吉哩沙ギリシヤ王阿歷散迭兒アレクサンデル、已滅珀兒沙ペルシヤ、欲入印度インド。而將領中多異議、令出不行。阿歷散迭兒アレクサンデル、遣使詢於其傳阿哩思脫帖兒アリストーテル。使者︀致命。阿哩思脫帖兒アリストーテル無言、惟與使者︀游園、遇林木之蔽觀眺礙行路者︀、悉令從人芟伐拔掘、易以新株。使者︀悟、歸報。阿歷散迭兒アレクサンデル、乃誅逐諸︀不從令將領、更易其位、遂平印度インド而回」。於是曼古マング意決、殺︀三王之黨、煽亂謀逆者︀、凡七十人。亦勒赤奇歹イルチキダイ二子亦同謀。皆以石子塡塞其口而死。亦勒赤奇歹イルチキダイ、已往西域。遣人追及於巴篤吉思バドギス之地獲之、以付巴禿バト、置諸︀死」とあり。額勒只吉歹エルヂギダイの二子の內には、巴禿バトを罵りたりし哈兒合孫ハルガスンもあるべし。
又憲宗紀二年の條に「春正月、幸失灰シフイ之地。‥‥‥皇太后(莎兒合黑塔尼シヨルカクタニ)崩。夏駐蹕和林ホリム、分遷諸︀王於各所、合丹カダン於別石八里ベシバリ地、蔑里メリ於葉兒的石エルチシ河、海︀都︀ハイド於海︀押立ハイアリ地、別兒哥ベルゲ於曲兒只クルヂ地、脫脫トト於葉密立エミリ地、蒙哥都︀モンゲト及太宗皇后乞里吉忽帖尼キリギクテニ於擴端コドン所居地之西。仍籍太宗諸︀后妃家貲分賜親王。定宗后及失烈門シレムン母、以厭禮事覺竝賜死。謫失烈門シレムン・也速孛里エスボリ等於沒脫赤ムトチ之地」。これらの諸︀王は、世系表に據るに、皆太宗の子孫にして、合丹カダンは第六子なる合丹カダン大王(喇失惕ラシツトの喀丹斡古勒カダノグル)、蔑里メリは第七子滅里メリ大王、(篾里克メリク)海︀都︀ハイドは第五子合失カシ大王(喀失カシ)の子海︀都︀ハイド大王(開都︀カイド)、脫脫トトは第四子哈剌察兒ハラチヤル王(喀喇札兒カラヂヤル)の子脫脫トト大王(禿克塔トクタ)、蒙哥都︀モンゲドは第二子闊端コドン太子(庫壇クタン)の子蒙哥都︀モンゲト大王、擴端コドンは卽第二子闊端コドン太子、矢烈門シレムンは第三子闊出コチユ(庫出クチユ)の子昔列門シレムン太子(失喇門シラムン)なり。別兒哥ベルゲは、巴禿バトの弟、喇失惕ラシツトの巴兒開バルカイにして、憲宗翼戴の功ある人なれば、こゝに入りたるは誤なり。曲兒只クルヂは、卽古兒只グルヂにして、巴禿バトの領地の南境にある地なれば、これは、遷されたるにあらずして、新に封ぜられたるならん。乞里吉忽帖尼キリギクテニは、后妃表に太宗の三皇后とあり。喇失惕ラシツトは(多遜ドーソン二、九九)、喀失カシまで五人は、正后禿喇奇納トラキナの子にして、喀丹カダン・斡古勒オグルと篾里克メリクとは、妃妾の子なりと云ひ、后妃表には「業里訖納エリギナ妃子、滅里メリ之母」とあり。陳桱の通鑑續編に據れば、長子合西歹カシダイは二皇后孛灰ボフイの子にして、蚤く死し、定宗・闊端コドン・屈出クチユ・合剌察兒カラチヤル四人は、六皇后の子、合丹カダン・滅立メリ二人は、七皇后の子なりと云へり。孛灰ボフイは、表の昻灰アンフイ二皇后なり。孛ボは、安案アンアンなどの誤ならん。七皇后は、表に無し。業里訖納エリギナ妃子を云へるならん。定宗の后は、后妃表の斡兀立オウリ・海︀迷失ハイミシ、喇失惕ラシツトの斡古勒オグル・該米失ガイミシなり。失烈門シレムンの母は、元史に名なし。喇失惕ラシツトは喀塔庫失カタクシと云へり。也速孛里エスボリは、太宗の子孫に見えず、諸︀王の從官なるべし。その分遷の地は、大抵太宗の分地の內又はその近傍に在り。別石八里ベシバリは卽必失巴里克ビシバリク、葉兒的石エルチシ河は卽額兒的失エルチシ河、海︀押立ハイアリは卽喀牙里克カヤリク、葉密立エミリは卽額米勒エミルなり。沒脫赤ムトチの地は、考なし。憲宗本紀補異に曰く「二年春、皇太后崩、葬睿宗墓旁。至喀喇闊嚕木カラコルム、究厭禳之獄。以定宗后失喇門シラムン母付曼古撒兒マングサル、盡法鞫治得實、裏以氈、投諸︀河。殺︀定宗后用事大臣(鎭海︀チンハイ・喀荅克カダク)。以察合台チヤガタイ孫不哩ブリ付巴禿バト。不哩ブリ曾於酒後詈巴禿バト。至是巴禿バト殺︀之。以闊札コヂヤ・納古ナグ・失喇門シラムン三王、皆由其母煽惑、得免︀死。遷闊札コヂヤ於喀喇闊嚕木カラコルム西速里該スリガイ之地、謫納古ナグ・失喇門シラムン爲兵弁。其後忽必來クビライ伐宋、請於曼古マング、使失喇門シラムン從軍效力。迨曼古マング自將南伐、仍投失喇門シラムン於水。分遷太宗後王、定其封地。太宗舊部軍、別擇親王將之、以防其擁衆爲亂。惟太宗子合丹カダン・篾里克メリク、太宗孫庫壇クタン之子、翊戴無二心、未奪兵柄、仍得分太宗諸︀后妃家資」。速里該スリガイの地は、考なし。含篾兒ハンメルは薛鄰噶セリンガと譯したれども、薛鄰噶セリンガ卽薛連格セレンゲ河は、喀喇闊嚕木カラコルムの北にして、西とは云ふべからず。洪鈞曰く「案本紀、二年分遷諸︀王、曰別石八里ベシバリ地、曰葉兒的石エルチシ河、曰海︀押立ハイアリ、曰葉密立エミリ、皆在太宗分地及其附近、竝未遠徙、特爲之分定疆界耳。紀又云擴端コドン所居地之西、西方何地無考、亦非甚荒遠。不明其地、又泥於元史文義、一若盡投之遠方也者︀、未爲是也。本紀元年、遣合丹カダン誅宴只吉帶エンヂギダイ、三年、以哈丹札魯花赤ハダンヂヤルハチ、八年九年、諸︀王莫哥都︀モゲド攻渠州禮義山、竊疑皆太宗後王。可就西書、以窺測元史」。失咧門シレムンの殺︀されたることは元史に見えざれども、槊直腯魯華シユチトルカの傳に、その子明安荅兒ミンガンダルは、「癸丑(憲宗三年)、憲宗遣從昔列門シレムン太子南伐」とあるは、失咧門シレムンの世祖︀の軍に從へる時の事を云へるなり。