發克富兒フアクフルと稱へらるゝ王主君ありて、その富の大なることと臣民の數と領地の廣さとは、大合罕カガンを除きては、全世界にそれより大なるもの稀なるほど、盛大なる君なりき」。發克富兒フアクフルまた巴固不兒バグブルは、珀兒沙ペルシヤ・阿喇必亞アラビアの古き記錄に支那の帝を呼べる稱號なり。「天の子」なる天子の稱號を珀兒沙ペルシヤの古言にて巴固普兒バグブル「神︀の子」と譯したるなりと諾依曼ノイマン云へり。「然れどもその地の民は、軍人よりはむしろ外のものなりき。彼等の樂みは、女にありて、女の外には樂みなかりき。誰よりも王みづからは、その通りにて、貧民を惠むことを除きては、女の外何事をも考へざりき」。この好色の王は、伯顏の南征の年に崩じたる宋の度宗を云へるなり。續綱目に「帝爲太子時、以好內聞。旣立、耽于酒色。故事、嬪妾進御、晨詣閤門謝恩、主者︀書其月日。及帝之初、一日謝恩者︀三十餘人」とあり。「克哩思惕クリスト降生の一二六八年、今位に居る大合罕カガンは、伯顏丞相バヤンチンクサンと云ふ大名を彼の地に遣しき。伯顏丞相バヤンチンクサンは、伯顏百眼バヤンヒヤクマナコと云ふが如し」。この紀年誤れり。一二六八年は、至元五年、宋の度宗咸淳四年にして、その年襄陽に攻めかゝりたるは、阿朮アチユ・劉整なり。伯顏の南征は、至元十一年、の咸淳十年、卽一二七四年より始まれり。「蠻子マンジの王は、百眼ヒヤクマナコある人の爲にの外、その國を失ふことなけんと星命家の云へるを聞きたりき。かくて百眼ある人の世にあるべしとは信ぜられざる故に、みづからその位を安全なりと思ひき。然れどもこれは伯顏の名を知らざるが爲に誤れるなりき」。伯顏を百眼と云へるは、百眼バエンの音は伯顏バヤンに近きが故に、伯顏丞相バヤンチングシヤンを百眼丞相バエンチングシヤンと誰かのしやれたるなり。然るを馬兒科マルコは、百眼丞相ヒヤクマナコチンクサンと云はずして、伯顏百眼バヤンヒヤクマナコと云へるは、丞相を百眼ヒヤクマナコと解したるが如く聞ゆる故に、裕勒ユールは「もし然らば、馬兒科の支那語を知らざるの證據、これより確なるは無し」と云へり。これに善く似たるしやれは、輟耕錄にもあり。卷一に江南謠」と題して、「汲郡王公玉堂嘉話云、宋未下時江南謠云、「江南若破、百鴈󠄁バヤン來過」。當時莫喩其意。及宋亡。蓋知指丞相伯顏也」とあり顏ヤンと鴈󠄁ヤンとの違は、顏は平聲、鴈󠄁は去聲なるのみなり。「この伯顏は、大合罕より騎兵步兵の大軍を與へられ、それを率ゐて蠻子に入りき。又必要なる時に騎兵步兵を運ばんが爲に、夥しき舟を持ちけり。伯顏バヤンその衆を率ゐて蠻子マンジの地に入り、匯干主コイガンヂユ(淮安州ホインガンジユ卽淮安府)の城に至れる時、その民に大合罕に降れと諭したれども、從はざりき。そこに伯顏は、他の城に往きて、同じ結果に遇ひしかども、大合罕の、他の大軍を遣して續かしむることを知りたる故に、猶進み往きけり。かくて五つの城に引續きて進みたれども、それらの攻擊にかゝることを欲せず、又それらはみづから降らざる故に、それらの一つをも取らざりき。されども第六の城に至れる時、襲ひてそれを取り、第二第三第四をも然して、遂に引續き十二の城を取りき。それらの城を皆取りたる時に、直ちに王王后の宮所なる王國の都︀城勤賽キンサイに進みき。王は、伯顏バヤンの衆を率ゐて來ぬるを見し時に、かゝる景況を見慣れざれば、大に懼れて、人民の大衆を伴なひ、千の船に乘りて、大洋の海︀の島に遁れたるに、王后は、城に殘りて、力の及ぶ限勇婦の如く城の防禦を計りき。今王后は、敵將の名を問ひて、伯顏百眼バヤンヒヤクマナコと名づけらるゝことを吿げられたる時、百眼ヒヤクマナコの人は王國を奪ひ取るべきことを星命家の豫言したりしことを想ひ起しければ、みづから伯顏バヤンに降り、全き王國あらゆる城ども寨どもを渡して、少しも抵抗せざりき」。王王后は、宋帝の夫妻に非ず。この時の宋帝は、度宗の幼子㬎、六歲の幼主にて、皇后は無く、皇太后全氏と太皇太后謝氏とありき。勤賽キンサイは、裕勒ユールの注に「卽京師キンシにて、一一二七年より宋の都︀となりし臨安卽今の杭州を云へるなり。この名は、固有名詞の如くなりて、永く杭州に附き居たりと見えて、一五九五年旅行者︀喀兒列提カルレツチの支那地圖に、猶この名にて記され、喀兒列提カルレツチは坎薛カムセと寫せり。坎薛カムセは、第十四世紀に馬哩固諾里マリグノリの用ひたる坎賽カムサイと形甚近し」と云へり。されども宋は杭州を臨安府と改めたれども、假の皇居なるが故に、京師と云はずして、行在と云へり。世祖︀紀至元十四年十一月の處に「命中書省、檄諭中外、江南旣平、宋宜曰亡宋、行在宜曰杭州」とあり。勤賽キンサイ、又は勘賽カンサイ、看在カンザイ、馬哩固諾里マリグノリーの坎賽カムサイは、