Page:那珂通世遺書.pdf/420

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表)​忙哥陳​​モゲチン​の女​忽台​​フタイ​は、憲宗の貞節︀皇后。その妹​也速兒​​エスル​も、憲宗の皇后。​特薛禪​​テイセチエン​の曾孫(按陳の從孫)​哈兒只​​ハルヂ​の女​速哥失里​​スガシリ​は、武宗の皇后。その外裕宗の徽仁裕聖皇后​伯藍也性赤​​バランエケチ​又の名​闊闊眞​​ココヂン​、顯宗の宣懿淑聖皇后​普顏怯里迷失​​ブヤンケリミシ​、仁宗の莊懿慈聖皇后​阿納失失里​​アナシシリ​、寧宗の​荅里也忒迷失​​ダリエテミシ​皇后も、皆​弘吉剌​​ホンギラ​氏なり(后妃傳)。蒙古に​翁吉喇惕​​オンギラト​あるは、恰も遼に蕭氏あり、我が朝に藤原氏あるが如くなりき。


二。​許兀愼​​フウヂン​の​脫歡​​トゴン​、​兀嚕兀惕​​ウルウト​の​客台​​ケタイ​、​忙忽惕​​モンクト​の​蒙可哈勒札​​モンケハルヂヤ​。

 列傳卷六​博爾忽​​ボルフ​の傳なるその子​脫歡​​トホン​は、功臣の第六十なる​脫歡​​トゴン​なるべきこと、列傳卷七​朮赤台​​チユチタイ​の傳なるその子​怯台​​ケタイ​は、功臣の第五十七なる​客台​​ケタイ​なること、列傳卷八​畏荅兒​​ウイダル​の傳なるその子​忙哥​​モンケ​は、功臣の第五十二なる​蒙可哈勒札​​モンケハルヂヤ​なることは、已に前に云へり。


三。​儞出古惕巴阿𡂰​​ニチユグトバアリン​の​阿剌黑​​アラク​。

 列傳卷十四(元史一二七)、​伯顏​​バヤン​の傳なる祖︀父​阿剌​​アラ​は、功臣の第二十六なる​儞出古惕巴阿𡂰​​ニチユグトバアリン​の​阿剌黑​​アラク​なり。その傳に曰く「伯顏、蒙古​八隣​​バリン​部人。曾祖︀​述律哥圖​​シユルゲト​、事太祖︀、爲​八隣​​バリン​部左千戶。祖︀​阿剌​​アラ​、襲父職、兼斷事官、平​忽禪​​フチエン​有功、得食其地」。​述律哥圖​​シユルゲト​は、太祖︀紀の​失力哥也不干​​シリゲエブゲン​、實錄卷五の初の​失兒古額禿額不堅​​シルグエトエブゲン​、卷九、三六六頁の​失兒歌禿額不堅​​シルゲトエブゲン​なり。​忽禪​​フチエン​は、​失兒荅哩牙​​シルダリア​の​大曲​​オホマガリ​の南岸にある​闊氈篤​​コヂエンド​なり。​喇失惕​​ラシツト​に據るに、太祖︀西征の役、​斡惕喇兒​​オトラル​にて全軍を四に分け、​阿剌黑那顏​​アラクノヤン​は、​速客禿脫該​​スケトトガイ​と共に、​昔渾​​シフン​河(​失兒荅哩牙​​シルダリア​)に泝り、​別納客惕闊氈篤​​ベナケトコヂエンド​を攻め落せり。

 ​阿剌​​アラ​の子を​曉古台​​ヒヤウグタイ​と云ふ。​伯顏​​バヤン​の傳に「父​曉古台​​ヒヤウグタイ​、世其官、從宗王​旭烈兀​​フレウ​、開西域。伯顏長於西域。至元初、​旭烈兀​​フラグ​遣入奏事。世祖︀見其貌偉、聽其言厲、曰「非諸︀侯王臣也。其留事朕」。與謀國事、恆出廷臣右。世祖︀益賢之。勅以中書右丞相​安童​​アントン​女弟妻之、若曰「爲伯顏婦不慚爾氏矣」。二年七月、拜光祿大夫中書左丞。諸︀曹白事、有難決者︀、徐以一二語決之。眾服曰「眞宰輔也」」。​喇失惕​​ラシツト​に據れば、​巴𡂰​​バリン​の伯顏は、もと​旭剌庫​​フラク​(卽​旭烈兀​​フレウ​)に仕へたりしが、​庫卜賚汗​​クブラカン​の使者︀​撒兒塔克​​サルタク​等、一二六五年(至元二年)に​珀兒沙​​ペルシヤ​より東に歸る時、​旭剌庫​​フラク​は伯顏をそれらに伴なひて大汗の處に使せしめき(​額兒篤曼​​エルドマン​の「​帖木眞​​テムヂン​」二一四)。​馬兒科保羅​​マルコポーロ​の紀行(​裕勒​​ユール​譯註)第三第四章に、​尼闊剌思保羅​​ニコラスポーロ​・​馬弗斡保羅​​マフエオポーロ​兄弟、​孛合喇​​ボカラ​の城に至り、進退窮まりて三年留まりし時、東の君(​珀兒沙​​ペルシア​の​亦兒罕​​イルカン​)​阿剌兀​​アラウ​(​旭剌罕​​フラウ​〈[#「旭剌罕」はママ。]〉)より世界のあらゆる​塔兒塔兒​​タルタル​の主なる​大合罕​​カガン​の朝廷に赴く使者︀至り、二人を見て、かゝる處にて​剌甸​​ラチン​の人に遇へるを喜び、​大合罕​​カガン​の朝廷に伴なひ往かんことを勸め、二人はその使者︀に從ひ、​庫卜賚汗​​クブライカン​の朝廷に至れることを載せたり。これは、恰も一二六五年、​撒兒塔克​​サルタク​等の歸れると同じ年なれば、​保羅​​ポーロ​兄弟の伴なひしは、​撒兒塔克​​サルタク​・​伯顏​​バヤン​等の一行なりけん。

 伯顏の功業は、本傳に甚委し。至元十一年、中書左丞相となり、中書省を荆湖に行ひ、江を渡り、鄂州を降し、十二年春、賈似道の大軍を江上に破り、江淮の州軍を降し、六月上都︀に至り、世祖︀に見え、七月右丞相に進み、八月南に還り、「九月戊寅、會師淮之城下、遣新附官孫嗣武叩城大呼、又射書城中、諭守將使降。皆不應」。伯顏は、その南城の堡を拔き、寶應・高郵を過ぎ、十月兵を留めて揚州を圍み、江を渡りて鎭江に至り、十一月軍を分けて水陸より竝び進み、「壬午、伯顏軍至常州。先是常州守王宗洙遁、通判王虎臣以城降。(世祖︀紀「三月、宋常州安撫戴之泰・通判王虎臣以城降」、續綱目「三月、知常州趙與鑑遁、州人王良臣以城降元」。)其都︀統制劉師勇、與張彥王安節︀等復拒之(世祖︀紀「五月、宋都︀統制劉師勇・殿帥張彥據常州」、推姚訔爲守、固守數月不下。伯顏遣人至城下、射書城中、招諭「勿以已降復叛爲疑、勿以拒敵我師爲懼」。皆不應。乃