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 列傳卷五、「​阿剌兀思剔吉忽里​​アラウステギフリ​、​汪古​​オング​部人」は、功臣の第八十八なる​汪古惕​​オングト​の​阿剌忽失的吉惕忽哩古咧堅​​アラクシデギトフリグレゲン​なり。太祖︀の女​阿剌海︀別吉​​アラハイベキ​(​阿剌合別乞​​アラカベキ​)は、初に​阿剌忽失​​アラクシ​に配し、次にその姪​鎭國​​ヂング​に配し、後に幼子​孛要合​​ボヤウカ​に配したる事は、實錄卷八、三二九、三三〇頁の注に云へり。​鎭國​​ヂング​の子​聶古台​​ネグタイ​は、睿宗の女​獨木干​​トムガン​公主に尙し、​孛要合​​ボヤウカ​の子孫にて公主に尙したるもの十人あり。


三。​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​木合黎​​ムカリ​國王。

 列傳卷六(元史一一九)、「​木華黎​​ムカリ​、​札剌兒​​ヂヤラル​氏」は、功臣の第三なる札剌亦兒の木合黎國王なり。あまたの功臣の中にて實に第一の元勳にして、太祖︀卽位の時は、​阿嚕剌惕​​アルラト​の​孛斡兒出​​ボオルチユ​と竝びて左右の萬戶となり、「丁丑(太祖︀十二年)八月、詔封太師國王、都︀行省、承制行事。賜誓券黃金印、曰「子孫傳國、世世不絕」。分​弘吉剌​​ホンギラ​・​亦乞烈思​​イキレス​・​兀魯兀​​ウルウ​・​忙兀​​モング​等十軍及 ​吾也而​​ウエル​・​契丹​​キダン​蕃漢︀等軍、竝屬麾下、且諭曰「太行之北、朕自經略。太行以南、卿其勉︀之」。賜大駕所建九斿大旗、仍諭諸︀將曰「木華黎建此旗、以出號令、如朕親臨也」。乃建行省于雲燕、以圖中原」。麾下に屬する諸︀軍の事は、親征錄に委しく、「戊寅(十三年)、封木華黎爲國王、總率​王孤​​ワング​部萬騎、​火朱勒​​ホヂユル​部千騎、​兀魯​​ウル​部四千騎、​忙兀​​モング​部 ​木哥​​ムゲ​・​漢︀札​​ハンヂヤ​千騎、​弘吉剌​​ホンギラ​部・​安赤​​アンチ​・​那顏​​ノヤン​三千騎、​亦乞剌​​イキラ​部、​孛徒​​ボト​駙馬二千騎、​札剌兒​​ヂヤラル​部及​帶孫​​ダイスン​等二千騎、同北京諸︀部​烏葉兒​​ウエル​元帥​禿花​​トハ​元帥所將漢︀兵、及​北剌兒​​ベラル​所將 ​契丹​​ギタン​兵、南伐金國」とあり。戊寅と云へるは誤れり。金史宣宗紀にある、丁丑の冬、大元の兵益都︀・淄・沂・密等の州を下したるは、卽木合黎の南征にして、太祖︀紀にも木華黎の傳にも合へれば、その南征の命を受けたるは、必丁丑の年にありけん。何秋濤曰く「此錄載​弘吉剌​​ホンギラ​等止七軍、則本傳(十軍の)十、乃七之誤」。​王孤​​ワング​部は、​汪古惕​​オングト​なり。​火朱勒​​ホヂユル​部は、​倭勒甫​​ヲルフ​の史に​庫失庫勒​​クシクル​とあれば、​朱​​ヂユ​は​失​​シ​の誤にて、その下に一字脫ちたるならん。但​庫失庫勒​​クシクル​と云ふ部の名は知らず。​兀魯​​ウル​部は、​兀嚕兀惕​​ウルウト​なり。​忙兀​​モング​部 ​木哥​​ムゲ​・​漢︀札​​ハンヂヤ​は、​忙忽惕​​モンクト​の​蒙可​​モンコ​・​哈勒札​​ハルヂヤ​、列傳​畏荅兒​​ウイダル​の子​忙哥​​モンゲ​、太宗紀の​蒙古​​モング​・​漢︀札​​ハンヂヤ​なり。​別咧津​​ベレジン​の​木勒哥​​ムルゲ​・​哈勒札​​ハルヂヤ​と讀めるに據れば、​木哥​​ムゲ​の間に勒の字脫ちたるに似たり。​弘吉剌​​ホンギラ​部​安赤​​アンチ​・​那顏​​ノヤン​は、​翁吉喇惕​​オンギラト​の​阿勒赤​​アルチ​・​那顏​​ノヤン​、​亦乞剌​​イキラ​部​孛徒​​ボト​駙馬は、​亦乞咧思​​イキレス​の​不禿古咧堅​​ブトグレゲン​、​札剌兒​​ヂヤラル​部​帶孫​​ダイスン​は、​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​木合黎​​ムカリ​の弟​帶孫​​ダイスン​郡王なり。​烏葉兒​​ウエル​元帥は、列傳卷七の​吾也而​​ウエル​、卽​撒勒只兀惕​​サルムヂウト​の​兀也兒​​ウエル​、​禿花​​トハ​元帥は、列傳卷三十六なる​契丹​​キダン​の​耶律禿花​​エリユトハ​なり。​北剌兒​​ベラル​は、親征錄の前文、甲戌四月金主南遷の條に「契丹眾殺︀主帥​素溫​​スウン​而叛去、推​斫荅​​ヂヤダ​​比涉兒​​ビシエル​〈[#「ビシエル」は底本では「ビチエル」]〉​札剌兒​​ヂヤラル​爲帥、而還中都︀、遣使詣上行營納款〈[#「款」は底本では「※[#「上/示+欠」]」]〉」とあれば、札剌兒の札を北に誤れるか。又比涉兒札剌兒の中三字を脫して、比を北に誤れるならん。

 木華黎は、太祖︀十八年三月、年五十四歲にて薨じ、その子​孛魯​​ボル​、國王の爵を襲げり。​孛魯​​ボル​は、睿宗監國戊子の年に薨じ、長子​塔思​​タス​又の名は​査剌溫​​チヤラウン​襲ぎ、太宗二年、萬戶​因只吉台​​インヂギタイ​(祕史の​額勒只吉歹​​エルヂギダイ​)と共に叛將武仙を敗り、潞州を復し、三年、太宗に從ひて、河中を定め、四年、諸︀王​按赤台​​アンチタイ​(​合赤溫​​カチウン​の子​阿勒赤歹​​アルチダイ​)等と三峯山の戰に與り、五年、皇子​貴由​​グユ​に從ひ、​蒲鮮萬奴​​ブセンワンヌ​を平げ、七年、皇子​曲出​​クチユ​に從ひ、宋を伐ち、十一年薨じ、弟​速渾察​​スクンチヤ​爵を襲げり。​塔思​​タス​〈[#ルビの「タス」は底本では「アントン」。塔思(タス)は旣出であり、隣接行の安童(アントン)のルビを誤植したことが明確なので訂正]〉の第二子​霸都︀魯​​バートル​は、木華黎の傳に孛魯の第三子としたれども、錢大昕の考異氏族表は、元明善の撰れる​安童​​アントン​(​霸都︀魯​​バートル​の子)の碑に據り、孛魯の孫、塔思の子なりと云へり。霸都︀魯の長子安童は、至元中、中書右丞相。列傳卷十三に委しき傳あり。安童の孫​拜住​​バイヂユ​は、英宗の時中書右丞相、逆臣​鐵失​​テシ​に殺︀されき。列傳卷二十三に傳あり。​速渾察​​スクンチヤ​の子四人、​忽林赤​​フリンチ​・​乃燕​​ナヤン​・​相威​​シヤンウイ​・​撒蠻​​サマン​。​忽林赤​​フリンチ​は、國王の爵を襲ぎ、​乃燕​​ナヤン​は、世祖︀より​薛禪​​セチエン​の號を賜はれり。乃燕の曾孫​朶兒直班​​ドルヂバン​は、順帝の朝の名臣、列傳卷二十六に傳あり。​相威​​シヤンウイ​は、至元二十年、江淮行省の左丞相、列傳卷十五に傳あり。​撒蠻​​サマン​の孫​朶兒只​​ドルヂ​は、順帝の時、中書右丞相にて國王を嗣ぎ、列傳卷二十六に傳あり、子​俺木哥失里​​エンムゲシリ​國王を襲げり。​塔思​​タス​の末弟​阿里乞失​​アリキシ​の子國王