を見れば、忽都︀忽クドクも、たゞに武斷を專にしたる人に非ざるに似たり。又列傳卷十なる月里麻思ユリマスの傳に「歲丁丑、太宗命與斷事官忽都︀那クドノ同署︀」とあれども、太宗の世に丁丑の年なければ、丁丑は、太宗九年なる丁酉の誤にて、忽都︀那クドノの那ノも、忽クの誤なり。食貨志歲賜の篇に「忽都︀虎クドフ官人、五戶絲、壬子年査認過廣平等處四千戶とあるも、失吉忽禿忽シギクトクなり。
太祖︀卽位の時(實錄卷九三七三頁)に、千の宿衞の長となれる也客捏兀𡂰エケネウリンの名は、外には見當らざれども、その頃は晃豁壇コンゴタンの勢好き時にして、蒙里克額赤格モンリクエチゲに子どもあまたありたれば、その子どもの內にてやあらん。
同じ時に箭筒士の第一班の長にして千の箭筒士の總長を兼ねたる、兀哴罕ウリヤンカンの者︀勒蔑ヂエルメの子、也孫帖額エスンテエ、箭筒士の第二班の長にして總長の相談役となれる、札剌亦兒ヂヤライルの禿格トゲ卽統格トンゲの子、不吉歹ブギダイ、箭筒士の第三班の長となれる豁兒忽荅黑ゴルクダク、箭筒士の第四班の長となれる剌卜剌合ラブラカの四人は、太宗の時もその職を保てること、實錄六四八頁に見え、也孫帖額エスンテエは也孫脫額エスントエ、不吉歹ブキダイは不乞歹ブギダイ、剌卜剌合ラブラカは剌巴勒合ラバルガとあり。その也孫脫額エスントエは、憲宗元年に按只䚟アンヂダイ等と共に誅せられたる葉孫脫エスントなり。他の三人は、外に見當らず。
三。札剌亦兒ヂヤイルの不合ブカ。
八千の侍衞の一千づゝの長八人の內、第二の一千の長にして第一班の宿老を兼ねたる木合里ムカリの弟不合ブカは、功臣の第八十一なる不合古咧堅ブカグレゲンにして、木華黎ムカリの傳にはその名見えざれども、蒙韃備錄に抹歌ムカと書き、太師國王沒黑肋ムクルの弟、帶孫ダイスン郡王の兄として、「見在成吉思チンギス處爲護衞」と云へり。
第三の一千の長にして第二並の宿老を兼ねるる亦魯該イルガイの親族阿勒赤歹アルチダイは、太宗の時、晃豁兒塔孩コンゴルタカイと共に第一班の宿老となり、太宗の古余克グユクを怒りたる時(實錄六三八頁)、諸︀王忙格モンゲ官人晃豁兒台掌吉コンゴルタイジヤンギと共に建議したることありき。この阿勒赤歹アルチダイも太祖︀の姪なる諸︀王阿勒赤歹アルチダイも、元史には按赤台アンチタイ又は按只帶アンヂダイなどありて、阿勒アルの音を按アンにて表はせり。列傳卷三十七なる張榮の傳に、榮はもと山東の地に竊據して居たりしが、丙戌の年(太祖︀二十一年)に「遂擧其兵與地、納款於按赤台那衍アンチタイノヤン」とあるは、この阿勒赤歹アルチダイなり。又憲宗元年に葉孫脫エスント等と共に誅せられたる按只䚟アンヂダイも、この阿勒赤歹アルチダイにして、忙哥撒兒モンゲサルの傳に按赤台アンチタイの亂を作さんとしたることを載せたり。後の額勒只吉歹アルヂギダイの處に引くべし。