成吉思汗実録/巻の十二-1
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のジフニ十二。
§265(12:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのフユ冬 フユゴモリ冬籠してタングト唐兀惕のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬せんとて、アタラ新しきカズ數(兵數)をカゾ數へて、イヌ狗のトシ年(我が嘉祿 二年 丙戌、宋の寶慶 二年、金の正大 三年、元の太祖︀ 二十一年、西紀 一二二六年、太祖︀ 六十五歲の時)アキ秋、チンギス カガン成吉思 合罕は、タングト唐兀惕のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬せり。カトン合敦よりエスイ カトン也遂 合敦をツ伴れてユ往けり。(
この出陣を、親征祿 集史は乙酉の秋とし、元史本紀は丙戌の正月とし、皆 本書と異なり。湛然后士集なる辨邪論の序に「乙酉日南至、叙㆓於瀚海︀軍之高昌城㆒」とあり。瀚海︀軍の高昌城は、西游錄に「回鶻城、名㆓別石把㆒、有㆓唐碑㆒、所謂瀚海︀軍。城之南五百里有㆓和州㆒、卽唐之高昌」とありて、畏兀兒に屬する和州の城を唐の名にて呼べるなり。その地は、今の哈喇和卓にして、西域 水道記に吐魯番の東 七十里にありと云ひ、一八七九年にその地に至りし嚕西亞の博士 咧格勒は、名を喀喇古札と書き、禿兒番の東南 四十 嚕里に在りと云へり。この征夏の役に楚材の從へることは楚材の傳に見え、この役は夏國の西より進みたること本紀に見え、金國志にも「蒙古 由㆓回鶻㆒往攻㆓西夏㆒、西夏 遂亡」とあれば、太祖︀ 二十年 乙酉の冬至の日には、楚材は大軍に從ひて哈喇和卓に在りしなり。然らばその出陣を本書 元史の戌の年としたるは非にして、親征錄 集史の酉の年としたるは是なり。元[340]史に曰く「二十一年春正月、帝以㆘西夏納㆓仇人 赤臈喝︀ 翔昆㆒及不㆖㆑遣㆓質子㆒、自將伐㆑之。」赤は、亦の誤寫にして、續 通鑑 綱目には亦とあり。
亦臈喝︀ 翔昆は、卽 親征錄の亦剌合 鮮昆、祕史の你勒合 桑昆なり。癸亥の年 王罕の滅びたる時「亦剌合 走㆓西夏㆒、日剽掠以自資。旣而亦爲㆓西夏所攻㆒、走至㆓龜茲 國㆒、龜茲 國主 以㆑兵 討㆓殺︀之㆒」と元史に有り。仇人を納るとは、その事を指せるなり。然るに西夏 書事 寶慶 元年(太祖︀ 二十年)の處に「九月、蒙古 仇人 赤臘喝︀ 翔昆 來奔。納㆑之。赤臘喝︀ 翔昆、乃蠻 部 屈律 罕 子云云。德旺以㆓其同㆒㆑仇納㆑之、給以㆓糧糗㆒」とれいれいと書きたるは、杜撰も甚し。また桑昆の西夏に走りたるは、二十餘年前の事なれば、その事を以て西夏を責めたるは、乙丑の年 始めて西夏を征したる時の事なるべし。今度の役に至りては、必しもこれを以て口實とはせざるべし。今度の再征の理由は、祕史の前文に詳なるのみならず、集史には唐古惕 又 叛けりとあり。西夏 書事に嘉定 十七年(太祖︀ 十九年)二月「德旺聞㆘蒙古 主征㆓西域㆒未㆖㆑還、遣㆑使結㆓漠北諸︀部㆒爲㆓外援㆒、陰圖㆓拒守計㆒。諸︀部出㆑兵應㆑之」とあり。この事もし實ならば、集史の「叛けり」と云へるも、形なきことにはあるまじ。
また續 通鑑 綱目に「蒙古 鐵木眞 伐㆑夏」を乙酉の冬 十月としたるは、耶律 楚材の序文に合ひて、是なるが如くなれども、元史 本紀 丙戌の夏 避暑︀の後に記せる戰事、「取㆓甘肅州西涼府㆒、十一月取㆓靈州㆒、進次㆓鹽州川㆒」をみな乙酉の年の內に記したるは、また非なり。集史に曰く「唐古惕 又 叛けりと聞きて、雞の年 秋、軍を整へて合申を攻め、察合台には本部の兵にて老營の後路を守らしめ、拙赤は已に死し、斡歌台は軍に從へり。拖雷 罕は、その妻 失兒忽克屯 別乞 痘を出せるに由り 數日 後れたり。」妻の名は、祕史に莎兒合黑塔泥 別乞、元史に唆魯禾帖尼とあり、皆 音 近し。)ミチ路にてフユ冬にアルブカ阿兒不合のオホ多きノウマ野馬をマキガリ圍獵したれば、
チンギス カガン成吉思 合罕は、ヂヨシヨトボロ勺莎禿孛囉(馬の種類︀の名にして、明譯 紅沙馬)にノ騎りてイマ在しき。ノウマ野馬どもツ撞きてキ來つれば、ヂヨシヨトボロ勺莎禿孛囉 オドロ驚きて、チンギス カガン成吉思 合罕をウマ馬よりオト落したれば、ハダヘ膚をイタ甚くイタ痛めて、シユオルカト搠斡兒合惕にカエイ下營せり。そのヨル夜 ヤド宿りたれば、アシタ朝にエスイ カトン也遂 合敦 イハ言く「ミコダチ諸︀王 ツカサビトダチ眾官人にツ吿げア合はん。カガン合罕はヨル夜 ハダヘ膚 ホト熱りイ寝ねタマ給へり」とイ云へり。そこにミコダチ諸︀王 ツカサビトダチ眾官人 アツマ聚れば、コンゴタト晃豁塔惕のトルン チエルビ脫侖 扯兒必 ケンギ建議してイハ言く「タングト唐兀惕のタミ民は、キヅ築那都︀黑先きたるシロ城ある、ウゴ動嫩只かざるイヘヰ營盤嫩禿黑あるなり。キヅ築きたるシロ城をモタ擡げてはサ去らじ、カレラ彼等。ウゴ動かざるイヘヰ營盤をス撇ててはサ去らじ、カレラ彼等。ワレラ我等 シリゾ退きてカガン合罕のハダヘ膚 サ冷めなば、マタ又 カヘツ却て[341]シユツバ出馬せんぞ、ワレラ我等」とイ云へば、アマタ眾のミコダチ諸︀王 ツカサビトダチ官人等、このコトバ言をヨシ是として、チンギス カガン成吉思 合罕にマウ奏しければ、チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく
「タングト唐兀惕のタミ民は、ワレラ我等をコヽロ心 オ怯ぢてカヘ回れりとイ云はん。ワレラ我等は、ツカヒ使をまづヤ遣りて、ツカヒ使をすぐコ此のシユオルカト搠斡兒合惕にてコヽロ試みて、カレ彼のコトバ言をミ察てシリゾ退かばヨ可からん」とノリタマ宣ひて、そこにツカヒ使をミコト命 モ持ちてヤ遣るに「サキツトシ先年 ブルカン不兒罕 ナンヂ汝 イ言く「ワレラ我等 タングト唐兀惕のタミ民は、ナ爾がミギ右のテ手とならん」とイ云ひき。ナンヂ汝にかくイ云はれて、「サルタウル撒兒塔兀勒のタミ民にケフギ協議にイ入られずして、シユツバ出馬せん」とて、モト索めてヤ遣れば、ナンヂ汝 ブルカン不兒罕は、コトバ言(約束)にシタガ遵はず、イクサ軍をもアタ與へず、コトバ言にてオカ侵してキ來てありき。「ホカ別にムカ向へるトキ時、ノチ後にセツシヨウ折證せん」とて、サルタウル撒兒塔兀勒のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬して、トコヨ長生のアマツカミ上帝にイウゴ祐︀護せられて、サルタウル撒兒塔兀勒のタミ民をシヤウロ正路にイ入らしめて、イマ今 ブルカン不兒罕のトコロ處にコトバ言をセツシヨウ折證せんとてキ來ぬ」とイ云ひてヤ遣りたれば、ブルカン不兒罕 イハ言く「オカ侵せるコトバ言は、ワレ我 イ言はざりき」とイ云ひき。(太祖︀ 十四年 己卯 西征の軍を興さんが爲に使を遣りて兵を徵したる時の唐兀惕の不兒罕は、夏の神︀宗 李遵頊なりき。十八年 癸未 遵頊はその子 獻宗 德旺に位を遜りたれば、この不兒罕は、卽ち德旺なり。)
アシヤガンブ阿沙敢不 イハ言く「オカ侵せるコトバ言はワレ我 イ言ひき。イマ今もア有らば、ナンヂラ汝等 モンゴル忙豁勒は、タヽカヒ戰にナ慣れてタヽカ戰はんとイ云はば、ワレ我こそはアラシヤイ阿剌篩のヤマ山にイヘヰ營盤ありテンマク天幕帖兒篾のイヘ家ありラクダ駱駝帖篾延のニツ駄くるあるなれ。アラシヤイ阿剌篩 サ指して、ワ我がトコロ處にコ來よ。そこにタヽカ戰はん。コガネ金 シロカネ銀 オリモノ織物 タカラ財 モチ用ふるあらば、エリガヤ額哩合牙 エリヂエウ額哩折兀[342]にムカ向へ」とイ云ひてヤ遣りき。(
阿剌篩は、明譯に賀蘭山とあり。元和 郡縣志「賀蘭山、在㆓靈州保靜縣西九十三里㆒。山有㆓樹木㆒、靑白如㆓駮馬㆒。北人呼㆑駮爲㆓賀蘭㆒。從㆑首至㆑尾、有㆑像㆓月形㆒。南北約長五百餘里、眞邊城之鉅防。」河套志「上有㆓廢寺百餘㆒、多㆓元昊故宮遺址㆒。」淸 一統志「賀蘭 山在㆓河套以西㆒、與㆓甯夏府邊㆒接㆑界、土人名曰㆓阿拉善 山㆒。」阿拉善 額魯特 部 和碩 親王の領地は、この山の西にありて、その駐牧の處を定遠營と云ふ(蒙古 游牧記)。嚕西亞の普兒在 哇勒思奇は、一八七一年に定遠營の地に至れり。
額哩合牙は、明 語譯に寧夏とあり、寧夏の城は、元史 地理志に「寧夏府路、唐屬㆓靈州㆒。宋初廢爲㆑鎭、領㆓蕃部㆒。自㆓唐末㆒、有㆓拓拔 思恭者︀㆒、鎭㆓夏州㆒、有㆓銀夏綏宥靜五州之地㆒。宋天禧閒、傳至㆓其孫德明㆒、城㆓懷遠鎭㆒、爲㆓興州㆒以居、後升㆓興慶府㆒、又改㆓中興府㆒。元至元二十五年、置㆓寧夏路總管府㆒、領㆓州三㆒」とある處にて、夏の時は國都︀となり、至元 以後は寧夏府路と稱し、甘肅 行中書省に屬し、明の世は寧夏衞と稱し、陝西省に屬し、今は又 甯夏府となり、甘肅省の東界の要會なり。元史 太祖︀紀 四年 己巳には中興府、二十二年 丁亥には夏王城と云へり。額哩合牙は、蓋 中興府の舊き土名にして、土人 蒙古人は、後後までもその名を用ひたるならん。明譯に寧夏としたるは、至元 以後の名に改めたるなり。馬兒科 保羅の紀行に「額兒傀兀勒より東に八日 馬行して、額固哩噶牙の州に至る。屬する市邑 多く、首府を喀剌昌と云ふ。その民は、駱駝の毛より世界にて最も美しき緞子を夥しく織出す」と云ひ、多遜は、喇失惕に據りて「唐古惕の王 失迭兒古の都︀ 亦兒該を蒙古人は亦兒喀牙と云ふ」と云へり。保羅の額固哩噶牙も、喇失惕の亦兒喀牙も、蒙古 源流に屢 見えたる亦兒該も、皆 卽ち本書の額哩合牙なり。喀剌昌は、卽 阿拉善、卽 賀剌山にて、賀蘭山の麓にある故に、その城をもしか云ひしならん。裕勒は、保羅の額固哩噶牙 喇失惕の亦兒喀牙を迭邁剌(卽 元史)の兀剌海︀に當てて、喇失惕の亦兒喀牙を都︀と云へるを誤れりとし、隨て克剌魄囉惕のそれを甯夏に當てたるを非なりとし、「額固哩噶牙は、今の阿拉善 親王の地にして、その都︀ 喀剌昌は、今の定遠營ならん」と云へるは、甚じき誤なり。又 曷思麥里の傳に「會帝親征㆓河西㆒、曷思麥里 云云、命常居㆓左右㆒、至㆓也吉里海︀牙㆒、又討平㆓失的兒威㆒」とある也吉里海︀牙は、卽 額哩合牙にて保羅の額固哩噶牙に最も音 近し。失的兒威は、卽 喇失惕の失迭兒古にて、威は忽の字などの誤なり。
額哩折兀は、明譯に西涼とあり。西涼の城は、元史 地理志に「永昌路、唐涼州、宋初爲㆓西涼府㆒、景德中陷㆓入西夏㆒。元初仍爲㆓西涼府㆒。至元十五年、以㆓永昌王(諸︀王 只必帖木兒)宮殿所㆒㆑在、立㆓永昌路㆒、降㆓西涼府㆒爲㆑州隸焉」とある處にて、至元以後は永昌路 西涼州と稱して、甘肅 行中書省に屬し、明は陝西 涼州衞となり、今は甘肅 涼州府となれり。今の平涼府とは異なり。その永昌路治のありし所は、明に陝西 永昌衞となり、今は甘肅 涼州府 永昌縣となり、涼州 府治 武威縣の西北 百六十 淸里に在り。馬兒科 保羅の紀行に曰く「甘闢出(卽 甘州)より出でて東に五日 旅すれば、額兒傀兀勒と云ふ王國に至る。それは、唐古惕の大州をなせるあまたの王國の一つなり。」額兒佛兀勒は、卽 額哩折瓦なり。甘州より五日路にして、甯夏までは八日 馬行せりと云へば、今の涼州府の位置にほゞ合へり。保塞兒は、永昌にあてて、永昌王の地なるが故に「王國」と云へるならんと云ひたれども、馬兒科の「王國」は、額兒傀兀勒に限りて云ひたるにもあらざれば、「王國」の字は、拘るにも及ぶまじ。額兒傀兀勒は、太祖︀ 南征の時の額哩折兀にして、永昌王の住まざりし前よりある處なれば、永昌路治にはあらずして、宋 夏 元初の西涼府なるべし。)こ[343]のコトバ言をチンギス カガン成吉思 合罕にイタ致したれば、
チンギス カガン成吉思 合罕は、ハダヘ膚 ホト熱りてあるにノリタマ宣はく「ヤ罷めん、そのコト事を(退く事を罷むべし)。かゝるタイゲン大言をイ言はせて、いかんぞシリゾ退かれん。シ死ぬとも、タイゲン大言にヨ靠りてユ行かん」とノリタマ宣ひて、「トコヨ長生のアマツカミ上帝、ナガミコト爾 シロ知しめぜ」とて、チンギス カガン成吉思 合罕は、アラシヤイ阿剌篩 サ指してイタ到りて、アシヤガンブ阿沙敢不とタヽカ戰ひて、アシヤガンブ阿沙敢不をヤブ敗りて、アラシヤイ阿剌篩 のウヘ上にタテコモ楯籠らせて、アシヤガンブ阿沙敢不をトラ捕へて、テンマク天幕帖兒篾のイヘ房ある、ラクダ駱駝帖篾延のニツ駄くるあるカレ彼のタミ民をハヒ灰のゴト如くカキハラ刮拂ふまでトラ虜︀へさせたり。ヲヲ雄雄しくタケ猛きヲトコブリ男風 ヨ好きタングドト唐兀都︀惕(唐兀惕の複稱)をコロ殺︀して、「かくしかくタングドト唐兀都︀惕をイクサ軍のヒト人 トラ拏へたるにヨ依り、エ得たるにヨ依りト取れ」とミコト勅ありき。
§266(12:07:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕は、ユキ雪ある[ヤマ山]のウヘ上にチウカ駐夏して、アシヤガンブ阿沙敢不とトモ共にヤマ山にノボ上りたる、ハムカ抗ひたる、テンマク天幕帖兒篾のイヘ房ある、ラクダ駱駝帖蔑延のニツ駄くるあるタングドト唐兀都︀惕をイクサ軍をヤ遣りてカゾ算へたるにヨ依りツ盡くるまでトラ虜︀へさせたり。(雪あるは、蒙語 察速禿の譯なり。明譯に雪山とあるに由り、施世杰〈[#「施世杰」は底本では「施世𤇍」]〉は、甘肅 甘州府 張掖縣の南にある雪山なりと云へり。されども雪山と云ふ山は處處にあり、又 察速禿は漢︀名の雪山を譯したりとも限られざれば、山の所在は確ならず、但 本文 前後の續きに依りて考ふれば、賀蘭山 龍頭山の羣峯の內なるに似たり。
太祖︀紀 二十一年 正月 親征の續に「二月取㆓黑水等城㆒、夏避㆓暑︀於渾垂山㆒、取㆓甘肅等州㆒」とあり。蒙古 游牧記に「肅州境有㆓二黑水㆒、其一卽張掖河、別名㆓黑河㆒。其一黑水、在㆓州西北一百二十里㆒、源出㆓黑水泉㆒、合㆓淸水㆒、東流入㆓討來河㆒、下流與㆓張掖河㆒合」と云ひ、その張掖河 卽 黑河は、北流 五百 淸里、額濟納の地に至り、額濟納 河と云ひ、末は居延海︀に入る。額濟納は、元史 地理志の亦集乃 路、馬兒科 保羅の額次納 城、今の額濟納 舊 土爾扈特 部の牧地にして、西夏にてはそこに威福︀軍を置きたり。黑水 等城は、その威福︀軍の界內の地なるべし。耶律 希亮の傳に「潛匿㆓甘州北黑水東沙陀中㆒」とある黑水も、甘州の北なり。渾垂山は、西夏 書事に「在㆓肅州 北㆒」とあれば、祕史の雪山 駐夏とは說 異なるに似たり。その是非は知らざれども、强ひて牽合せ難︀し。)それより[344]
ボオルチユ孛斡兒出 ムカリ木合黎 フタリ二人にオンシ恩賜するに「チカラ力にシ知るまでト取れ」とミコト勅ありき。(元史の紀傳に據るに、木合黎は、今より三年前、太祖︀ 十八年に薨じたり。こゝに出したるは非なり。もしくは木合黎の遺族の誤りならん。)マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「ボオルチユ孛斡兒出 ムカリ木合黎 フタリ二人にオンシヤウ恩賞をアタ與ふるに、キタト乞塔惕のタミ民よりアタ與へざりき」とて、「キタト乞塔惕のタミ民のヂユイン主因をナンヂラ汝等 フタリ二人 ヒト均しくワ分けア合ひてト取れ。カレラ彼等のヨ好きコ子どもをタカ鷹をト執らせてシタガ隨へてユ行け。カレラ彼等のヨ好きムスメ女どもをヤシナ育ひて、ツマ妻どもをエリトヽノ襟整へさせよ。キタト乞塔惕のタミ民のアルタン カン阿勒壇 罕のシンニン信任せるチヨウシン寵臣は、モンゴル忙豁勒のミオヤ祖︀なるチヽギミ父君をウシナ失ひたるカラキタト合喇乞塔惕 ヂユイン主因のタミ民にてありしぞ。イマ今 ワ我がシンニン信任するチヨウシン寵臣は、ボオルチユ孛斡兒出 ムカリ木合黎 ナンヂラ汝等 フタリ二人なるぞ」とミコト勅ありき。(
卷一なる俺巴孩 合罕を拏へたる塔塔兒の主因の民は、塔塔兒 諸︀部の中の一種なるに似たり。卷十一なる縉山の戰に合喇乞塔惕 主兒扯惕 主因の勇猛なる軍とあるを見れば、主因は、契丹 女眞と竝べ稱せらるゝ大部族なるが如し。今こゝに也速該を殺︀せる塔塔兒の民を合喇乞塔惕 主因の民と云ひ、又 乞塔惕の民の主因とも云へるにつきて考ふるに、この主因の民は、蓋 契丹の別部にして、塔塔兒の地に雜居してその伴侶となり、塔塔兒 亡びて後は、金に事へてその親軍となりたるならん。契丹の別部なるが故に、合喇乞塔惕 主因の民と云ひ、塔塔兒の地に住みてその伴侶となれる故に、塔塔兒の主因の民と云ひ、金に事へたる故に、乞塔惕の民の主因と云へり。輟耕錄に、蒙古 七十二種 色目 三十一種を擧げたる後に、漢︀人 八種と云ひて、契丹 高麗 女直 竹因歹 朮里闊歹 竹溫歹 竹亦歹 渤海︀を擧げたり。鎭海︀の傳に征伐したる諸︀國を擧げたる中に只溫あるにつきて、錢大昕の考異に「輟耕錄の竹溫歹は、疑はくは卽 只溫ならん」と云ひ、又 李文田は「輟耕錄の竹因は卽 主因の對音なり」と云へり。今 考ふるに、輟耕錄の氏族は、蒙古にも色目にも重複せるものあれば、竹因歹 竹溫歹も一種の重複したるにて、卽 元史の只溫 又 卽 祕史の主因なるべし。)
§267(12:09:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕は、チヤスト察速禿(雪ある[山])よりウゴ動きて、ウラカイ兀喇孩のシロ城にカエイ下營して、ウラカイ兀喇孩のシロ城よりウゴ動きてドルメガイ朶兒篾該のシロ城をヤブ破りてイマ在せるトキ時、ブルカン不兒罕は、チンギス カガン成吉思 合罕にマミ見えにキ來ぬ。(
兀喇孩は、親征錄 元[345]史 太祖︀ 二年 丁卯の條に斡羅孩 城、元史 四年 己巳の條に兀剌海︀ 城とあり。地理志 甘肅 等處 行中書省 七路 二州の末に兀剌海︀ 路ありて、その建置 沿革は闕けたれども、原注に「太祖︀ 四年、由㆓黑水城北、兀剌海︀ 西關口㆒入㆓河西㆒、獲㆓西夏將高令公㆒、克㆓兀剌海︀城㆒」とあれば、甘肅 等州の東にあることだけは推し量らる。喇失惕の額哩喀 又 額兒剌喀(額兒篤曼の讀みたる阿嚕克奇)は、卽 兀喇孩にして、國都︀なる亦兒該また亦兒喀牙と異なり。然るに裕勒は、迭 邁剌(卽 元史)の兀剌海︀を馬兒科の額固哩噶牙(寧夏)に當てたるは、誤なり。又 克剌魄羅惕は、庫卜來 時代の亞細亞の地圖に、兀剌孩を寧夏の北なる黃河の大曲の邊に書き入れたれども、何に據りたるにや。蒙古 游牧記 阿拉善 額魯特 部の條に、康熙 年中 兵部 督捕 理事官 拉都︀琥の奏を引きて「龍頭山、蒙古 謂㆓之 阿拉克 鄂拉㆒、乃甘州城北東大山脈、緜㆓延邊境㆒。山口卽邊關、建㆓夏口城㆒、距㆓滍川堡㆒五里。山盡爲㆓甯遠堡㆒。距㆓龍頭山㆒里許、有㆓昌甯湖㆒界㆑之」又 淸 一統志に「龍首山、在㆓旗西南㆒、與㆓甘州府山丹縣㆒接㆑界。蒙古名㆓阿喇克 鄂拉㆒。緜亙廣遠、東大山之脈絡也。距㆓甘州城㆒三十里」とあり。施世杰〈[#「施世杰」は底本では「施世𤇍」]〉は、これに據りて「兀剌孩、卽 阿喇克 鄂拉 之對音。元太祖︀由㆓今張掖縣㆒起㆑程、東攻㆓靈州㆒、定須㆑踰㆓此山㆒也。是 兀剌孩 城、必在㆓今 阿喇克 鄂拉 之 中㆒矣」と云ひ、高寶銓は「今山口卽邊關、建㆓夏口城㆒。疑 兀剌孩 城卽在㆓其處㆒」と云へり。阿喇克 鄂拉は、卽 阿喇克の山なれば、阿喇克の音は、兀喇孩また阿嚕克奇にやゝ似たり。朶兒篾該は、明譯に靈州とあり。
靈州の城は、元史 地理志 寧夏府路の下に「靈州、唐爲㆓靈州㆒、又爲㆓靈武郡㆒。宋初陷㆓於夏國㆒、改爲㆓翔慶軍㆒」とあり。明の陝西 寧夏衞 靈州所は、そのやゝ東北に移り、今は甘肅 甯夏府 靈州となりたれば、夏の靈州の遺趾は、今の靈州の西南に在り。蒙古 源流に圖爾墨︀格依 城とあるは、卽 朶兒篾該なり。喇失惕の迭兒薛孩は、篾を薛と誤れり。こゝの不兒罕は、前に見えたる獻宗 德旺に非ず、德旺の弟 淸平郡王の子 末帝 睍〈[#「睍」は底本では「日または耳の変形+見」]〉なり。續 通鑑 綱目 丙戌 寶慶 二年(太祖︀ 二十一年)の條に「蒙古 主入㆑夏、城邑多降。七月、夏主德旺憂悸而卒、國人立㆑睍、」
元史 太祖︀紀には二十二年 丁亥 六月「夏主 李睍 降」とあり。太祖︀紀 二十一年 夏「避㆓暑︀渾垂山㆒」の續きに曰く「取㆓甘肅等州㆒、秋取㆓西涼府 搠羅 河羅 等縣㆒、遂踰㆓沙陀㆒、至㆓黃河九渡㆒、取㆓應里 等縣㆒。冬十一月庚申、帝攻㆓靈州㆒、夏遣㆓嵬名 令公㆒來援。丙寅、帝渡㆑河擊㆓夏師㆒敗㆑之。丁丑、五星聚見㆓於西南㆒。駐㆓蹕鹽州川㆒。二十二年丁亥春、帝畱㆑兵攻㆓夏王城㆒、自率㆑師渡河、攻㆓積石州㆒、二月破㆓臨洮府㆒、三月破㆓洮河西寧二州㆒。夏四月帝次㆓龍德㆒、拔㆓德順等州㆒。德順節︀度使 愛申 進士馬肩龍死焉。」これらの征戰の路順を考ふるに、まづ
甘州は、馬兒科 保羅の甘闢出、喇失惕の喀米出、元の甘肅 行省 甘州路、明の陝西 甘州衞、今の甘肅 甘州府なり。
肅州は、馬兒科 保羅の速克出、喇失惕の昔出、元の甘肅 肅州路、明の陝西 肅州衞、今の甘肅 肅州なり。この二州は、甘州 東にありて、肅州 西にあれば、蒙古の軍は、まづ肅州を取りて、次に甘州を取れり。
肅州の西に沙州あり、夏國の西端なり。この役に沙州を敗り肅州を屠りたることは、昔里鈐部の傳に見え、次に甘州の守將は察罕の父にして、その副將に殺︀されたること、察罕の傳に見ゆ。西涼府は、前に注せり。西涼の圍みに粘合 重山の指揮したること、重山の傳に見ゆ。掬羅 河羅は、夏人の置きたる西涼府の屬縣なるべし。元には無し、沙陀は、沙漠なり。涼州より直に甯夏に赴くには、必ず沙漠を渉る。
黃河 九渡は、河源 附錄にある上流の九渡に非ず、應里縣の南にて河流いくつにも分れたる故に、九渡と云ふ。
應里縣は、元史 地理志 寧夏府路の下に「應理州、與㆓蘭州㆒接㆑境、東阻㆓大河㆒、西據㆓沙山㆒」とあり。河源 附錄に「至㆓蘭州㆒、過㆓北卜渡㆒、至㆓鳴沙河㆒、過㆓應吉里 州㆒、正東行[346]至㆓寧夏府南㆒、」耶律 希亮の傳に「自㆓靈武㆒過㆓應吉里 城㆒、至㆓西涼甘州㆒」とある應吉里も、卽 應理なり。應理は、夏の時 縣なりしが、元の世に州となり、明は陝西 寧夏 中衞となり、今は甘肅 甯夏府 中衞縣となれり。靈州は、卽 朶兒篾該、前に注せり。靈州を下せる時、諸︀將は子女 金帛を貪れる中に、耶律 楚材は藥材を收めて、後に士卒の疫を愈やしたること、楚材の碑と傳とに見ゆ。
鹽州は、唐 以來の州にして、元 廢せり。故城は、今の靈州の東南に在り。鹽州川とは、淸水河の河邊を云ふ。夏王城は、卽 中興府、今の甯夏なり。
積石州は、金史 地理志 臨洮路の下にあり、「本宋積石軍 溪哥 城、大定 二十二年 爲㆑州」と云ひ、河源 附錄に、上流より下りて「至㆓貴德州㆒、地名㆓必赤里㆒、始有㆓州治官府㆒、又四五日至㆓積石州㆒、卽萬貢積石。五日至㆓河州安鄕關㆒」と云へり。故城は、今の甘肅 蘭州府 河州の西に在り。これより下 太祖︀の過ぎたる所は、大抵 金の地なり。
臨洮府は、宋の熙州、金 元 明の臨洮府、今の甘肅 蘭州府 秋道州なり。
洮 河 西寧は、二州にあらず、三州なり。皆 金の臨洮路にして、今は甘肅の地なり。洮州の故城は、今の鞏昌府 洮州廳の西南 七十 淸里に在り。河州は、今 蘭州府に屬せり。西寧州は、今 西甯府となれり。
龍德は、卽 金の鳳翔路 德順州 隆︀德縣、今は甘肅 平涼府の屬縣なり。
德順州の故城は、平涼府 靜甯州の東に在り。積石 河州 臨洮 德順にて按竺邇の功ありしこと、按竺邇の傳に見ゆ。臨洮 德順の戰は、金史 哀宗紀 正大 四年「三月、大元兵平㆓德順府㆒、節︀度使 愛申、攝府判馬肩龍死㆑之。夏五月、大元兵平㆓臨洮府㆒、總管 陀滿 胡土門 死㆑之」とありて、德順の拔けたるは前にあり、臨洮の破れたるは後にあり。陀滿 胡土門 愛申 馬肩龍の事は、金史 忠義傳に詳かなり。太祖︀紀 二十二年の末に「是歲、皇子 窩閣台 及 察罕 之師圍㆓金南京㆒。遺㆓唐慶㆒責㆓歲幣子金㆒」とあるは、全く贅文なり。
この年 南京の圍まれたることは、金史 本紀にも見えず。窩闊台 察罕は、この時 太祖︀に從ひて、遠く離れたること無ければ、太宗紀にも察罕の傳にも更にこの事なし。これは、太宗 二年 自ら金を伐ち察罕 從へるをこゝに誤り記したるか。又 唐慶の使せることは、翌年 五月にあり。唐慶の傳にも「歲丁亥、賜㆓虎符㆒、授㆓龍虎衞上將軍㆒使㆑金」とありて、甲戌に使せることなし。これは、元史の持病なる例の重複なり。
喇失惕 曰く「蒙古の軍 唐古惕に入り、咯米出 昔出 喀出 額哩喀を取り、迭兒薛孩を圍みたる時、合申の君 失迭兒古は、五十營の兵を率ゐて援ひに來ぬ。成吉思 汗は、軍を移して往き迎へ、黃河の支流の冰の上に戰ひ、矢に虛發なく、合申の兵 夥しく死し、失迭兒古は都︀に逃げ歸れり。成吉思 汗は、かれの弱れるを見て、その都︀を過ぎ去りて、他の城城を攻め下し、遂に乞台の地に入りき。」喀出は、瓜州にして、肅州と沙州との閒にあり。瓜州は、今の甘肅 安西州治、沙州は、安西州 敦煌縣なり。靈州の戰に李睍 自 出でたるは、元史の嵬名 令公と說 異なり。又 察罕の傳に「進攻㆓靈州㆒、夏人以㆓十萬眾㆒赴援。帝親與戰、大敗㆑之」とあるは、兵數の多きこと集史に似たり。乞台の地に入るは、臨洮路の諸︀城を取れることを云へるなり。)
そこにブルカン不兒罕 マミ見ゆるに、コガネ黃金のホトケ佛をハジメ首として、コガネ金 シロカネ銀のキベイ器︀皿 コヽノ九つコヽノ九つ、ヲノコ男兒 メノコ女兒 コヽノ九つコヽノ九つ、センバ騸馬 ラクダ駱駝 コヽノ九つコヽノ九つ、クサグサ種種にてコヽノ九つコヽノ九つをアラハ表してマミ見ゆるトキ時、ブルカン不兒罕をカド門 クラ暗く(門をあけずして)マミ見えさせたり。(明譯シム令㆓[347]カドノソトニテ門外 オコナハ行㆒㆑レイヲ禮。
九つ九つは、九九 八十一にあらず、九つづゝと云ふことなり。蒙古人は、九の數を尙ぶゆゑに、贈︀物にも九を用ふとは、阿不勒噶資の書にも見えたるが、元史にも、遼王 耶律 畱哥の寡婦 姚里 氏の太祖︀に謁︀したる時、人 馬 金 幣みな九つづゝ賜はれることを載せ、また高麗史 金就礪の傳にも、蒙古の元帥 哈眞より高麗の趙沖 金就礪 二將に少女 九人づゝ 駿馬 九匹づゝを遺れることを載せたり。今 譯者︀のこゝに姚里 氏の美談を引くことを許してよ。耶律 畱哥の傳に曰く「庚辰(太祖︀ 十五年)畱哥 卒、妻 姚里 氏 入奏。會帝征㆓西域㆒、皇太弟(斡惕赤斤)承㆑制、以㆓姚里 氏㆒佩㆓虎符㆒、權領㆓其眾㆒者︀七年。丙戌(太祖︀ 二十一年)姚里 氏攜㆓次子 善哥 鐵哥 永安 及從子 塔塔兒 孫收國奴㆒、見㆓帝于河西 阿里湫 城㆒(平涼府)。帝曰「健鷹飛不㆑到之地、爾婦人乃能來耶。」賜㆓之酒㆒、慰勞甚至。姚里 氏 奏曰「畱哥 旣沒、官民乏㆑主。其長子 薛闍、扈從有㆑年、願以㆓次子 善哥㆒代㆑之、使㆓歸襲㆒㆑爵。」帝曰「薛闍 舎 爲㆓蒙古 人㆒矣。其㆔從朕之征㆓西域㆒也、回回 圍㆓太子(拙赤)於 合迷 城㆒。薛闍 引㆓千軍㆒救㆓出之㆒、身中㆑槊。又於㆓蒲華 撏思干 城㆒、與㆓回回㆒格戰、傷㆓於流矢㆒。以㆑是積㆑功、爲㆓拔都︀魯㆒、不㆑可㆑遣。當㆑令㆔善哥 襲㆓其父爵㆒。」姚里 氏拜且泣曰「薛闍 者︀、畱哥 前妻所出嫡子也、宜㆑立。善哥 者︀、婢子所出。若立㆑之、是私㆑己而蔑㆓天倫㆒。婢子 竊 以爲㆓不可㆒。」帝歎㆓其賢㆒、給㆓驛騎四十㆒。從㆑征㆓河西㆒、賜㆓河西俘人九口、馬九匹、白金九錠㆒、幣器︀皆以㆑九計。許㆘以㆓薛闍㆒襲㆖㆑爵、而畱㆓善哥 塔塔兒 收國奴 於朝㆒、惟遣㆓其季子 永安㆒、從㆓姚里 氏㆒東歸。」阿里湫は、祕史の額哩折兀、馬兒科 保羅の額兒傀兀勒にて、卽 夏の平涼府なり。「回回 圍㆓太子於 合迷 城㆒」は、西征の役の始まりに、蒙古の兵 篾兒乞惕の餘眾を逐へるもの、合米赤 河の邊にて闊喇自姆の兵と衝突︀せる戰(多遜の史)を指せるに似たり。又 蒙古人の九を尙び白を尙ぶ風俗は、後世までも變はらずと見えて、蒙古 游牧記に「崇德 三年、喀爾喀 三汗、竝遣㆑使來朝、各貢㆓白馬八白駝一㆒、謂㆓之九白之貢㆒、歲以爲㆑常」とあり。)かくマミ見ゆるトキ時、チンギス カガン成吉思 合罕は、ムネ心 ワロ惡かりき。ダイサン第三のヒ日にチンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あり、
イルク ブルカン亦魯忽 不兒罕にシドルク失都︀兒忽のナ名をタマ賜ひて、イルク ブルカン シドルク亦魯忽 不兒罕 失都︀兒忽にコ來られて、そこにチンギス カガン成吉思 合罕は「イルク亦魯忽をイ逝なせん(死なせん)」とて、トルン チエルビ脫侖 扯兒必に「テ手にカ掛けてイ逝なせよ」とミコト勅ありき。そこにトルン チエルビ脫侖 扯兒必は「イルク亦魯忽をテ手にカ掛けてコト事 ヲ畢へたり」とタテマツ奉しければ、チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるに
「タングト唐兀惕のタミ民のトコロ處にコトバ言をセツシヨウ折證せんとキ來つるに、ミチ路にてアルブカ阿兒不合のノウマ野馬をマキガリ圍獵したれば、「イタ痛めたるワ我がハダヘ膚をイ痊やせ」とてワ我がイノチ命 カラダ體をヲシ愛みて、コトバ言をノ陳べたるは、トルン脫侖なるぞ。アヒテ對手のヒト人[348]のなめしきコトバ言のトコロ處にキ來て、トコヨ長生のアマツカミ上帝にチカラ力をソ添へられて、テ手にイ入れて、ウラミ怨をムク報いたるぞ、ワレラ我等。イルク亦魯忽のコ此のモ持ちキ來つる、タ起てたるカリヤ行宮は、キベイ器︀皿ごめにトルン脫侖 ト取れ」とミコト勅ありき。(亦魯忽は、李睍の國語の名にして、安全の國語の名に同じ。蒙古にも色目にも、同じ名の人多し。
失都︀兒忽は、蒙語 正直の義なり。唐古惕 人の正直ならざるを辱めんが爲に、わざと正直と云ふ名を賜へるなるべし。喇失惕の(額兒篤曼の譯せる)失迭兒古、蒙古 源流の錫都︀爾郭は、皆この賜はれる名を以て記したるなり。親征錄に李安全を失都︀兒忽と書けるは、安全の國語の名 亦魯忽は李睍と同じきを、失都︀兒忽の名同じと思ひ誤れるならん。)
§268(12:12:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
タングト唐兀惕のタミ民をトラ虜︀へて、イルク ブルカン亦魯忽 不兒罕をシドルク失都︀兒忽となして、カレ彼をカタヅ片附けて、タングト唐兀惕のタミ民のハヽ母 チヽ父をシソン子孫のシソン子孫にイタ至るまでムクリ ムスクリ木忽里 木思忽里をナ無くなし、「クヒモノ食物をク食ふアヒダ閒に、「ムクリ ムスクリ木忽里 木思忽里 ナ無し」とて、「シ死なしめホロボ滅せり」とイ言ひヲ居れ」とミコト勅ありき。(木忽里 木思忽里 無しは子遺 無しなど云ふ意ならんと思はるれども、譯すること能はず。)タングト唐兀惕のタミ民はコトバ言をイ言ひて、コトバ言にシタガ遵はざるユヱ故に、タングト唐兀惕のタミ民のトコロ處にチンギス カガン成吉思 合罕はフタ二たびシユツセイ出征して、タングト唐兀惕のタミ民をキハ窮めてキ來て、ヰ猪︀のトシ年(後堀河 天皇 安貞 元年 丁亥、宋の理宗 寶慶 三年、金の哀宗 正大 四年、元の太祖︀ 二十二年、西紀 一二二七年、太祖︀ 六十六歲の時)
チンギス カガン成吉思 合罕は、タカマノハラ上天にノボ昇りタマ給ひぬ。ノボ昇りタマ給へるノチ後、エスイ カトン也遂 合敦にタングト唐兀惕のタミ民より[ブンミン分民を]オホ多くアタ與へたり。(親征錄は、甚 簡略にして乙酉 歸國の年「是夏避㆑暑︀、秋復總㆑兵征㆓西夏㆒、丙戌春至㆓西夏㆒、一歲閒盡克㆓其城㆒、時上年六十五矣。丁亥滅㆓其國㆒以還」と云へるのみなり。元史には、二十二年 丁亥 四月 德順の戰の次に「五月、遣㆓唐慶等㆒使㆑金。閏月、避㆓暑︀六盤山㆒。六月、金遣㆓完顏 合周 奧屯 阿虎㆒來請和。帝謂㆓羣臣㆒曰「朕自㆓去冬五星聚時㆒、已嘗許㆑不㆓殺︀掠㆒。遽忘㆑下㆑詔耶。今可㆕布㆘吿中外㆖、令㆔彼行人亦知㆓朕意㆒。」是月、夏主李睍降。帝次㆓淸水縣西江㆒。秋七月壬午不豫、己丑崩㆓于 薩里川 哈老徒 之行宮㆒」とあり。
六盤山は、甘肅 平涼府 隆︀德縣の東 二十 淸里、平涼府 固原州の西南 三十 淸里に在り。方興 紀要に「曲折險峻、盤旋有㆑六」が故に名づくと云ひ、その上に六盤關ありて、隆︀德と固原との界をなせり。喇失惕は「主兒只(女直 卽 金)南乞牙思[349](南朝 卽 宋)合申(河西 卽 夏)三國の界なり」と云へども、三國の界に非ず、金夏 二國の界なりき。
淸水縣は、金の鳳翔路 秦州の屬縣、今の甘肅 秦州の屬縣にして、隆︀德縣の南隣なり。西江は、地圖に見えざる小河なり。六盤山を遠くは離れざるべし、金史 愛申の傳に「正大四年春、大兵西來、擬㆘以㆓德順㆒爲㆗生夏之所㆖」とあるは、六盤山に暑︀を避けんとするを云ふ。按竺邇の傳に「駐㆓兵秦川㆒」とあるは、西江に駐まれるを云ふ。
薩里川は、卷四 以來 屢 見えたる撒阿里 客額兒なり。哈老徒は、今の噶老台にして、內府 興圖に噶老台 嶺、噶老台 河、噶老台 泊あり。行宮のありしは、噶老台 泊の邊ならん。行宮は、斡兒朶の譯語にして、行幸さきの宮殿にあらず、行動 自在の宮殿なり。集史(別咧津の譯せる)に
「狗の年の春、昂坤塔郞忽禿克の地に至り、病に罹り、夢を見て、死期 近づけるを知れり」とあるを、洪鈞は「果有㆓此夢㆒、必是猪︀年而非㆓狗年㆒」と云へり。次に「この時 諸︀子の內、側に居たるは、也松格 兄(拙赤 合撒兒の子)のみなりき。「斡歌台 禿里は、いづくにか居る。遠ざかれるか」と問へば、「只 二三里 離れたり」と申しき。呼び寄せて、次の朝 諸︀將 侍從を退けて、諸︀子に向ひ「我が命 終らんとする時 至れり。われ、汝等の爲にこの大業を肇め、東西にても南北にても、はてよりはてまで一年の路程あり。我が遺言は、たゞ汝等 敵を禦ぎ民を保ちて永く祚を享けんには、必ず眾人の心を一つに合はせよとなり。我が死にたる後は、汝等 斡歌台を君に戴け。」また「汝等は、各 歸りて事を治むべし。われ、この大名を享けたれば、死ぬとも憾なし。われは、故土に歸らん(葬られん)ことを望む。察合台は、側に居ざれども、我が遺言に背きて亂を起すには至るまじ」と云へり。」額兒篤曼は、太祖︀の遺言として、眾人一心の譬に、束箭の談と多頭蛇の談とを引けり。束箭の談は、祕史の阿闌 豁阿の敎訓に同じ。
元史 姚天福︀の傳に古諺を引きて一蛇九尾 首動尾隨 一蛇二首 不能寸進とあり
多頭蛇の談は、「ある寒き夜、穴を索めたるに、多頭蛇の頭ども、互に爭ひて遂に凍え死に、一頭多尾の蛇は、安らかに穴に隱れき」と云へるなり。集史の續きに「遺言 畢りて、諸︀子を出し遣り、自ら兵を率ゐて南乞牙思(南朝)に入りたれば、至る所 皆 迎へ降れり」とあり。この年、蒙古の遊兵は、金の鳳翔 京兆に入り、又 南は關外の諸︀隘を破りて、宋の武州 階州に入りたれども、太祖︀ 自ら宋の地を踏みたることなし。又 續きに「六盤山に至れば、主兒只 聞きて使を遣り、眞珠を山盛にして贈︀れり」と云へるは、金史 元史の議和使 完顏 合周 等にして、この年 六月の事なり。また「失迭兒古は、力竭きて、使を以て降服を願ひたれば、成吉思 汗は、その請を允し、また貢物を備へ民戶を遷さんが爲に、一月の猶豫を得て、自ら來朝せんと云へるをも允し、かつ「今われ病あれば、暫くくるな」と吿げて、脫侖 扯兒必を遣りて、失迭兒古を慰撫せり。成吉思 汗は、これより病 日日に重く、今はの きは に大臣に吿ぐるに「われ死なば、喪を發せず、敵に知れざらしめ、合申の君のこんを待ちて殺︀せ」と云ひ、八月十五日に死にたり。諸︀將は、遺命に遵ひて喪を祕し、合申の君 朝謁︀に來つるを執へ殺︀し、密に柩を奉じて老營に歸り、然る後に喪を發せり」と云へり。脫侖 扯兒必の役目は、祕史と稍 異なり。又 察罕の傳に「還次㆓六盤㆒。夏主堅守㆓中興㆒。帝遣㆓察罕㆒入城、諭以㆓禍︀福︀㆒。眾方議㆑降、會帝崩、諸︀將擒㆓夏主㆒殺︀㆑之。復議㆑屠㆓中興㆒、察罕 力諫止㆑之、馳入安㆔集遺民㆒」とあるは、祕史とも集史とも事情 異なり。察罕を褒め過ぎたるに似たり。
太祖︀の崩じたる地は、陳桱の通鑑 續編に六盤山とし、集史と察罕の傳とに合へり。蒙古 源流に「靑吉斯 汗、以㆓丁亥年七月十二日㆒歿㆓於 圖爾墨︀格依 城㆒、年六十六」とある七月十二日は、卽 元史の己丑、圖爾墨︀格依は、卽 祕史の朶兒篾該、卽 靈州なり。靈州としても秦州としても、つまり六盤山より[350]遠くは離れず。然るを元史に薩里川と書けるは、喪を祕して老營に歸りて後にしか發表したりしならん。七月 五日 壬午 秦州にて病 作り、それより僅に七日を經たる十二日 己丑に蒙古にて崩ずるは、有られざることなり。元史の本づきたる舊史 卽 太祖︀ 實錄などは、當時 發表したる布吿に從ひ、蒙古に崩じたりとしながら、その日附は、發表したる日を用ひず、漢︀地に崩じたる眞の忌日を錄したるならん。太祖︀ 二十二年 丁亥の七月 十二日 己丑は、主里安 曆の一二二七年 八月 廿五日なれば、集史の譯文に八月 十五日とあるに合はず。佐久間 信恭 曰く「十五日は、必 廿五日の誤寫ならん。」
太祖紀に曰く「臨㆑崩謂㆓左右㆒曰「金之精︀兵在㆓潼關㆒、南據㆓連山㆒、北限㆓大河㆒、難︀㆓以遽破㆒。若假㆓道于宋㆒、宋金世讎、必能許㆑我。則下㆓兵唐鄧㆒、直擣㆓大梁㆒。金急、必徴㆓兵潼關㆒。然以㆓數萬之眾㆒、千里赴援、人馬疲弊、雖㆑至弗㆑能㆑戰。破㆑之必矣。」言訖而崩。壽六十六。葬㆓起輦谷㆒。」西史に載せたる太祖︀の遺言は、諸︀子を訓ふる辭と喪を祕することとのみにして、南伐の謀に及ばす。黑韃 事略 徐霆の疏證に王檝の言を引きて「某向隨㆓成吉思㆒、攻㆓西夏㆒。西夏國俗、自㆓其主㆒以下、皆敬㆓事國師㆒。凡有㆓女子㆒、必先以薦㆓國師㆒、而後適㆑人。成吉思 旣滅㆓其國㆒、先臠㆓國師㆒。國師者、比丘僧︀也。其後隨㆓成吉思㆒、攻㆓金國鳳翔府㆒。城破、而 成吉思 死。嗣主 兀窟䚟 含㆑哀云「金國牢守㆓潼關黃河㆒、卒未㆑可㆑破。我思㆘量鳳翔通㆓西川㆒、西川投㆑南、必有㆗路可㆖㆑通㆓黃河㆒。後來遂自㆓西川㆒、迤邐入㆓金房㆒、出㆓汝光㆒、徑造㆓黃河之裏㆒、竟滅㆓金國㆒」とあり。兀窟䚟は卽 太宗 斡歌歹なり。この言に據れば、南南の路より汴京に逼るの謀は、太祖︀より出でずして、太宗より出でたるに似たり。起輦谷の所在は確ならず。
黑韃 事略に「其慕無㆑塚︀、以㆑馬踐蹂、使㆔平如㆓平地㆒。若㆓忒沒眞 之墓㆒、則挿」矢以爲㆑垣、(原注。闊踰㆓三十里㆒、)邏騎以爲㆑衞。」徐霆の疏證に「霆見㆘武沒眞 之墓、在㆓瀘溝 河之側㆒、山水環繞㆖。相傳云㆘忒沒眞 生㆓於此㆒、故死葬㆗於此㆖。未㆑知㆓果否㆒。」瀘溝河の溝の字、洪釣 引きて渚︀の字とし、羅豐祿の藏本には局の字とせり。いづれにしても客嚕倫 河なり。帖木眞そこに生れたりと云へるは、傳聞の誤なり。馬兒科 保羅の紀行に「あらゆる大汗、太祖︀ 成吉思のあらゆる子孫は、阿勒泰と云ふ山に運びて葬らる。汗はいづこに死ぬとも、死にたる所は百日路 隔たるとも、必ず先祖︀の居るその山の墓所に運ばる」とあり。阿勒泰と云へるは、誤れり。大佐 裕勒はこの阿勒泰を今の昔別哩亞 界の大山脈に非ず、兀兒噶に近き汗 諤剌 卽 汗山ならんと云ひたれども、汗山としても客嚕倫 河より隔たれり。喇失惕 曰く「成吉思 汗は、不兒勘 喀勒敦(神︀の山)卽 也客 庫嚕克(大靈地また大禁地)と云ふ所に葬られき。」また曰く「嘗て獵に出でて樹の下にたゝずみ、その樹を愛して「われ死なば、こゝに葬れ」と云へることありしにより、遂にそこに葬れり。その樹は著︀しかりしが、後にまはりの樹木 速に生ひ立ち、茂き林は地を蔽ひて、墓のありか分らずになり、葬りを送りたる人にても識ること能はざりき。禿里 汗 曼古 汗 庫必來 汗 阿里不喀は皆こゝに葬られ、他の子孫は別の所に葬らる。墓守は、兀哴乞惕 千人なり」と云へり。不兒勘 喀勒敦は、今の肯特 山にして、卽 客嚕倫 河の源なり。元史 本紀に據れば、憲宗紀に葬地を脫したる外、寧宗までの諸︀帝みな「葬㆓起輦谷㆒」とあり。又 明の葉子奇の草木子に曰く「歷代送㆑終之禮、元朝宮裏、用㆓梡木二片㆒、鑿㆓空其中㆒、類︀㆓人形大小㆒、合爲㆑棺、置㆓遺體其中㆒、加㆓髹漆㆒畢、則以㆓黃金㆒爲㆑圈、三圈定、送至㆓其直北園寢之地㆒、深埋之。國制、不㆑起㆓墳壠㆒。葬畢、以㆓萬馬㆒蹂㆑之使㆑平、殺︀㆓駱駝子其上㆒、以㆓千騎㆒守㆑之來歲春草旣生、則移㆑帳散去、彌望平行、人莫㆑知也。欲㆑祭時、則以㆓所殺︀駱駝之母㆒為㆑導、視︀㆓其躑躅悲鳴之處㆒、則知㆓葬所㆒矣。」駝駝の說は信じ難︀けれども、葬埋の制を[351]云へる所は、黑韃 事略の以㆑馬 踐蹂、喇失惕の茂林 蔽㆑地と參考すべし。また蒙古 源流に曰く「以㆑輦奉㆑柩、至㆓穆納 之 淖爾 處所㆒、車輪挺然不㆑動。蘇尼特 之 吉爾根 巴圖爾(鄂嫩の德里袞 布勒搭克、克嚕倫 等地を歷擧して、謂)、「汗何戀㆓唐古特㆒、反將㆓昔日屬眾 蒙古 等㆒棄擲㆖〈[#返点の「上」はママ。対応する返点「下」がない]〉。」言畢、柩因徐徐轉動、遂至㆓所卜久安之地㆒。因㆑不㆑能㆑請㆑出㆓金身㆒、建造㆓長陵㆒、共仰㆓庇護㆒。於㆓彼處㆒立㆓白屋八閒㆒、在㆓阿勒坦 山陰 哈岱 山陽之大 諤特克 地方㆒、建㆓立陵寢㆒、號爲㆓索多 博克達 大明 靑吉斯 汗㆒。」源流の原文を獨逸︀文に譯せる施米惕の撒難︀ 薛禪には、その久安の地を阿勒泰 汗の陰と肯帖依 汗の陽との閒の也客 兀帖克の地方と譯せり。こゝの汗は、山の義にして、肯帖依 汗は、卽 肯特 山なれば、こゝの阿勒泰 山は、肯特 山より分れ出でて客嚕倫 河の源を挾める一峯の名なるべし。馬兒科 保羅の阿勒泰も、この山の事を聞き傳へたるにやあらん。諸︀書を合せ考ふるに、起輦谷は、客嚕倫 河の源 肯特 山の陽に在りて、撒阿里 原の斡兒朶より遠くは離れざるべし。
今 太祖︀の實錄 全く終り、太宗の事に移らんとするに臨み、こゝに太祖︀紀の末段を引かしめよ。「至元三年冬十月、追㆓諡聖武皇帝㆒。至大二年冬十一月庚辰、加㆓諡法天啓運聖武皇帝㆒、廟號㆓太祖︀㆒。在㆑位二十二年。帝深沈有㆓大略㆒、用㆑兵如㆑神︀。
故能滅㆑國四十、遂平㆓西夏㆒。其奇勳偉跡甚眾。惜乎當時史官不㆑備、或多失㆓於紀載㆒云。」謂はゆる滅㆑國四十は、いかに數へたるかを知らざれども、試に數へ見ん。こゝに國と云へるは、王國のみに非ず、部落をも指せるならん。滅と云へるは、擊ち滅されたるのみならず、撃たれて降りたるもの、自ら服屬したるものをも込めたるならん。まづ蒙古の別部にて滅されたるは、主兒勤 合塔斤 撒勒只兀惕 朶兒別惕 泰赤兀惕 札只喇惕の六部なり。蒙古の外にて滅され又は降りたるは、塔塔兒 四部、篾兒乞惕 三部、客咧亦惕 部、乃蠻 二部、乃蠻の古出魯克 罕の據れる合喇 乞塔惕、豁哩 禿馬惕、撒兒塔兀勒 卽 闊喇自姆 沙の領地、康鄰 卽 康克里、乞卜察兀惕 卽 乞魄察克、巴只吉惕 卽 巴施客兒篤、阿速惕 卽 阿闌、撒速惕 卽 撒克新、薛兒客速惕 卽 徹兒客思、孛剌兒 卽 不勒噶兒の二十部にして、前の六部と合せて二十六部なり。自ら服屬したるものは、亦乞咧思 翁吉喇惕 豁囉剌思 斡亦喇惕 汪古惕 委兀惕 合兒魯兀惕 七部の外に、不哩牙惕、巴兒渾 卽 巴兒古惕、兀兒速惕、合卜合納思、乞兒吉速惕、失必兒、客思的音 卽 客思的米、帖良古惕 卽 帖連郭惕、脫斡列思 卽 禿剌思なる九部の林の民あり。前の二十六部と合せて四十二部となる。林の民は、この外にも康合思 禿巴思 巴亦惕 禿合思 塔思などありて、いづれも服屬せり。されども林の民は皆 小き部落にして、不哩牙惕 巴兒古惕 乞兒吉速惕などの外は、一部として數ふるに足らざるに似たり、この外に阿勒馬里克の君 斡咱兒は、祕史には見えざれども〈[#「見えざれども」は底本では「見ざれども」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉、これも服屬せる部落の內なるべし。欣都︀思惕 斡嚕思惕の國にも蒙古の兵 入りたれども荒したるのみなり。金の地は、已に十分の七八を取りたれども、滅せる數には入らざらん。つまり元史の四十と云へる數は、大槪を示せる辭なるべし。明の史臣は、奇勳 偉跡の紀載に漏れたるを惜みたれども、幸に蒙文 祕史の世に存して、本紀に數十倍する實錄 詳傳を知るを得たれば、史家はこゝに滿足することを得べし。)
§269(12:13:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ネズミ鼠のトシ年(我が安貞 二年 戊子、宋の理宗 紹定 元年、西紀 一二二八年、元の太宗 四十三歲の時)、チヤアダイ察阿歹 バト巴禿をハジメ首とせるミギテ右手のミコダチ諸︀王、(
巴禿は、元史 太宗 定宗 憲宗 本紀にみな諸︀王 拔都︀、忙哥撒兒の傳に宗王 八都︀ 罕とあり。世系表[352]に拔都︀大王を朮赤 太子の長子とすれども、多遜の系圖に據れば、拙赤の第二子にして斡兒荅の弟なり。太宗紀 八年の處に斡魯朶 拔都︀とあるは、卽 斡兒荅 巴禿なり。拙赤は太祖︀より先に死に、巴禿その封を襲げり。)オツチギン ノヤン斡惕赤斤 那顏、エグ也古、エスンゲ也孫格をハジメ首とせるヒダリテ左手のミコダチ諸︀王、(太祖︀の弟 四人の封地は、皆 東方に在り。也古 也孫格は、拙赤 合撒兒の子、卷六に見えたり。)トルイ拖雷をハジメ首とせるナイチ內地のミコダチ諸︀王 ヒメミコダチ公主 ムコギミダチ駙馬 バンコ萬戶 センコ千戶のツカサビトダチ官人等 モロモロ眾となりて、ケルレン客魯嗹のコデウ アラル闊迭兀 阿喇勒にコトゴト咸くアツマ聚りて、チンギス カガン成吉思 合罕のナ名ざしタマ給へるそのミコト勅にヨ依り、オゴダイ カガン斡歌歹 合罕をカン罕にイタヾ戴けり。(闊迭兀 阿喇勒は、卽 卷四の闊朶額 阿喇勤、客魯嗹 河の中洲なり。太宗紀に曲雕 阿蘭 之 地また庫鐵烏 阿剌里、憲宗紀に闊帖兀 阿闌 之地、明宗紀に闊朶傑 阿剌倫とある、皆この地なり。多遜 曰く「成吉思 汗の葬りの後、皇子 諸︀王は各その領地に散り去り、二年の閒 彼等の中に主宰するもの有らざりき。季子なる拖雷は、蒙古の俗に從ひ、父の遺產を保ち、特に蒙古 本部と客喇亦惕の地とを領して、國事を攝し居たりしが、
一二二九年の春、大罕を選ばんが爲に庫哩勒台 卽 總會を召び集めたり。三日 饗宴したる後、集會の事務に取懸れり。察合台は、成吉思 汗の生き殘れる最長子にして、蒙古の相續法に從へば(この語 誤れり。下の阿不勒噶資の言を見よ。)相續すべき人なりしに、多數の發言は拖雷を推さんとせり。然れども斡歌台を名ざしたる成吉思 汗の遺言は力ありき。四十日の猶豫の後、斡歌台の辭退は引かせられて、兄 察合台と叔父 兀出肯とは、斡歌台を高位に導き、拖雷は盞を捧げ、殘りの人は天幕の內外にて帽を脫ぎ、支那の古禮に遵ひ九たび額突︀き、合罕の號を呼びて祝︀聲を擧げたり。その時 斡歌台は、天幕より出でて、日に向ひ三たび嚴かに拜み、諸︀人 皆それに傚ひ、その日は宴會にて畢れり。諸︀王の誓の辭は「我等は、ながみことの子孫に、草の上に投げても牝牛に喫はれざる、膏の中に置きても狗に取られざる一塊の肉 殘れる限りは、他の皇族の王を皇位に置かざらんことを誓ふ」と云へり。」この牛狗に喫はれざる譬は、本書の前卷にあるとは意味全く違へり。かれは不才なるに譬へ、これは威靈あるに譬へたるが如し。
親征錄に曰く「太祖︀聖武皇帝昇退之後、太宗皇帝卽㆓大位㆒以前、太上皇帝爲㆓太子㆒、戊子(西紀 一二二八年)避㆓暑︀於 斡兒罕㆒、金主遣㆑使來朝。太宗皇帝與㆓太上皇㆒共議㆔搠力蠻 復征㆓西域㆒。秋、太宗皇帝自㆓虎八㆒會㆓於先太祖皇帝之大宮㆒。己丑(西紀 一二二九年)八月二十四日、諸︀王騎馬百官、大會㆓怯綠連 河 曲雕 阿蘭㆒、共冊㆓太宗皇帝㆒登㆑極。」太上皇帝とは、睿宗 拖雷を云ふ。拖雷は、憲宗 世祖︀の皇考なるが故にしか云へり。錢大昕 曰く「紀㆓太宗事㆒、而加㆓太上之稱於其弟㆒、所謂名不㆑正而言不㆑順者︀矣。」阿不勒噶資の書に「蒙古の俗、子どもの大きなるものは皆 外に居て、幼子は父の遺產を受く。故に斡赤斤の號は、幼子のみ稱し、その義は竈の主なり」と云へり。
蓋 游牧の民は、一帳の內に羣兒と同じく居ること能はず。故に大兒は次第に出でて外に牧し、畱まる者︀は幼子のみなり。金史 世紀に「生 女直 之俗、生㆑子年長 卽 異居」とあるも、卽 その事にして、北狄の俗 皆 然り。太祖︀の四皇子を分封するに至り、拙赤 最[353]も遠く、察合台は次に遠く、斡歌歹はやゝ近く、拖雷のみ內に居るは、羣兒 分牧の舊俗を大じかけに實行したるなり。故に蒙古 源流には「幼子 圖類︀ 守㆑產」と云ひ、西史に「父の遺產を保つ」と云へるなり。洪鈞の太祖︀ 本紀 譯證に、雞の年 合申を征する時「帝在㆓途閒㆒、窩關台 之子 庫延 古由克 歸。二孫 求㆓賞賚㆒。帝曰「所有之物、已盡歸㆓拖雷㆒。彼係㆓家主㆒。」其後 拖雷 汗 以㆓衣物㆒分㆓餽之㆒」と譯して、自注に「拖雷 以㆓幼子㆒從㆑父、儼如㆓家主㆒。其後帝崩、遂監㆑國。親征錄謂㆔太上皇帝時爲㆓太子㆒、皆卽斯義。未㆑可㆑斥㆓其誣妄㆒」と云へり。然れども家產を承くると罕の位を襲ぐとは同じからず。蒙古の俗、國に大事あれば、部眾 集り議して定む。これを庫哩勒台と云ふ。汗を選ぶにも師を興すにも皆 然り。家產は季子に歸すれども、罕の位は庫哩勒台の議にて定まる故に、長子 相續の制も無く、父の後は必ず子 繼ぐとも限られず。太祖︀ 遺言して斡歌歹を立てんと欲したれども、敢て儲位を定めず、皇太子と名づけず、庫哩勒台の議決を經て位 始めて定まれり。定宗 憲宗の登極みな然り。世祖︀ 漢︀地に居り漢︀臣の勸めに從ひ自立するに及びて、この制 始めて變はれり。然らば察合台は本より相續人に非ず、拖雷も太子に非ず、斡歌歹も儲君に非ず。筆 執るもの蒙古の俗に暗きが故に、記載 誤り易し。「金主遣㆑使來朝」は、金史 哀宗紀に據れば、
知開封府事 完顏 麻斤出にして、この年 正月 蒙古に往き弔慰することを命ぜられ、十二月「以㆓奉使不職㆒、免㆑死除㆑名」とあり。搠力蠻は、祕史の搠兒馬罕なり。復 西域を征すること、祕史の下の文に見ゆ。定宗紀に「二年八月、命㆓野里知吉帶㆒、率㆓搠思蠻 部兵㆒征㆑西」とある搠思蠻は、撕兒蠻の誤なり。
虎八は、元史に霍博 之地とあり。その地は確ならねども、耶律 希亮の傳に、中統 二年 夏 葉密里 城に抵り、その冬 火孛の地に至り、三年 忽只兒の地に至り、還りて葉密里 城に至るとある火孛の地は、卽 霍博にして、忽只兒の地は、速不台の傳に「略㆓也迷里 霍只 部㆒」とある霍只なれば、霍博 火孛 卽 虎八の地は、忽只兒 卽 霍只の地と共に、額米勒 城の邊に在りて、太宗の分地の內なるべし。太祖︀の大宮は、卽 闊迭兀 阿喇勒の大斡兒朶なり。丁亥の秋 太祖︀の葬禮 畢りて、太宗は諸︀王と共に各その分地に還りしが、戊子の秋 拖雷の招集に由り總會に會せんが爲に至れり。招集は戊子の秋なれども、登極は己丑の秋なるを、祕史は誤りて鼠の年に書けり。
又 元史 太祖︀紀の末に「戊子年、是歲皇子 拖雷 監㆑國。」太宗紀の初に「太宗英文皇帝、諱 窩闊台、太祖︀第三子、母曰㆓光獻皇后 弘吉剌氏㆒。太祖︀伐㆑金定㆓西域㆒、攻㆑城略㆑地之功居㆑多。太祖︀崩、自㆓霍博 之地㆒來會㆑喪。」會㆑喪は、誤れり。拖雷の招集に由り會したるなり。睿宗の傳に「方㆓太祖︀崩時㆒、太宗畱㆓霍博 之地㆒、國事無㆑所㆑屬、拖雷 實身任㆑之」と云へるも非なり。太祖︀ 崩ずる時は、太宗も軍に從ひて左右に居り、葬禮 畢りて後その分地なる霍博の地に還りき。抱雷の監國は、蓋 遺命に依りたるにて、太宗の偶 居らざるが爲に監國したるに非ず、その監國は初より定まれるが故に、太宗は一先その分地に還りたるなり。又 太宗紀に「元年己丑夏、至㆓忽魯班 雪不只 之地㆒、皇弟 拖雷 來見。秋八月己未、諸︀王百官大會㆓于 怯綠連 河 曲雕 阿蘭 之地㆒、以㆓太祖︀遺詔㆒、卽㆓皇帝位 于 庫鐵烏 阿剌里㆒。
始立㆓朝儀㆒、皇族尊屬皆拜、頒㆓大 札撒㆒。」原注に「華言㆓大法令㆒也」とあり。この事は、耶律 楚材の傳に委しく、「己丑秋、太宗將㆑卽㆑位、宗親威會、議猶未㆑決、時 睿宗 爲㆓太宗親弟㆒、故 楚材 言㆓於睿宗㆒曰「此宗社︀大計、宜㆓早定㆒。」睿宗曰「事猶未㆑集、別擇㆑日可乎。」楚材曰「過㆑是無㆓吉日㆒矣。」遂定㆑策立㆓儀制㆒、乃吿㆓親王 察合台㆒曰「王雖㆑兄、位則臣也、禮當㆑拜。王拜、則莫㆓敢不㆒㆑拜。」王深然㆑之。及㆑卽㆑位、王率㆓皇族及臣僚㆒拜㆓帳下㆒。旣退、王撫㆓楚材㆒曰「眞社︀稷臣也。」國朝尊屬有㆓拜禮㆒、自㆑此始」と[354]あり。
又 太宗紀「金遣㆓阿忽帶㆒來歸㆓太祖︀之賵㆒。帝曰「汝主久不㆑降、使㆔先帝老㆓于兵閒㆒、吾豈能忘也。賵何爲哉。」却㆑之。遂議㆑伐㆑金。」阿忽帶は、天興 元年(太宗 四年)に講和使となれる諫議 大夫(後に御史 大夫)裴滿 阿虎帶なり。金史に據れば、この年 蒙古に使したるは、阿虎帶に非ずして、完顏 奴申なり。哀宗紀に、正大 五年 十二月「壬子、完顏 訥申 改㆓侍講學士㆒、充㆓國信使㆒。」奴申の傳に「正大五年九月、改㆓侍講學士㆒、以㆓御史大夫㆒奉㆓使大元㆒、至㆓龍駒 河㆒、朝㆓見太宗皇帝㆒、十二月還。明年(太宗 元年)六月、遷㆓吏部尙書㆒、復往、八年春還」とあり。奴申は、講和の使にして弔慰の使にあらざれば、太祖︀の賵を歸れるは、奴申の前に使したる完顏 麻斤出なるべし。)
チヤアダイ イロセ察阿歹 兄は、オゴダイ カガン斡歌歹 合罕をイロト弟をカン罕にイタヾ戴きて、チンギス カガン エチゲ成吉思 合罕 額赤格のコガネ金のイノチ命 マモ守りヰ居たるシユクヱイ宿衞 セントウシ箭筒士 ハツセン八千のジヱイ侍衞、[スナハチ卽]ワ我がスメラミオヤ皇考のミ身にチカ親くユ行きヰ居たるナイシン內臣、カ彼のマン萬のバンシ番士を、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 トルイ拖雷 フタリ二人は、オゴダイ カガン斡歌歹 合罕にワタ交せり。ナイチ內地のクニタミ國民をもそのダウリ道理にヨ依りワタ交せり。
§270(12:15:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
オゴダイ カガン斡歌歹 合罕は、オノレ己をカン罕にイタヾ戴かしめて、ダイリ內裏にユ行くマン萬のバンシ番士を、ナイチ內地のクニタミ國民をオノレ己のモノ物にナ爲さしめヲ畢へて、まづチヤアダイ イロセ察阿歹 兄のトコロ處にハカ謀りて、チンギス カガン エチゲ成吉思 合罕 額赤格のシカ爲掛けオ置きたるタミ民なるバクタト巴黑塔惕のタミ民のカリベ シヨルタン合里伯 莎勒壇のトコロ處にシユツセイ出征したるチヨルマカン ゴルチ綽兒馬罕 豁兒赤〈[#ルビの「チヨルマカン ゴルチ」は底本では「チヨルハカン ゴルチ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉(前卷の搠兒馬罕 豁兒赤)のゴヱン後援に、オゴトル斡豁禿兒 モンゲト蒙格禿 フタリ二人をシユツセイ出征せさせたり。(斡豁禿兒は、外に見えず。蒙格禿は、卽 篾格禿、八十八功臣の第六十二なり。親征錄に、太宗と拖雷と「共議㆔搠力蠻 復征㆓西域㆒」とあるは、この事を云へるなり。)
またサキ先にスベエタイ バアトル速別額台 巴阿禿兒を、カングリン康鄰 キブチヤウト乞卜察兀惕 バヂギト巴只吉惕 オルスト斡魯速惕 アスト阿速惕 セスト薛速惕(前卷の撒速惕)マヂヤル馬札兒(前卷の馬札喇)ケシミル客失米兒 セルゲスト薛兒格速惕(前卷の薛兒客速惕)ブラル不剌兒(前卷にも後文にも孛剌兒とあり。こゝの原文に不合兒とあれども、寫し誤りならんこと疑ひなければ、改めたり。)ケレル客咧勒(前卷 誤りて喇喇勒)のタミ民のトコロ處にイタ到るまで、アヂル阿的勒(前卷の亦的勒)ヂヤヤク札牙黑なるミヅ水あるカハ河をワタ渡り、[355]メケト篾客禿(
後文に蔑格惕の城、憲宗 本紀 昔里鈐部の傳に阿速の蔑怯思 城、土土哈の傳に、麥住斯、拔都︀兒の傳に麥各思 城とあり。そのありかは確ならず。阿卜勒弗荅は、亦奔 賽篤を引きて「阿闌の主要なる寨は、世界の堅城の一なり」と云ひ、馬速的も、この寨を「阿闌の國と喀卜克(高喀速 山)との閒にて大河の畔にあり」と云ひたれども、寨の名を云はず。卜咧惕施乃迭兒 曰く「この城は、蓋 帖咧克 河の上游にて喀自別克 山に近き名高き荅哩額勒の峽にありて、抹哈篾惕 敎徒の地理家の巴必 阿勒闌(阿闌の門)、古史の玻兒塔 高喀昔亞ならん」と云へり。)メンケルメン綿客兒綿 ケイベ客亦別(前卷の乞瓦 綿 客兒綿)をハジメ首とせるシロ城どものトコロ處にシユツセイ出征したる(出征せしめたるに、)スベエタイ バアトル速別額台 巴阿禿兒は、それらのタミ民にナヤ艱まされて、スベエタイ速別額台のゴヱン後援にバト巴禿、ブリ不哩(
多遜の世系表に、察合台の長子 木阿禿干の子とあれども、普剌諾 合兒闢尼は、「察阿歹の子 不𡂰」と云へり。元史 憲宗紀 元年 卽位の條に不里と書きて、察合台の子なる也速忙可と竝べ擧げたり。下文なる長子 出征の語に據るに察阿歹の長子なること明なり。不哩の兄 木阿禿干は、太祖︀の西征に從ひ、巴米安 城攻の時に戰死したれば、不哩は今 生存せる諸︀子の長兄となれり。)グユク古余克(
太宗の長子 貴由。蒙古 源流 庫裕克、多遜も同じ。太宗紀 八年の處には、古與と書けり。太宗 崩じて後 合罕に立てられ、元史に本紀あり。「定宗𥳑平皇帝、諱 貴由、太宗長子也。母曰㆓六皇后乃 馬眞 氏㆒、以㆓丙寅年㆒生㆑帝」とあれば、太宗 八年 丙申の歲 歐囉巴 征伐に出陣したるは、三十一歲の時なり。)モンゲ蒙格を(
拖雷の長子にして、定宗 崩じて後 合罕となれり。蒙古 源流、拖雷 額氈の子モンケ蒙客。元史 本紀に「憲宗桓肅皇帝、諱 蒙哥。睿宗 拖雷 之長子也。母曰㆓莊獻太后 怯烈 氏、諱 唆魯禾帖尼㆒、歲戊辰十二月三日生㆑帝。時有㆘黃忽荅 部知㆓天象㆒者︀㆖、言㆓帝後必大貴㆒、故以㆓蒙哥㆒爲㆑名」とありて、原注に「蒙哥、華言長生也」と云へれば、蒙哥のモンゲと讀むべきことは甚 確なり。普剌諾 合兒闢尼のメングと云ひ、喇失惕 以下 西人の蒙古史にマングとあるは、皆 音 訛れり。蒙格は、この出征の時 二十九歲なりき。)ハジメ首としてあまたのミコダチ諸︀王をシユツセイ出征せさせたり。(この文、やゝ事實に違へり。速別額台の者︀別と共に乞卜察克 斡嚕思 諸︀國を征して苦戰したるは事實なれども、その苦戰を救はんが爲に巴禿 等 諸︀王の出征したるに非ず。速別額台は諸︀國を擊ち破りて還りたれども、その地いまだ平定せざりし故に、太宗は更にその地を悉く征服せんが爲に巴禿 等 諸︀王を遣し、速別額台を參謀として、再征を企てたるなり。委しくは下の注に述ぶべし。)
このシユツセイ出征したるモロ〳〵諸︀のミコダチ王等にバト巴禿 ヲサ長となれとミコト勅ありき。ナイチ內地よりイ出でたるものにはグユク古余克 ヲサ長となれとミコト勅ありき。「このシユツセイ出征するブシウ部眾をス統ぶるミコダチ諸︀王は、そのコ子どももオホイコ大子にシユツセイ出征せさせよ。ブシウ部眾を[356]ス統べざるミコダチ諸︀王、バンコ萬戶 センコ千戶 ヒヤクコ百戶 ジツコ十戶 (卽 牌子頭)のクワンニン官人 ドモ等あまたのヒト人、タレ誰なりとも、そのコ子どもよりアニ兄をシユツセイ出征せさせよ。ヒメミコ公主 ムコギミ駙馬も、オナ同じリイウ理由によりそのコ子どもよりアニ兄をシユツセイ出征せさせよ」とミコト勅ありて、マタ又 オゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ノリタマ宣はく「このマタ亦 コ子どものアニ兄をシユツセイ出征せさするリイウ理由は、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄よりオコ起りしぞ。チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 イ言ひてキ來ぬるに「スベエタイ速別額台のゴヱン後援にコ子どもよりアニ兄 ブリ不哩をシユツセイ出征せしめたり。コ子どものアニ兄 シユツセイ出征すれば、イクサ軍 サカン盛なり。イ出づるイクサ軍 オホ多くなれば、カンバセ顏色 タカ高くイキホヒ勢よくユ行くなり。カナタ彼方のテキジン敵人は、あまたのクニ國あり、そのホコサキ鋒はコハ剛く、カレラ彼等のタミ民 イカ怒ればオノ己がキカイ器︀械にシ死に、カレラ彼等のタミ民はキカイ器︀械 エイリ銳利なりとイ云はれたり」とイ云ひてキ來ぬ。」オゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ノリタマ宣はく「そのコトバ言につき、ワレラ我等の[カンガヘ考に]も、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄のチヤクジツ著︀實なるチカラ力にヨ依り、コ子どものアニ兄をイ出さんとて、トコロドコロ處處にセンプ宣布してバト巴禿 ブリ不哩 グユク古余克 モンゲ蒙格をハジメ首とせるミコダチ諸︀王をシユツセイ出征せしむるリイウ理由かくありしぞ」[とノリタマ宣へり。](
この西征の諸︀王は、多遜の史に、巴禿 等 四人の外 七人の名を擧けたり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「塔哩黑 只杭庫沙亦 札米兀惕 帖伐哩黑に據るに(原注。多遜 第二 第六九九頁 以下)、斡歌台 汗の世に集められたる第二(太宗 七年)の大會にて、阿昔 不勒噶兒 乞魄察克 嚕西亞の諸︀國を征服せんが爲に大軍を興さんことを議決したり。この諸︀國は、皆 成吉思 汗の長子 拙赤の子 巴禿の領地に接せり。斡歌台は、この征伐に巴禿を助けんことを、次の諸︀王、卽 斡歌台の子ども庫余克 喀丹、拖雷の子ども曼古 不者︀克、察合台の子ども不哩 拜荅兒、斡歌台の弟 庫勒堪、巴禿の兄弟 斡兒荅 唐古惕 失班に命じたり。勇武なる速不台 巴哈都︀兒も、この出征に加はり、一二三六年(太宗 八年)二月 進軍 始まれり。」喀丹は、元史 世系表に太宗の第六子 合丹 大王、速不台の傳に諸︀王 哈丹とあり。不者︀克は、世系表に睿宗の第八子 撥綽 大王、牙忽都︀の傳に睿宗の庶子 撥綽とあり。不者︀克の名は、本書 下の文にも見ゆ。庫勒堪また古勒干は、世系表に太祖︀の第六[357]子 闊列堅 太子、太宗紀に果魯干、輟耕錄に果里干 缺劉堅、通鑑 續編に郭列干など書けり。古勒干の母を、卜咧惕施乃迭兒は、喇失惕を引きて、金帝の女 古克主(卽 岐國 公主)なりとし、別咧津は、忽闌 合屯なりとして、金帝の女 昆主 合屯には子なしと云へり。古勒干は、嚕西亞にて戰死せり。斡兒荅は、巴禿の兄なり。太宗紀に斡魯朶とあり、世系表には漏れたり。唐古惕 失班は、皆 巴禿の弟なり。失班は、速不台の傳に諸︀王 昔班とあり、世系表には無し。拜荅兒 唐古惕の名は、元史に見えず。)
§271(12:19:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 オゴダイ カガン斡歌歹 合罕は、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄のトコロ處にハカ謀りてヤ遣るには「チンギス カガン エチゲ成吉思 合罕 額赤格のケンセイ見成[のタイヰ大位]にスワ坐れり。いかなるサイノウ才能にヨ依りてかスワ坐れるとイ言はれたり、ワレ我。チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 ヨシ可とせば、ワレラ我等のスメラミオヤ皇考は、キタト乞塔惕のタミ民のアルタン カン阿勒壇 罕をヤリカ遣掛けて(事をし掛けて)オ置きたり。イマ今 ワレ我 キタト乞塔惕のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬せん」とハカ謀りてヤ遣れば、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 ヨシ可として「ナニ何のサマタゲ妨[かア有らん]。ラウエイ老營のウチ裏はヨ好きヒト人にユダ委ねてシユツバ出馬せよ。ワレ我は、こゝよりイクサ軍をイダ出してヤ遣らん」とイ云ひてヤ遣りきダイ大 オルドス斡兒朶思(斡兒朶の複稱)のウチ裏は、オルダカル ゴルチ斡勒荅合兒 豁兒赤にユダ委ねて、
§272(12:20:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ウサギ兔のトシ年(我が後堀河 天皇 寬喜 三年 辛卯、宋の紹定 四年、金の正大 八年、元の太宗 三年、西紀 一二三一年、太宗 四十六歲の時なり。然るに、元史 太宗紀に據るに、太宗の親征は、この年の前年、太宗 二年 庚寅より始まりたれば、本書の紀年は誤れり。兔の年は、虎の年に作るべし。)オゴダイ カガン斡歌歹 合罕は、キタト乞塔惕のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬して、ヂエベ者︀別をセンポウ先鋒にヤ遣りぬ。かくてキタト乞塔惕のイクサ軍をヤブ敗りて、クチキ爛木のツモ積れるゴト如くコロ殺︀して、チヤブチヤル察卜赤牙勒をコ越えて、トコロドコロ處處にカレラ彼等のグンジヤウ郡城どもをセ攻めさせにイクサ軍をユ行かしめて、オゴダイ カガン斡歌歹 合罕はシラデク失喇迭克(龍虎臺)にゲバ下馬(駐蹕)せり。(者︀別は、太祖︀の時、西征より還りて閒もなく歿したるに、その幽靈の今こゝに現れたるは笑ふべし。すべて者︀別の先鋒、居庸の攻め破り、三道の侵掠、龍虎臺の駐蹕は、皆 太祖︀ 南征の時の事なれども、その事 甚 名高くして、人口に膾炙したる故に、太宗の南征にもふと誤りて書き加へたるならん。この[358]
南征の役は、元史 太宗紀 睿宗の傳 金史 哀宗紀、その外 金元 兩史の將相の諸︀傳に甚 委しければ、今 金元 兩紀の文を節︀錄して、太宗の武功の槪略を示し、本書の簡陋 遺脫を補はん。元史 太宗紀 二年 庚寅「秋七月、帝自將南伐、皇弟 拖雷 皇姪 蒙哥 率㆑師從、拔㆓天成等堡㆒、遂渡㆑河攻㆓鳳翔㆒。」金史 哀宗紀 正大 七年「冬十月、平章政事 完顏 合達、樞密副使 移剌 蒲阿、同行㆓尙書省事于閿鄕㆒、以備㆓潼關㆒。」元史 十一月「師攻㆓潼關藍關㆒、不㆑克。十二月拔㆓天勝寨及韓城蒲城㆒。」金史 正大 八年「春正月、大元兵圍㆓鳳翔府㆒。遣㆓樞密院判官 白華 等㆒、諭㆓閿鄕行省㆒進㆑兵。合達 蒲阿 以㆑未㆑見㆓機會㆒不㆑行。復遣㆓白華㆒、諭㆓合達 蒲阿㆒、出㆑關以解㆓鳳翔之圍㆒。又不㆑行。」元史 三年 辛卯「春二月、克㆓鳳翔㆒、攻㆓洛陽河中諸︀城㆒下㆑之。」この文 誤れり。鳳翔の落ちたるは、四月に在り、河中の下れるは、十二月に在り、洛陽の下れるは、又その遙に後にあり。皆この年 二月の事にあらず。金史「夏四月、大元兵平㆓鳳翔府㆒。兩行省棄㆓京兆㆒、遷㆓居民於河南㆒。畱㆓完顏 慶山奴㆒守㆑之。」元史「五月、避㆓暑︀于九十九泉㆒、命㆓拖雷㆒出㆓師寶鷄㆒、遺㆓搠不罕㆒使㆑宋假㆑道、宋殺︀㆑之。」この搠不罕の事につき異說あり、前卷の第四四七頁〈[#「第四四七頁」は§251に相当。]〉に見えたり。「復遺㆓李國昌㆒使㆑宋需㆑糧。秋八月、幸㆓雲中㆒。」金史「九月、大元兵駐㆓河中府㆒。慶山奴棄㆓京兆㆒東還。召㆓合達 蒲阿㆒赴㆑汴、議㆔引㆑兵趨㆓河中㆒。懼不㆓敢行㆒、還㆓陝州㆒、出㆑師至㆓冷水谷㆒而歸。大元兵攻㆓河中府㆒。合達 蒲阿 遣㆓元帥王敢㆒、率㆓兵萬人㆒救㆑之。」元史「冬十月乙酉、帝圍㆓河中㆒。」金史「十一月丁未、大元進㆓兵嶢峯關㆒、由㆓金州㆒。而樞密院議㆓以㆑逸︀待㆑勞、未㆒㆑可㆓與戰㆒。上諭㆑之云云、乃詔㆓諸︀將㆒、屯㆓軍襄鄧㆒。」金州より進めるは、睿宗 拖雷なり。この奇兵の事は、睿宗の傳に詳かなり。元史「十二月己未、拔㆓河中㆒。」金史「十二月、河中府破、權簽樞密院事草火 訛可 死㆑之、元帥板子 訛可、提㆓敗卒三千㆒走㆓閿鄕㆒。詔赦㆓將佐以下㆒、杖㆓訛可㆒二百以死。合達 蒲阿 率㆓諸︀軍㆒入㆓鄧州㆒。元帥左監軍楊沃衍、忠孝軍總領 完顏 陳和尙、恆山公武仙、皆引㆑兵來會、出屯㆓順陽㆒。戊辰、大元兵渡㆓漢︀江㆒而北、丙子畢渡。合達 蒲阿 將㆑兵禦㆓于禹山之前㆒。大元兵分㆑道趨㆓汴京㆒、京師戒嚴。是夜二鼓、合達 蒲阿 引㆑軍還㆓鄧州㆒。大元兵躡㆓其後㆒、盡獲㆓其輜重㆒。天興元年春正月、大元兵道㆓唐州㆒。元帥 完顏 兩 婁室 與戰㆓襄城之汝墳㆒、敗績。兩 婁室 走㆓汴京㆒。癸未、合達 蒲阿 引㆑軍自㆓鄧州㆒赴㆓汴京㆒。丙戌、大元兵旣定㆓河中㆒、由㆓河淸縣白坡㆒渡㆑河。」元史 四年 壬辰「春正月戊子、帝由㆓白坡㆒渡㆑河。」丙戌は正月 五日、戊子は七日なり。五日に渡り始めて、七日に渡り終へたるにや。元史「庚寅、拖雷 渡㆓漢︀江㆒、遣㆑使來報。卽詔㆓諸︀軍㆒進發。」拖雷の漢︀江を渡れるは、去年 十二月 中旬なれども、正月 九日 庚寅に至り太宗の所にその報吿 達したるなり。元史「甲午、次㆓鄭州㆒。金防城提控馬伯堅降。授㆓伯堅金符㆒使㆑守㆑之。」金史「甲午、修㆓京城樓櫓及守禦備㆒。大元兵薄㆓鄭州㆒、與㆓白坡兵㆒合。屯軍元帥馬伯堅以㆑城降、防禦使。烏林荅 咬住 死㆑之。乙未、大元游騎至㆓汴城㆒。」元史「丙申大雪、丁酉又雪。次㆓新鄭㆒。是日、拖雷 及㆓金師㆒戰㆓于鈞州之三峯㆒、大敗㆑之、獲㆓金將 蒲阿㆒。戊戌、帝至㆓三峯㆒。壬寅、攻㆓鈞州㆒克㆑之、獲㆓金將 合達㆒、遂下㆓商虢嵩汝陝洛許鄭陳毫穎壽睢永等州㆒。」金史「丁酉大雪、大元兵及㆓兩省軍㆒、戰㆓釣州之三峯山㆒、兩省軍大潰。合達 陳和尙 楊沃衍走㆓鈞州㆒、城破、皆死㆑之。蒲阿 就㆑執、尋亦死。武仙走㆓密縣㆒。自㆑是兵不㆓復振㆒。辛丑、潼關守將李平、以㆑關降㆓大元㆒。庚戌、許州軍變、以㆑城降㆓大元㆒。二月甲寅、大元兵徇㆓臨渙㆒、攝縣令張若愚死㆑之。戊午、次㆓盧氏㆒。關陝行省總帥兩軍及秦藍帥府軍、棄㆓潼關㆒而東、與㆑之遇、天又大雪、未㆑戰而潰。行省 徒單 兀典 總帥 納合 合閨 敗死、完顏 重喜 降、斬㆓于馬前㆒。大元兵下㆓睢州㆒。乙丑、大元兵攻㆓歸德㆒。三月丁亥、大元軍平㆓中京㆒、畱守 撒合輦 投㆑水死。」平㆓中京㆒は誤れり。中京は、卽 洛陽にして、元史 下せる諸︀州の名を列記したる中に洛の字あるも[359]非なり。撤合輦 强伸の傳に據るに、この時 洛陽は圍まれたるのみにて、下らざりき。殊に强伸の苦戰して守りおほせたる忠勇の働きは、名高き談なりしをや。元史「三月、命㆓速不台 等㆒圍㆓南京㆒。金主遣㆓其弟曹王 訛可㆒入質、帝還、畱㆓速不台㆒守㆓河南㆒。夏四月、出㆓居庸㆒、避㆓暑︀官山㆒。」曹王 訛可は、哀宗の弟に非ず、哀宗の弟 荆王 守純の子なり。金史「大元遣㆑使自㆓鄭州㆒來諭㆑降。庚子、封㆓荆王子 訛可㆒爲㆓曹王㆒、議㆓以爲㆒㆑質。壬寅、尙書左丞李蹊送㆓曹王㆒出質。諫議大夫 裴滿 阿虎帶、太府監國世榮爲㆓講和使㆒。戶部侍郞楊慥、權㆓參知政事㆒、分㆑軍防㆓守四城㆒。大元兵攻㆓汴城㆒。上出㆓承天門㆒、撫㆓西面將士㆒。癸卯、上復出撫㆓東面將士㆒、親傳㆓戰傷者藥㆒。夏四月丁巳、遣㆓戶部侍郞楊仁㆒、奉㆓金帛㆒詣㆓大元兵㆒乞㆑和。戊午、又以㆓珍異㆒往謝㆑許㆑和。乙丑、百官初起㆓居于隆︀德殿前㆒。丁卯、汴京解㆑嚴、步軍始出㆓封丘門㆒采㆓薪蔬㆒。己巳、建威都尉 完顏 兀論、同㆓大元使 沒忒㆒入㆑城。庚午、見㆓使臣於隆︀德殿㆒。六月乙亥、左丞李蹊送㆓曹王㆒、與㆓其子仝㆒俱還。」)
そこにオゴダイ カガン斡歌歹 合罕は、ヤマヒ病にトリツ取附かれて、クチシタ口舌[のハタラキ用]をウシナ失ふほどヤマ艱まされたるをカンナギ師巫のウラナヒジヤ占者︀にウラナ占はせたれば、キタト乞塔惕のタミ民のツチミヅ地水のウシギミ主王だち(地主の神︀だち 水主の神︀だち、卽 山川の羣神︀)はジンミン人民 ヂウグ住具をカス掠められ、シロ城どもクニ郡どもをヤブ壞られて、キビ嚴しくタヽ祟れるなり。ジンミン人民 ヂウグ住具 コガネ金 シロカネ銀 バグン馬羣 リヤウシヨク糧食をミガハリ身替にアタ與へんとてハラ禳へば、ユル釋さずしてイヨ〳〵愈 キビ嚴しくタヽ崇れり。ウラカ親族のヒト人より[ミガハリ身替せば]ヨ可からんかとてハラ禳へば、[ユル釋したり。]カガン合罕 メ目をヒラ開きて、ミヅ水をモト索めてノ飮みて、「いかにナ爲れる」とト問はれて、カンナギ師巫 マウ奏さく「キタト乞塔惕のタミ民のツチミヅ地水のウシギミ主王たちはツチミヅ地水をヤブ壞られ、ジンミン人民 ヂウグ住具をカス掠められて、キビ嚴しくタヽ祟れるなり。ホカ別にナニ何にてもミガハリ身替にアタ與へんとてハラ禳へば、イヨ〳〵愈 キビ嚴しくスヽ漸みたり。ウカラ親族のヒト人より[ミガハリ身替せば]ヨ可からんかとイ云へば、ユル釋したり。イマ今 オホミコト聖旨 シロ知しめせ」とマウ奏せば、ミコト勅ありて「ミマヘ御前にミコダチ諸︀王よりタレ誰かある」とノリタマ宣へば、
トルイ拖雷のミコ王 ミマヘ御前にヰ居てマウ申さく「サイハヒ福︀あるチンギス カガン成吉思 合罕 ワレラ我等のミオヤ父は、カミ上にアニ兄だちシモ下に[360]オトヽ弟だちあるに、カガン イロセ合罕 兄をナガミコト爾をセンバ騸馬のゴト如くエバ選びて、カツヤウ羯羊のゴト如くハカ揣りて、オホ大きミクラヰ位にナ爾がミ身をナザ名指して、オホ多きクニタミ國民をナ爾がウヘ上にニナ擔はせてアタ與へたるぞ。ワレ我をこそは、カガン イロセ合罕 兄のミマヘ御前にヰ居て、ワス忘兀馬兒塔黑散れたるをコヽロヅ心附けて、ネム睡穩塔喇黑散りたるをヨビサマ喚覺してユ行けとオホ仰せられたりき。イマ今 カガン イロセ合罕 兄をナガミコト爾をウシナ失はば、ワレ我は、タレ誰のワス忘れたるをコヽロヅ心附け、カレ誰のネム睡りたるをヨビサマ喚覺さん。マコト實にマタ亦 カガン イロセ合罕 兄 ヨ吉からずならば、オホ多斡欒きモンゴル忙豁勒のクニタミ國民はミナシゴ孤兒斡捏亦咧坤とならん。キタト乞塔惕のタミ民はヨロコ喜乞卜慷渾ばん。カガン イロセ合罕 兄のカハリ代にワレ我 ナ爲らん。トル禿魯(魚の名)のセ脊をワレ我 サ割禿勒巴勒きたり。キレメ乞列篾(魚の名)のセ脊をワレ我 タ斷輕古勒ちたり。オモテ面亦列をワレ我 ウ打亦剌黑てり。ソトモ外面合荅をワレ我 サ刺合惕忽せり。(この四句を明譯は節︀約してアラユル有的 ツミハ罪業、スベテ都︀ ナリ是㆓ワガ我 ツクレル造來㆒。)カホ顏你兀兒 ウツク美しくセ脊你嚕溫 ナガ長くワレ我もあるぞ、(明譯ワレ我 マタ又 ウマレツキ生得 カホヨク好、ベシ可㆓以ツカヘマツル事㆒㆑カミニ神︀。尙書の金縢に、武王 疾ありて周公 身を以て代らんことを祈︀れる辭に「予仁若㆑考、能多㆑材多㆑藝、能事㆓鬼神︀㆒」と云へるも、この意に同じ。)カンナギ師巫 マジナ呪へノロ詛へ」とイ云ひて、カンナギ師巫 ノロ詛へば、ノロ詛ヘるミヅ水をトルイ拖雷のミコ王 ノ飮めり。シバラ暫くスワ坐りてイハ言く「ヱ醉ひたり、ワレ我。ワ我がヱヒ醉をサマ覺せるウチ內に(我が醉のまはらぬ閒に)、ミナシゴ孤兒どもヲサナゴ幼兒どもオトヽ弟どもヤモメ寡なるヨメ婦 ベルデ オイン別嚕迭 斡因に(譯語を知らず)イタ至るまでヤシナ養ふことをカガン イロセ合罕 兄 シロ知しめせ。」そのコトバ言をイ言ひヲ畢へ、「ワレ我 ヱ醉ひたり」とイ云ひて、イ出でてサ去りて、ヨ吉からずナ爲れるリイウ理由かくあり。(元史 太宗紀 に據れば、拖雷の薨じたるは、太宗 四年 九月なり。
睿宗の傳に、三峯山 鈞州 許州の戰の後に「遂從㆓太宗㆒、收㆓定河南諸︀郡㆒。四月、由㆓半渡㆒、入㆓眞定㆒、過㆓中都︀㆒、出㆓北口㆒、住㆓夏于官山㆒。五月、太宗不豫、六月疾甚。拖雷禱㆓于天地㆒、請㆓以㆑身代㆒㆑之、又取㆓巫覡祓除釁滌之水㆒飮焉。居數日、太宗疾愈、拖雷從㆑之北還、至㆓阿剌合的思 之地㆒、遇㆑疾而薨。壽四十有□。」喇失惕の史に四十歲と云[361]へるに據れば、この闕字は、必ず一の字なるべし。「妃 怯烈 氏、子十一人。長憲宗、次四則世祖︀也。憲宗立、追諡曰㆓英武皇帝㆒、廟號㆓睿宗㆒。二年、合㆓祭昊天后土㆒、以㆓太祖︀睿宗㆒配享。世祖︀至元二年、改諡㆓景襄皇帝㆒。」祭祀志 一「憲宗之二年秋八月八日、始以㆓冕服㆒拜㆓天於日月山㆒、其十二日、合㆓祭昊天后土㆒、始大合㆑樂、作㆓牌位㆒、以㆓太祖︀睿宗㆒配享。」祭祀志 三「武宗至大二年十月、以㆑將㆑加㆓諡太祖︀睿宗㆒、擇㆑日請㆓太祖︀睿宗尊諡于天㆒、改㆓製金表神︀主㆒、題㆓寫尊諡廟號㆒。十二月乙卯、親享㆓太廟㆒、奉㆓玉册玉寶㆒、加㆓上太祖︀聖武皇帝尊諡㆒曰㆓法天啓運㆒、加㆓上睿宗景襄皇帝㆒曰㆓仁聖㆒、」
拖雷の身替りの事は、喇失惕の史にも記せり。只 禱りの辭は、祕史と稍 異なり。「拖里は、斡歌台の床に近づき、師巫の聖水を盛れる木の器︀を捧げて、神︀に白さく「常世の大神︀よ。もし爾は人の罪に隨ひて罰なふならば、我は斡歌台よりも多く罰なはるべきことを爾は知り給はん。我は、軍にて多くの民を殺︀せり。我は、多くの女ども兒どもを驅り立てたり。我は多くの父ども母どもに淚を流させたり。もし爾は爾の羣僕の中よりその美好の爲に召し上げんとならば、我は又 斡歌台よりも立派なるを主張せん。斡歌台の代りに我を取りて、彼の病を我に移し給へ」と祈︀りたれば、斡歌台は疾 愈えて、拖里は久しからず歿りぬ」とあり。)
§273(12:25:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かくてアルタン カン阿勒壇 罕をキハ窮めて、セウセ薛兀薛(明譯、小厮 卽 こもの)とイ云ふナ名をアタ與へて、カレ彼のコガネ金 シロカネ銀 キン金ありアヤ紋あるオリモノ織物 タカラ財 アラシヤス阿剌沙思(明譯ワイバ淮馬)セウセス薛兀薛思(小者︀ども)をヲサ收めて、サキテ先手のタンマチン探馬臣をオ置きて、ナンキン南京 チウト中都︀のトコロドコロ處處にシロ城のウチ裏にダルガチン荅嚕合臣をオ置きて、タヒラ平けくカヘ回りて、カラ ゴルム合喇 豁嚕木にゲバ下馬せり。(
探馬臣は、探馬赤とも云ふ。荅嚕合臣を荅嚕合赤とも云ふが如し。元史 兵志 一に「若㆓夫軍士㆒、則初有㆓蒙古 軍 探馬赤 軍㆒。蒙古 軍皆國人、探馬赤 軍則諸︀部族也。」兵志 二 鎭戍の條に「世祖︀之時、海︀宇混一、然後命㆓宗王㆒將㆑兵鎭㆓邊徼襟喉之地㆒。河洛山東據㆓天下腹心㆒、則以㆓蒙古 探馬赤 軍㆒、列㆓大府㆒以屯㆑之」とあれば、探馬赤 軍は、藩地に鎭戍する諸︀部族の兵にして、探馬臣の官は、その將帥なり。
闊闊不花の傳に「歲庚寅、太祖︀㆓命太師 木華黎㆒伐㆑金、分㆓探馬赤㆒爲㆓五部㆒、各置㆓將一人㆒、闊闊不花 爲㆓五部前鋒都︀元帥㆒、云云。歲丙申、太宗命㆓五部將㆒、分鎭㆓中原㆒、闊闊不花鎭㆓益都︀濟南㆒、按察兒 鎭㆓平陽太原㆒、孛羅 鎭㆓眞定㆒、肖乃台 鎭㆓大名㆒、怯烈台 鎭㆓東平㆒。」庚寅は、戊寅(太祖︀ 十三年)の誤なり。木華黎の傳に「丁丑(太祖︀ 十二年)八月、詔封㆓太師國王㆒、云云。分㆓弘吉剌 亦乞烈思 兀魯兀 忙兀 等十軍、及 吾也 而 契丹 蕃漢︀等軍㆒、竝屬㆓麾下㆒〈[#返点の「一」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉」とある契丹 蕃漢︀等軍は、卽 探馬赤 軍にて、親征錄 集史は、皆この事を戊寅の年(卽 西紀 一二一八年)の事とせり。「丙申(太宗八年)、命㆓五部將㆒分鎭㆓中原㆒」は、卽 本書 探馬臣を置くの事なり。この五部將の名は、兵志 一 世祖︀ 中統 三年 三月の詔に「眞定 彰德 那州 洛 磁 東平 大名 平陽 太原 衞輝懷孟等路各處、有㆘舊屬㆓按札兒、孛羅、笑乃䚟、闊闊不花、不里合 拔都︀兒 等官所管㆒探馬赤 軍人㆖、乙卯歲(憲宗 五年)籍爲㆓民戶㆒、云云、」石高山の傳に「昔太祖︀皇帝所集 按察兒 孛羅 窟里台 孛羅海︀ 拔都︀ 闊闊[362]不花 五部 探馬赤 軍、金亡之後、散㆓居牧地㆒、毎多有㆘入㆓民籍㆒者︀㆖」とありて、名 互に異なり。按察兒は卽 按札兒にて、元史に傳あり、「歲己卯(太祖︀ 十四年)、兵北還、以㆓按札兒㆒統㆓所部兵㆒、屯㆓平陽㆒以備㆑金。歲甲午(太宗 六年)金亡、詔㆓封功臣㆒、賜㆓平陽戶六百有餘㆒」とあり。孛羅は、木華黎の子 孛魯なるべし。肖乃台は、卽 笑乃䚟にして、元史 肖乃台の傳 に、木華黎に從ひ金を伐ち、大名 東平を定め、「太宗賜㆓東平戶三百㆒、俾㆑食㆓其賦㆒、以㆓老病㆒卒㆓于東平㆒」とあり。錢大昕の諸︀史 拾遺に曰く「怯烈台、卽 窟里台。不里合 拔都︀兒、卽 孛羅海︀ 拔都︀。或有㆓肖乃台㆒、而無㆓不里合㆒、或有㆓窟里台㆒、而無㆓肖乃台㆒。似㆑當㆘以㆓兵志㆒爲㆖㆑正。蓋 肖乃台、本 禿伯怯烈 氏、故又有㆓ 怯烈台 之稱㆒。或稱㆓肖乃台㆒、或稱㆓怯烈台㆒、其實卽一人耳。史家疑㆘孛羅海︀ 與㆓孛雜㆒爲㆗重出㆖、故 闊闊不花 傳、誤分㆓怯烈台㆒、以當㆓五人之數㆒。今依㆓兵志㆒作㆓不里合㆒、則犂然有㆑別矣。」不里合 拔都︀兒は、元史に傳なし。││
太宗の金を平げたることは、元史 太宗紀 四年 壬辰「秋 七月、遣㆓唐慶㆒使㆑金諭㆑降、金殺︀㆑之。」金史 哀宗紀 天興 元年 七月「甲申、飛虎軍士申福︀蔡元擅殺︀㆓北使唐慶等三十餘人于館︀㆒。詔貰㆓其罪㆒、和議遂絕。乙未、宿州帥 眾僧︀奴 稱㆓國安用降㆒。遣㆓近侍直長因世英等㆒、持㆑詔封㆓安用㆒爲㆓兗王㆒、行㆓京東等路尙書省事㆒、賜㆓姓 完顏㆒、改㆓名用安㆒。丙午、參知政事 完顏 思烈 恆山公武仙、率㆓諸︀將兵㆒、自㆓汝州㆒入援。以㆓合喜㆒爲㆓樞密使㆒、將㆓兵一萬㆒應㆑之。」元史「八月、金參政 完顏 思烈 恆山公武仙救㆓南京㆒。諸︀軍與戰敗㆑之。」金史「八月辛亥、完顏 思烈 遇㆓大元兵于京水㆒、遂潰。武仙退保㆓畱山㆒、思烈 走㆓御寨㆒、合喜 棄㆓輜重㆒奔入。甲寅、免㆓合喜㆒爲㆓庶人㆒。」元史「九月、拖雷 薨、帝還㆓龍庭㆒、冬十一月、獵㆓于 納蘭 赤剌溫 之野㆒。十二月、如㆓太祖︀行宮㆒。」金史「十二月甲申、以㆓事勢危急㆒、詔議㆓親出㆒。乙酉、再議㆓於大慶殿㆒、除㆓拜扈從及畱守京城官㆒。庚子、上發㆓南京㆒、二年正月丙午朔、濟㆑河。辛亥、平章政事 白撒 引㆑兵攻㆓衞州㆒、不㆑克。乙卯、聞㆘大元兵自㆓河南㆒渡㆑河、至㆗衞之西南㆖、遂退㆑師。丁巳、戰㆓于白公廟㆒、白撒 敗績、棄㆑軍東遁。己未、上以㆓白撒 謀㆒、夜棄㆓六軍㆒、渡㆑河走㆓歸德㆒。壬戌、召㆓白撒㆒數㆓其罪㆒下㆓之獄㆒、七日死㆓獄中㆒。」元史「五年癸巳春正月庚申、金主奔㆓歸德㆒。戊辰、金西面元帥崔立、殺︀㆓畱守 完顏 奴申 完顏 習捏阿不㆒、以㆓南京㆒降。」金史「戊辰、京城西面元帥崔立擧㆑兵爲㆑亂、殺︀㆓參知政事 完顏 奴申 樞密副使 完顏 斜捻阿不㆒、遂送㆓款大元軍前㆒。癸酉、大元將 碎不䚟 進㆓兵汁京㆒。」元史「夏四月、速不台 進至㆓靑城㆒。崔立以㆓金太后王氏后 徒單 氏及荆王從恪梁王守純等㆒至㆓軍中㆒。速不台 遣送㆓行在㆒、遂入㆓南京㆒。」金史「夏四月癸巳、崔立以㆓梁王從恪荆王守純及諸︀宗室男女五百餘人㆒至㆓靑城㆒、皆及㆓於難︀㆒。甲午、兩宮北選。」任大椿 曰く「按㆓金史哀宗紀及劉祁歸潛志㆒、荆王梁王皆遇㆓害于靑城㆒、其北遷者︀、止兩宮耳。此紀(元史 太宗紀)所載、似㆘二王亦與㆓兩宮㆒同送㆗行在㆖矣。又金史作㆓梁王從恪荆王守純㆒。此稱㆓荆王從恪梁王守純㆒、或傳寫之誤。」金史「六月壬午、中京破、畱守 强伸 死㆑之」元史 本紀は、この事を書き漏せり。元史「六月、金主奔㆑蔡、塔察兒 率㆑師圍㆑之。」金史「六月辛卯、上發㆓歸德㆒、己亥、入㆓蔡州㆒、九月甲戌、大元使王檝諭㆑宋還、宋以㆑軍護㆓其行㆒。乙酉、大元召㆓宋兵㆒、攻㆓唐州㆒破㆑之。九月癸卯朔、遣㆓內族 阿虎帶㆒使㆑宋借㆑糧、宋不㆑許。辛亥、大元兵築㆓長壘㆒、圍㆓蔡城㆒。」元史「冬十一月、宋遣㆓荆鄂都︀統孟珙㆒、以㆓兵糧㆒來助。」金史「十一月、宋遣㆓其將江海︀孟珙㆒、帥㆓兵萬人㆒、獻㆓糧三十萬石㆒、助㆓大元兵㆒攻㆑蔡。」元史「十二月、諸︀軍與㆓宋兵㆒合攻㆑蔡。」金史「十二月丁丑、大元兵決㆓練︀江㆒、宋兵決㆓柴潭㆒、入㆓汝水㆒。己卯、大元兵破㆓外城㆒、己丑墮㆓西城㆒。」元史「六年甲午春正月、金主傳㆓位于宗室子承麟㆒、遂自經而焚。城拔、獲㆓承麟㆒殺︀㆑之。宋兵取㆓金主餘骨㆒以歸。金亡。」金史「三年正月戊申夜、上集㆓百官㆒、傳㆓位于東面元帥承麟㆒。己酉、承麟卽㆓皇帝位㆒百官稱㆑賀、禮畢、亟出捍㆑敵、而南面已立㆓宋幟㆒。俄頃、四面呼聲震㆓天地㆒、南面守者︀棄[363]㆑門。大軍入、與㆓城中軍㆒巷戰。城中軍不㆑能㆑禦、帝自縊㆓于幽蘭軒㆒。未帝退保㆓子城㆒、聞㆓帝崩㆒、率㆓羣臣㆒入哭、諡曰㆓哀宗㆒。哭奠未㆑畢、城潰、諸︀禁近擧㆑火焚㆑之。奉御 絳山 收㆓哀宗骨㆒、瘞㆓之汝水上㆒。末帝爲㆓亂兵所害㆒。金亡。」その月、金の息州の行省 抹撚 兀典は宋に降らんとして、蒙古の兵に追殺︀され、二月、完顏 用安は、徐州を取られて自殺︀し、五月、武仙は、澤州に奔りて戌兵に殺︀され、六月、崔立は、部下に殺︀され、明年 十月、鞏昌の總帥 汪世顯は、蒙古に降り、金の餘黨 全く盡きたり。││
合喇豁嚕木は、漢︀人の口にはハラ ホリム哈剌 和林と云ひ、元史 地理志に哈剌 和林 河あり、常には略きて和林城 和林河と云へり。親征錄に「乙未(太宗 七年)建㆓和林 城宮殿㆒、丙申(八年)入慶㆓和林 城宮㆒。」元史 太宗紀に「七年乙未春、城㆓和林㆒、作㆓萬安宮㆒。八年丙申春正月、諸︀王各治㆑具來會、宴㆓萬安宮落成㆒。」耶律 楚材の湛然 居士 集に和林城 建㆓行宮㆒上梁の文あり、乙未 年三月祭㆓姪女㆒文の後に載せたり。又 地理志にその建置 沿革を述べて、「和寧路、始名㆓和林㆒。以㆔西有㆓哈剌 和林 河㆒、因以名㆑城。太祖︀十五年、定㆓河北諸︀郡㆒、建㆓都︀於此㆒。初立㆓〈[#直前の返点「二」は底本では返点「一」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉元昌路㆒、後改㆓轉運 和林 使司㆒、前後五朝都︀焉。世祖︀中統元年、遷㆓都︀大興㆒、和林 置㆓宣慰司、都︀元帥府㆒。後分㆓都︀元帥府於金山之南㆒、和林 止設㆓宣慰司㆒。至元二十七年、立㆓和林 等處都︀元帥府㆒。大德十一年、立㆓和林 等處行中書省㆒、罷㆓和林 宣慰司、都︀元帥府㆒、置㆓和林 總管府㆒。皇慶元年、改㆓嶺北等處行中書省㆒。改㆓和林 路總管府㆒、爲㆓和寧路總管府㆒」とあり。百官志 六に「國初、太祖︀定㆓都︀于 哈剌 和林 河之西㆒、因名㆓其城㆒曰㆓和林㆒」と云へるは、東を西と誤れり。
又 和林の建都︀を太祖︀ 十五年としたるも誤れり。沈垚の西遊記 金山 以東 釋に曰く「按、十五年、太祖︀在㆓西域㆒、春三月克㆓蒲華 城㆒、夏五月克㆓尋思干 城㆒、駕未㆓中回㆒、安得㆑有㆓都︀城之建㆒。又十五年歲次㆓庚辰㆒、正長春眞人由㆓燕京㆒往㆓德興㆒之歲。西遊記云「師聞㆓行宮漸西㆒、春秋已高、欲㆘待㆓駕回㆒朝謁︀㆖。」則自㆔前年征㆓西域㆒後、駕實未㆓嘗中回㆒也。且太祖︀所㆑居之見㆓於紀㆒者︀、六年春帝居㆓怯綠連 河㆒、十一年春居㆓廬胊 河行宮㆒、十九年由㆓西域㆒班㆑師、二十年春正月還㆓行宮㆒、二十二年秋七月崩㆓于 薩里川 哈老徒 之行宮㆒。本紀中不㆑見㆑有㆓和林 之名㆒、安得㆑謂㆔和林 爲㆓太祖︀所㆒㆑建。太宗元年秋八月、諸︀王百官大會㆓于 怯綠連 河 曲雕 阿蘭 之地㆒、以㆓太祖︀遺詔㆒卽㆓皇帝位㆒、亦不㆑言㆓和林㆒。二年春、帝與㆓拖雷㆒獵㆓于 斡兒寒 河㆒、夏避㆓暑︀于 塔密兒 河㆒、則始在㆓和林 左右㆒。嗣㆑是六年春、會㆓諸︀王㆒宴㆓射于 斡兒寒 河㆒、而七年春、遂城㆓和林㆒、作㆓萬安宮㆒。和林 建㆑都︀、實始㆓太宗㆒、非㆑由㆓太祖︀㆒矣。」然れども地理志の誤は、偶然の事に非ず。元の世より已に太祖︀ 建都︀の說ありて、明宗紀に、天曆 二年 明宗 潔堅 察罕の地に駐まれる時、四月 乙巳 監察 御史の上言に「嶺北行省、控㆓制一方㆒、廣輪萬里、實爲㆓太祖︀肇㆑基之地㆒。國家根本繫㆑焉。方面之寄、豈可㆓輕任㆒。云云」とあり、また許有壬の至正集に見えたる勅賜 興元閣 碑の文には、太祖︀ 十五年 奠都︀の事を明に記したれば、地理志は蓋それに依りて誤れるなり。その文に曰く「太祖︀聖武皇帝之十五年歲在庚辰、定㆓都︀ 和林㆒。太宗皇帝始建㆓宮闕㆒、梵宇基而未㆑屋。憲宗繼述、歲丙辰作㆓大 浮屠㆒、覆以㆓傑閣㆒。閣五級、高三百尺。其下四面爲㆑屋各七閒、環㆓列諸︀佛㆒、具如㆓經旨㆒、至正壬午、皇上敕㆓怯怜 府同知今武備卿 普達失理、曁嶺北行中書省右丞今宣政院使 月魯 帖木兒㆒、專督重修、周㆑塔塗㆑金、閣中邊頂踵若墄平、髹堊靡㆑不㆓堅麗㆒。賜㆑名曰㆓興元之閣㆒。」
和林の位置につきては、歐陽玄の高昌 偰氏 家傳に「和林 有㆓三水㆒焉。一竝㆓城南山㆒東北流、曰㆓斡耳汗㆒。一經㆓城西㆒北流、曰㆓和林 河㆒。一發㆓西北㆒東流、曰㆓忽魯班 達彌爾㆒。三水距㆓城北㆒三十里合流、曰㆓楔輦傑 河㆒。」斡耳汗 河は、卽 太宗紀の斡兒寒 河にして、今の鄂兒坤 河なり。和林 河は、地理志の哈剌 和林 河にして、水道 提綱の朱爾馬台 河、[364]蒙古 遊牧記の濟爾瑪台 河なり。提綱に曰く「朱爾馬台 河、源出㆓額黑鐵木兒山南麓㆒、東北流、曲曲二百餘里、瀦爲㆑池、曰㆓察罕 鄂模㆒、廣數十里、又東北流百里。有㆓布勒哈爾台 河㆒、南自㆓達爾湖 喀喇 巴哈孫 地之池水㆒東北流來會、又東北入㆓鄂爾坤 河㆒。」察罕 鄂模の鄂模は、滿洲語の池にして、蒙古語にては察罕 納兀兒と云ふ。卽 白き湖水なり。忽魯班 達彌爾は、三つの塔米兒にして、卽 太宗紀の塔密兒 河なり。それを三 塔米兒としも云へるは、蓋 三大源の合流せるか、三道に分流せる所あるかに因れるならん。偰氏 家傳の文に據れば、和林の地は、塔米兒 河の南に當り、鄂兒坤 河と札兒曼台 河との閒に挿まりて、今の賽音諾顏 部 附牧 額魯特 旗の北境にありしなり。「三水距㆓城北㆒三十里合流」とあるは、鄂兒坤 河の札兒曼台 河を幷せ、又 北に流れて、塔米兒 河を幷するを云ふ。沈垚 曰く「三水會合の地、計去㆓和林 城㆒、約有㆓三百里㆒。而偰氏家傳謂㆓三十里㆒、傳寫誤耳。」偰輦傑 河は、今の色楞格 河なり。鄂兒坤 河は、塔米兒 河を幷せて後も、鄂兒坤と云ひて、色楞格とは云はず。高寶銓 曰く「三水合流、當㆘指㆔塔米爾 會㆓於 鄂爾坤㆒而言㆖。而曰㆓偰輦傑㆒者︀、鄂爾坤 下合㆓色楞格 河㆒、互受㆓通稱㆒矣。」
又 西遊記に、長春は、太祖︀ 十六年 五月、陸局 河(客嚕倫 河)を離れてより西に行くこと十日にして「漸見㆓大山峭拔㆒。從㆑此以西、漸有㆓山阜㆒、人烟頗眾、云云。又四程、西北渡㆑河、乃平野。其旁山川皆秀麗、水草且豐美。東西有㆓故城㆒、基趾若㆑新、街衞巷陌可㆑辨。制作類︀㆓中州㆒、歲月無㆓碑刻可㆒㆑考。或云「契丹所㆑建。」旣而地中得㆓古瓦㆒、上有㆓契丹字㆒。蓋遼亡、士馬不㆑降者︀、西行所建城邑也。」張德輝の塞北 紀行に云く「自㆓黑山之陽㆒西南行九驛、復臨㆓一河㆒、北語云㆓渾 獨剌㆒、漢︀言兔兒也。遵㆑河而西行一驛、有㆓契丹 所築故城㆒。城方三里、背㆑山面㆑水。自㆑是水北流矣。自㆓故城㆒西北行三驛、過㆓畢兒紀都︀㆒、乃工匠積養之地。又經㆓一驛㆒、過㆓大澤泊㆒。周廣約六七十里、水極澂徹、北語謂㆓吾悞竭 腦兒㆒。自㆓泊之南㆒而西、分㆑道入㆓和林 城㆒、相去約百餘里。泊之正西有㆓小故城㆒、亦 契丹 所築也。繇㆑城四望、地勢平曠可㆓百里㆒。外皆有㆑山、山之陰多㆓松林㆒。瀕㆑水、則靑楊叢柳而已。中卽 和林 川也。居人多事㆓耕稼㆒、悉引㆑水灌㆑之、閒亦有㆓蔬圃㆒。繇㆓川之西北㆒行一驛、過㆓馬頭山㆒。居人云「上有㆓大馬首㆒、故名㆑之。」百㆓馬頭山之陰㆒、轉而復西南行、過㆓忽蘭 赤斤㆒、乃奉部曲民匠種藝之所。有㆑水㆑曰㆓塌米 河㆒注㆑之。東北又經㆓一驛㆒、過㆓石堠㆒云云。自㆓堠之西南㆒行三驛、過㆔一河曰㆓唐古㆒。其水亦東北流。水之西有㆓峻嶺㆒。嶺之石、皆鐵如也。嶺陰多㆓松林㆒。其陽、帳殿在焉、乃避㆑夏之所也。」忽蘭 赤斤の自注に「山名、以㆔其形似㆓紅耳㆒也」とあり。渾 獨剌 河は、卽 渾れる禿剌 河、塌米 河は、卽 塔米兒 河なり。禿剌を兔兒と譯したるの當否は知らねども、蒙古語に兔を禿來と云ふ。沈垚 曰く「過㆓兔兒河㆒而西、又行一驛、然後至㆓契丹 故城㆒、則城當㆑在㆓喀魯哈 河之西、土謝圖 汗本旗之東北㆒。」又曰く「眞人所渡之河、當㆓是 鄂勒昆 河㆒也。云㆘山川秀麗、故城地中得㆓古瓦㆒、有㆗契丹 字㆖、則已在㆓和林 側近㆒。而不㆑言㆓和林㆒者︀、是時實未㆑建㆑都︀、故無㆓和林 之目㆒也。」又 曰く「西游記言㆘東西有㆗故城㆖。東故城、卽紀行過㆑河而西行一驛之 契丹 故城。西故城、卽紀行 腦兒 正西之小故城。蓋東西之言、所㆑兼頗廣。秀麗之云、實兼㆓指今 鄂勒昆 河東西兩岸㆒矣。」紀行の吾悞竭 腦兒は、喇篤羅甫の蒙古 考古圖の第八十二幅 鄂兒歡 科克申 鄂兒歡 地圖の兀格依 諾兒なり。
この湖水は、鄂兒歡 河の東 三 英里に在り。その水西に出で、南より流れくる科克申 鄂兒歡 河を幷せて、哈羅 河となり、西に流れて鄂兒歡 河に入る。その入る處は、塔米兒 河の鄂兒歡 河に入る處より一 英里 餘 南 卽 上流に在り。沈垚は「吾悞竭 腦兒、卽 今 察罕 池。池西南百餘里、實元 和林 城所在矣」と云ひて、張穆 高寶銓は、皆それに從ひたれども、その考は誤れり。吾悞竭と察罕と音の似[365]ざるのみならず、察罕 池の西南に和林ありとすれば、和林は札兒曼台 河 卽 和林 河の西に在ることとなりて、偰氏 家傳の「和林 河經㆓城西㆒北流」の文に合はず。
察罕 池の事は、太宗紀に「九年春、獵㆓于 揭揭 察哈 之澤㆒、夏四月、作㆓迦堅 茶寒 殿㆒、」十一年 春、十三年 春 二月にも「獨㆓于 揭揭 察哈 之澤㆒、」憲宗紀 三年 四年の春「帝獵㆓于 怯蹇 叉罕 之地㆒、」明宗紀「天曆二年三月戊午朔、次㆓潔堅 察罕 之地㆒」などありて、地理志 和寧路の原注に「迦堅 茶寒 殿、在㆓和林 北七十餘里㆒」と見えたり。錢大昕の考異に「揭揭 察哈、卽 迦堅 茶寒 也。譯㆑音無㆓定字㆒」と云ひ、怯蹇 叉罕も潔堅 察罕も、皆 同音の異譯なれば、沈垚は「殿以㆑澤得㆑名。殿在㆓和林 城北七十餘里㆒、澤亦當㆓相近㆒。罕罕 池之卽 揭揭 察哈 澤、無㆑可㆑疑矣」と云へり。蓋 今の察罕は、揭揭 察罕の上略ならん。然らば和林 城は、察罕 池の南に在りけんこと、地理志に由りて證すべし。猶 精︀しく云へば、察罕 池の上流なる和林 河の東にありしこと、偰氏 家傳に由りて明なれば、むしろ察罕 池の東南に在りしなり。
唐古 河の西に峻嶺ありて、「嶺陰多㆓松林㆒」と云へるは、西游記の「至㆓長松嶺後㆒宿。松檜森森、干㆑雲蔽㆑日、多生㆓山陰㵎道閒㆒、山陽極少」とあるに善く似たれば、張德輝の見たる峻嶺は、卽 長松嶺なるが如し。されども「其陽、帳殿在焉、乃避夏之所也」とあるは、長春の到りし乃滿 國の窩里朶とは異なり。沈垚 曰く「紀行、繇㆓和林 川㆒往㆓避夏處㆒、但行五驛。而記、自㆔六月十三日宿㆓長松嶺㆒、至㆓二十八日㆒、方泊㆓窩里朶 之東㆒、凡行十五六日。是時寫里朶、亦是駐夏處、而遠近不㆑同者︀、蓋張參議于㆓定宗丁未年㆒、應㆓世祖︀潛邸之招㆒、所㆑往者︀、定宗駐夏之地、眞人當㆓太祖︀時㆒、所㆑往者︀、大祖︀皇后駐夏之地、故不㆑同矣。」更に西人の記載を考ふるに、和林の名を喇失惕は合喇 闊嚕木と云ひ、祕史の合喇 豁嚕木と甚 近し。嚕卜嚕克 馬兒科 保羅は、合喇 闊舌欒と云へり。喇失惕は「合喇 闊嚕木は、山の名にして、その山より城の名を取れり」と云ひ、
元史 巴而朮 阿而忒 的斤の傳に和林 山とあるも、哈剌 和林 山の上略にして、卽 合喇 豁嚕木の山なり。合喇 豁嚕木は、黑き徑の義、卽 樹木 茂りて路 闇きことにて、我國のくらやみ坂などに似たる語なれば、山の名は本にして、それより河の名となり、遂に都︀の名となれるならん。
訶倭兒思の蒙古史に舊史の說を引きて、「斡歌台の新しき宮殿は、支那風の雕刻 繪畫を以て精︀しく飾られ、周圍に園ありて、門 四つあり。合罕と皇族と宮女と公眾との出入を分てり。皇宮の外に大臣の宅あり、又その外に大なる市街あり。合罕は、それを斡兒都︀ 巴里克(斡兒朶の城)と名づけたれども、普通には喀喇 科嚕木と呼べり。一二三五年(太宗 七年)、その周圍に半リーグほどの壁を廻せり。皇室の需用と給與との爲に、帝國の諸︀處より貨車 五百輛づゝ毎日そこに到着せり。三十七の驛亭の傳馬は、その城を支那に結び附けたり。
斡歌台は、喀喇 科嚕木にたゞ春の一月だけ住み、餘の二月は一日路 隔たれる客兒惕 察干に住めり。そこには珀兒沙の工匠ども、支那人の築ける喀喇 科嚕木の宮殿に劣らざる宮殿を築きたりき。夏は斡兒篾克禿阿に到り、金襴にて緣 取りたる白き毛氈より成れる支那風の假屋に住めり。この天幕は、千人を容れらるゝほど大きくして、昔喇 斡兒都︀(卽 失喇 斡兒朶、黃なる行宮)と名づけられたり。秋は科衣揭の湖の畔に一月を送れり。冬は大に獵する季節︀にて、斡歌台は翁奇に居り、そこに周二リーグの所を土と橛との圍ひにて取圍み、その中に獸を追入るゝ樣にせり。」客兒惕 察干の宮殿は、卽 迦堅 茶寒 殿にして、察罕 諾兒の邊に設けたる離宮なりき。
斡兒篾克禿阿の避暑︀は、憲宗紀にも「四年夏、幸㆓月兒滅怯 之地㆒、」「五年夏、帝幸㆓月兒滅怯土㆒、」「七年夏六月、謁︀㆓太祖︀行宮㆒、還幸㆓月兒滅怯土㆒」などあり。[366]又「六年春、帝會㆓諸︀王百官于 欲兒陌哥都︀ 之地㆒、設㆑宴六十餘日、賜㆓金帛㆒有㆑差」とある欲兒陌哥都︀も、欲兒滅怯土の訛ならん。その年「夏四月、駐㆓蹕于 荅密兒㆒、五月、幸㆓昔剌 兀魯朶㆒」とある昔剌 兀魯朶は卽 失喇 斡兒朶にして、天幕の名は、その天幕の毎年 設けらるゝ所の名とも爲れるなり。郝 和尙 拔都︀の傳に「甲辰、朝㆓定宗於 宿瓮都︀ 之行宮㆒」とある宿瓮都︀も、失喇 斡兒朶の訛ならん。張德輝の紀せる、唐古 河の西なる峻嶺の陽に在りし避夏の帳殿は、卽 欲兒滅怯土の黃帳なるべし。科衣揭の湖は、揭揭 察哈 澤の揭揭にも似たれども、その澤の事は、前に客兒惕 察干とあれば、
これは、憲宗紀四年の所に「是歲、會㆓諸︀王于 顆顆 腦兒 之西㆒、乃祭㆓天于月出山㆒」とある顆顆 腦兒の訛なるべし。顆顆 腦兒 卽 闊闊 納兀兒は、靑き湖の義にして、察罕 納兀兒 卽 白湖と同じく、處處に同じ名の湖あり。不兒罕 嶽の南麓にも靑湖あり、甘肅の西境の外にある靑海︀も卽 靑湖なれども、皆これとは異なり。王禕の日月山 祀㆑天頌に「日月山、國語云㆓阿剌溫山㆒、在㆓和林 之北㆒」と云へれば、この靑湖も和林の北に在るべし。又 憲宗紀に「七年秋、駐㆓蹕于軍 腦兒㆒、釃㆓馬乳㆒祭㆑天」とある軍 腦兒の軍は、闊闊と音 異なれども、同じく祭天の所なるを見れば、顆顆 腦兒と同じきかとも思はる。三年の所にも「秋、幸㆓軍 腦兒㆒」とありて、軍 腦兒の行幸はいつも秋なれば、含篾兒の「秋は科衣揭の湖の畔に」と云へるにも合へり。
又 冬の獵場なる翁奇は、憲宗紀に「三年冬十二月、帝駐㆓蹕 汪吉地㆒」とある地なり。定宗紀に「元年秋七月、卽㆓皇帝位于 汪吉 宿滅禿里 之地㆒」とあるは、汪吉の宿滅禿里の地なるべし。耶律鑄の雙溪醉隱集に「三月到㆓旺結 河㆒有㆑感」の詩あり、淸 一統志に朔漠圖を引きて「和林 南有㆓旺吉 河㆒」と云へり。旺結 河 旺吉 河は、卽 今の翁金 河にして、蒙古 游牧記に「翁金 亦 作㆓翁吉㆒」と云ひ、平定 準噶爾 方略には翁吉 地方ともあり。
然らば多遜の翁奇、元史の汪吉は、今の翁金 河の濱、むしろ翁金 河の上流の山地なるべし。歐囉巴 人にて和林の事を始めて記したるは、普剌諾 喀兒闢尼なり。この旅僧︀は、囉馬 敎主 因諸︀肯惕 第四の命を奉じて、一二四六年(定宗 元年)西暦 七月 二十二日、蒙古の昔喇 斡兒都︀に達し、そこに開かれたる定宗 卽位の大會に參列し、紀行を著︀して、王會の盛況を述べたり。喀兒闢尼は、和林の地をば踏まざれども、その地の事をも傳聞に依りて記せり。大會の開かれたる昔喇 斡兒都︀は、欲兒滅怯土の黃帳とすれば、定宗紀に汪吉 宿滅禿里とあるに合はず。喀兒闢尼は、目に賭たる事を述べて誤なかるべければ、定宗紀の地名は誤れるにや。又はこの時 失喇 斡兒朶 卽 黃帳を汪吉の地に設けて卽 汪吉の地をも失喇 斡兒朶と云へるにや。猶 考ふべし。
嚕卜嚕克は、佛㘓思 王 路易 第九の命を奉じて、一二五三年(憲宗 三年)の末に和林に至れり。その紀行に云く「合喇 闊舌欒の都︀は、聖 迭尼思の町ほど好くはあらず。その宮殿に較ぶれば、聖 迭尼思の寺は十倍 好し。そこに大街 二つあり。一つには撒喇先 人 住み、その中に市場あり。一つには支那 人 住み、それらは皆 工匠なり。二街の外に朝貴の大なる邸宅あり。又 諸︀宗の佛堂 十二、抹哈篾惕敎の寺 二つ、町のはてに基督敎の寺 一つあり。町は土の壁にて取圍まれ、門 四つあり。東の門にては黍 雜穀︀を賣れども、供給 豐ならず。西の門にては羊 山羊、南の門にては牛車、北の門にては馬を賣る。城壁の傍に大なる離宮あり。甎の壁にて取捲かれ、內に大殿あり。一年に二たびそこに酒宴を催さる。又 倉廩の如き長き建物 幾棟もありて、合罕の財貨と食物の貯へとを藏めたり。」
馬兒科 保羅も、傳聞せることを記して「合喇 闊舌欒は、周圍 三 英里ほどの城なり。そこに石少き故に、堅固なる土の壁にて取捲かる。城の傍に大なる出[367]城あり。その中に美なる宮殿ありて、そこに太守 住めり」と云へり。出城と云へるは、嚕卜嚕克の離宮なるべし。太守は、元史 地理志の和林 等 處 都︀元帥なり。馬兒科の蒙古に到れるは、元の世祖︀の大都︀に都︀を遷せる後なれば、その頃は合罕の離宮を都︀元帥の官舎に用ひたるならん。嚕卜嚕克の後 四百五十餘年の間、この名高き都︀の遺址ある地方を歐囉巴の旅人にて通りたるもの一人も無かりしが、一七一三年(康熙 五十二年)の頃、耶蘇亦惕 派の傳道師 等、始めて鄂兒坤 河の盆地を訪へり。その後 耶蘇亦惕 派の學僧︀ 誥必勒は、元史 天文志の四海︀ 測驗に「和林、北極出地四十五度、夏至晷景長三尺二寸四分、晝六十四刻、夜三十六刻」とあるに由りて、
和林の位置を推測したりしに、阿別勒 咧繆咱は、その測算を誤れりとし、一八二五年(道光 五年)「咯喇 科嚕木 城の探究」と云へる面白き論文を著︀し、支那の舊籍に依りて、この古城の位置を考定せんと試みたり。これより和林の位置は、歐囉巴の東洋學者の閒にてやかましき問題となれり。
パデリン帕迭𡂰の發見せるカラ バルガスン喀喇 巴勒嘎孫
一八七三年(同治 十二年、明治 六年)、庫倫に駐れる嚕西亞の領事 帕迭𡂰は、實地の探檢に由りこの問題を解決せんと思ひ、張德輝の紀行を道しるべとし、まづ兀格依 諾兒に至り、諾兒の東南(とあれども、東の字は衍なり。)三四十 英里、鄂兒坤 河の西 四五 英里の處にて古城の址を見出せり。その地を蒙古人は喀喇 巴勒嘎孫(黑き城)また喀喇 合喇木(黑き郭)と呼べり。城壁は、四角にて、土と甎とより成り、邊の長さは五百步ほどづゝ、高さは今 九尺ほどあり。東の端(東南の隅)には高き塔の址あり。方形の內側には南北の邊に平行せる低き壁の址あり。蒙古人は、何の趾とも確には知らず。只 剌麻 一人進み出でて「こゝは、脫歡 帖木兒 汗の城なりき」と云へり。この喀喇 巴勒嘎孫は、淸 一統圖に達拉爾和 哈拉 巴爾噶遜とあり、耶蘇亦惕 派の傳道師 等は、北緯 四十七度 三十二分 二十四抄と測定したりし所なり。水道 提綱に達爾湖 喀喇 巴哈孫とあるも、その地なり。帕迭𡂰は、そこを去りて西に進み、抹𡂰 脫羅果依 山 兀闌 赤希 山を過ぎて、塔米兒 河を渡れり。抹𡂰 脫羅果依は、馬の頭にして、張德輝の馬頭山なり。兀闌 赤希は、赤き耳にして、卽 忽蘭 赤斤 山、「其形似㆓紅耳㆒」とある山なり。前後の地名 皆 善く紀行の文に合へるに由り、帕迭𡂰は、その古城を和林の遺址と認定し、その旅行 發見の記をその年の「嚕西亞の地學 協會の錄事」に載せ、又その記を弗篤禪科 夫人の英文に譯して、大佐 裕勒の旁注したるもの、一八七四年(明治 七年)の「地學 馬噶津」の一三七頁 以下に見えたり。
ボズネエフ玻自捏也甫の發見せるエルデニ ゾー額兒迭尼 租
然るに敎授 玻自捏也甫は、蒙古の編年史 額兒迭紉 額哩客と云ふ書を得て、その中に「喀喇 科嚕木の城は、斡歌台 汗の命にて一たび築かれ、都︀と定められ、又 蒙古人の支那より逐出されたる後、脫歡 帖木兒(惠宗)は、再そこに蒙古の朝廷を定めたりしが、一五八五年(明の神︀宗 萬曆 十三年)額兒迭尼 租の大寺は、その故址に建てられたり」と明に記載せるを見て、一八七七年(明治 十年)、遂に蒙古 探檢の路に上り、額兒迭尼 租の地に至り、寺を繞れる周 一 英里ほどある方形の土壁は、卽 古の喀喇 科嚕木の城壁の遺址ならんと認定せり。こゝに於て和林 問題は、二たびむづかしくなれり。玻自捏也甫は、その後(一八八三年、明治 十六年)額兒迭紉 額哩客を嚕西亞 文に譯出せり。額兒迭尼 租の地は、土謝圖 汗の本旗の界內にて、汗庭の西南に當り、鄂兒坤 河の東 一 英里 餘、北緯 四十七度 十三分 餘の處に在り。耶蘇亦惕 派の傳道師 等は、夙くその地の經緯度を測定し、淸 一統圖には額兒迭尼 招また西 庫倫と記入せり。蒙古 遊牧記 額兒迭尼 招の注に「廟在㆓西十三度、北極出㆑地四十六度、西爾哈 阿濟爾罕 山之西麓㆒。蒙古 謂㆓佛寺㆒曰㆑招、蓋大 剌麻 寺之在㆓鄂爾[368]坤河側㆒者︀。」又 方觀承の松漠草 從軍 雜紀の詩の注に「厄爾得尼 招、在㆓喀爾喀 王 策令 部內㆒。厄爾得尼、寶也。招、乃招提省文。地產㆓金銀㆒、故稱㆓寶寺㆒。寺前有㆓元至正年梵書碑㆒、文猶可㆑辨」とあり。
芬蘭の人 海︀客兒は、一八九〇年(明治 二十三年)八月、斡兒歡 河の盆地に至り、古碑 三基を見出し、委しく寫眞に取りて還れり。その一は突︀厥の闕 特勤の碑、その二は突︀厥の默棘連 可汗の碑にして、二つともに兀格依 諾兒の南、額兒迭尼 租の北、喀喇 巴勒嘎孫の東北、鄂兒歡 河の東なる科克申 鄂兒歡 河の右岸、才荅木の地にて、才荅木 湖の西南に當れる所にありて、二碑の相 去ること八町ばかりなり。その三は回紇の毗伽 可汗の碑にして、喀喇 巴勒嘎孫の地にあり。海︀客兒は、遂にそれらの碑銘に說明を加へ、「鄂兒歡の碑銘」と云へる書を出版せり。その頃 歐囉巴の東洋學者︀は、蒙古の古碑 舊跡を趼究する興味を生じ、殊に闕 特勤の碑は、表面の漢︀文、裏面 兩側面の突︀厥文、共に殆 完好なるが故に、その譯解を試みたる人 甚 多し。されども西洋の學者︀は、漢︀文の解釋に拙くして、誤謬も少からざれば、白鳥 博士は、更に突︀厥 闕 特勤 碑銘 考を著︀して、史學 雜誌 第八編 第十一號に載せ、又その考を獨逸︀文に書きて、彼の地の學者︀なかまに頒てり。この闕 特勤の碑は、昔より名高き碑なり。耶律鑄の雙溪 醉隱 集に、凱樂歌の詞曲 九首の中に取㆓和林㆒の詩ありて、その自注に「和林城、苾伽 可汗 之故地也。聖朝太宗皇帝城㆑此、起㆓萬安宮㆒。城西北七十里、有㆓苾伽可汗宮城遺址㆒。城東北七十里、有㆓唐明皇開元壬申御製御書 闕 特勤 碑㆒。案㆓唐史 突︀厥 傳㆒、闕 特勤、骨咄祿 可汗 之子、苾伽 可汗 之弟也。名㆑闕。可汗 之子弟、謂㆓之 特勤㆒。開元十九年、闕 特勤 卒。詔㆓金吾將軍張去逸︀、都︀官郞中呂向㆒、齎㆓璽書㆒使㆑北弔祭、幷爲立㆑碑、上自爲㆑文。別立㆓祠廟㆒、刻㆑石爲㆑像。其像迄㆑今存焉。其碑額及碑文、特勤、皆是殷勤之勤字。唐新舊史、凡書㆓特勤㆒、皆作㆓銜勒之勒字㆒、誤也。諸︀ 突︀厥 部之遺俗、猶呼㆓其 可汗 之子弟㆒爲㆓特勤 特謹︀ 字㆒也、則與㆓碑文㆒符矣。碑云「特勤、苾伽 可汗 之令弟也。可汗、猶㆓朕之子㆒也。」唐新舊史、竝作㆓毗伽 可汗㆒。勤苾 二字、當㆘以㆓碑文㆒爲㆖㆑正」とあり。その祠廟 石像は、已に存せざれども、闕 特勤の墓にも默棘連 可汗の墓にも、碑の外に立形 坐形の石人 石婦など今 猶 有り。この文の中に苾伽 可汗の字 四所にあり。初の二つは回紇の毗伽 可汗、後の二つは突︀厥の毗伽 可汗なり。混ずべからず。突︀厥にも回乾にも毗伽 可汗ありしことは、唐書の突︀厥 回紇の傳に明なり。回紇の毗伽 可汗は、唐書に見えたる骨咄祿 毗伽 闕 可汗のみならず、海︀客兒の寫せる回乾の毗伽 可汗の碑文に據れば、回紇の可汗は、大抵 世世 毗伽と稱したるが如し。この文の初に「和林 城、苾伽 可汗 之故地也」と云ひながら、次に「城西北七十里、有㆓苾伽 可汗 宮城遺址㆒」と云ひ、和林 城と回乾の故城と同じ所に非ざるが如し。これは、和林の位置を定むるに最 注意すべき事なり。
一八九一年(明治 二十四年)、嚕西亞の翰林 學士 喇篤羅甫は、大規模なる蒙古 地方の探檢を企て、匈奴 突︀厥 回紇 蒙古 四朝の古碑 舊跡を捜索 檢討して、蒙古 考古圖を作れり。その書は、殘碑 荒墳 廢墟 遺物などを影寫せるもの七十五幅、それらの所在と地形とを示せる地圖 七幅、凡て八十二幅に、序論 目錄 解說 數十枚と蒙古 探訪 地圖 二幅とを添へて、一八九三年(明治 二十六年)全部 世に出で、闇黑なる漠北の古史に大なる光明を與へたり。その探究に據れば、鄂兒歡 河の盆地に喀喇 科嚕木と云ひし所 二所あり。第一は、回紇の喀喇 科嚕木にして、鄂兒歡 河の左岸 卽 西岸に在り、回紇の苾伽 可汗の宮城の遺址にして、今の喀喇 巴勒嘎孫なり。今 殘れる土壁は、回紇の遺物に非ず、蒙古人の支那より逐出されたる後、回紇の廢墟に築きたる城壁の遺址なり。第二[369]は、蒙古の喀喇 科嚕木にして、鄂兒歡 河の右岸 卽 東岸、喀喇 巴勒嘎孫の東南に在り、卽 元の和林 城にして、今の額兒迭尼 租なり。蓋 太宗の和林 地方に都︀を定むる時、和林の近傍にて地を擇び、新に宮城を作りて、斡兒朶 巴里克と名づけたるを、和林は五百餘年の舊都︀にして、合喇 豁嚕木の名は殆 都︀と云ふに同じく聞ゆるが故に、蒙古人は、斡兒朶 巴里克を合喇 豁嚕木と呼びて、遂に同名の地 二所あることとなれるならん。元史 昔都︀兒の傳に「黑城 哈剌 火林 之地」とあり。黑城は蒙語 合喇 巴勒嘎孫を譯したるなれば、この名は已に元の時より有りしなり。黑城 卽 合喇 巴勒嘎孫は、舊城 廢墟の義なれば、その名を哈剌 和林の上に冠したるは、新しき哈剌 和林に別たんが爲なり。偰氏 家傳は、回紇の國相の後裔の事を述べたるものなれば、その和林は、回乾の和林 卽 喀喇 巴勒嘎孫を指せること論なし。張德輝は、塔米兒 河の西北なる世祖︀の潛邸の地に赴きて、和林の都︀には立寄らずと見ゆれば、「自㆓泊之南㆒而西、分㆑道入㆓和林城㆒、相去約百餘里」とある和林 城も、回乾の和林なるべし。耶律鑄は、元の和林の地に成長したれば、その和林と云へるは、皆 元の和林にして、記載 最 精︀確なり。その「和林城、苾伽 可汗之故地也」と云へるは、元の和林は回紇の和林の近郊なるが故にして、苾伽 可汗の故宮とは異なり。その「城西北七十里、有㆓苾伽 可汗 宮城遺址㆒」と云へるは、方位も距離も善く合へり。「城東北七十里、有㆓闕 特勤 碑㆒」と云へるは、距離も近すぎて、方位も稍 違へり。喇篤羅甫の鄂兒歡 地圖に據れば、東北に非ずして、殆 正北なり。
又 雙溪 醉隱 集に、騎吹曲の辭なる白霞の詩の注に「白霞在㆓和林 西㆒、」後の凱歌の詞なる崲峹の詩の注に「崲峹、地名、在㆓和林 之西南㆒、」伯哩行の詩の注に「伯哩、山名也。遜多 伯哩 者︀、卽此。遜多、亦是山名、皆在㆓和林之西南㆒。崲峹 亦在㆓其南㆒、丁丑冬弄㆑邊者︀軍敗之地也」などあるは、今のいづこなるか知らず。戊辰 己酉 北中 大風の詩「富貴城西畔」の注に「和林 東北 斜連柯 河 有㆓古城㆒、唐賈耽地志所謂 仙娥 河 富貴 城者︀ 是也。仙娥 河、今聲轉爲㆓錫蘭 河㆒」とある斜連柯 河は、今の色楞格 河なり。寬甸 有㆑感の詩の序に「和林 城有㆓遼碑㆒、號㆓和林 北河外一舍地㆒爲㆓寬甸㆒、廣輪可㆓數十百里㆒、列聖春夏遊幸所也」とある寬甸は、怯堅 察罕の地の雅名なるべし。和林 北河は、和林 河の下流のことか。和林 城の北には、近き所に河なし。達蘭 河の詩の注に「河名也。在㆓和林 北百餘里㆒」とあるも、確ならず。金蓮 花甸の詩の注に「和林 西百餘里、有㆓金蓮花甸㆒、金河界㆓其中㆒、東匯爲㆓龍渦㆒。陰嵒千尺、松石騫疊、俯視︀㆓龍渦㆒、環㆓繞平野㆒。是僕平時往來漁獵遊息之地也」と云ひ、又 金蓮川の詩もあり、紅叱撥の詩の注に「余避㆑暑︀所、川野無㆑非㆓金蓮㆒。金蓮川由㆑是得㆑名」ともあり。金河は、鄂兒坤 河の雅名ならん。和林の西 百餘里は、正しくは西南にして、鄂兒坤 河の上流の地なるべし。大獵の詩に「禁地圍場、自㆓和林 南㆒越㆓沙地㆒、皆浚以㆑塹、上羅以㆑網、名㆓札什㆒、實古之虎落也。比歲大獵、特詔先殄㆓滅虎狼㆒」とあるは、多遜の翁奇の圍場と作り方は異なる樣なれども、必 同じ處ならん。この外 和林 又は和林の近傍の事に渉れる詩 甚 多く、蒙古の古史を考ふる人の參考すべき書なり。また太宗紀 六年 甲午の條「是春、會㆓諸︀王㆒宴㆓射于 斡兒寒 河㆒」の下に、「夏五月、帝在㆓達蘭 達葩之地㆒、大會㆓諸︀王百僚㆒、諭㆓條令㆒云云、」又「秋、帝在㆓八里里 荅闌 荅八思 之地㆒、議㆓自將伐㆒㆑宋云云」とありて、明年 春は和林 城の建築に取掛れり。親征錄にも、甲午の年「五月、於㆓荅蘭 荅八思㆒始建㆓行宮㆒、大會㆓諸︀王百官㆒、宣㆓布憲章㆒」とあり。唐兀の察罕の傳に「太宗卽㆑位、從略㆓河南㆒、北還㆓淸水 荅蘭 荅八 之地㆒、賜㆓馬三百珠衣金帶鞍勒㆒」とあるも、太宗の荅蘭 荅巴思に駐まれる時の事にして、淸水は、八里里を譯したる名ならん。又 定宗紀にも「太宗崩、皇后臨㆑朝、會㆓諸︀王百官於 荅蘭 荅八思 之地㆒、遂議㆑立㆑帝」とあり。八里里また淸水は、附きても附かでも同じ處にて、和林の近傍なるべし。雙溪集の詩に達蘭 河あれば、荅蘭 荅巴思(卽 荅闌 峠)は、荅闌 河に沿へる小山にてもあらん。そのありかも確ならざれども、後の考古 探訪家の爲に言ひ置くなり。)
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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