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Page:那珂通世遺書.pdf/429

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十五。​別速惕​​ベスツト​の​闊闊出​​ココチユ​。

 列傳卷三十六(元史一四九)なる郭寶玉の傳に、その子德海︀は、太祖︀昇遐の翌年太祖︀昇遐の翌年「戊子春、從元帥​闊闊出​​ココチユ​、游騎入關中」とあるは、功臣の第十八なる​別速惕​​ベスツト​の​闊闊出​​ココチユ​なり。

 食貨志歲賜の篇に​迭哥​​テゲ​官人とあるは、功臣の第十一なる​別速惕​​ベスツト​の​迭該​​デガイ​ならんか。


十六。十功臣。

 太祖︀の功臣數多き中にも、​忽必來​​クビライ​​者︀勒篾​​ヂエルメ​、​者︀別​​ヂエベ​、​速格台​​スゲタイ​の​朶兒邊那合思​​ドルベンナガス​(四狗)、​孛斡兒出​​ボオルチユ​、​木合黎​​ムカリ​、​孛囉忽勒​​ボロクル​、​赤剌溫​​チラウン​の​朶兒邊曲魯兀惕​​ドルベンクルウト​(四駿)、​主兒扯歹忽​​ジユルチエダイク​、​亦勒荅兒​​イルダル​の兩前鋒は、太祖︀の殊に倚信せる股肱の臣なりき。​木華黎​​ムカリ​の傳に、木華黎薨じて子​孛魯​​ボル​嗣ぎたる後、「丙戌(太祖︀二十一年)夏、詔封功臣戶口爲食邑、日十投下、​孛魯​​ボル​居其首」と云ひ、​畏荅兒​​ウイダル​の傳に、太宗、​畏荅兒​​ウイダル​の子​忙哥​​モンゲ​の封戶少きを訝り、「其增封爲二萬戶、與十功臣同爲諸︀侯」と命じ、又忙哥の從孫​博羅歡​​ボロホン​の傳にも「時諸︀侯王及十功臣、各有斷事官。​博羅歡​​ボロホン​年十六、爲本部(​忙兀​​モング​部)斷事官」とあり。又列傳卷三十九(元史一五二)なる齊榮顯の傳に「授東平路總管府參議、兼領博州防禦使。時十投下議各分所屬、不隷東平。榮顯力辨於朝、遂止」とあるを見れば、十投下の功を負みて我儘なりしを知るべし。この十投下十功臣は、卽四狗四駿兩前鋒の十臣又はその子孫を云へるなり。十功臣の中にて​忽必來​​クビライ​・​者︀勒篾​​ヂエルメ​・​者︀別​​ヂエベ​・​赤剌溫​​チラウン​の四人は、元史に傳なし。​赤剌溫​​チラウン​は、功臣の第二十七なる​速勒都︀思​​スルドス​の​鎖兒罕失喇​​ソルガンシラ​の子にして、父子共に勳勞ありしに、父は功臣に列して、子は列せざるは、​赤剌溫​​チラウン​早く死して、父のみ猶存したるが爲なるべし。元史には父子俱に傳なく、​鎖兒罕失喇​​ソルガンシラ​は、その名も見えざれども、​赤老溫​​チラウン​の名は、​博爾朮​​ボルチユ​・​木華黎​​ムカリ​・​博羅渾​​ボロフン​(また​博爾忽​​ボルク​)と列なりて、太祖︀紀の外、​木華黎​​ムカリ​の傳、兵志宿衞の篇に見え、「號​掇里班曲律​​ドリバンクルウ​、猶言四傑也」と云へり。


十七。六​扯兒賓︀​​チエルビン​。

 太祖︀卽位の二年前、​乃蠻​​ナイマン​を伐たんとする時、​忙忽惕​​モンクト​の​朶歹​​ドダイ​・​朶豁勒忽​​ドゴルク​兄弟、​阿嚕剌惕​​アルラト​の​孛斡兒出​​ボオルチユ​の弟​斡格列​​オゲレ​、​晃豁壇​​コンゴタン​の​蒙里克額赤格​​モンリクエチゲ​の子​脫侖​​トルン​、姓の知れざる​不察㘓​​ブチヤラン​、​晃豁壇​​コンゴタン​の​雪亦客禿​​シユイケト​の六人を​扯兒賓︀​​チエルビン​とし、六​扯兒賓︀​​チエルビン​と號し、親近の職を授けたり。この六人の內、​朶歹扯兒必​​ドダイチエルビ​卽​者︀台​​ジエタイ​は、功臣の第二十三、​脫侖扯兒必​​トルンチエルビ​卽​脫欒​​トロン​は、功臣の第十二、​雪亦客禿扯兒必​​シエイゲトチエルビ​卽​速亦客禿​​スイゲト​は、功臣の第三十一に列せり。元史にその名見えたるは、太宗紀二年の夏「​朶忽魯​​ドクル​及金兵戰、敗績、命​速不台​​スブタイ​援之」とあるは、​朶豁兒忽扯兒必​​ドゴルクチエルビ​なるべし。食貨志歲賜の篇に​斡闊烈闍里必​​オコレジエリビ​とあるは、​斡格列扯兒必​​オゲレチエルビ​なり。列傳卷四十王檝の傳に「帝(太祖︀)命​闍里畢​​ジエリビ​與皇太弟國王、分撥諸︀侯王城邑」とあるを、錢大昕の考異に「按​博爾朮​​ボルチユ​之弟、曰​斡闊烈闍里必​​オコレジエリビ​、疑卽傳之​闍里畢​​ジエリビ​也。皇太弟國王者︀、​斡赤斤​​オチギン​也」と云へり。


十八。​晃豁壇​​コンゴタン​の​脫侖扯兒必​​トルンチエルビ​。

 ​脫侖扯兒必​​トルンチエルビ​は、前に引ける​伯八​​ババ​の傳に見えたる外に、​木華黎​​ムカリ​の傳に、太祖︀十年北京興中府を降したる後、「錦州張鯨聚眾十餘萬、殺︀節︀度使、稱臨海︀郡王、至是來降。詔木華黎、以鯨總北京十提控兵、從​掇忽闌​​ドクラン​、南征未附州郡」。列傳卷三十七(元史一五〇)なる​石抹也先​​シモエツセン​の傳に「又命​也先​​エツセン​、副​脫忽闌闍里必​​トクランジエリビ​、監張鯨等軍、征燕南未下州郡」。列傳釜三十八(元史一五)」なる​石抹孛迭兒​​シモボデル​の傅に、「又從​奪忽闌闍里必​​トクランジエリビ​、徇地山東大名」とあ