表)忙哥陳モゲチンの女忽台フタイは、憲宗の貞節︀皇后。その妹也速兒エスルも、憲宗の皇后。特薛禪テイセチエンの曾孫(按陳の從孫)哈兒只ハルヂの女速哥失里スガシリは、武宗の皇后。その外裕宗の徽仁裕聖皇后伯藍也性赤バランエケチ又の名闊闊眞ココヂン、顯宗の宣懿淑聖皇后普顏怯里迷失ブヤンケリミシ、仁宗の莊懿慈聖皇后阿納失失里アナシシリ、寧宗の荅里也忒迷失ダリエテミシ皇后も、皆弘吉剌ホンギラ氏なり(后妃傳)。蒙古に翁吉喇惕オンギラトあるは、恰も遼に蕭氏あり、我が朝に藤原氏あるが如くなりき。
二。許兀愼フウヂンの脫歡トゴン、兀嚕兀惕ウルウトの客台ケタイ、忙忽惕モンクトの蒙可哈勒札モンケハルヂヤ。
列傳卷六博爾忽ボルフの傳なるその子脫歡トホンは、功臣の第六十なる脫歡トゴンなるべきこと、列傳卷七朮赤台チユチタイの傳なるその子怯台ケタイは、功臣の第五十七なる客台ケタイなること、列傳卷八畏荅兒ウイダルの傳なるその子忙哥モンケは、功臣の第五十二なる蒙可哈勒札モンケハルヂヤなることは、已に前に云へり。
三。儞出古惕巴阿𡂰ニチユグトバアリンの阿剌黑アラク。
列傳卷十四(元史一二七)、伯顏バヤンの傳なる祖︀父阿剌アラは、功臣の第二十六なる儞出古惕巴阿𡂰ニチユグトバアリンの阿剌黑アラクなり。その傳に曰く「伯顏、蒙古八隣バリン部人。曾祖︀述律哥圖シユルゲト、事太祖︀、爲八隣バリン部左千戶。祖︀阿剌アラ、襲父職、兼斷事官、平忽禪フチエン有功、得食其地」。述律哥圖シユルゲトは、太祖︀紀の失力哥也不干シリゲエブゲン、實錄卷五の初の失兒古額禿額不堅シルグエトエブゲン、卷九、三六六頁の失兒歌禿額不堅シルゲトエブゲンなり。忽禪フチエンは、失兒荅哩牙シルダリアの大曲オホマガリの南岸にある闊氈篤コヂエンドなり。喇失惕ラシツトに據るに、太祖︀西征の役、斡惕喇兒オトラルにて全軍を四に分け、阿剌黑那顏アラクノヤンは、速客禿脫該スケトトガイと共に、昔渾シフン河(失兒荅哩牙シルダリア)に泝り、別納客惕闊氈篤ベナケトコヂエンドを攻め落せり。
阿剌アラの子を曉古台ヒヤウグタイと云ふ。伯顏バヤンの傳に「父曉古台ヒヤウグタイ、世其官、從宗王旭烈兀フレウ、開西域。伯顏長於西域。至元初、旭烈兀フラグ遣入奏事。世祖︀見其貌偉、聽其言厲、曰「非諸︀侯王臣也。其留事朕」。與謀國事、恆出廷臣右。世祖︀益賢之。勅以中書右丞相安童アントン女弟妻之、若曰「爲伯顏婦不慚爾氏矣」。二年七月、拜光祿大夫中書左丞相。諸︀曹白事、有難決者︀、徐以一二語決之。眾服曰「眞宰輔也」」。喇失惕ラシツトに據れば、巴𡂰バリンの伯顏は、もと旭剌庫フラク(卽旭烈兀フレウ)に仕へたりしが、庫卜賚汗クブラカンの使者︀撒兒塔克サルタク等、一二六五年(至元二年)に珀兒沙ペルシヤより東に歸る時、旭剌庫フラクは伯顏をそれらに伴なひて大汗の處に使せしめき(額兒篤曼エルドマンの「帖木眞テムヂン」二一四)。馬兒科保羅マルコポーロの紀行(裕勒ユール譯註)第三第四章に、尼闊剌思保羅ニコラスポーロ・馬弗斡保羅マフエオポーロ兄弟、孛合喇ボカラの城に至り、進退窮まりて三年留まりし時、東の君(珀兒沙ペルシアの亦兒罕イルカン)阿剌兀アラウ(旭剌罕フラウ〈[#「旭剌罕」はママ。]〉)より世界のあらゆる塔兒塔兒タルタルの主なる大合罕カガンの朝廷に赴く使者︀至り、二人を見て、かゝる處にて剌甸ラチンの人に遇へるを喜び、大合罕カガンの朝廷に伴なひ往かんことを勸め、二人はその使者︀に從ひ、庫卜賚汗クブライカンの朝廷に至れることを載せたり。これは、恰も一二六五年、撒兒塔克サルタク等の歸れると同じ年なれば、保羅ポーロ兄弟の伴なひしは、撒兒塔克サルタク・伯顏バヤン等の一行なりけん。
伯顏の功業は、本傳に甚委し。至元十一年、中書左丞相となり、中書省を荆湖に行ひ、江を渡り、鄂州を降し、十二年春、賈似道の大軍を江上に破り、江淮の州軍を降し、六月上都︀に至り、世祖︀に見え、七月右丞相に進み、八月南に還り、「九月戊寅、會師淮之城下、遣新附官孫嗣武叩城大呼、又射書城中、諭守將使降。皆不應」。伯顏は、その南城の堡を拔き、寶應・高郵を過ぎ、十月兵を留めて揚州を圍み、江を渡りて鎭江に至り、十一月軍を分けて水陸より竝び進み、「壬午、伯顏軍至常州。先是常州守王宗洙遁、通判王虎臣以城降。(世祖︀紀「三月、宋常州安撫戴之泰・通判王虎臣以城降」、續綱目「三月、知常州趙與鑑遁、州人王良臣以城降元」。)其都︀統制劉師勇、與張彥王安節︀等復拒之(世祖︀紀「五月、宋都︀統制劉師勇・殿帥張彥據常州」、推姚訔爲守、固守數月不下。伯顏遣人至城下、射書城中、招諭「勿以已降復叛爲疑、勿以拒敵我師爲懼」。皆不應。乃