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成吉思汗実録/巻の八

提供:Wikisource

[208]



​チンギス カン ジツロク​​成吉思 汗 實錄​ ​マキ​​卷​​ハチ​​八​


§198(08:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​オゴダイ​​斡歌歹​の妻となる​ドレゲネ​​朶咧格捏​

 ​メルキト​​篾兒乞惕​​タミ​​民​​トラ​​虜︀​へて、​トクトア ベキ​​脫黑脫阿 別乞​​オホイコ​​大子​ ​クド​​忽都︀​​カトト​​合禿惕​合屯の複稱​トガイ​​禿該​ ​ドレゲネ​​朶咧格捏​ ​フタリ​​二女​より​ドレゲネ​​朶咧格捏​元史 后妃表​トレゲノ​​脫列哥那​ ​ロククワウゴウ​​六皇后​​ナイマヂン ウヂ​​乃馬眞 氏​​ツイシ​​追諡​ ​セウジ クワウゴウ​​昭慈 皇后​)をそこに​オゴダイ カガン​​斡歌歹 合罕​卷六の斡闊歹)に​アタ​​與​へたり。

​ミネ​​峯​​トリデ​​寨​の攻擊

​メルキト​​篾兒乞惕​​ナカバ​​半​​ブシウ​​部眾​ ​ソム​​反​きて、​ミネ​​峯​​トリデ​​寨​蒙語​タイカル ゴルカ​​台合勒 豁兒合​語譯 山頂 寨子、文譯 台合勒 山寨、親征錄 泰安 寨、元史 泰寒 寨)に​ヨ​​據​りき。そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​ありて、​ソルカン シラ​​鎖兒罕 失喇​​コ​​子​ ​チンベ​​沈白​親征錄 赤老溫 拔都︀の弟 闖拜)を​クワンニン​​官人​として、​ヒダリテ​​左手​​イクサ​​軍​にて、​トリデ​​寨​​ヨ​​據​れる​メルキト​​篾兒乞惕​​セ​​攻​めさせに​ヤ​​遣​りぬ。

​チンギス カン​​成吉思 汗​の長追

​トクトア​​脫黑脫阿​は、​クド​​忽都︀​ ​チラウン​​赤剌溫​なる​コ​​子​どもと​トモ​​共​に、​ワヅカ​​僅​​ミ​​身​をもて​ソム​​背​きて​イ​​出​でたるを、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​オヒカ​​追驅​[209]けて、​アルタイ ザン​​阿勒台 山​​マヘ​​前​​フユゴモリ​​冬籠​して、​ウシ​​牛​​忽客兒​​トシ​​年​我が元久 二年 乙丑、宋の寧宗 開禧 元年、金の泰和 五年、西紀 一二〇五年、太祖︀ 四十四歲の時、​ハル​​春​​アライ タウゲ​​阿唻 嶺​により​コ​​越​えて​ユ​​往​けば、​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク カン​​古出魯克 罕​は、​ブシウ​​部眾​​ト​​取​られて、かく​ソム​​背​きて​イ​​出​でたる〈[#「出でたる」は底本では「出てたる」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉により、​ワヅカ​​僅​​シウ​​眾​にて​メルキト​​篾兒乞惕​​トクトア​​脫黑脫阿​​フタリ​​二人​ ​ア​​合​ひて、​エルチシ ガハ​​額兒的失 河​の[​シウスヰ​​潀水​なる]​ブクドルマ ガハ​​不黑都︀兒麻 河​​ミナモト​​源​​クワイ​​會​して、​イクサ​​軍​​トヽノ​​整​へて​ヲ​​居​りき。(

​エルチシ ガハ​​額兒的失 河​ ​ブクドルマ ガハ​​不黑都︀兒麻 河​の解

額兒的失 河は、親征錄 元史 太祖︀紀に也兒的石 河、憲宗紀に葉兒的石 河、武宗紀に也里的失 河など見え、水道 提綱には額勒濟斯 河、西域 水道記には額爾齊斯 河、露西亞の地圖には伊兒齊斯 河とあり。上流の二源を庫 伊兒齊斯 喀喇 伊兒齊斯と云ふ。庫は黃、喀喇は黑なり。二水 合ひたる後も、喀喇 伊兒齊斯と云ふ。阿勒泰 山の東南幹山の西南麓の諸︀水を合せて、齋桑 諾爾に入り、諾爾より北に流れ出でてより伊兒齊斯 河と云ふ。不黑都︀兒麻 河は、西域 水道記の布克圖爾瑪 河にして、露西亞の地圖には布合塔兒瑪 河とあり。科布多の西北なる阿勒泰 山頂の西麓より出で、北緯 四十九度の北を西に流れて、伊兒齊斯 河に入る。蒙古 地方より布合塔兒瑪の源に往くには、科布多 河の上流なる索果克 河の源より阿兒古特 嶺の南端を踰ゆる路順なれば、阿唻 嶺は、卽ち阿兒古特 嶺などの古名なるべし。

​トクトア​​脫黑脫阿​の戰死

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​イタ​​到​りて​タイヂン​​對陣​したれば、​トクトア​​脫黑脫阿​はそこに​ナガレヤ​​流箭​​イ​​射​られて​タフ​​倒​れき。​カレ​​彼​​コ​​子​どもは、​カレ​​彼​​カバネ​​骸​​ト​​取​りかねて、​カレ​​彼​​ミ​​身​​モ​​持​ちて​サ​​去​りかねて、​カレ​​彼​​カウベ​​頭​​タ​​斷​ちて​モ​​持​ちて​サ​​去​りき。そこに​ナイマン​​乃蠻​ ​メルキト​​篾兒乞惕​ ​トモ​​共​​クワイ​​會​して​タイヂン​​對陣​する​アタ​​能​はずして、​ノガ​​逃​​ウゴ​​動​​トキ​​時​​エルチシ ガハ​​額兒的失 河​​ワタ​​渡​​トキ​​時​​オボ​​溺​れて​アマタ​​多數​​ミヅ​​水​​シ​​死​なしめき。​ワヅカ​​僅​​イ​​出​でたる​ナイマン​​乃蠻​ ​メルキト​​篾兒乞惕​は、​エルチシ ガハ​​額兒的失 河​​ワタ​​渡​​ヲ​​畢​へて、​ハナ​​離​​ウゴ​​動​きけり。

​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク カン​​古出魯克 罕​​ホンザン​​奔竄​

​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク カン​​古出魯克 罕​は、​ウイウルタイ​​委兀兒台​、(卷三なる畏忽惕また委兀惕、親征錄 元史 畏吾兒。唐の回紇の遺種にして、その都︀は、唐の北庭 都︀護府の址なる別失八里 城、今の濟木薩の稍北にあり、その地は、天山の南北に跨れり。布合塔兒瑪 河の源より委兀兒の地に往くには、その河に沿ひて西に下らずして、喀喇喀巴 河に沿ひ南に下りて、喀喇 伊兒齊斯 河を渡り、猶 南に進みて、委兀兒の西境に入りたるなるべし。​カルルウト​​合兒魯兀惕​​ス​​過​ぎて、[210]合兒魯兀惕 は、親征錄 元史 本紀に哈剌魯、地理志に柯耳魯、卽ち唐書の葛邏祿にして、國は今の伊犁の西北にありき。委しくは卷十一に言ふべし。​サルダウル​​撒兒荅兀勒​​トコロ​​地​​チユイ ガハ​​垂 河​​ヲ​​居​​カラ キダト​​合喇 乞荅惕​​グル カン​​古兒 罕​​ア​​合​ひに​ユ​​往​きけり。

​トクトア​​脫黑脫阿​の諸︀子の​ホンザン​​奔竄​

​メルキト​​篾兒乞惕​​トクトア​​脫黑脫阿​​コ​​子​ども​クド​​忽都︀​​カト​​合惕​​チラウン​​赤剌溫​​カシラ​​頭​となれる​メルキト​​篾兒乞惕​は、(忽都︀ 赤剌溫は、前に見えたり。忽都︀は、速不台の傳に霍都︀、土土哈の傳に火都︀とあり。合惕は、下文に合勒とあり。元史 巴而朮 阿而貳 的斤の傳には「脫脫 之子 火都︀ 赤剌溫 馬札兒 禿薛干 四人」とありて、合惕 又は合勒に似たる名なし。元史 類︀編に親征記を引きて、脫脫の四子の名を擧げたるは、巴而朮の傳と同じけれども、今の親征錄には、只「脫脫 之子 四人」とありて、その名なし。洪鈞の別咧津を譯したるには、忽都︀、赤剌溫、赤攸克、呼圖罕 蔑兒根とあり。その呼圖罕を多遜は庫圖罕と書けり。不咧惕搠乃迭兒は、別咧津を引きて、脫克塔の六子の名を擧げたるに、呼圖罕を呼勒圖罕と書けり。合惕は、呼圖罕 又は庫圖罕の下略にて、下文の勒は誤寫ならんか。又は合勒は、呼勒圖罕の下略にて、こゝの惕は誤寫ならんか。​カングリン​​康鄰​​キムチヤウト​​欽察兀惕​​ス​​過​​サ​​去​りけり。(​カングリ​​康里​ ​キムチヤ​​欽察​〈[#ルビの「キムチヤ」は底本では「キチヤ」。実録続編のルビに倣い修正]〉の名は、元史に屢 見えたり。康里は、漢︀代の康居の遺種にして、康克里とも康合里とも云ひ、阿喇勒 湖の北、今の乞兒吉思 曠野の地に居りし人種なり。欽察は、下文には正しく乞卜察克ともあり、康里の西隣にて、今の露西亞の南部、佛兒戛 河の左右に廣がりし人種なり。)そこより​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​カヘ​​回​りて、​アライ タウゲ​​阿唻 嶺​により​コ​​越​えて​キウエイ​​舊營​​ゲバ​​下馬​せり。​チンベ​​沈白​は、​ミネ​​峯​​トリデ​​寨​​ヨ​​據​れる​メルキト​​篾兒乞惕​​キハ​​窮​めき。

​メルキト​​篾兒乞惕​​チウメツ​​誅滅​

そこに​メルキト​​篾兒乞惕​をば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり、​カレラ​​彼等​​ミナゴロ​​皆殺︀​しを​コロ​​殺︀​さしめて、(皆殺︀しを行はしめての意なり​カレラ​​彼等​​ノコ​​殘​れるをば​イクサビト​​軍士​どもに​トラ​​虜︀​へさせたり。​マタ​​又​ ​サキ​​先​​クダ​​降​りたる​メルキト​​篾兒乞惕​は、​キウエイ​​舊營​より​ソム​​反​​オコ​​起​りき。​キウエイ​​舊營​​ヰ​​居​たる​ワレラ​​我等​​ケニン​​家人​ども、​カレラ​​彼等​​ヤブ​​敗​りき。そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あるに「​アツマ​​聚​りて​ヲ​​居​らしめんと​イ​​云​ひしに、​カレラ​​彼等​ ​タヾ​​只​ ​カエ​​反​きけり」とて、​メルキト​​篾兒乞惕​​オノ​各​​ツ​​盡​くるまで​ワ​​分​けさせたり。


§199(08:06:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​テツノクルマ​​鐵車​​ミコト​​勅​

 その​ウシ​​牛​​トシ​​年​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​ありて、​スベエタイ​​速別額台​​クロガネ​​鐵​[211]​クルマ​​車​にて(親征錄には以鐵裹車輪とあり、洪鈞は以鐵釘布於車輪、庶山路壞と譯せり。​トクトア​​脫黑脫阿​​クド​​忽都︀​​カル​​合勒​​チラウン​​赤剌溫​ ​ラ​​等​なる​コ​​子​どもを​オ​​追​はしめに​ヤ​​遣​​トキ​​時​​スベエタイ​​速別額台​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​ありて​ノ​​宣​らするには「​トクトア​​脫黑脫阿​​クド​​忽都︀​​カル​​合勒​​チラウン​​赤剌溫​ ​ラ​​等​なる​コ​​子​どもは、​サ​​去​​斡敦​​オドロ​​驚​​斡黑札惕​きて​カヘ​​回​​合𡂰​​イア​​射合​​合兒不察​ひて、​ウマトリザヲ​​套竿​​オ​​帶​びたる​ノウマ​​野馬​​ヤ​​箭​​アタ​​中​れる​シカ​​鹿​となりて​サ​​去​れり。

捜討の​タトヘ​​譬​

​カレラ​​彼等​を、​ツバサ​​翅​あるものとなりて、​ト​​飛​びて​テン​​天​​ノボ​​上​らば、​ナンヂ​​汝​ ​スベエタイ​​速別額台​は、​カイセイ​​海︀靑​となりて​ト​​飛​びて​トラ​​捕​へずや。​ドバツソ​​土撥鼠​となりて​ツメ​​爪​にて​ハ​​爬​ひて​チ​​地​​イ​​入​らば、​クハ​​鍬​となりて​ホ​​鑿​りて​タヅ​​尋​ねて​オ​​追​​ア​​上​げずや。​ウヲ​​魚​となりて​テンギス​​騰吉思​​ウミ​​海︀​​イ​​入​らば、​ナンヂ​​汝​ ​スベエタイ​​速別額台​は、​メグリアミ​​旋網​ ​ヒキ​​拖​網となりて​スク​​撈​ひて​ヲサ​​收​めて​ト​​取​らずや、​ナンヂ​​汝​。(何秋濤の朔方 備乘に、この條の明譯文を約めて、下の如く極めて簡古なる漢︀文に譯せり。​メルキハ​​篾兒乞​​ワガフカキアダナリ​​吾深仇也​​ヤブレテトホクノガレ​​敗而遠遁​​ゴトク​​如​​ウマノ​​馬​​オブルガ​​帶​​サヲヽ​​竿​​ゴトシ​​如​​シカノ​​鹿​​オフガ​​負​​ヤヲ​​箭​​モシトバヾ​​若飛​​ナンヂ​​汝​​ナレ​​作​​タカハヤブサト​​鷹鸇​​モシ​​若​​イラバ​​入​​アナニ​​穴​​ナンヂ​​汝​​ナレ​​作​​スキト​​鋤​​モシ​​若​​イラバ​​入​​ウミニ​​海︀​​ナンヂ​​汝​​ナレ​​作​​アミト​​網​​アタヘ​​與​​ナンヂ​​汝​​テツノクルマヲ​​鐵車​​テ​​以​​カタウセン​​堅​​ナンヂノ​​汝​。)​マタ​​又​ ​タカ​​高​​タウゲ​​峠​​コ​​越​え、​ヒロ​​寬​​ガハ​​河​​ワタ​​渡​りに​ヤ​​遣​りぬ、​ナンヂ​​汝​を。

遠征の心得

​チ​​地​​トホ​​遠​きを​オモ​​想​ひて、​イクサ​​軍​​ウマ​​馬​ども​ヤ​​痩​せざるに​イタハ​​撫​れ。​カレヒ​​糧​​ツク​​盡​さざるに​ヲシ​​惜​め。​センバ​​騸馬​ ​ヤ​​痩​​ヲ​​畢​へば、​イタハ​​撫​るとも​ナ​​成​らず。​カレヒ​​糧​ ​ツク​​盡​​ヲ​​畢​へば、​ヲシ​​惜​むとも​ナ​​成​らず。​ナンヂラ​​汝等​​ミチ​​路​​ケダモノ​​獸​ ​オホ​​多​くあるぞ。​ス​​過​ぎんと​オモ​​思​ひて​ユ​​行​​トキ​​時​は、​イクサ​​軍​​ヒト​​人​​ケダモノ​​獸​​ナ​​勿​ ​ハシ​​走​らせそ。​カギリナ​​限無​​ナ​​勿​ ​マキガリ​​圍獵​せそ。​イクサ​​軍​​ヒト​​人​​カレヒ​​糧​​ソ​​添​​ロカイ​​櫓蓋​となれとて​マキガリ​​圍獵​せば、​カギ​​限​りて​マキガリ​​圍獵​せよ。(櫓蓋の蒙語 汪格古、解り得ず。明譯に從へり。獸の皮にて作る天草の屋なるべし。​カギリ​​限​ある​マキガリ​​圍獵​より​ホカ​​外​[212]​イクサ​​軍​​ヒト​​人​​クラ​​鞍​​シリガイ​​鞦​​ナ​​勿​ ​カ​​繋​けさせそ。​クツワ​​轡​​カ​​搭​けず​クチ​​口​​シ​​閘​めずして​ユ​​行​け。かく​サダ​​定​​ア​​合​ひて​ユ​​行​けば、​イクサ​​軍​​ヒト​​人​ ​ウマ​​馬​​カ​​驅​ることいかで​デキ​​出來​ん。かく​サダ​​定​めて、​スナハ​​便​​ハフド​​法度​​コ​​越​ゆるものを​トラ​​拿​へて​ウ​​打​て。​ワレラ​​我等​​ミコト​​勅​​コ​​越​ゆるものを、​ワレラ​​我等​​ミト​​認​めらるゝ​ゴト​​如​きものを、​ワレラ​​我等​​アタ​​與​へておこせよ。​ワレラ​​我等​​ミト​​認​められざる あまたをば、​タヾ​​只​そこに​スナハ​​便​​キ​​斬​らしめよ。​カハ​​河​​木嗹​のあなたに​アヒ ハナ​​相 離​​抹薛勒都︀​れん、​ナンヂラ​​汝等​​タヾ​​只​​門​ ​ダウリ​​道理​によりて​ユ​​行​け。​ヤマ​​山​​阿兀剌​のあなたに​アヒ ワカ​​相 別​​阿勒合撒勒都︀​れん、​ナンヂラ​​汝等​​ホカ​​外​​昂吉荅​をば​コト​​別​​ナ​​勿​ ​オモ​​想​ひそ。​トコヨ​​長生​​アマツカミ​​上帝​​チカラ​​力​ ​イキホヒ​​勢​​ソ​​添​へられて、​トクトア​​脫黑脫阿​​コ​​子​どもを​テ​​手​​イ​​入​れは、​ワレラ​​我等​​モ​​持​​ク​​來​るまでも​ナニ​​何​あらん、そこに​ナンヂラ​​汝等​ ​ス​​棄​てよ」と​ミコト​​勅​ありき。

​ユル​​赦​すべからざる深き​アタ​​讎​

​スベエタイ​​速別額台​​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​イ​​言​へらく「​ナンヂ​​汝​​シユツセイ​​出征​せさするは、​ワレ​​我​ ​チヒサ​​小​​トキ​​時​に、​ミ​​三​つの​メルキト​​篾兒乞惕​​ウドイト​​兀都︀亦惕​​ブルカン カルドン​​不兒罕 合勒敦​​ミ​​三​たび​メグ​​繞​らせて​オソ​​怕​れさせられたりき、​ワレ​​我​。かゝる​アタ​​讎​ある​タミ​​民​を「​イマ​​今​ ​マタ​​又​ ​クチ​​口​​阿蠻​ ​シタ​​舌​​ハナ​​放​​阿勒荅​ちて​サ​​去​りき。​ナガ​​長​​兀兒禿因​​コズヱ​​梢​​兀主兀兒​​フカ​​深​​古訥​​ソコ​​底​​喜嚕阿兒​​イタ​​到​​ア​​合​へよ(明譯​ワレ​​我​​ホツス​​欲​​セント​​敎​​ナンヂニオヒテ​​你追​​イタラ​​到​​ハテノトコロニ​​極處​)」とて、​オ​​追​はしむる​イヤハテ​​極端​まで、​クロガネ​​鐵​​クルマ​​車​​ツク​​造​りて、​ウシ​​牛​​トシ​​年​ ​シユツセイ​​出征​せしめたり。​ワレラ​​我等​を、​カゲ​​背處​​額赤揑​にありても​マノアタリ​​對面​​亦列​​ゴト​​如​く、​トホ​​遠​​豁囉​きにありても​チカ​​近​​斡亦喇​きが​ゴト​​如​​オモ​​思​ひて​ユ​​行​かば、​ウヘ​​上​なる​アマツカミ​​天帝​にも​イウゴ​​祐︀護​せられんぞ、​ナンヂラ​​汝等​」と​ミコト​​勅​ありき。(この鐵車の勅は、卷十なる速別額台の篾兒乞惕を窮むる處に書くべきものなり。親征錄も喇失惕の史も、速別額台の鐵車の遠征をこの年より十二年後なる丁丑の年に載せたり。卷十なる速別額台の遠征は、年を揭げざれ[213]ども、卽ち丁丑の役なるべし。蒙古人は、年を繰るに、十二支の象のみを用ひて、十干を用ひざりし故に、年紀 誤り易し。祕史の作者︀は、この勅を牛の年と記憶したるに由り、偶 誤りて十二年前の牛の年、卽ち太祖︀ 卽位の前年なる乙丑の年に載せたるなり。


§200(08:12:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​トモビト​​從士​に捕はれたる​ヂヤムカ​​札木合​

 [​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、]​ナイマン​​乃蠻​​メルキト​​篾兒乞惕​​キハ​​窮​​ヲ​​畢​へたれば、​ヂヤムカ​​札木合​は、​ナイマン​​乃蠻​​ヲ​​居​りてそこに​ブシウ​​部眾​​ト​​取​られたれば、​タヾ​​但​​イツタリ​​五人​​トモビト​​從者︀​ある​ヌスビト​​賊​となりて、​タンル ザン​​儻魯 山​元史 地理志の​タンルノ ミネ​​唐麓 嶺​阿勒泰 山の東北幹山なる今の湯努 山)の​ウヘ​​上​​ノボ​​上​りて、​グワンヤウ​​羱羊​​コロ​​殺︀​して​ヤ​​燒​きて​ク​​喫​​トキ​​時​、そこに​ヂヤムカ​​札木合​は、​トモビト​​從者︀​どもに​イ​​言​ひき。「​タ​​誰​​コ​​子​どもぞ、この​ヒ​​日​ ​グワンヤウ​​羱羊​​コロ​​殺︀​してかく​ク​​喫​へる」と​イ​​云​ひき。その​グワンヤウ​​羱羊​​ニク​​肉​​ク​​喫​​ヲ​​居​​アヒダ​​閒​に、​イツタリ​​五人​​トモビト​​從者︀​は、​ヂヤムカ​​札木合​​テ​​手​​カ​​掛​けて​トラ​​捕​へて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トコロ​​處​​ツ​​伴​​キ​​來​ぬ。​ヂヤムカ​​札木合​は、​トモビト​​從者︀​どもに​トラ​​捕​へて​コ​​來​られて、

不忠の臣の​チウ​​誅​せられ

​カガン​​合罕​ ​アンダ​​安荅​​マウ​​白​さく「​クロ​​黑​​合喇​​ヤマガラス​​老鴉​​合哩額​は、​クロガモ​​黑鴨​​合監伯​ ​マガモ​​眞鴨​​ト​​捕​へたり。​ゲラウ​​下郞​​合喇出​​ヤツコ​​奴​は、​キミ​​君​​罕​​テ​​手​​合兒​​イタ​​致​したり。​オホギミ​​大君​​合罕​なる​ワ​​我​​アンダ​​安荅​は、いかんぞ​アヤマ​​差​らん。​アヲ​​靑​​孛囉​​クラド​​忽剌都︀​鳥の類︀の一種の名)は、​ボルヂンシヨノ​​孛兒臣莎那​鴨の類︀の一種の名)を​トラ​​捕​ふると​ナ​​為​​孛勒​れり。​ヤツコ​​奴​​孛斡勒​なる​ケニン​​家人​は、​モト​​本​​不敦​​アルジ​​主​​カコ​​圍​​孛莎​みて​オソ​​襲​ひて​トラ​​捕​ふると​ナ​​爲​​孛勒​れり。​カシコ​​賢​​孛黑荅​​ワ​​我​​アンダ​​安荅​は、いかんぞ​アヤマ​​差​らん」と​イ​​言​へば、​ヂヤムカ​​札木合​のその​コトバ​​言​につき、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あるには「​セイシユ​​正主​​キミ​​君​​テ​​手​​イタ​​致​せる​ヒト​​人​をいかんぞ​ア​​存​らせられん。かゝる​ヒト​​人​は、​タレ​​誰​にか​トモ​​伴​とならん。​セイシユ​​正主​​キミ​​君​​テ​​手​​イタ​​致​せる​ヒト​​人​をば、その​ウラカ​​族​​イタ​​至​るまで​キ​​斬​らしめよ」と​ミコト​​勅​ありき。すぐ​ヂヤムカ​​札木合​​マノアタリ​​面前​にて、​カレ​​彼​​テ​​手​​カ​​掛​けた[214]​ヒト​​人​どもを​キ​​斬​らしめて​アタ​​與​へたり。

舊友を憐む​チンギス カン​​成吉思 汗​​クワンコウ​​寬厚​

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヂヤムカ​​札木合​​イ​​言​へとて​イ​​言​はく「​イマ​​今​ ​ワレラ​​我等​ ​フタリ​​二人​ ​ア​​合​へり、​トモ​​伴​とならん。​カタカタ​​片方​​斡咧額列​​ナガエ​​轅​となり​ア​​合​ひて​ス​​過​ぎたれば、​ベツ​​別​​斡額兒迷赤連​になり​ハナ​​離​れんと​オモ​​思​へり、​ナンヂ​​汝​​イマ​​今​ ​ヒト​​一​つに​ア​​合​​ス​​住​みて、​ワス​​忘​​兀馬兒塔​れたるを​コヽロヅ​​心附​​ア​​合​ひて、​ネム​​唾​​穩塔喇​りたるを​サマ​​覺​​ア​​合​ひて​ス​​住​まん。​ワカ​​別​​斡額咧​れて​ホカ​​外​​ユ​​行​けども、​サイハヒ​​福︀​​兀勒澤​あり​キチジ​​吉事​ある​ワ​​我​​アンダ​​安荅​なりき。​マコト​​實​​兀年​​シニア​​死合​​兀忽勒都︀​ふ(戰ふ​ヒ​​日​​兀都︀兒​には、​ムネ​​心​​斡咧​ ​コヽロ​​心​​イタ​​痛​めたりき、​ナンヂ​​汝​​ホカ​​外​​昂吉荅​​ワカ​​別​れて​ユ​​行​けども、​コロ​​殺︀​​阿剌勒都︀​​ア​​合​​ヒ​​日​には、​ハイ​​肺​​阿兀失吉​ ​コヽロ​​心​​イタ​​痛​めたりき、​ナンヂ​​汝​。いつと​イ​​云​へば、​ケレイト​​客咧亦惕​​タミ​​民​​カラカルヂト​​合剌合勒只惕​​サバク​​沙漠​​タヽカ​​戰​へる​トキ​​時​​ワンカン​​王罕​なる​チヽ​​父​​イ​​言​へる​コトバ​​言​​ツ​​吿​げておこせたるは、​ナンヂ​​汝​​オン​​恩​なるぞ。​マタ​​又​ ​ナイマン​​乃蠻​​タミ​​民​​コトバ​​言​にて​シ​​死​なしめ、​クチ​​口​にて​コロ​​殺︀​して​オソ​​怕​れさせたるを​ヒカク​​比較​せよと​イ​​云​ひて、​ハウコク​​報吿​​ナンヂ​​汝​のおこせたるは、​オン​​恩​となりしぞ」と


§201(08:16:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ヂヤムカ​​札木合​の慚悔︀

 ​イ​​言​へば、​ヂヤムカ​​札木合​ ​イ​​言​はく「​サキ​​先​​ヒ​​日​ ​チヒサ​​小​​トキ​​時​に、​ゴルゴナク ヂユブル​​豁兒豁納黑 主不兒​​カン​​罕​ ​アンダ​​安荅​​トモ​​共​​アンダ​​安荅​​イ​​云​​ア​​合​へる​トキ​​時​​コナ​​消化​れざる​クヒモノ​​食物​​ク​​食​​ア​​合​ひて、​ワス​​忘​れられざる​コトバ​​言​​イ​​言​​ア​​合​ひて、​フスマ​​衾​​ワ​​分​​ア​​合​ひて​ス​​住​まれしぞ。​カタヘ​​傍​​款多列都︀​​ヒト​​人​​ソヾノカ​​唆​​闊乞兀勒迭​されて、​ヨコ​​橫​​合勒只兒忽​​ヒト​​人​​ツヽ​​戳​​合惕忽黑荅​かれて、​ハナ​​離​​合合潺​​ヲ​​畢​へて、​キンエウ​​緊要​​合荅合​ある​コトバ​​言​​イ​​言​​ア​​合​〈[#ルビの「ア」は底本では「イ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉へり(言ひ合へるを守らず)とて、​クロ​​黑​​合喇​​メンピ​​面皮​​ハ​​剝​​合兀勒荅​がれたるより、​チカ​​近​​合里敦​づきかね、​カン​​罕​なる​アンダ​​安荅​​アタヽ​​暖​​合剌溫​かき​カホ​​顏​​ミ​​見​​アタ​​能​はずして​ユ​​行​きたるぞ、​ワレ​​我​​ワス​​忘​​兀馬兒塔​[215]れざる​コトバ​​言​​兀格思​​イ​​言​​兀古列勒都︀​​ア​​合​へりとて、​アカ​​赤​​忽剌安​​メンピ​​面皮​​ム​​剝​​兀卜赤克迭​かれたるより、​ナガ​​長​​兀兒禿​​コヽロ​​心​ある​アンダ​​安荅​​マコト​​誠​​兀年​​カホ​​顏​​ミ​​見​​兀氈​​アタ​​能​はずして​ユ​​行​きたるぞ、​ワレ​​我​​イマ​​今​ ​ワ​​我​​カン​​罕​ ​アンダ​​安荅​ ​オンシ​​恩賜​して​ワレ​​我​​トモ​​伴​とせんと​イ​​云​ひき。​トモ​​伴​となるべき​トキ​​時​に、​トモ​​伴​とならざりき、​ワレ​​我​​イマ​​今​ ​アンダ​​安荅​は、​マドカ​​圓​​脫歌里該​なる​クニ​​國​​タヒラ​​平​げたり。​トツクニ​​外國​​合哩​どもを​アハ​​倂​​合禿惕合​せたり、​ナムチ​​爾​

思の外に潔き姦雄の末路

​カン​​罕​​クラヰ​​位​は、​ナムチ​​爾​​サダマ​​定​れり。​アメガシタ​​天下​ ​イマ​​今​ ​サダカ​​定​になれる​トキ​​時​​トモ​​伴​となりて​ナニ​​何​​タスケ​​助​とならん、​ワレ​​我​​カヘツ​​却​​アンダ​​安荅​​クロ​​黑​​ヨル​​夜​​ユメ​​夢​​イ​​入​らん、​ワレ​​我​​アカル​​明​​ヒ​​日​​ナムチ​​爾​​コヽロ​​心​​クルシ​​苦​めん、​ワレ​​我​​ナムチ​​爾​​エリ​​領​​札合​​シラミ​​蝨​​ナムチ​​爾​​ウラエリ​​底襟​​札興溫​​トゲ​​刺​とならん、​ワレ​​我​​クワンコウ​​寬厚​​阿兒賓︀​なる​オウナ​​嫗​あるなりき、​ワレ​​我​​アンダ​​安荅​より​ハナ​​攜​​阿魯昔​れんと​オモ​​思​へる​コロ​​頃​​ヤマヒ​​病​​阿勒只阿思​になられたりき、​ワレ​​我​​イマ​​今​この​シヤウガイ​​生涯​に、​アンダ​​安荅​ ​ワレ​​我​ ​フタリ​​二人​の[​クワンケイ​​關係​​ヨ​​由​りて]​イ​​出​づる​ヒ​​日​より​イ​​沒​​ヒ​​日​​イタ​​至​るまで​ワ​​我​​ナ​​名​​イタ​​到​りたるぞ。

命を知り命に安じたる​ヂヤムカ​​札木合​の善言

​アンダ​​安荅​は、​ケンメイ​​賢明​なる​ハヽ​​母​あり、​ウマレナガラニ​​生得​​シユンケツ​​俊傑​​ウマ​​生​れて​ギノウ​​技能​ある​オトヽ​​弟​どもあり、​ユウマウ​​勇猛​なる​サムラヒ​​侍​​シチジフサン​​七十三​​センバ​​騸馬​にて[​サムラ​​侍​はるゝこと]となりて、[​ワレ​​我​は]​アンダ​​安荅​​カ​​勝​たれたるぞ。​ワレ​​我​は、​ハヽ​​母​ ​チヽ​​父​より​ヲサナ​​幼​くて​オク​​後​れて、​オトヽ​​弟​ども​ナ​​無​く、​ワ​​我​​ツマ​​妻​​ハナシズ​​話好​き(蒙語​ドモクチ​​朶抹黑赤​どもりくち吃口には非ず、我等の斡沙別哩、周詩の謂はゆる「婦有長舌、維厲之階」)にて、​タノミ​​賴​なき​トモビト​​從者︀​あり、かるが​ユヱ​​故​​アマツカミ​​上帝​より​ミコト​​命​ある​アンダ​​安荅​​カ​​勝​たれたるぞ。​アンダ​​安荅​ ​オンシ​​恩賜​せば、​ワレ​​我​​ト​​疾​​イ​​逝​なせば、​アンダ​​安荅​ ​コヽロ​​心​​ヤス​​安​めんぞ、​ナムチ​​爾​​アンダ​​安荅​ ​オンシ​​恩賜​して​コロ​​殺︀​さしむるには、​チ​​血​​イ​​出​さず​コロ​​殺︀​さしめよ。(血を出さず殺︀すとは、首を斬らず、袋に入れて絞め殺︀すことを云ふ、絞めらるゝは、斬らるゝよりも苦しか[216]るべけれども、首の離れざるを幸とするなり。蒙古の舊俗にて、皇族の罪ある者︀を殺︀すには、多くこの特典を用ひたり。​シ​​死​にて​フ​​臥​さば、​ワ​​我​​シカバネ​​死骸​​タカ​​高​​トコロ​​地​にて​ナガ​​永​​トホ​​遠​​ナムチ​​爾​​シソン​​子孫​​シソン​​子孫​​イタ​​至​るまで​マモ​​護​りて​アタ​​與​へん。​サキ​​幸​はふる[​カミ​​鬼​]となるぞ、​ワレ​​我​​オホモト​​根原​​コト​​別​なる​セイチヨク​​生殖​あるものなりき、​ワレ​​我​。(札荅㘓 氏は、孛端察兒の裔に非ず、孛兒只斤 氏と異なるが故に、根原 異なりと云へり。​アマタ​​許多​​セイチヨク​​生殖​ある​アンダ​​安荅​​ヰレイ​​威靈​​オ​​壓​されたるぞ、​ワレ​​我​​ワ​​我​​イ​​言​へる​コトバ​​言​​ワス​​忘​れず、​オソ​​晩​​ハヤ​​早​​オモ​​想​ひて​カタ​​語​​ア​​合​へ。​イマ​​今​ ​ワレ​​我​​ト​​疾​くせよ」と​イ​​言​へば、

情あり義あり禮ある處分

これに​ヨ​​依​​カレ​​彼​​コトバ​​言​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​イ​​言​へらく「​ワ​​我​​アンダ​​安荅​は、​ホカ​​外​​ユ​​行​きても、​ワレラ​​我等​​クチイツパイ​​口一杯​​イ​​謂​ひ(譏り​イノチ​​命​​ガイ​​害​​カレ​​彼​​カンガ​​考​へたることを​キ​​聞​かざりしぞ。​マナ​​學​ばるゝ​ヒト​​人​なりき。[​シカ​​然​れども]​カレ​​彼​ ​キ​​肯​かず(明譯​ナレドモ​​是​​ベキ​​可​​マナブ​​學​​ノ​​的​​ヒト​​人​​カレ​​他​​ズ​​不​​アヘ​​肯​​イキ​​活​​マテリ​​待​​シムルヲ​​敎​​カレニシナ​​他死​)。​シ​​死​なしめんと​イ​​云​へば。​ケ​​卦​​イ​​入​らず。(已むを得ず、殺︀さんとて占卜すれば、殺︀すべしと云ふこと、卦に現れず。蒙韃 備錄に「凡占卜、吉凶進退殺︀伐、每用羊骨、扇 以鐵椎火椎之、看其兆坼、以決大事、類︀龜卜也」と云ひ、黑韃 事略に「其占筮、則灼羊之枚子骨、驗其文理之逆順、而辨其吉凶。天棄天予、一決於此、信之甚篤。謂之燒琵琶。事無纖粟必占、占不再四已」と云へるは、蒙古の卜法なり。耶律 楚材の傳にも「帝每征討、必命楚材卜、帝亦自灼羊胛以相符應」とあり。​リイウ​​理由​なく​イノチ​​命​​ガイ​​害​​ナ​​爲​さば​ヨ​​善​からじ。​オモ​​重​​ダウリ​​道理​ある​ヒト​​人​なり。この​カナラ​​必​ず(このは理由に、必ずは言へに掛かる。​カレ​​彼​の[​コロ​​殺︀​さるべき]​リイウ​​理由​​イ​​言​へ。「​サキ​​前​​シユヂ ダルマラ​​搠只 荅兒馬剌​​タイチヤル​​台察兒​ ​フタリ​​二人​​バグン​​馬羣​​ウバ​​奪​​ア​​合​ひたる​ユヱ​​故​に、​ヂヤムカ アンダ​​札木合 安荅​は、​タヾチ​​直​​テキタイ​​敵對​して​キ​​來​て、​ダラン バルヂユト​​荅闌 巴勒主惕​​タヽカ​​戰​ひて、​ヂエレネ​​者︀咧捏​​ハサマ​​隘​​オ​​追​​イ​​入​れて​ワレ​​我​をそこに​オソ​​怕​れしめざりしか、​ナンヂ​​汝​​イマ​​今​ ​トモ​​伴​とならんと​イ​​云​へば、​キ​​肯​かず、​ナンヂ​​汝​​イノチ​​命​​ヲシ​​愛​[217]ば、​シタガ​​從​はざりき、​ナンヂ​​汝​」と​イ​​言​へ。「​イマ​​今​ ​ナンヂ​​汝​​コトバ​​言​により、​チ​​血​​イダ​​出​さず​イ​​逝​なせん」と​イ​​言​へ」と​イ​​云​ひて、「​チ​​血​​イ​​出​さず​イ​​逝​なせて、​カレ​​彼​​ホネ​​骨​​マノアタリ​​面前​​ナ​​勿​ ​ス​​棄​てそ。​ヨ​​善​きに​ト​​取​れ」とありき。​ヂヤムカ​​札木合​をそこに​イ​​逝​なせて、​カレ​​彼​​ホネ​​骨​​ト​​取​らしめたり(明譯​ヨツテ​​仍​​モテ​​似​​レイヲ​​禮​​アツクハウムレリ​​厚葬了​)。


§202(08:24:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​オナン ガハ​​斡難︀ 河​の源なる​フタ​​二​たびの卽位

 かく​モウセン​​毛氈​​チヤウクン​​帳裙​ある​クニタミ​​國民​​タヒラ​​平​げて、​トラ​​虎​​トシ​​年​我が土御門天皇 建永 元年 丙寅、宋の寧宗 開禧 二年、金の泰和 六年、西紀 一二〇六年、太祖︀ 四十五歲の時)、

九脚の白纛

​オナン ガハ​​斡難︀ 河​​ミナモト​​源​​ツドヒ​​聚會​して、​コヽノ​​九​つの​アシ​​脚​ある​シロ​​白​​トウ​​纛​​タ​​立​てて、(親征錄 元史 みな九斿の白旗とあり、喇失惕を洪鈞の重譯したるにも九脚の白旗とあれども、洪鈞は之を打消して「白き馬の尾九つを旄纛とせるにて、旗に非ず」と云へり。脚とは、白旄の垂れたるを云へるにて、斿に非ず。蒙古 源流に、九人の烏爾魯克 卽ち九猛將の稱ありて、親軍 九隊の帥を云へり。訶渥兒斯は、これに依りて「大なる纛を建て、白旄 九つを重ねて繋けて、九 烏爾魯克を表したるなり」と云へり。されども九 烏爾魯克の稱は、他の書に更に見えざれば、信じ難︀し。阿不勒嘎自の書に「蒙古は九の數を尙ぶが故に、贈︀物にも九を用ふ。その制は、突︀兒克より出でたり」とあれば、白旄の九つなるも、ただ めでたき數を用ひたるなるべし。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​カン​​罕​​ナ​​號​をそこに​タテマツ​​奉​れり。(

二次卽位の考證

これにて成吉思 汗は、二たび合罕の位に陞れり。元史 本紀に「元年丙寅、帝大會諸︀王羣臣、建九斿白旗。卽皇帝位於 斡難︀ 河之源。諸︀王羣臣、共上尊號成吉思 皇帝」とあり。錢大昕の祕史の跋に「當太祖︀幼時、勢甚徵弱、賴王罕 札木合 二人、假以徒眾、羽︀翼漸成、始立名號。紀但云「丙寅歲、羣臣上尊號成吉思 皇帝、」不成吉思 罕 之號、蓋已久矣。其後遣使誚責 案彈 火察兒 等、謂昔者︀吾國無主、汝等推戴吾之主者︀、正指此事也。先稱合罕者︀、一部之主。後稱皇帝、乃爲羣部之主。豈可罕一節︀而不書乎」と云へるは、洵に卓見なり。但 錢氏は前後の名號を合罕と皇帝とに分けたれども、この丙寅の卽位も皇帝と稱したるにはあらで、前と同じく合罕と云へるなり。親征錄 元史のみならず、宋人の記錄などにも、成吉思 皇帝とあるは、當時 蒙古に仕へたる漢︀臣 等の漢︀譯したるに本づきたるにて、蒙古にてしか稱したるには非ず。先後の合罕の異なる所は、先には蒙古部の主となり、今は迭列該(天下)の主、卽ち眞の合木渾 合罕となれるなり。すべて創業 開國の君にして二たび卽位の禮を行へるは、珍しき事に非ず。晉の代の羣雄には、初に天王の位に卽き、後に皇帝の位に卽きたる人 甚だ多し。後魏の道武帝は初に魏王と稱し、登國と建元し、後に皇帝となれり。遼の太祖︀は、初に契丹 可汗の位を嗣ぎ、後に天皇王となりて神︀册と建元せり。淸の太祖︀は初に金國汗の位に卽き、天命と建元[218]し、太宗その位を繼ぎ、天聰と改元し、後に大淸國 皇帝となりて、崇德と改元せり。これらは、みな初に小國の主となり、後に大國の主となれるにて、成吉思 汗の二たびの卽位もその類︀なり。また初の卽位は、合罕とは稱すれども、金朝に貢賦を納め、金の封爵を榮とし、小國の主なることを自らも認め居れども、後の卽位に至りては、天下の主となれる積りなれば、

太祖︀建元の追定

元史にこの寅の年を太祖︀の元年と立てたるは、至當の事なり。されども建元と云ふ事は、蒙古人の知れることに非ず。この寅の年より後も、祕史と喇失惕の史とは、十二支の象を用ひ、親征錄は、甲子を用ひて、元年二年など云へることなし。黑韃 事略に「其正朔、昔用十二支辰之象、今用六甲輪流、皆 漢︀人 契丹 女眞 敎之。若韃 之本俗、初不理會得。只是草靑、則爲一年、新月初生、則爲一月、人問其庚甲若干、則倒指而數幾靑草」と云へり。彭大雅のこの書を著︀せるは、太宗の時なるに、その言 猶 かくの如くなれば、太祖︀の朝に建元の事なきこと知るべく、この年を太祖︀の元年と名づけたるは、後の世に、大方は世祖︀の朝に、追定したる事なるべし。

太祖︀の初婚 初立の年

また蒙古 源流に「戊戌年、特穆津 年 十七歲、布爾德 哈屯 甫 十三歲、遂爾匹配。特穆津 年至二十八、歲次己酉、于克魯倫 河 北郊汗位、稱索多 博克達 靑吉斯 汗」とあり。孛兒帖を娶れる年と初の卽位の年とにつきては、源流の外に據るべきものなし。孛兒帖の十三歲は、祕史に「帖木眞より一歲大きく」とあるに違へれども、帖木眞 十七歲の初婚は、蒙古の早婚の風俗にしては事實なるべし。克魯倫 河の北郊とは、不兒罕 嶽の前なる桑古兒 小河の舊營を云へるなれば、この卽位は、初の卽位にして、斡難︀ 河の源の大會に非ざること論なし。源流の叙事は荒誕の說に富みて、その紀年も誤り多けれども、この二事だけは、幸に祕史の闕漏を補ふに足れり。然るを洪鈞の「源流固爲囈語、祕史亦屬妄談」と云へるは、何たる放言ぞや。

​ムカリ​​木合黎​の王號

​ムカリ​​木合黎​​コクワウ​​國王​​ナ​​號​をそこに​マタ​​又​ ​タマ​​賜​ひたり。(國號 無しの王爵なり。元史 木華黎の傳に「丁丑 八月、詔封太師國王、承制行事、贈︀誓券黃金印、曰子孫傳國、世世不絕」とあり。丁丑は、太祖︀ 十二年なり。親征錄 蒙古 集史は、皆 十三年 戊寅の事とすれば、修正 祕史に然ありしにて、原本 祕史の作者︀は、こゝにても虎の年を十二年前のに誤れるに似たり。然れども元史 百官志に「太祖︀ 十二年、以國王太師一員」とあるは、國王は前よりありて、それをその年に太師にしたるが如くも聞ゆれば、修正 祕史は却て誤りて十二年後の虎の年としたるも知るべからず。

​ヂエベ​​者︀別​の西征

​ヂエベ​​者︀別​を、​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク カン​​古出魯克 罕​​オ​​追​はしめに、そこに​マタ​​又​ ​シユツセイ​​出征​せしめたり。​モンゴル​​忙豁勒​​クニ​​國​​サダ​​定​​ヲ​​畢​へて、

佐命の功臣

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あるには「​クニ​​國​​タ​​立​​ア​​合​​オコナ​​行​​ア​​合​ひたる​モノ​​者︀​諸︀共に國を立て 事を共にしたる者︀)には、​セン​​千​​セン​​千​として、​センコ​​千戶​​クワンニン​​官人​​ヨサ​​任​して、​オンシ​​恩賜​​コトバ​​言​​イ​​言​はん」と​ミコト​​勅​ありき。​センコ​​千戶​​クワンニン​​官人​​ヨサ​​任​​ナ​​名​ざせるは、

​モンリク​​蒙力克​

​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​晃豁壇 氏、察喇合 額不干の子、卷一より見えたり。親征錄には蔑力 也赤可とあ[219]り、元史 忠義傳には伯八の祖︀父 明里 也赤哥、晃合丹 氏とあり。

​ボオルチユ​​孛斡兒出​

​ボオルチユ​​孛斡兒出​阿嚕剌惕 氏、納忽 伯顏の子、四傑の一人、卷二より見えたり。元史 本傳に、博爾朮、阿兒剌氏、納忽 阿兒闌の子とあり、蒙古 源流には阿爾拉特の博郭爾濟 諾顏とあり。

​ムカリ​​木合黎​

​ムカリ コクワウ​​木合黎 國王​札剌亦兒 氏、帖列格禿 伯顏の孫、古溫兀阿の子、四傑の一人、卷四より見えたり。元史 本傳に木華黎、札剌兒 氏、孔溫窟阿の子とあり、蒙古 源流に札拉伊爾の摩和賚とあり。

​ゴルチ​​豁兒赤​

​ゴルチ​​豁兒赤​卽ち豁兒赤 兀孫 額不干、巴阿𡂰 氏、卷三より見えたり。

​イルガイ​​亦魯該​

​イルガイ​​亦魯該​功臣の第五に列する程なれば、名高き人なるべきに、他の書に見えざるは訝し。又 札剌亦兒の阿兒孩 合撒兒は功勞 多き人なるに、功臣の中に見えざるも訝し。卷十に阿兒孩 合撒兒を阿兒孩とのみ書き、親征錄 元史 本紀にも阿里海︀とあるを見れば、この亦魯該は、阿兒孩の誤りにあらずやと思はる。蒙古字にては、アとイと形混らはしく、カイとガイとも誤り易し。

​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​

​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​兀嚕兀惕 氏、卷四より見え、濁水の誓に與れり。元史 本傳に朮赤台、兀魯兀台 氏とあり。

​クナン​​忽難︀​

​クナン​​忽難︀​格你格思 氏、卷三に見えたり。

​クビライ​​忽必來​

​クビライ​​忽必來​巴嚕剌思 氏、四狗の一人、卷三より見えたり。親征錄 元史 太祖︀紀には虎必來とあり。

​ヂエルメ​​者︀勒篾​

​ヂエルメ​​者︀勒篾​兀哴罕 氏、札兒赤兀歹 額不堅の子、四狗の一人、卷二より見えたり。親征錄 元史 太祖︀紀には折里麥、忙哥撒兒の傳には兀良罕 哲里馬、蒙古 源流には烏梁庫特の濟勒墨︀とあり。

​トゲ​​禿格​

​トゲ​​禿格​卽ち統格、札剌亦兒 氏、帖列格禿 伯顏の孫、赤剌溫 孩赤の子、木合黎の從弟、卷四に見えたり。

​デガイ​​迭該​

​デガイ​​迭該​別速惕 氏、卷三より見えたり。

​トロン​​脫欒​

​トロン​​脫欒​卽ち脫侖 扯兒必、晃豁壇 氏、蒙力克 額赤格の子、卷七に見えたり。元史 忠義傳に伯八の父 脫倫 闍里必、晃合丹 氏、明里 也赤哥の子とあり。

​オングル​​汪古兒​

​オングル​​汪古兒​卽ち翁古兒、乞顏 氏、巴兒壇 巴阿禿兒の孫、蒙格禿 乞顏の子、卷三より見え、親征錄に雍古兒 寶兒赤とあり。

​チユルゲタイ​​出勒格台​

​チユルゲタイ​​出勒格台​卽ち赤勤古台、速勒都︀思 氏、卷三に見えたり。

​ボロクル​​孛囉忽勒​

​ボロクル​​孛囉忽勒​卽ち孛囉兀勒、宣懿 太后の養子、四傑の一人、卷四より見えたり。元史 本傳に、博爾忽、許兀愼 氏とあり。錢大昕の考異に「元明善の淇陽 忠武王の碑には許愼 氏に作り、孛朮魯 翀の河南 淮北 蒙古軍 都︀萬戶府の增修 公廨の碑には旭申 氏に作れり」と云ひ、輟耕錄の蒙古 七十二氏の中には忽神︀と書けり。その名も、太祖︀紀に博羅渾、孛羅歡、鉢魯完など書き、蒙古 源流には烏古新の博羅郭勒とあり。

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​卽ち失乞刊 忽都︀忽、塔塔兒の人、宣懿 太后の養子、卷四より見えたり。親征錄には忽都︀忽 那顏、蒙古 源流には塔塔爾の錫吉 呼圖克とあり。

​グチユ​​古出​

​グチユ​​古出​卽ち曲出、篾兒乞惕の人、宣懿 太后の養子、卷三より見えたり。

​ココチユ​​闊闊出​

​ココチユ​​闊闊出​別速惕 氏。宣懿 太后の養子、卷三より見えたり。

​ゴルゴスン​​豁兒豁孫​

​ゴルゴスン​​豁兒豁孫​卷十に豁兒合孫とあり。元史 撒吉思の傳に火魯和孫とあるは、この人なり。

​フスン​​許孫​

​フスン​​許孫​元史 列傳に哈散納、怯烈亦 氏と云ひて、濁水の誓に與れる人あり、その文は卷六の注に引けり。許孫は哈散と轉じ、竟に哈撒納となれるなるべし。

​クイルダル​​忽亦勒荅兒​

​クイルダル​​忽亦勒荅兒​卽ち忽余勒荅兒、忙忽惕 氏、卷四より見え、元史 本傳に畏荅兒、忙兀 氏、畏翼の弟とあり、食貨志に慍里荅兒 薛禪ともあり。合剌合勒只惕の戰に傷を負ひて已に死にたれば、このたびの任命は、贈︀官にして、卷九なる勅語に依れば、千戶の職はその子孫に襲がせたるなり。

​シルカイ​​失魯孩​

​シルカイ​​失魯孩​元史 麥里の傳に「麥里、徹兀臺 氏。祖︀ 雪里堅 那顏、從太祖︀、與王罕戰、同飮班眞 河[220]、以功授千戶」とある雪里堅は、この失魯孩の轉なるべし。

​ヂエタイ​​者︀台​

​ヂエタイ​​者︀台​卽ち哲台、忙忽惕 氏、卷三より見えたり。卷三なる帖木眞 卽位の條に哲台 多豁勒忽 徹兒必 兄弟 二人 箭筒を帶べりとあるは、哲台 徹兒必 多豁勒忽 徹兒必 二人と云ふべきを略きたるなり。その後文に多歹 扯兒必は奴婢を統ぶとあるは、別なる人の如く聞ゆれども、卷七なる扯兒必 六人 任命の處に朶歹 扯兒必 多豁勒忽 扯兒必と連書して、その後 哲台の名 見えざれば、多歹 朶歹は卽ち哲台なるべし。

​タカイ​​塔孩​

​タカイ​​塔孩​卽ち塔乞。速勒都︀思 氏、赤勒古台の弟、卷三より見え、元史 阿塔海︀の傳に「阿塔海︀、遜都︀思人。祖︀ 塔海︀ 拔都︀兒、驍勇善戰。嘗從太祖︀、同飮黑河水、以功爲千戶」とあり。

​チヤガアン ゴア​​察合安 豁阿​

​チヤガアン ゴア​​察合安 豁阿​卽 捏兀歹 察合安 兀洼、捏兀思 氏 又 赤那思 氏、卷三より見え、荅闌 巴勒主惕の戰に死にたり。これも贈︀官にして、卷八〈[#「卷八」はママ。実際は卷九]〉なる勅語に依れば、その子 納𡂰 脫斡哩兒にその職を襲がせたるなり。

​アラク​​阿剌黑​

​アラク​​阿剌黑​你出古惕 巴阿𡂰 氏、失兒古額禿 額不堅の子、卷五に見え、元史 伯顏の傳に「伯顏、蒙古 八隣 部人。曾祖︀ 述律哥圖、事太祖︀、爲八隣 部左千戶。祖︀ 阿剌 襲父職、兼斷事官」とあり。

​ソルカン シラ​​鎖兒罕 失喇​

​ソルカン シラ​​鎖兒罕 失喇​速勒都︀思 氏、四傑の一人なる赤老溫の父、卷二より見え、蒙古 源流に蘇勒都︀斯の托爾干 沙喇〈[#「托爾干 沙喇」は底本では「托爾 干沙喇」。]〉とあり。九十五の千戶の中に赤老溫の名 見えざるは、その父 猶 存して、現に千戶となれるが爲ならん。

​ブルカン​​不魯罕​

​ブルカン​​不魯罕​元史 忽林失の傳に「忽林失、八魯剌䚟 氏。曾祖︀ 不魯罕 罕剳、事太祖︀、從平諸︀國、充八魯剌思 千戶」とあり。罕剳は、一種の稱號なるべし。その義は、考へ得ず。

​カラチヤル​​合喇察兒​

​カラチヤル​​合喇察兒​巴嚕剌思 氏、速忽 薛禪の子、卷三にも見え、卷十にも見ゆ。

​ココシユス​​闊可搠思​

​ココシユス​​闊可搠思​卽ち闊闊搠思、巴阿𡂰 氏、卷三に見え、卷十に闊客搠思ともあり。

​スイケト​​速亦客禿​

​スイケト​​速亦客禿​卽ち雪亦客禿 徹兒必、晃豁壇 氏、卷三より見えたり。

​ナヤア​​乃牙阿​

​ナヤア​​乃牙阿​卽ち納牙阿、你出古惕 巴阿𡂰 氏、失兒古額禿 額不堅の子、阿剌黑の弟、卷五に見えたり。

​チユンソ​​冢率​

​チユンソ​​冢率​卽ち種索、卷三に見えたり。卷三の譯文には種篩とあり、卷十には種賽とあり。

古出古兒

​グチユグル​​古出古兒​卽ち窟出古兒、別速惕 氏、迭該の弟、卷三に見えたり。卷九の勅語に依れば、古出古兒は、札荅喇惕の木勒合勒忽と二人にて一つの千戶となれるなり。

​バラ オロナルタイ​​巴剌 斡囉納兒台​

​バラ オロナルタイ​​巴剌 斡囉納兒台​札剌亦兒の巴剌に別たんが爲に、姓を加へたり。錢大昕の元史 氏族表に、元統癸酉 進士錄を引きて、濮州の蒙古 軍戶なる買閭は、斡羅台 氏にして、その曾祖︀ 八郞は、千戶となれりとあり。八郞は卽ち巴剌、斡羅台は、卽ち斡囉納兒台なり。

​ダイル​​荅亦兒​

​ダイル​​荅亦兒​兀洼思 篾兒乞惕の荅亦兒 兀孫、卷二より見えたり。豁兒赤 兀孫も、只 豁兒赤とのみも云へば、荅亦兒 兀孫も、只 荅亦兒とも云へるなるべし。初は敵なれども、女 忽闌 合屯を獻じて寵せられたる故に、外戚を以て功臣の列に入りたるならん。親征錄には、兀花思 蔑兒乞 部長 帶兒 兀孫、已に降りて復 叛き、闖拜 等に討ち平げられたりとあれども、祕史には荅亦兒の叛けること見えず、叛けるものは、篾兒乞惕の他の部眾なり。又 喇失惕 額丁の部族考に客咧亦惕の人 荅亦兒あれども、この荅亦兒とは異なり。

​ムゲ​​木格​

​ムゲ​​木格​卷十に蒙客とあり。元史 孛蘭奚の傳に「孛蘭奚、雍吉烈 氏、世居應昌。祖︀ 忙哥、以后族太祖︀宿衞」とある翁吉喇惕の忙哥なるべし。

​ブヂル​​不只兒​

​ブヂル​​不只兒​元史に布智兒と書きて、短き傳あり。蒙古の脫脫里台 氏、紐兒傑 拔都︀の子にして、父子ともに太祖︀に事ふと云へり。脫脫里台も塔塔兒なるべし。憲宗紀に憲宗 卽位の初「以牙剌瓦赤 不只兒 某某等燕京等處行尙書省事」とあ[221]る不只兒は、卽ちこの人にして、本傳には「憲宗以布智兒大都︀行天下諸︀路 也可 札魯忽赤、印造寶鈔」とあり。大都︀は卽 燕京、札魯忽赤は斷事官なり。世祖︀紀に「憲宗令斷事官 牙老瓦赤 與不只兒 等、總天下財賦子燕」とありて、不只兒 等の濫刑を世祖︀の責めたることを記せり。昔里鈐部、布魯海︀牙、月乃合 三人の傳には皆 卜只兒と書けり。

​モングウル​​蒙古兀兒​

​モングウル​​蒙古兀兒​卷十に蒙客兀兒とあり。

​ドロアダイ​​朶羅阿歹​

​ドロアダイ​​朶羅阿歹​外には見えず。

​ボゲン​​孛堅​

​ボゲン​​孛堅​元史 忽都︀の傳に「忽都︀、蒙古 兀羅帶 氏、父 孛罕 事太祖︀宿衞云云」とある孛罕なるべし。兀羅帶 氏は、輟耕錄に兀羅歹とあり。

​クドス​​忽都︀思​

​クドス​​忽都︀思​巴嚕剌思 氏、忽必來の弟、卷三に見え、卷七には忽都︀思 合勒潺とあり。

​マラル​​馬喇勒​

​マラル​​馬喇勒​外には見えず。

​ヂエブケ​​者︀卜客​

​ヂエブケ​​者︀卜客​札剌亦兒 氏、帖列格禿 伯顏の子、古溫兀阿の弟、卷四に見え、卷十にも見ゆ。卷四には「者︀卜客を合撒兒に與へたり」と云ひ、親征錄に犍河の會の前に、哈撒兒その麾下 哲不哥の計に從ひ、弘吉剌 部を掠めて、太祖︀に深く責められたりとあり。

​ユルカン​​余嚕罕​

​ユルカン​​余嚕罕​元史 奧魯赤の傳に祖︀ 朔魯罕とある人か。朔魯罕は、札剌亦兒の人にて、父 豁火察と共に太祖︀に事へ、朔魯罕は、後に野狐嶺の戰に戰死せり。

​ココ​​闊闊​

​ココ​​闊闊​元史に篾兒乞惕より降附せる闊闊の傳あれども、世祖︀の時 卒して年 僅に四十とあれば、この闊闊には非ず。闊闊 不花の不花を略きたるにもあるまじ。元史に「闊闊 不花 者︀、按攤 脫脫里 氏、爲人魁岸有膂力、以善射名」とありて、太祖︀ 太宗に事へて戰功 多く、その殺︀を嗜まざるは、塔塔兒 人などに珍しき人なり。

​ヂエベ​​者︀別​

​ヂエベ​​者︀別​別速惕 氏、四狗の一人、卷四より見えたり。蒙古 源流には伊蘇特の哲伯 諾顏とあり。元史には紀傳 處處にこの名 見ゆれとも專傳なし。洪鈞の哲別 補傳 甚だ佳し。

​ウドタイ​​兀都︀台​

​ウドタイ​​兀都︀台​外には見えず

​バラ チエルビ​​巴剌 扯兒必​

​バラ チエルビ​​巴剌 扯兒必​卽 札剌亦兒の巴剌、薛扯 朶抹黑の子、阿兒孩 合撒兒の弟、卷三に見えたり。西征の役に印度に入りたるはこの巴剌なり。

​ケテ​​客帖​

​ケテ​​客帖​卷十に見ゆ。

​スベエタイ​​速別額台​

​スベエタイ​​速別額台​兀哴罕 氏、四狗の一人、卷三より見えたり。元史 速不台の傳には、兀良合 氏、合赤溫の孫、哈班の子、忽魯渾の弟とあり。蒙古 源流には、珠爾濟特の蘇伯格特依とあり。

​モンコ ハルヂヤ​​蒙可 哈勒札​

​モンコ ハルヂヤ​​蒙可 哈勒札​忙忽惕 氏、忽亦勒荅兒の子なり。元史 畏荅兒の傳に、其子 忙哥とあり。哈勒札は、一種の稱號にして、元史 忽林失の傳なる不魯罕 罕剳の罕剳に同じ。親征錄の忙兀 部 木哥 漢︀札、太宗紀の蒙古 漢︀札、別咧津の譯せる木勒格 哈兒札は、みな蒙可 哈勒札の異文なり。

​クルチヤクス​​忽兒察忽思​

​クルチヤクス​​忽兒察忽思​外には見えず。

​コウギ​​苟吉​

​コウギ​​苟吉​卷十二に官人 掌吉と云ふ人あり。苟は、掌の誤寫にはあらずや。

​バダイ​​巴歹​

​バダイ​​巴歹​卷一にその名 見え、その事は卷五に見えたり。親征錄 元史 本紀には把帶、木華黎の傳には拔台とあり。親征錄 元史は、乞失里黑の弟とすれども、他の書は皆 只 同僚とせり。巴歹の姓は、知るべからず。

​キシリク​​乞失里黑​

​キシリク​​乞失里黑​斡囉納兒 氏、卷一に巴歹と共にその名 見え、その事は卷五にあり。輟耕錄 元史 哈剌哈孫の傳に啓昔禮、長春の西游記に吉息利 荅剌汗とあり。親征錄 元史 本紀の乞力失は、乞失力の誤りなり。

​ケタイ​​客台​

​ケタイ​​客台​兀嚕兀惕 氏、主兒扯歹の子、親征錄 元史 朮赤台の傳に怯台、本祖︀紀に可忒、郝 和尙 拔都︀の傳に郡王 迄忒、黑韃 事略に紇忒 郡王とあり。

​チヤウルカイ​​察兀兒孩​

​チヤウルカイ​​察兀兒孩​卽ち察兀兒罕、兀哴罕 氏、札兒赤兀歹 額不堅の子、者︀勒篾の弟、卷三に見え、卷六には察忽兒罕、親征錄には抄兒寒とあり、卷十にも見ゆ。

​オンギラン​​翁吉㘓​

​オンギラン​​翁吉㘓​外には見えず。

​トゴン​​脫歡​

​トゴン​​脫歡​四傑の一人なる孛囉忽勒[222]の子にはあらずや。元史に「博爾忽、 許兀愼 氏、事太祖︀、爲第一千戶、歿於敵、子 脫歡 襲職」とありて、脫軟の千戶となれるは、孛囉忽勒の戰死したる後の事なるが如くなれども、博爾忽の傳は、疏略の最 甚しきものなれば、脫歡を襲職と書きたるも、誤りなしとは定むべからず。

​テムル​​帖木兒​

​テムル​​帖木兒​多遜の史に、庫余克 汗(定宗)の崩じたるのち、阿勒塔克 山に諸︀王の聚會したる時、皇后 兀古勒該米失より喀喇 闊魯木の總管たりし帖木兒を遣りて會議に預らしめたりとあるは、この帖木兒なるべし。

​メゲト​​篾格禿​

​メゲト​​篾格禿​mm(卷十二に蒙格禿とある人ならん。元史 別兒怯 不花の傳に「曾祖︀ 忙怯禿、以千戶憲宗南征有功」とある人も、これらしけれども、時代違へり。)

​カダアン​​合荅安​

​カダアン​​合荅安​卽ち合荅安 荅勒都︀兒罕、塔兒忽惕 氏、卷三 卷六に見え、卷十二にも見ゆ。

​モロカ​​抹囉合​

​モロカ​​抹囉合​外には見えず。

​ドリブカ​​朶哩不合​

​ドリブカ​​朶哩不合​卷十に朶兒別惕の朶兒伯 多黑申、元史に朶魯伯とある人は、この名に稍 似たれどもいかゞ。

​イドカダイ​​亦都︀合歹​

​イドカダイ​​亦都︀合歹​卷十に亦多忽歹とあり。

​シラクル​​失喇忽勒​

​シラクル​​失喇忽勒​客咧亦惕 氏。元史 也先不花の傳に「也先不花、蒙古 怯然 氏。祖︀ 曰失剌忽勒。兄弟四人。長曰脫不花、次曰怯烈哥、季曰哈剌阿忽剌。方太祖︀微時、怯烈哥 已深自結納。後兄弟四人、皆率部屬來歸。太祖︀以舊好之、特異他族、命爲必闍赤 長、朝會燕饗、使上列」とあり。失剌斡忽勒は、卽ちこの失喇忽勒なり。功臣の中に怯烈哥の見えざるは、早く死にたるなるべし。

​ダウン​​倒溫​​タマチ​​塔馬赤​​カウラン​​合兀㘓​

​ダウン​​倒溫​​タマチ​​塔馬赤​​カウラン​​合兀㘓​この三人も、外に見えず。

​アルチ​​阿勒赤​

​アルチ​​阿勒赤​元史 速不台の傳に裨將 阿里出とあるは、この人なるべし。この阿里出は、憲宗紀に、憲宗 卽位の時、葉孫脫 按只䚟 暢吉 爪難︀ 合荅 曲憐 等と同じく「務持兩端、坐諸︀王亂、並伏誅」とあり。

​トサカ​​脫撒合​

​トサカ​​脫撒合​桑昆の子 禿撒合と音近けれども、彼にはあるまじ

​トンクイダイ​​統灰歹​

​トンクイダイ​​統灰歹​これも分らず。元史 列傳に「鎭海︀、怯烈台 氏。初 以軍伍長太祖︀、同飮班朱尼 河水。與諸︀王百官大會兀難︀ 河、上太祖︀尊號成吉思 皇帝」とあれば、鎭海︀は功臣に列すべき人なるに、見えず。この人は、本 田姓なりとの說もありて、長春の西游記に田鎭海︀と云へり。これに依りて强ひて考ふるに本 統灰歹と云ひしを、漢︀字に寫して田姓に配せんが爲に鎭海︀と改めたるにあらずや。

​トブカ​​脫不合​

​トブカ​​脫不合​客咧亦惕 氏、失喇忽勒の兄なり。前に引ける也先不花の傳に見ゆ。

​アヂナイ​​阿只乃​

​アヂナイ​​阿只乃​元史 列傳の按竺邇と音 似たれども、按竺邇は、汪古惕 氏にして、世世 雲中に居り、父 䵣公は金の羣牧使となり、辛未の歲、その牧せる馬を驅りて太祖︀に歸したりとありて、辛未は、この年より五年 後なれば、この阿只乃に非ず。太祖︀に從ひ、黑河の水を飮み、元史に傳ある斡魯納台の阿朮魯も、阿只乃と音やゝ近し。

​トイデゲル​​禿亦迭格兒​

​トイデゲル​​禿亦迭格兒​これも分らず。

​セチヤウル​​薛潮兀兒​

​セチヤウル​​薛潮兀兒​卽ち薛赤兀兒、豁囉剌思 氏、卷三に見えたり。元史 曷思麥兒の傳に「命與薛徹兀兒必闍赤」とある薛徹兀兒も、この薛潮兀兒なるべし。

​ヂエデル​​者︀迭兒​

​ヂエデル​​者︀迭兒​卷六の初に、卯 溫都︀兒 山の前を過ぐる王罕の軍を見出したる馬飼︀ 牙的兒、親征錄に也迭兒とある人と名 甚だ似たり。

​オラル​​斡剌兒​ ​ムコギミ​​駙馬​

​オラル グレゲン​​斡剌兒 古咧堅​古咧堅は、駙馬なり。この駙馬の名、考へ得ず。

​キンギヤダイ​​輕吉牙歹​

​キンギヤダイ​​輕吉牙歹​斡勒忽訥兀惕 氏、卷三に見えたり。

​ブカ​​不合​ ​ムコギミ​​駙馬​

​ブカ グレゲン​​不合 古咧堅​札剌亦兒 氏 古溫兀阿の子、木合黎の弟、卷四に見え、親征錄には不花とあり。蒙韃 備錄に「元勳、乃 成吉思 太師國王、沒黑肋 者︀、小名也。云云。弟二人、長曰抹歌、見在成吉思 處、爲護衞。次曰帶孫 郡王[223]毎隨侍焉」とあり。抹歌は、卽ち この不合なり。元史 木華黎の傳には、帶孫ありて不合なし。不合の駙馬となれるを見れば、元明善の東平 忠憲王の碑に「親連天家、世不婚姻」と云へるは、誤れり。札剌亦兒は、孛兒只斤の同族に非ず。その皇室と婚したる人 少きは、他に故ある事なるべし。

​クリル​​忽哩勒​

​クリル​​忽哩勒​斡難︀ 河の戰に泰赤兀惕の一將、親征錄に忽憐、喇失惕の史に忽哩勒 巴哈都︀兒と云ひて、戰 敗れて乃蠻に奔れる人と名 同じけれども、蒙古の功臣に列することはあるまじ。憲宗の元年に前の阿勒赤 卽ち阿里出 等と同じく、諸︀王を誘ひて亂を爲せりとて誅せられたる曲憐は、この忽哩勒なるべし。

​アシク​​阿失黑​ ​ムコギミ​​駙馬​

​アシク グレゲン​​阿失黑 古咧堅​後文に塔該 阿失黑の管する阿荅兒斤 云云とあれば、阿失黑は、速勒都︀思の塔該と同族なるべし。

​カダイ​​合歹​ ​ムコギミ​​駙馬​

​カダイ グレゲン​​合歹 古咧堅​元史 公主表 延安 公主 位の處に「火魯 公主、適哈荅 駙馬」とある哈荅なるべし。親征錄 癸酉 南征の役に「怯台 哈台 二將圍中都︀」とあり。その怯台は、兀嚕兀惕の客台にして、哈台は、この合歹なり。また本書 卷十二 太宗の時に、合歹は、宿衞の番直の官人 八人の中に加はれり。また多遜の史に、庫余克 汗(定宗)疾ありて、政事は大臣 鎭海︀ 喀荅克 二人に委ねたりしが、忙古 汗(憲宗)卽位の初、諸︀王 叛を謀りて黨與の誅せられし時、二人も殺︀されたりとありて、憲宗紀にも、諸︀王を亂に誘へりとて誅せられし諸︀臣の內に合荅あり。合荅は、卽ち哈荅にて、又 卽ち合歹なるべし。火魯 公主は、公主表に誰の女とも云はず。食貨志に大雷 公主と云ふ人あり。錢大昕の考異に「大當火、卽 火魯 也」と云へり。

​チグ​​赤古​ ​ムコギミ​​駙馬​

​チグ グレゲン​​赤古 古咧堅​親征錄 赤渠 駙馬、元史 太祖︀紀 駙馬 赤駒、太宗紀 駙馬 赤苦。公主表 鄆國 公主 位の處に「禿滿倫 公主、適赤窟 駙馬」とありて、何帝の女とも何姓の人とも云はざれども、喇失惕 額丁の史には、太祖︀の第四の女 禿馬侖は、翁吉喇惕の阿勒赤 那顏の子 赤古 古兒干に嫁ぎたりと云へり。阿勒赤は、德 薛禪の子 光獻 皇后の弟、元史に國舅 按陳 那顏と云へる人にして、赤古は、按陳の長子、斡陳 納陳 等の兄なるべし。又 蒙韃 備錄に「三公主曰阿五、嫁尙書令國舅之子、」と云ひて、その尙書令のことは「按赤 那邪、見封尙書令、爲成吉思 正后之弟」とあれば、太祖︀の女にして阿勒赤の子に嫁ぎたるものあるを證すべし。洪鈞 曰く「特 薛禪 傳、但言按陳 子 斡陳、尙睿宗女、必是史官失載。阿五 異名無考、或備錄有訛字」と云へり。

​アルチ​​阿勒赤​ ​ムコギミ​​駙馬​

​アルチ グレゲン​​阿勒赤 古咧堅​なる​ミ​​三​つの​センコ​​千戶​​オンギラト ウヂ​​翁吉喇惕 氏​親征錄に弘吉剌 部 安赤 那顏 三千騎、元史 太宗紀に按赤 那顏、成宗紀 元貞 元年の條に皇國舅 按赤 那演、劉伯林の傳に按眞 那延とあり。特 薛禪の傳に曰く「子曰按陳、從太祖︀征伐、凡三十二戰云云。歲丁亥、賜號國舅 按陳 那顏。云云。丁酉、賜錢二十萬緡。有旨、弘吉剌 氏生女、世以爲后、生男、世尙公主、毎歲四時孟月、聽所賜旨、世世不絕」と云ひ、公主表 魯國 公主 位も「魯國大長公主 也速不花、睿宗女也。適皇國舅魯忠武王 按嗔 那顏 子 斡陳 駙馬。魯國公主 薛只干、太祖︀ 孫女、適斡陳 弟 納陳 駙馬」より始まりて、阿勒赤の皇女を娶れることは、元史に見えず。されども多遜の史に「阿赤の本の名は、荅兒吉 古兒干なりしが、人は皆 阿赤 那顏と云ふ」とありて、阿赤は卽ち阿勒赤、古兒干は卽ち古咧堅なれば、國舅の號を賜はれる前は、古咧堅と呼ばれて、太祖︀の駙馬なりしを、本傳も公主表も書き漏せるなり。

​ブト​​不禿​ ​ムコギミ​​駙馬​

​ブト グレゲン​​不禿 古咧堅​なる​フタツ​​二​​センコ​​千戶​​イキレス ウヂ​​亦乞咧思 氏​卽ち不圖、卷三より見え、濁水の誓に與り、親[224]征錄に亦乞列 部 孛徒 駙馬 二千騎、黑韃 事略に 撥都︀ 駙馬とあり。元史 本傳に「孛禿、亦乞列思 氏、善騎射。太祖︀妻以皇妹 帖木倫。皇妹薨、復妻以皇女 火臣 別吉」と云ひ、公主表 昌國 公主 位の處に「昌國 大長公主 帖木倫、烈祖︀女、適昌忠武王 孛禿。主薨、繼室以太祖︀ 女 昌國 大長公主 火臣 別吉」と云へり。帖木倫は、卷一 卷二にも喇失惕の史にも みな帖木侖とあり。火臣 別吉は、卷五に豁眞 別乞、親征錄に火阿眞 伯姫、喇失惕の史に長女 火眞 別吉とあり。蒙韃 備錄に「成吉思 皇帝 女 七人。長公主曰阿眞 鱉拽、今嫁豹突︀ 駙馬」とある阿眞 鱉拽は卽ち豁眞 別乞、豹突︀は卽ち不禿なり。

​アラクシ デギトクリ​​阿剌忽失 的吉惕忽哩​ ​ムコギミ​​駙馬​

​オングト​​汪古惕​​アラクシ デギトクリ グレゲン​​阿剌忽失 的吉惕忽哩 古咧堅​なる​イツヽ​​五​​センコ​​千戶​​オングト ウヂ​​汪古惕 氏​、(この名は、卷六より見えて、今始めて古咧堅と稱せり。元史 本傳に曰く「旣平乃蠻、從下中原、復爲嚮導、南出界垣。太祖︀畱阿剌兀思 剔吉忽里、歸鎭本部。爲其部眾、昔之異議者︀所殺︀、長子 不顏昔班 倂死之。其妻 阿里黑、攜幼子 孛要合、興姪 鎭國難︀、夜遁至界垣、吿守者︀、縋城以登、因避地雲中。太祖︀旣定雲中、購求得之、賜與甚厚。以其子 孛要合 尙幼、封其姪 鎭國北平王。鎭國 薨、子 聶古台 襲爵、尙睿宗 女 獨木干 公主、略地江淮、薨于軍。孛要合 幼從攻西域、還封北平王、尙阿剌海︀ 別吉 公主。公主 明睿 有智略。車駕征伐四出、嘗使畱守、軍國大政、諮稟而後行。師出無內顧之憂、公主之力居多」と云ひ、公主表 趙國 公主 位の初に「趙國 大長公主 阿剌海︀ 別吉、太祖︀女、適趙武毅王 孛要合」とあり。然るに蒙韃 備錄には「二公主曰阿里黑 百因、俗曰必姫夫人。曾嫁金國亡臣 白四部、死、寡居、今領白 韃靼 國事、日逐看經、有婦女數千人之、征伐斬殺︀、皆自己出」と云ひ、多遜の史には「成吉思 汗、第三の女 阿剌海︀ 別吉を阿剌忽失 的斤忽哩に妻せんとしたるを、年老いたりとて辭みて、兄の子 鎭古に妻せられんことを願ひ、阿剌海︀は鎭古に嫁ぎて、訥古台を生み、訥古台は拖雷の女を娶れり」と云へり。

​アラカ ベキ​​阿剌合 別乞​ 再醮の說

洪鈞 思へらく「據孟珙言、則元史所謂畱守、乃是掌汪古部 事、非太祖︀本部。太祖︀西征、斡赤斤 居守、元 祕史 西游記 可證、別無阿剌海︀ 居守之語。作此傳者︀誤會也。史 言孛要合 幼從征西域、歸乃封王尙主、而孟珙之使蒙古、作蒙達備錄、在辛巳歲、正太祖︀在西域札闌丁之時、不卽云公主夫死寡居。今案、西域書之鎭古、卽 鎭國 之訛。訥古台、卽 鎭國 子 聶古台。尙睿宗 女、語同元史。反覆推求、必是公主先適鎭國、夫死、遂自領汪古 部事、繼而夫弟(從弟)孛要合、自西域還、復尙公主。鎮國 子 聶古台 爲公主出、而 孛要合 之 三子、則公主進姫妾以生。西域書但言其前、元史但言其後、而蒙達備錄、則適當其中。蒙古 不再醮、理宜然也」とて、三書の異なる處を巧に解釋せり。又 黑韃 事略に蒙古の十七頭項の名を擧げて、その一人なる白厮馬の原注に「一名 白厮卜、卽 白韃 僞太子、忒沒眞 壻、僞公主 阿剌罕 之前夫」とあり。洪鈞はこの文を引きて公主 再醮の確證とし、「白撕卜、卽 白四部、亦卽史之 鎭國。何以二名、不其考」と云へり。洪鈞 又 曰く「西域書謂太祖︀欲女適阿剌兀思 剔吉忽里、辭以年老、請以兄子婚。阿剌兀思 之兄、先爲汪古 部主。汪古 部爲金守長城邊界。兄死弟嗣、而金主仍禮遇其兄子、蒙達備錄所以云金國亡臣也。汪古 之義爲邊牆。云是契丹語、蓋卽金語。史言金源氏塹山爲界、阿剌兀思 以一軍其衝要、語同。西域書紀阿剌兀思 死難︀ 之故、與元史異。語繁不載。又云阿剌海︀ 別吉 年歲、在窩闊台 拖雷 之間、則是太宗妹睿宗姊」と云へり。

​アラカ ベキ​​阿剌合 別乞​ 三醮の說

洪鈞の此等の說は、考證 甚だ精︀にして確なり。余これに依りて猶 考ふるに、阿剌海︀ 別吉は、祕史 卷十なる阿剌合 別乞にして、前に鎭國[225]に嫁ぎたるのみならず、猶その前に阿剌忽失に嫁ぎたるなるべし。多遜は、阿剌忽失の辭みたることを云へども、辭みたらんには、古咧堅 卽ち駙馬と呼ばるべき筈なし。卷十に阿剌合 別乞を汪古惕に與へたりとあるは、阿剌忽失に與へたるなり。蒙韃 備錄に阿里黑 百因とあるは、卽ち阿剌合 別乞の訛なれば、元史に阿剌兀思の妻 阿里黑と云へるは卽ちこの阿里黑、又卽ち阿剌合なり。蒙古は再醮 三醮を諱まざるのみならず、父 死してその後 母を妻とし、兄 死してその嫂を妻とするは、匈奴 突︀厥を初として、塞北の俗 皆 然り。孛要合は、蓋 阿剌合の生めるにはあらで、前妻の子なるべし。阿剌忽失の殺︀されたる時は、孛要合なほ幼かりし故に、阿剌合は夫の姪なる鎭國に嫁ぎ、鎭國 死して後に我が子の如き孛要合を夫としたるなり。蒙古 源流に滿都︀古勒 汗の寡婦 滿都︀該 徹辰 哈屯は、節︀を守りて他族に嫁がず、夫の從曾孫(姪の孫)なる達延 汗を育ててその哈屯となれる奇談あり。漢︀人ならば瀆倫と云ふべきことを蒙古にては貞烈とするほどなれば、阿剌合の三醮などは珍しきことに非ず。然るに閻復の駙馬 高唐王 闊里吉思(阿剌忽失の曾孫)の碑に至りては、曾祖︀母と祖︀母と同じ人なりとは直書しかねて、阿剌忽失の妻をば曾祖︀妣 阿里黑、孛要合の妻をば祖︀妣 皇曾祖︀姑 阿剌海︀ 別吉と書きて、別人の如くし、阿里黑は何姓とも誰の女とも云はず、只まぎらかせり。元史の本傳は、全くこの碑文に本づける故に筆 執れる人も、阿里黑の卽ち阿剌海︀なることを知らざりしなり。​ハヤシ​​林​​タミ​​民​より​ホカ​​外​なる​モンゴル​​忙豁勒​​クニ​​國​​センコ​​千戶​​クワンニン​​官人​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ナ​​名​ざしたる

九十五の千戶

​クジフゴ​​九十五​​センコ​​千戶​​クワンニン​​官人​ ​ナ​​成​れり。(林の民とは、斡亦喇惕 乞兒吉速惕などを云ふ。卷十に見ゆ。阿勒赤、不禿、阿剌忽失 的吉惕忽哩の三人は、三人にて十の千戶となりたれば、千戶は九十五なれども、功臣は八十八人なり。

八十八の功臣

明譯に「除駙馬外、復授同開國有功者︀九十五人千戶」とあり。駙馬を除くも九十五人も、皆譯し誤りなり。又 元史 朮赤台の傳に「朔方旣定、擧六十五人千夫長」とある六は九の誤寫 又は誤刻にして、これも千戶の數 九十五なるを功臣の數と誤解したるなり。


§203(08:27:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


功臣の恩賞

 ​グレゲト​​古咧格惕​駙馬なる古咧堅の複稱)と​イツシヨ​​一處​[なる​ヒトビト​​人人​]に(この句の意 明かならざるが爲に、明の譯人は、駙馬を除きて九十五の功臣ありと誤解せり。蓋この句の意は、駙馬を込めたる諸︀功臣にと云ふことにて、功臣の外なる駙馬を加へてと云ふことには非ず。​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり「この​ナ​​名​ざしたる​クジフゴ​​九十五​​センコ​​千戶​​クワンニン​​官人​​センコ​​千戶​​ヨサ​​任​したるその​ウチ​​內​にて​イワヲ​​功​ある​モノ​​者︀​​オンシヤウ​​恩賞​​アタ​​與​へん」とて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり(この句は、原本にては「功ある者︀」の上に在り。恐らくは傳鈔の間に起れる錯誤ならん。今 假にこゝに移したれども、實はこの句なくとも通ずる處なり。)「​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ムカリ​​木合黎​ ​ラ​​等​​クワンニン​​官人​どもをおこせよ」と​ノリタマ​​宣​​トキ​​時​に、​ヘヤ​​房​​ウチ​​內​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​[226]​ヲ​​居​りき。

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​の愛だれ

​ヨ​​喚​びに​ユ​​往​け」と​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​ノリタマ​​宣​へば、​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​マウ​​申​さく「​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ムカリ​​木合黎​ ​ラ​​等​は、​タレ​​誰​より​オホ​​多​​イサヲ​​功​をなしけん。​タレ​​誰​より​オホ​​多​​チカラ​​力​​アタ​​與​へけん。​オンシヤウ​​恩賞​​タマ​​賜​はらんには、​ワレ​​我​いかに​スクナ​​少​​イサヲ​​功​をなさざりき。いかに​スクナ​​少​​チカラ​​力​​アタ​​與​へざりき、​ワレ​​我​​エウシヤ​​搖車​​斡列該​にある​トキ​​時​より​ナガミコト​​爾​​タカ​​高​​溫都︀兒​​シキミ​​閾​​ウチ​​裏​​シタアゴ​​下頷​​額哩溫​​かく​​額堆​​ヒゲ​​髯​ ​オ​​生​ふるまで​タ​​長​​斡思​けて、​アダ​​他​​斡額咧​しくは​オモ​​思​はざりしぞ(他心を懷かざりしぞ)、​ワレ​​我​​ウチマタ​​內服​​阿剌​​ネウコ​​尿壺​[を​モチ​​用​ひし]より​ナガミコト​​爾​​コガネ​​金​​阿勒壇​​シキミ​​閾​​ウチ​​裏​​ス​​住​​阿周​みて​クチ​​口​​阿蠻​​ヒゲ​​髯​かく​オ​​生​ふるまで​タ​​長​けて、​タガ​​違​​阿兒只阿思​へるを​フ​​踏​まざりしぞ、​ワレ​​我​​アシ​​脚​​闊勒​​トコロ​​處​​フ​​臥​させて​コ​​子​​可兀赤連​とし​ソダ​​育​てたるぞ、​ワレ​​我​を。​マヘ​​前​​迭兒格​​フ​​臥​させて​オトヽ​​弟​​迭兀赤連​とし​ソダ​​育​てたるぞ、​ワレ​​我​を。​イマ​​今​ ​ワレ​​我​にいかなる​オンシヤウ​​恩賞​をか​タマ​​賜​はらん」と​マウ​​申​しき。その​コトバ​​言​につき、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​

太祖︀の溫諭

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​ノリタマ​​宣​はく「​ダイロク​​第六​​オトヽ​​弟​宣懿 太后の第六子にして太祖︀の末弟)に​アラ​​非​ずや、​ナンヂ​​汝​は。​スエ​​末​​オトヽ​​弟​なる​ナンヂ​​汝​に、​オンシヤウ​​恩賞​​オトヽ​​弟​どもの​ワケマヘ​​分前​​ヨ​​依​​ワカ​​分​​ア​​合​はん。​マタ​​又​ ​ナンヂ​​汝​​イサヲ​​功​​ユヱ​​故​​コヽノタビ​​九次​​ツミ​​罪​​ナ​​勿​ ​ツミ​​罪​なひそ」と​ミコト​​勅​ありき。「​トコヨ​​長生​​アマツカミ​​上帝​​タス​​祐︀​けられて​アマネ​​普​​クニタミ​​國民​​シタガ​​服​へてある​トコロ​​處​にて、​ナンヂ​​汝​​ミ​​視︀​​メ​​目​ ​キ​​聽​​ミヽ​​耳​となりて、​アマネ​​普​​クニタミ​​國民​​ハヽ​​母​​ワレラ​​我等​​オトヽ​​弟​どもに​コ​​子​どもに​ブンミン​​分民​分け與へらるゝ民)の​ナ​​名​にて、​マウセン​​毛氈​​亦思該​​チヤウシヤウ​​帳牆​ある[​タミ​​民​]を​ワ​​分​​亦哩扯兀勒​けて、​イタ​​板​​合荅孫​​カド​​門​ある[​タミ​​民​]を​ハナ​​離​​合合察兀勒​して、​ワリツ​​割附​けて​アタ​​與​へよ。​タレ​​誰​​ナンヂ​​汝​​コトバ​​言​​タガ​​違​​ナ​​勿​ ​セ​​爲​そ」と​ミコト​​勅​ありき。​マタ​​又​ ​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​に「​アマネ​​普​​クニタミ​​國民​​ヌスビト​​盜​​コラ​​懲︀​して、​ネナシゴト​​謊​​アラハ​​白​[227]して、​コロ​​殺︀​すべき​コトワリ​​理​あるをば​コロ​​殺︀​し、​ツミナ​​罰​ふべき​コトワリ​​理​あるをば​ツミナ​​罰​へ」とて、

斷事官

​アマネ​​普​​ジヤウトウ​​上等​​ヂヤルク​​札兒忽​最も高き斷事、卽ち最高 裁判)を​ヨサ​​任​​タマ​​給​へり。(黑韃 事略の徐霆の補證に「韃人本無字書云云。其俗淳而心專、故言語不差。其法說謊者︀死、故莫敢詐僞。雖字書、自可國、」また「霆見其一法最好、說謊者︀死」とあり。謊は、詐僞なり。札兒忽を掌る者︀を札兒忽赤と云ひ、漢︀語に譯すれば斷事官と云ふ。失吉 忽禿忽は、初任の斷事官なり。馬祖︀常の撰れる月合乃の碑に「國朝天造之始、總裁庶政、悉由斷事官」と云ひ、元史 百官志 一に「元太祖︀起朔土、統有其眾、部落野處、非城郭之制、國俗敦厚、非庶事之繁、惟以萬戶軍旅、以斷事官政刑、任用者︀、不一二親貴重臣耳」と云ひ、元史 紀事本末に「太祖︀時、設官甚簡、以斷事官至重之任、位三公上」ともあり。又 百官志 三に「國初未官制、首置斷事官、曰札魯忽赤、會決庶務。凡諸︀王駙馬投下 蒙古 色目人等應犯一切公事、及漢︀人姦盜詐僞、蠱毒厭魅、誘掠逃驅、輕重罪囚、及邊遠出征、官吏每歲從駕、分司上都︀、存畱住冬諸︀事、悉掌之」とあるは、漢︀地を幷せたる後の職掌をも兼ね擧げたるなり。​マタ​​又​​アマネ​​普​​タミ​​民​​ワリツケ​​割附​​ワリツ​​割附​けたる​コト​​事​​サイダン​​裁斷​​サイダン​​裁斷​したる​コト​​事​​アヲ​​靑​​デブテル​​迭卜帖兒​靑册)に​カキモノ​​書物​​必赤克​​カ​​書​​必赤​きて​キロク​​記錄​​迭卜帖兒列​して、​ウミノコ​​子孫​​ヤソツギツギ​​子孫​​イタ​​至​るまで、​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​ワレ​​我​​ハカ​​謀​りて​アゲツラ​​論​ひて、​アヲ​​靑​​カキモノ​​書物​ ​シロ​​白​​カミ​​紙​​キロク​​記錄​したるを​ナ​​勿​ ​アラタ​​改​めそ。​アラタ​​改​むる​ヒト​​人​は、​ツミ​​罪​あるとなれ」と​ミコト​​勅​ありき。

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​の謙讓

​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​イ​​言​はく「​ワ​​我​​ゴト​​如​​スエ​​末​​オトヽ​​弟​は、​イチヤウ​​一樣​​ヒトシナミ​​齊等​​ワケマヘ​​分前​をいかんぞ​ト​​取​らん。​オンシ​​恩賜​せば、​ツチ​​土​​カキ​​牆​ある​シロ​​城​より​タマ​​賜​はらん​コト​​事​​カガン​​合罕​​オンシ​​恩賜​にて​シ​​知​しめせ」と​マウ​​奏​しけり。(土の牆ある城とは、乞塔惕 唐兀惕などの都︀邑を云ふ。羽︀柴秀吉の「海︀外にて領地を賜はれ」〈[#「海︀外にて領地を賜はれ」は底本では「始めかぎ括弧」がない]〉と信長公に申したるに意 同じ。)この​コトバ​​言​につき、「​オノ​​己​​ミ​​身​​ナンヂ​​汝​​シンシヤク​​斟酌​せり(身の程を善く考へたり)。​ナンヂ​​汝​ ​シ​​知​れ(自ら取りて支配せよ)」と​ノリタマ​​宣​へり。​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​オノレ​​己​にかく​オンシ​​恩賜​せしめ​ヲ​​了​へて、​イ​​出​でて​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ムカリ​​木合黎​ ​ラ​​等​​クワンニン​​官人​​ヨ​​喚​びて​イ​​入​らしめけり。


§204(08:33:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​モンリク​​蒙力克​​イサヲ​​功​

 そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​ありて​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​〈[#「蒙力克 額赤格」は底本では「蒙力克 額亦格」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​ノリタマ​​宣​はく[228]​ウマ​​生​るゝと​トモ​​共​​ウマ​​生​れたる、​タ​​長​くると​トモ​​共​​タ​​長​けたる、​サキ​​福︀​ある​ヨゴト​​慶​ある​ナンヂ​​汝​​ナンヂ​​汝​​イサヲタスケ​​功助​は、​イク​​幾​ばくもありしぞ。その​ウチ​​內​ ​ワンカン エチゲ​​王罕 額赤格​​サングン アンダ​​桑昆 安荅​ ​フタリ​​二人​ ​ワレ​​我​​スカ​​賺​して​ヨ​​喚​びたる​トキ​​時​​ユ​​往​​アヒダ​​閒​​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​​イヘ​​家​​ヤド​​宿​りたれば、​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​​ナンヂ​​汝​ ​トヾ​​止​めざりせば、​ウヅ​​渦​​忽亦侖​ある​ミヅ​​水​​ウチ​​裏​​クレナヰ​​紅​​忽剌侖​なる​ヒ​​火​​ウチ​​裏​​イ​​入​れらるるなりしぞ。​カ​​彼​​イサヲ​​功​​ヨ​​善​​オモ​​想​ひては、​ウミノコ​​子孫​​ヤソツギツギ​​子孫​​イタ​​至​るまでいかんぞ​ワス​​忘​られん。

人臣の極位

​カ​​彼​​イサヲ​​功​​オモ​​想​ひて、​イマ​​今​ ​クラヰ​​坐次​は、この​スミ​​隅​​ネ​​根​​ス​​坐​ゑて、​トシ​​年​​ツキ​​月​​ハカ​​議​りて​キフヨ​​給與​ ​シヤウシ​​賞賜​​ナンヂ​​汝​​アタ​​與​へん。​カシヅ​​侍奉​きて​ス​​過​さん、​ウミノコ​​子孫​​ヤソツギツギ​​子孫​​イタ​​至​るまで」と​ミコト​​勅​ありき。


§205(08:34:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ボオルチユ​​孛斡兒出​​イサヲ​​功​

 ​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ノリタマ​​宣​はく「​チヒサ​​小​き時に、​アシゲ​​葦毛​​センバ​​騸馬​ ​ハチヒキ​​八匹​​ヌス​​盜​まれて、​ミチ​​路​​ミ​​三​たび​ヤド​​宿​りて​オ​​追​ひて​ユ​​行​ける​トキ​​時​​ア​​遇​​ア​​合​ひたるぞ。

少年の義俠

​ナンヂ​​汝​そこに​イ​​言​はく「​ナヤ​​艱​みて​キ​​來​つる​トモ​​伴​​トモ​​伴​なはん」と​イ​​云​ひ、​イヘ​​家​​チヽ​​父​にも​ハナシ​​話​なく、​メウマ​​騍馬​​チ​​乳​​シボ​​擠​​ヰ​​居​たるに、その​オホカハヲケ​​大皮桶​ ​カハマス​​皮斗​​ノ​​野​にて​フタ​​蓋​して、​ヲヌケ​​尾脫​​クリゲウマ​​栗毛馬​​ハナ​​放​たしめて、​ワレ​​我​​セグロ​​脊黑​​アヲウマ​​靑馬​​ノ​​乘​らしめて、​ナンヂ​​汝​ ​ミヅカ​​自​​ハヤ​​速​​ウスキイロ​​淡黃色​​ウマ​​馬​​ノ​​乘​りて、その​バグン​​馬羣​をば​ヌシ​​主​なく​ハナ​​放​ちて、​イソ​​急​ぎて​ノ​​野​より​スナハ​​便​​ワレ​​我​​トモ​​伴​なひて、​マタ​​又​ ​ミ​​三​たび​ヤド​​宿​​オ​​追​ひて、​アシゲ​​葦毛​​センバ​​騸馬​どもを​ヌス​​盜​みたる​ダン​​團​​トコロ​​處​​イタ​​到​れば、​ダン​​團​​ホトリ​​邊​​タ​​立​てるを​ウバ​​奪​ひて​オ​​追​ひて​ニ​​逃​げて​モ​​將​​キ​​來​[229]ぞ、​ワレラ​​我等​ ​フタリ​​二人​​ナンヂ​​汝​​チヽ​​父​ ​ナク バヤン​​納忽 伯顏​は[​トミビト​​富人​にて]ありき。(明譯に「你父 納忽 伯顏 有家財」とあるを見れば、原文「ありき」の上に脫文あるならん​ナンヂ​​汝​は、​カレ​​彼​​ヒトリゴ​​獨子​​ナニ​​何​​シ​​知​りてか​ワレ​​我​​トモ​​伴​なひたりし。(明譯​ナンヂノチヽ​​你父​ ​ナク バヤン​​納忽 伯顏​ ​アリ​​有​​カザイ​​家財​​タヾ​​只​ ​ナンヂ​​你​ ​イツシナルニ​​一子​​タメニ​​爲​​ナニノ​​甚​​アヘン​​肯​​シメ​​敎​​ト​​與​​ワレ​​我​​トモト​​伴​とあるは、原文の意とやゝ異なり。​コヽロ​​心​​スグ​​傑​れたるにより​トモ​​伴​なひたるぞ、​ナンヂ​​汝​。(閻復の撰れる廣平王 玉昔 帖木兒の碑に「祖︀ 博爾朮、諡武忠。武忠志意沈雄、善戰知兵。太祖︀聖武皇帝在潛、義均同氣。初 要兒斤 部卒、盜吾牧馬。武忠共往追之、時年十三、知其眾寡不敵、乃爲出奇、從旁夾擊之。寇拾所掠而去」とあるは、卽ちこの事にして、元史 博爾朮の傳は、この碑に據れり。要兒斤は、祕史の禹兒乞また主兒勤なり)その​ノチ​​後​ ​オモ​​想​ひて​ユ​​行​きて、​ワレ​​我​​ベルグタイ​​別勒古台​​ヤ​​遣​りて、​トモ​​伴​とならんと​イ​​云​へば、​ナンヂ​​汝​​キヨウセキ​​拱脊​​クリゲウマ​​栗毛馬​​ノ​​乘​りて、​アヲ​​靑​​ケゴロモ​​毛衣​​ウマ​​馬​​ツ​​駄​けて、​トモ​​伴​となりに​キ​​來​つれば、​ミ​​三​つの​メルキト​​篾兒乞惕​​ワレラ​​我等​​トコロ​​處​​キ​​來​て、​ブルカン​​不兒罕​​ミ​​三​たび​メグ​​繞​らしめたる​トキ​​時​​トモ​​共​​メグ​​繞​りたるぞ、​ナンヂ​​汝​

氈裘の雨覆ひ

​マタ​​又​ その​ノチ​​後​ ​タタル​​塔塔兒​​タミ​​民​​ダラン ネムルゲス​​荅闌 捏木兒格思​にて​タイカウ​​對抗​して​ヤド​​宿​りたれば、​アメ​​雨​​ヒルヨル​​晝夜​ ​タ​​斷​えず​ナガメ​​霖​ ​フ​​降​りたる​トキ​​時​​ヨル​​夜​ ​ワレ​​我​​ネム​​睡​らせんとて、​マウセン​​毛氈​​ウハギ​​表衣​​オホ​​覆​ひたるにより、​ワ​​我​​ウヘ​​上​​アメ​​雨​​モ​​漏​らさず、​ヨ​​夜​ ​ツ​​盡​くるまで​タ​​立​ちて、​カタカタ​​片方​​アシ​​足​​タヾ​​只​ ​ヒトタビ​​一度​ ​カ​​換​へたりき、​ナンヂ​​汝​​ナンヂ​​汝​​スグ​​傑​れたる​シルシ​​效​なりしぞ。(元史 博爾朮の傳に「嘗潰圍於 怯列、太祖︀失馬。博爾朮 累騎而馳、頓止中野。會天雨雪、失牙帳所在、臥草澤中。與木華黎、張氈裘以蔽帝、通夕植立、足蹟不移。及旦、雪深數尺、遂免於難︀」とあるは、閻復の廣平王の碑に據れるなり。潰圍於 怯列とは、合剌合勒只惕の戰を云へるにて、累騎の事は、斡闊台と孛囉忽勒との事を誤り傳へたるなり。氈裘の覆ひの事も、塔塔兒との戰を客咧亦惕とし、雨を雪とし、孛斡兒出 一人を木合黎と二人としたるは、皆 傳聞の異辭なり。)それより​ホカ​​外​は、いかで​ナンヂ​​汝​​スグ​​傑​れたることを​イ​​言​ひて​ツク​​盡​さん。​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ムカリ​​木合黎​ ​フタリ​​二人​は、​ワ​​我​​ヨ​​善​​コト​​事​[230]​ユ​​行​くまで​ヒ​​拽​きて、​ワ​​我​​ヨ​​善​からぬ​コト​​事​​タ​​立​つまで​トヾ​​止​めて、この​クラヰ​​位​​イタ​​到​らせたり。

右手の萬戶

​イマ​​今​ ​モロ​眾​​ウヘ​​上​​クラヰ​​坐​​ヰ​​坐​て、​コヽノタビ​​九度​​ツミ​​罪​​ナ​​勿​ ​ツミ​​罪​なひそ。​ボオルチユ​​孛斡兒出​は、​ミギ​​右​​テ​​手​​アルタイ ザン​​阿勒台 山​​ヨ​​凭​れる​バンコ​​萬戶​​シ​​知​れ」と​ミコト​​勅​ありき。(蒙語​メデ​​篾迭​は、本の義は知るにて、管する意にも用ひ、我が古言のしるに同じ。古の知太政官事 今の府縣 知事などの知も、同じ意なり。管する意に用ひたる篾迭を知ると譯したるは、皆 古言のしるなり。


§206(08:39:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ムカリ​​木合黎​​ミツゲ​​神︀吿​

 ​マタ​​又​ ​ムカリ​​木合黎​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​ワレラ​​我等​​ゴルゴナク ヂユブル​​豁兒豁納黑 主不兒​なる​クトラ カン​​忽禿剌 罕​[を​イタヾ​​戴​ける​ブシウ​​部眾​]の​オド​​踊​りける​シゲ​​繁​れる​キ​​樹​[の​シタ​​下​]に​ゲバ​​下馬​したれば、​ムカリ​​木合黎​​アマツカミ​​皇天​​ミツゲ​​神︀吿​​ツ​​吿​​タマ​​給​へる​コトバ​​言​ ​アキラカ​​明​なる​ユヱ​​故​に、​ワレ​​我​そこに​グウンゴア​​古溫豁阿​卷四なる古溫兀阿)を​オモ​​想​ひて、​ムカリ​​木合黎​​コトバ​​言​​ヲ​​了​へたりき。(約束を定めたりき。この事は、前に見えず。豁兒豁納黑の下馬は、札木合と同居せる時なり。この言に依れば、木合黎 等は、その頃 已に太祖︀と內約ありて、その後 主兒勤の亡びたる時、先約に從ひ服屬したるなり。)それに​ヨ​​依​​クラヰ​​坐​​ノボ​​上​りて​スワ​​坐​りて、​ムカリ​​木合黎​​シソン​​子孫​​シソン​​子孫​​イタ​​至​るまで​オホクノタミ​​眾民​​コクワウ​​國王​となれ」とて​コクワウ​​國王​​ナ​​號​​タマ​​賜​ひたり。

左手の萬戶

​ムカリ コクワウ​​木合黎 國王​は、​ヒダリ​​左​​テ​​手​​カラウン ヂドン​​合喇溫 只敦​​ヨ​​凭​れる​バンコ​​萬戶​​シ​​知​れ」と​ミコト​​勅​ありき。(合喇溫 只敦の所在 確ならず。王罕の少き時 叔父に遂はれて逃げ込みたる合喇溫の隘は、薛涼格 河の邊にありて、これと異なり。巴勒主納の水飮の時、太祖︀を尋ねて合喇溫 只敦の嶺どもを合撒兒の辿りたるは、この山なるべし。興安 嶺の山脈の內なる一峯の名なるべしとは誰も考ふることなれども、孛斡兒出の阿勒台 山と對して擧げられたるを見れば、興安 嶺の一峯の名には非ずして、興安 嶺 全體を呼べる舊き名なるべし。閻復の廣平王の碑に「國初、官制簡古、置左右萬夫長、位諸︀將之上首、以武忠右、東平忠武王居左、翊衞辰極、猶車之有軸、身之有臂、電掃荒屯、鼇奠九土、拄天之力競矣」と云へり。武忠は孛斡兒出、忠武は木合黎なり。


§207(08:40:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ゴルチ​​豁兒赤​​シンゲン​​讖言​

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ゴルチ​​豁兒赤​​ノリタマ​​宣​はく「​シンゲン​​讖言​して(明譯​ナンヂカツテ​​你曾​​イヒ​​說​​センテウ​​先兆​​ノ​​的​​コトバヲ​​言語​)、​ワ​​我​​トシ​​年​ ​ワカ​​少​くあるより​イマ​​今​まで​ヒサ​​久​しく​ヌ​​濡​るゝに[231]​ヌ​​濡​​ア​​合​ひ、​サム​​寒​きに​コヾ​​寒​​ア​​合​ひて、​フク​​福︀​​カミ​​神︀​となりて​ユ​​行​きたるぞ、​ナンヂ​​汝​

三十妻の舊約

​ゴルチ​​豁兒赤​は、かの​トキ​​時​​イ​​言​はく「​シンゲン​​讖言​ ​マコト​​實​とならば、​アマツカミ​​上帝​​ミコヽロ​​心​​カナ​​適​はれば、​ワレ​​我​​サンジフニン​​三十人​​ツマ​​妻​ ​ア​​有​らせよ」と​イ​​云​ひき、​ナンヂ​​汝​​イマ​​今​ ​マコト​​實​なる(讖言 實となりたる​ユヱ​​故​に、​オンシ​​恩賜​して、これらの​クダ​​降​れる​タミ​​民​​ヨ​​好​​ヲミナ​​婦人​​ヨ​​好​​ヲトメ​​處女​​ミ​​見​て、​サンジフニン​​三十人​​ツマ​​妻​​エラ​​選​びて​ト​​取​れ」と​ミコト​​勅​ありき。​マタ​​又​ ​ゴルチ​​豁兒赤​に「​サンゼン​​三千​​バアリン​​巴阿𡂰​​ウヘ​​上​に、​タガイ​​塔該​卽ち速勒都︀思の塔孩)、​アシク​​阿失黑​卽ち阿失黑 古咧堅​フタリ​​二人​​トモ​​共​に、​アダルギン​​阿荅兒斤​​チノス​​赤那思​、(阿荅兒斤は、篾年 土敦の第五子なる合赤溫の子 阿荅兒歹より出でたり。赤那思は、喇失惕 額丁に據れば、察喇孩 領忽の子なる堅都︀ 赤那 兀嚕客眞 赤那の裔なり。赤那思 氏 分散して阿荅兒斤に屬し居たる故に、阿荅兒斤の赤那思と云へるなり。​トオレス​​脫斡列思​​テリヤングト​​帖良古惕​脫斡列思は、卷十に脫額列思、蒙古 集史に禿剌思とあり。帖良古惕は、卷十に田列克、親征錄に帖良兀、集史に帖連郭惕とあり。共に謙河の源に居たる林の民)を​アハ​​合​​マン​​萬​となして、​ゴルチ​​豁兒赤​ ​シ​​知​りて、

林民の萬戶

​エルチシ ガハ​​額兒的失 河​​ソ​​傍​へる​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​イタ​​至​るまで​イヘヰ​​營盤​​ジザイ​​自在​​イヘヰ​​營盤​して、​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​シヅマ​​鎭​むべく、​ゴルチ​​豁兒赤​ ​バンコ​​萬戶​​シ​​知​れ」と​ミコト​​勅​ありき。「​ゴルチ​​豁兒赤​​サウダン​​相談​ ​ナ​​無​くては、​ハヤシ​​林​​タミ​​民​は、とにかくに​ナ​​勿​ ​ユ​​行​ひそ。​サウダン​​相談​なくて​オコハ​​行​ふものをば、​ナン​​何​​タメラ​​猶豫​はん」と​ミコト​​勅​ありき。


§208(08:43:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​カラカルヂト​​合剌合勒只惕​の戰功

 ​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​ノリタマ​​宣​はく「​キンエウ​​緊要​なる​ナンヂ​​汝​​イサヲ​​功​は、​ケレイト​​客咧亦惕​​カラカルヂト​​合剌合勒只惕​​サバク​​沙漠​​タヽカ​​戰​​トキ​​時​​ウレ​​愁​へて​ヲ​​居​​トキ​​時​​クイルダル アンダ​​忽亦兒荅兒 安荅​は、​クチ​​口​​ヒラ​​開​きたるぞ。​カレ​​彼​​ジウジ​​從事​を、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​ ​ナンヂ​​汝​は、​ジウジ​​從事​したるぞ。​ジウジ​​從事​する​トキ​​時​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​ ​ナンヂ​​汝​は、​トツシン​​突︀進​して​ヂルギン​​只兒斤​を、​トベゲン​​禿別干​を、​ドンガイト​​董合亦惕​を、​クリ シレムン​​忽哩 失列門​[232]卷六の豁哩 失列門)を、​セン​​千​​ジヱイ​​侍衞​を、​キンエウ​​緊要​なる​イクサ​​軍​を、​スベ​​都︀​てを​ヤブ​​敗​りて、​タイチウグン​​大中軍​​イタ​​到​りて、​サングン​​桑昆​​アカ​​紅​​ホヽ​​腮​​ウチユマ​​兀出馬​箭の名)にて​イ​​射​たる​ユヱ​​故​に、​トコヨ​​長生​​アマツカミ​​上帝​​ミカド​​門​​タヅナ​​手綱​​ヒキア​​引開​けられたるぞ。​サングン​​桑昆​​キズツ​​傷​けずあらば、いかにかもなりけん、​ワレラ​​我等​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​キンエウ​​緊要​なる​オホ​​大​​イサヲ​​功​にそれは​ナ​​做​りたるぞ。かくて​ハナ​​離​れて​カルカ ガハ​​合勒合 河​​シタガ​​沿​​タ​​起​​トキ​​時​

高山の​シヤゴ​​遮護​

​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​タカ​​高​​ヤマ​​山​​シヤゴ​​遮護​​ゴト​​如​​オモ​​思​ひて​ユ​​行​きたりき、​ワレ​​我​。かく​サ​​去​りて、​バルヂユナ​​巴勒主納​​ミヅウミ​​湖​​ミヅノ​​水飮​みに​イタ​​到​りたるぞ。さて​バルヂユナ​​巴勒主納​​ミヅウミ​​湖​より​シユツバ​​出馬​する​トキ​​時​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​センポウ​​先鋒​として、​ケレイト​​客咧亦惕​​シユツセイ​​出征​して、​アマツカミ​​皇天​ ​クニツカミ​​后土​​チカラ​​力​​ソ​​添​へられて、​ケレイト​​客咧亦惕​​タミ​​民​​キハ​​窮​めて​トラ​​虜︀​へたり。​キンエウ​​緊要​なる​クニ​​國​​ホロボ​​滅​されて、​ナイマン​​乃蠻​​メルキト​​篾兒乞惕​は、​カホイロ​​顏色​​クジ​​挫​きて、​タ​​立​​ア​​合​ひ(對陣し)かねて​チ​​散​らされたるぞ。​メルキト​​篾兒乞惕​​ナイマン​​乃蠻​​チ​​散​らしたる​タヽカヒ​​戰​​ウチ​​內​に、​ケレイト​​客咧亦惕​​ヂヤカガンブ​​札合敢不​は、​フタリ​​二女​​ムスメ​​女​​チナミ​​緣​​ヨ​​依​り、​オノレ​​己​​シタガ​​從​ふる​ブシウ​​部眾​にて​マトマリテ​​圓全​ ​ス​​住​みたりしぞ。

第二次の戰功

​フタ​​二​たび​テキ​​敵​になり​ハナ​​離​れたるを、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​ ​イザナ​​誘​ひて、​ハカリゴト​​計略​にて​ヂヤカガンブ​​札合敢不​​ハナ​​離​​ヲ​​畢​へたるを​テ​​手​​カ​​掛​けて​トラ​​拿​へて​コト​​事​ ​ヲ​​了​へたりしぞ。かくて​ヂヤカガンブ​​札合敢不​​ブシウ​​部眾​​フタ​​二​たび​ホロボ​​滅​​トラ​​虜︀​へたり。​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​ダイニジ​​第二次​なるその​イサヲ​​功​は、かくありしぞ」[と​ノリタマ​​宣​ひき。]

​イバカ ベキ​​亦巴合 別乞​を賜ふ時の勅諭

​コロ​​殺︀​​阿剌勒都︀​​ア​​合​​ヒ​​日​​イノチ​​命​​阿米顏​​イダ​​出​したる​ユヱ​​故​に、​シ​​死​​兀忽勒都︀​​ア​​合​​ヒ​​日​に、​アウセン​​鏖戰​​斡魯木列​したる​ユヱ​​故​に、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​イバカ ベキ​​亦巴合 別乞​札合敢不の長女。元史 朮赤台 の傳[233]​ヒンギヨ ムバハ ベキ​​嬪御 木八哈 別吉​木は、亦の誤りなり。喇失惕​アブハ カトン​​阿卜哈 合屯​)を​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​オンシ​​恩賜​して​アタ​​與​ふる​トキ​​時​​イバカ​​亦巴合​​ノリタマ​​宣​はく「​ナンヂ​​汝​​イト​​厭​​兀里格​​ナンヂ​​汝​​キヨウクワイ​​胷懷​なく​ミ​​見​​兀者︀思古良​〈[#「良」は底本では「※[#「一/艮」]」だが[デザイン差 良]であり「元朝秘史」§208(08:46:02)の漢︀字音訳も通常の「良」]〉​カタチ​​容​ ​ア​​惡​しと​イ​​云​はざりしぞ、​ワレ​​我​​フトコロ​​懷​​アシ​​脚​​イ​​入​りたる、​ツラ​​列​​ツラナ​​列​りて​ヰ​​坐​たる​ナンヂ​​汝​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​オンシ​​恩賜​するは、​オホイ​​大​なる​ダウリ​​道理​​オモ​​思​ひて、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​タヽカ​​戰​​合惕忽勒都︀​​ヒ​​日​​タテ​​楯​​合勒合​となりたる、​テキ​​敵​​荅亦孫​なる​ヒト​​人​​フセ​​防​​塔勒塔​ぎとなりたる、​ハナ​​離​​合合察​れたる​ブシウ​​部眾​​アツ​​聚​​含禿惕合​めたる、​チ​​散​​不塔剌​りたる​ブシウ​​部眾​​マト​​纏​​不古惕格勒都︀​​ア​​合​ひたる​カレ​​彼​​イサヲ​​功​​カンガ​​考​へて、​ナンヂ​​汝​​アタ​​與​へたり。​ユクスヱ​​久後​ ​ワ​​我​​シソン​​子孫​は、​ワレラ​​我等​​クラヰ​​位​​ヰ​​坐​て、かくの​ゴト​​如​​イサヲ​​功​をなせる​ダウリ​​道理​​オモ​​想​ひて、​ワ​​我​​コトバ​​言​​タガ​​違​ひなさず、​シソン​​子孫​​シソン​​子孫​​イタ​​至​るまで、​イバカ​​亦巴合​​クラヰ​​位​​ナ​​勿​ ​タ​​斷​ちそ」と​ミコト​​勅​ありき。​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​イバカ​​亦巴合​​ノリタマ​​宣​はく

​カタミ​​遺念​​ヨウシン​​媵臣​

​ヂヤカガンブ​​札合敢不​なる​ナンヂ​​汝​​チヽ​​父​は、​ナンヂ​​汝​​ニヒヤクニン​​二百人​​ヨウシン​​媵臣​を、(蒙語​インヂエス​​引者︀思​婦人の嫁ぎに隨ひ往きて仕ふる從者︀、男をも女をも云ふ。​ナンヂ​​汝​​アシク テムル​​阿失黑 帖木兒​ ​カシハデ​​厨子​​アルチク​​阿勒赤黑​ ​カシハデ​​厨子​ ​フタリ​​二人​​アタ​​與​へてありき。​イマ​​今​ ​ウルウト​​兀嚕兀惕​​タミ​​民​​ナンヂ​​汝​ ​ユ​​往​くには、​カタミ​​遺念​として​ワレ​​我​にその​ヨウシン​​媵臣​より​アシク テムル​​阿失黑 帖木兒​ ​カシハデ​​厨子​​イツピヤクニン​​一百人​​アタ​​與​へて​ユ​​往​り」と​ノリタマ​​宣​ひて​ト​​取​れり。​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​ノリタマ​​宣​はく「​イバカ​​亦巴合​​ナンヂ​​汝​​アタ​​與​へたり。

四千の​ウルウト​​兀嚕兀惕​の長

​シセン​​四千​​ウルウト​​兀嚕兀惕​​ナンヂ​​汝​ ​シ​​知​りて​ヲ​​居​らずや」とて​オンシ​​恩賜​して​ミコト​​勅​ありき。(元史 朮赤台の傳に「朮赤台、始從征怯列亦、自罕哈行、歷班眞 海︀子、間關萬里、每戰陣、必爲先鋒。帝嘗諭之曰「朕之望汝、如高山前日影也。」賜嬪御 木八哈 別吉 引者︀思 百、俾兀魯兀 四千人、世世無替」と云へるは、こゝの文の意を約めたるなり。高山前日影は、高き山の遮護の誤り、引者︀思は、媵臣の蒙語を正しく音譯せり。



成吉思 汗 實錄 卷の八 終り。



  1. 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。