後ノチに及オヨび、太宗の自ミヅカら己オノレの四功 四過シコウ シクワを述ノべたる勅語チヨクゴを以モて結ムスべり。然シカれば正集セイシフ 十卷は、旣スデに太祖︀の朝テフに作ツクられ、太宗 十二年に至イタり、續集 二卷を補オギナひ作ツクりて、全書ゼンシヨとなせるなり。篇末ヘンマツに太宗の勅語チヨクゴを載ノせたるは、必カナラず太宗の直タヾチに史臣シシンに命メイじて書かせたる者︀ならん。
此書、今は蒙古語モウココトバを漢︀字カラモジにて音譯オンヤクしたる者︀のみ傳ツタはりたれども、本モトは蒙古の國書コクシヨなる委兀兒字ウイウルモジにて書きたる者︀なるべし。蒙古には、もと文字モンジなかりしが、太祖︀の乃蠻ナイマンNaimanを滅ホロぼしたる時より、始めて委兀兒字ウイウルモジを用モチひて蒙古語モウココトバを書く事コトとなれり。元史ゲンシの塔塔統阿タタトンガの傳デンに依ヨるに、塔塔統阿タタトンガTatatungaは、畏兀ウイウの人ヒトにて、その國クニの文字モンジに委クハしく、乃蠻ナイマンの大陽 罕タヤン カンTayan Khanに重オモんぜられ、その金印キンインと錢穀︀センコクとを掌ツカサドりしが乃蠻ナイマン 滅ホロびたる時、塔塔統阿タタトンガは、その印インを懷イダき逃ノガれんとして擒トラはれ、太祖︀に「大陽タヤンの人民 疆土ジンミン キヤウド、悉コト〴〵く我ワレに歸キしたるに、汝ナンヂ 印インを持モちて何イヅくにか往ユく」と詰ナジられ、「之コレを守マモるは、臣シンの職シヨクなり。故主コシユを求モトめて之コレを授サヅけんと欲ホツす」と云ひたれば、太祖︀は「忠孝チウカウの人ヒトなり」と感カンじて「この印は、何ナニにか用モチふる」と問トへり。塔塔統阿タタトンガは「錢穀︀センコクを出納スヰナフし、人材ジンザイを任用ニンヨウする一切イツサイの事コトに用ひて信驗シンケンとするなり」と對コタへたり。太祖︀ 實ゲにもとて、此人コノヒトを左右サイウに居オき、これよりすべて勅ミコトを發ハツするには、始めて印章インシヤウを用ひ、仍ヨツて此人に命メイじて之を掌ツカサドらしめたり。又「汝ナンヂは、本國ホンゴクの文字モンジを深フカく知シれりや」