 退きて後 噶自納の叛かんことを慮り、斡歌台を遣りその民を屠らしめき。別嚕安の敗軍に赫喇惕 叛きたりしかば、亦勒赤喀歹は命ぜられて往き、六月 餘りにて(西曆 六月 十四日)攻め落し、その民を屠れり。成吉思 汗は、信度 河の西岸に沿ひて北に行き、者︀剌列丁の餘黨を平げたり。斡歌台は已に噶自納を定めて、昔思壇の城を攻めんと請ひたれば、成吉思 汗は、極暑︀の爲に許さずして、呼び返せり。この夏は別嚕安の野に駐營し、別剌 禿兒台の印度より回れる時、全軍 又 動き、古納溫 庫兒干の邊にて斡歌台の軍も大軍に合へり。」

​ガズナ​​噶自納​ ​シスタン​​昔思壇​の位置

噶自納は、喀不勒の西南にある古城にして、吉自紉とも云ひ、元史 地理志に哥疾寧と書けり。唐 西域記にある漕矩吒 國の都︀ 鶴︀悉那 城は、卽 噶自納なり。宋の世には噶自尼 朝の速勒壇の宮所なりしが、この朝は、一一八六年(宋の孝宗 淳熙 十三年)誥兒 朝に滅され、抹哈篾惕 闊喇自姆 沙は、誥兒の國を幷せ、一二一六年(太祖︀ 十一年)噶自納を取れり。錄の不昔思丹は卽 薛亦思壇 又 昔思壇にして、本書の下文に昔思田とあり。その都︀は、孛思惕と云ひ、希勒綿篤 河の畔にありき。元史 地理志に不思忒とあるは、これなり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「不昔思丹は、孛思惕と昔思壇とを合せて表はせるに似たり。嚕西亞の大 地圖に、朶哩 河の希勒綿篤 河に注ぐ所に、喀剌 必思惕と云ふ地あり。これは蓋 孛思惕なり。」集史の朶兒伯は、本書の下文に朶兒伯 朶黑申とあり。多遜の禿兒台は、音 訛れり。多遜の亦勒赤喀歹は、本書 卷九 卷十二にある額勒只吉歹なるべし。[306]

西游記に據りて考へたる太祖︀ 行畱の年月

さて巴嚕安 原の駐夏は、親征錄 元史 集史 皆 太祖︀ 十八年 癸未の事とせるは、例の一年後れにて、多遜の十七年 壬午としたるのみは、實を得たり。西游記に、辛巳(太祖︀ 十六年)閏 十二月の末、二太子(察合台)の言に「上駐蹕大雪山之東南」とあるは、太祖︀ 已に者︀剌列丁を敗り、正に信度 河の西岸に居りし時なり。又 壬午 正月 十三日、阿里鮮は、邪米思干(撒馬兒罕)を發し、「馳三日、東南過鐵門、又五日過大河、二月初吉、東南過大雪山、南行三日至行宮」とあり。然らば阿里鮮の阿木 河を過ぎたるは、正月 二十日にして、それより行宮までは僅に十餘日にして達したれば、十七年 二月 上旬には行宮 漸く北し、大雪山 卽 欣都︀庫施 山より三日路の處に至り、已に珀沙兀兒 喀不勒の閒にありき。又 長春は、その年 三月 十五日に邪米思干を發し、二十九日 大河 卽 阿母 沒輦を濟り、四月 五日 行在に達するを得たり。阿木 河より行在に達するに六日に過ぎざれば、四月 上旬には、太祖︀ 已に北に回り、欣都︀庫施 山に入り、謂はゆる母 小河 牝馬 小河の邊に在りしならん。また「時適炎熱、從車駕於雪山暑︀。上約四月十四日 問道。將期、有回紇 山賊指斥者︀。上欲親征、因改卜十月吉。師乞舊館︀。上曰「再來不亦勞乎。」師曰「兩句可矣。」」遂に宣差 楊阿狗に送られて、邪米思干に還れり。「廬於雪山暑︀」は、卽 巴嚕安 原の駐夏なり。山賊 征伐は、親征錄の「討近敵悉平之、」集史の「別嚕安の近處を平ぐる」を云ふ。「兩旬可矣」は、撒馬兒罕より行在まで二十日にて到るべきを云へり。太祖︀の行畱の年月は、唯 西游記に由りて委しく分りたり。この年 八月 以後の事は、更に下に言ふべし。

​ヂエベ​​者︀別​ ​スベエタイ​​速別額台​の恩賞

​ヂエベ​​者︀別​ ​スベエタイ​​速別額台​ ​フタリ​​二人​​イタ​​甚​​オンシヤウ​​恩賞​して「​ヂエベ​​者︀別​ ​ナンヂ​​汝​は、​ヂルゴアダイ​​只兒豁阿歹​​イ​​云​​ナ​​名​なりき。​タイチウト​​台赤兀惕​より​キ​​來​て、​ヂエベ​​者︀別​となりたるぞ、​ナンヂ​​汝​

​トクチヤル​​脫忽察兒​の責められ

​トクチヤル​​脫忽察兒​は、​カンメリク​​罕篾里克​​ホトリ​​邊​​シロ​​城​どもを​オノ​​己​​コヽロ​​心​​ヨ​​依​​オカ​​侵​して​カンメリク​​罕篾里克​​ソム​​叛​かせたり。​ハフ​​法​​ア​​當​​キ​​斬​らしめん」と​イ​​云​​ヲ​​畢​へて、​カヘツ​​却​​キ​​斬​らしめず、​イタ​​甚​​セ​​責​めて、​カレ​​彼​​イクサ​​軍​​シ​​知​ることより​ツミナ​​罰​ひて​クダ​​下​せり(明譯​タヾオモクセメツミナヒテ​​只重責罰​​ズ​​不​​ユルサ​​許​​シルヿヲ​​管​〈[#ルビの「シルヿヲ」は底本では「ルヿヲ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​イクサヲ​​軍​巴嚕安 原の駐夏の頃は、者︀別 速別額台は、已に高喀速 山を越えて、歐囉巴に入りたれば、太祖︀のこの賞罰は、この駐夏の時の事にあらずして、太祖︀ 十五年 庚辰の夏、三將 續きて罕篾里克の城を過ぎ、脫忽察兒の亂暴を罕篾里克より訴へられたる時の事なるべし。かくて脫忽察兒は、軍を知ることを罷めたる故に、者︀別 速別額台の二將のみ西の方に進みたり。

​トクチヤル​​脫忽察兒​ 死せりと云へる誤傳

脫忽察兒は、その時 古兒只思壇の山民に殺︀されたりと喇失惕は云ひ、拖雷の先鋒として你沙不兒に戰死せりと多遜は云ひたれども、傳聞の誤ならん。元史 博爾忽の傳なる從孫 塔察兒は、卽 この脫忽察兒、卽 西史の脫噶察兒にして太祖︀ 崩じて後、太宗に從ひて金を伐ち、五年 癸巳 金帝を蔡に圍み、六年 甲午 金を滅し、十年 戊戌に卒したり。



  1. 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。