の雜史類︀ 存目ザツシルヰ ソンモクに「皇元聖武親征錄一卷、不㆑著︀㆓撰人名氏㆒云云。史記㆕元ゲン世祖︀セイソ中統チウトウ四年、參知政事修國史サンチセイジシウコクシ王鶚ワウガク、請コフ㆔延エン㆘訪ハウシテ太祖︀事蹟㆖付フセント㆓史館︀シクワン㆒。此卷、疑卽當時人所撰ツクリ上者︀」と云へるは、只 押當オシアテに言へるにて、何も旁證ハウシヨウすべき事なし。西域サイイキの宗王ソウワウ珀兒昔阿の亦勒罕合贊ガザンGhazan旭烈兀の曾孫斡勒齋禿オルヂヤイトOljaitu合贊の弟に事ツカへたる喇失惕 額丁ラシツド エツヂンRashid eddinの著︀アラハせる蒙古 集史モウコ シフシ 札米兀惕 帖伐哩黑ヂヤミウト テヷリクJami ut Tevarikhは、詳備シヤウビせる歷史にして、親征錄の比類︀ヒルヰに非ざれども、その中ウチの敍事ジヨジに往往ワウ〳〵 親征錄と符節︀フセツを合アハするが如き處あり。親征錄の敍事は、喇失惕 額丁ラシツド エツヂンの史に於て其ソレに類︀ルヰする敍事を見出さざることなし。又この二書の敍事は、同じく蒙古 祕史に本づきたりと見ゆる處 甚だ多し。然らば二書は、祕史を閱ケミする機會キクワイある人の作れる者︀にして、親征錄は、提要に言へるが如く外人グワイジンの作りて上タテマツれるには非ざること疑ひなし。察罕チヤハンの祕史より譯し出せる聖武 開天記セイブ カイテンキの名は、後世に少スコしも聞えず、親征錄の名は、元代の書に少しも見えずして、親征錄の內容ナイヨウは、祕史に本づきたりと見ゆれば、親征錄は卽ち開天記にして、傳寫デンシヤの閒アヒダに標題ヘウダイを改アラタめられたりと見て誤り無からん、淸の康熙コウキ 二十八年に邵遠平セウヱンヘイの著︀アラハせる元史 類︀編ゲンシ ルヰヘンに屢シバ〳〵 今の親征錄の文を引きて、聖武 親征記と云へり。然らば三名 一物サンメイ イチブツにして、元の聖武 開天記は、淸の初に至り聖武 親征記となり、乾隆︀中ケンリウチウに至り聖武 親征錄となりて、その上ウヘに皇元クワウゲンを冠カウムらせたるなり。