也松格エスンゲなるべし「壬寅、高宗薨。以太子未還、太孫諶權監國事。八月、朴希實・趙文柱、偕蒙使尸羅問シラムン等來。太孫迎詔于重房。九月、也速達エスダル使者︀加大カタイ・只大チタイ等來、巡審水內及陸居之狀。十一月、也速達エスダル使者︀於散オサン等、偕李世材來、審出陸之狀。於是發軍三十領、創宮闕於舊京」。也速達エスダルは、卽余愁達ヨチユダルの異譯にして、祕史の也速迭兒エスデルに最近し。也速迭兒エスデルは、實に也速荅兒エスダルとも稱ふる名にして、高麗にては達をダルと讀めば、この也速達は、蒙古の音を正しく寫したるなり。祕史の札剌亦兒台ヂヤライルタイと也速迭兒エスデルとは、果して高麗史の車羅大チヤラタイ・也速達エスダルならば、この二人の高麗征伐は、祕史の成りたるより遙に後の事なれば、彼の二句は、後人の攙入と見ざるべからず。綽兒馬罕チヨルマカンの巴黑塔惕バクタト〈[#ルビの「バクタト」は底本では「バグトト」。実録で「巴黑塔惕」のルビが「バクタト」だったことと「塔」を「ト」と読む例が他にないことから修正]〉征伐、速別額台スベエタイの諸︀部征伐の事は、皆實錄卷十一にありて、卷十二にはまづ後援の出征を記し、次にその成功を記したるに、女直高麗征伐の事は、前に何とも云はずして、いきなり「先に出征したる云云」とあるは、不都︀合なる書方なりと思ひしが、攪入の文と見れば、怪むに足らず。
太子倎の國に回り位を嗣ぎたる始末は、元宗世家に詳かなり。「初憲宗皇帝南征、駐蹕釣魚山。王自燕京赴行在、過京兆、至六盤山。(七月)憲宗皇帝晏駕、而阿里孛哥アリボカ、阻兵朔野、諸︀侯虞疑、罔知所從。時皇弟忽必烈クビレイ、觀兵江南。王遂南轅、間關至梁楚之郊。皇弟適在襄陽、(閏十一月)班師北上。王迎謁︀道左。皇弟驚喜曰「高麗、萬里之國。自唐太宗、親征而不能服。今其世子自來歸我、此天意也」。大加褒奬、與俱(至燕、中統元年)至開平府。本國以高宗薨吿。乃命達魯花赤束里大ダルハチソリタイ等、護其行歸國」。忽必烈クビレイの開平に至れるは、世祖︀紀に三月戊辰朔とあり、太子倎は二月訃を聞きて、その月に送り還されたれば、開平には至らずして、燕京より東に還れるならん。又この前の文に「二月壬戌、王在京兆府聞訃」とある京兆府は、燕京の誤ならん。「江淮宣撫使趙良弼言於皇弟曰「高麗雖名小國、依阻山海︀、國家用兵、二十餘年、尙未臣附。前歲太子倎來朝適變輿西征、留滯者︀二年矣。供張疏薄、無以懷輯其心。一旦得歸、將不復來。宜厚其館︀穀︀、待以蕃王之禮。今聞其父已死。誠能立使爲王、遣送還國、必感恩戴德、願修臣職。是不勞一卒、而得一國也」。陝西宣撫使廉希憲亦言之。皇弟然之、卽日改館︀、顧遇有加」。かくて太子倎は、二月の末に西京に至り、八九日留まり、三月十七日「甲申、與束里大ソリタイ入開京、行視︀營築」。二十日丁亥「王與束里大ソリタイ同舟渡海︀、自承平門入國」。二十四日辛卯「忽必烈クビレイ大王卽皇帝位」。その時發せられたる赦詔は、四月九日丙午に高麗に達し、二十一日戊午「王卽位于康安殿、灌頂受菩薩戒」。二日己亥の詔諭は、二十四日辛酉に高麗に達せり。
太宗の古余克グユクに怒れる時、忙哥阿勒赤歹モンゲアルチダイと共に諫めたる晃豁兒台掌吉コンゴルタイヂヤンギ(實錄六三八頁)は元史は見當らず。憲宗元年に葉孫脫按只䚟エスントアンヂタイと共に誅せられたる暢吉チヤンギは、掌吉シヤンギに似たれどもいかゞにや。
六。不者︀克ブヂエク卽札剌亦兒ヂヤライルの撥徹ボチエ。
太宗の古余克グユクを叱れる言の內に「速別額台スベエタイ・不者︀克ブヂエク二人の蔭に行き」とある不者︀克ブヂエク(實錄六四〇頁)を「拖雷トルイの子、蒙格モンゲの弟撥綽ボチヨ大王」と注したりしが、猶考ふれば、拖雷トルイの子を擧げんには、撥綽ボチヨよりも長子蒙格モンゲを云ふべきなり。又諸︀王の名は、速別額台スベエタイの下に列ねらるべしとも思はれず。然らばこの不者︀克ブヂエクは、速別額台スベエタイと共に征西に從へる武臣にして、偶珀兒沙ペルシヤ・嚕西亞ルシア・洪噶哩亞ハンガリアの人に聞えざりし人なるべし。元史阿剌罕アラカンの傳に「祖︀撥徹ボチエ、事太祖︀、爲火而赤ホルチ、又爲博而赤ボルチ、攻城掠地、數有戰功。太宗卽位、仍以其職從、征隴北・陝西、身先戰士、死焉」とある札剌亦兒ヂヤライルの撥徹ボチエは、卽不者︀克ブヂエクには非ずや。太祖︀の金に攻め入りたる時、親征錄に薄察ボチヤ、太祖︀紀に薄刹ボチヤ、趙柔の傳に八札バヂヤとあるは、必この撥徹ボチエなるべし。撥徹ボチエの父也柳干エリウガンは、「幼隷皇子岳里吉ユリギ、爲衞