は、至元十七年怯薛ケセの長、明年宣徽使、成宗の時和林ホリム行省の右丞相太師洪陽王。考異には、姚燧の撰れる姚文獻公の神︀道碑に太師洪陽王之兄故承相木土各兒ムトゴルとあるを引き、「木土各兒ムトゴル、亦作土木各兒トムゴル。其爲丞相、蓋在中統初、而本紀表傳俱失之」と云へり。又考異氏族表に據れば、月赤察兒ユチチヤルの子七人、長子塔剌海︀トラハイは中書右丞相太保、第三子𠇗頭クワトウは太師錄軍國重事淇陽王、第五子也先鐵木兒エツセンテムルは中書右丞相洪陽王、第二子馬剌マラの子完者︀鐵木兒オンヂヤイテムルは御史大夫太傅洪陽王などあり。塔察兒タチヤルの事は、後に云ふべし。
六。兀嚕兀惕ウルウトの主兒扯歹ヂユルチエダイ。
列傳卷七(元史一二〇)、「朮赤台チユチタイ、兀魯兀台ウルウタイ氏」は、功臣の第六なる兀魯兀惕ウルウトの主兒扯歹ヂユルチエダイなり。朮赤台チユチタイの子怯台ケタイは、功臣の第五十七なる客台ケタイなり。傳に曰く「子怯台ケタイ、材武過人。自太宗及世祖︀、歷事四朝、以勞封德淸郡王、賜金印。丙申、賜德州戶二萬爲食邑。至元十八年、增食邑二萬一千戶、肇慶路連州德州泊屬邑俱隷焉」と云ひ、親征錄には、太祖︀癸酉居庸關の戰に「上留怯台ケタイ・薄察ボチヤ等、頓軍拒守、遂將別眾西行、由紫荆口出。云云。乃命哲別ヂエベ攻居庸南口、出其不備破之、進長至北口、與怯台・薄察軍合。旣而又遣諸︀部精︀兵五千騎、合怯台ケタイ・哈台ハタイ二將圍中都︀」とあり。太祖︀紀にはこの怯台ケタイを可忒ケテと書き、郝和尙拔都︀ホシヤンバードの傳には「在郡王迄忒ヒテ麾下」と云ひ、黑韃事略に十七頭項を列記して紇忒ケテ郡王黑縫人と云へり。怯台の子端眞拔都︀兒ドンヂンバードは、「襲爵爲郡王。太宗時、與亦剌哈台イラハタイ戰勝、帝卽以亦剌哈イラハ妻賜之」。太宗の時の敵將に亦剌哈台イラハタイと云へる人あるを聞かず。蓋祕史卷十一の亦列合荅イレカダに同じく、金の二將移剌蒲阿イラブア・完顏合達ワンヤンカダを指せるに似たり。もし然らば、亦剌哈イラハ妻は、亦剌イラの妻か哈台ハタイの妻か定め難︀し。亦剌哈イラハにては、王罕ワンカンの子亦剌合イラカを想ひ起さしむ。太宗紀八年丙申、中原諸︀州の民戶を諸︀王貴戚に分け賜へる處に鍛眞蒙古寒札ドンヂンモングカンヂヤとあるは、この端眞ドンヂンと忙忽惕モングトの蒙可哈勒札モンケハルヂヤとなり。端眞ドンヂンの弟哈荅ハダ、哈荅ハダ〈[#ルビの「ハダ」は底本では「ハタイ」。「荅」を「タイ」と読む箇所は他に見当たらないので誤植と判断]〉の三子三孫、皆郡王に封ぜられき。
七。兀哴罕ウリヤンカンの速別額台スベエタイ。
列傳卷八(元史一二一)、「速不台スブタイ、蒙古兀良合ウリヤンカ人」、列傳第九(元史一二二)、「雪不台セブタイ、蒙古部兀良罕ウリヤンハン氏」は、二つながら功臣の第五十一なる兀哴罕ウリヤンカンの速別額台スベエタイなり。速不台スブタイは、功勞甚多く、本傳も頗委しけれども、誤謬又少からず。その西征を叙べたる所は、西國の諸︀史に據りて訂正すべし。
速不台スブタイの子兀良合台ウリヤンカタイは、「歲乙巳、領兵從定宗征女眞ヂユチン國、破萬奴ワンヌ於遼東。繼從諸︀王拔都︀バド、征欽察キムチヤ・兀魯思ウルス・阿孛烈兒アボレル諸︀部。丙午、又從拔都︀、討孛烈兒ボレル乃捏迷思ニエミス部平之。己酉、定宗崩云云」。これらの紀年 皆誤れり。乙巳は、癸巳(太宗五年)の誤、丙午は、辛丑(太宗十三年)の誤、己酉は、戊申(定宗三年)の誤なり。欽察キムチヤ等の征伐は、萬奴ワンヌの征伐に關係なく、三年後(太宗八年丙申)の出師なれば、紀年を略きて「繼」と書きたるも非なり。阿孛烈兒アボレルは、次の孛烈兒ボレルとは異なり。秘史卷十一の孛剌兒ボレル、卷十二の不剌兒ブラル〈[#ルビの「ブラル」は底本では「ブラブル」。明治40年初版「成吉思汗実録」五八九頁(§270)に倣い修正]〉、卽佛勒噶ブルガ河の東に居りし孛勒噶兒ボルガルを元史地理志に不里阿耳ブリアルと書けるに由りて思へば、これは孛烈阿兒ボレアルの阿の字を上に飛ばしたるなり。孛烈兒ボレル乃捏迷思ナイニエミスは、玻勒ポール卽玻關篤ポランド人と獨逸︀人とにして、乃ナイは及キフの誤なり。卜咧惕施乃迭兒ブレトシユナイデル曰く「獨逸︀人を、嚕西亞ルシアの史には尼額姆次ニエムツイ(單稱尼額篾慈ニエメツと云ひ、孛赫米亞ボヘミア人は夙くより捏姆次ネムツイと云ひ、必贊靑ビザンチンの古史には捏篾次ネメツイまた捏米次ネミツイと云ひ、ある抹哈篾惕モハメト敎徒は捏篾只ネメヂと云ひ、今も突︀兒克トルク人は尼額篾昔ニエメシと云ひ、洪噶兒ホンガル人は捏篾惕ネメトと云ふ」。兀良合台ウリヤンカタイの功勞最大なるは、憲宗の時、皇弟忽必烈フビレイに從ひ、雲南に入り、白蠻・烏蠻・鬼蠻等の諸︀國を平げ、大元帥となりて大理を鎭め、遂に交趾を降して還れる事なり。その子阿朮アチユは、中統三年、征南都︀元帥。至元五年、宋の襄陽を圍み、十年樊城を破り、襄陽を降し、十一年、丞相伯顏バヤンに從ひ宋を