怯烈哥ケレイゲ、季曰哈剌阿忽剌ハラアフラ。方太祖︀微時、怯烈哥ケレイゲ已深自結納。後兄弟四人、皆率部屬來歸。太祖︀以舊好遇之、特異他族、命爲必闍赤ビヂエチ長、朝會燕饗、使居上列」。功臣の中に怯烈哥ケレイゲの名見えざるは、太祖︀卽位の頃には已に歿したるなるべし。「昔剌斡忽勒シラオフル早世、其子孛魯歡ボルホン、幼事睿宗入宿衞。憲宗卽位、與蒙哥撒兒モンゲサル、密贊謀議、拜中書右丞相、遂專國政。賜眞定之束鹿、爲其食邑。至元元年、以黨附阿里不哥アリブカ、論罪伏誅。子四人、長曰也先不花エツセンブハ云云。也先不花エツセンブハ、初世其職、爲必闍赤ビチエチ長」、又燕王眞金チンキムの傅となりき。孛魯歡ボルホンは、憲宗紀元年卽位の條に「以孛魯合ボルカ掌宣發號令、朝覲貢獻、及內外聞奏諸︀事」とある人なり。喇失惕ラシツトは、孛勒該ボルガイと呼び、その官は大必提克赤ビチクチにて、財政と內政とを掌ると云へり。必提克赤ビチクチは、卽元史の必闍赤ビヂエチにて、兵志一に「爲天子主文史者︀、曰必闍赤ビチエチ」と云ひ、百官志一中書省の掾屬に蒙古必闍赤ビヂエチ二十二人、六部の蒙古必闍赤ビチエチは、吏部に三人、戶部に七人、禮部兵部に各二人、刑部に四人、工部に六人あり。元史語解は、筆且齊ビチエチ卽必齊頁齊ビチエチと改めて、寫字人なりと注せり。今の淸の官制にては、この寫字人を筆帖式ビテチと云ふ。後には寫字人となりたれども、初は尙書の如き大官にして、黑韃事略徐霆の疏證に「移剌イラ(楚材)及鎭海︀チンハイ、自號爲中書相公、總理國事。韃人無相之稱、只稱之曰必徹徹ビチエチエ。必徹徹ビチエチエ者︀、漢︀語令史也。使之主行文書爾」とあり。太宗三年八月、一時は中書令中書左右丞相の官を設けたれども、その名は漢︀人の間に用ひられたるのみにして、蒙古人は舊の如く必闍赤ビヂエチ又は也客必闍赤エケビヂエチと云ひ居たるなり。憲宗紀二年の末に「以孛魯合ボルカ掌必闍赤ビヂエチ、寫發宣詔及諸︀色目官職」とあるは、元年の文と重複(例の重複)したるにて、卽傳の右丞相となれることなり。也先不花エツセンブハの「世其職」とあるも、祖︀父昔剌斡忽勒シラオフルの職のみならす、父孛魯歡ボルホンの職をも襲ぎたるなり。孛魯歡ボルホン伏誅の事は、世祖︀紀至元元年八月「阿里不哥アリブカ、自昔木土シムト之敗、不復能軍、至是與諸︀王玉龍荅失ユロンダシ・阿速帶アスダイ・昔里給シリキ、其所謀臣不魯花ブルハ・忽察フチヤ・禿滿阿里トマナリ・察脫忽思チヤトフス等來歸。詔「諸︀王、皆太祖︀之裔」、竝釋不問、其謀臣不魯花ブルハ等皆伏誅」とあり。不魯花ブルハは、卽孛魯歡ボルホンなり。也先不花エツセンブハ〈[#ルビの「エツセンブハ」は底本では「エツブハ」]〉は、至元二十三年、雲南諸︀路行中書省の平章政事。大德二年湖廣行省に遷り、九年湖廣行省の左丞相。長子亦憐眞イレヂンは、湖南行省の左丞相。次子禿魯トルは、中書右丞相。
列傳卷二十二(元史一三五)、忽都︀フドの傳なるその父孛罕ボハンは、功臣の第四十一なる孛堅ボゲンなり。忽都︀フド、蒙古兀羅帶ウロダイ氏。父孛罕ボハン、事太祖︀、備宿衞。至太宗時、爲鎭西行省、領蒙古漢︀軍、從攻河中潼關河南、與拜只思バアイチス・札忽歹ヂヤフダイ・阿思蘭アスラン、攻秦鞏及仁和諸︀堡、又與拜只思バアイチス守京兆。歲乙未(太宗七年)、授左手萬戶。從都︀元帥荅海︀鉗卜ダハイケンブ出征、卒軍中憲宗命忽都︀フド將其軍云云」。兀羅帶ウロダイは、輟耕錄蒙古七十二種の中なる兀羅歹ウロダイなり。祕史には、この姓見えず忽都︀フドは、憲宗世祖︀に事へ、屢軍功を立て、その弟忽都︀荅立フドダリ、子札忽帶ヂヤフダイ、その職を襲ぎけり。
同卷忽林失フリンシの傳なるその曾祖︀不魯罕罕剳ブルハンヂヤは、功臣の第二十八なる不魯罕ブルカンなり。「忽林失フリンシ、八魯剌䚟バルラダイ氏。曾祖︀不魯罕罕剳ブルハンヂヤ、事太祖︀、從平諸︀國、充八魯剌思バルラス千戶、以其軍與太赤溫ダイチウン等戰、重傷墜馬。帝親勒兵救之。以功陞萬戶、賜黃金五十兩、白金五百兩、俾直宿衞」。八魯剌䚟バルラダイ氏は、卽巴嚕剌思バルラス姓、罕剳ハンヂヤは、卽哈勒札ハルヂヤにて一種の稱號、太赤溫タイチウン等は、卽泰赤兀惕タイチウトなり。不魯罕ブルハンの子許兒台ヲルタイは、太宗の時、定宗に從ひ、欽察キムチヤを征し、憲宗の時、世祖︀に從ひ宋を伐ち、毫州に戰ひ、孫翁吉剌帶オンギラダイは、世祖︀に從ひ、阿里不哥アリブガを征し、曾孫忽林失フリンシは、從ひて叛王乃顏ナヤンを征し、皇孫帖木兒テムルに從ひ、叛王海︀都︀ハイド・都︀瓦ドワ等と戰ひ、成宗の時、叛王斡羅思オロス・察八兒チヤバル等と戰ひ、忽林失フリンシの子燕不倫エンブルンは、致和元年文宗を迎ふる謀に與り、天曆元年、屢王禪ワンチエンの兵と戰ひ、知樞密院事となりき。