第六の一千の待衞の長なる兀嚕兀惕ウルウトの主兒扯歹ヂユルチエダイ親族察乃チヤナイの名は、朮赤台チユチタイの傳にもなし。
六。翁吉喇惕オンギラトの阿忽台アクタイ。
第七の一千の侍衞の長なる翁吉喇惕オンギラトの阿勒赤古咧堅アルチグレゲンの親族阿忽台アクタイは、特薛禪テイセチエンの傳なる按陳那顏アンチンノヤンの弟火忽ホクにてもあらんか。火忽ホクの事蹟は、何も無し。只甲戌の年(太祖︀九年)、太祖︀迭篾可兒デメケル(帖篾延客額兒テメエンケエル、駱駝が原)に在せる時、按陳アンチン兄弟に農土ノント(嫩禿黑ノントク、營盤の地)を分け賜ひて、火忽ホクには「哈老溫ハラウン迤東、塗河濱河之間、火兒赤納ホルチナ慶州之地、與亦乞列思イキレス爲隣、汝則居之」と諭しき。
七。札剌亦兒ヂヤライルの阿兒孩合撒兒アルカイカツサル。
第八の一千の侍衞の長なる札剌亦兒ヂヤライルの阿兒孩合撒兒アルカイカツサルは、太祖︀紀の阿里海︀アリハイなることは論なけれども、亦魯該イルガイもその人ならんと云ひたることは疑はし。阿兒孩合撒兒アルカイカツサルは、金の中都︀陷ちたる時(實錄四五二頁)、汪古兒オングル、失吉忽禿忽シギクトクと三人にて、中都︀の帑藏を調べに遣されき。
宿衞を犯して拏へられたる額勒只吉歹エルヂギダイ(實錄三八一頁六四四頁)は姓も知れざる人なれども、多遜ドーソンの史には亦勒赤喀歹那顏イルチカダイノヤンとありて、太祖︀西征の役に赫喇惕ヘラトの叛民を殲滅したることを載せられ、太宗の時に至りては(實錄六四九頁)、眾の官人どもは、額勒只吉歹エルヂギダイを長として、その命に從へと敕ありき。眾官の長は卽宰相にして、元史には、この人の宰相となれること見えざれども、黑韃事略には「其相四人。曰按只䚟アンヂダイ(原注。黑韃人、有謀而能斷)。曰移剌イラ楚材(原注。字晉卿、契丹キタン人、或稱中書侍郞)。曰粘合重山ネンカチユンシヤン(原注。女眞人或稱將軍)。共理漢︀事。曰鎭海︀チンハイ(原注。回回フイフイ人)。專理回回フイフイ國事」とあり。按只䚟アンヂダイは、阿勒赤歹アルチダイを云へるが如く聞ゆれども、阿勒赤歹アルチダイは、番直の宿老に過ぎざる人にして、四相の首に列すべき筈なければ、この按只䚟アンヂダイは、按只吉䚟アンヂギダイの略稱なるべし。額勒只吉夕エルヂギ歹を按只吉歹アンヂギダイとも云へることは、列傳卷九なる按札兒アンヂヤルの傳にも見え、又列傳卷十七なる徹里チエリの傳に燕只吉台エンヂギタイ氏、列傳卷二十七なる別兒怯不花ベルケブハの傳に燕只吉䚟エンヂギダイ氏とありて、錢大昕の元史氏族表に「燕只吉台エンヂギタイ氏、亦作晏只吉䚟アンヂギダイ氏、蒙古世族也」とあり。これは姓なれども、その呼方は名と全く同じ。燕只吉䚟エンヂギダイは額勒只吉歹エルヂギダイ、晏只吉䚟アンヂギダイは阿勒只吉歹アルヂギダイにして、額エと阿アとは、蒙古話にては善く通ふ音なれば額勒只吉歹エルヂギダイを阿勒只吉歹アルヂギダイとも云へることうつなし。移剌イラ楚材以下三相の事は、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、以耶律エル楚材爲中書令、粘合重山ネンカチユンシヤン爲左丞相、鎭海︀チンハイ爲右丞相」とありて、額勒只吉歹エルヂギダイの名も無けれども、黑韃事略は、太宗三年に官命を定めたる前の事を記せるなれば、中書令左右丞相の名も無く、たゞ「其相四人」と云へるなり。この額勒只吉歹エルヂギダイは、後に謀叛を以て誅せられたる人なれば、元史には傳をも立てず、その首相となれることまで本紀にも載せられざるなり。
木華黎ムカリの孫塔思タスの傳に、庚寅(太宗二年)九月、武仙に潞洲を取られたる時、「冬十月、帝親征、遣萬戶因只吉台インヂギタイ、與塔思タス復取潞州、仙夜遁」とある因只吉台インヂギタイも、額勒只吉歹エルヂギダイなり。「蕪エン」又は「按アン」の代りに「因イン」と云へるは、多遜ドーソンの亦勒赤喀歹イルチカダイに近し。又按札兒アンヂヤルの傳には「帝率從弟按只吉歹アンヂギダイ、口溫不花クウンブハ大王、皇弟四太子、國王孛魯ボル、征潞州鳳翔釣州三峯山」とあり。この文は、甚混亂なり。太宗の從弟と云へば、諸︀王按只歹アンヂダイの如くなれども、太宗二年の冬潞州を取りたるは、按只吉歹アンヂギダイ卽額勒只吉歹エルヂギダイと塔思タスとにして、諸︀王按只歹アンヂダイ・口溫不花クウンブハ等は與らず。皇弟四太子は、拖雷トルイなり。國王孛魯ボルは、木華黎ムカリの子、塔思タスの父にして、二年前に已に薨じたれ