が、禿喇奇納トラキナ皇后の攝政の時、その政治に信服せずして、巴禿罕バトカンの處に遁げ去りき。定宗位に卽き、呼び回して舊の職に就かしめけり。普剌諾喀兒闢尼プラノカルピニに據れば、定宗卽位の食會に、馬思速惕マスストは已に舊官(西域の牧長)を以て參列せり。憲宗紀元六月卽位の條に「以牙剌瓦赤ヤラワチ・不只兒ブヂル・斡魯不オルブ・覩荅兒ドダル等充燕京等處行尙書省事、以訥懷ヌホアイ・塔剌海︀タラハイ・麻速忽マスク等充別失八里ベシバリ等處行尙書省事」とありて、太宗の末年に罷められたる牙剌哇赤は再任用せられき。麻思忽マスクは、卽馬思忽惕マスクトにして、喇失惕ラシツトの馬思速惕マスストなり。列傳卷四十六なる趙璧の傳に據れば、憲宗卽位の初に「一日斷事官牙老瓦赤ヤラワチ、持其印、請于帝曰「此先朝賜臣印也。今陛下登極、將仍用此舊印。抑易以新者︀耶」。時壁侍旁質之曰「用汝與否、取自聖裁。汝乃敢以印爲請耶」。奪其印、置帝前。帝爲默然久之。旣而曰「朕亦不能爲此也」。自是牙老瓦赤不復用」とあり。「不復用」と云へるは、この時直に罷められたるに非ず、明年も不只兒等と我儘を働き居たること世祖︀紀に見ゆれば、數年の後遂に信用を失ひたることを終言したるならん。世祖︀紀に「歲壬子(憲宗二年)、帝駐桓・撫間。憲宗令斷事官牙魯瓦赤與不只兒等、總天下財賦于燕、視︀事一日、殺︀二十八人。其一人盜馬者︀、杖而釋之矣。偶有獻環刀者︀、遂追還所杖者︀、手試刀斬之。帝責之曰「凡死罪、必詳讞而後行刑。今一日殺︀二十八人、必多非辜。旣杖復斬、此何刑也」。不只兒錯愕不能對」。不只兒は、功臣の第三十八、列傳の不智兒なり。この淫刑につき不只兒のみ叱られたるが如くなれども、牙剌哇赤もその責を分たざるべからず。姚樞の傳に「世祖︀在潛邸、遣趙璧召樞至、大喜、待以客禮」とありて、姚燧(樞の從子)の牧菴文集に載せたる樞の神︀道碑には「上遣趙壁驛至彰德。壁恐樞避去、獨至輝、以過客見、審其爲樞、始致見徵意。樞恐使者︀誤徵、不敢應。壁曰「君非棄牙老瓦赤隱此者︀乎」。曰「然」。乃偕往彰德受命」と云へり。
綽兒馬罕チヨルマカンの後援に蒙格禿モンゲトと共に出征したる斡豁禿兒オゴトル(實錄五八九頁)、太宗の乞塔惕キタト征伐の時大斡兒朶思オルドスに留守したる斡勒荅オルダ・合兒豁兒赤カルゴルチ(五九五頁)二人は、外に見當らず。
主兒扯惕莎郞合思ヂユルチエトシヨランガスの處に出征したる札剌亦兒台豁兒赤ヂヤライルタイゴルチ(實錄二八頁)は、撒兒台豁兒赤サルタイゴルチの誤寫又は誤譯ならんと(六三四頁に)云ひたれども、獨考えれは札剌亦兒ヂヤライルの木合里ムカリ國王の長孫塔思タスにはあらずやとも思はる。木華黎ムカリの傳に「塔思タス、一名査剌溫チヤラウン。‥‥癸己(太宗五年)秋九月、從定宗于潛邸東征、擒金咸平宣撫完顏萬奴ワンヤンワンヌ于遼東。萬奴ワンヌ自乙亥歲(太祖︀十年)、率眾保東海︀、至是平之」、石抹也先シモエセンの傳に、也先エセンの子査剌チヤラは「癸巳、從國王塔思タス、征金帥宣撫萬奴ワンヌ於遼東之南京(卽東京)、先登。眾軍乘之而進、遂克之。王解錦衣以賜」。也先エセンの傳と重複せる石抹阿辛シモアシンの傳に、阿辛アシンの子査剌チヤラは「及從國王(塔思タス)軍征萬奴ワンヌ圍南京、城堅如立鐵。査剌命偏將、先警其東北、親奮長槊、大呼登西南角、摧其飛櫓、手斬陴卒數十人。大軍乘之、遂克南京。詰旦木華黎ムカリ解錦衣賞之」。木華黎ムカリは、塔思タスの誤なり。石抹孛迭兒シモボデルの傳に「辛卯(太宗三年)、從國王塔思タス、征河南、癸巳(五年)、又從討萬奴ワンヌ於遼東平之」。この萬奴ワンヌ征伐は、太宗紀五年に「二月、幸鐵列都︀テレド之地、詔諸︀王議伐萬奴ワンヌ、遂命皇子貴由グイユ及諸︀王按赤帶アンチダイ、將左翼軍討之。九月、擒萬奴ワンヌ」とありて、塔思タスの名を擧げざれども、主帥は皇子諸︀王にして、軍の掛引は塔思タスの指圖に依れるなるべし。札剌亦兒台豁兒赤ヂヤライルタイゴルチは、札剌亦兒ヂヤライル氏の箭筒士と云ふ義にして、塔思タスは札剌亦兒ヂヤライル氏なる故にしか呼べるを、竟に札剌亦兒台ヂヤライルタイは名の如くなりしならん。傳に一名査剌溫チヤラウン