Page:那珂通世遺書.pdf/421

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親督帳前軍、臨南城、又多建火砲、張弓弩、晝夜攻之。淛西制置文天祥︀遣尹玉・麻士龍來援、皆戰死。(續綱目には「十月、常州吿急。知平江府文天祥︀、使尹王・麻士龍・張全・朱華、將兵赴援。士龍・玉戰死、全・華不戰而遁とあり)。甲辰、伯顏叱帳前軍先登、竪赤旗城上。諸︀軍見而大呼曰「丞相登矣」。師畢登、宋兵大潰。拔之、屠其城。姚訔及通判陳炤等死之。生獲王安節︀斬之。劉師勇變服單騎奔平江。諸︀將請追之。伯顏曰「勿追。師勇所過城、守者︀膽落矣」。この戰につきて​馬兒科保羅​​マルコポーロ​の聞きたる奇談あり。その紀行の第七十四章に曰く「鎭江府の城を去り、繁華なる都︀邑の連なる所を通り、東南に三日旅すれば、盛大なる​成斤傀​​チンギングイ​(​常州​​シヤンチウ​の訛)の城に至る。… 伯顏將となり、​蠻子​​マンツ​の大州を征する時、​克哩思惕​​クリスト​敎徒なる​阿闌​​アラン​人の一隊をこの城を取りに遣りき。取りてそこに入りたる時、​阿闌​​アラン​人は、ある好き酒を見附け、飮みて皆醉ひ、豚の如く横だはり睡りき。かくて日暮れたる時、城の民は、彼等の醉ひて死人の如きを見て、跳びかゝりて悉く殺︀し、一人も逃れざりき。城の民のかく欺きてその兵を殺︀せるを聞きて、伯顏は、他の將を大軍と共に送り、城を攻めて、住民皆を劍に掛け、一人も死を免︀れざりき、かくて城の民は根絕やしせられき」。本傳には「屠其城」とあるのみなれども、この寬仁なる名將も、常州の役には例外に殘忍なりしと見え、續綱目には「伯顏至常州、會兵圍城。姚訔・陳炤・劉師勇・王安節︀力戰固守。伯顏遣人招之、譬喩百端、終不聽。伯顏怒、命降人王良臣、役城外居民、運土爲壘。土至、併人以築之。且殺︀民煎膏、取油以作砲、焚其牌杈、日夜攻不息。城中甚急、而訔等守志益堅。伯顏乃叱帳前諸︀軍、奮勇爭先、四面竝進。城遂破、訔死之、炤與安節︀猶巷戰。或謂炤曰「城東北門未合、可走」。炤曰「去此一步、非死所矣」。日中兵至、死焉。伯顏命屠其民。執安節︀至軍前、不屈、亦死。師勇以八騎突︀圍、走平江」とあり。「取油以作砲」と云へることにつき、​裕勒​​ユール​は曰く「この殘忍なる製油の用ひ方に誤解あるならん。​喀兒闢尼​​カルピニ​の話に、​塔兒塔兒​​タルタル​は、砲火を消えずに燃えさせんが爲に、砲火を城に投ぐる時、それと共に人の油を發射すと云へる故に」と云へり。

 この年十二月、伯顏の軍平江府に入り、十三年正月嘉興を降せり。「甲辰、次皐亭山。宋主遺知臨安府賈餘慶、同宗室保康軍承宣使尹甫、和州防禦使吉甫、奉傳國璽及降表、詣軍前(續綱目には「太皇太后遺監察御史楊應奎、上傳國璽以降」とあり)。乙酉、進軍至臨安北十五里。宋宰臣陳宜中、與張世傑・蘇義(世祖︀紀に蘇劉義)劉師勇等、挾益王・廣王、下涮江、航海︀而南。惟謝太后及幼主在宮中」。謝太后は、太皇太后(理宗の皇后謝氏なり。「丁亥、伯顏遺程鵬飛・洪雙壽等、入宮慰諭謝后」。考異に曰く「洪雙壽、卽洪雙叔也」。世祖︀紀に洪君祥︀とあり。君祥︀は、洪福︀源の子にして、小字を雙叔と云へり。「己丑、駐軍臨安城北之湖州市。庚寅、伯顏建大將旗鼓、率左右翼萬戶、巡臨安城、觀潮於涮江、暮還湖州市。辛卯、萬戶張弘範・郞中孟祺、以宋主謝后諭未附州郡手詔至軍前。二月辛丑(世祖︀紀に庚子)、宋主率文武百僚、望闕拜、發降表。伯顏承制、以臨安爲兩淛大都︀督府、​忙古歹​​モングダイ​・范文虎入治府事(世祖︀紀に辛丑)、復命張惠・​阿剌罕​​アラハン​・董文炳・呂文煥等、入城籍其軍民錢穀︀之數、閱實倉庫、收百官誥命符印圖籍、悉罷宋官府、取宋主、居之別室。分遣新附官、招諭南北兩廣四川未下州郡。癸卯、伯顏拜表稱賀(誰の筆に成りたるか、その文甚偉麗なり)。庚申、命​囊加歹​​ノンガダイ​、傳旨召伯顏、偕宋君臣入朝。三月丁卯、伯顏入臨安、俾郞中孟祺、籍其禮樂祭器︀冊寳儀仗圖書。乙亥、伯顏發臨安。丁丑、​阿塔海︀​​アダハイ​等宣詔、趣宋主母后入覲」。母后は、皇太后(度宗の皇后)全氏なり。「聽詔畢、卽日俱出宮。惟謝后以疾獨留。隆︀國夫人黃氏、宮人從行者︀百餘人、福︀王與芮〈[#「與芮」は底本では「與苪」。「元史」卷127第19丁に倣い修正。以後すべて同じ]〉、沂王乃猷、謝堂、楊鎭而下、官屬從行者︀數千人、三學之士數百人。五月乙未、伯顏以宋主至上都︀。世祺御大安閣受朝、降授宋主㬎〈[#「㬎」は底本では「※[#「日/𢆶」]」。「元史」卷127第19丁に倣い修正]〉開府儀同三司檢校大司徒、封瀛國公、宋平」。

 ​馬兒科保羅​​マルコポーロ​の紀行第六十五章に、​蠻子​​マンジ​卽宋の國を伯顏の平げたることを述べて、まづ「​蠻子​​マンジ​の大國に、