又 虞集グシフの傳に、明宗メイソウの命メイを受ウけて經世 大典ケイセイ タイテンを編修ヘンシウする時「以ヨリ㆔累朝故事ルヰテウノコジ、有アルニ㆓未ザルイマダ㆑備者︀㆒、請コフ㆚以モテ㆘翰林國史院カンリンコクシヰン、修㆓祖︀宗ソソウノ實錄ジツロクヲ㆒時、百司所具ヒヤクシノソナヘタル事蹟ジセキヲ㆖參訂サンテイセント㆙。翰林院臣カンリンヰンノシン言マウシテ㆓於帝テイニ㆒曰イハク「實錄ジツロクハ、法ハフ不ザレバ㆑得㆑傳㆓於外ソトニ㆒、則事蹟ジセキ亦モ不ズ㆑當ベカラ㆑示シメス㆑人。」又請コフ㆘以モテ㆓國書脫卜赤顏トブチヤンヲ㆒增㆗修太祖︀以來イライノ事蹟㆖。承旨シヨウシ塔失海︀牙タシハイヤ曰イハク「脫卜赤顏トブチヤンハ、非アラズ㆘可ベキ㆑令シム㆓外人グワイジンニ傳ツタヘ㆒者︀㆖。」遂皆已ミナヤム」とあり。
脫必赤顏トビチヤンも脫卜赤顏トブチヤンも、紐察 脫卜赤顏ニウチヤ トブチヤンの略稱リヤクシヨウにて、此書の原本に修正シウセイを加クハへたる者︀なり。修正したりと云ふ理由は、後の修正 祕史の條に言ふべし。修正シウセイをば加クハへたれども、祕史は祕史として、深フカく內府ナイフに藏ザウし、外人グワイジンに示シメさざりし故ユヱに、世ヨには廣ヒロまらざりき。
又 虞集グシフの傳に「初ハジメ文宗ブンソウ在イマシ㆓上都︀ジヤウトニ㆒、將シマサニ㆘立タテヽ㆓其子ソノコ阿剌忒納答剌アラトナダラヲ㆒爲セント㆗皇太子クワウタイシト㆖乃以モテ五妥歡帖穆爾トホンテムル太子タイシノ(文宗の兄なる明宗の長子)乳母夫メノトノオツト、言イヘルヲ㆕明宗メイソウ在日イマシヽトキ、素モト謂イヒキト㆔太子非㆓其子㆒、黜㆓之江南カウナンニ㆒、驛エキシテ召メシ㆓翰林學士承旨カンリンガクシシヨウシ阿隣帖木兒アリンテムル、奎章閣大學士ケイシヤウカクダイガクシ忽都︀魯篤彌實フドルドルミシヲ㆒、書カキ㆓其事于脫卜赤顏トブチヤンニ㆒、又召メシテ㆑集使シメ㆑書カヽ㆑詔、播㆓吿ハコクス中外㆒」とあり。これは、文宗ブンソウ、その兄アニ 明宗メイソウを弑シイして立タちたる後、明宗の長子チヤウシを誣シひて、八不沙 皇后バブシヤ クワウゴウが他人タニンに通ツウじて生ウみたる子コなりと云ひ、その事を祕史に書かしめたるなり。又 前マヘの察罕チヤハンの傳デンの文を見ミるに、紀年 纂要キネン サンエウ、太宗 平金 始末 等タイソウ ヘイキン シマツ トウの書とあるも、脫卜赤顏トブチヤンを譯して成れる趣オモムキに聞キコゆ。其等ソレラに依ヨりて思オモへば、祕史の書は、太祖︀ 太宗の事を錄シルしたる者︀のみならず、その後の歷朝レキテウの事を錄シルしたる者︀もありしならんが、其等ソレラの書