一。合兒魯兀惕カルルウトの阿兒思闌罕アルスランカン。
合兒魯兀惕カルルウトの阿兒思闌罕アルスランカン(實錄三八九頁)は、降服の後、何事も見えざれとも、公主表脫烈トレ公主位に「脫烈トレ公主適阿爾思蘭アルスラン子也先不花エツセンブハ駙馬、八八ババ公主適也先不花エツセンブハ子忽納荅兒クナダル駙馬、某公主適忽納荅兒クナダル子剌海︀涯里那ラハイヤリナ駙馬」とありて、阿兒思闌アルスランの公主に尙してより曾孫まて四代、引續き元の駙馬となりしなり。
二。委兀惕ウイウトの亦都︀兀惕イドウト。
委兀惕ウイウトの亦都︀兀惕イドウト(實錄三九四頁)は、喇失惕ラシツトの史に委古兒ウイグルの亦的庫惕巴兒主克イヂクトバルヂユク、元史に畏兀兒ウイウルの亦都︀護巴而朮阿而忒的斤イドクバルチユアルテチキンと云ひ、列傳卷五に子孫數世に涉れる委しき傳あり。但亦都︀護イドクの軍功を叙べたる後、「旣卒、而次子玉古倫赤的斤ユグルンチチギン嗣」と云ひ、その相續の間に何事も叙べざるが、喇失惕ラシツトに據れば、玉古倫赤ユグルンチ即斡肯只オケンヂに兄二人ありて、そこに元史に漏れたる逸︀事あり。卜咧惕施乃迭兒ブレトシユナイデル曰く「喇失惕ラシツトに據れば(別咧津ベレジン一、一二八)、成吉思チンギス汗は、巴兒主克バルヂユクの勳功を賞して、その女阿勒禿姆必吉アルトムビギを妻せんことを約したりしが、成吉思チンギスの死したるが爲に婚期延びけり。この公主は、遂に婚禮を行ふ前に死したれば、斡果台汗オゴタイカンは、委古兒ウイグルの君に阿剌只必吉アラヂビギと云へる公主を與へき。されども巴兒主克バルヂユク死して、その子奇施馬因キシユマイン父に繼ぎて、委古兒ウイグルの亦的庫惕イヂクトとなりたれば、その公主を奇施馬因キシユマインに與へき。奇施馬因キシユマイン死したる後、その弟撒連的サレンヂ嗣ぎけり」。阿勒禿姆必吉アルトムビギは、實錄卷十の阿勒阿勒屯アルアルトン、巴而朮阿兒忒バルチユアルテの傳の也立エリ・安敦アントンなり。公主表に也立エリ・可敦カトン公主とある可カは、安アンの誤なり。卜咧惕施乃迭兒ブレトシユナイデルは、「元朝祕史に、この公主の名は、阿勒扯阿勒屯アルチユアルトンと讀まる」とて、喇失惕ラシツトの阿剌只必吉アラヂビギ〈[#「阿剌只必吉」は底本では「喇剌只必吉」。底本の他ルビに倣い修正]〉に當てたり。然らば帕剌的兀思パラヂウス本には、上の阿勒アルの下に扯チエの字ありて、我等の本には脫ちたるならん。阿勒扯アルチエは、阿剌只アラヂに稍似たれども、阿勒屯アルトンは、喇失惕ラシツトの阿勒禿姆アルトム、元史の安敦にして、三書共に太祖︀の女とすれは、同人なること論なし。阿剌只必吉アラヂビギは、誰の女なるか。公主表に見えず。洪鈞の地理志西北地附錄釋地に(多遜ドーソンを譯して)曰く「巴兒主克バルヂユク先有子、名奇施馬因キシユマイン、嗣亦的庫惕イヂクト位、旋卒。攝政皇后(禿喇奇納トラキナ)命奇施馬因キシユマイン之弟撒連只サレンヂ嗣立。憲宗即位、撒連只サレンヂ來朝。而必失巴里克ビシパリク之地、流言忽起、謂撒連只將盡戮木速勒蠻徒。其僕吿變。蒙古官賽甫額丁サイフエツヂン、監治必失巴里克ビシバリク、要撒連只サレンヂ〈[#ルビの「サレンヂ」は底本では「ササンヂ」。底本の他ルビに倣い修正]〉返、詢無是謀。而其僕堅證之。事聞於朝。付曼古撒兒マングサル鞫治。刑訊撒連只サレンヂ、遂誣服。令其弟斡肯只オケンヂ殺︀之、代其位。木速勒蠻ムスルマン徒則大悅。撒連只サレンヂ崇佛法、民與異敎、故設謀害其主。有二臣同死、一臣流於遠、僕膺賞。其時憲宗與太宗子孫不協、故凡附太宗之人、在委古兒ウイグル地者︀、斥逐殆盡」。
本傳に據るに、玉古倫赤的斤ユグルンチチキン〈[#「玉古倫赤的斤」は底本では「玉古倫赤的斥(エグルンチチキン)」。底本の他ルビに倣い修正]〉(卽斡肯只オケンヂ〈[#ルビの「オケンヂ」は底本では「オケン」。底本の他ルビに倣い修正]〉)の子馬木剌的斤マムラチキン〈[#ルビの「マムラチキン」は底本では「マムラチキ」。底本の他ルビに倣い修正]〉、孫火赤哈兒的斤ホチハルチキン、皆亦都︀護イドクの位を嗣ぎしが、火赤哈兒ホチハルは、叛王海︀都︀都︀哇ハイドドワ等に攻められ、遂に戰に死せり。その子紐林的斤ニウリンチキンは、武宗の時亦都︀護イドクとなり、仁宗の時高昌王に封ぜられき。紐林的斤ニウリンチキン薨じ、長子帖木兒補化テムルブハ、亦都︀護イドク高昌王を襲ぎ、天曆二年中書左丞相となり、亦都︀護イドク高昌王の位を弟籛吉ヅアンギに讓れり。火赤哈兒ホチハル・紐林ニウリン・帖木兒補化テムルブハは、皆公主に尙しき。文宗紀至順三年「高昌王藏吉ツアンギ薨、其弟太平奴タイビンヌ襲位。」藏吉ツアンギは、卽傳の籛吉ヅアンギなり。考異に曰く「考虞集高昌王世勛碑、紐林的斤ニウリンチキン、止有二子、與本傳合、則太平奴タイビンヌ似非紐林ニウリン之子矣」。又順帝紀至正十三年「亦都︀護イドク高昌王月魯帖木兒ユルテムル、薨于南陽軍中。命其子桑哥サンゲ襲亦都︀護イドク高昌王爵」。月魯帖木兒ユルテムルは、誰の子なるかを知らず。又氏族表には、帖木兒補化テムルブハの子不荅失里ブダシリ「中書平章政事、嗣亦都︀護イドク高昌王。薨。子和賞コシヤン嗣。元亡、降於明、授高昌衞同知指揮使司事。