何も載せざれども、貴裕グイユは、卽親征錄の貴由グイユにして、祕史の古亦克捏克グイクネクなるべし。多禮伯臺ドリベタイは朶兒別惕ドルベトにして、卜領勤ブリンキンはその分部の名なり。
太祖︀、金・夏の二國を降して回りたる後、金帝に拘へられたる主卜罕ヂユブカン(實錄四四六頁)を、元史太宗紀睿宗の傳は、搠不罕シユブカンと書き、宋に殺︀されたりとし、太宗三年の事としたるは、いづれか正しきを知らざる上に、猶この二說のいづれにも合はざる他の一說ありて、列傳卷八十忠義一石珪の傳に「歲戊寅(太祖︀十三年)、太祖︀使葛葛不罕ガガブカン與宋議和。庚辰(十五年)宋果渝盟」と見えたり。拘へらるとも殺︀さるとも云はざれども、葛葛不罕ガガブカンの名は、主卜罕ヂユブカン・搠不罕シユブカンと稍似たれば、これも同事の異聞なるべし。
西征の役に者︀別ヂエベ・速別額台スベエタイと共に莎勒壇シヨルタンを追ひたる脫忽察兒トクチヤル(實錄四八一頁)は、太宗の時に阿喇淺アラツエンと共に站ヂヤムを整ふることを命ぜられき(卷十二六五九頁)。この脫忽察兒トクチヤル、卽喇失惕ラシツトの脫噶察兒トガチヤルは、許兀愼ヒユウヂンの孛囉忽勒ボロクルの從孫にして、元史には塔察兒タチヤルと云ひ、列傳卷六なる博爾忽ボルクの傳に附記せり。金を滅し、宋を敗り、戰功甚多き人なり。
三皇子の叱られ居たる時太祖︀をなだめたる三人の箭筒士、阿荅兒斤アダルギンの晃孩豁兒赤コンカイゴルチ、朶龍吉兒ドロンギルの晃塔合兒豁兒赤コンタカルゴルチ、斡帖格歹オテゲダイの搠兒馬罕豁兒赤シユルマガンゴルチ〈[#「罕」のルビ「ガン」はママ。実録では「カン」。以後もママ]〉(實錄五一五頁)三人の內、晃孩コンカイ・晃塔合兒コンタカルは外に見當らず。搠兒馬罕シユルマガンは、卷十二、五八九頁に綽兒馬罕チヨルマガンとあり。多遜ドーソンの史には察兒抹足チヤルモグンと云ひて西征の事蹟甚詳かなり。元史には、定宗紀二年に搠兒蠻シユルマン(誤りて搠思蠻シユスマン)の部兵、曷思麥里カスメリの傳に西域の大帥察罕チヤガンと見え、親征錄には「太宗皇帝與太上皇、共議搠力蠻シユリマン復征征城」と見えたるのみにして、事蹟は何も見えず。
五。忽嚕木石クルムシの牙剌哇赤ヤラワチ馬思忽惕マスクト。
忽嚕木石クルムシの牙剌哇赤ヤラワチ・馬思忽惕マスクト父子(實錄五三三頁)は、喇失惕ラシツトの史に、父を馬呵木惕マハムト・也勒縛只エルヷヂと云ひ、子を馬思速惕閉マスストベーと云へり。二人の太祖︀の時に任用せられたることは、元史に見えざれども、太宗元年八月即位の時には、親征錄に「西域賦調、命牙魯瓦赤ヤルワチ主之」、本紀に「西域人以丁計出賦調、麻合沒的滑剌西迷マハムトハラシミ主之」とあり。西迷シミは、蓋瓦赤ワチの誤なり。十三年十月には、親征錄に「命牙老瓦赤ヤラワチ、生管漢︀民」、本紀に「命牙老瓦赤ヤラワチ、主管漢︀民公事」とあり。列傳卷四十なる劉敏︀の傳に「辛丑(太宗十三年)春、授行尙書省。詔曰「卿之所行、有司不得與聞」。俄而牙魯瓦赤ヤルワチ自西域回、奏與敏︀同治漢︀民。帝允其請。牙魯瓦赤ヤルワチ素剛尙氣、恥不得自專、遂俾其屬忙哥兒モンゲル、誣敏︀以流言。敏︀出手詔示之、乃已。帝聞之、命漢︀察火兒赤ハンチヤホルチ中書左丞[相]粘合重山ネンカチユンシヤン奉御李簡詰問、得實、罷牙魯瓦赤ヤルワチ、仍令敏︀獨任」とあるはその時の事にして、牙剌哇赤ヤラワチの罷められたることは、本紀に漏れたり。又列傳卷四十五なる姚樞の傳に「辛丑、賜金符、爲燕京行臺郞中。時牙魯瓦赤ヤルワチ行臺、惟事貨路、以樞幕長分及之。樞一切拒絕、因棄官去」とあるを見れば、牙剌哇赤ヤラワチも、つまらぬ人なるが如し。喇失惕ラシツトに據れば、馬思速惕閉マスストベーは、太宗の末年に突︀兒其思壇トルキスタン河間地方の太守となり、軍にて荒されたる地方の繁榮を回復したりし