ども、世祖︀紀に「壬子(憲宗二年)、帝駐桓撫間。憲宗令斷事官牙魯瓦赤ヤルワチ、與不只兒ブヂル等、總天下財賦于燕。視︀事、一日殺︀二十八人。其一人盜馬者︀、杖而釋之矣。偶有獻環刀者︀、遂追還所杖者︀、手試刀斬之。帝責之曰「凡死罪、必詳識而後行刑。今一日殺︀二十八人、必多非辜。旣杖復斬、此何刑也。」不只兒ブヂル錯愕不能對」とあり。布智兒ブヂルの長子好禮ハウリは、丞相伯顏バヤンに從ひ、水軍を督して宋を擊ち、水軍翼萬戶府の達魯花赤ダルハチ。第四子不蘭奚ブランヒは、水軍翼萬戶招討使。
功臣の子孫(又は父)の傳にその功臣の名見えたるもの、十六人あり。
一。翁吉喇惕オンギラトの阿勒赤アルチ駙馬。
列傳卷五特薛禪テイセチエンの傳なるその子按陳那顏アンチンノヤンは、功臣の第八十六なる翁吉喇惕オンギラトの阿勒赤古咧堅アルチグレゲンなり。その傳に曰く「特薛禪テイセチエン、姓孛思忽兒弘吉剌ボスフルホンギラ氏、世居朔漠。本名特テイ、因從太祖︀起兵有功、賜名薛禪セチエン、故兼稱曰特薛禪テイセチエン。女曰孛兒台ボルタイ、太祖︀光獻翼聖皇后」。本の名特テイを、乾隆︀の史臣は、下の因の字を附けて特因テインと讀み、殿本に托音トインと改め、特薛禪テイセチエンをも托音色辰トインセチエンと改め、語解に「托音トイン、僧︀也」と注せり。又太祖︀紀に見えたる弘吉剌ホンギラ部長迭夷デイは、卽特薛禪なることを知らずして、殿本に岱音ダインと改め、語解に「敵也」と注せり。迭夷デイ卽特薛禪テイセチエンは、祕史の德薛禪デイセチエン、蒙古源流の岱徹辰デイチエチエンなり。何ぞ曾て因インの音を附けたるものあらんや。錢大昕は、明初の史臣の鹵莽を譏りて、「若乃句讀之不通、而妄加點竄、欲以備石室金匱之藏、與三史竝列、毋乃不知量之甚乎」と云ひしが、その言は、移して乾隆︀の史臣を評すべし。これは、たゞ殿本の誤りだらけなる一例を筆の序に云ふなり。「子曰按陳アンチン〈[#「アンチン」は底本では「アンチ」]〉、從太祖︀征伐、凡三十二戰。平西夏、斷潼關道、取回紇フイフ・尋斯干セミスカン城、皆與有功。歲丁亥(太祖︀二十二年)、賜號國舅按陳那顏アンチンノヤン。壬辰(太宗四年)、賜銀印、封河西王、以統其國族。丁酉(九年)、賜錢二十萬緡。有旨、弘吉剌ホンギラ氏生女、世以爲后、生男、世尙公主、每歲四時孟月、聽讀所賜旨、世世不絕。又賜所俘獲軍民五千二百、仍授萬戶以領之」。
翁吉喇惕オンギラトの女子の皇后となれるは、孛兒台ボルタイ卽孛兒帖兀眞ボルテウヂンより始まり、公主に尙したるは、按陳アンチン卽阿勒赤古咧堅アルチグレゲンより始まれり。祕史に古咧堅グレゲンと云ひ、喇失惕額丁ラシツトエツヂンの集史にも古兒干グルカンと云へば、按陳の、公主に尙したるは確なるべけれども、元史にはその事を漏せり。按陳の女察必チヤビは、世祖︀の昭睿順聖皇后。按陳の子斡陳オナンの配は、睿宗の女也速不花エスブハ公主。斡陳オチンの弟納陳ナチンの配は、太祖︀の孫女薛只干セヂガン公主(公主表)。納陳ナチンの子斡羅陳オロチンの配は、完澤オンジエイ公主。繼配は、世祖︀の女囊加眞ノンガヂン公主。斡羅陳オロチンの弟帖木兒テムル(賜名按荅兒禿那顏アンダルトノヤン)の配も、囊加眞ノンガヂン公主(公主表)。その弟蠻子台マンツタイの配も、囊加眞公主。繼配は、裕宗の女喃哥不剌ナンガブラ公主。斡羅陳オロチンの女實憐荅里シレンダリは、成宗の貞慈靜懿皇后。帖木兒の子琱阿不剌ヂヤウアブラの配は、順宗の女祥︀哥剌吉シヤンガラギ公主。その弟桑哥不剌サンガブラの配は、普納ブナ公主。琱阿不剌ヂヤウアブラの女不荅失里ブダシリは、文宗の皇后。琱阿不剌ヂヤウアブラの子阿里嘉室利アリガシリの配は、朶兒只班ドルヂバン公主。納陳ナチンの孫仙童セントンの女喃必ナンビは、世祖︀の皇后。按陳の次子必哥ビゲの孫丑漢︀チウハンの配は、台忽魯都︀タイフルド公主。按陳の季子唆兒火都︀ソルホドの子に、阿哈アハ駙馬あり。按陳の孫納合ナカの配は、太宗の女唆兒哈罕ソルハハン公主。按陳の孫渾都︀帖木兒クンドテムルの女荅吉ダギは、順宗の昭獻元聖皇后。按陳の孫斡留察兒オリウチヤルの女八不罕ハブハンは、泰定帝の皇后。按陳の孫(曾孫か)脫憐拔都︀見トレンバドルの女塔剌海︀タラハイは、世祖︀の皇后。脫憐トレンの子迸不剌ベンブラの女眞哥ヂンゲは、武宗の宣慈惠聖皇后。迸不剌ベンブラの子買住罕マイチユハンの配は、拜荅沙ハイダシヤ公主。買住罕マイチユハンの女必罕ビハン・速哥荅里スガダリ二人は、皆泰定帝の皇后。買住罕マイチユハンの弟孛羅帖木兒ボロテムルの女伯顏忽都︀バヤンフドは、順帝の皇后(后妃傳)。按陳の弟火忽ホフの孫不只兒ブヂルの配は、斡可眞オケヂン公主。特薛禪テイセチエンの諸︀孫脫維禾トロホの配は、不魯罕ブルハン公主。繼配は、闊闊倫ココルン公主。特薛禪テイセチエンの孫(公主