Page:那珂通世遺書.pdf/442

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の年「十二月、命宗王​耶虎​​エフ​、與洪福︀源同領軍、征高麗、攻拔禾山東州春州三角山楊根天龍等城」。​耶虎​​エフ​は、卽​也古​​エグ​なり。旣に罷めて、復命ぜられしか。然らずば​札剌兒帶​​ヂヤラルダイ​を以て​也古​​エグ​に代ふるは、明年の事なるを、誤りてこの年に書きたるならん。洪福︀源の傳に「乙巳(定宗卽位の前年)、定宗命​阿母罕​​アムカン​將兵與福︀源共拔威州平虜︀城。辛亥、憲宗卽位、改授虎符、仍爲前後歸附高麗軍民長官。癸丑、從諸︀王​耶虎​​エフ​、攻禾山東州春州三角山楊根天龍等城拔之」。​阿母罕​​アムカン​は、高麗史に​阿母侃​​アムカン​と書きて、蒙古元帥とも蒙古東京路官人ともあり。乙巳は、丁未(定宗二年)の誤なり。定宗紀にはこの事を載せざれども、​多遜​​ドーソン​の史に「一二四七年に兵を出して高麗を征しき」とあり。又憲宗紀に「四年甲寅夏、遣​札剌亦兒​​ヂヤライル​部人​火兒赤​​ホルチ​征高麗」とあるは、卽​札剌亦兒台豁兒赤​​ヂヤライルタイゴルチ​にして、​火兒赤​​ホルチ​は、人の名に非ず、官の名なり。人の名は、​札剌亦兒台​​ヂヤライルタイ​にして、卽前年の​札剌兒帶​​ヂヤラルダイ​、明年の​剳剌䚟​​ヂヤラダイ​なり。前後に同じ人あるにも心附かずして、異なる人の如く書きたる史臣の譯し方は、なんととんまなる事ならずや。洪福︀源の傳に「甲寅、與​札剌台​​ヂヤラタイ​合兵、攻光州安城忠州玄鳳珍原甲向玉果等城、又拔之」とあるは、甲寅の後二三年の事までを一筆に書き縮めたるにて、憲宗紀には、五年乙卯の處に「是歲、改命​剳剌䚟​​ヂヤラダイ​與洪福︀源同征高麗。後此連三歲、攻拔其光州安城中州玄風珍原甲向玉果等城」とあり。「改めて命ず」とは面白し。前年の​火兒赤​​ホルチ​と異なりと思へるが故に、この二字を加へたるなり。又紀六年丙辰の處に「是歲、高麗國王​細瑳甫​​シツオフ​來覲」とあるは、何を誤りたるにや考へ得ず。又紀に「八年戊午三月、命洪茶丘、率師從​剳剌䚟​​ヂヤラダイ​、同征高麗」。洪福︀源の傳「戊午、福︀源遺其子茶丘、從​札剌台​​ヂヤラタイ​軍。會高麗族子王綧入質、陰欲併統本國歸順人民、譜福︀源于帝、遂見殺︀」。王綧は、太宗十三年に質子となり、それより蒙古に留まり居たるにて、この年往きたるに非ず。福︀源の殺︀されたるは、高麗史福︀源の傳に據れば、綧の客李稠、福︀源の呪咀したることを覘ひ知りて、憲宗に訴へたるを福︀源は、綧の訴へしめたることと思ひ、綧を罵りたれば、綧の妻は、蒙古の宗女にして、その語を聞きて大に怒り奏聞しけり。そこに憲宗は使を遣りて福︀源を蹴殺︀さしめき。高麗の太子倎の憲宗九年己未四月に蒙古に入りたることは、憲宗紀に漏れたれども、世祖︀紀中統元年三月卽位の條に「陜西宣撫使廉希憲言「高麗國王、嘗遣其世子倎入覲。會憲宗將兵攻宋、倎留三年不遣。今聞其父已死。若立倎遣歸國、彼必懷德於我。是不煩兵而得一國也」。帝是其言、改館︀倎、以兵衞送之、仍赦其境內。四月己亥、詔諭高麗國王王使、仍歸所俘民及其逃戶、禁邊將勿擅掠」とあり。高麗傳には、太宗の末年王綧の質子となれることを叙べたる後に、「當定宗憲宗之世、歲貢不入。故自定宗二年至憲宗八年、凡四命將征之、凡拔其城十有四。憲宗末、㬚(高宗)遣其世子倎入朝。世祖︀中統元年三月、㬚卒。命倎歸國、爲高麗國王、以兵衞送之、仍赦其境內」と云ひて、その赦の制書と四月の諭旨とを載せたり。

 四度の征伐の第一は、定宗二年丁未、高麗の高宗三十四年、​阿母罕​​アムカン​卽​阿母侃​​アムカン​の東征にして、高麗史に「七月、蒙古元帥​阿母侃​​アムカン​、領兵來屯鹽州。八月、遣起居舍人金守精︀特​阿母侃​​アムカン​。去年冬、蒙古四百人、入北塞諸︀城、至于遂安縣、托言捕獺、凡山川隱僻、無不覘知。國家以和好、殊不爲意。至是百姓避匿者︀、竝被驅掠、鮮有脫者︀」、とあり。太宗の末年以來、高麗の使每年蒙古に朝し、或は年に二たび往き、たゞ定宗元年のみは遣使の事高麗史に見えず、この年以後は又年年絕えざるに、高麗傳に「歲貢不入」と云へるは、疑ふべし。朝貢の使手ぶらにて往きたるにもあるまじ。

 第二の征伐は、憲宗三年癸丑、高宗四十年、諸︀王​也古​​エグ​卽​也窟​​エク​大王の東征なり。憲宗三度の征伐は、高麗史に甚委しければ、今世家列傳に據りてその槪要を摘記せん。高麗の高宗は、太宗四年七月江華島に竄れてより、十年十二月使を遣し表を上りて哀を請ひ、十三年四月族子王綧を人質に送りし後も、高宗の君臣は島より出でざりき。蒙古人は、水戰に甚拙くして、島籠りせるものに向ひてはいかにともすること能はざれば、