は、塔思タスをふと誤りたるなり。按只歹アンヂダイ・口溫不花クウンブハ・塔思タス等の河を渡りて、拖雷トルイと三峯山に會したる太宗四年の春にして、潞州鳳翔の戰の引續きに非ざれば、かく一筆に書き連ぬべきに非ず。又睿宗の傳に、太宗三年十二月禹山の戰の後、鄧州を捨てて北に進む時、「以三千騎命札剌ヂヤラ等率之爲殿。明旦大霧迷道、爲金人所襲、殺︀傷相當。拖雷トルイ以札剌ヂヤラ失律罷之、而以野里知給歹エリチキダイ代焉。未幾敗金軍」。野里知給歹エリチキダイも額勒只吉歹エルヂギダイなり。札剌ヂヤラは、太祖︀十四年哈眞ハヂンと共に高麗の契丹キダン賊を不げたる元帥札剌ヂヤラなり。黑韃事略「其相四人」の疏證に「霆至草地時、按只䚟アンヂダイ己不爲矣。粘合重山ネンカチユンシヤン、隨屈朮クチユ僞太子南侵。次年、屈朮クチユ死、按只䚟アンヂダイ代之、粘合重山ネンカチユンシヤン復爲之助」とあり。屈朮クチユは、太宗の第三子闊出コチユまた曲出クチユにして、太宗紀に「七年乙未春、遣皇子曲出クチユ及胡土虎クトフ伐宋。冬十月、曲出クチユ圍棄陽拔之、遂徇襄鄧、入郢、虜︀人民牛馬數萬而還。八年丙申春二月、命應州郭勝、鈞州孛朮魯九住ボチユルキウヂウ、鄧州趙祥︀、從曲出クチユ、充先鋒伐宋。冬十月、皇子曲出クチユ薨」。粘合重山ネンカチユンシヤンの傳に「太宗七年、從伐宋、詔軍前行中書省事、許以便宜。師入宋境、江淮州邑、望風款附。重山チユンシヤン降其民三十餘萬、取定城・天長二邑、不誅一人」とあれども、額勒只吉歹エルヂギダイの曲出クチユに代り、重山チユンシヤンのそれを助けたる事は、載せられず。
定宗紀に、二年丁未「八月、命野里知吉帶エリチギダイ、率搠思蠻シユスマン部兵征西。是月、詔蒙古人、戶毎百以一名充拔都︀魯バドル」とあり。搠思蠻シユスマンは、搠兒蠻シユルマンの誤にて、親征錄太祖︀昇遐の翌年なる戊子の年に見えたる搠力蠻シユリマンに同じく、卽祕史の搠兒馬罕シユルマカンなり。搠兒馬罕シユルマカン卽出兒馬昆チユルマグンは、多遜ドーソンに據るに、一二四〇年(太宗十二年)に歿して、その副帥なる別速惕ベスツトの拜主ハイヂユそれに代りしが、今額勒只吉歹エルヂギダイに命じて、搠兒馬罕シユルマカンの征服したる諸︀部を統べしめたるなり。訶倭兒思ホヲルス曰く「一二四七年(定宗二年)、亦勒赤喀歹イルチカダイに命じて、師を率ゐて珀兒沙ペルシヤに往かしめき。その師を聚めんが爲に、皇族の諸︀王にその部兵の十人ごとに二人を出さしめ、亦勒赤喀歹イルチカダイにも珀兒沙ペルシヤにて同じ割合に兵を徴すことを命じけり。古兒只嚕姆グルヂルームの二王國抹速勒モスル・的牙兒別克兒ヂヤルベクル・阿列披アレツポの諸︀國は、亦勒赤喀歹イルチカダイに徵稅の全權を持ちて專轄せしめ、阿兒昆アルグンは珀兒沙ペルシヤの政治を、馬思速惕マスストは突︀兒其思壇トルキスタン・河間地方のそれを故の如く執り、皆金獅符を賜はりき(含篾兒ハンメルの亦勒罕イルカン一、五八)」。古兒只グルヂ以下の諸︀國を專轄してその兵を徵すは、卽搠兒馬罕シユルマカンの部兵を率ゐるなり。諸︀王の兵十分の二を出すは、多過ぎたり。蒙古人百分の一を拔都︀魯バドル卽戰士に充つるの誤ならん。たゞ元史は、その事を野里知吉帶エリチギダイの西征に關せざる如く書きたるは非なり。
訶倭兒思ホヲルス又曰く「一二四八年(定宗三年)、庫由克クユクは、亦米勒イミル河の地方に赴かんとして、必失巴里克ビシバリクの西七日路の處(元史横相乙兒ホンシヤンギル之地)にて遽に崩じ、皇后斡古勒該米失オグルガイミシ(元史斡兀立海︀迷失オウリハイミシ)は、喪を祕して、まづ巴禿バトと拖雷トルイの寡婦秀兒庫克帖尼(祕史莎兒合黑塔尼)とに吿げ、巴禿バトの同意を得て、君の定まるまで攝政となりき。巴禿バトは、庫由克クユクに謁︀せんと阿剌克塔克アラクタク山(祕史卷五の兀魯黑塔黑ウルクタクか)に至り、訃を聞きて、そこに留り、庫哩勒台クリルタイを召集しければ、斡果台オゴタイの子孫だちは抗議して、庫哩勒台クリルタイは蒙古の舊土にて開くべしと云ひき。されども喀喇科嚕木カラコルムの太守提木兒諾顏チムルノヤン(功臣の第六十一帖木兒テムル)を遣して議に預らしめき(多遜ドーソン二、二三四)。その庫哩勒台クリルタイにて將軍亦勒赤奇歹イルチキダイ(多遜ドーソンの亦勒赤喀歹イルチカダイ)は、斡果台オゴタイの子孫に一塊の肉殘れる限りは他の皇族を選ばざることを會員の約束したりしことをその會員に想ひ起させたるに、拖雷トルイの子忽必來クビライ答へて曰く「斡果台オゴタイの志望は、旣に違背せられたりき。皇族の誰にても、諸︀王の大會にて審判せらるゝまでは殺︀すことを禁ぜられたる成吉思汗チンギスカンの法に逆ひて、汝等は、阿勒塔侖アルタルン(成吉思チンギスの愛女)を審問なしに殺︀さざりしか。また失喇門シラムンを相續人に名ざしたりし斡果台オゴタイの遺言に逆ひて、汝等は、庫由克クユクを合罕カガンの位に陛せざりしか。」將軍曼古撒兒マングサル(元史の忙哥撒兒モンゲサル)は、首として議を發し、拖雷トルイの長子曼古マングの支那西域にての武功を述べて、推戴すべきことを主張し、巴禿バトその議を賛し、曼古マングの辭するにも拘らず、議遂に定まり、巴禿バトは曼古マングに盞を捧げ、會衆は祝︀聲を揚げき。それにてこの大會は延期となり、明年更に成吉思汗チンギスカンの創業の地に皇族の諸︀王を悉