土長」。世系表に太宗の七子を列記して、岳里吉ユリギの名なし。史臣附記して「按、憲宗紀有云「太宗以子月良ユリヤン不材、故不立爲嗣」。今考經世大典帝系篇及歲賜錄、並不見月良名字次序。故不敢列之世表」とあり。故に考異に「岳里吉ユリギ、豈卽月良ユリヤン之轉聲乎」と云へり。「歲乙未(太宗七年)、從皇子闊出忽都︀禿コチユクドト南征、累功授萬戶、云云」。忽都︀禿クドトの禿トは虎フの誤にて、卽失乞忽都︀忽シキクドクなり。その後「統大軍、攻淮東西諸︀郡、戊午(憲宗八年)戰死楊州」。その子阿剌罕アラハンは、父の職を襲ぎ、諸︀翼蒙古軍馬都︀元帥となり、武功甚多かりき。憲宗九年には、世祖︀に從ひ江を渡り鄂に至り、世祖︀位に卽き、皇弟阿里不哥アリブゲの兵を稱げたる時、その黨阿藍帶兒渾都︀海︀アランダイルクンドハイの兵を昔門禿シムント(昔木兒禿シムルト)に擊破り、中統三年、濟南の叛將李壇を平げ、四年、阿朮アチユに從ひ宋を伐ち、五年より十年まで襄陽樊城の攻圍に與り、十一年、丞相伯顏バヤンに從ひ宋を伐ち、十三年、宋降り、浙東園中諸︀郡を平げ、十四年江東を宣慰し、「十八年、召拜中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬、征日本。行次慶元、卒于軍中」。この時死なざりせば、速勒都︀思スルドスの阿塔海︀アタハイの如き大失敗に陷るべかりしを、誠に運好き人なりけり。
晃豁兒台コンゴルタイと共に札撒兀ヂヤサウの官になれる失喇罕シラカン(實錄六四四頁)、宿衞の長八人の內、總長合荅安カダアンと共に第一班の長たる不剌合荅兒ブラカダル、第二班の長二人の一なる阿馬勒アマル、第三班の長二人の一なる豁哩合察兒ゴリカチヤル(六四六頁)、第四班の長牙勒巴黑ヤルバク・合喇兀荅兒カラウダル二人(六四七頁)、この人人は、未外に見當らず。不剌合荅兒ブラカダルは、下文に不勒合荅兒ブルカダルとも孛勒合荅兒ボルカダルともあり。
八。察納兒チヤナル、合歹カダイ。
第二班の長の一人なる察納兒チヤナル第三斑の長の一人なる合歹カダイは、憲宗元年に葉孫脫按只䚟エスントアンヂタイ等と共に誅せられたる爪難合荅ヂヤナンカダなるべし。
前に知りたりし阿勒赤歹アルチダイと共に侍衞の第一車の宿老となれる晃豁兒塔孩コンゴルタカイ(實錄六四八頁)は、前文に官人阿勒赤歹アルチダイ晃豁兒台コンゴルタイと竝べ擧げたる晃豁兒台コンゴルタイと同じ人ならんか。憲宗紀元年卽位の處に「以晃兀兒コングル留守和林ホリム宮闕帑藏」とある晃兀兒コングルは、晃豁兒台コンゴルタイの台タイを略けるにやとも見ゆれども、多遜ドーソンの史に「拙只合撒兒ヂユチカツサルの子坤庫兒クンクルを喀喇科嚕姆カラコルムの太守とせり」とあるに據れば、祕史に「前に知りたりしものの親族より任ぜり」と云へる侍衞の番直の宿老とは別なる人なり。世系表は、黃兀兒コングル王を搠只哈撒兒シユヂハツサル王の會孫、移相哥イサンゲ大王の孫、勢都︀兒シドル王の第三子とせり。食貨志歲賜の篇に黄兀兒塔海︀コングルタハイとあるは、卽晃豁兒塔孩コンゴルタカイなり。
侍衞の第二班の宿老の一人なる帖木迭兒テムデル(實錄六四八頁)は、鐵邁赤テマイチの傳に、太宗の時「從皇子闊出コチユ、忽都︀クド[忽ク]、行省鐵木荅兒テムダル、定河南、累有戰功」と見え、憲宗紀には、定宗崩じて後、阿剌脫忽アラトクの山に會せし諸︀大將の中に帖木迭兒テムデルの名あり。行省鐵木荅兒テムダルとあるに由りて考ふれば、食貨志歲賜の篇なる忒木台テムタイ行省、札剌亦兒ヂヤライルの奧魯赤アウルチの父忒木台テムタイは、卽この人ならんと思はる。祕史に「前に知りたりしものの親族」と云へるに