忽速忽爾フスフル。忽速忽爾フスフルの子國王朶羅台ドロタイは、泰定の朝に仕へ、天曆二年、文宗に殺︀されき。朶羅台ドロタイの弟乃蠻台ナイマンタイは、列傳卷二十六に傳あり。天曆中、陝西行臺の御史大夫となりし時、「奉命送太宗皇帝舊鑄皇兄之寶於其後嗣燕只哥䚟エンヂゲダイ。考異に云く「按、朮赤ジユチ・察合台チヤガタイ、皆太宗之兄。燕只哥䚟エンヂゲダイ、必其後也。而宗室世系表不著︀其名。泰定紀、泰定四年、諸︀王燕只吉台エンヂギタイ襲位、遣使來朝、蓋卽其人」。多遜ドーソンの世系表に據るに、察合台の五世の孫亦先不喀イツセンブカ薨じ、弟格別克デベク嗣ぎ、格別克デベク薨じ、子亦勒赤喀歹イルチカダイ嗣ぎたり。亦先不喀イツセンブカは、仁宗紀皇慶元年に見えたる諸︀王也先不花エツセンブハ、格別克デベクは、泰定三年九月に見えたる諸︀王怯別ケベにして、亦勒赤喀歹イルチカダイは、卽泰定四年七月の燕只吉台エンヂギタイ、卽こゝの燕只哥䚟エンヂゲダイなり。乃蠻台は、順帝至元三年國王を襲ぎ、至正二年遼陽行省の左丞相。木華黎の弟帶孫ダイスン郡王の後なる塔塔兒台タタルタイは、世祖︀の時、東平の達魯花赤ダルハチとなり、二子五孫皆次第にその職を襲げり。
四。阿嚕剌惕アルラトの孛斡兒出ボオルチユ。
列傳卷六、「博爾朮ボルチユ、阿兒剌アルラ氏」は、功臣の第二なる阿嚕剌惕アルラトの孛斡兒出ボオルチユなり。太祖︀卽位の時、「從容謂博爾朮及木華黎曰「今國內平定、我之與汝、多汝等之力。猶車之有轅、身之有臂。汝等宜體此勿・替」。遂以博爾朮及木華黎爲左右萬戶、各以其屬翊衞、位在諸︀將上」とあるは、實錄卷八太祖︀の勅に「孛斡兒出ボオルチユ・木合黎ムカリ二人は、我が善き事を引き進め、善からぬ事を引き止めて、この位に到らせたり。今衆の上に位して、九度の罪にな罪なひそ。孛斡兒出は、右手の阿勒台アルタイ山に倚れる萬戶を知れ。木合黎國王は、左手の合喇溫カラウン・只敦ヂトンに倚れる萬戶を知れ」と云へる趣旨と、閻復の撰れる廣平の貞憲王(玉昔帖木兒ユシテムル)の碑に、祖︀父武忠王博爾朮ボールチユの功を叙べて「左右萬夫長、位諸︀將之上首。以武忠居右、東平忠武王居左、翊衞辰極、猶車之有軸、身之有臂」と云へる字句とを取り鎔鑄して作れるなり。その後の事蹟は、傳に漏れたれども、太祖︀の西征に從へることは、祕史の文と西游記に萬戶播魯只ボルヂと見えたるとにて明かなり。傳に皇子察哈歹チヤハダイ西域に封ぜられたる時博爾朮ボールチユより敎を受けたりとあれば、西征より還りても健全なりしと見ゆれども、「未幾、賜廣平路戶一萬七千三百有奇爲分地、以老病薨、太祖︀痛悼之」とあれば、太祖︀より前に薨じたるなり。併四傑の內にては最後まで殘れり。
博爾朮の子孛欒台ボロンタイは、萬戶の職を襲げり。孛欒台ボロンタイは、正しくは孛囉勒歹ボロルダイなるべし。十三翼の戰にまづ變を吿げたる亦乞咧思イキレスの孛囉勒歹ボロルダイも、親征錄に卜欒台ブロンタイ、孛禿ボトの傳に波欒歹ボロンダイと書けり。孛欒台ボロンタイの子玉昔帖木兒ユシテムルは、「世祖︀時、嘗寵以不名、賜號月呂魯那演ユリユルノヤン、猶華言能官也。弱冠襲爵、統按台アンダイ部眾」。按台アンダイは、卽阿勒台アルタイにして、その部眾は博爾朮ボールチユの舊統べたる部眾なり。至元十二年、御史大夫。二十四年、叛王乃顏ノヤンを討じて大功あり、二十六年、太傅となり、出でて杭海︀ハンガイを鎭め、成宗位に卽き、太師に進み、元貞元年薨じき。玉昔帖木兒ユシテムルの孫阿魯圖アルトは、順帝至正四年、中書右丞相、十一年太傅。列傳卷二十六に傳あり。博爾朮の四世の孫紐的該ニウヂダイは、至正十七年、中書添設左丞相。列傳卷二十六に傳あり。
五。許兀愼フウジンの孛囉忽勒ボロクル。
列傳卷六、「博爾忽ボルフ、許兀愼フウジン氏。事太祖︀、爲第一千戶、歿於敵」とあるは、功臣の第十五なる孛囉忽勒ボロクルなり。四傑の一人にして、その傳は只これのみなるは、甚あつけなし。却てその從孫塔察兒タチヤルの處に「伯祖︀父博爾忽ボルフ、從太祖︀、起朔方、直宿衞、爲火兒赤ホルチ。火兒赤ホルチ者︀、佩囊韃侍左右者︀也。由是子孫世其職。博爾忽ボルフ從太祖︀平諸︀國、宣力爲多。當時與木華黎ムカリ等、俱以功號四傑」とあるにつきて、錢大昕は「詳略可謂失當矣」と譏れり。
博爾忽ボルフの子脫歡トホンは、千戶の職を襲ぎ、「從憲宗、四征不庭、有拓地功」とあるは、功臣の第六十なる脫歡トゴンなるべし。耶律楚材の傳に、太宗の時「侍臣脫歡トホン奏簡天下室女」とあるも、その人ならん。脫歡の孫月赤察兒ユチチヤル