みな行在ヒンザイ又は行在ハンザイの訛なり。王の海︀島に遁れたるは、益王・廣王の遁れたるを誤り聞けるなり。殘りて伯顏バヤンに降れる后は、太皇太后なり。王國城寨を渡せりとは、州郡に諭す手詔を下せるを云ふ。
伯顏バヤンは、宋を平げて還り、同知樞密院となり、至元十四年、叛王昔里吉シリギを討じ、斡魯歡オルホン河にて擊破り、十八年、燕王(皇太子眞金チンキム)に從ひ、北邊を鎭し、二十二年、宗王阿只吉アヂギの律を失へる時、代りてその軍を統べ二十四年、宗王乃顏ナヤンの反ける時、世祖︀の親征に從ひ、二十六年、知樞密院事を以て和林ホリムを鎭し、三十一年正月、世祖︀崩じ、伯顏バヤン百官を總べて、成宗(皇太子眞金チンキムの子帖木兒テムル)を擁立し、五月太傅となり、軍國の重事を錄し、十二月薨じき。
四。速勒都︀思スルドスの塔孩タカイ。
列傳卷十六(元史一二九)、阿塔海︀アタハイの傳に「阿塔海︀アタハイ、遜都︀思スンドス人。祖︀塔海︀拔都︀兒タハイバードル驍勇善戰、嘗從太祖︀、同飮黑河水、以功爲千戶」とある塔海︀拔都︀兒タハイバードルは、功臣の第二十四なる速勒都︀思スルドスの塔孩タカイなり。塔海︀タハイの子卜花ブハ、卜花ブハの子阿塔海︀アタハイ、皆千戶の職を襲ぎけり。阿塔海︀アタハイは、憲宗の時、大帥兀良合歹ウリヤンカダイ(卽速不台スブタイの子兀良合台ウリヤンカタイ)に從ひ、雲南を征し、至元九年、襄陽の城攻に與り、十二年、丞相伯顏バヤンの軍に會して、池州に克ち、阿朮アチユと共に、張世傑の舟師を焦山の下に敗り、又伯顏バヤンの中軍に屬し、常州に克ち、平江を降し、十三年宋主母后を以て入覲せり。「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風舟壞、喪師十七八」とあるは、紀年誤れり。世祖︀紀日本傳に據るに、日本を侵して失敗したるは、至元十八年(我が弘安四年)八月なり。行省丞相の事は、日本傳にも「二十年、命阿塔海︀アタハイ、爲日本省丞相」とあれども、世祖︀紀二十年正月の處に「以阿塔海︀依舊爲征東行中書省相」とあれば、十八年六月、日本行中書省の右丞相(本傳誤りて左丞相)阿剌罕アラハン卒して、阿塔海︀アタハイ代れる時、嘗て丞相となりしならん。右か左か確ならず。二十四年、世祖︀に從ひて乃顏ナヤンを征し、二十六年に卒しき。その子阿里麻アリマは、江南諸︀道行御史臺の御史大夫。
五。札剌亦兒ヂヤライルの余魯罕ユルカン。
列傳卷十八(元史一三一)、奧魯赤アウルチの傳なるその祖︀朝魯罕シユルハンは、功臣の第四十五なる余魯罕ユルカンなり。「奧魯赤アウルチ、札剌台ヂヤラタイ人。曾祖︀豁火察ホホチヤ、驍果善騎射。太祖︀出征、毎提精︀兵前驅。祖︀朔魯罕シユルハン、有膽力。嘗被讒、不許入見。一日俟駕出、趨前曰「臣無罪。若果有罪、速殺︀臣、臣將從先帝於地下。不然赦臣、願得自効」。帝笑而復用之。辛未(太祖︀六年)、與金人戰于野狐嶺、中流矢、戰愈力、克之。旣還、拔矢、血出昬眩。帝親撫視︀、傅以藥、竟不起。帝悲悼曰「朔魯罕シユルハン、朕之一臂。今亡矣」。賜其家馬四百匹、錦綺萬段」。朔魯罕シユルハンの子にして奧魯赤アウルチの父なる忒木台テムタイも、太祖︀太宗に仕へたり。その事は、下の第一〇〇頁に云ふべし。
列傳卷十九(元史一三二)、麥里メリの傳なるその祖︀雪里堅那顏セリゲノヤンは、功臣の第二十二なる失魯孩シルカイなるべし。「麥里メリ、徹兀臺チエウダイ氏。祖︀雪里堅那顏セリゲノヤン、從太祖︀、與王罕ワンハン戰、同飮班眞バンヂン河水、以功授千戶、領徹里臺チエリタイ部、征討諸︀國、卒于河西」。徹兀臺チエウタイ・徹里臺チエリタイ、いづれか一つの誤あらん。徹兀臺チエウタイの兀ウは、兒ルの誤か。又は兀ウは誤らずして、里リは黑クの誤か。祕史にはこれに似たる姓見えず。「父麥吉メギ襲職、從太宗、定中原、以疾卒。麥里メリ襲職、從定宗、略定欽察キムチヤ・阿速アス・斡魯思オルス諸︀國。從憲宗、伐宋有功。世祖︀卽位、諸︀王霍忽ホフ〈[#ルビの「ホフ」は底本では「オフ」。以後の同ルビがすべて「ホフ」とあることに倣い修正]〉叛、掠河西諸︀城。麥里メリ以爲「帝初卽位、而王爲首亂、此不可長」。與其弟桑忽荅兒サングダル、率所部擊之、一月八戰、奪其所掠札剌亦兒ヂヤライル・脫脫憐トトレン諸︀部民以還。已