Page:那珂通世遺書.pdf/441

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とあるも、​札剌亦兒​​ヂヤライル​は​札剌因​​ヂヤライン​と轉じ、​札剌因​​ヂヤライン​は​査剌溫​​チヤラウン​と轉じたらんと思はる。但​塔思​​タス​は、​萬奴​​ワンヌ​を征したれども、高麗には向はざりしを、​女直​​ヂユチ​高麗に出征したりと云ふことはいかゞあらん。


三。蒙古人の名の附けかた。

 因に云はん。蒙古人は、その姓卽部族の名を直ちに名とするもの往往あり。祕史なる​朶兒別惕​​ドルベト​の​朶兒別朶黑申​​ドルベドクシン​を始として、元史列傳には​阿兒剌​​アルラ​氏(​阿嚕剌惕​​アルラト​)の​博爾朮​​ボルチユ​の玄孫​阿魯圖​​アルト​、​兀良合​​ウリヤンカ​氏(​兀哴罕​​ウリヤンカン​)の​速不台​​スブタイ​の子​兀良合台​​ウリヤンカタイ​(​兀哴合台​​ウリヤンカタイ​)、​召烈台​​チヤウレイタイ​(​札兀咧亦惕​​ヂヤウレイト​)の​抄兀兒​​チヤウル​(​札兀兒​​ヂヤウル​)、​札剌兒​​ヂヤラル​氏(​札剌亦兒​​ヂヤライル​)の​塔出​​タチユ​の父​札剌台​​ヂヤラタイ​(​札剌亦兒台​​ヂヤライルタイ​の略)、​怯烈​​ケレイ​氏(​客咧亦惕​​ケレイト​)の​也先不花​​エセンブハ​の子​怯烈​​ケレイ​など、みなそれなり。​怯烈​​ケレイ​氏の​肖乃台​​シヤウナイタイ​は、錢大昕の考異の拾遺に​怯烈台​​ケレイタイ​の稱ありと云へり。又元史氏族表には、​珊竹​​サンヂ​氏(​撒勒只兀惕​​サルヂウト​)の​吾也而​​ウエル​の曾孫​珊竹歹​​サンヂダイ​(​撒勒只兀台​​サルヂウタイ​)、至正の翰林學士承旨​默而吉台​​メルギタイ​氏(​篾兒乞惕​​メルキト​)の​脫脫​​トト​の曾祖︀​默而吉台​​メルギタイ​、延祐︀五年の狀元​捏古䚟​​ネゲダイ​氏の​忽都︀達兒​​クドタル​の子​捏古思​​ネグス​などあり。蒙古人は、姓を名の上に附けて呼ばざる故に、姓を名としても重複せざるなり。然るに又己の姓に非ずして人の姓を名とする人も多ければ、その名を見てその姓を推定することは能はず。實錄卷三なる​速勒都︀思​​スルドス​の​泰赤兀歹​​タイチウダイ​は、人の姓なる​泰赤兀惕​​タイチウト​を取りて己の名とし、元史列傳なる​汪古惕​​オングト​の​阿剌兀思剔吉忽里​​アラウステギクリ​の孫​聶古䚟​​ネゲダイ​、​斡囉納兒​​オロナル​の​怯怯里​​ケケリ​の孫​捏古䚟​​ネグダイ​は、皆​捏古思​​ネグス​の姓を取りて名とし、​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​木華黎​​ムカリ​の女孫​乃蠻台​​ナイマンタイ​は​乃蠻​​ナイマン​の姓を、​木華黎​​ムカリ​の弟​帶孫​​ダイスン​の裔なる​塔塔兒台​​タタルタイ​は​塔塔兒​​タタル​の姓を、​許兀愼​​ヒユウヂン​の​博爾忽​​ボルク​の從曾孫​宋都︀䚟​​スンドダイ​は​速勒都︀思​​スルドス​の姓を、​客咧亦惕​​ケレイト​の​肖乃台​​シヤウナイタイ​の子​兀魯台​​ウルタイ​(​兀嚕兀台​​ウルウタイ​)は​兀嚕兀惕​​ウルウト​の姓を、​塔塔兒​​タタル​の​忙兀台​​モンゲタイ​は​忙兀惕​​モングト​の姓を、​巴嚕剌思​​バルラス​の​忽林失​​クリンシ​の父​翁吉喇帶​​オンギラダイ​は​翁吉喇惕​​オンギラト​の姓を取りて名とし、氏族表には、​塔塔兒​​タタル​の​忙兀古​​モングタイ​の兄​札剌兒台​​ヂヤラルタイ​・​雍吉剌台​​オンギラタイ​・​亦乞里台​​イキリタイ​三人ありて、​札剌亦兒​​ヂヤライル​・​翁吉喇惕​​オンギラト​・​亦乞咧思​​イキレス​の三姓を、​篾兒乞惕​​メルキト​の​伯顏​​バヤン​の兄​雪你台​​シエニタイ​は​雪你惕​​シエニト​の姓を、弟​伯要台​​バヤウタイ​(​巴牙兀台​​バヤウタイ​)は​巴牙兀惕​​バヤウト​の姓を取りて名とせり。又​翁吉喇惕​​オンギラト​の​特薛禮​​テイセチエン​の會孫​蠻子台​​マンツタイ​は​蠻子​​マンツ​(南人)に非ず、​兀嚕兀惕​​ウルウト​の​朮赤台​​チユチタイ​(​主兒扯歹​​ヂユルチエダイ​)は​主兒扯惕​​ヂユルチエト​(​女直​​ヂユチ​)人に非ず、​客咧亦惕​​ケレイト​の​哈散納​​ハサナ​の玄孫​哈剌章​​ハラヂヤン​、​篾兒乞惕​​メルキト​の​馬札兒台​​マヂヤイル​の孫​哈剌章​​ハラヂヤン​は、皆​合喇章​​カラヂヤン​(烏蠻)人に非ず、​康里​​カングリ​の​斡羅思​​オロス​は​斡囉思​​オロス​(​嚕西亞​​ルシア​)人に非ず、​乞卜察黑​​キブチヤク​の​乞台​​キタイ​は​乞台​​キタイ​(支那)人に非ず、​篾兒乞惕​​メルキト​の​馬札兒台​​マヂヤイル​は​馬札兒​​マヂヤル​(​洪噶哩亞​​ハンガリア​)人に非ず、后妃表に見えたる​亦乞咧思​​イキレス​の​孛禿​​ボト​の裔なる​瑣郞哈​​ソランハ​は、​瑣郞合​​ソランガ​(高麗)人に非ず。蒙古の俗は、人の姓にても國の名にても構はず、又は官職の名にても佛の名にても遠慮なく、勝手に取りて名に附けたるなり。


四。憲宗の高麗征伐。

 又憲宗四年に高麗を征伐したる​札剌兒​​ヂヤラル​の​札剌台​​ヂヤラタイ​は、正しく云へば​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​札剌亦兒台​​ヂヤライルタイ​にして、祕史の東征の大將と名同じければ、彼の​札剌亦兒台​​ヂヤライルタイ​は、この人に非ずやとも思はる。元史列傳卷二十​塔出​​タチユ​の傳に交​札剌台​​ヂヤラタイ​、歷事太祖︀憲宗。歲甲寅(憲宗四年)、奉旨伐高麗、命​桑吉忽剌出​​サンギクラチユ​諸︀王、竝聽節︀制。其年、破高麗連城、擧國遁入海︀島。己未(憲宗九年)正月、高麗計窮、遂內附、​札剌台​​ヂヤラタイ​之功居多」。​札剌台​​ヂヤラタイ​は、高麗史に​車羅大​​チヤラタイ​とあり。​桑吉​​サンギ​は、高麗史に​散吉​​サンキ​大王とあり。世系表に見えず。​搠只哈撒兒​​シユヂハツサル​王の第二子​移相哥​​イサンゲ​大王か。​忽剌出​​クラチユ​は、世系表​哈赤溫​​ハチウン​大王の曾孫、濟南王​按只吉歹​​アンヂキダイ​の孫、​哈丹​​ハダン​大王の子、隴王​忽剌出​​クラチユ​なり。高麗史に見えず、憲宗紀「二年壬子十月、命諸︀王​也古​​エグ​征高麗」。​也古​​エグ​は、​搠只哈撒兒​​シユヂハツサル​王の子淄川王​也苦​​エク​なり。高麗史に​也窟​​エク​大王とあり「三年癸丑春、諸︀王​也古​​エグ​以怨襲諸︀王​塔剌兒​​タラル​營。罷​也古​​エグ​征高麗兵、以​札剌兒帶​​ヂヤラルダイ​爲征東元帥」。​塔剌兒​​タラル​は、世系表に見えず。​鐵木哥斡赤斤​​テムゲオチギン​の孫​塔察兒​​タチヤル​國王の​察​​チヤ​を​剌​​ラ​と誤れるには非ずや。​札剌兒帶​​ヂヤラルダイ​は、卽傳の​札剌台​​ヂヤラタイ​なり。そ